連載小説
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SideW
 最初の科白の一声からずっと、室内はシンと静まり返っている。
 科白はドアノブを握ったまま、立ち尽くしている。

「祈里ちゃん……」

 心配そうに声をかける深月の声で、ようやく科白は動き出し、静かに出入口の扉を閉める。

「……すみません、深月さん……い、色々……考えた、ん、ですけど、これは自分で話して、自分で決めなくては、と思ったんです」

 科白の息は荒れていて、いつも以上にその声は途切れてしまっていた。おそらく思い立ってすぐに駆けつけたのだろう。彼女なりに精一杯の声を出しているのが分かる。

「いのっち、少し待ってろ! すぐにこのクズを追い出してやるから……」
 
 少し慌てた様子で悠希はそう言うと、その大きな鳥の脚で僕の頭に掴みかかってくる。
 しかし手錠で繋がれているせいで、僕の腕が椅子から離れない。

「いてて! ……おい! もう少し手心を」
「っせぇな! いいから来い!」

 悠希が叫んだ瞬間、ひどい騒音を立てながら、僕の身体が倒れて床に転がされる。ろくに腕が使えないので、受け身をとることもできなかった。
 そのまま僕の身体は繋がれた椅子ごと、悠希によって無理矢理どこかへと引きづられていく。逃げるために暴れようとするも、僕の頭を掴む悠希の足爪が、耳や首筋近くにまで伸びてきている。
 下手に動けば致命傷になりかねない。そう思うだけで、つい身体が躊躇ってしまう。

「ま、待って! 離してあげてください!」 

 慌てた様子で、科白が悠希の強行を咎める。
 悠希は数秒動きを止めると、ため息をついて、投げ出すように僕の頭を解放する。

「つっ……」

 地面に着く瞬間、臀部を強く打った。
 本当にこの悠希ってやつは、いつか本当に人を病院送りにしかねないな。

「……すみません。彼と、二人にしてもらえ……ますか?」

 科白は小さな口と喉を震わせて必死に絞り出す。
 悠希と深月はじっとお互いに、顔を見合わせている。
 手錠付きとはいえ、強姦の前科持ちとその被害者を二人きりにさせるのは苦渋の決断だろう。
 だがようやく、その踏ん切りがついたのか、やがて深月が重々しく口を開く。

「……分かりました。祈里ちゃんがそう決めたのなら、それで良いと思います」

 そういうと、深月は科白の青い両手を握る。
 科白は少し驚いた表情をするが、やがて決意を示すかのように強く頷く。深月もどういう意味なのかは分からないが、何も言わずに科白をじっと見つめている。

「じゃあ、扉の外にいますからね」
「あっ……はい」

 深月の言葉に恭しく科白は頭を下げる。
 手を握り合う科白の後ろから、悠希が近づく。そして肩を組むようにして、科白に覆いかぶさる。その大きな翼は、科白の上半身をすっぽりと隠してしまう。

「ちょっとでも何かされたら、すぐに叫べよ! アタシが守ってやるから!」

 なんて頼りがいのある台詞だろうか。その辺の男なんかよりも、悠希の方が格好良く見える。
 独特な挨拶を終えると悠希が、僕の方をチラリとだけ見る。
 その視線には、変な真似をしたら容赦をしないという、明白な敵意が込められていた。
 もちろん僕が何かしようにも、手錠をかけられた腕では何もしようがないのだが。あえて、僕は何も言わなかった。

 深月の方も、僕とこれ以上会話する気はないらしい。
 深月と悠希はそのまま速やかにドアの方へと向かうと、静かに部屋を出る。
 ギィという扉の閉まる音ともに、この楽屋から外界の雑音が全て消失する。

 真白い楽屋には僕と科白のみが、ポツンと残された。
 あの騒がしさの権化のような悠希がいないと、こうも静かになるものなのか。

 別に、そのことで悠希を咎めるつもりはない。何だったらさっきの乱暴だって、ひとまず置いておいたっていい。
 だが一つ言わせてもらうのならば、倒れた僕のことを起こしていって欲しかったということだろうか。
 今の僕はうつ伏せに倒れている状態だ。背中の上には椅子が三脚ほど、まとめてのし掛かっている。
 何とかして体勢を整えようにも、まず腕が動かない。背中と椅子の間に挟み込まれて、完全に固定されているせいだ。おまけに椅子は予想に反してズシリと重たく、僕の腰の動きも邪魔をしている。

「くそっ……」

 何とかして下半身だけでジタバタともがいていると、科白が僕の後ろに立つ。
 すると、嫌に軽々と、その椅子達を持ち上げる。なんて馬鹿力だ。

「……どうも」
「……いえ」
 
 素直に礼を言うのが憚られて、つい雑な言い方になってしまう。
 僕が身体を起こして胡座をかくと、その動きに合わせて、科白がゆっくりと椅子を床に下ろす。

「えっと……私がここに、いるって、よく……ご存じですね?」
 
 いきなり予想の斜め下のことを言い出す科白に、苦言が漏れそうになる。
 まぁ科白のことだ。ここに来るときの様子じゃ、本当に気づいていないのだろう。
 仕方ない、教えてやるか。

「あんたを尾行してた……んすよ、仕事が終わった後に」
「えっ? そんな、誰もいなかった、はずなのに……」
「あんな下手くそな隠れ方で撒けると、思った、んですか?」
「……無理に敬語、使わなくてもいいですから。今は職場の関係は、気にしないで下さい」
「……そうかい、それだと助かるよ」

 僕は素直にそれを受け入れる。言葉とは存外と正直なものだ。
 素直に敬うのが躊躇われる相手には、どうしたって敬語は使いづらい。
 
「それにしても、或森さんって尾行お上手、なんですね、探偵みたいです」
「褒めるところじゃない」
「す……すみません」
 
 まるで、子供を相手にしているみたいだった。
 これじゃあ前の世話係の彼だって、恋愛的な意識をしていたか怪しいものだ。
 もしかしたらだが、その彼も実は顔に出さないだけで、僕と似たような心境だったのかもしれない。
 幼馴染みと一緒になったことは未だ疑問だが、色恋に100%は無い。
 多分だが、その幼馴染みがいなくても、結果は変わらなかったんじゃないだろうか。

 と、そこまで考えて、僕は大げさにため息を付く。
 そんなことを考えたってといって、どうだというんだ。
 それからしばらく、僕と科白は一言も言葉を交わさなかった。
 周りに一切の雑音はなく、お互いの息の音のみが聞こえてくる。
 
 科白は僕の右側に、立膝と正座の中間みたいな姿勢で座りこむが、視線だけは不自然に他所へと逸らしている。
 僕から何かを言うのは、なんかシャクだった。
 それに科白が二人になりたいと言い出したのだから彼女の方から話をするべきだろう。

 僕も若干、意固地になっているのは分かっていたが、その姿勢を崩すつもりもなかった。
 





「……」



「……」



「……あの」

 さすがに痺れを切らしそうになった頃合いに、やっと科白がその重たい口を開く。

「或森さんは、何故装丁家の仕事をしようと、思ったんですか?」

 その発言を僕の耳が捉えた途端、眉毛がピクリとつり上がる。一言で人の神経に影響を与えてくるなんて流石だとしか言えない。
 その質問を、他でもない科白がしてくることが、この上ない嫌がらせのような気がした。

「……あんたには、関係、ない」

 不機嫌さを隠しきれず、片言な返答になってしまった。
 呼吸と言葉が詰まって、過呼吸を起こしそうだ。なんだか喋り方まで科白に似てくるようで、少し不愉快だ。

「きっかけは、何だったんですか?」
「関係ないんだって、それにもう、叶えるつもりも無い」

 全く、しつこいにも程がある。
 しかし対する科白はまるで引く様子がないようだ。
 僕の脳に次第に苛立ちが募る。冷静さを欠いているつもりはないが、敬語はいらないと言ったのに、科白が敬語のままな所とか、彼女を否定するための細かい点が気になってきてしまう。だがそんなことをいちいち指摘するのも面倒で、僕はただ閉口する。

 一方で、科白はくどいくらいに、僕に質問を繰り返してくる。
 

「そうですか……でも、夢だったん、ですよね? 大事なことじゃないんですか?」

 途切れることのない科白の言葉と比例して、不機嫌の感情の波がドンドン大きくなっていく。
 何にも知らないくせにズカズカと聞きやがって。
 誰のせいで、こんな思いをしていると思っているんだ。その間抜けな頬を抓ってやりたい。あいにく手錠のせいで、それも出来そうにないのが残念だ。

「……持っているだけ無駄だよ、そんなもの」
「っ……そんなこと、ありません!」

 僕が吐き捨てるようにそう言うと、科白にしてはやけに大きく声を張り上げる。
 それは子を叱るような、やけにはっきりとした、力強い反論で。
 その激しさに僕は思わずビクンと肩が跳ね上がる。

 なんだ?何か、気に障るようなことを言ったか?

 当の科白の顔を見ると、何も分かっていないと言うようで、キョトンとした顔つきをしている。だが数秒後、自分が考えていた以上の声量を出していたことに気がついたらしい。科白はその青い四肢を丸めて、身を縮こまらせてしまう。

「す、すみません……」
「いや……」

 つられて僕も、肩が落ちてしまう。
 なんだか、今日の科白はいつにも増してやりづらいな。

「……その、私の奢りかもしれませんが、その、えっと」
「……なんだよ」
「もし或森さんが、装丁家として私に何か、期待をされて、いたのでしたら、その。幻滅させて、すみません」

 科白はそういうと、深々と頭を下げてくる。
 ブツブツと途切れるラジオみたいな口調とその姿は、全くいつも通りの科白だった。
 無論、そんなものは歓迎していない。

「止めてくれ。今さら頭下げられても困る。そんなの見たくて、ここに来た訳じゃない」

 僕がそういうと、科白は黙ったまま俯いていた。
 そして何拍か置いた後、彼女はやおら頭を持ち上げる。
 現れたその顔の目元は、力がぐっと込められているようだった。

「それで、あの……私のことはもう、大丈夫ですので」
「は?」
 
 大丈夫という言葉の意味が良くわからず、僕は科白の言葉を待つ。

「深月さんから、お話がありませんでしたか? 私の世話係は、退職していただいて、結構です」
「いや、あれは……」

 僕は狼狽しながら返答しようとするものの、声が形にならない。
 確かにその話は聞かされたし、自分の中でも答えが出たはずだった。しかし実際に科白を前にすると、何故か素直に受け入れることができなかった。

「それと、辞めた後も次の職場のことは、心配しないで下さい。装丁家として独立しやすい、そういう環境の職場には、心当たりがあります。こんな私でも、多少のツテはあり」
「あんたは、どうするんだよ? また次の世話係を雇うのか」

 一方的に話を進めようとする科白の声を無理矢理遮るために、僕は苛立つままに声を荒げる。深月といい科白といい、何故僕に何も言わずに話を進めるのだ。
 
 だがそういう僕も、大概といえば大概だ。
 やめておけばいいのに。余計なことを言わなければ、このまま厄介事を押し付けられることもないというのに、どうしても口を挟むのを止められない。

「いえ、世話係を雇う気は、もう、ありません。以前から、このままではいけないと、思っていたんです」

 科白は事務的なまでに淡々とした様子で語る。
 だがそれは、あまりにも淡泊過ぎた。
 そんな風に、すらすらと語れるような薄い言葉の、どこを信用しろというのだ。

「自分でやっていけるとでも言うのか? 洗い物も飯も掃除も、装丁の仕事以外は何にもできないのに、自棄になってんじゃねえよ」

 だから、聞くなって。
 しかしやはり僕の理性は上手いこと機能しない。
 科白は少し悩むような口振りで返答する。

「ここで、深月さん達にサポートを受けて、何とかしていきます……それに自分のことは自分で解決しないと、貴方に押し付けてばかりでは、いけませんから」
「今まで散々、この店の連中に迷惑かけてきたんだろう? まだかけ足りないのか?」
「それは、そうですけど……」

 それをいうと、科白は黙りこんでしまう。
 
 僕は更に追い討ちをしようと、何かを言おうとした。
 でもそれ以上の言うべき言葉が見つからず、ただ科白をじっと見据えて、口をパクパクと開閉させるばかりだった。

 というより。なんなんだ、これは。
 さっきから、自分の行動が理解できない。
 僕は何故、何かを言おうとしている?
 いい加減にしろ、という理性の声が聞こえてくるようだ。

 僕は解放されたはずだろう?
 あの忌々しい家政夫の仕事からも、呪いのような装丁家の夢からも。
 面倒なことから全部、見事抜け出すことができたのはずなのに。
 もう科白のことなんて、装丁家のことなんて金輪際、考えなくて良いのに。
 どうして僕は、こうまでして科白が気に入らないのだ? 

 さっきのライブの時も、そうだった。
 科白達の演奏はとても素晴らしく、オーディエンスが拍手喝采を送っていたのも頷けた。
 僕も、本当はあのまま聴き惚れていたかった。
 ベースを暴れるように奏でる科白を見た瞬間、初めて"現実の科白"を格好いいと思えた。それは子供の頃、初めて科白の装丁した本を見たときのような、あの時の初々しい衝撃に、どこか似ていたからかもしれない。

 でも、だからこそ気に入らなかった。

 何が?
 
「……何もかもだよ、気に入らない」
「或森さん?」
 
 脈絡を無視した意味の分からない言葉にさえ、科白は反応してくる。

「うるせえ」

 自分に言われたと勘違いでもしたのか、科白の肩がピクリと跳ねる。

 あんたは"僕の"憧れだったのに。
 科白の装丁を見て、科白みたいに格好良い装丁家になりたかった。
 だからここまで、歯を食いしばって生きてきた。
 なのに実際の科白は、こんなにも情けなくて。あまりに等身大すぎて。
 一方でこんな変な店では、どこの誰とも知らない客に、変わらない恰好良さを魅せつけていて。

 なんでだよ。
 なんで、僕の前ではいつも"そう"なんだよ。

 なんで……。


 
「なんで僕は、この程度のことで、幻滅しちまうんだよ……」

 心の声だと思っていたものが、いつの間に肉声を持ってしまっていた。しかしその事よりも、僕は勝手に口から漏れ出たその言葉に動揺している。
 何だ?一体僕は、何を訳の分からないことを言っているんだ?

「あ、或森さん? どうしたんですか? さっきから。顔色が……」

 科白は、僕のおかしな言動に困惑しながらも、おどおどと声をかけてくる。
 やめてくれ、そんな顔で僕を見ないでくれ。
 心配そうな面持ちの科白を見ているだけで、僕の口が勝手に開く。

「……"僕の夢"は、アンタだ」

 まただ。感情と理性がぐちゃぐちゃに混ざり合った、醜い言葉が飛び出てくる。僕ですら予測も理解のできないその言動に、僕自身、失望の念がわいてくる。
 
 なんだこれは。
 これでは結局、何を言いたいのかも伝わりはしない。
 こんなんじゃあコミュ障の科白のことを、何も言えないな。

 吐き出したくても吐ききれなくて、閉じ込もって歪んだ自分の思考の末が、こんなにも愚かな言葉だとは思わなかった。今まで色々考えているようなフリをしているだけだった。
 結局は僕は、ろくな人間じゃなかったということか。
 
 ろくでもない存在。
 そうか。それが僕なのだ。
 胸の奥底で、深い井戸に鉛を投げ捨てたみたいに。
 悲しいほど空虚な音をたてて、僕の心は納得をしてしまう。
 
 結局はそこが、僕の気に食わないところなのだ。
 僕が気に食わないのは、つまるところ"僕自身のこと"だ。
 自分の理想の通りにならない自分を、夢や他人のせいにしていただけだ。
 僕が本当に幻滅していたのは、科白ではなく、僕の方だったのだ。 

 なんて、情けない。
 嫌になるほどの自己嫌悪がわいて出てくる。
 僕はどうしてこんなにも、夢に対して不誠実なのだ。

 いつの間にか、僕は涙目になっていた。



「……サイクロプスは、昔から、職人気質なタイプが、多いんです」
 
 不意に、ポツリと。
 空中にか細い声が飛んでくる。
 僕は科白の、その大きな一つ目を見返す。
 不思議と、科白は穏やかに微笑みをこぼしている。

「……科白?」
「怖いんですよ。もしサイクロプスが、私が、モノを作らなくなったら、どうなってしまうんだろう……って。ずっと、或森さんが帰った後も、いつもそんな想像をして、眠れなくなる時があります」
「……なにを、下らないこと言って」

 聞き返す途中で、僕は科白の優しくも真剣な表情の科白に口をつぐんでしまう。
 今まで散々、装丁の仕事をしてきたのに、何でそんなに怖がる必要があるのか。
 僕には何となく、その答えが分かるような気がした。でもあえて、科白の口から聞いてみたいとも思って、僕は開口を控える。

「私は、サイクロプスは生まれついて、"創造することを義務付けられた"といってもいい種族です。私にとって、その習性は、もはや……呪いと変わりありません」

 呪い、という言葉を使ったことを、果たして科白は意図しているのだろうか。
 だがきっと彼女の考えている以上に、その言葉は僕の胸を深く深く、えぐっていることは確かだ。
  
 習性、夢、呪い。

 三つの言葉が僕の頭の中に浮かび上がる。
 僕にとって、その三つはほとんど同じ意味になりつつあった。
 
 モノを作る、デザインをする、創造する者。
 そういう者には、自分のこなしてきた事柄が、良くも悪くも形で見えてしまう。
 だから何も生み出していない時が、何も成していない自分が、ひどく無駄で無意味で、空虚な存在に感じてしまう。
 そういう形のない負の感情が、誰しも胸の奥のどこかにある。僕が科白に感じていたのも、それらと何も変わらない。

 ましてや、装丁とは中身の小説ありきで成り立つものだ。決して表舞台には立たない、裏方の仕事である。
 僕らの創造は決して、一人きりでは完成することは出来ないのである。

「それでも、せめて月並みの魔物らしくあろうと、一時は、色恋に現を抜かしてみました。でもそれも、その恐ろしさに打ちのめされて、あっけなく終わりました。ただ私が、魔物としても低級である事実を、突きつけられただけでした」

 普段小さくて聞き取りづらいはずの、科白の声がやけにはっきりと聞こえてくる。
 おそらく防音室のおかげで、余計な雑音が聞こえないからなのだろう。
 でもそれ以上に、今の僕は彼女の声を聴き取ろうと、真剣に耳を澄ませている。
 そういえば、普段の仕事の時も、近づくたびに何かを言っていた気がする。
 そうか、気が付かなかった。
 科白は聞き取れないだけで、案外"喋る"のだ。ただ僕が、今まで科白の声をちゃんと聴いていなかっただけなのだ。

「その時になって、やっと気が付いたんです。私の創造はあくまで仕事でしかなくて、それ以外の価値は無いんだって」
 
 何も、言えなかった。
 それは正に、つい先ほどまでの僕のことだったのだから。
 彼女のことを何一つ知らないまま、自分にとって都合のいいところだけを科白に求めていた僕自身に、価値なんてあるはずがなかった。

 彼女が本当はどんなこと考えているのかということも、本当はお喋りだということも。
 魔物とか装丁家とかの話の前に、彼女は一人の女性であるはずだった。

 当たり前の話の、はずだった。
 なぜ、そんな簡単なことに気付いてやれなかったんだ。
 
「気づけば私の手に残っていたのは、大量の装丁家の仕事と、ゴミに埋もれた事務所でした。当時はそれが私の唯一の気休めで、事務所だけが私の居場所でした。だから、本当は四月のあの日、或森さんには来て欲しくなかったんです」

 四月のあの日。
 僕が事務所に配属されて、初めて現実の科白に会った時。
 科白は僕に向かって、どこか怯えるように『帰って』と吐き捨てた。
 あの拒絶の一言に、どれだけの諦念が込められていただろう。
 その時の僕は、気付きもしなかった。
 
「でも……一人きりで腐って生きようと決めたばかりなのに。不服そうな態度で家事代行をしてくれる或森さんをみると……情けなくも、安心できたんです。人に優しくされるのは、もうこりごりでしたから」

 こじらせすぎだとは思いつつも、僕は科白に耳を傾ける。
 もしかしたら科白も最初は、前の世話係の彼と僕の姿を重ねていたのかもしれない。
 そしてきっと僕の気持ちにも、とっくに気付いていたんだろう。
 僕が彼の代わりになど決してなれないことも、理解していたのだろう。
 
 けど、それでもなお。
 科白は、そんなふてくされた僕を認めて、受け入れてくれていたのか。
 そして今もこうして、僕に向けて必死に言葉を紡いでいる。
 
「……駄目ですね、私。未だに魔物にも、職人にもなり切れないみたい。半端者なんです」

 そう言うと、科白はにこりと微笑む。
 どこか諦観したようなその笑みは、僕には直視しづらいものだった。

「……ダメとか言うなよ。僕の立場がないじゃないか」
「そ、そうでしたね。すみません。私いつも、気が利かなくて、その」
「そうだ。アンタのそういうところが、いつも、いつも……」

 嫌いな、はずだった。
 所在なげにそう僕は呟くが、言葉は穏やかに霧散していく。
 僕も自分のそういう、口だけは達者な所が嫌いだ。
 三つの瞳がグルグルと、行きも帰りも分からずに、空中をさまよっている。

「或森さん。先ほどの、私が夢だったって言ってくれたじゃないですか?」
「あ、ああ」

 お互いに視線を合わせないで、言葉を交わす。
 
「あの一言が、嬉しかったんです。私の仕事が誰かに伝わって、誰かの夢になって、言葉になって戻ってきたことが、本当に嬉しい。これが、私が創造したことの結果なんだって。初めて呪いを、許せました」
 
 まるで神に感謝でも告げるみたいに、科白は両手を合わせてそう語る。あまりに持ち上げられ過ぎて居心地が悪くなり、今度は僕が不自然に顔を逸らす。

「よしてくれ。そんな大した意味をこめた訳じゃない」

 科白は、それでもいいんですと言わんばかりに、軽く首を横に振る。

「……夢なんて無駄だとも、仰いましたよね?」
 
 科白がさらに言葉を紡ぐ。
 いつの間にか、彷徨っていたはずの彼女の大きな瞳孔は、見事すっぽりと僕の全身を映し出していた。
 対して、僕の目は泳いだままだ。しかし、科白はその瞳に僕を捉えて離さない。

「私は、そうは思いません。或森さんは自分の手で好きな本を取り、自分の足で私の事務所に来たと思うんです。例え、その夢を諦めているのだとしても……私には、私達にとっては、それはかけがえのないものなんです」

 背筋が痺れるような想いだった。
 ずっと、この夢を独りで抱えて、生きるつもりだった。
 ずっと、この夢を独りで諦めて、殺すつもりだった。
 自分すらも必要としていない夢なんて、存在している意味がないと思っていた。 
 だけど目の前に、腐りかけてお世辞にも綺麗とは言えないそれを、歓迎し、赦してくれる人がいる。

 僕の夢が、僕に装丁家になってもいいのだと、僕を認めてくれている。

 そう言う女性が、目の前にいる。

 目元がひどく、かぁっと熱くなるのを感じる。

「泣いて、います?」

 何度目かも分からない物案じるような視線で、科白が僕の顔を覗きこんでくる。

「ち、違う! これは……何でも、ない」

 恥ずかしくて思わず必死に否定する。
 手で顔を隠そうとするも、手錠が邪魔をする。
 声が上ずり、嗚咽をこらえられない。

 涙が、止まらない。

「或森さんも、泣くんですね」
「だから! 違うんだって……」
「いつも仕事中は、ムスッとしているから。こういう泣き方をするんですね」
 
 やっぱり、こいつの頬を抓ってやりたい。
 悪戯っぽく微笑む科白を見ているだけで、むむずと首筋が痒くなりそうだ。
 やがて科白が笑うのをやめると、正座の状態から、やおら立ち上がる。
 そして僕のすぐ目の前に移動すると、彼女はそのままペタンと内股で座りこむ。
 
 というか近い。近すぎる。
 僕と科白の間は1mも離れていない。

「すみません。やっぱり、退職の件、なかったことにしてもらえませんか? このままだと、後悔しか残らないような気がして」

 科白はそっと、優しくその両手を伸ばす。
 その手は僕の脇腹に、ゆっくりと近づいて、通り過ぎる。
 科白の腕は更に前へと進み、僕の背中の辺りにたどり着き、その進行を止める。
 そして、まさぐるような手つきで、手錠付きの僕の両手を見つけると、そこにゆっくりと柔らかく、彼女の手が添えられる。

「お、おい……!」

 気が付いてみれば、科白が僕の胸元に、顔をうずめるようにして、抱き着く体勢になってしまっていた。
 流石に、科白との距離が近すぎる。科白の頭から、彼女のしっとりとした汗の匂いが漂ってくる。

 まずい。これは、色々ダメだ。

 僕はひたすらに狼狽し、悶えて腰を何度も捻る。
 しかし、先ほど軽々と椅子をまとめて持ちあげた科白の力を、僕なんかに振りほどくことなんて出来るわけもなかった。

「くそ、手錠が……」
「じっと……してて」

 顔のすぐ下から聞こえてくる科白のそんな言葉に、ぞくりとしてしまう。

 待て、待ってくれ。
 相手は科白だぞ?何でこんなに緊張しているんだ僕は。
 しかし、跳ね回るような胸の鼓動は、治まる気配がない。科白の肌が触れる度に背中に電流が走るようだ。
 科白は躊躇せずにもぞもぞと、僕の背中の辺りで両手を動かしている。
 そのたびに、彼女の額にある角が、僕の胸に擦りつけられる。 
 ゴツゴツしていて、堅くて痛いはずなのに、それすらも何故だか心地よい。
 尖った角の先端からは、先ほどの悠希の爪のような恐怖は一切感じない。
 むしろ、このまま突き刺さってもいいくらい……。 
 
 いやいや、いくら何でもそれはやばい。
 本当に思考に余裕がなくなってきた。
 
 ああでも、科白になら―――


 ―――カチャン。

 すると、僕の両手に付けられていた手錠の鍵が外れ、手首からスルリと抜け落ちる。
 同時に、科白の頭がするりと僕の胸から離れていく。
 科白の手の中には、いつの間にか深月の持っていた手錠の鍵があった。

「手、錠?」
「はい」

 安堵をする反面、とても残念な気持ちが胸に広がる。
 別に何かを期待していたわけではないけど。
 僕の胸に残る、かすかな温もりを惜しく思ってしまうのが悔しい。
 しかし科白は、そんな複雑な気持ちにヤキモキする僕を他所に、内股で座り込んだまま、僕の目を真っ直ぐに見つめて告げる。

「或森さん。もう少しだけ、私に時間を下さい。私一人が立ち直るためだけではなく、私が或森さんに、或森さんが私に、お互いの想いにちゃんと応えられるようになるための、そのための時間を……私に頂けませんか?」

 正常に戻りかけた心臓が、またしても豪快に跳ね上がる。

 これは、つまり、そういうことなのか?

 たぶん、今までにないくらいに緊張している。
 頭が逆上せそうだが、不思議と悪い気分ではなかった。
 
「僕なんかで、いいのかよ? 僕は前の世話係と違って、性格が悪いから……多分、もっと嫌な思いをさせるぞ?」
「それが、いいんですよ。これからは……」 

 ここまで言われて、拒む理由は何もないか。
 自由になった僕の両手が収まる場所は、既に決まっていた。
 僕はその両手で、科白の指先を軽く握る。
 科白はそれを見届けると、幸せそうに微笑み、僕を見つめ返す。

 そして、僕らは顔を見合わせたまま、少しずつ近づいていく。
 ゆっくりと、引き寄せられるように。

 三つの瞳が、一つに合わさっていくーーー
16/09/16 09:19更新 / とげまる
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■作者メッセージ
 すみません。あまりにも長くなりぎたので、もう一回分割します。
 後は終わりに向かうだけなので、数日中には終わらせたいと思います。
 プロットガバガバ過ぎぃ!

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