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反実の稀滴
住宅街の一角に、その屋敷はあった。
高い塀に、大きな門に、広い庭。檻状の紋の向こう、枯れ木と彼草の並ぶ庭を隔てた先に、黒い屋敷が蹲っていた。
石組の外壁は本来ならば黒くはないのだろうが、長年手入れされていない上、庭の雰囲気と相まって、元からそうだったような様相を醸し出していた。
碌に手入れもされていない庭を進み、恐らく数年は開いていないと思われる正面玄関を抜けると、すぐそこは居間になっていた。
絨毯の上に一組の一人用ソファとテーブルが置かれ、その傍らには本が積まれており、壁には本棚が並べられている。
ベッド以外の大体の家具が揃えられた居間は、完全に誰かをもてなすためのものではなかった。
そして、屋敷の主はソファに腰掛け、火のはいっていない暖炉に向かいながら本を広げていた。
「……」
ソファに腰かけていた、短い金髪の少女がページを踊る文字列から目を離し、暖炉の上に掛けられた時計に視線を向けた。
昼の十二時、少し前。
3月31日の、何の変哲もない昼前だった。
時刻的には昼食前だが、朝食の後からずっと本を読んでいたためか、特に腹も減っていない。使い魔に食事の準備をさせるのは、もう少し後でもいいだろう。
そんなことを考えながら、彼女が視線を本に落とした瞬間、突然目の前が真っ暗になった。
「っ!?」
突然失明してしまったのか、と彼女が実を強張らせた瞬間、暗くなったのと同じぐらい唐突に視界が戻った。
身の安全の確保のため、微動だにしなかったおかげで視界に変化はなかった。
とりあえず胸を撫で下ろした瞬間、傍らから声が届いた。
「アンダースノゥ師」
「ひっ!」
意識の外からの呼び声に、彼女は文字通りソファから飛び上がった。
「ああ、そう驚かないでください、アンダースノゥ師」
ソファから立ち上がり、体ごと傍らに向き直る彼女の視界に、空いていたはずのもう一客のソファに腰を下ろす人影が映った。
黒いローブを纏い、膝の上に三角形の帽子を乗せた、黒髪の十代半ばほどの少女だった。だが、それは外見だけの話であり、その中身が十代の少女そのままではないことを館の主、エリカ・アンダースノゥは知っていた。
エリカと目の前の女はともに、世界の影に潜む魔術組織、サバトに属する魔女なのだ。
サバトの所属者は魔術の知識を得ることができ、彼女のように外見を若いまま維持したりできる。よって、二人とも十代半ばに見えても、本当はいくつかは分からないのだ。
「さて、アンダースノゥ師」
ソファに腰掛けた黒髪の女が、ニコニコと微笑みながらエリカに話しかける。
「本日は3月31日、年度末です。昨日までの時点で、今年度分のノルマをまだ満了されていないようですので、確認に参りました」
黒髪の彼女の言葉に、エリカの表情が一瞬引き攣る。
「ちなみに、現時点での未満了ノルマは…『熱帯雨林の5平方キロメートル縮小』『近隣国家間の関係緊張化』…」
特に何も見ず、黒髪はつらつらとエリカの『ノルマ』を並べて行った。
「『所属国家の平均気温の0.2度上昇』…以上が、昨日時点での貴女のノルマです。現在どの程度進行していますか?」
「え、ええまあ、はい!いい感じです!」
頬の引き攣りを押さえ込みながら、彼女は笑顔で答えた。
「ぎりぎりまで準備を進めたせいで、まだ結果は出ていないのですが、どれもこれも今年度中に決着がつく予定です」
「そうですか、それは良かった」
黒髪の魔女は、にっこりとほほ笑みながら続けた。
「貴女と私の所属する部署は、『世間に不安を与え、よりどころを求める人間を増やし、サバトの加入者増加に繋げる』という重要な目標があります。全員が一丸となって、世界が滅ばない程度の不安と災厄を作らなければならないのです。だというのにノルマもこなせない者がいては…」
やれやれ、とばかりに頭を振る黒髪の魔女に、エリカは指を握り締めて体の震えを押さえ込んでいた。
「さて、少々無駄口が過ぎたようですね。これから他に回らねばならない場所があるので、今日のところは失礼します。ノルマの満了、期待していますよ」
黒髪の魔女は膝の上に乗せていた帽子をかぶりながらそう言うと、エリカに向けて軽く手を振った。
すると再びエリカの視界が一瞬真っ暗になり、明るくなると黒髪魔女の姿は消えていた。
「……ユーキ!」
数秒魔女の腰かけていたソファを睨みつけたエリカは、不意に声を上げた。
「は、はいマスター!」
距離によって少しだけ小さくなった高い声が響くと、遅れて居間へと続く扉の一つが開き、少年が一人姿を現した。
「何の御用ですか?お食事でしたら、もう少し待って下さい」
「今日は昼食はいらん。夕食もだ」
広げたままだった本を閉じながら、エリカは続けた。
「つい先ほど、サバトの上級魔女の一人が来た。私に課せられたノルマの確認にだ」
「はぁ…」
「それで、一応もうすぐ仕上がると言って帰ってもらったが、実はまだ何も
出来ていない」
「ええと、それでなんで僕に…」
「ああ、これからどうするか、いくらかアイデアを出してもらおうと思ってな」
そう彼女が応えると同時に、壁に掛けられていた時計がボーンボーン、と音を立てた。
「さあ、後十二時間で私のノルマを全てこなす方法を考えなければ」
時計の金が鳴りやまぬうちに、彼女は腕を組んで居間をうろうろと歩き始めた。
「私に課せられたノルマは、簡単に分ければ『環境の微小変化』と『自然の小規模破壊』、そして『平和に対する不安の増長』の三つに分けられる。一見すれば大災害の一つか国境での大爆発でも起こせば達成できそうだが、片方だけでは三つの分野を同時に満足させるのは難しい。
それどころか、後十一時間五十八分ではどちらか片方だけでも起こすことさえ困難だ」
「はあ…」
所在なさげに立ち尽くす少年、ユーキはうろつく主を見ながら生返事を返した。
「情報をあらかじめリークした上で森林に火を放つ…ダムに毒…いっそのこと国境間で火山噴火をおこすか…?」
次第にエリカの言葉が小さくなり、彼女だけの世界に没入して行く。
そして、もはや何を言っているのか分からぬほど声がぼそぼそとしたものになったころ、こんこんと玄関から扉を叩く音が響いた。
「……」
エリカが言葉を断ち切り玄関を一瞥すると、ユーキに視線を向けた。
応対しろ、との命令を汲み取った彼は、玄関に歩み寄り扉を開いた。
「はい…何の御用」
「ぷはーっ、やっと着いたわー!」
ユーキを半ば突き飛ばすようにしながら扉を押し開き、高い声の持ち主が屋敷に転がりこんだ。
短いスカートにチューブトップという、町を歩くには露出の高すぎる衣服を身に付けた少女だ。ただし、背中からは蝙蝠のような羽が生え、短いブルーの髪の間からは角が二本伸びている。魔術師や魔女の使い魔としてはポピュラーな魔物、インプであった。
「インプが我が屋敷に何の用だ?」
勢い良く開いた扉で顔を打ったユーキを一瞥してから、エリカは威厳を漂わせる口調でそうインプに問いかけた。
「あぁ、いきなり押し掛けてごめんね、アタシはヴェルチ。アンタはエリカ・アンダースノゥさんだよね?」
「そうだが?インプ風情が私に何の用だ?」
「あんたと同じサバトの魔術師の、ヴァルク・ギュッテンの使いで、ここに残した物を受け取りに来たの」
インプの出した名前に、エリカの目が僅かに細められる。懐かしさや親愛によるものではなく、警戒や疑念に対するものであった。
「ヴァルクか…それで、奴は何を受け取ってこいと?」
「魔術の資料。地下書庫の三番棚の五段目、いちばん左に突っ込んであるはずの、『秘酒製法』を取って来いって」
「ほう…ユーキ!ちょっと取ってこい」
「は、はい!分かりました!」
ユーキはようやく痛みの収まった鼻先を擦るのをやめると、エリカの命に従って居間を飛び出して行った。
「まったくヴァルクの奴、出て行ってから手紙一つよこさず、こうやって使い魔だけをよこしてくるとは偉くなったもんだな。どうだ、アイツは変わってないか?」
「うーん、アタシが雇われたのは、あんたとご主人が別れてからのことだし…」
「ほう、アイツ私のことをお前に教えてたのか」
「まあね、主人と使い魔の最低限の情報共有の一つ、かな?」
「ふん、自分の恥ずべき過去をわざわざ教えるとは、アイツらしいな」
そんな会話を交わすうちに、居間へつながる扉の一枚が開き、一冊の本を手にしたユーキが戻ってきた。
「マスター、これ…ですよね?」
少年が自信なさげに、魔女に差し出したのは、本というより真っ二つに裂かれた書物の、裏表紙側の方だった。
「どれ…ああ、これだこれだ。よしよし」
受け取った本の二つに裂けた背表紙の文字の断片を確認し、ページをぱらぱらとめくると、エリカは数度頷いた。
「それそれ!ご主人もそれの前半分しか持ってなかったからそれよ!」
「それじゃあ、お前の仕事は後はこいつを受け取って、ヴァルクの下まで届けるだけだな?」
「うん!」
予想外に早く終わりそうな仕事に、ヴェルチは笑みを浮かべながら手を差し出した。
だが、エリカは本を握る手をひょいと上げて、ヴェルチの手から本を逃がした。
「え?」
「とりあえず戻ってアイツに伝えろ、『お前が引き裂いた本だ。元に戻したければ自分から来い』、とな」
「えぇ!?」
「アイツが残していったものだ。アイツが取りに来るのが道理だろう」
すぐに帰れると期待していたヴェルチの驚愕の表情に、エリカは笑いながら続けた。
「さあ、とっととアイツに伝えてこい、インプ。私は少々急いでいるからな」
「うぅ…分かったわ、伝えてくる…」
インプの少女は悔しげに呻くと、名残惜しげにエリカの持つ本をちらちら見ながら、玄関まで退き、扉を開けて出て行った。
「…さて」
エリカはヴェルチが閉じた扉をしばし見つめると、暖炉の前のソファに戻り、どっかりと腰を下ろした。
「ヴァルクの奴、なぜいまさらこいつを欲しがるんだ…?」
「えぇ!?」
いまさらながらの主の疑問に、ユーキは思わず声を上げた。
「相手の目的もわからないのに、拒絶してたんですか!?」
「ああ、だって私アイツ嫌いだし」
ペラペラと本の後半部のページをめくりながら、事もなげに彼女は答えた。
「ふむ…後半部が必要になったということは、後半部に存在する記事に意味があるのか…?」
ユーキとの会話を打ち切ると、彼女は呟きながら思考を始めた
本の内容は、各種魔法薬の効能と製造方法に関するものだった。
「何か必要な魔法薬がある?だけどレシピが後半部に載っているから作れない?いや、確かこいつには目次が付いていなかったはず…」
目次が付いていないのなら、記憶を頼りに後半部の魔法薬の効能を思い出したのだろうか?
「それとも、やはり…」
エリカはページを操る手を止めると、本を閉じた。
本の中盤に当たるページが一番上に来る。
「これを作ろうとしていたのか?」
彼女の手元に残っている部分の、一番最初の記事はレシピの丁度後半部だった。
「奴の手元には材料と効能。私の手元に製法。だとすれば奴が欲しがるのも当たり前だ」
一番納得のいく推測に、彼女は頷いた。
「だが…なぜ今欲しがる?」
普段は数年単位で来客のない屋敷に、この数分で立て続けに二人も訪れた。
偶然なのかもしれないが、エリカには引っかかるものがあった。
「ユーキ、このタイミングでヴァルクがこれを欲しがる理由が分かるか?」
しばしの黙考を挟んでから、彼女はユーキに向けて『秘酒製法』を掲げながら問いかけた。
「何でもいい、言ってみろ」
「うーん…多分、ですけど…病気になって、その治療に必要だとか…」
「残念だが、掲載位置からすると治療薬ではないようだな」
レシピの後半部を、後に続く他の魔法薬の効能と照らし合わせながら応じた。
後に続く魔法薬は、人体を一時的に強化したり、人外の形態をとらせたりという肉体改造系の魔法薬ばかりだ。治療薬の分野の最後の一つ、という可能性もあるが、レシピに並ぶ材料からするとそれも違うようだった。
「治療薬でもない魔法薬が急に必要になる状況…」
呟く彼女の脳裏に、一つの可能性が浮かんだ。
「奴もノルマを抱え込んでいて、その満了に必要…なのか…?」
昼の前後に黒髪の魔女の訪問を受け、ノルマの状況を問われてその存在を思い出し、達成のために必要な魔法薬のレシピを、材料を揃えている間にエリカのところまで使い魔に取りに行かせた。
恐らく、これが全てなのだろう。
「ということは、恐らくヤツは直接受け取りに来るぞ…」
そう呟いた瞬間、壁に掛けられた時計がボーンと一つ鐘を打った。そしてほぼ同時に、エリカの前の暖炉からいきなり炎が噴き出た。
薪はおろか、燃える物すら置いていないほぼ飾りの暖炉からだ。
「っ!?」「わぁ!?」
暖炉から溢れ出し、その上の小棚を舐める炎に、エリカとユーリは声を上げて身をのけぞらせた。
すると、ごうごうと燃え上がる炎を突き破って、黒い何かが暖炉の縁をつかんだ。
手だ。黒い手袋に覆われた、人の手だった。
手袋に続いて袖、腕、と炎の中から何者かが姿を現してくる。
そして、燃え上がる暖炉を潜り抜ける様にして、黒いスーツに身を包んだ赤い短髪の男が、暖炉の前に静かに立った。
スーツや肌には焼けた痕どころか、煤一つ付いていなかった。
そして遅れて燃え上がる暖炉をくぐって、先ほど玄関から入ってきたインプの少女、ヴェルチが男の後ろに立つと、暖炉の炎が掻き消えた。
「よく来たな、ヴァルク」
「貴様が呼びつけたからな、エリカ」
ソファに腰掛けたままのエリカと赤髪の男、ヴァルク・ギュッテンはそう言葉を交わした。
「先ほどはヴェルチが失礼したな」
「ああ、用があるなら自分で来い、ってことよ」
「そうさせてもらった。それでは本題に入ろう。貴様の所有する『秘酒製法』の後半部を渡してもらおうか」
ヴァルクはソファに腰掛ける少女の持つ、真っ二つに裂かれた本の後半部を視界に収めながらも、強引に視線をエリカの顔に引き戻してそう言った。
「ああ、前半部はお前が持っていったからな。後ろ半分だけ私が持っていても仕方ない」
「ほう…?」
もう一言二言ぐらい拒絶されるかと予想していたヴァルクが、エリカの言葉に表情に微かな驚きを浮かべた。
「もう少し愚図るとばかり思っていたぞ」
「私も変わったんだよ。それにサービスでこいつの修復もしてやろう」
彼女は『秘酒製法』の後半を握ったまま、空いている手を差し出した。
「前半を寄越せ。明日の朝には完全に修復して返してやる」
「…前言撤回だ」
にやにやと笑みを浮かべるエリカに、ヴァルクはそう返した。
「まあ、冗談はこのぐらいにして本当のことを言おう。ヴァルク、お前はまだサバトのノルマを満了していのだろう?」
「……」
「安心しろ、それはこちらも同じだ。だから余計な駆け引き抜きで言わせてもらう。『秘酒製法』の後半を提供する代わりに、お前の計画に一枚噛ませろ」
肯定の沈黙を返す男に、彼女はそう提案した。
「……いいだろう。どうせ一人ではできない手順が存在するからな」
しばしの沈黙を挟んでから、ヴァルクはそう答えた。
「では、まず最初にお前が何を企んでるか、聞かせてもらおうか。ノルマの期限が十一時間後に迫っている男が縋る魔法薬だ。ただものではないのだろう?」
時計をちらりと確認しながら、自身にも迫りつつあるリミットへの恐怖を押さえ込んで、彼女は問いかけた。
「こちらに残っている手順で、何が作れるのだ?」
「『反実の稀滴』だ」
男は暖炉の前から数歩進むと、空いているソファにどっかりと腰を下ろした。
「『反実の稀滴』は、飲んだ直後に発した願いと逆の事物が発生する魔法薬だ。『晴れますように』と願えば雨が降り、『怪我しませんように』と願えば負傷する。そういう魔法薬だ」
「それで世界平和や自然の回復を願って、ノルマを達成させるつもりだったのか」
「そうだ」
男が頷く。
「幸い、材料はほとんど俺の手元にあったし、足りない分もすぐに手に入れられる。だから、今から作れば十分間に合う。まあ、本来ならば明日の方が都合がいいが、もう時間がない」
「では始めるとするか、お前は材料を取って来るといい。私は器具を揃えておこう。『反実の稀滴』のレシピ前半部は?」
「ここにはない」
エリカの問いにヴァルクは短く答えると、ソファから立ち上がった。
「材料と一緒に取って来よう。それまでにここを片づけて、カップぐらいの容量の器をいくつか用意しておいてくれ。ヴェルチはここに残って、エリカを手伝え」
「は、はい!」
急に話を振られ、ぼんやりとしていたインプが姿勢を正しながら声を上げた。
そして赤髪の男が暖炉に歩み寄ると、彼が現れた時と同じように暖炉から炎があふれ出した。
ヴァルクは何の躊躇いもなく、ごうごうと燃え上がる炎に入っていく。
彼の黒いスーツの背中が炎の中に消えた後、炎は燃え上がった時と同様に掻き消えた。
「…ふん、変わらん男だ…」
塵一つ落ちていない暖炉を睨みつけながら、エリカは憎々しげに漏らした。
「アイツが前半部を渡してくれるようなお人よしになっていたら、とっとと持ち逃げして私だけで『反実の稀滴』を作っていたというのに」
「技術なんかは信頼してるけど、信用はしてないみたいだねえ、ウチのご主人」
隠す気もないエリカの企みに、ヴェルチは気軽そうに応えた。
「それより、アタシも手伝うからとっとと片づけようよ。まだ間に合うって言っても、ご主人が戻ってきても片付いてなかったら、さすがに怒ると思うよ?」
ソファ脇に積まれた本を適当に拾い上げながら、ヴェルチは言った。
「そのぐらい分かっている。ヤツとの付き合いはお前より長いからな…それよりインプ、ここは私が片づけるから書籍に触れるな」
エリカの視線に、ヴェルチは軽く肩をすくめると、無言で手にしていた本を床に置いた。
「ユーキ、お前とそこのインプには器の準備を頼もう。案内してやれ」
「はい、分かりました。じゃあ…こっち」
「へいへい」
ヴェルチを先導しながら、ユーキは扉の一つに歩み寄り、二人して出て行った。
「さて…と」
エリカは『秘酒製法』を手に握ったまま立ち上がると、数歩前に進んで、暖炉を背にして立った。
居間をぐるりと見渡せば、壁際には本棚、床にはソファとテーブルと無数の本。
魔法薬の製造には狭すぎる。
彼女は手を軽く掲げると、指をパチンと鳴らした。
ソファが、テーブルが、本棚が身震いし、床に積まれた本がばさりと崩れてから、頁を開いてバタバタともがき始めた。
やがて家具の脚がメキメキと音を立てて伸び、本がページをばたつかせて宙に舞いあがった。
それはまるで、家具の形をした獣と本の形をした蝶のようだった。
「さあ、ちょっとあっちの部屋に行ってろ」
エリカが扉の一枚を指すと独りでにそれが開き、家具と本たちが隣の部屋に向かって歩き始めた。
ぎしぎしみしみしと、木材の脚を軋ませながら家具が進み、バタバタパタパタと、紙の羽を羽ばたかせて本の蝶が舞う。
二脚のソファを先頭に、本棚と本が後に続いて居間を出ていき、殿のテーブルが扉の向こうに出たところで扉が独りでにしまった。
入れ替わりに別の扉が開いて、今度は背の高いテーブルが数脚歩きながら入ってきた。黒を基調とした色合いの、装飾の施されていない作業机とも言うべきテーブルだ。
テーブルたちはのそのそと居間に入り、暖炉を中心とする弧を描くように整列すると、動きを止めた。ちょうど暖炉の前にテーブルで囲まれたそこそこのスペースがあるような状態である。
「こんなものか…」
エリカは軽く見まわしてテーブルの配置を確認すると、そう呟いた。
暖炉の前には数人が踊れるほどのスペースがあり、いざとなればテーブルを移してスペースを広げることも可能だ。
そして、手を掲げて指を鳴らすと、テーブルが入ってきた扉が閉まり、また別の扉が開いた。
「わっ!?」
「あ、マスターありがとうございます」
扉の向こうから少女の驚くような声と、ユーキの感謝の言葉が響いた。
遅れて、居間に先ほど出て行った二人が入ってきた。二人とも大きなかごを抱えており、籠にはビーカーやガラス瓶といった、容量の大きい器がいくつも入れてあった。
一見すると、インプの少女の籠の器の数が少ないように見えるが、気のせいだろう。
「持ってきました、マスター!」
「ああ、あそこのテーブルの上に適当に並べておけ」
「はい!」
二人はエリカの指したテーブルに向かい、籠を下ろして器を並べ始めた。
「こんなところかな…」
一通り準備の整った居間を見回すと、彼女は数度頷いた。時計に目を向ければ、現在1時30分。まだ余裕はある。
時刻の確認をする彼女の視界の端で、不意に赤が燃え上がった。
顔を暖炉の方に向ければ、ちょうど炎の中からヴァルクが姿を現すところだった。
「待たせたな」
「ああ、待ったぞ」
魔法役の材料が詰まっていると思われる鞄を掲げて見せる赤髪の男に、金髪の少女はそう応えた。
「時間が余りない。さっそく始めるぞ」
ヴァルクは背後で掻き消える炎に目もくれず、机の一つにつかつかと歩み寄ると鞄をどっかり下ろした。
続いて懐から一冊の本を取出し、開く。
「これが、『反実の稀滴』の材料と序盤の手順だ」
「ほう…」
側に寄って覗き込むエリカに、ヴァルクは少しだけ場所をあけながら続けた。
「ここに並べられた材料のうち、『サイクロプスの右目』と『正直者の二枚舌』以外は手元にあった」
「ほほう…『栄光の手』も持ってたのか」
「うむ。前に仕入れていた分があってな…それで、『サイクロプスの右目』と『正直者の二枚舌』だが」
「両方ある。ダース単位でね…ユーキ!」
振り返りながらの突然の主の呼びかけに、ユーキは手にしていたビーカーを思わず取り落としそうになった。
「は、はい!」
「ちょっと地下室へ行って、『サイクロプスの右目』と『正直者の二枚舌』を取って来てくれ。両方とも缶ごとだ」
「はい!」
「ヴェルチも付いて行ってやれ。たぶん一人ではあの缶は運べないだろうからな」
「はいはい」
「ユーキ!インプをしっかり見張っておくんだよ!コイツの使い魔だからね」
「は、はぁ…」
「ヴェルチ、隙を見て屋敷に火を放て」
「りょーかいマスター!」
前半の命令を聞き、後半の冗談めいた命令に適当に応えながら、使い魔の二人は歩き始めた。
「それではこの間に、手順の確認をしておこう。貴様の持っている部分を見せろ」
「へいへい…ほら」
魔女と魔術師が身を寄せ合い、言葉を交わす様子を背に、二人は今を出て行った。
「全く、『あれ持ってこい』『これ持ってこい』って人使いが荒いねえ、二人とも」
居間から出て、屋敷の廊下を進みながらヴェルチがユーキにぼやいた。
「まあ、仕方ないと思うよ。だって僕ら使い魔だし」
先ほどの器の運搬で多少打ち解けた彼が、肩を竦めつつ応える。
「それに、そっちがどうかは知らないけど、僕は毎日料理とか掃除とか、マスターの身の回りの仕事もしてるから、このぐらい何ともないけどね」
「うわあ、酷いわねえ、お前のご主人」
インプの少女は、自分がユーキでなくてよかった、とでも言うかのように体を震わせた。
「アタシなんて、掃除はご主人が魔法の訓練だとかで一人でやっちゃうし、料理も毎日ご主人がやってるしで、ここに来たときみたいな簡単なお使いぐらいしか仕事したことないわ」
「ふうん、ちょっとうらやましいな」
「そうイイもんじゃないわよ、元野良インプにとってはね」
「ふうん…?」
二人は互いに自身の待遇や仕事について言葉を交わしながら廊下を進み、やがて階段を降りて行った。
そして階段の下にあった木製の扉を、ユーキが力を込めて開いた。
「はい、ここが地下倉庫」
「へえ…思ってたより広いな…」
天井に届くほどの棚がいくつも並べられた、下手すれば先ほどまでいた居間ほどはありそうな広さの倉庫に、ヴェルチは感心の声を上げた。
「念のため言っておくけど、火はつけないでね」
「当り前よ。そっちこそアタシを見張るのに気を取られて、コケたりしないでよ」
互いの主の発した冗談めいた命令を基に言葉を交わしながら、ユーキの先導で二人は倉庫の奥へと入っていった。
「えーと、『正直者の二枚舌』は、と…あった!」
きょろきょろと棚を見回しながら進んでいたユーキが、声を上げて足を止めた。
そして棚の一つに歩み寄り、並べられた一抱えほどの銀色の缶を手に取った。
「うん、これだ。はい、持ってて」
「お、ああ、うん」
彼はラベルを確認して頷くと、ごく自然な動作でヴェルチに観を差し出し、受け取らせた。
「って、なんでアタシに持たせんのよ!?」
「いや、『正直者の二枚舌』は乾物だから、大分軽いんだよ」
ヴェルチの放った当然の疑問に、ユーキはそれが当たり前だとでも言うかのように答えた。
「本当なら両方持つべきなんだろうけど、僕一人じゃ無理だから軽い方を女の子に、ってわけ」
「……その台詞、誰から習ったの?」
「マスター」
ユーキの言葉に一瞬我を忘れそうになったヴェルチが、はあ、とため息をついた。
「全く、あの魔女は何教えてんだか…」
彼女はやれやれと頭を振ると顔を上げる。
「とりあえず、とっとと『サイクロプスの右目』も持って戻るよ」
「ああ、こっち…」
少年の先導に従い、二人は棚の間を進んでいった。
程なくして少年が足を止める。
「ここだね」
ヴェルチが棚の上方を仰ぎ見ると、『サイクロプスの右目』と記された缶が上の方の段に置いてあるのが見えた。
少年は側に合った踏台の位置を整えると、それに乗って缶に手を伸ばした。
「よい、しょっと…」
指を缶にかけ、短く声をかけながら力を込める。するとユーキの指に応じて、缶が動いた。
だがかなり重いらしく、少しずつしか動かない。
そして缶の底が半分ほど棚の縁から出たところで、彼は持ち方を変えた。缶の底に手を当て、もう一方の手で抱えるようにしながら、缶を浮かせたのだ。
だが、そのままゆっくりと下ろして抱えるつもりだったのだろうが、彼の上半身が重さに耐えかねたのか少しだけ仰け反った。
「うわ…!」
重心が後ろにずれ、上半身に引きずられて体が傾き、少年を浮遊感が襲う。
だが、本格的に倒れ込む直前に、掌が彼の背中を支えた。
「っとぉ、危ないなあ」
「あ、ありがと…」
とっさに少年の背を押して支えたヴェルチに、ユーキはそう礼を述べた。
「全く、女の子がどうのこうの言っておいて、助けられるとか情けないわねえ」
「うぅ、もう少し楽に行くと思ってたんだよ…」
「アタシがいなかったり、とっさに手を出さなかったらどうなってたことやら…」
手のかかる弟にでも言うかのような口調で、彼女はそう言った。
「ま、とにかく材料そろったんだし、戻るわよ」
「うん」
いつの間にかリードを取ったヴェルチを先頭に、二人は缶を抱えて棚の間を進み、倉庫を後にした。
居間に戻った二人を迎えたのは、半円を描くよう並べられた机の上の材料の山だった。
暖炉を背に立てば左手から、得体の知れない骨の山、色とりどりの液体が入った大小さまざまな瓶、瓶に入れられたりそのまま置かれている石や岩、みずみずしい緑を保っている物から完全に乾燥した様々な薬草、そして先ほど二人が運び込んだ容器と用途不明の金属やガラス製の器具の数々が、それぞれテーブルの上に載っていた。
一方エリカとヴァルクは、テーブルに囲まれた暖炉前のスペースに布を広げ、何語かもわからない文字を並べて模様を描いていた。
「マスター、戻りました」
「ああ、待っていた。両方とも薬品のテーブルに置いておけ」
手を止めて顔を上げた魔女が、二人に向けて命じた。
「はい」
ユーキが主の言葉に応え、二人はなるべく急いで移動し、抱えていた缶をテーブルの空いた場所に置いた。
「はぁ、ちかれた…」
「じゃあ、こっち来て…」
一仕事終えて、腕を支配していた缶から解放され思わずつぶやいたヴェルチに、ユーキは小声で言った。
「へ?何で?」
「マスターたちの邪魔にならないようにするんだよ」
彼女の当然の疑問に答えると、少年はテーブルとテーブルの間を通り抜け、暖炉を中心とする半円の外に出た。
「ここなら、たぶん邪魔にならないはず…」
「はぁ、ゴシュジンサマ思いの使い魔だねえ…」
壁際に立ったユーキの側に寄り、壁にもたれかかりながらヴェルチはため息をついた。
彼女なら、主から命じられるまでテーブルの上の品々を見て回っていただろう。
「よし…描けた」
「こちらもだ」
程なくして、布に向かってしゃがんでいた二人が、ほぼ同時に筆を布から放した。
二人が立ち上がって布の上から退くと、文字列によって構成された模様が露になった。
三重に描かれた輪と、一番外の輪から放射状に延びる五本の線。五本の線はそれぞれ途中で枝分かれして布の上を縦横無尽に走り、他の線と交差し、統合し、分割し、断絶し、再び枝分かれしながら、直線と曲線と円と方形とが混然一体となった、角の数を数えるのも面倒な正多角形の紋様を描いていた。
そして、その線の一本一本が、文字列によって成っていた。
「それでは始めるとしようか」
「ああ…ユーキ、気が散るといけないから、お前はインプ連れて別の部屋に行ってろ」
「あ、はい。かしこまりました、マスター」
主の言葉にユーキが一礼し、ヴェルチがヴァルクの顔に目を向けた。赤髪の魔術師は、使い魔の視線に無言で頷いて見せた。
「行こうよ、ヴェルチ」
「…ああ、うん…」
使い魔二人は言葉を交わすと、少年だけが一礼してから居間を出て行った。
そして、金髪の少女と赤髪の男が、暖炉の前で描き上げた魔法陣を挟んで対峙した。
「これで全部だな?」
「ああ、器具も材料も揃った」
エリカの問いに、ヴァルクはレシピ前半部の材料の項目を確認して応えた。
「それでは…」
魔女の言葉を遮るように、時計がボーンボーンと二つ鐘を打った。
「始めるとしよう」
ヴァルクの言葉にエリカが頷き、同時に手を掲げる。
『〜…〜…〜…』
二人の唇が滑らかに開閉し、吐息とともに言葉にも似た音が紡がれる。
次第に広げられた布の上の文字に光が宿り、文字列に沿って紋様が浮かび上がる。
「…〜…〜…」
エリカが手をかざすと、テーブルの上に載っていた瓶の一つがふわりと宙を舞い、彼女の手の中に納まった。彼女は器用に片手で瓶の蓋を開くと、瓶を傾けた。
中に納まっていた無色透明の液体は、そのまま彼女の死基に滴るわけでもなく、すぅっと空中に線を描いて布の上へ漂っていった。そして布の円環模様の上でぐるぐるととぐろを描くように球状に収束し、水晶を思わせる球体を形作った。
続けてヴァルクがテーブルから何かの骨を取り、球体に向けて放った。
骨は空中で回転しながら液球に迫るが、その表面に届く寸前に留まった。空中に湧き起こった炎が、その行く手を遮ったからだ。
炎は骨を包んだまま手の形になると、球体の上方へ移動し、ぐっと握り込むように力を込めた。
炎の拳の中からぱらぱらと破片が零れ落ち、球体に飲まれて溶け込んでいく。
「…〜…〜」
エリカの詠唱とともに球体の表面が揺らぎ、攪拌が進んでいく。そして空になった瓶が彼女の手元からテーブルへ戻り、また新たな瓶が宙を舞う。
宙を舞う瓶から液体が球体に加わり、炎の手が石や骨を磨り潰して注ぐ。
いつしか握り拳大だった液球は一抱えほどになり、無色透明だった液色は名状しがたい不透明な濁りを帯びていた。
攪拌のために液球表面が波打つたび、内部の濁りがぐるり、ぐるりと流転し、模様を描く。
するとヴァルクは、球体の上方に出現させていた炎の手を消し、代わりに液球と布の間に、液球を炙るように炎を形作った。一方エリカも、最後の瓶を空にすると、テーブルに戻した。
二人が揃えた製法によれば、加熱と撹拌を続けることにより、濁りは白一色へと変化し、そのまま薄まって無色透明になるらしい。
しかしその間空気以外の物質、鍋や容器等の異物と接触していると、微量の金属が液中に溶け込むことで成分が狂ってしまう。だからこうして重力炉を用いて、空気以外との接触を避けながら処理する必要があったのだ。
「………」
「………」
詠唱の声が止み、液球を攪拌する魔術と、過熱する魔術だけが二人の間を行きかっていた。
「…そう言えば…」
ふと、エリカが口を開く。
「何だ?集中を乱さない程度なら付き合うが」
「お前の皆無に等しい集中力を乱すのは、それはそれで難しそうだがな」
くっくっ、っと小さく笑ってから、彼女は言葉を続けた。
「まあその、何だ…さっき屋敷に来た時、迷いなくここの暖炉を使ったな」
「…ああ…」
掌を軽く波打たせ、炎の勢いを整えながら、ヴァルクは応じた。
「使い慣れていたからな…ここに来ようと思ったら、ごく自然に、な…」
「私が屋敷の間取りを変えている、とか考えなかったのか?」
「その時は貴様の屋敷が少々燃えるだけだろう」
「だろう、で済ますな。と言うより、そこまで頭が回っていなかったのだろう」
やれやれ、とばかりにエリカは頭を振った。
そして会話が途切れ、再び沈黙と魔術だけが居間に満ちる。
炎が揺らぎ液球が波打つと、濁りが蠢き色合いが微妙に変化していく。
名状しがたい複数の色が混ざり合っていた濁りは、いつの間にか心なし白味を帯びているように思われた。
現在の二人には、黙々と撹拌を続けるほか出来ることはなかった。
カチリ。
静まり返った居間に、時計の針が2時半を指す音が響いた。
一方、壁一枚隔てた隣室では、魔女と魔術師の使い魔二人が、手持ち無沙汰に過ごしていた。
少年の方は壁際に置かれた椅子に座り、ちらちらと時計と自分の膝の間で視線を彷徨わせていた。
インプの少女は、少年が引っ張り出してきた椅子に座ったかと思えば、立ち上がって絨毯の模様にそって部屋を歩き回り、時計を眺めてから椅子に腰を下ろす、と言う動作を繰り返していた。
「二時半か…」
少年が、ふと時刻を読み上げた。
すると、もう何十周目か分からぬほど絨毯の模様をたどり返したヴェルチが、くるりと少年に向き直った。
「アンタ、なんてこと言うのよ…!」
「へ…?」
彼女の言葉の真意を掴みかねるユーキの下へ、ヴェルチはつかつかと歩み寄った。
「せっかくアタシが時間のこと忘れかけてたってのに…」
彼女はわしゃわしゃと青い髪を掻いてから、ぐいと顔をユーキに近付けた。
「あとアタシらが何時間ここに詰め込まれてなきゃいけないと思ってるの?」
「え?えーと…その…」
インプの言うことを居間位置把握できていない少年は、すぐそばまで迫った顔と、ふわんと漂った甘い香りに困った顔をすることしかできなかった。
「あと十時間よ!後十時間近く、この中途半端な状態で苦しまなきゃいけないのよ!」
ユーキの顔を覗き込んだまま腕を伸ばし、びしりと時計を指しつつ彼女は続けた。
「アタシがこのまま使い魔インプとして一生を過ごすか、晴れて自由の身になれるか、後十時間も待たなきゃ結果が出ないなんてあああああ…!」
セリフの半ばで床に崩れ落ち、絨毯の上で彼女は身悶えを始めた。
「んもーう、どっち?どっちなのよ!?自由?使い魔?どっち!?」
「え?ちょっと、ヴェルチ…その、話がよくわからないんだけど…」
身悶えする足の動きに引きずられ、その場でぐるぐると回転を始めたヴェルチに、ユーキは椅子から立ち上がりかけた中腰の姿勢で問いかけた。
「使い魔を続けるか自由の身になるか、ってどういうこと?」
「あれ?あんた知らないの?今日がどういう日かって」
「一応、マスターの入ってるサバトのノルマが今日まで、って言うのは知ってるけど…」
「ははーん、はん、はん…」
改めて明らかになったユーキの無知に、ヴェルチは絨毯の上に身を起こしながら、彼の頭の先から足元までを返す返す見返した。
「オーケイ、ユーキ君。今からこのヴェルチお姉さんが、何も知らない君にいろいろ教えてあげようじゃないの」
「え、いや別に…」
「『教えてください、ヴェルチさん』」
「おひえてふらふぁい、うぇるひはん」
頬を抓りあげられながらも、彼はどうにかヴェルチの言葉を復唱した。
「よしよし、では教えてあげようじゃない」
指先からユーキの頬を解放すると、改めて彼女は用意された自分の椅子に腰を下ろした。
「まず、今日と言う日がどれだけ重要か、分かる?」
「一応、マスターが慌ててノルマをこなそうとするぐらい、重要だってのは…」
「その通り、『社会に不安をもたらす』って言うノルマをこなさないと、ご主人たちは魔女と魔術師の権限やら何やらを剥奪されるのよ。だから…」
ばっ、と手を広げながら彼女は続けた。
「ご主人がノルマ達成出来なかったら、私の使い魔契約が切れて晴れて自由の身!!」
「ふぅん…」
「アレ?意外と驚かないのね…」
リアクションの薄いユーキに、彼女は広げていた手を何気ない様子で下した。
そして勢いに任せてしまった内心の気恥ずかしさを打ち消すべく、彼女は言葉を継いだ。
「自由になれるのよ、アンタ」
「自由って言っても…気が付いた時からマスターの使い魔だったし…」
「え?それって…」
ヴェルチの心中に、彼の境遇についての推測が浮かんだ。
「まあ、僕としてはそんなにマスターの下離れたいとは思ってないからね」
「ふーん……」
それが幸せなのかどうかヴェルチには分かりかねたが、少なくとも毎日「使い魔辞めたい」と思っている彼女からしてみれば、不満の無い環境だろうと思えた。
だが、彼女には耐えられそうになかった。
「ま、とにかくあと九時間…二十分で何もかもに決着がつくのね」
ユーキの生い立ちなどを頭から追いやると、彼女は時計を見上げて呟いた。後これだけの時間が経てば、どちらに転ぼうと彼と会うことは無いのだ。
ユーキのことなど気持ちよく忘れてしまうのが、彼女に出来る唯一のことであった。
「でも…マスター達大丈夫かなあ…」
「何がよ?」
同様に時計を見上げる少年に、ヴェルチは顔を向ける。
「いや、マスター達の作ってる薬って、願い事と反対のことが起こるんでしょ?」
「ああ、うん。そうだけど…」
一時間ほど前、主人たちが交わした『反実の稀滴』に関する言葉から、その効能を彼女は思い出した。
「でも、願い事と反対のことが起こるって、どういう風に反対になるんだろう」
「………あ」
ユーキに指摘されて、ヴェルチは初めて『反実の稀滴』の不確実さに気が付いた。
確かに彼女の主が言った通り、『晴れ』を願えば雨が降り、『無傷』を祈れば負傷するようだ。
だが、ノルマをこなすため『国家間の平穏が保たれますように』と願った場合はどうなるのだろうか。
意図通り、国家間が緊張状態になればいいのだが、突然戦争状態に陥れば『世間を不安にしてサバトへの加入者を増やす』という大目標を達成するどころではなくってしまう。
「それに、ノルマをこなしてから、マスター達の願いを叶えようとしたら…」
反対の程度にもよるが、下手をすれば意図した願い以上の何かが起こるかもしれない。
「そいつぁ…ちょっと困るわね…」
地震に類が及ぶ可能性が浮かび上がり、ヴェルチは低く呻いた。
「今からアンタのご主人に聞きに行くとかできないの?」
「無理だよ。部屋から出て行くよう命令されてるし」
使い魔にとって、主の命令は可能な限り順守するものである。契約や魔術によって、意識の奥深くに刻み込まれた主の命令の順守は、二人が居間に入ろうとすることを許さなかった。
「じゃあどうすんのよ…」
主の性格を考えれば、二人とも日付が変わるか何もかもに決着がつくまで、使い魔を居間に入れないだろう。
だから、魔女と魔術師に『反実の稀滴』の効能の範囲についての進言や質問は不可能なわけだ。
「どうしよう…」
「どうしようかしら…」
二人は腕を組んで呻いた。
「…あ…」
しばしの沈黙を挟んでから、ヴェルチがふと声を上げた。
「この近所に、他に高位の魔術師か魔女はいないかしら?」
「ええと…探せばいるとは思うけど…何で…?」
「高位の魔術師に、『反実の稀滴』の効果を聞くのよ」
自分の思いつきに微妙に興奮した様子で、ユーキとの距離を詰めながら彼女は続けた。
「それで、下手なことが願えないぐらい不安定なようなら、直接二人を止めてもらうのよ」
「でも…ノルマ達成できてないのに止めちゃったら…」
「二人が『私たちが長生きしませんように』とか願って、『私たち以外が長生きしませんように』って解釈されたらどうすんのよ」
不安げなユーキに、ヴェルチはそう詰め寄った。
「不安なままじっとして二人の願いに引きずられるぐらいなら、アタシらだけで他の魔術師のところへ確かめに行って、いらない心配だったって馬鹿笑いした方がましよ!」
「う、うん…」
彼女の剣幕に押され気味ながらも、ユーキはインプの少女の言う事の重大性を理解していた。
「じゃあ、近所に住んでるサバトのメンバーを調べてみる…ついてきて…」
彼は椅子から立ち上がると、ヴェルチを連れて部屋を出た。
そして廊下を進み、手紙などを保管している物置代わりの一室に入る。二人を迎えたのは、手紙の入った箱の並んだ書棚と、住所録と思しきノートの載った古い机だった。
「ええと…ちょっと待ってね…」
ユーキは机の上の住所録を手に取り、軽く埃を払ってからそれを開いた。
ズラリと並ぶ名前と住所が、二人の目の前に広げられた。
「ええと、この近所だから…」
ページをめくり、屋敷の近所に住む魔女や魔術師を一つずつチェックして行く。
「『メイ・メイ・フー』は、部下…『ジャン・ストロボ』も部下…『エレェヌ・シフォン』は…中級魔女だけど、現在旅行中…『アロルド・ベクセリオン』は、この間引っ越して行ったし…『三ば…』読めないや」
名前一つ一つから、それぞれの消息や詳細を思い返しながら、彼は住所録をめくっていく。
「『アストリアル・カラノイニ』…サバト上級魔女…!この人なら!」
「(クソアマ死ね)って…どういう意味よ…」
住所と名前の脇に添えられた小さな一言に、ヴェルチが小さく呻いた。
「うん、上級魔女だし、家も近いし、この人なら何とかなりそうだ」
少年は住所を繰り返し確認すると、住所録を閉じた。
「ここからどのくらい?」
「片道二十分もかからないぐらい」
二人は物置を出ると、ユーキの先導で屋敷の裏口にから外へ出て行った。
幸い『屋敷の外に出るな』と命令されていなかったため、二人を止める者はいなかった。
そして姿勢を低くしながら、枯草がぽつぽつと生えた庭を通り抜け、門に駆け寄った。
「ほら、早く」
「今開けるから…」
おおきな門の脇に設けられた通用門を押し開き、ヴェルチがその隙間から外に出た。
遅れてユーキが後に続く。
そして、彼が門を閉ざす直前、屋敷の窓の一つからゆらゆらと揺れる炎の明かりが見えた。
窓越しに見える炎の揺れる明かりに、二つの影が揺れている。二人の主人、エリカとヴァルクの二人のものだ。
使い魔二人が通用門を潜り抜けたことに気づかず、二人は黙々と作業を続けていた。
複数の色が混ざり合った名状しがたい濁りを帯びていた液球は、レシピの製法通り白色に変じてから薄まり、無色透明になった。
二人は続いての手順をたどるべく、用意した材料を一つ、また一つと投入していた。
干からびたやたら指の細い動物の手が、エリカの手の動きに宙に浮かんで移動し、液球に指先だけが浸る。
一方ヴァルクはテーブルの上の缶を取り、蓋を開いた。そして虚空に現出した炎の手に缶を渡した。炎の手は缶をつぶさぬ程度に握り締めながら、液球のそばまで移動し、缶を傾けてその中身を液球に注ぐ。黄色く色づいた液体と共に、ゴロゴロと白い親指と人差し指で作った輪ほどの大きさの玉が液球に転がりこんでいった。
球体は液球の内部の流れに沿って、くるくると回転しながら動き回り、やがて溶け崩れていった。
「なあ…」
撹拌を続けるエリカが、ふと口を開いた。
「何だ」
「『反実の稀滴』が出来て、ノルマをこなしてもまだ残っていたら、何を願う?」
「…ノルマ分で使い切るだろう」
「残っていたら、の話だ」
「…」
中身が空になった缶を液球の上から退け、別な缶を炎の手に握らせながら、ヴァルクは黙考した。
缶の蓋を開き、乾ききった細長い肉を数本炎の手に取り、加熱させながら液球の上で握りつぶさせる。
「…とりあえず、俺自信と使い魔の健康…いや、『主人も使い魔も早死にしますように』とでも祈るか」
「ふん、『また私と会えますように』とでも祈るかと思っていたが」
「貴様と二度と会えなくなったら、また今日のように利用してやれなくなるだろう」
「成程、くはは、お前らしいな」
エリカの苦笑と共に、液球にぱらぱらと砕かれた肉の欠片が落ちていく。
肉の欠片は、液球に落ちるなりぱっ、と崩れるように溶けて行った。
「そう言うお前はどうなんだ」
必要な分の乾燥した肉を砕き溶かし終えると、ヴァルクは炎の手を引き戻しながら問いかけた。
「私か?私は…そうだなあ…」
液球に浸っていた指を取り去り、重力炉を操って撹拌作業を続けながら、彼女は答えた。
「やはり、あの子と私の長寿と健康だろうな」
「俺と似たようなものではないか」
「お前の願いとは違う」
ヴァルクの指摘を、彼女は即座に打ち消した。
「ここから出て行ったお前の長寿と健康と、この屋敷で二人で暮らしていくと決めた私の長寿と健康は全く別物だ」
「別物?ここから逃げ出した俺と、ここにしがみつき続けるお前が別物だと?」
「ほう、逃げ出した、と言う部分は認めるわけだな」
加熱と撹拌の魔術を維持しながら、二人は微かに棘の含まれた言葉を交わした。
「ああ、俺は確かにお前から逃げた。だが、それはそもそも……いや、今のはなかったことにしてくれ。これでやめにしよう」
「なに?」
不意に語調を落としたヴァルクに、エリカは怪訝な表情を浮かべた。
「今俺たちが集中するべきことは、過去の掘り返しと蒸し返しではない。『反実の稀滴』の製造だ。口論で集中を乱す暇はないからな」
「…ふん、分が悪くなったから逃げおって…」
エリカのぼやくような言葉に、ヴァルクは沈黙と炎の魔術の操作のみを返した。
壁に掛けられた時計が、鐘を三つ鳴らした。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

魔女と魔術師が沈黙の中作業をしているころ、二人の使い魔もまた沈黙の内にいた。
二人が立っているのは、屋敷から少し離れたところにある橋の下だった。
上級魔女、アストリアル・カラノイニの屋敷があるという、南宝橋の下だ。
「ええと…ここ、よね…?」
「うん…」
茫然と視線を空に泳がせながら、二人は言葉を交わしていた。
無理もない。二人の目の前、橋の下にあるカラノイニ邸と思しき円柱形の建物は、高さ数百階はあろうかという大きさだった。
「ちょっと待って!」
ヴェルチが身を翻し、橋の下から飛び出し橋全体を見通した。
橋は普通の大きさで、橋梁が不自然に高いということもなかった。視線を橋の下におろせば、不安げに彼女に目を向けるユーキの姿と、カラノイニ邸の一、二階部分が見えている。
だが、彼女が足を進めて橋の下に入れば、カラノイニ邸は階の上に階を連ね、延々と積み重なった塔のごとき全貌を彼女の前に晒した。
「ええと…ナニコレ、どういうこと?」
「多分、何かの魔術で橋の下の空間をいじってるんじゃないかなあ…」
肩車して手を伸ばせば橋梁の裏に指先が触れそうなほどの空間に収まるカラノイニ邸を見上げながら、二人は言葉を交わした。
地上から遥か彼方の屋根と思しき部分の向こうに、橋の裏側が見えるせいで遠近感が狂う。
「…っ!こんなことしてる場合じゃない!」
はた、と気がついたようにヴェルチが声を上げ、ユーキもまた正気に返った。
「ほら、ユーキ!入るよ!」
彼女は玄関に駆け寄ると、両開きの扉を握りこぶしで打った。
「すみませーん!カラノイニさん、いますか―!?」
どんどん、という音が辺りに響き、遅れて扉がきぃ、とひとりでに開いた。
「お邪魔しま…」
扉の隙間から、中を覗き込んだヴェルチが言葉を失う。
「?」
疑問符を浮かべたユーキが、ヴェルチの傍らから中を覗いた。
二人の目の前にあったのは、吹き抜けになった円柱形の建物の内側と、内壁にへばり付くように設置された螺旋階段だった。
視線を上げて行けば、螺旋階段は延々と続き、最上階と思しき所へ集束していた。
「登れってことね……おじゃましまーす」
「え!?入るの!?」
驚きの声を上げるユーキを背に、彼女は扉を押し開いてカラノイニ邸に入って行った。
「当たり前よ。ここの人が数少ない可能性なんだから」
「でもこの高さは…」
「今何時かは分からないけど、まだ昼間だから時間はあるわよ!ほら、行くわよ」
無理やり自身を鼓舞させながら階段に足を掛けるヴェルチに、ユーキはため息とともに頭を振り、遅れて建物に入って行った。
かつ、かつ、かつ、と二人分のいくらか急ぎ気味の足音が、建物の吹き抜けに反響していった。
やがて、足音が僅かな反響のみ響く程度になるまで二人が昇って行ったところで、僅かに開いていた両開きの扉が、微かな音を立てて閉ざされた。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

使い魔二人が塔の如き家屋の中に消えた頃、魔女と魔術師の二人は沈黙のうちに作業を続けていた。
材料を液球の中に溶け込ませる作業は終わり、液球は黄金色と白色の濁りを帯びていた。
「……」
ヴァルクが沈黙のうちに指を鳴らし、床に敷いた布と液球の間の炎を消した。
代わりに、テーブルの上に並ぶ器具から金属の棒を二つ手に取り、いずれも空中に現出させた炎の手に渡す。だが、発生させた炎の手は、この屋敷の中で最も多い四本だった。
金属棒は炎の手の中で赤い輝きを帯び、炎の指に挟まれるとぐにゃりと形を変えた。
炎の腕は、日本の金属棒をそれぞれ飴細工でも作るように、加工していく。
一つは細く伸ばし、湾曲させて始端と終端を繋ぎあわせ、大きな円形に加工した。
もう一本を掴んでいた炎の手は、両端を抓んで伸ばしては二つに折り、もう一度両端を抓んで伸ばしてを繰り返していた。加熱された金属棒が、細く長く、束ねられた紐のように加工されていく。
やがて、炎の手は糸のように細くなった金属棒の束を、遠景になった金属棒にひっかけ、広げた。束ねられていた紐状金属棒は、円形の枠にそって広がり、ちょうど放射状の網めいた形になった。
ヴァルクは炎の手のうち一組を掻き消すと、金属網をそっと液球の上に差し出した。
「……頼む」
「……うむ」
僅かな目配せと短い単語での会話により、エリカはヴァルクの糸を察して、重力炉に魔力を注いで操作した。
布の表面に描かれた紋様が一際強い光を帯び、液球が少しだけ高く浮かび上がった。
同時に、炎の手が握る金属網が下降し、液球を通り抜ける。
赤く輝く金属網が液球を通り抜けると、金色と白色の濁りのうち、半分以上が濾されていた。
「…よし」
ヴァルクは液球を濾し終えると、炎の手で金属網を丸め上げ、握りつぶして一塊にしてからテーブルの上に置いた。
これで、『反実の稀滴』の完成まで、あと一工程を残すのみだ。
エリカが指をくい、と曲げて、テーブルの上に並ぶ器具のいくつかを導いた。
金属の棒数本と、片方が大きく広がりもう一方がきゅっと窄まった、途中で折れ曲がった巨大な漏斗のようなもの。そしてガラスのボウルだった。
エリカの指の動きに導かれ、重力炉の中央に浮かぶ液球を囲むように金属の棒が足場を組み、折れ曲がった漏斗が液球に覆い被さった。ガラスのボウルは、窄まった漏斗の先端部にゆっくりと着陸する。
「始める」
「うむ」
液球を中心とする器具がすべて設置されたのを確認すると、ヴァルクが指を鳴らした。
漏斗を支える金属の脚の中央、液球と重力炉の術式が描かれた布の間に、再び炎が溢れた。ただ、炎の大きさはこれまで液球を炙っていた物より大きい物だった。
加熱の再開とともに、漏斗に隠された液球の表面が、こぽこぽと小さく音を立て始める。
「……」
「……」
二人が注視する前で、漏斗の窄まりから金色の滴が一つ、ガラスのボウルに滴り落ちた。
蒸留が始まったのだ。
あとは待つだけだが、二人は緊張を解くことなく、じっと身構えていた。
何故ならこの作業こそが、『反実の稀滴』の行程で最も困難で時間のかかる作業だからだ。
ただ待つだけならば、何の問題もなかった。だが、待っている間に絶対にしてはならないことが定めてあるのだ。それは、疑問を抱くことである。
人の思念を読み取り、現実に影響を及ぼす魔法薬にとって、制作途中での思念の混入は実に危険だ。特に『反実の稀滴』の場合、蒸留中の薬液は疑念に過敏に反応するのだ。
『本当に上手くいくのだろうか?』だとか『手順を間違えていないよな?』といった疑問はもちろん、『今何時だろうか?』といった程度の些細な疑問すら抱いてはならないのである。
うっかり疑問を心中に浮かべてしまえば、爆発的な反応が生じ、薬液はもちろんこの辺り一帯がダメになってしまう。
「…」
「…」
沈黙を保つ二人の前で、ぽたりと滴が滴り落ち、壁の時計が鐘を四つ打った。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

主たちが緊張に彩られた沈黙の内にいる一方で、少年と少女は騒々しく橋の下の摩天楼を登っていた。
「ひぃ…はぁ…ひぃ…」
「あーんもー!あとここ何階なのよー!」
「知らないよ…」
青息吐息で、一段ずつ階段を上っていく二人が、疲労と登れど登れど終わらない階段に、イラつきながら言葉を交わした。
円筒状の内壁に設置された螺旋階段には、踊り場や明確な階層が存在しないため、自分の位置がよくわからないのだ。
ユーキも入り口から見上げた時点で、階層や踊り場の欠損には気がついていたため、団を数えながら階段を上って来ていたのだが、さすがにもう何段か分からなくなっていた。
五百段?七百段?あるいは一千段?
(もし一千段なら、一段の段差が二十センチだとして…ここまで二百メートル…)
繰り返される昇段によって痛む膝を擦り宥めつつ、彼は簡単に暗算した。
橋の下の、地面から橋梁の裏までのわずか数メートルの空間に、最低でも二百メートルの高さが押し込まれているのだ。
だが、ここに入る直前に、彼が見上げたこの建物の外観からすると、恐らく三百階程度の高さがある様だった。
一階層三メートルだとしても、九百メートル。まだ、全体の高さの四半にも及んでいない。
「いけないいけない…」
ユーキは頭を振って、頭の中からネガティブな考えを追い出した。
今まで登ってきた階段の三倍の団がこの先に控えているなんて、考えたくもなかった。
「ねえ、アンタ…」
「何?」
荒く息をつきながらのヴェルチの問いに、少年はなるべく不機嫌さを表に出さぬよう気を使いながら応えた。
「今何階ぐらいのところか…」
「それは駄目。考えない方がいい」
「え?」
無理やり頭から追い出した考えについて問われ、ユーキは思わず強い口調で返していた。
「さっきから階段登りながら考えてみたけど、ちょっとウンザリする答えが出たんだ…」
「だから、考えない方がいいって?」
「うん」
「……分かった」
ヴェルチは案外素直に、彼の言葉を受け入れた。
「じゃあ、話を変えて、気分のまぎれる話をしようじゃない」
「気分のまぎれる話って?」
「何でもいいわよ。聞いた馬鹿話とか、知ってる怖い話とか、この場で思いついた嘘話とか…」
「うーん…」
足を引きずり引きずり、団を一段ずつ登りながら、少年は小さく呻いた。
「前に、マスターから聞いた話が一つ…」
「どんなの?」
興味を示す彼女に、ユーキはしばし記憶を探ってから続けた。
「『ブレイクダンス中に心臓発作を起こして死んだけど、ステージ上でしばらく回転していたから、誰もしばらく気がつかなかったそうです』」
「ぶふっ…」
脳裏にステージ上で緩やかに回転する死体を思い浮かべたのだろうか、彼女が短く息を噴き出した。
「たははは、くっだんない話!」
改めて笑う彼女の語調からは、いくらか疲労といらつきの棘が消えているようだった。
「じゃあ、今度はアタシ。ご主人から聞いた話ね」
変わらぬペースで段を上りつつ、彼女は続ける。
「ある人がお客さんに、自分の飼っている九官鳥が歌うところを見せたくて、何度も九官鳥の前で歌の出だしを歌ったんだって。でも九官鳥は知らぬ存ぜぬで目をパチクリ。あんまり歌わないんで、その人は前に歌った時の録音のテープを聞かせることにしたの。
でも今度は、どこに録音したのかなかなか歌が出てこない。んでお客さんがだんだんいやになってきたころ、やっと歌が聞こえてきたの。それでお客さんが、『上手いもんですねえ』と褒めたら、『いや、これ私です』って」
「んっふ…」
呼吸の調子と上手い具合に組み合わさって、少年の口から珍妙な音が漏れ出た。
「ばかばかしい話でしょ?これをウチのご主人が教えてくれたとか、信じられる?」
「あのヴァルクさんがとか、あんまり…」
ごく短い時間とはいえ、ユーキの意識に染みついた印象から、あの魔術師がそんな話をすると察するのは難しかった。
「ウチのご主人、ああ見えて結構バカ話とか教えてくれるからね。こう言う時の話題には事欠かないわよ」
彼女の言葉に、ユーキは膝の痛みが少しだけ和らいだような気がした。
「あーでも、一個ずつ交代っていうことで」
「じゃあ、僕の番だね…えーと…」
延々と続く段を上りながら、二人はそんな言葉を交わしていた。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

枯草が点々と生える庭の中央、蹲る黒い屋敷の中では、沈黙と緊張が辺りを支配していた。
暖炉の前に大きな蒸留器が設置され、魔女と魔術師がそれに背を向けるようにして床に座り込んでいた。
液球に覆いかぶさる漏斗の先端に設置されたガラスのボウルには、すでに十分の一程度の金色の液体が溜まっている。
しかし、二人とも金色の液体はおろか、蒸留器さえも目に入れていなかった。
下手に視界に蒸留器を納めれば、『反実の稀滴』の完成に対し疑問を抱く可能性があるからだ。
そのため二人は、製造に関係するモノから視線をそらし、疑問以外のことで心を満たしていた。
エリカは、ただひたすら計算をしていた。
「紀元0年に十万円借りて、年18%の複利で…」
大昔に貸し付けた金が、二千年でどれほどに膨らむか。毎月いくらずつ返せば、後何年で返せるか。何年以内に返済を終了させるには、毎月いくらずつ返せばよいか。
そんなことを延々考えていた。
ヴァルクは、ただひたすら話を思い出していた。
「『アメリカにバナナ、イギリスに紳士。アメリカとイギリスが合体して、紳士がバナナを踏んで転んだ』…」
くだらない話、馬鹿げた話、愚か者の話。古今東西の様々な話を、彼はただただ思い出していた。
「118%が4年で193%だから、ほぼ二の五百乗倍で、2、4,8,16、32…」
「酒飲みの父、帰り来りて曰く『倅、酒ばかり飲みていまだ帰らず。年長の者酒飲みて帰らざるは許されども、若きは許されず。今度は倅に家を出よと言うべし』…」
「64…128…256…512…1024…2048…」
「酒飲みの息子、帰りて曰く。『父、酒を飲みて玄関で寝れり。若き者が左様にあるは許されども、年長者には許されず。今度こそは隠居せよと言うべし』…」
「4096…8192…16384…32768…65536…」
「父、目覚めて曰く。『倅よ、汝全身に酒毒巡りて、その頭三つ四つあべし。かような化物に、この家継がするにあたわず』息子、応えて曰く。『我もかような回転する家など継ぐにあたわず』…」
虚ろな瞳で、二人はぶつぶつと言葉を呟きながら、胸中からあふれ出そうになる疑念の泉に必死に蓋をし続けていた。
ぽたり
蒸留器の漏斗から滴が滴り落ち、金色の液面が揺れた。
同時に、壁に掛けられた時計が、五つ鐘を打った。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「それでね…お客が『私のうどんをどこに隠した!』ってね…言うけどね…」
「ははは、はは、ははは…」
片足を段に掛け、もう片足も同じ段に乗せを繰り返し、一段一段ずつゆっくりと登っていく。
二人の動きはもはや、老人のそれと同じだったが、無理のない話だ。もう二時間は登り続けているからだ。
言葉を交わしてどうにか得ていた空元気も、もはや限界に近かった。
「ええとそれで…次…次の話は…」
「僕の…番、だから…うーん、と…」
ユーキは悩みつつも震える脚で階段を踏みしめ、また一段体を引き上げた。
「後は、怖い話ぐらいしか…」
「それでいい…それで、いいから…」
沈黙と退屈にアレルギーでも抱えているかのように、ヴェルチは話を求めた。
「ええとね、マスターから聞いた話なんだけど…」
一瞬の迷いを挟んでから、ユーキは続ける。
「『船で無人島から離れるときは、振りかえって島を見てはいけない。見送っている者がいるから』」
「ふう…ん…」
微妙に後味の悪い話に、インプの少女は疲労を滲ませながらも気の抜けた返事をした。
やはり笑い話と違って、こう言った話は微妙に扱いづらいのだ。
「じゃあ、今度はアタシの番だけど…怖い話…不気味な話…ええと…あ!」
足を止めて、彼女はパンと手を打ち鳴らした。
「マスターから聞いた不気味な話があったわ!」
「…どんなの…?」
数段進んでから、ユーキもまた小休止を兼ねて足を止めた。
「どこだかの森の猿は、母親が子供を抱えて育てるらしいのよ。でも、子猿が病気で死んだのに、抱えたままでいる母猿がいるんだって。
猿自体は、芸を教えれば覚えるし、簡単な鍵が開けられるぐらい頭が良いから、子猿が死んだことが分からないわけじゃないのよ。逆に、頭がよすぎるから子供が死んだのを受け入れられず、ずっと抱えたまんまなんだって」
彼女は足を片方上げると、足首から先をぐるぐると回しながら続ける。
「普通なら群れの他の猿や、夫のオス猿に子供は取り上げられるんだけど、たまに絶対に手放そうとしなかったり群れから抜け出す母猿がいるのよ。
それで、森の中を歩いていると、ぼろ布みたいになった何かを持った猿を見かけることがあるんだって」
「ふうん…」
ユーキは、小休止を味わいながら、とりあえずといった様子の返事をした。
「うーん、やっぱり反応に困ったわね…」
自分で話したものの、やはり納得できていないところがあったのか、彼女は困ったように眉根を寄せた。
「ご主人に聞かせられるたびに、適当に苦笑いしてごまかしてたけど、放す側に回ったら多少は面白いかな、って思ってたのよ。でもそういうわけじゃないみたいね」
やれやれ、と頭を振ってから、彼女は軽く伸びをした。
「それじゃあここからは、適当に思い出話だとかしながら進むとしますか」
「うん、反応に困る話はあんまりしたくないしね」
動き出した彼女に合わせて、ユーキも階段をのぼりはじめた。
顔を上げると、まだまだ遠い最上階の床が見えた。
窓がないおかげで時刻は分からないが、そろそろ急がなければ。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

時計が六つ鐘を打ち、長針が短針を追い越しても、蒸留器より滴る金色の滴はボウルの半分にも至っていなかった。
だというのに、ガラスのボウルから目を背ける魔女と魔術師の意識は、もはや限界に近かった。
「今月の収入が二十八万と五千六百…あの子に三千、アイツに五万…」
大昔に貸し付けた金を、数百年がかりで返済していくのを計算し終えたエリカは、頭の中で家庭を築き、収支を日ごとに計算していた。
毎月の給料から毎週の買い物までは言うに及ばず、道で拾った硬貨さえも計算の対象に入れている。
しかし、ふと油断した瞬間に、彼女の意識の裏にひしめいている疑問符が溢れだしそうであった。
一方ヴァルクは、記憶している小話のほぼすべてを放出し、もはや自分で新たに考え出しているところだった。
「ヒッキィとヴァンス、パイを取りっこ ヒッキジはヴァンスの…駄目だ、パンチとジュディだ」
既存の話と同じ展開に、彼は脳裏に浮かびかけていたお話を?き消し、新たな話に移った。
だが実のところ、新たな話と言っても聞いた話の焼き直しや、複数種類の結合にすぎなかった。
だが、そうしてでも何かを頭からひねり出し続けなければ、一瞬の空虚を突いて疑念が無意識の壁の向こうから滲み出しそうだった。
「キャベツが百円、エノキが百円、ネギが百八十円、ニンジン百五十円…」
「ピザボゥヤがやって来た。包丁一本サラシに巻いて、熊に跨り、一つ私に下さいな…」
全力で勘定をするエリカの脳裏で、増減を繰り返す数字の一つ一つが次第に「?」じわじわと形を変えていく。
必死に話を練り上げるヴァルクが、自身の全身が細く引き伸ばされて湾曲し、「?」の形を成していく錯覚を覚える。
「帰りに百円拾って…買い忘れがあったからまた出かけて…」
「明かりをつけましょウラシマは、空には月が昇ってて…」
ほぼ同時に、二人の口が止まった。
二人は虚空を仰ぎ見て、ぱくぱくと口を喘ぐように開閉させた。
「も、もうだめだ…私は限界だ…」
「俺もだ…もう、もう…考えてしまう…!」
作業を続ける集中力が霧散し、二人の意識の奥で疑念を抑え込んでいた蓋ががたがたと音を立てるようだった。
「考えるな、考えるな…!」
「無茶なことを…言う…な…!」
そして、二人の意識が限界に達する寸前、時計が鐘を打ち始めた。
「っ!」
「っ!」
極限まで集中していた二人が、突然聞こえてきた音にほぼ同時に立ちあがり、身を反転させながら身構えた。
二人の視界に、互いの身構えた姿が映り込む。
一瞬で、二人は疑念を挟むことなく、相手が自身を狙っていると判断した。
同時に、二人の手が動いた。
エリカの手が暖炉を囲むテーブルにかざされ、ヴァルクの指がぱちりと音を鳴らす。
直後、器を乗せていたテーブルが足を軋ませながら走りだし、ヴァルクの前に現れた炎の腕がそれを止めた。
ぶすぶすとテーブルの天板や足が音を立て、辺りに焦げた臭いが広がる。
だが二人はテーブルと炎の手の力比べをせず、テーブルの制御を解き、炎の手を掻き消した。
そして、本格的に練り上げていた魔術を展開させる。
エリカの手の中に細く長い氷の杖が現れ、ヴァルクの両掌に赤く燃え上がる炎の珠が一つずつ宿った。
エリカが杖で床を突くと、炎を掴むヴァルクに向けて床が凍て走っていく。
ヴァルクは自身に向けて突き進む床の氷結に、左手に握る炎を投げつけた。ごう、と火炎が溢れ出して氷結の進行を食い止める。そして右手に掴んでいた炎の玉を、エリカに向けて放った。
エリカは床の氷結が食い止められたことにも、反撃の火球が迫ることにも、一片の動揺も滲ませず、手にした杖の石突を火球に向けて繰り出した。火球の表面と石突がぶつかり、火球の軌道が逸れる。直後、火球は彼女の傍らを通り抜けて、今の壁に激突して砕け散った。
壁が焼け焦げ、木材に着火するが、魔女と魔術師の二人は睨み合ったまま一言も発しなかった。それはまるで、剣の切っ先を一度触れあわせた剣豪が、互いの実力を読み合ったかのようだった。
「……」
「……っ…」
一瞬の間を挟んでから、ヴァルクが先に動いた。
短い吐息のとともに、両掌に再び火球を練り宿らせ、床を蹴ってエリカに詰め寄った。
しかし彼女は赤髪の男を迎撃するわけでもなく、大きく跳躍して背後に退いた。二人の距離は変わらず、位置だけが変わる。
そしてヴァルクの爪先が床に触れる寸前、エリカの周囲に拳ほどの氷の塊が滲み出し、彼に向けて放たれた。
「くっ…!」
近距離の攻撃を誘って魔術を練る時間を稼ぐエリカの作戦に嵌まったことに、ヴァルクは内心歯噛みしつつ、左手を横一直線に振った。
左手のひらに握っていた火球が引き伸ばされ、一本の火線を描く。すると火線の上下に炎が溢れ出し、火の壁とも言うべきものが彼と氷の礫の間に立ちはだかった。
一瞬後、氷の礫が炎の壁に飲まれ、通り抜けることもできずに溶解、蒸発させられていく。
エリカは自身の礫が炎の壁に遮られるのを確認するなり、床を蹴った。
そして掌をテーブルにかざし、乗せられた器具や器を手繰り寄せ、それらを核に氷の礫を結晶させた。炎の壁に氷が蒸発させられても、核となっている器や器具は壁を貫通するはず。そう踏んで、彼女は自身の周囲を漂う礫を再び壁に向けて放った。
ほぼ同時に、炎の壁を突き破って火炎球が飛び出す。エリカは氷の礫とすれ違った火炎球を、とっさに手にした杖で再び払おうとした。だが刹那のうちに、昔ヴァルクが使った『触れると炸裂する火球』の魔術が脳裏に浮かび、寸でのところで石突と火球の接触を避けさせた。
彼女は全力で床を蹴り、傍らに跳んで火球を躱す。
火球は彼女の居た場所を通り抜けると、壁にぶつかって大きく広がり、燃え上がった。
やはり炸裂する類の魔術だったわけだ。炎の壁に隠れて、視界を遮られたヴァルクの未熟な策に、彼女は内心笑みを浮かべた。
だが、吊り上りかけていたエリカの口の端が、不意に強張った。
炸裂した炎が、辺りに火炎をまき散らすわけでもなく、壁に立てかけられた板のように形を成していたからだ。
ヴァルクの真の狙いを悟った瞬間、壁に貼りついて燃え上がる炎を突き破って、黒スーツの男が身を躍らせた。それは同時に、いましがた炎の壁に入り込んだ礫が、一発残らず無駄になったことを彼女に悟らせたのだった。
ヴァルクは、超近距離での火炎渡りの魔術による移動を終えると、三度両掌に火球を宿らせた。しかも今度はそれだけにとどまらず、右足の膝から先さえも燃え上がらせた。
右足を覆う炎が文字通り爆発的に膨れ上がり、ヴァルクの跳躍を加速し、その飛距離を大いに伸ばした。
ネコ科の猛獣の如き速度で躍り掛かりつつ、魔術師が両掌の炎を叩き付けるべく、腕を振り上げる。
エリカにはもう跳躍して避ける余裕も、氷の礫出迎え撃つ時間もなかった。だが、出来ることは一つだけあった。
エリカの手の中で、氷の杖がめきめきみしみしと鳴り、一瞬のうちに杖から細剣に形を変える。彼女は軽く身を沈めながら、がら空きのヴァルクの胴に向けて刺突を繰り出した。
迫る透明な氷の刃に、魔術師は炎を宿した両手を胸の前で合わせて、刃を受け止めた。
刃を成す氷が魔術の炎に炙られて溶け崩れ、刺突はヴァルクへのダメージには至らない。だが、氷の細剣は彼の火球からごっそりと熱を奪い、両手に宿していた火球にはもはや、着火以外何の役にも立たない程度の炎しか残っていなかった。
「ちっ…」
小さく舌を打つと、ヴァルクは退き、両手のくすぶりを掻き消して、新たに火球を作り出した。
一方エリカも、溶けてなくなった氷の刀身を、再び魔力で紡ぎなおした。
直後、両手に炎を掴んだ魔術師と氷の細剣を手にした魔女が、相対した。
ヴァルクの握る火球は変わらなかったが、エリカの携える細剣は、刀身が単一のものからいくつかの氷結晶で成っていた。
ヴァルクが腕を振り上げて火球を投擲し、エリカが手にした細剣をまっすぐに構えた。
彼女の肘から先が俊敏に動き、細剣の切っ先が遅れて踊る。刀身が複数の結晶から成っているため、しなりが加わって切っ先の速度は目で捉えきれぬほどになっていた。
火球と切っ先が接触し、細剣が火球の表面を掻き切り刻む。
火球の表面が踊る剣先に切り裂かれ、内部から溢れ出る火炎が剣の冷気に打ち消される。そして数秒も経たないうちに、火球は完全に切り崩されて消滅した。
無論、剣の切っ先も熱に溶け崩れていくらか縮んでいたが、彼女は胃に会することなく小さく詠唱した。すると刀身が柄からみしり、と音を立てながら伸び、長さを補った。
「ふん」
火球を片手にこちらに視線を向けるヴァルクに向けて、エリカは余裕の笑みを送り、爪先で床を打った。
彼女の打った点から、床が再びヴァルクに向かって凍て走る。加えて、彼女は氷結した床の上を駆けて行った。
迫る床の氷結と氷の細剣を手にした魔女に、ヴァルクは焦ることなく、手にした火球をエリカに向けてかざし、ためらいなく炸裂させる。
魔術師に迫りつつある彼女の眼前で、火球が砕けて炎が溢れた。無論、爆炎はヴァルクの方へは向かわず、全てエリカの方へ迫る。
エリカはとっさに足を止め、逡巡する間もなく床を蹴って退いた。同時に、迫る爆円に向けて剣を振り、空中に氷の線を描く。氷の線を軸に、氷が溢れだして防壁を成した。
ちょうど、先ほどヴァルクが炎の壁を作ったのと逆の構図だが、エリカに氷から氷へ移動する術はない。
こうして爆円を床の氷結と氷の防壁で防ぐ間に、ヴァルクは新たな火球を作っているだろう。だとすれば、今の彼女にヴァルクを完全に仕留める方法はない。
彼女は床に降り立つと、氷壁が爆炎に耐えきったかどうかを確認することもなく、身を翻して走り出した。
指を打ち鳴らし、居間へ続く扉の一つを開け放つと、彼女はその中に飛び込んで行った。
炎と崩れゆく氷の防壁が消えると、ヴァルクの前には開け放たれた扉と焼けた絨毯だけが残されていた。
彼女がこの場から離れたことは明確だったが、彼は追うような真似はしなかった。この屋敷は現在、彼女の屋敷だ。誘いに乗るのはあまり得策ではない。
それに、ここにはアレが残っているのだ。
「……」
ヴァルクはちらりと横目で、暖炉の前に鎮座する蒸留器を確認した。
器には金色の液体が半分弱ほど溜まっており、時刻と照らし合わせれば経過が順調であることが分かった。
不意に、彼の視界の端で、居間へつながる扉の一つが開いた。
ヴァルクは反射的に向き直りながら、手の中に火球を生成し、居間へと続く闇に向けて投げつけた。
だが、火球がつき進んで照らし出した扉の向こうには、人の姿はなかった。
「っ!」
胸中で膨れ上がった可能性に、彼は振り向きつつ大急ぎで火球を練り上げ、眼前に腕ごとかざした。
直後、彼の火球に何かが激突し、掌から腕に掛けて衝撃が襲った。
爆炎が冷気によってねじ伏せられ、大量の湯気が辺りに噴き出る。
もうもうと立ち上る湯気の向こう、くすぶる火球と溶けつつある氷の刀身を挟んで、エリカがヴァルクの眼前に建っていた。
「くふ…」
「ふふ…」
「くは、くは、ふははははは!」
「ははははははあっ、はははは!」
火球と細剣で押し合いながら、どちらからともなく二人は哄笑した。
そしてほぼ同時に、互いに腕に力を込めて突き飛ばし合うと、二人は距離を取った。
「いいぞぉ!こうしてぶつかり合うのも久しぶりだな、ヴァルクぅ…!」
「ああ、なかなか楽しませてくれるではないか、エリカ…!」
くすぶっていた火球を握りつぶし、溶けて半分の長さになった細剣を手放しながら、二人が言葉を交わす。
「『反実の稀滴』はほぼ完成だ…ここでお前をぶちのめして、私だけがノルマを達成するのもアリだな…!」
「奇遇だな、俺も同じことを考えていたところだ」
二人の手の中に、氷の細剣が、火球が生じた。
先ほどまでより多い氷結晶から成る、より長大な細剣と、先ほどまでより赤く、より大きな火球だ。
「行くぞ母猿。可愛いあの子は置いておけ」
「来いよ、ニワトリ。逃げたければ好きにしろ」
そう言葉を交わすと、二人は同時に駆けだした。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

日が沈み、住宅街の家々に明かりが灯り始めたころ、橋の下の摩天楼の中では、二つの影が変わらず階段を上り続けていた。
「はぁ、はぁ…はぁ、はぁ…」
「はぁ…あー…はぁ…うぉー…」
二人の口から漏れ出るのは言葉などではなく、喘ぎ声と呼吸音ばかりであった。
無理もない。二人はもう何時間階段を上り続けているのか、もはや分からなくなっているのだ。
すでに螺旋階段の上方を見ることも、下の方を見降ろすこともやめた。そんな体力すら、二人には残っていないからだ。
事実、階段を上るのも這い蹲るようにしながらになっている。
「はぁ…はぁ…」
疲労に朦朧とする意識の中、ユーキは階段の段を掴んで体を引き上げ、次の一段に手を伸ばそうとした。
しかし、彼の指に触れたのは平らな何かだった。
「あ…?」
指先に触れた何かに、見ることをやめていた彼の眼に光が宿る。ぼんやりと商店があっていく彼の目の前にあったのは、階段の先に立ちふさがる壁と一枚の扉だった。
「あ、あ…!」
目に入った扉の意味を一瞬つかみかねたが、少年は喜びの滲んだ声で傍らのインプの少女の肩を掴み、揺すった。
ヴェルチが伏せていた顔を上げ、目に映ったものに階段地獄の終焉を知ると、その表情を輝かせる。
「つ…着いた…!」
彼女はそう声を上げると、よろよろと立ち上がり、扉に歩み寄った。
そして、握った拳で扉を叩き始める。
「ごめん下さい!ごめんくださーい!」
底をつきかけた体力を振り絞り、声を搾りだしながら、彼女はそう呼びかけた。
しかし、扉の向こうからは何の反応もなかった。
「留守…かな…?」
「んなことあったら困るわ!絶対にいるはず…!」
遅れて立ち上がったユーキの言葉に、ヴェルチはそう応じた。
「すみません!すみませー…」
そして何度目になるか分からないノックをしようと手を振りあげた瞬間、仰け反った彼女の上半身が大きく傾いた。
「っ!?」
バランスを崩しそうになるヴェルチだが、とっさに足を踏み出して踏ん張ろうにも、疲弊した体では叶わなかった。
ユーキは反射的に手を伸ばし、彼女の腕をつかんだ。しかし転倒する彼女を支えるには至らず、逆に引きずられてしまった。
これまで登ってきた階段めがけて、二人の身体が転倒していく。
「…っ!」
なぜヴェルチの後ろに立たなかったのか、なぜ腕を掴むだけではなく全身を支えなかったのか。ユーキの脳裏を後悔が駆け抜け、全身への衝撃と、痛みに覚悟を決めた。
しかし、直後に彼らを襲ったのは軽い衝撃と柔らかな感触。そして全身を異様な感覚が包んだ。
「っ!?」
「え?あれ?」
全身を打ち据える衝撃への覚悟を下回る、柔らかな接触レベルの衝撃に、二人は驚きの声を上げながら戸惑った。
二人が転がっているのは階段などではなく、柔らかな絨毯の上だったからだ。加えて、後ろ向きに倒れていたはずなのに、いつの間にか二人はうつ伏せになっていた。
「あら、気が付いたのね、未定さんたち」
頭上から降り注いだ優しげな声に、二人は困惑にとらわれつつも、身を起こして顔を上げた。
すると、調度品の並ぶ円形の部屋と、ソファに腰かけ二人に微笑みかける女性の姿が見えた。
緑色の、緩やかにウェーブしたやわらかそうなロングヘアの女性だ。落ち着いた色合いに、まさに部屋着といったスカートと上着に身を包み、手にはやや厚めの革表紙の本を開いている。
「さて」
彼女はパタン、と本を閉じると、ソファ脇のテーブルにそれを置いた。
「初めまして、未定さんたち。私はアストリアル・カラノイニ。この家に住むただの魔女よ」
彼女はにっこり微笑みながら、そう自己紹介した。
「三百階建ての階段を上って、ここまではるばるやって来たあなたたちを歓迎するわ」
「は、はあ…どうも…」
「ありがとう…ございます…」
いまいち何が起こったのか理解しかねている二人に、緑髪の魔女は笑みを保ったまま問いかけた。
「それじゃああなたたちについて教えてちょうだい。はるばるここまで上がって来た、あなたたちは何かしら?根性のある泥棒?好奇心の強い暇な人?知り合い…では無いわよねえ、知り合いなら事前に連絡してくれれば、私が迎えに行くもの」
魔女の推測を含んだ質問に、二人はようやく状況を理解してきた。
「ええと、僕たちは…」
「アタシは、アンタと同じサバトの魔術師、ヴァルク・ギュッテンの使い魔のヴェルチです」
「…僕は、エリカ・アンダースノゥの使い魔のユーキです…」
「ギュッテンに、アンダースノゥ?ああ、あの二人ね。二人のことはよく知ってるわ」
ヴェルチとユーキの名乗りに、アストリアルは記憶を探って頷いた。
「それで、その使い魔たちが私に何の用かしら?言っておくけど、ノルマの期限延期や削減は出来ないわよ?」
「いえ、違います。実はノルマをこなすためにマスター達が『反実の稀滴』って魔法役を作ってるので、その効果について聞こうと思って…」
「『反実の稀滴』…?」
微笑んでいたアストリアルの表情に微かな影が浮かんだ。
「ちょっと、詳しい話をしてもらえるかしら…?」

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

住宅地の一角、高い塀に囲まれて周囲との接触を完全に拒んだ屋敷の窓に、時折明かりが宿っていた。
とはいうものの、ランプや電灯のような照明目的の明かりではなく、一瞬だけ放たれる強烈な明かり、何らかの魔術の余波で生じる明かりだった。
玄関向かって、右手の一階の窓が光ったと思えば、間髪入れずその上の二階の窓が輝く。
そして光はそのままに買いに並ぶ窓から窓へと移り、建物の半ばで掻き消えた。
仮に、玄関先に立っていた誰かが、玄関の大扉を押し開いて中に入れば、居間として使われている大広間を目の当たりにするだろう。
ただし、そこには乱雑に机や器などが転がされており、居間へ続く扉は開け放たれ、中には扉ごと枠から毟られている物もあることに気が付くだろう。そんな中、今の中央奥に鎮座する暖炉と、その前でぽたりぽたりと滴を滴らせる蒸留器だけが、不自然に取り残されていた。
蒸留機に添えられた器には、金色の液体が七割ほど満たされていた。
すると不意に、どこからともなくボーンという鐘を打つ音が響いてきた。
勘の良い者ならば、鐘が九つ鳴って止む前に、壁に掛けられていたであろう時計が、床に転がっていることに気が付くはずだ。
やがて鐘が鳴りやみ、誰もいない居間に沈黙が満たされる。
だが、沈黙は数秒と続かなかった。
開け放たれた扉の一つから、金髪の少女が転がり込んできたのだ。氷でできた細剣を手にした少女の姿の魔女、エリカである。
彼女は全力疾走の勢いを自分から転倒して殺すと、姿勢を立て直して、扉の直線上から飛び退いた。
直後、彼女の居た辺りに向けて、ごうごうと燃える火球が投げ込まれ、炸裂、炎上した。
遅れて開け放たれた扉から、もう一つの人影が姿を現す。黒のスーツに赤髪の男、ヴァルクだ。
彼は一瞬で今の様子を確認すると、身構えるエリカに向けて、両手の火球を打ち合わせた。
火球が炸裂するが、直前に彼の編み上げた魔術により、無駄な拡散は防がれた。
炎は彼の掌の間から、エリカに向けて突き進む。
「く…!」
彼女は小さく呻くと、手にした氷の細剣を床に突き立て、引き上げた。
すると細剣の切っ先に引きずられるようにして、氷の板が床から生えてくる。
自分の身を隠せるほどの板を引きずり出すと、彼女は角度をつけて構え、炎の奔流を受け止めた。
炎は氷板の表面をわずかに溶かし、その傾きに沿って軌道を変え、彼女の頭上、天井に激突して散っていった。
やがて炎の奔流が通り過ぎ、熱で溶かされて歪んだ氷板越しの視界が開けると、両手に新たな火球を宿したヴァルクが眼前まで迫っていた。
「っ!」
彼女は支えていた氷板を、氷結晶生成の魔術とともに突き飛ばし、迫るヴァルクへの牽制とした。
薄かった氷板が厚みを増し、それなりの重量を帯びてヴァルクに接近する。彼は強い踏込によって突進を止めると、左手に握る火球をかざして氷板を迎えた。
溢れ出す炎に氷板が炙られ、直撃すれば骨折は免れ得ない厚みと重量が蒸発して無くなる。
そしてヴァルクは、溶けてなくなった氷板の辺りへ向けて、右手の火球もかざした。エリカが礫を生成していようとも、彼女自身が躍り掛かっていようとも、対応するためにだ。
だが、彼の予想を裏切り、エリカは彼に何もしてこなかった。
何もしなかったわけではない。氷の礫をいくつも生成し、放っているのだ。
だがその狙いはヴァルクではなく、もっと上の方であった。そう、天井に向けてである。
そこまで考えたところで、ヴァルクは飛んでいく氷礫の真の目的を悟った。
しかし彼が退避する間もなく、氷礫は天井に突き刺さった。つい先ほど、エリカがヴァルクの炎を逸らして作った、天井の焼け焦げにだ。
燃えて強度の落ちていた天井と二階の床板が、ついに氷礫の衝撃に限界を迎える。
メキメキという木材の断末魔の叫びめいた軋みとともに、天井が裂けて大きなものが彼の頭上に落下してきた。
二人横になっても余裕があるほどの大きなベッド、ダブルベッドだ。
埃避けのカバーだけを掛けられたベッドが、彼の頭上に落ちてくる。
飛び退いて避けようにも、ダブルベッドは大きすぎる。転がったところで、腕か足かを床とベッドに挟み込まれてしまうだろう。だが身をひねりながら転がったところで、ベッドは避けられても続くエリカの攻撃には対応できない。
瞬き一つにも満たない間でそこまで判断を下すと、彼は右手の火球をベッドの底に叩き付けた。溢れ出す火炎と爆風が、一瞬だけベッドの落下を抑える。
その間に、彼は炎の手を二つ作りだし、ベッドの端を掴んで受け止めさせた。
そして、今度こそ来るはずのエリカの攻撃に対し、彼は身構えた。
だが、今度はエリカの攻撃どころか、エリカの姿さえなかった。
反射的に身をひねり、背後さえも確認するが、目に映るのは荒れ果てた居間ばかりで、彼女の姿はどこにもなかった。
居間を飛び出して体勢を立て直している。未知の氷魔術で姿を消している。
あらゆる可能性が脳裏に浮かび、一つの可能性に彼はたどり着く。半ば勘めいた予想に、彼は全力で身を捻った。
直後、ベッドの上に乗っていたエリカが、氷の細剣でベッド越しに彼を突いた。
切っ先がマットレスを貫き、炎で焦げたベッドの底板を破って、ヴァルクの頭頂のあったあたりを突いた。
しかしとっさにヴァルクが身を捻っていたため、切っ先が彼の頬をかすめる程度にとどまった。
マットレスの上で、細剣を逆手に握ってベッドに突き立てるエリカが、手ごたえのなさに一撃をかわされたことを悟る。
だが、それも想定の内。彼女は細剣から指をほどくと、マットレスを蹴ってベッドの上から飛びのいた。
そして、屋敷の中を移動しつつ戦っている合間に、上の階で形成していた氷塊をベッドに向けて落下させた。
高さは彼女の身の丈に及び、重量に至っては一トンを上回るであろう氷の塊が、マットレスに叩きつけられる。
「!?」
炎の腕に予想もしない重量がかかり、ヴァルクの顔に驚愕が浮かぶ。直後、「何が落ちてきたのか?」という疑問も浮かばないうちに、ベッドの底板が割れ、ベッドが真っ二つになった。
想定外の重量と、崩壊するベッドによって炎の腕はベッドを支えていられなくなり、ついにヴァルクの姿がベッドの下敷きになる。
ズ、ズン、と重い音が屋敷に響いた。
「……」
エリカは、床に降り立った姿勢のまま、二つに割れたベッドと突き刺さる氷塊を睨みつけていた。
すでに彼女の手には、新たな細剣が紡ぎ出されており、一見すると屈んでいるだけに見える四肢にも力が籠っていた。
この程度の攻撃でヴァルクがくたばるわけがない、と彼女は知っているのだ。
その思いに応えるように、氷塊が一瞬で溶け崩れ、ベッドが燃え上がりながら吹き飛んだ。
「くっ!」
まっすぐに飛んできた燃え上がるベッドの破片を氷の細剣でそらし、彼女は跳ね上がるように立ち上がった。
氷とベッドの残骸があった場所、辺りが揺らぐような熱気の中心に、ヴァルクは立っていた。全身の炎をまとわりつかせて、火達磨になりながら立っていた。
赤々と燃え上がる炎のおかげで、彼の纏う黒スーツもその赤髪も、彼の表情も全く見えない。
しかし、顔を覆う炎に穿たれた、目と口のための穴は、まるで笑っているように歪んでいた。
「今のは危なかったなあ…エリカ…」
炎が揺らいで刻一刻と形を変える凶暴な笑みの向こうから、彼の声が響いた。
「今度は俺の番だろうが…俺は貴様の様に小細工は弄しない…」
燃え上がる両手が左右に広げられ、両掌を覆う火炎が勢いを増し、白味を帯びて行く。
「踊れ 火炎蛇」
ヴァルクの一言と共に、両手に渦巻いていた火炎が迸り、螺旋状に絡み合いながらエリカに向かって突き進んだ。
熱も炎量も、少し前の炎の本流とは桁違いだ。
受け止めようにも逸らそうにも、もう時間がない。
「くそ…!」
エリカは小さく呻くと、指を鳴らしつま先で床を打った。
彼女の指弾に、二階の寝室に置いてあったタンスやチェストといった家具が、床を突き破って彼女とヴァルクの間に落下した。
しかし白炎の蛇はやすやすと家具を飲み込むと、瞬時に焼きつくしながら突き進んだ。
そして最後に立ちはだかる大きなタンスを貫き、内側から焼きつくした火炎蛇の前にあったのは、氷の柱だった。
火炎蛇は構うことなく氷の柱を飲み込み、突き進んで屋敷の壁に激突し、焼き尽くし蒸発させながら壁に穴を開け、居間を飛び出して行った。
一瞬遅れて、焼け焦げた絨毯や家具の残骸の上に、エリカがスタッと降り立った。
家具でヴァルクの視界を遮り、時間を稼いでいる間に、氷柱を作ってその上に逃れていたのだ。
無論、火炎蛇の通貨により足場である氷柱は溶解してしまったが、彼女が床に降り立つころには火炎蛇はいなくなっていた。
「そう避けたか…」
大して悔しくもなさそうな様子で、ヴァルクは呟いた。
「やはり、俺と正面からぶつかり合うだけの自信はないということか」
「ふん、お前の魔術がのろくて、待っていては相手する前に寝てしまいそうだからな」
ヴァルクの言葉に、エリカは軽口で応じた。
実のところは、そろそろ全力で挑まなければ圧倒されそうだったのだが。
「……」
彼女は横目で蒸留器を確認すると、『反実の稀滴』の完成まで後どれぐらいか推測した。
とりあえず、日付が変わる前には完成しそうではあるが、それまで立っていなければ意味がない。
「…〜…〜…!」
彼女は低く呪文を詠唱すると、手にした細剣を逆手に握り、地面を切っ先で軽く打った。
彼女の両手が両足が、鎧めいた氷の装甲に覆われる。氷甲はぎちぎちと音を立てながら、彼女の腕へ彼女の脚へ、その保護領域を広げて行く。
二の腕から肩、太ももから腰へと伸びた氷結走行が彼女の腹部でつながり、頭も保護する。
「そろそろ遊びは終わりだ、ニワトリ。かかってこい」
鋭角的なフォルムの氷の鎧に身を包んだ彼女がそう告げると、その顔面を透き通った氷の面が覆った。
「崩れろ…」
ヴァルクはエリカの言葉に返答もせず、自信を包む炎の勢いを増した。
身を包む程度だった炎が高く大きく伸びあがり、二階の天井を舐めるほどになっていく。
火の勢いが十分に高まったところで、彼は続けた。
「火災樹…!!」
屋敷を焼き尽くさんばかりに燃え上がる炎がエリカに向けて倒れ込み、氷の鎧に身を纏った彼女がヴァルクに向かって突進した。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「なるほどね…状況は大体わかったわ…」
ユーキとヴェルチから、事の顛末を概ね聞いたアストリアルは、ふう、とため息をついて応えた。
「ノルマが達成できず、『反実の稀滴』に手を出すなんて…これだから前倒しで進めておきなさい、って言ってたのに…」
「あの、それで…『反実の稀滴』の効果はどうなんですか…?」
『反実の稀滴』で願えば、その逆の事象が発生する。では逆とは、どの程度の逆なのか?
ここまではるばる訪れた目的の一つを、彼は問うた。
「うーん、正直に言うと、『逆』のレベルなんかは作った人や使った人によって微妙に変わってくるわ。だから、二人が『どこかの森が百年間青々と茂りますように』って願っても、『今この瞬間に森が枯れ果てる』のか『本来なら百年以上茂り続けるはずだった森が徐々に枯れて行く』のか、どちらが起こるかは分からないのよ。
それに作るのもとても難しかったから、あまり使う人もいなくて、だんだん廃れて行ったのよ」
彼女は再びため息をつくと、やれやれと頭を振った。
「どうしたものかしらねえ…今から止めに行ってもいいけど、ノルマをこなそうと努力しているのを邪魔するのもどうかと思うし…って言うかそもそも私にはそんな権限ないし…」
彼女は腕を組んで、うーんと呻いた。
「せめて、『反実の稀滴』の効果が一定化するんなら、それで大体のことは片付くんだけどねえ」
延々歩き回って疲弊した両足を休めるため、絨毯に座り込んでいたヴェルチがふと漏らした。
「うん?ああ、『反実の稀滴』の効果の固定化なら、今日だったら割と簡単よ」
「え?」
「へ?」
なんと言うことでもないように応えたアストリアルに、二人は気の抜けた声を漏らした。
「『反実の稀滴』は一年に一度だけ、四月の一日に効果が『願った事象がそのまま起こる』って効果になるのよ。もっとも、日付が限定されている上に、そもそもの製法がとても難しいから、あまり知ってる人はいないんだけどね」
「あー、だからうちのご主人、『明日ならば都合がいい』とか言ってたんだ…」
もはやはるか昔のことのようにも思える、僅か数時間前の記憶に、ヴェルチは納得がいったように頷いた。
「でも、ノルマの期限は今日いっぱいですから、二人は明日を迎えて効果が固定化される前に、『反実の稀滴』を使うと思います」
「あぁ、それなら大丈夫よ。完成した『反実の稀滴』の時間だけを、明日にしてしまえばいいんだから」
「?」
「?」
アストリアルの言葉に、二人の使い魔は顔を見合わせた。
「説明が足りなかったわね。実は私、時間に関する魔術が専門なのよ。だから、特定の何かの時間を進めたりだとか遅らせたりだとかができるのよ。ほら、さっきもあなたたちが階段から落ちそうになった時も、『遅らせる』魔術を使ったのよ」
転倒する二人の時間を遅らせ、完全に倒れる前に家に引き込んで、床ぎりぎりのところで魔術を解除したのだ。
彼女の説明に、二人は先ほどの瞬間移動のからくりを理解した。
「それじゃあ、カラノイニさんが一緒に来て、『反実の稀滴』の時間を明日に…」
「一緒に行く必要もないわよ」
アストリアルはにっこりほほ笑み、二人に手を差し出した。
すると彼女の手の中には、最初から持っていたのか自身を加速させて取ってきたのか、小さな結晶が収まっていた。
透明な、塩の結晶やサイコロを思わせる、真四角の結晶だ。
「これを『反実の稀滴』の中に入れれば、近くの時間を二時間だけ進めるわ」
「あ、ありがとうございます…」
ユーキが差し出した掌に、彼女は結晶を乗せた。
「それじゃあ、急いで戻って…」
「いや、もう間に合わないでしょ」
結晶を受け取るなり、そわそわとしだしたユーキをなだめるように、ヴェルチがそう言った。
「アタシが窓から出て行って、飛んで入れてくるわ。アンタはここで待ってるか、ゆっくり下りてきなさい」
「で、でも…」
「大丈夫よ。二人とも、アンダースノゥ邸まで送ってあげる」
今にも飛び出さんばかりの二人に向けて、アストリアルが落ち着かせるように言う。
「え、でも…」
「遠慮しないで。こんな家に住んでいるのだから、お客様を送り迎えするのは私の仕事よ。それに、私たちは立派な知り合いでしょう?」
彼女はそうほほ笑むと、右手を上げて親指と中指を触れ合わせた。
「二人には後のことをよろしくお願いするわ。もっとも、あなたたちの言葉をあの二人が聞き入れるか、『反実の稀滴』の変化に気が付くかは…まあ、ノルマ達成のための試験ってところかしら?」
独り言めいた言葉を断ち切り、彼女は一瞬間を開けると、続けた。
「それじゃあさようなら、二人の使い魔さん」
パチン、と彼女の指が鳴り、二人の視界が一瞬暗転した。
直後、真っ暗な部屋に明かりが灯る様に辺りが明るくなるが、二人の目に入ったのは何かの燃えカスがへばりつく焦げた床板と穴のあいた四方の壁、二階と吹き抜けになった天井に、散らばる瓦礫と破片だった。
数時間前と全く異なる居間の様相に、二人はどこの廃墟に飛ばされたのかと不安を覚えた。
だが、不自然に取り残されて無事な暖炉の周りと巨大な蒸留器に、二人はここがアンダースノゥ邸の居間だと気が付いた。
「な、何があったの…!?」
呆然とするユーキのそばで、ヴェルチが思わず漏らした。
「分からない…『反実の稀滴』を作ってる最中に、仲間割れでもしたのかも…」
自分が暮らしてきた空間が、跡形もなく破壊されていることを受け入れきれず、ユーキは半ば他人事のような調子で呟いた。
「とりあえず、マスターたちがいないから、先に『反実の稀滴』の時間を進めておこう…」
「そうね」
ユーキとヴェルチは辺りを見回し、暖炉の前の蒸留器のほかに『反実の稀滴』と思しきものがないことを確かめた。
そして、蒸留器に添えられたガラスのボウルを満たす金色の液体に、ユーキは手に握っていた透明な結晶を落とした。
…ィィィィン…
高く、透明感のある音がした直後、居間のどこからかくぐもった音が響き始めた。
居間のどこかに落ちている時計の、十一時を知らせる鐘の音だった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

どこからか響く鐘の音を、ヴァルクは仰向けになって横たわったまま聞いていた。
鐘が十一回鳴ったところで、音が止んだ。十一時だ。
「くぅ…うぅ…」
彼は小さく呻き声を漏らしながら身を起こすと、軽く頭を揺すった。
身体を見下ろしてみれば、防御と攻撃を兼ねていた全身の炎は蛍のような火の粉と化し、数えられるほどしか纏わりついていなかった。
身に纏ったスーツにはいくつもの破れ目が付いており、肌に刻まれた切り傷や擦り傷には血が滲んでいる。
どこにいるのか分からないが、死力を尽くして戦ったのだ、エリカも似たような状況だろう。
「エリカ…聞こえるか…?」
「……ああ…」
返答は案外近く、ぶち抜かれた壁の影から届いた。
「もう十一時だ…そろそろ『反実の稀滴』を使わないと、時間がない…」
「そう言って、未完成の状態の薬液を反応させて、とどめをさすつもりだろう…?」
「馬鹿を言うな、もう完成しているはずだ。貴様も俺もすでに疑問を口にしているのに、なにも起こってないだろう」
ヴァルクの指摘に、エリカは沈黙で応じた。
「一時休戦…ではなく、完全休戦だ。やはり、何も考えずにひたすら体を動かした方が、疑念は浮かばないものなのだな」
「何だ、本気ではなかったのか」
「本気だったぞ?」
「だとすれば弱すぎるな」
似たような満身創痍の状態で、二人はよろよろと立ちあげり、居間に向かって足を進め始めた。
「さて、時間は後一時間だ」
「多いとも言えるし、少ないとも言えるな」
「まあ、ノルマ達成の願いを先に叶えてから、『反実の稀滴』の残量と相談して他のことを願うとしよう」
破壊されつくした屋敷の中を進み、二人は壁に穿たれた大穴から、居間に入った。
すると、そこだけ切り取られたように無事な暖炉と蒸留器の側に、魔女と魔術師とは異なる影が二つ立っていた。
エリカとヴァルクの使い魔だ。
「ん?お前たち…」
「居間には入らないよう言っておいたはずだが?」
「!」
蒸留器を見ていた二人が、エリカとヴァルクの声に、びくんと全身を震わせると弾かれたようにこちらを振り向いた。
「姿が見えないと思っていたら、俺たちに巻き込まれないよう屋敷を逃げ回っていたようだな」
「それに、あんまり破壊しすぎたせいでここが今だと認識されなくなったから、ここに入り込んだようだな」
使い魔二人がこの場にいる理由について、二人はそう推測した。
「あの…マスター…」
「ご主人…実はこの『反実の稀滴』について…」
「この場に入り込んだ言い訳か?」
「悪いが俺達は少々忙しい。言い訳は後で聞こう」
魔女と魔術師の言葉に、ユーキとヴェルチは顔を見合わせた。
「さあ、ここから出て行け」
「しばらく俺たちの邪魔をするな」
使い魔二人は主人の命令に従って、蒸留器の側を離れ、居間だった部屋を出て行った。
「よし…『反実の稀滴』は完成しているようだな」
蒸留器の側に置かれたガラスのボウルを満たす金色の液体を確かめて、エリカはそう言った。
「あまり時間が無い。とっとと始めるとしよう」
ヴァルクがいくらか小さい炎の手を出し、ガラスのボウルを包んで熱で瓶状に成型しなおした。
同時にエリカは瓦礫の一角に指を向けて、くい、と何かを招き寄せるように曲げた。
瓦礫の中から、奇跡的に無事だった二つのグラスが浮かび上がり、彼女の手の中へ飛び込む。
「さて、座るといい」
「ああ」
エリカの言葉に応じ、二人は金色の液体の詰まった瓶を挟んで絨毯の上に腰を下ろした。
「ほら」
「うむ」
エリカの指し出したグラスを受け取ると、ヴァルクが瓶を掴んで傾け、金色の液体をエリカのグラスへ注いだ。
「『反実の稀滴』は、飲み干した後一呼吸の間に喋ったことを『願い事』だと判断する」
グラスに金色の液体を満たしつつ、ヴァルクが説明する。
「だから、よく考えて願い事を決めてから飲めということか」
「そうだ」
自身のグラスにも金色の液体を満たすと、彼は瓶を絨毯の上に置いた。
「最初の『願い事』は決まったか?」
「ああ、バッチリだ」
「それじゃあ、『反実の稀滴』の完成と、もうすぐ達成されるであろうノルマに」
「乾杯」
二人はグラスを打ち合わせると、一息に飲み干した。
金色の液体が二人の体内に入り込み、その効果を発露していく。
やがて、二人は最後の一滴まで嚥下すると、グラスを唇から放すなり、口を開いた。
「『国内の250の樹木が、何の理由もなくかれませんように』」
「『水量の多い井戸が、今この瞬間に枯れませんように』」
二人の体内に籠っていた魔力が、紡がれた言葉に反応して事象を起こす。
「……?何ともないな…」
「当り前だ」
不思議そうに両手を見つめるエリカに、グラスに『反実の稀滴』を注ぐヴァルクが応じた。
「国内のどこかの250の樹木と井戸に作用する願いだ。この場で何かが起これば、そちらの方がおかしい」
「…言われてみれば確かにそうだな…」
いくらか悔しげに、エリカはそう呟いた。
程なくして、二人のグラスを再び金色の液体が満たす。
そして二人は、先ほどと同じように嚥下して、同時に願いを口にした。
「『隣国の金持ちに、財産抱えてこの国に逃げ込もうなどという気が起きませんように』」
「『風力発電所の風が止みませんように』」
「…いきなりエネルギーを奪うのか」
「金持ちの亡命に比べれば、ほんの何%かの電力が減るだけだ。かわいい物だろう」
問いかけるエリカに、ヴァルクは涼しい顔で応じた。
「さあ、ぼんやりしている暇はない。次を注げ、次を」
「ああ、待て」
グラスを掲げて催促するエリカをいなしながら、ヴァルクは自分のグラスに『反実の稀滴』注いだ。
ちらりと横目に辺りを見回せば、壁際に転がる時計が彼の目に入る。
現在時刻、十一時十数分。ノルマをこなすのは、簡単なようだった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「あーんもう、ご主人が聞き耳持たないせいで、何も言えなかったじゃない!」
「僕に言われても…」
半ば廃墟と化した屋敷の廊下を進みながら、使い魔二人が言葉を交わしていた。
「カラノイニさんが言ってた通り、あとはマスター達が自分で効果に気が付くのを待つだけしかないよ」
「うう…気が付く前に、変なお願いをしないといいんだけど…」
ヴェルチは真剣にそう祈った。
主二人が気が付くことなく、使い魔の長寿を通常の『反実の稀滴』流に願えば、それは使い魔の即死という形で叶えられるのだ。
これならば、主人たちが戻ってくるまで結晶を入れなければよかった、と彼女は後悔していた。
「ところでヴェルチ」
「うう…何よ…」
「なんとなく聞きそびれていたけど、僕のマスターと君のマスターの間柄ってなんだったの?ただの仲の悪い知り合いだと思ってたけど、屋敷の崩れ具合がそれどころじゃないし」
等間隔に穴が開き、煤と焼け焦げにまみれた壁を示しながら、ユーキが問いかけた。
「…そういえば、階段上っているときも話さなかったわね…」
言われてみて初めて気が付いた、という調子で彼女はコクコクと頷いた。
「まあ、本来ならあんたのご主人が話すべきことなのかもしれないんだけれど…聞きたい?」
「うん、一応」
「分かったわ」
少年の言葉に、彼女は続けた。
「実は、うちのご主人とアンタのご主人は昔、結婚していたの」
「え…?」
今日初めて目にした人物と、自分の主人の間柄に、少年は目を丸くした。
「もともとは、使い魔のつもりで雇ったうちのご主人に、エリカさんがいろいろ魔法の技術を教えたらメキメキ成長して、うっかり惚れ込んだらしいのよ。
でも、彼女の中ではマスターはあくまでも弟子で使い魔だったから、素直に甘えたりし辛かったのよ。それで、サバトの魔女の基本である『私とお兄ちゃん』の間柄から外れて、あえて対等な立場としての結婚をしたみたい」
「ふう…ん…?」
少年は納得したような、していないような声を漏らし、首を傾げた。
「一応、マスターとヴァルクさんの間柄については分かったけど…でも、何で別れたの?」
「それはやり取り見ればわかるでしょう?性格の不一致よ、たぶん」
「でも、使い魔であり弟子だったヴァルクさんなのに、結婚してから性格が合わないとか…マスターのことを悪く言うようだけど、気が付くのが遅すぎないかなあ…」
「そこなのよねー」
自分でも、性格の不一致については無理があると思っていたのか、ヴェルチはあっさりと持論を手放した。
「ご主人は昔のことについてはいくらか教えてはくれたけど、具体的な離婚の理由についてはあまり話さないのよ。何かあったのは確実なんだけどね…」
「その何かが…ん?」
ユーキの脳裏に、微かな痒みのようなものが生じた。
「ん?どうしたの…って、ああ、なるほど」
一瞬遅れて、ヴェルチもまたユーキと同じ痒みのようなものを感じた。
主人が離れた場所にいる使い魔を呼び寄せるための魔術による痒みだ。
「何か用事でもできたのかな?」
「自分たちの目の前で、『反実の稀滴』の効果を見てみたいとか」
「だったら、マスター達が願い事を言う前に進言しないと」
自然と居間の方へと向かう足に従いながら、二人は添う言葉を交わした。
だが、今の方向から響いてきたのは、口論めいた口調だった。
「ふん、何が『火山の噴火が起こりませんように』だ!そんなんじゃいつ噴火するかわかったもんじゃないぞ」
「面白い、だったら貴様がやってみろ」
「望むところだ……『銀行員の欲望が今この瞬間膨れ上がりませんように』!」
エリカの言葉の直後、何かが今の方角から放たれ、使い魔二人を通り抜けて行った。
「何…今の…?」
「さあ…たぶん、『反実の稀滴』で出来た魔術…かな?」
推測を口にしながら、二人は今に続く扉の穴から、居間に入った。
「銀行員か、まあまあいい方向ではあったが、今この瞬間の解釈によって分かれるところだな」
「なんだと!?だったら今度はお前が…お、ユーキ!いいところに来た!」
使い魔二人を視界に収めたエリカが、絨毯に座り込んだまま二人に向けて手を上げた。
「ヴェルチ、こちらへ来い」
「ユーキも来い!」
「ええと、マスター実は…」
「良いから黙って来い!」
興奮した様子のエリカに、ユーキは完全に口を封じられた。
ユーキが口をつぐんだまま目を横に向けると、ヴェルチが視線を彼の方に向けていた。
二人の視線が交錯した瞬間、ヴェルチの目が小さく上下した。任せておけ、とでも言うかのように。
「よし、二人とも来たな」
疲労により、いくらか集中力と理性が落ちている様子のヴァルクが、使い魔二人に言った。
「ええとご主人、実は『反実の稀滴』について、どうしても…」
「少し黙ったままそこに立っていろ」
言葉を紡ごうとしていた彼女の口が、音を立てて閉ざされる。
ヴェルチの目に宿っていた決心の光が、瞬時にして掻き消えた。
「いいか、エリカ。『反実の稀滴』での願いというのは、こうやるのだ」
『反実の稀滴』の『願いと反対』の解釈について論議していたらしく、ヴァルクはグラスに注いだ金色の液体を一息に嚥下した。
「『エリカの使い魔が、その身に帯びた魔術の一切を解除されませんように』!」
「お前!」
ヴァルクの発した言葉に、エリカが立ち上がって金色の液体に満たされたグラスを倒しながら叫んだ。
「ふん、そう動揺するな。また掛け直せばいいだけの話だろう」
「それをお前が言うか…って、あれ?」
いつまでたっても変わらない様子のユーキに、ヴァルクに掴みかかろうとしていたエリカが動きを止めた。
「何も…起こらないぞ…?」
「そんな馬鹿な、確かに貴様の使い魔の魔術解除を願ったんだ」
「ふん、お前の願い方が間違っていただけだ。いいか、こうやるんだ…!」
エリカは、動揺を滲ませるヴァルクの手から瓶を奪うと、口を付けて金色の液体を吸い、嚥下した。
そして瓶を口から放しながら、一気に声を放った。
「『ヴァルクの使い魔が、末永く健康でありますように』!」
おそらく、その場での負傷か発病を願ったのだろうが、ヴェルチは変わることなく立っていた。
「あれ…?」
「やはり、貴様もへぼだったようだな。もしくは、貴様が関わったせいで、『反実の稀滴』が何の効果もない金色の液体になったのかもしれんな」
「何ぃ…!?その言葉そのまま返すぞ」
エリカとヴァルクが睨み合いながら、言葉を交わす。
「俺の持ち込んだ材料は完璧だったし、過熱にも問題はなかったはずだ」
「私も調合と攪拌は完璧にしたぞ!」
「だったら、我々の願い方が不味かったということなのだな」
「…」
「…」
一瞬の沈黙を挟むと、二人が同時に動いた。
エリカが瓶の口を吸って金色の液体を嚥下し、ヴァルクが瓶に指をかけて、エリカから瓶を奪った。そしてすぐさま彼も『反実の稀滴』を嚥下した。
「『私の使い魔が、その身を縛る魔術の一切から解放され、生きて動きますように』!」
「『俺の使い魔が、使い魔の契約としての一切から解き放たれ、己の意志で行動できますように』!」
二人の口から迸ったのは、自身の使い魔に対する支配の強化の願いだった。
だが、結晶によりその効果が逆転している『反実の稀滴』は、二人の願いを言葉の通りに叶えた。
ユーキとヴェルチに掛けられた、魔術の一切を解除したのだ。
「っ!?」
「ひゃ…!」
一瞬二人の身体が輝き、使い魔の契約として施されていた魔術が完全に解除された。
『黙っていろ』という命令に逆らい、口から迸った自身の声に、ヴェルチが思わず口元に手を当て、驚きに目を見開いた。
「なんだぁ…?」
「今、ヴェルチが喋ったように…」
一瞬二人の胸中を疑念が去来するが、目に見える効果が現れなかったためか、すぐに興味を失った。
「まあいい、効果が良く分からないんじゃあ、確かめたことにはならない。お前で試してやる」
「望むところだ母猿。ヴェルチ、お前は巻き込まれないようにこの場から離れていろ」
ヴェルチは勢い良く頷くと、ユーキの手を掴んで走り出した。
今現在の彼女には使い魔としての制約は何もなかったが、二人に巻き込まれることを考えれば、ここで逆らうべきではないと判じたからだ。
ヴェルチとユーキが、壁に穿たれた大穴から飛び出して行くと同時に、再び二人が瓶を奪い合った。
エリカが瓶の口にかみつき、残り少ない金色の液体を嚥下していく。ヴァルクはどうしても瓶を奪えないことを悟ると、炎の手を作り出して瓶を横一文字に切断し、強引に新たな口を作った。そしてそこに口を突っ込むようにして、直接金色の液体を口に含み、嚥下した。
そして、ほぼ同時に二人は瓶から顔を離し、叫んだ。
「『ヴァルクの姿と心が、素直だった少年のころに戻りますように』!」
「『エリカが、豊満な肉体にやさしい性格の、彼女自身の理想の姿になりますように』!」
精神のねじ曲がった老人の姿への変化の願いと、性格の悪い醜女という理想から最も遠い姿への願いが、口にした願い通りに叶えられる。
二人の身体から光が迸り、直後そこには、赤髪の少年と豊満な体つきの金髪の美女が現れていた。
「あれ…え…?」
「なん…で…?え…?」
二人とも、相手と自信の変化に理解が及ばず、互いに顔を見合わせるばかりだった。
「何が…え…?」
「何で俺…あれ?」
「もしかして…私たちが願ったことが、そのまま発現していたの…?」
「ということは…これまでノルマとして願っていたことは…」
状況を理解していくのに合わせ、二人は恐ろしい可能性にたどり着いた。
「っ!今何時!?」
赤髪の少年が弾かれたように時計に目を向けた。
横倒しになった時計の針は、既に二本とも重なりつつあった。
「も、もう三分…いや二分もない!」
「早く、ノルマを…!」
二人が絨毯に転がる、真っ二つになってほぼ空になった瓶に手を伸ばした。
それぞれの手にごく僅かな量の『反実の稀滴』が残った瓶が収まるが、二人はなかなか口を付けようとしなかった。
「エリカ!早くそれを飲んで、何か願うんだ!でないと、でないと…!」
「私も考えているけど、願いが浮かばないのよ!」
ただでさえ焦っているのに加えて、二人の精神が先ほどの願いで善良なものに作り替えられているため、ノルマを達成するのに必要な悪意が足りないのだ。
迷い、戸惑い、焦っている間にも、時間は進んでいく。
「も、もう何も思いつかないよ…」
「諦めないの!とにかく、これを飲んで何でもいいから、一番悪いことを言うのよ!」
外見通り、子供めいた泣き言を漏らす少年を鼓舞するが、エリカも何も思いつけずにいた。
二人の視線の先で、時計の長針が、ぎしぎしと音を立てて短針と重なっていく。
あと三十秒。いや、十五秒もないのかもしれない。
「…ええい!」
二人は勢いをつけて、文字通り一滴だけとなった『反実の稀滴』を口に含み、嚥下すると、同時に声を迸らせた。
『全て、元通りに!』
その一言に、二人の身体から光が溢れ出し、満身創痍の男と少女の姿がその場に現れた。
ぼーん ぼーん ぼーん
直後、くぐもった鐘の音が一日の終わりと一日の始まりを告げる、十二回から成る音を奏で始めた。
だが、二人は極限の疲労と緊張によって意識の糸が千切れたためか、最初の金が鳴りやむ前に気を失ってしまった。
ぼーん ぼーん ぼーん
折り重なるように倒れる二人と、瓦礫の転がる居間に鐘の音が響く。
ぼーん ぼーん ぼーん
壁の穴から廊下へ溢れ出し、廊下を伝って屋敷の隅々に鐘の音が届いていく。
ぼーん ぼーん
そして、魔女と魔術師のほかにだれもいない屋敷を鐘の音が満たして行った。
ぼーん
十二回目の鐘が鳴り響き、後には重いほどの沈黙が取り残された。
すると不意に、エリカとヴァルクの転がる居間を、墨のように濃密な闇が満たした。
闇は今の隅から隅までを覆い尽くすと、一瞬で掻き消え、寸分違わぬ居間が露になる。
暖炉の前に黒髪の女がたっているのを除けば、何の変化もなかった。
「エリカ・アンダースノゥ師に、ヴァルク・ギュッテン師」
足元で倒れ伏す二人に向けて、黒髪の魔女が呼びかける。
「前年度のノルマの未満了を、現在確認いたしました。異議申し立てや、申し開きがある場合は、今この場で受け付けます」
転がる二人に向けて、黒髪の魔女は告げるが、無論のこと二人は何の反応も返さなかった。
「…ノルマそっちのけで、夫婦で馬鹿騒ぎとは…よろしいでしょう。では、ペナルティの取り立てをさせていただきます」
返事のない二人にぼやくと、彼女は一礼した。
すると、黒髪の魔女が現れた時と同じように、重油の如き闇が辺り一帯を塗りつぶして行った。
程なくして、闇は現れた時と同じように唐突に掻き消える。
廃墟と化した館の中で不自然に無事な暖炉の前には、誰もいなかった。
黒髪の魔女も、
エリカも、ヴァルクも。
誰もいなかった。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

屋敷の外、門の前に二つの影があった。
一つは門に寄りかかるインプの少女で、もう一つは門の前に屈む少年だった。
「…んーご主人たち、どうやら達成できなかったみたいだねえ…」
自身の身体から解放されていく使い魔の契約の魔術に、ヴェルチは主が『取り立て』られたことを悟った。
「うん…」
長年寝食を共にしてきた主人がいなくなってしまったことに、ユーキは僅かばかりながら顔を曇らせていた。
「んもー、せっかく自由になったのに、そんな辛気臭い顔しないの!」
「でも…僕はマスターの下以外での暮らし方とか、昔のこととか知らないし…」
改めて彼の前に差し出された自由の、彼は戸惑い、おびえていた。
「…自分の本当の名前とか、知りたくないの?」
「…え…?」
頭上から降り注ぐ声に顔を上げれば、ヴェルチが彼の前に立っているのが見えた。
「自分の本当の名前、自分の本当の家、自分がなぜエリカの使い魔になることになったのか、知りたくないの?」
「そりゃあ、知りたいけど…」
「だったら、あんた自身のことを調べようじゃないの、あんたとアタシの自由を使って」
「…それって…」
彼女自身の隙勝手気ままな時間を、自分のために使ってくれるという彼女の言葉に、少年は困惑した。
彼女の申し出は、ユーキ自身のために彼女の時間を割くことにつながるからだ。
やっと手に入れた彼女の自由を、自分自身のために使わせていいのだろうか?
「遠慮しないの。私の自由なんだし、あんたのために使っても問題ないでしょ?それに…」
ふふ、と笑ってから彼女は付け加えた。
「アタシも、あんたの正体がちょっと気になってるところだったからね」
「…あり、がとう…」
主を失った彼に手を差し伸べ、新たな目標と仲間を授けてくれたヴェルチに、彼は心の底からの礼を口にした。
「じゃあ、さっそく移動するわよ。ここにいたら風邪ひくし、あんたの屋敷はもう住めないだろうから、アタシの元ご主人の屋敷に行くわよ」
「…うん…」
差し出されたインプの少女の手を取り、彼は立ち上がる。
そして、二人は門の前を離れて、歩いて行った。
二人の明日に向けて、二人の自由を使うために。
11/04/01 01:31更新 / 十二屋月蝕

■作者メッセージ
ミヒャエル・エンデ作「魔法のカクテル」は私が最も好きな作品の一つです。
ネコとカラスに、魔術師と魔女。個性的なキャラクターたちの強烈な対話や、魔術師と魔女の末路は当時小学生だった私の心に強い衝撃を与えました。
おすすめの一冊を上げろと言われれば、候補の一つに挙げられる作品です。
映像化を待っている作品の一つでもありますが、基本が言葉遊びなので、「はてしない物語」と違って映像化は難しいでしょう。
興味を持たれた方は、読むことをお勧めします。
児童書だからと敬遠なさらず、一度手に取って見てください。

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まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33