読切小説
[TOP]
ロンリーロンリー
1

 空がだんだん白みはじめて、夜の世界が終わりを告げようとしていた。六畳一間の部屋はひどい散らかりようだけど、それでも最低限保てるだけの秩序があるぶんまだマシだと思いたい。生憎と僕の部屋に備え付けられているカーテンは遮光性の高いものではなかったため、どう頑張っても夜が死ぬ時間帯はわかってしまう。
 意識してもしなくても、自然と部屋の光源が人工的なものとそうでないのとで切り替わるのがわかるからだ。それほどまでに、日の光というのは強くて優しい。
 僕は夜明けに対して、ちょっとだけ懐かしさを感じるときがあった。それはきっと、彼女が原因だ。白く透き通るような肌とぞっとするほどの美貌をもった、死んでいる彼女に出会ったからだろう。

2

 行きたくもないコンパに誘われ、僕が解放されたのはもう夜も明けようかという時刻だった。アルコールで毒された身体が鉛のように重く、関節がブリキのごとくギシギシと音を立てている幻聴さえ聞こえてくる。あのお酒に妙なものでも入っていたのだろうか。
 一瞬浮かんだ疑問は突如として襲ってきた不快感によって塵芥と化した。胃の中が煮えたぎる感覚。まずいと思い、僕は近くのコンビニへ慌てて駆け込みトイレを借りた。何とか危機を脱し、ついでに水を買って臭気を無理やり体外へ押し出す。ある程度マシになった身体をひっさげて、僕は再び帰路へついた。多少冷静さを取り戻した頭が、ついさっきまで行われていた光景を映し出す。思い出したくないのでどうか忘却の彼方へと消し去ってくれと頼んでも、上映会のようにフィルムが止まらない。キツイ化粧と香水の香りを周囲にまき散らしながら、甲高い声で品の無い笑いを響かせる女と、それをさも良いことだと囃したてる男の組み合わせ。
 そして僕。
 露骨に身体を吟味する視線と顔の品格を品定めする視線が交差する中で、僕は一人その異常な空気から疎外されていたはずだ。そうであってほしいと、心から願う。あんな混沌とした空間で、欲望に塗れた空間に放り込まれたら正常であれるはずがないのだから。何組かは意気揚々と、常識を失った瞳のままホテル街へと向かっていった。
 散々僕に「変わっている」「言い方が直線的すぎる」「段取りが悪い」などと言いたい放題の罵声を浴びせた後で。
 何をしているんだとは思う。参加してもどうせ撒き餌にされるだけで、僕自身が得るものなんて何一つありゃしないのに。社交儀礼という言葉に雁字搦めにでもされているのだろうか。だとしたら、一刻も早く解放されたい。そんな四字熟語は大嫌いだ。
 堂々巡りで愚痴ばかり吐き続ける思考の波に辟易しながら、僕は重い足を動かしていた。兎も角、今日はもう休まないと身体がもたない。早く家に。
 その一つ事だけを考え、僕の足取りは自然と早くなりやがて自宅にたどり着いた。
 自分の過去を振り返っていると、ふと思うことがある。
 僕はもう少しまともな人生を歩んでいけたんじゃないかと、後悔することがある。膨大な選択肢の中で、重要な選択をことごとく間違え迷い騙されてここまで落ちてしまった僕に、次の選択肢は果たして巡ってくるのかと不安に思うこともある。
 その答えは誰もわかりはしないのだろう。
 家のドアを開くと、彼女がいた。名も知らぬ彼女。甲斐甲斐しく起きて僕を待っていたのかと思うと、その健気さに涙が出そうだった。

「おかえりなさい」
「ただいま」

 夫婦のようなやり取りを交わして(実際の夫婦なら喧嘩の火種だろう)僕は彼女の傍を通り過ぎ、自分の部屋に籠った。ご飯は作っておきましたという彼女の声に返事をする気力すらなく、僕はあっさりと意識を泥の中に沈めていった。
 ……僕と彼女が奇妙な同棲生活を始めたのは、いつからだったか。確か僕が大学に入学して間もない頃だったと記憶している。
 当時の僕は……いや今もだが、特にこれといった夢も目的もなくただ「なんとなく」で大学に入学した奴だった。とりあえず大学には通わなくちゃいけない。強迫観念にも似た、しかし異なる惰性によって僕は適当な大学を選び、試験を受け、そして無事合格した。
 実家からは遠いところだったので、一人暮らしをすることになり色々と慌ただしい日々が過ぎていったのは覚えている。そして入学式も終わりそこそこの日数が流れた頃、僕は彼女と出会った。
 風変わりな講義の内容に惹きつけられて、興味本位でその講義を選んだものの、参加者は二人だけというなかなかに悲しいものだった。一人は僕、もう一人は言うまでもなく彼女。
 遅刻をする僕とは対照的に、彼女はいつも時間きっちりに教室に来ていた。
綺麗だし几帳面だな、というのが第一印象だった。染めているのか、髪の毛は金髪。身に着けている服はたおやかさを感じさせるが、その身体の稜線をしっかりと描き出し、どこか官能的だった。透けるような肌の白さと相まって、魔性という言葉がしっくりくると個人的には思う。
 しかしシャイな僕は彼女に話しかけることはできず、そもそもあんな美貌を他の男が放っておくはずがないという偏見もあり、僕と彼女の距離はどこかよそよそしいものだった。会話はなく、ほぼ赤の他人のような状況が続いていた。
 もどかしい、息苦しいとは感じながら、それを打開する策を僕は知らなかったからだ。無論、それ以外にも理由はあるけれど。
 理由はあるんだけれど。
 僕が初心だという、逃れようのない理由があるのだけれど。
 それが一変したのは、そんな環境が数か月続いたある日のことだった。
 いつものように二人だけの授業が終わり、僕は背中がむず痒くなるような空間から立ち去ろうとした時だった。

「待って」

 声を聞いただけで、ぞくりと身震いする思いだった。それは大げさだとしても、それくらいの衝撃があったのは確かだ。
 震え声でも、確かな芯を感じさせる声だった。耳に心地よく、どこか落ち着く声。色んな性質を孕ませた声だなと思った。
 急に話しかけられて、籠絡しようとしているのかとか、ろくでもない思考が少しだけ脳裏を過ぎったが、それも彼女のどこか真剣な眼差しにその身を潜めた。
 幾ばくかの悩みを孕んだような潤みと、懇願するような思惟を感じて僕は真剣に彼女と向き合った。ぐっと唇を真一文字に結び、どんな言葉が口から飛び出したものかと身構える。

「あの……あなたの所へ住ませて」

 僕の身構えは刹那で崩壊し、理解が追いつかない回路が次々とショートした。名前も知らない女の子が、僕の所に住む。字面だけでも警察が駆けつけてくる。
 それ以前に、どうして彼女が僕の家に住みたがるのかその理由すらわからない。あまりにも突然の申し出に困惑する僕を放置したまま、彼女はたどたどしくこう続けた。

「その代わり、私を好きにしていいから」
「……」

 情けないことに、頓馬の頭脳ではその理由を訊ねることすら思いつかなかった。目の前にあまりにも魅力的な餌をぶら下げられた犬のように、一点に集中してしまったのだ。急に顔面が熱くなるのを感じ、慌てて顔を逸らす。彼女の顔を直視することができなかった。
 頭の中では彼女の言葉が何度もリフレインし、理性を圧潰させていく。
 この身体を、自由にできる?一糸纏わぬ姿の彼女の姿を幻視し、落ち着け冷静になれと頭を振ってふしだらな妄想を追い払う。客観的に見れば、こんなお誘いはどう考えても怪しいに決まっている。美人局とか、そのあたりをしっかりと疑うべきだ。
 猜疑心を積もらせながら、僕は「どうして?」と聞き返した。まずは理由を知りたい。そう思った。
 少し困った顔を浮かべながら、彼女は

「家を追い出されたの」

 そう答えた。
 これが馴れ初めだったと思う。主観だからある程度の脚色はついているかもしれないが、それはご容赦いただきたい。僕にしたって、これは人生で初めての体験だったのだから。

3

 彼女曰く、こういうことだった。
 彼女の家は古くから続く由緒あるものだそうで、彼女はそこの家の一人娘なのだそうだ。ただ、そういう古くからの慣習めいた束縛は時に人を苦しませるのも、変えようのない事実だ。しきたりなどが未だ存在する家に息苦しさを感じた彼女は、それを破るためにこの大学を選んだのだという。本来ならば家が決めた大学へと通うことになるはずだったのを、独断で変えたのだ。そして家を勘当された……わけではないのだが、自分の意見を通すならまず自分でしっかり自立してみろと両親に言われたらしい。彼女はすぐに了承し、家を離れて一人暮らしを始めたのだが、今まで世間への憧れと家への不快な湿度だけを溜めていた彼女が突然野に放たれても、何をできるわけでもなく。
 あっという間に財産的危機に陥ったそうだ。
 ただ、自分で言い出した手前やっぱり駄目でしたと家に帰るのはどうにも小さな反抗心が納得しないらしく、実行に移せなかった。倨傲な態度……とは少し違う。ささやかな、本当にちょっとだけの、しかし精一杯の抵抗だったのだろう。
 その言葉が本当かどうか疑う余地は十二分にあったのだが、僕はあっさりと承知してしまった。なぜか。
 なぜだろう。
 ひょっとすると彼女の身体を目的にした、醜い下心があったのかもしれない。僕も男だから、そのような思いが無意識下で燻っていたとしても何ら不思議ではない。ただそれを加味しただけならば、僕は断っていたはずだ。そんな経験がしたいのなら風俗にでも通えばいい。福沢諭吉だけでお手軽に経験値を積めるだろう。
 だから、きっとこっちが本当の理由になる。
 僕は恥ずかしいことに、惹かれてしまったのだ。
 一目見て、面と向かい合ってわかった彼女の儚さに。今までは全く感じることがなかったものが、ちゃんと目を見てそして対面して初めて知ることができた。
 彼女は、とても儚い存在だった。ちょっと触れてしまえばそれだけで泡沫へ帰してしまいそうなほどに、脆くて、危うい美しさを内包している。そのシャボン玉のような繊細な彼女を守りたいと思った僕の決心だった。
 口さがない人は、単に庇護欲を掻き立てられただけだろうと言うだろうけれど。
 今まで何となくで生きてきた僕が、こうして自ら動き出すことは信じられないほど大きな一歩だった。一切合切の感情を投げ捨てるような覚悟にも通じていると思うのは、大げさだろうか。
 いや、決して大げさではないはずだ。
 僕は、感情に波があるし、動き出しも悪い。なかなか実行出来ない僕からすれば、これは。

4

「お邪魔します」
「邪魔になるほど大そうな部屋じゃないよ」

 なけなしの勇気を振り絞って軽口をたたきながら、僕は彼女を自宅に案内していた。自宅とはいっても一人暮らしなので、そこまで広くはないが何も住人が一人増えたところで一気に穴倉のように窮屈な場所になるわけでもない。
 そして部屋に足を踏み入れて、僕はあることを今まで忘れていた。

「あ……」

 部屋を見、彼女は呆然とする。散らかり放題の部屋に足を踏み入れるのを躊躇うのは当然だった。僕はいつも片づけが出来ない。おまけに忘れ物や失くし物をしょっちゅうしてしまって、その度に整理整頓ができないからだと、いつも教師や親に口うるさく言われていた。

「……ごめん。片づけよう」
「いえ、私はこのままでも大丈夫です」
「いやでもさすがに女子をこんな部屋に……」
「私は居候の身ですし」

 結局喧々諤々の言い合いの後、この部屋を片付けることに決まった。テキパキとゴミと必要なものとを分別していく彼女を見ていると、いいお嫁さんになるんだろうなあとセクハラすれすれの事をつい考えてしまい、自分を殴りたくなった。
 余計なことを考える前に、少しでも彼女を手伝わなくては。そう思ってまずは本棚から片づけることにした。もう読まない本は思い切って捨てなければ。決意を固めて本棚に手を伸ばし、僕はある一冊の本をとった。
 本というよりは、アルバム。思い出の残っていない、無味乾燥して埃を被ったアルバム。分厚く重いそれを開いてみると、顔も覚えていないクラスメイトの写真が無造作に貼り付けられていた。みんないい笑顔で写っている中で、僕だけが異質に思えてしまう。
 急に寒々しさを感じ、過去のことを思い出す。無意味に日々を消費するだけだった。なんとなくで学校に通うことができただけで、奇跡だとすら思える。
 遅刻も忘れ物も失くし物も日常茶飯事で、テストはいつも一夜漬けで乗り切る日々だった。なぜか授業も集中できずに寝落ちが常となり、教師からも冷ややかな目で見られる日々だった。それが大学に入って変わると思っていたけれど、何ら変化は無かった。冷ややかな目で見られることがなくなったくらいか。良くも悪くも大学には色んな人種が溢れていて、僕は都合よくそこに埋もれることができていた。
 でも、昔は違う。そして今も本質的には変化の一つも起こせずに僕は――

「の……」

 どうして僕なんて、生きているんだろう?

「あの……」

 全体的な優先順位をつけられない僕。目の前のことにしか集中できない僕。なんとなく生きてきた中で、擦り減らし摩耗して内側から溶け出していってしまったものがある。僕はきっとその代替品として白い免罪符を手に入れて――

「あの!!!」
「え!?あっ、ごめん。ぼ〜っとしてた。なに?」
「この本は、その……どこに置けば?」
「それは向こうの押入れに……」
「これって、その、どういうことですか?」

 言われて我に返り、そして気づいた。彼女が持っていたエロ本に。しまった。どうせ来客なんていないと決めつけていたから、そんなものまで放置しっぱなしだったのを完全に忘れていた。大慌てで彼女からそれを取り上げようとしたのだが、さっと素早く躱されたことによって失敗に終わった。
 ジト目になり頬を膨らませながら何か言いたげにしている彼女を見、本当に身投げをしたくなった。
 男の人ですから仕方ありませんよねと空気で語る彼女に、ごめんと胸中で謝りながら他の作業に没頭することにした。そうでもしないと羞恥心で死んでしまう。

「気になるんですけど、男の人ってやっぱりみんなああいう本を一つは持ってるものなんですか?」

 が、それは積極的に会話を求めてきた彼女によって阻止された。さあどうかな、と曖昧な返事でぼかしつつ、僕は必死にその場から逃げ出そうとする足を抑えていた。
 その後、彼女の献身的な協力によって見違えるほど綺麗になった部屋で僕は自らの自炊スキルを発揮し、手料理を振舞っていた。名のある家のお嬢様の口に合うかどうかは、知らないが。
 まあひたすら箸を動かしてもくもくと咀嚼を続ける彼女を見ていると、それは杞憂だろう。満面の笑みを浮かべてもらうと、自然と温かい気持ちになる。料理を綺麗さっぱり平らげた彼女は礼儀正しくご馳走様と一言、そして改めて僕に向き合った。

「本当にありがとう。頭が上がりません」
「いやそんな。別に僕は……」
「料理もとっても美味しかったですし」
「そう。気に入ってくれたなら、何よりだけど」
「次はもっと美味しいものも頂きたいですね」
「……?え、ええ」

 なぜだろう。いたって普通のありふれた会話だったはずだ。そこに疑念を抱く余地など存在し得ない。僕のアンテナはとうとう老朽化してしまったのか。
 でも確かに、今ほんの僅かな間に。
 彼女は何か別のものを望んでいた。そう思えてしかたなかった。ぞっとするほど艶めかしい何か。官能性に通じる何か。
『その代わり、私を好きにしていいから……』
 言葉が僕の心臓を撫で、一際強い心音が自身を内側からどくんどくんと鳴動させ、五月蠅くてたまらない。
 刻み付けられた条件反射のように、自然と鼓動は大きくなっていく。奇妙な息苦しさを、僕は感じた。

5

 部屋のドアを隔ててもなお耳にとどくシャワーの水音が、どうしても僕に余計な妄想をさせてしまう。野郎が使ったあとは嫌だろうからと気を配ったつもりだったのに、かえってそれが僕を追い詰める結果となっていた。妄想たくましくしている僕を誰か止めてほしかったけれど、彼女の言葉は強く強く根付いてしまって手の施しようがなくなってしまっている。
 空振りの理性がけたたましく何かを喚き散らしてはいるが、それもほとんどがらんどうの頭には響かない。
 結局、僕は悶々とした時間を過ごすことになり、浅ましい自分を笑いたくなった。

6

 夜。
 ほとんど目ぼしいテレビ番組も終わってしまったので、彼女に寝床を提供してお互いにそろそろ眠りに付こうとしていた。当然ながら僕は床だ。女性を床で眠らせるわけにはいかない。それくらいの常識は僕にだってある。
 電気を消し、おやすみなさいと言って目を瞑る。不思議なもので、五感の一つを機能停止させるとむしろまわりの様子がよくわかる。住人が一人増えた僕の部屋に、他人の息遣いが静かに規則正しく響いている。
 いつもと違うこの状況にもきっと慣れるだろう。そう自らに言い聞かせて、僕はもぞもぞと寝返りを打った。一度、もう一度と。
 やはりどこか落ち着かないのか、それとも妄想の残滓が尾をひいているのか定かではないが、眠れない。それでも身体を休めるために横になったまま、僕は芋虫のように冷たく固い床を蠢いた。自分の部屋の床はここまで人間に厳しかったのだと、今さらながらに知った。
 彼女はぐっすりと眠れているのだろうか?呼吸を繰り返しているだけで、まだ眠れてはいないのではないだろうか?ふと考えるとそれが止まらず、途端に不安が押し寄せてきた。よくよく考えてみれば今まで僕が使っていたベッドだ、臭いだとかそういったことも気になるだろう。
 もっともそれはこっそりと顔を覗いてみた結果、杞憂だと判明してがっくり脱力することになった。と同時に、彼女の美しい顔が視界に入ってしまう。
 本当に、美しいとしか言えない顔だった。整った顔立ちで、少しだけ赤みがかった柔らかそうな唇。染めているのか、一本一本が絹のように滑らかそうな金髪がベッドに蜘蛛の巣のように広がり、一国の姫君を眺めている気分になった。
 今なら触れるのではないか?

「……いや、ダメだろ」

 逡巡する間も惜しいほど即座に否定する。邪な考えに身を委ねてもロクなことにならないのはわかりきっていた。
 それでも、と彼女を見る。
 月光に照らされれば、息を呑む艶やかさを魅せてくれるのだろうか。

「ダメだ絶対だめだ」

 邪念を振り払い、僕は床に寝そべった。犯罪そのものを行って、自分の人生をぶち壊すことほど愚かなことはない。ただでさせ僕の人生は波のまにまに漂うくらげのように、いい加減に過ぎてしまって、そしてその中で最悪なことも起こっているのに、これ以上自分を追い込んでどうするんだ。
 乖離しかけた理性と衝動をなんとか両手でくっつけ、自制する。おどろおどろしい金切り声をあげて暴れる性衝動が、腹を切り裂いて出ていく想像がリアルさをもって僕を苛んだ。どうしたことだろう。僕はそこまで性欲は強い方ではなかったはずなのに。
 普段は四方八方へと飛び散る思考が、なぜか彼女のことになると集中してしまう。普段の僕なら絶対にありえない事が今、身に起きている。
 わけのわからない自身に困惑しながらも、僕は胎児のように身を丸めて眠りにつこうとした。眠ってしまえば、思考の網にも捕らわれないで済む。
 眠れ。眠れ。
 赤子のように、形振り構わずに、眠れ。
 子守唄でも唱えて、羊でも数えて。眠りたい。
 願いが叶ったのか、僕の意識は沼に沈むようにゆっくりとほの暗い底へと落ちていった。
 そして見たのは、夢だった。と思う。あまりにもリアルさと荒唐無稽さが同時に現れて、確信が持てないけれど、きっと夢に違いない。そうでないと、自分の身に都合が良すぎる。
 彼女が僕に触れているなんて、都合が良すぎる。
 びっくりした?
 彼女は言う。上着を全て脱ぎ捨てて、下着姿の彼女は言う。僕は身動き一つとれないでいた。それは見惚れているからでも、緊張のあまり硬直しているからでもなく。
 力が抜けてしまっているのだ。比喩ではない、本当に力が抜けている。
 彼女の指先が僕の顔に触れ、そしてそこから全てを吸われているような感覚。いや感覚すらごっそりと持っていかれていると思える感覚。
 緊張のあまり喉が渇いてしまっている。やめろと言いたかったけれど、掠れた息が漏れるだけだった。
 薄っすらと月明かりが妖しく彼女の肌を照らし、独特の艶を醸し出す。滑らかですべすべしている肌の感触はとても夢だとは思えなかった。
 けれど、思うしかない。
 妖艶に微笑み、自らの服を邪魔だと言わんばかりに下着すら脱ぎ捨てる彼女。下着姿の時には窮屈そうにしていた乳房が解放され、ぶるんと擬音すらしそうな勢いで震えた。自重によって垂れながらも魅力的な谷間を形成し、男の劣情を擽るそれに触れたい思いで胸がいっぱいになる。
 苺色に染まった先端はぴんと勃起しており、興奮の度合いを知らしめた。白い肌にそれはよく映えて、どこか淫靡な美しさすら感じさせる。
 吸いつきたい。
 単純で欲望に塗れた衝動が僕の中で理性とせめぎ合う。少し手を伸ばしただけで僕からも彼女に触れることはできるのに、禁忌にも触れるような危うさが辛うじて性衝動を制していた。
 ゆっくりと、日向に晒されたアイスが溶けるようなスピードで僕の何かが吸われていく。そのぶん僕の喉は渇き、口に含むものが欲しくなってくる。たわわに実った果実を貪れば、どれだけ満たされるのだろうか。心を見透かしたように、彼女は囁いた。
 いいの。大丈夫。これは当然のことだから。
 蠱惑的でぞっとする。まるで別人のような、いやらしさ。昼間の彼女はいったいどこへ消えたのか、それとも夢だからここまでも別人なのか。
 思考が別のベクトルへと逃げ出そうとしたが、僕の手は無意識のうちに彼女の胸へと伸びていた。
 やめろ。数分前の自制むなしく、彼女の胸に触れた瞬間、僕の身体に電流が走った。
 柔らかい。途方もなく柔らかい。鷲掴みにすると指がすんなりと肌に食い込み、ちょうど良い弾力が指を押し返す。力を入れれば指が沈み、そして押し返される。
 中毒性のある感触に僕はしばらく我を忘れて双丘を揉みしだき続けた。感じているのか、それともくすぐったいのか時折唇からか細い息を吐きながら、彼女の身体が妖しくくねる。その動き方ですら艶めかしく、男を誘う動きに見え、理性がぐずぐずと腐食していく。
 差し出された性に触れたい。貪りたい。僕を刻みたい。
 普段は星空のようにまとまらない思考が、一つになり、僕は乳房の自己主張をする先端を口に含んだ。加減がわからず、そっと歯で触れるように甘噛みをする。コリコリして、甘い香りが口の中で広がりどこか安らぎがある。少し吸ってみると、可愛らしい声が漏れるのが聞こえた。
 ねぇ、どうするの?
 切なげに呟く彼女に僕は答えず、すっからかんの身体を動かして精一杯のキスをした。夢という言葉を免罪符にし、明晰夢のようにリアルなこの世界で僕はやっと自分の存在を確信した気がした。
 金木犀にも似た濃厚な甘い女の体臭がして、明文化できない多幸感に浸される。甘美な行為に夢中になり、僕はひたすら啄むようなキスを繰り返した。時々お互いの鼻先が当たり、おかしなむず痒さに笑みを浮かべながら繰り返す。
 もう彼女のパンツはぐしょぐしょになって、しとどに濡れてはいたけれどもう、キスだけで全てが満たされてしまったようで。
 けれど、彼女はそれでは不満らしい。
 痛いくらいに勃起したペニスを掴むと、そっと自身の性器へとあてがった。特になんの躊躇いもなく一気に腰をおろし、ぷるぷると小刻みに身体を震わせたのも束の間、すぐに貪欲に律動が始まった。
 唾液で濡れた唇が僕の首筋を甘噛みし、その可愛げな様子とは裏腹に膣内は僕から精液を搾り取ろうと次第に締め付けを強くし、子宮へ子種を浴びせろとせがってくる。
 温かい肉襞に包まれながら与えられる快楽に、油断すればすぐに射精してしまいそうなほどだ。
 容赦なく腰をゆすって快感を叩きつける彼女の動きはどこか獣じみていて、知性とかそういったものからはかけ離れているように思えた。なのに、それがどうしようもなく可愛らしくて、愛しくなって。心を奪われる。
 夜の奥で、僕は彼女との性行為に溺れた。
 やがて尿道からじりじりと込み上げる射精感に僕は情けない声をあげ、それを聞いた彼女によって牝そのものであるような腰使いをされ、呆気なく子種を子宮に放った。
 直後に強い収縮が起こり、根こそぎ精液を吐き出させようとする膣に抗えず、僕は最後の一滴まで残さずに彼女にDNAを植え付けた。
 汗ばんだ身体をこちらにあずけてくる彼女を抱きしめ、僕は一人自分とは違う体温に酔い痴れた。柔肌の感触と、部屋に満ちた爛れた男女の臭気に頭をくらくらさせながら、僕は壊れた溜息を一つ吐いた。
 いつの間にか夜はその役目を終えかけていて、顔を覗かせかけている太陽によって彼女のかいた汗がきらきらと輝いていた。
 光をよく乱反射する珠のような汗と、彼女の瞳が眩しかった。光が泳いでいるようなその光景は現実離れした美しさで、視界が揺らぎ、感情の一部を吐き出したくなったけど、口にした瞬間にそれは儚さだとかそういったものを失ってしまうと思って、やめた。
 疲れの果てに意識を手放す直前、彼女が笑った気がした、なんて。
 なんて。

7

 不思議だとは思っている。僕が一つ事に集中できるなんて、不思議だとは感じている。僕はそういうことには向いてないとか、そういうベクトルではないのに。
 なのに、彼女は。彼女は。

8

 水銀を流し込まれたような重さの身体が覚醒し、目を開くことができた。何か大切なことを忘れている気がするのに、頭の中に靄がかかって思い出すことができない。周囲を見渡すと、やけに小奇麗になった部屋がひっかかった。そして、自分がなぜか床で寝ていることに気づき、漸く部屋に新しい住人が増えたことを思い出した。
 それと同時に、あの淫猥な光景も。
 あれは、現実に起きたことだったのだろうか。疑念を抱けどそれを本人に確認する勇気などはあるはずもなく、僕は一人朝食の準備を始めた。
 肉の焼ける香りが漂う中、背後で何かが蠢く気配がしたかと思えば気の抜けそうな欠伸が一つ聞こえた。
 今振り返ると、確実に彼女を意識してしまうので僕はわざと目の前の料理に集中した。そうでもしないと、僕が消えてしまう。
 恋だの愛だので僕のこれが戻るなら、苦労はしていないのだから。
 だから。

「あ、おはようございます」
「……おはよう」

 なるべく意識をしないように心掛け、素っ気ない返事をする。余所余所しくしていなければ、僕の羞恥心が内側から叫び声をあげてしまう。
 きっとそれは喉を突き破って彼女の耳にとどくだろうから、それを阻止するだけでも一苦労だった。

「……ねぇ」
「な、なに?」

 意識しないように心掛けるほどに、意識してしまうのは人の悲しい性で、僕もその法則から逃れることはできず声が裏返った。
 どうしてもリフレインされる夢の光景。疲れなんて概念が消えたようにぶっ続けで交わり続けた夢。意識を手放しても感覚だけ続いていた不思議な夢。
 その夢をもう一度見たい。はらりと広げられた欲望の底から顔を出した。もう一度、今度は現実によって。
 紙切れみたいに撒き散らされる欲望のはけ口が、暗緑色に染まっている気がする。

「私、どれくらいまでここに居ていいの?」
「えっと……君が満足するまでで、いいんじゃないかな」
「本当に?」

 訊ねるというよりは、確認に近い思惟を含んだその言に、僕は黙って首肯した。
 今彼女を押し倒したら、受け入れてくれるのだろうか?一秒と経たない内におぞましい疑問に慌てて首を横に振る。違う。そうじゃない。

「本当だよ」

 それだけ答えるのが精一杯だった。緊張していたのか、喉がカラカラに渇いてしまった。渇いているのはもう一つの方もじゃないのかと嘯く心に釘を刺し、僕は料理に没頭した。それでも彼女のことは頭から離れることはない。
 おかしい。集中しているわけでもないのに、僕がこれだけ一人のことを考えるなんて、おかしい。
 だってそうだろう。
 僕は病気なのに、それを無視しているなんて、ちゃんちゃらおかしいじゃないか。

9

 ある日、僕は病院に連れていかれていた。精神科だ。リノリウムの床を踏んづけて待っていると、すぐに僕の名前が呼ばれた。
 診察室に入ると、白衣を纏った恰幅のいい中年男性が椅子に腰かけていた。少しその太った身体を動かすたびに、椅子がキイキイと悲鳴を上げて耳に障った。医者なのに不健康そうな体型をしていて、大丈夫なんだろうか。
 とても分析をしているとは思えない質問を次々に浴びせてくる医者に対して、僕はなるべく正直に思っていることを話した。いくら体型が不格好であれ、腐っても医者だと生意気に上から目線で判断したのだ。結果として、それはまずい方向に向かっていった。
 醜い医者はふむふむと何度か己の顎を撫でながら、何かを走り書きしてそれを看護婦さんに渡した。それからしばらく待たされて、僕は何一つの前置きもなしに精神病と判断された。
 注意欠陥障害という名前らしい。でも僕には名前なんてどうでもよかった。その事実を突き付けられた時に、僕よりも早く悲痛な面持ちをしていた親を見て、僕はどこか心の中で感情の一部が欠落していくのを、確かに感じた。
 この病気の特徴は、遅刻をしやすい、部屋が片づけられない、ギリギリまで物事が手つかず、寝落ちが激しい、感情に波があるなどなど、日常でよく見られることばかりだった。それが僕のように持続的に続いてしまうと、病気らしい。
 ふざけるなと、吐き出したかったけど、頑張って治しましょうなんて言ってのける医者を見ていると、もうどうでもよくなってしまった。
 僕の人生はその日から、白い免罪符が付き纏うようになった。無機質な文字が並ぶ診断書は、どこかの本に挟んでそれから見ていない。
 吐き気のする記憶だ。自分に対する情けなさと周りへの嫌悪の両方で身体が焼けそうになる。

「ねぇ私はどうすればいいの?」

 また夢の中の彼女が訊ねる。

「いいえ、あなたはどうしたいの?」

 また夜明けだった。僕の身体に跨って、自身を貫くペニスに歓喜の声を漏らしつつ、訊ねてくる。
 都合のいい夢だ。快感とモラルを両立させている夢。違法性の欠片もない夢。
 唇を噛んで快楽に堪えながら、僕は視線で問うてみた。僕が病気だったら君はどうする、と。言葉にはしなかった。してしまえば、明文化できない何かが壊れてしまうだろう。
 やや上気させながら、彼女は囁いた。

「わかってるから」

 何をわかっているのだろう。
 僕は病気と決めつけられてしまったんだ。瑕疵を必要以上に植え付けられた脳の気持ちが、わかるとでも言うのだろうか。それとも、僕の視線は曲解して彼女に伝わったのか。答えのわからぬまま、僕は絶頂に達した。子種を子宮に浴び、身体を喜悦でぶるぶると小刻みに痙攣させ、弛緩した身体が僕に覆いかぶさる。
 色っぽい息を吐いて、幸せそうな蕩けた表情を浮かべる彼女を見ると、胸が高鳴る。僕の世界が名も知らぬ彼女によって一つにされる。
 もしかして、わざとやっているのか。
 まさか。
 あり得ない。
 白む空の光が崩れていく。彼女の肌は汗で輝いて、宝石のようだった。そっと彼女をきつく抱きしめてみる。お互いに生まれたままの姿で抱き合ってみて、わかったことがあった。肌の感触は、底なし沼のように温かい。

「ねえ」

 言葉と同時に、あの時の何かが吸われていく感覚があった。僕の中から大事なものが消えているのかと思う不安と、彼女に何もかも委ねられるという安心感が背中合わせになる。法螺話のような体験だ。
 冷えた現実の中心で、唯一暖炉のように温度を保つ彼女。

「私は、全部わかってるから」

 一向に主語を明確にしない彼女だったけれど、なぜか言いたいことがわかる。以心伝心、などではない、もっと強い何か。

「私しか、見ないでいいから」

 そう言われて、ふと気づいたことがあった。病気の僕がここまで彼女に執着するのは、どういう理屈なんだろうか。
 いつぞや聞いた医者の口上を思い出すと、実にいい加減だった気がしてくる。途端に全て馬鹿らしくなった僕は彼女に口づけた。
 彼女が笑う。
 僕も笑う。
 夜明けはすぐそこまで来ていた。
 どこまでが夢で、どこまでが現実なのかわからない曖昧な世界で、僕は一人、優艶な彼女の名前を聞いてみようと思った。
 どうやら、彼女は僕の全てを受け止めてくれるらしい。
 それだけで、僕は救われた気持ちになった。

10

 完全に蛇足の後日談なのだが、それでも付け加えておこうと思う。僕は彼女に己が病気であることを告げた。彼女の反応はただ微笑むだけで、黙って抱きしめてくれた。どうやら診断書を見たらしい。果たして、どんな本に挟まっていたのかは僕にはいつまでたっても明かしてくれないのが少々気がかりではあるが、それでも僕は幸せだった。
 彼女がいったいぜんたい何者なのか。それはまったくもってわからない……が。
 これから僕は彼女と手を繋いで歩いていく気がした。ずんずんと、前を向いて。

15/11/11 21:58更新 /

■作者メッセージ
そんなお話でした。楽しんでいただければ幸いです。
どこか物語の男には僕らしさがあって、どの話のどいつも僕なのかと思うと、少しだけ憐れに思ったりします。でも彼らには彼女たちがいるので、きっと幸せなんだと信じたいです。
最初、この話のタイトルは夜明けのノスタルヂアでした。ですがいつの間にか気づいたらタイトルは変わって、人物たちも変わっていました。不思議です。

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33