SideV
「う、痛っ……」
右の顔面に腫れ上がるように広がる痛み。
それと背中に走る、肩凝りに似たジワリとした鈍い痛み。
二つの苦痛が重なり合い、僕の意識が浮かび上がる。
それらと共に、僕はゆっくりと目を開けていく。
すると途端に、寝起きには眩しすぎる光が飛び込んできた。
ステージの月の淡い照明とはまるで違う、強烈で無感情な光に僕はつい眉をしかめてしまう。
だがそれも、しばらくすると慣れ始め、ぼんやりとした視界も徐々に開けていく。
やがて白い天上が目の前に現れると、後頭部から背中にかけて伝わってくる違和感に気がつく。僕の身体は何かの上に仰向けに寝かされているようだった。
僕は横になったまま、目をスライドさせて辺りを見回してみる。
「ここは……?」
どこにでもある、いわゆる一般的な楽屋というやつだった。
天井と他四面が全て真っ白な壁で覆われた空間、その中の一面には同じく白色のカウンター席と数枚の化粧鏡が設置されている。鏡の上には月のように丸い蛍光灯が力強く無機質に灯っている。
さっきの光の正体はこれだったのか。普段仕事場でも似たような光を浴びているはずなのに、何故だか妙な嫌悪感がある。
蛍光灯の光とはこんなにも瞳に優しくないものだっただろうか。
僕は、楽屋にある灰色の椅子を複数並べて作られた簡易的なベッドの上で横になっていた。背中の下に一定の間隔で、妙な隙間があるのを感じる。
僕は身体をモゾモゾと揺らして、やおら身体を起こそうとする。
しかし、それは思う通りにはいかなかった。
身体を起こす途中で抵抗感があり、寝かされた椅子から離れられないのだ。
その時になってようやく、僕は自分の身体の非常事態に気がつく。僕の両手首と右足には、それぞれ手錠が填められて、それが椅子にくくりつけられていた。
「目が覚めたか?」
やけに軽快な印象の声が聞こえて、僕はそちらを向く。
そこには針ネズミのように四方八方に尖った金髪の女性がこちらを覗き込むようにして、僕のすぐ近くの椅子に立っていた。
「店の方針でな。不審者には容赦しねぇことにしている」
針ネズミ頭の女性は男勝りな口調でそう告げると、僕の右足についた手錠を軽く蹴る。
彼女のその脚はもはや当然のように、人間のそれではなかった。
足は猛禽類のそれに似た形状をしていて、ゴツゴツとした頑丈そうな鱗が足先から太ももにまで敷き詰められている。つま先には研いだナイフのように鉛色に輝く鉤爪があり、その先端はこちらに向けられている。きっと僕程度の身体の肉なら、やすやすと引き裂けるであろう。
特徴は足だけではない。彼女の両腕もまたそうだった。
彼女の腕の付け根の辺りから先は、大きく迫力のある鳥の翼になっていた。全体的に刺々しいそのフォルムは、彼女が好戦的な性格であることをこれでもかと物語っている。
「これでも大事にならねぇように足加減したつもりだったんだけどな。サンダーバードの私が相手だとはいえ、兄ちゃんもう少し身体鍛えた方がいいぜ?」
僕は何も言わずにサンダーバードを見つめ返す。
出会い頭に軽口を叩く彼女に対し、どう返事を返していいものか分からなかった。
彼女のことは覚えている。
さきほど科白が参加していたバンドのドラムを叩いていた魔物だ。その容姿や言動からして、パンクロック好きのヤンキー女という感じだが、こうして近くで見ると意外と小柄な印象をうけた。
僕はちらりと手錠の状態を確認する。
手錠は自転車のチェーンに似た鎖で椅子に厳重に噛み合わせてあり、簡単には取り外せそうにもない。足についている方も同様だ。
僕は無言のまま、サンダーバードの女性を見つめ返すことしか出来なかった。
「だんまりかよ……こっちは寝てる間に刺身にしてやってもよかったんだぜ。深月さんが穏便に済ませろって言ったから、仕方なく綺麗なままにしてやってるのによ」
サンダーバードの声には、明らかに不満に満ちた苛立ちがこめられていた。
深月……あのバーメイドか。
どうやらあの店員はここでは見た目以上の権力者だったようだ。
だが、これで何となく状況は察した。
僕は彼女達にとっての『不審者』なのだ。
あの科白に手を出した容疑として、僕は不審者としてこの部屋に監禁されているというわけだ。
迂闊だった。
おそらく僕がこの店に入って深月に声をかけられた時には、既に疑われていたのだろう。僕の強行に迅速に対応してきた点についても、深月やこのサンダーバードが科白の仲間なら、科白から僕に関しての何らかの特徴など話を聞いていたって何もおかしくはない。
むしろこの店に入った時点で手遅れだったといってもいいのかもしれない。自業自得とはいえ、どう考えても警戒心が足りてなかった。
それにしても、だ。
僕はさきほどの強姦行為を思い出す。
あまりの愚かさに頭が痛くなりそうだ。
今考えれば、楽屋のメンバーが近くにいることは分かっていたのに、どうかしていたとしか思えなかった。
何故あんな行為に走ったのか、正直僕自身にすら分からない。一つだけはっきり言えるのは、明らかに僕は正気ではなかったということだ。科白のことは、性的な視線で見たことなど一度もなかった。なんなら科白を問い詰めるその瞬間まで、そういうことをしようとも思わなかったのだ。
魔物の色欲の気配にでもあてられたのかもしれない。
いや、これはもしかしたら、アイツに誘い込まれたのではないだろうか?
普段と違うアジアンな洒落た衣装の科白。
追った先に見つけた、魔物が働く隠れバー。
そこで会った科白と親しいであろう魔物のドラマー。
なんだか、どこか出来すぎているような気さえする。
相手は魔物だ。あの手この手で堕落させに来たっておかしくはないだろう。
だがそこまで考えたところで、あくまでそれも臆測の範囲内であることにも気がつく。
「おい、聞いてんのか?」
僕が一人で思案していることに腹を立てたのだろう。
ドスのきいた声でサンダーバードが右足を僕の顔に突きつけてくる。
正面から見る彼女の爪はそこいらの刃物よりも断然、恐ろしかった。
「お前が喋る気がねぇならこっちから言うぞ。一体何しに、この店に来た?まぁ目的は大体分かるが……言いたいことがあんなら一応聞いといてやるよ」
するとサンダーバードは片足立ちのまま、見せつけるようにその雄々しい翼を広げる。その翼の中には見覚えのある財布が見えた。
「僕の財布……」
「そういうことだな。少しは素直に話しな、或森夕輔くん」
僕の財布の中には僕の保険証なども入っている。既にもう個人情報は筒抜けらしい。
獲物を捕らえたように口元を歪めて勝ち誇った顔の彼女が、切れ味抜群の敵意を全身に浴びてくる。返答によっては本当に刺身にされかねないほどの憤怒を秘めているのが明らかだ。
対して僕の背中には、既に大量の冷や汗が吹き出していた。
全身に鳥肌が立ち、縮こまってしまって動けない。
まずい。本気でピンチだ。
今更になって、僕は自らの危機を実感する。
どうする?
震え怯えて、助けを懇願するか?
いや……待て。
一度、落ち着け。
僕は跳ね回る自分の心臓を意識する。
鼓動に合わせて一つ一つ、丁寧に数えていき。
それに重なるように、ゆっくりと呼吸を続ける。
決して急がず、あくまでスローモーに。
身体に空気を巡らせて、僕は口を開く。
「……僕は科白の事務所で働いている者だ。どういうも何も、なんなら彼女の保護者みたいな身だよ」
僕は精一杯に強気な態度をとる。
素性がバレているのなら、もうこのまま何事もなく無事に帰されることなんて望んではいけない。このまま大人しくしていたところで警察行きは免れないだろう。いや相手は攻撃意志をもつ魔物だ。もしかしたらそれより先に病院に連れていかれるかもしれない。
それに今ここで助けを懇願したところで、このサンダーバードの神経を逆撫でするだけだろう。
もうどうせろくな目に遭わないのなら、彼女の言う通りに言いたいことを言い切ってしまえ。僕は怯えて声が震えないように気を張りながら続ける。
「こっちこそ科白に聞きたいね。本業や生活がまともにこなせていないのに、何でまたこんなところで楽器なんて弾いてんのかってな。僕に仕事を押し付けて随分と楽しそうじゃないか」
僕はわざと嫌味たらしく、舌打ちし、吐き捨てる。
いかにもこちらに言い分があるんだという態度を崩さない。
「……そっちにも事情がある、とでも言いたいのか?だからって……いのっちに乱暴したことを許すつもりはないがな」
挑発的な態度が逆に功を成したのか、サンダーバードの女の刺し殺すような視線が多少弱まる。だが、その鋭い鉤爪は依然として僕に突きつけられたままだ。
「別に……科白の趣味にどうこう言うつもりはないんだ。だけどその前にやることあんだろう?せめて自分の飯くらいはしっかりやってくれよ、魔物だからって社会生活をしなくていい理由にはならないだろ」
「てめえ。事情も知らねえでウダウダと」
負けじと口を開いて応戦すると、怒号と共に悠希の左足に力が込められる。彼女の爪が食い込むたびに、メリメリとビニール製の床が削れていき、耳障りな摩擦音が部屋中に響き渡る。
僕は肩をすくめ、耳の代わりにぐっと目をきつく瞑る。
「悠希ちゃん、ちょっと落ち着いて」
掠れているが、強く芯のある声。
僕は目を開けて、声のする方を注視する。
部屋の扉の方に立っていたのは、バーメイドの深月だった。
「ごめんなさい、この子血の気が多くて……やっぱり貴方が、祈里ちゃんのところの世話係さんなのね?」
言いながら、深月のフラットヒールの音が近づいて来る。
『やっぱり』という言い方からして、先ほどの予想は正しかったようだ。
「最初から分かってたんだろ、関わらないじゃなかったのか?」
「一応これでも、店長代理を行っている身ですからね。店や仲間の、身の安全に気を配らないといけませんから。ほら悠希さんも、穏便に済ませてって言ったでしょう?」
「だ……わかったよ」
悠希と呼ばれたサンダーバードは一瞬、反論する素振りを見せるがすぐに持ちあげた足の爪をひっ込める。
「命拾いしたな、クズが」
漫画でしか聞いたことの無いチンピラみたいな捨て台詞を残して、悠希は深月の隣まで歩いていく。
それを見届けた深月は大げさにため息をつき、口を開く。
「手荒な真似をするつもりはありません……ですが祈里ちゃんへの行為を考えると、こちらとしても手を抜くわけにはいきませんので、手錠は念のためです」
「いや、僕も流石に手を出したのは悪かったとは思っている。どうかしていた」
「……随分と冷静で素直ですね?それで許されるとでも?」
「こんな拘束された状態でパニックにもなってもね?というか喋るんなら身体を起こしたい、寝ながらだと辛いよ」
「てめぇ……」
僕のわざとからかうような態度に、悠希が再び鉤爪を持ち上げようとした瞬間、深月がその右手と視線を悠希の方へと向ける。
差し出されたその手には、手錠のものらしき鍵が握られている。
「チッ」
悠希は舌打ちをして、多少荒っぽく鍵を受け取ると僕に近づく。そして僕の脚の方にある椅子の傍で膝をつく。
悠希は口で鍵を咥えると、器用な動きで僕の足についた手錠を外す。
手錠が外れた瞬間、脚が軽くなるような錯覚を感じた。
「手の方は外さねぇ、妙な真似したら裂く」
僕がやおら身体を起こしそうとした際、耳元で悠希がぼそりと言葉を残す。
単純でかつストレートな攻撃の意志の込められた声に背筋がぞくりと冷たくなる。
「ところで……科白は、どこへ行った?」
僕はなるべく悠希の敵意から気を逸らそうと、思い出したかように深月にそう告げる。なおざりな態度をとる僕を見て、悠希の目付きがさらに鋭くなるが、気にしないように視線を外す。
「この楽屋の外にいます。大丈夫、幸い怪我はしていませんよ」
深月は妙に優しくフォローをしてくる。
僕が科白の安否を心配したと勘違いしたのだろうか。
まぁだが、別にそこを否定するつもりはない。僕は正気でなかったけど、乱暴をするつもりではなかった。
確かに科白に対してマイナスな感情はある。だけど魔物とはいえ女性に怪我をさせて喜ぶほど、僕はクズにはなりきれていなかった。
「或森さん。差し支えなければ祈里ちゃんがなぜここに来ているか、お話してもいいでしょうか?」
僕が声を発さずに頷くと、深月は軽く頭を垂れて語り始める。
「このバーにはですね。もう一つ……人間と接しているうちに、心が疲れてしまった魔物のための、居場所としても役割もあるんです」
「心が……?」
深月の話す内容に僕はいまいちイメージを掴めず、そのままオウム返ししてしまう。どういうことだ。福祉系の相談所みたいなものなのだろうか。
「或森さんが祈里ちゃんの事務所に来る前のお話です。貴方が来る前にも、祈里ちゃんには別のお世話係がいたことは知っていますか?」
今の家政夫の仕事につく前に、出版社の方から聞いていた。
もう思い出すだけで辛くなる話だけどな。
「知っている。出版社の人間だろ。確か異動があったって聞いている」
「ええ、その通りです。去年の夏頃……丁度1年前かしら。前の世話係の人は出版社の社員の方で、祈里ちゃんの担当になったばかりでした」
「そいつは、普通の人間か?」
「そうです。普通の、人間の男性です。彼が初めて祈里ちゃんの事務所に訪れた時、彼は事務所のそのあまりの汚さに相当驚いたらしくて」
「そりゃあそうだ。完全にゴミ屋敷だしな。一般人にあそこは汚すぎる」
僕は軽くにやけるが、深月は全く表情を変えずに話を続ける。
「彼はとてもおせっかいで、でもとても人柄の良い方でした。初めて会ったばかりの、普通なら距離をおくはずの不衛生な環境に住む祈里ちゃんのことを『汚い』ではなく『放っておけない』と言ったそうです」
最後の方は、さっきの僕の発言への皮肉にも聞こえた。別に、気にはしていないけど。
そういえば、僕も初めて科白の事務所を訪れた時はショックだったな。当時の頭を殴られたみたいなあの衝撃、多分忘れられそうにもない。
あの環境で平然と仕事をする科白の感覚が、僕にはさっぱり理解できない。
「祈里ちゃんも最初は警戒して、彼を拒んだそうです。魔物は病気に強く、多少いい加減な生活にも対応できます。言ってしまえば、彼の行為は祈里ちゃんには必要のないものでした。ですが、出版社の彼はしつこいくらいに諦めませんでした。何度も祈里ちゃんが拒否的な態度をとっても、何度も彼は仕事の合間をぬっては、いえ、たとえ仕事の用がなくとも彼女の作業場に訪れていました」
「へぇ、物好きだな、惚れてたのか?」
「さぁそこまでは。ただの親切心だったのかもしれません。ただ彼は祈里ちゃんに何をする訳でもなく、時折気さくに祈里ちゃんに声をかけながら、部屋の掃除、洗濯、料理、書類の整理を行って、夜にはただ帰っていく……それをほぼ毎日、繰り返していたそうです。それが、彼女達の世話係の始まりでした」
馬鹿馬鹿しいシチュエーションだ、と僕は辟易する。
どこぞのお人好しがそんなおせっかいを焼いたせいで、僕はこんな目にあっているのだから。
深月は先ほどまで僕が横になっていた椅子、つまり僕のすぐ隣の、そこに腰掛けると、一つため息を吐いた。
「そんな……人と魔物とは思えないくらいの純粋な関係が続くと、次第に祈里ちゃんの方も気を許し始めたのでしょうね。とりとめのない彼の世間話にも応えるようにもなりました。二人は時間をかけて、だんだんと打ち解けていったんです。本当に、すごく仲が良かったんですよ?まるで恋人かと思うくらい」
「……そうかい」
別に、科白の色恋事情になど興味はなかった。
だが『まるで』という言い方からして、あまり良さそうな結果ではなさそうなことは察した。興味はなくとも、魔物にとっての色恋と言うものがどれだけ重要な事項であるかは理解していた。
「昔から祈里ちゃんは会話と家事が苦手な干物さんだったんですけれど……その方と会ってからは、家事に対して少しずつ意欲的に取り組んでいました。今の状態では、想像つかないかもしれませんけどね」
深月は僕に近づき、隣の椅子に腰掛けて話を続ける。
「我々魔物からすれば、屋根の下で一緒にいる男性に好意を持つなんてことは当然の話です。そしてその人がやっていることにも興味を持つのも同じことでした。次第に祈里ちゃんは、彼となら家事も仕事も一緒にやっていけるかな、と。うっすら考えていたそうですよ」
僕は黙って深月の話に相槌を返す。
一緒になって、ねぇ。
自然と視線が遠くの方へとずれていく。
随分と羨ましい話だと、僕は再度げんなりしてしまう。
僕にはいなかったよ。
僕の夢を、仕事をそんな風に思ってくれる人なんて。
「去年のクリスマスの日でした。大人しくて恋愛に疎い祈里ちゃんにとっては、もう一斉一代のお誘いでした。彼を私たちに紹介したくて、この店に呼ぼうとしたんです」
クリスマスに男女が出会う……人間でも魔物でもよくある話だ。別段珍しくもない。いかにも、夢を追いかけられない魔物がやりそうなことだ。
正直食傷気味ですらある。
「でも……彼は、来ませんでした。彼には既にお相手がいらっしゃったんです」
だが、もたれ気味の僕の胸を穿つその言葉は、嫌に軽々と投げられた気がした。
「後から出版会社の方から聞かされた話ですが……彼のお相手、かなり独占欲の強い魔物の幼馴染みだったそうです。その魔物娘さんにとっては彼の家事代行は、浮気をされているみたいで気に入らなかったんでしょう。幼馴染の彼女は強制的に彼を魅了し、彼女以外に興味を失ったインキュバスにしてしまいました」
そこで深月は一旦言葉を切る。
その次の言葉を言うかどうか、迷ったようだった。
しかし、やがて観念したかのように、深月はその後を告げる。
「……それ以来、彼は祈里ちゃんの作業場には一度たりとも来ませんでした。彼がそのお馴染みの魔物娘さんのことをどう思っていたのか、今では分かりません。ですが『選ばれなかったのは祈里ちゃんであること』は、事実です」
選ばれなかった。
選ばれなかった、のか?
かすがいを胸に打ち込まれたみたいに、その言葉だけが耳の奥に反響して、いつまでも引っかかる。
本当にそれで、そいつはその幼馴染みといて、それで嬉しいのだろうか?
「それから祈里ちゃんは、風船が破裂したみたいに意気消沈してしまって、家事にはもう見向きもしなくなりました。そして年が明けてからは、今のようなゴミ屋敷生活……というわけです」
話し終えた深月はそのまま閉口し、大きく呼吸をする。
「……アタシはいのっちの昔からのバンド仲間でね。失恋してからもたまに話を聞いていた。けど、仕事だけはちゃんとやるから、仕事にだけは集中するからって、まるで自分に言い聞かせているみたいだった」
深月が黙しているその合間に、悠希が補足をするようにして喋り出す。さっきの好戦的な気持ちが落ち着いたのか、その声は随分と穏やかなものだった。
「アタシが前の世話係のインキュバス化を知ったのは、既にいのっちが事務所に引きこもるようになってからだった。でも、フラれた後に一人で部屋にいたって良いこと無いだろ?」
多少ぶっきらぼうだが、確かに心配するような声で悠希はそう告げる。それは悠希なりの懺悔のようにも聞こえた。
「だからアタシは事務所から連れ出すためにずっと、いのっちをリハビリ代わりにバンドの練習やライブに誘っていた。実際に来るようになったのは七月に入ってからだが、そこは流石にサイクロプスでね。腕はさっぱり鈍っていなかった」
あの演奏がリハビリ代わり、か。
その割には随分と高レベルなものだった気もするがな。僕は改めて、科白の表現者としての実力を思い知る。
「演奏をしている時のいのっちは、本当に楽しそうだった……事務所にいたらきっと思い出しちまうだろうから、このままライブに参加していれば、いつかは記憶も薄れていくだろうと、そう思っていた……そしたら、いつの間にか、こんなクズが新しい世話係として就いてやがって、しかも何故かこんな所にまで付いてきやがるし……会社の人間って、本当に利益しか考えてねぇのな」
悠希は糞に唾を吐くような態度でそう締め括ると、深月と同じように閉口する。
七月……丁度、僕が科白の外出に気がついた時でもあった。
その時期に、科白に何か気持ちの変化でもあったんだろうか。
その後は誰も口を開かないでいた。
真白い楽屋内は奇妙なくらいに静まり返っていた。
部屋にはほとんど何もなく、本当に白いだけの部屋といっていい。
本来は色んなものがあったのかもしれないが、多分僕が脱出しないようにモノを隠したのかな。
そういえば、今は一体何時だろう?
部屋の時計を見ると、既に12時に近かった。もうここは店じまいなのだろうか。
防音の設備があるのおかげか、室内に音が立つことは無かった。
時計も秒針の鳴らないタイプで、室内の静けさにさらに拍車をかけていた。
静寂に次ぐ、静寂。
だがやがて、その異様な空間にも耐えられなくなり、僕は胸に湧いた言葉を口にする。
「事情は分かったよ……だけど」
ごくりと、つばを飲む。
迷ったけど、これは言うべきだと思った。
「僕はその男の、身代わりにはなれない」
身代わりという言葉を使ったことを、少しだけ後悔した。
僕が装丁家として科白祈里を尊敬していたのは事実だ。
しかし、それとこれは別の話だ。
そもそもサイクロプスというものは長寿の魔物だと聞いた。
それと比べれてしまえば、人の一生など本当に些細なものだろう。科白の失恋のことは残念には思う。だがきっとそれは、長い長い時の流れの一端であり、それらを解決をするのもまた、長い時間がしてくれるはずだ。
科白にはきっとこれから先、いくらでも時間がある。
だから僕の貴重で短い人生の時間を、自身の夢以外のものに、特にそんな他人の色恋の後始末に使いたくはなかった。
何よりも、僕はそんな気の良いお人好しの穴を埋められるほど、人間が出来ちゃいないんだ。
「僕には装丁家になるという夢がある。僕は自分の夢を叶えるのに忙しいんだ」
「お前……少し言い方ってのをなぁ!」
「悠希さん、その必要はありません」
僕の無遠慮な言い方に、またしても悠希が突っ掛かってくるが、それを深月が制止する。
「大丈夫、私達は或森さんにそれを求めていません。むしろ逆なんです」
深月はわざわざ僕の前に立って、深々と頭を下げる。
言葉とは裏腹に、それは随分と低姿勢なものだった。
「さっきの強姦未遂も悠希の暴行の件も、お互いに全て水に流しましょう。ただ、さきほどの貴方の行動を見て、貴方は祈里ちゃんの傍にいるべきではないと思いました……貴方も、そう思っているからここに来たのでしょう?」
深月の喋り方は抑揚のない鬱々としたものだったが、やけに僕の胸の奥深くに何度も突き刺さる。
確かに今日、僕は科白の事務所をクビになるつもりでここに来た。
「……否定はしない。けど……」
しかし僕が応戦する間を与えないように、深月の言葉は僕に覆い被さり、連なっていく。
「祈里ちゃんが立ち直るのには、もう少し時間が要るのです。でもそんな時に、貴方のような方がいられると、きっと祈里ちゃんの精神に支障が出ます。だから祈里ちゃんと関わるのは、もう終わりにして欲しいのです」
深月の言葉が終わる頃には、糞に近い何かが僕の胸の中にパンパンに詰まったような、その場で嘔吐したくなるほどの不快感に襲われていた。
「お願いします。祈里ちゃんの世話係を辞退してもらえませんか?」
今までで一番深く、腰より下へ深月は頭を下げる。
深月のような麗しい女性からの拒絶など初めての経験だった。
ましてや、こんなに頭を下げてまで頼み事なんて尚更だ。
しかしだからといって、こうまで言われる筋合いはない。
「……外に関しての情念は持ち込まないんじゃないのか?」
「分かっています。ですが私達の優先すべき役目は、祈里ちゃんの逃げ場を守ることです」
「人に職を失わせてまで守らなきゃいけないものか?」
「それも、分かっています。でも、それでも祈里ちゃんがこの先を生きていくには、この傷を無事に乗り越えなくてはいけないのです」
深く、何度でも深く。
しつこいくらいに深月はその巻き角の生えた頭を下げ続ける。
「退職金のことでしたら祈里ちゃんと一緒に、それなりの額を出してもらえるように出版社に掛け合ってみます。ですからどうか……祈里ちゃんを、今しばらく、許してあげて下さい」
最後の方は、少し声が震えていた。
見た目としては、深月が僕にお願いをしているように見えるのだろう。そのはずなのだが、この低い小さな頭には、何故か脅迫じみた威圧感を覚えてしまう。
それは先ほどの悠希の鉤爪の脅しなど、比にもならないくらいの脅威だった。
僕は戸惑ってしまう。
確かに僕は科白の世話係に嫌気が指している。
辞めたいと思ったことも本当だ。
でも、どうしてそこまでして、深月は科白のために頭を下げられる?
いつの間にか僕の脳内には、専門学校時代の記憶が甦っていた。
口から出る言葉は夢を追うことばかりで、周りにはいつの間にか人も魔物も、友達もいなくなっていた。
でも独りになると、途端に自分自身が疑わしくなるのだ。
口では叶えたいなんて言いながら、本当はそれを本気で望んでいるわけではないのではないかと。
いっそ夢なんて思いきりの良く捨ててしまえば、もっと楽しい学生生活が送れただろうかと考えたが、そんな勇気さえも僕は持ち合わせていなかった。きっと夢が無くなることで、自分の過去が空虚になってしまうことが嫌だったのだろう。
いつしか『僕の夢』は自分でも信じられないほどに中途半端に燻ったまま、薄汚れて異臭を放っている。
それでも諦めるにはまだ何もなし得ていなくて、でもそれゆえに、どこか呪いにも似た何かに歪んでいる。
だがこの魔物は、深月はどうだ?
本当に己が守りたいもののために、自分の意見を通すために見せるこの姿勢はどうだ。
自分が言った言葉の矛盾まで肯定し、それでも仲間と店を守るために下げ続けるこの小さな頭。
この羊角のように、捻れながらも芯強く伸びている深月を拒否する権利が誰にある?
なぁ或森夕輔、お前の夢は……この先、彼女の低く小さな頭を越えるほどの大きなものになり得るのか?
……愚問でしかないか。
もういい。
もうため息も出やしない。
もう何もかもが面倒だ。
僕はただ、憧れの装丁家になりたかった。
でもそんなものは最初だけだったのだ。
人間のできていない僕には夢なんて代物は、荷が重かったのだろう。
こんなことなら最初から、装丁家なんて目指さなければ良かったのだ。
もう、僕の夢は死に時なのだ。
僕の夢は既に処刑の断首台に乗っている。
僕の頭は巨大な刃物だ。
他でもない僕自身が、台に乗った夢の首を切り落とすのだ。
今、その首に引導を渡すために、僕は顎を大きく縦に―――
「あの……!」
ふいに聞こえてくる大声は聞き覚えがあるようで、今までついぞ聞いたことのなかった新鮮さも含んでいた。
振り向けばそこには、やはりいつもの青い肌と、1つしかない大きな瞳。
その声の主、科白祈里がドアノブをガッチリと握って立っていた。
右の顔面に腫れ上がるように広がる痛み。
それと背中に走る、肩凝りに似たジワリとした鈍い痛み。
二つの苦痛が重なり合い、僕の意識が浮かび上がる。
それらと共に、僕はゆっくりと目を開けていく。
すると途端に、寝起きには眩しすぎる光が飛び込んできた。
ステージの月の淡い照明とはまるで違う、強烈で無感情な光に僕はつい眉をしかめてしまう。
だがそれも、しばらくすると慣れ始め、ぼんやりとした視界も徐々に開けていく。
やがて白い天上が目の前に現れると、後頭部から背中にかけて伝わってくる違和感に気がつく。僕の身体は何かの上に仰向けに寝かされているようだった。
僕は横になったまま、目をスライドさせて辺りを見回してみる。
「ここは……?」
どこにでもある、いわゆる一般的な楽屋というやつだった。
天井と他四面が全て真っ白な壁で覆われた空間、その中の一面には同じく白色のカウンター席と数枚の化粧鏡が設置されている。鏡の上には月のように丸い蛍光灯が力強く無機質に灯っている。
さっきの光の正体はこれだったのか。普段仕事場でも似たような光を浴びているはずなのに、何故だか妙な嫌悪感がある。
蛍光灯の光とはこんなにも瞳に優しくないものだっただろうか。
僕は、楽屋にある灰色の椅子を複数並べて作られた簡易的なベッドの上で横になっていた。背中の下に一定の間隔で、妙な隙間があるのを感じる。
僕は身体をモゾモゾと揺らして、やおら身体を起こそうとする。
しかし、それは思う通りにはいかなかった。
身体を起こす途中で抵抗感があり、寝かされた椅子から離れられないのだ。
その時になってようやく、僕は自分の身体の非常事態に気がつく。僕の両手首と右足には、それぞれ手錠が填められて、それが椅子にくくりつけられていた。
「目が覚めたか?」
やけに軽快な印象の声が聞こえて、僕はそちらを向く。
そこには針ネズミのように四方八方に尖った金髪の女性がこちらを覗き込むようにして、僕のすぐ近くの椅子に立っていた。
「店の方針でな。不審者には容赦しねぇことにしている」
針ネズミ頭の女性は男勝りな口調でそう告げると、僕の右足についた手錠を軽く蹴る。
彼女のその脚はもはや当然のように、人間のそれではなかった。
足は猛禽類のそれに似た形状をしていて、ゴツゴツとした頑丈そうな鱗が足先から太ももにまで敷き詰められている。つま先には研いだナイフのように鉛色に輝く鉤爪があり、その先端はこちらに向けられている。きっと僕程度の身体の肉なら、やすやすと引き裂けるであろう。
特徴は足だけではない。彼女の両腕もまたそうだった。
彼女の腕の付け根の辺りから先は、大きく迫力のある鳥の翼になっていた。全体的に刺々しいそのフォルムは、彼女が好戦的な性格であることをこれでもかと物語っている。
「これでも大事にならねぇように足加減したつもりだったんだけどな。サンダーバードの私が相手だとはいえ、兄ちゃんもう少し身体鍛えた方がいいぜ?」
僕は何も言わずにサンダーバードを見つめ返す。
出会い頭に軽口を叩く彼女に対し、どう返事を返していいものか分からなかった。
彼女のことは覚えている。
さきほど科白が参加していたバンドのドラムを叩いていた魔物だ。その容姿や言動からして、パンクロック好きのヤンキー女という感じだが、こうして近くで見ると意外と小柄な印象をうけた。
僕はちらりと手錠の状態を確認する。
手錠は自転車のチェーンに似た鎖で椅子に厳重に噛み合わせてあり、簡単には取り外せそうにもない。足についている方も同様だ。
僕は無言のまま、サンダーバードの女性を見つめ返すことしか出来なかった。
「だんまりかよ……こっちは寝てる間に刺身にしてやってもよかったんだぜ。深月さんが穏便に済ませろって言ったから、仕方なく綺麗なままにしてやってるのによ」
サンダーバードの声には、明らかに不満に満ちた苛立ちがこめられていた。
深月……あのバーメイドか。
どうやらあの店員はここでは見た目以上の権力者だったようだ。
だが、これで何となく状況は察した。
僕は彼女達にとっての『不審者』なのだ。
あの科白に手を出した容疑として、僕は不審者としてこの部屋に監禁されているというわけだ。
迂闊だった。
おそらく僕がこの店に入って深月に声をかけられた時には、既に疑われていたのだろう。僕の強行に迅速に対応してきた点についても、深月やこのサンダーバードが科白の仲間なら、科白から僕に関しての何らかの特徴など話を聞いていたって何もおかしくはない。
むしろこの店に入った時点で手遅れだったといってもいいのかもしれない。自業自得とはいえ、どう考えても警戒心が足りてなかった。
それにしても、だ。
僕はさきほどの強姦行為を思い出す。
あまりの愚かさに頭が痛くなりそうだ。
今考えれば、楽屋のメンバーが近くにいることは分かっていたのに、どうかしていたとしか思えなかった。
何故あんな行為に走ったのか、正直僕自身にすら分からない。一つだけはっきり言えるのは、明らかに僕は正気ではなかったということだ。科白のことは、性的な視線で見たことなど一度もなかった。なんなら科白を問い詰めるその瞬間まで、そういうことをしようとも思わなかったのだ。
魔物の色欲の気配にでもあてられたのかもしれない。
いや、これはもしかしたら、アイツに誘い込まれたのではないだろうか?
普段と違うアジアンな洒落た衣装の科白。
追った先に見つけた、魔物が働く隠れバー。
そこで会った科白と親しいであろう魔物のドラマー。
なんだか、どこか出来すぎているような気さえする。
相手は魔物だ。あの手この手で堕落させに来たっておかしくはないだろう。
だがそこまで考えたところで、あくまでそれも臆測の範囲内であることにも気がつく。
「おい、聞いてんのか?」
僕が一人で思案していることに腹を立てたのだろう。
ドスのきいた声でサンダーバードが右足を僕の顔に突きつけてくる。
正面から見る彼女の爪はそこいらの刃物よりも断然、恐ろしかった。
「お前が喋る気がねぇならこっちから言うぞ。一体何しに、この店に来た?まぁ目的は大体分かるが……言いたいことがあんなら一応聞いといてやるよ」
するとサンダーバードは片足立ちのまま、見せつけるようにその雄々しい翼を広げる。その翼の中には見覚えのある財布が見えた。
「僕の財布……」
「そういうことだな。少しは素直に話しな、或森夕輔くん」
僕の財布の中には僕の保険証なども入っている。既にもう個人情報は筒抜けらしい。
獲物を捕らえたように口元を歪めて勝ち誇った顔の彼女が、切れ味抜群の敵意を全身に浴びてくる。返答によっては本当に刺身にされかねないほどの憤怒を秘めているのが明らかだ。
対して僕の背中には、既に大量の冷や汗が吹き出していた。
全身に鳥肌が立ち、縮こまってしまって動けない。
まずい。本気でピンチだ。
今更になって、僕は自らの危機を実感する。
どうする?
震え怯えて、助けを懇願するか?
いや……待て。
一度、落ち着け。
僕は跳ね回る自分の心臓を意識する。
鼓動に合わせて一つ一つ、丁寧に数えていき。
それに重なるように、ゆっくりと呼吸を続ける。
決して急がず、あくまでスローモーに。
身体に空気を巡らせて、僕は口を開く。
「……僕は科白の事務所で働いている者だ。どういうも何も、なんなら彼女の保護者みたいな身だよ」
僕は精一杯に強気な態度をとる。
素性がバレているのなら、もうこのまま何事もなく無事に帰されることなんて望んではいけない。このまま大人しくしていたところで警察行きは免れないだろう。いや相手は攻撃意志をもつ魔物だ。もしかしたらそれより先に病院に連れていかれるかもしれない。
それに今ここで助けを懇願したところで、このサンダーバードの神経を逆撫でするだけだろう。
もうどうせろくな目に遭わないのなら、彼女の言う通りに言いたいことを言い切ってしまえ。僕は怯えて声が震えないように気を張りながら続ける。
「こっちこそ科白に聞きたいね。本業や生活がまともにこなせていないのに、何でまたこんなところで楽器なんて弾いてんのかってな。僕に仕事を押し付けて随分と楽しそうじゃないか」
僕はわざと嫌味たらしく、舌打ちし、吐き捨てる。
いかにもこちらに言い分があるんだという態度を崩さない。
「……そっちにも事情がある、とでも言いたいのか?だからって……いのっちに乱暴したことを許すつもりはないがな」
挑発的な態度が逆に功を成したのか、サンダーバードの女の刺し殺すような視線が多少弱まる。だが、その鋭い鉤爪は依然として僕に突きつけられたままだ。
「別に……科白の趣味にどうこう言うつもりはないんだ。だけどその前にやることあんだろう?せめて自分の飯くらいはしっかりやってくれよ、魔物だからって社会生活をしなくていい理由にはならないだろ」
「てめえ。事情も知らねえでウダウダと」
負けじと口を開いて応戦すると、怒号と共に悠希の左足に力が込められる。彼女の爪が食い込むたびに、メリメリとビニール製の床が削れていき、耳障りな摩擦音が部屋中に響き渡る。
僕は肩をすくめ、耳の代わりにぐっと目をきつく瞑る。
「悠希ちゃん、ちょっと落ち着いて」
掠れているが、強く芯のある声。
僕は目を開けて、声のする方を注視する。
部屋の扉の方に立っていたのは、バーメイドの深月だった。
「ごめんなさい、この子血の気が多くて……やっぱり貴方が、祈里ちゃんのところの世話係さんなのね?」
言いながら、深月のフラットヒールの音が近づいて来る。
『やっぱり』という言い方からして、先ほどの予想は正しかったようだ。
「最初から分かってたんだろ、関わらないじゃなかったのか?」
「一応これでも、店長代理を行っている身ですからね。店や仲間の、身の安全に気を配らないといけませんから。ほら悠希さんも、穏便に済ませてって言ったでしょう?」
「だ……わかったよ」
悠希と呼ばれたサンダーバードは一瞬、反論する素振りを見せるがすぐに持ちあげた足の爪をひっ込める。
「命拾いしたな、クズが」
漫画でしか聞いたことの無いチンピラみたいな捨て台詞を残して、悠希は深月の隣まで歩いていく。
それを見届けた深月は大げさにため息をつき、口を開く。
「手荒な真似をするつもりはありません……ですが祈里ちゃんへの行為を考えると、こちらとしても手を抜くわけにはいきませんので、手錠は念のためです」
「いや、僕も流石に手を出したのは悪かったとは思っている。どうかしていた」
「……随分と冷静で素直ですね?それで許されるとでも?」
「こんな拘束された状態でパニックにもなってもね?というか喋るんなら身体を起こしたい、寝ながらだと辛いよ」
「てめぇ……」
僕のわざとからかうような態度に、悠希が再び鉤爪を持ち上げようとした瞬間、深月がその右手と視線を悠希の方へと向ける。
差し出されたその手には、手錠のものらしき鍵が握られている。
「チッ」
悠希は舌打ちをして、多少荒っぽく鍵を受け取ると僕に近づく。そして僕の脚の方にある椅子の傍で膝をつく。
悠希は口で鍵を咥えると、器用な動きで僕の足についた手錠を外す。
手錠が外れた瞬間、脚が軽くなるような錯覚を感じた。
「手の方は外さねぇ、妙な真似したら裂く」
僕がやおら身体を起こしそうとした際、耳元で悠希がぼそりと言葉を残す。
単純でかつストレートな攻撃の意志の込められた声に背筋がぞくりと冷たくなる。
「ところで……科白は、どこへ行った?」
僕はなるべく悠希の敵意から気を逸らそうと、思い出したかように深月にそう告げる。なおざりな態度をとる僕を見て、悠希の目付きがさらに鋭くなるが、気にしないように視線を外す。
「この楽屋の外にいます。大丈夫、幸い怪我はしていませんよ」
深月は妙に優しくフォローをしてくる。
僕が科白の安否を心配したと勘違いしたのだろうか。
まぁだが、別にそこを否定するつもりはない。僕は正気でなかったけど、乱暴をするつもりではなかった。
確かに科白に対してマイナスな感情はある。だけど魔物とはいえ女性に怪我をさせて喜ぶほど、僕はクズにはなりきれていなかった。
「或森さん。差し支えなければ祈里ちゃんがなぜここに来ているか、お話してもいいでしょうか?」
僕が声を発さずに頷くと、深月は軽く頭を垂れて語り始める。
「このバーにはですね。もう一つ……人間と接しているうちに、心が疲れてしまった魔物のための、居場所としても役割もあるんです」
「心が……?」
深月の話す内容に僕はいまいちイメージを掴めず、そのままオウム返ししてしまう。どういうことだ。福祉系の相談所みたいなものなのだろうか。
「或森さんが祈里ちゃんの事務所に来る前のお話です。貴方が来る前にも、祈里ちゃんには別のお世話係がいたことは知っていますか?」
今の家政夫の仕事につく前に、出版社の方から聞いていた。
もう思い出すだけで辛くなる話だけどな。
「知っている。出版社の人間だろ。確か異動があったって聞いている」
「ええ、その通りです。去年の夏頃……丁度1年前かしら。前の世話係の人は出版社の社員の方で、祈里ちゃんの担当になったばかりでした」
「そいつは、普通の人間か?」
「そうです。普通の、人間の男性です。彼が初めて祈里ちゃんの事務所に訪れた時、彼は事務所のそのあまりの汚さに相当驚いたらしくて」
「そりゃあそうだ。完全にゴミ屋敷だしな。一般人にあそこは汚すぎる」
僕は軽くにやけるが、深月は全く表情を変えずに話を続ける。
「彼はとてもおせっかいで、でもとても人柄の良い方でした。初めて会ったばかりの、普通なら距離をおくはずの不衛生な環境に住む祈里ちゃんのことを『汚い』ではなく『放っておけない』と言ったそうです」
最後の方は、さっきの僕の発言への皮肉にも聞こえた。別に、気にはしていないけど。
そういえば、僕も初めて科白の事務所を訪れた時はショックだったな。当時の頭を殴られたみたいなあの衝撃、多分忘れられそうにもない。
あの環境で平然と仕事をする科白の感覚が、僕にはさっぱり理解できない。
「祈里ちゃんも最初は警戒して、彼を拒んだそうです。魔物は病気に強く、多少いい加減な生活にも対応できます。言ってしまえば、彼の行為は祈里ちゃんには必要のないものでした。ですが、出版社の彼はしつこいくらいに諦めませんでした。何度も祈里ちゃんが拒否的な態度をとっても、何度も彼は仕事の合間をぬっては、いえ、たとえ仕事の用がなくとも彼女の作業場に訪れていました」
「へぇ、物好きだな、惚れてたのか?」
「さぁそこまでは。ただの親切心だったのかもしれません。ただ彼は祈里ちゃんに何をする訳でもなく、時折気さくに祈里ちゃんに声をかけながら、部屋の掃除、洗濯、料理、書類の整理を行って、夜にはただ帰っていく……それをほぼ毎日、繰り返していたそうです。それが、彼女達の世話係の始まりでした」
馬鹿馬鹿しいシチュエーションだ、と僕は辟易する。
どこぞのお人好しがそんなおせっかいを焼いたせいで、僕はこんな目にあっているのだから。
深月は先ほどまで僕が横になっていた椅子、つまり僕のすぐ隣の、そこに腰掛けると、一つため息を吐いた。
「そんな……人と魔物とは思えないくらいの純粋な関係が続くと、次第に祈里ちゃんの方も気を許し始めたのでしょうね。とりとめのない彼の世間話にも応えるようにもなりました。二人は時間をかけて、だんだんと打ち解けていったんです。本当に、すごく仲が良かったんですよ?まるで恋人かと思うくらい」
「……そうかい」
別に、科白の色恋事情になど興味はなかった。
だが『まるで』という言い方からして、あまり良さそうな結果ではなさそうなことは察した。興味はなくとも、魔物にとっての色恋と言うものがどれだけ重要な事項であるかは理解していた。
「昔から祈里ちゃんは会話と家事が苦手な干物さんだったんですけれど……その方と会ってからは、家事に対して少しずつ意欲的に取り組んでいました。今の状態では、想像つかないかもしれませんけどね」
深月は僕に近づき、隣の椅子に腰掛けて話を続ける。
「我々魔物からすれば、屋根の下で一緒にいる男性に好意を持つなんてことは当然の話です。そしてその人がやっていることにも興味を持つのも同じことでした。次第に祈里ちゃんは、彼となら家事も仕事も一緒にやっていけるかな、と。うっすら考えていたそうですよ」
僕は黙って深月の話に相槌を返す。
一緒になって、ねぇ。
自然と視線が遠くの方へとずれていく。
随分と羨ましい話だと、僕は再度げんなりしてしまう。
僕にはいなかったよ。
僕の夢を、仕事をそんな風に思ってくれる人なんて。
「去年のクリスマスの日でした。大人しくて恋愛に疎い祈里ちゃんにとっては、もう一斉一代のお誘いでした。彼を私たちに紹介したくて、この店に呼ぼうとしたんです」
クリスマスに男女が出会う……人間でも魔物でもよくある話だ。別段珍しくもない。いかにも、夢を追いかけられない魔物がやりそうなことだ。
正直食傷気味ですらある。
「でも……彼は、来ませんでした。彼には既にお相手がいらっしゃったんです」
だが、もたれ気味の僕の胸を穿つその言葉は、嫌に軽々と投げられた気がした。
「後から出版会社の方から聞かされた話ですが……彼のお相手、かなり独占欲の強い魔物の幼馴染みだったそうです。その魔物娘さんにとっては彼の家事代行は、浮気をされているみたいで気に入らなかったんでしょう。幼馴染の彼女は強制的に彼を魅了し、彼女以外に興味を失ったインキュバスにしてしまいました」
そこで深月は一旦言葉を切る。
その次の言葉を言うかどうか、迷ったようだった。
しかし、やがて観念したかのように、深月はその後を告げる。
「……それ以来、彼は祈里ちゃんの作業場には一度たりとも来ませんでした。彼がそのお馴染みの魔物娘さんのことをどう思っていたのか、今では分かりません。ですが『選ばれなかったのは祈里ちゃんであること』は、事実です」
選ばれなかった。
選ばれなかった、のか?
かすがいを胸に打ち込まれたみたいに、その言葉だけが耳の奥に反響して、いつまでも引っかかる。
本当にそれで、そいつはその幼馴染みといて、それで嬉しいのだろうか?
「それから祈里ちゃんは、風船が破裂したみたいに意気消沈してしまって、家事にはもう見向きもしなくなりました。そして年が明けてからは、今のようなゴミ屋敷生活……というわけです」
話し終えた深月はそのまま閉口し、大きく呼吸をする。
「……アタシはいのっちの昔からのバンド仲間でね。失恋してからもたまに話を聞いていた。けど、仕事だけはちゃんとやるから、仕事にだけは集中するからって、まるで自分に言い聞かせているみたいだった」
深月が黙しているその合間に、悠希が補足をするようにして喋り出す。さっきの好戦的な気持ちが落ち着いたのか、その声は随分と穏やかなものだった。
「アタシが前の世話係のインキュバス化を知ったのは、既にいのっちが事務所に引きこもるようになってからだった。でも、フラれた後に一人で部屋にいたって良いこと無いだろ?」
多少ぶっきらぼうだが、確かに心配するような声で悠希はそう告げる。それは悠希なりの懺悔のようにも聞こえた。
「だからアタシは事務所から連れ出すためにずっと、いのっちをリハビリ代わりにバンドの練習やライブに誘っていた。実際に来るようになったのは七月に入ってからだが、そこは流石にサイクロプスでね。腕はさっぱり鈍っていなかった」
あの演奏がリハビリ代わり、か。
その割には随分と高レベルなものだった気もするがな。僕は改めて、科白の表現者としての実力を思い知る。
「演奏をしている時のいのっちは、本当に楽しそうだった……事務所にいたらきっと思い出しちまうだろうから、このままライブに参加していれば、いつかは記憶も薄れていくだろうと、そう思っていた……そしたら、いつの間にか、こんなクズが新しい世話係として就いてやがって、しかも何故かこんな所にまで付いてきやがるし……会社の人間って、本当に利益しか考えてねぇのな」
悠希は糞に唾を吐くような態度でそう締め括ると、深月と同じように閉口する。
七月……丁度、僕が科白の外出に気がついた時でもあった。
その時期に、科白に何か気持ちの変化でもあったんだろうか。
その後は誰も口を開かないでいた。
真白い楽屋内は奇妙なくらいに静まり返っていた。
部屋にはほとんど何もなく、本当に白いだけの部屋といっていい。
本来は色んなものがあったのかもしれないが、多分僕が脱出しないようにモノを隠したのかな。
そういえば、今は一体何時だろう?
部屋の時計を見ると、既に12時に近かった。もうここは店じまいなのだろうか。
防音の設備があるのおかげか、室内に音が立つことは無かった。
時計も秒針の鳴らないタイプで、室内の静けさにさらに拍車をかけていた。
静寂に次ぐ、静寂。
だがやがて、その異様な空間にも耐えられなくなり、僕は胸に湧いた言葉を口にする。
「事情は分かったよ……だけど」
ごくりと、つばを飲む。
迷ったけど、これは言うべきだと思った。
「僕はその男の、身代わりにはなれない」
身代わりという言葉を使ったことを、少しだけ後悔した。
僕が装丁家として科白祈里を尊敬していたのは事実だ。
しかし、それとこれは別の話だ。
そもそもサイクロプスというものは長寿の魔物だと聞いた。
それと比べれてしまえば、人の一生など本当に些細なものだろう。科白の失恋のことは残念には思う。だがきっとそれは、長い長い時の流れの一端であり、それらを解決をするのもまた、長い時間がしてくれるはずだ。
科白にはきっとこれから先、いくらでも時間がある。
だから僕の貴重で短い人生の時間を、自身の夢以外のものに、特にそんな他人の色恋の後始末に使いたくはなかった。
何よりも、僕はそんな気の良いお人好しの穴を埋められるほど、人間が出来ちゃいないんだ。
「僕には装丁家になるという夢がある。僕は自分の夢を叶えるのに忙しいんだ」
「お前……少し言い方ってのをなぁ!」
「悠希さん、その必要はありません」
僕の無遠慮な言い方に、またしても悠希が突っ掛かってくるが、それを深月が制止する。
「大丈夫、私達は或森さんにそれを求めていません。むしろ逆なんです」
深月はわざわざ僕の前に立って、深々と頭を下げる。
言葉とは裏腹に、それは随分と低姿勢なものだった。
「さっきの強姦未遂も悠希の暴行の件も、お互いに全て水に流しましょう。ただ、さきほどの貴方の行動を見て、貴方は祈里ちゃんの傍にいるべきではないと思いました……貴方も、そう思っているからここに来たのでしょう?」
深月の喋り方は抑揚のない鬱々としたものだったが、やけに僕の胸の奥深くに何度も突き刺さる。
確かに今日、僕は科白の事務所をクビになるつもりでここに来た。
「……否定はしない。けど……」
しかし僕が応戦する間を与えないように、深月の言葉は僕に覆い被さり、連なっていく。
「祈里ちゃんが立ち直るのには、もう少し時間が要るのです。でもそんな時に、貴方のような方がいられると、きっと祈里ちゃんの精神に支障が出ます。だから祈里ちゃんと関わるのは、もう終わりにして欲しいのです」
深月の言葉が終わる頃には、糞に近い何かが僕の胸の中にパンパンに詰まったような、その場で嘔吐したくなるほどの不快感に襲われていた。
「お願いします。祈里ちゃんの世話係を辞退してもらえませんか?」
今までで一番深く、腰より下へ深月は頭を下げる。
深月のような麗しい女性からの拒絶など初めての経験だった。
ましてや、こんなに頭を下げてまで頼み事なんて尚更だ。
しかしだからといって、こうまで言われる筋合いはない。
「……外に関しての情念は持ち込まないんじゃないのか?」
「分かっています。ですが私達の優先すべき役目は、祈里ちゃんの逃げ場を守ることです」
「人に職を失わせてまで守らなきゃいけないものか?」
「それも、分かっています。でも、それでも祈里ちゃんがこの先を生きていくには、この傷を無事に乗り越えなくてはいけないのです」
深く、何度でも深く。
しつこいくらいに深月はその巻き角の生えた頭を下げ続ける。
「退職金のことでしたら祈里ちゃんと一緒に、それなりの額を出してもらえるように出版社に掛け合ってみます。ですからどうか……祈里ちゃんを、今しばらく、許してあげて下さい」
最後の方は、少し声が震えていた。
見た目としては、深月が僕にお願いをしているように見えるのだろう。そのはずなのだが、この低い小さな頭には、何故か脅迫じみた威圧感を覚えてしまう。
それは先ほどの悠希の鉤爪の脅しなど、比にもならないくらいの脅威だった。
僕は戸惑ってしまう。
確かに僕は科白の世話係に嫌気が指している。
辞めたいと思ったことも本当だ。
でも、どうしてそこまでして、深月は科白のために頭を下げられる?
いつの間にか僕の脳内には、専門学校時代の記憶が甦っていた。
口から出る言葉は夢を追うことばかりで、周りにはいつの間にか人も魔物も、友達もいなくなっていた。
でも独りになると、途端に自分自身が疑わしくなるのだ。
口では叶えたいなんて言いながら、本当はそれを本気で望んでいるわけではないのではないかと。
いっそ夢なんて思いきりの良く捨ててしまえば、もっと楽しい学生生活が送れただろうかと考えたが、そんな勇気さえも僕は持ち合わせていなかった。きっと夢が無くなることで、自分の過去が空虚になってしまうことが嫌だったのだろう。
いつしか『僕の夢』は自分でも信じられないほどに中途半端に燻ったまま、薄汚れて異臭を放っている。
それでも諦めるにはまだ何もなし得ていなくて、でもそれゆえに、どこか呪いにも似た何かに歪んでいる。
だがこの魔物は、深月はどうだ?
本当に己が守りたいもののために、自分の意見を通すために見せるこの姿勢はどうだ。
自分が言った言葉の矛盾まで肯定し、それでも仲間と店を守るために下げ続けるこの小さな頭。
この羊角のように、捻れながらも芯強く伸びている深月を拒否する権利が誰にある?
なぁ或森夕輔、お前の夢は……この先、彼女の低く小さな頭を越えるほどの大きなものになり得るのか?
……愚問でしかないか。
もういい。
もうため息も出やしない。
もう何もかもが面倒だ。
僕はただ、憧れの装丁家になりたかった。
でもそんなものは最初だけだったのだ。
人間のできていない僕には夢なんて代物は、荷が重かったのだろう。
こんなことなら最初から、装丁家なんて目指さなければ良かったのだ。
もう、僕の夢は死に時なのだ。
僕の夢は既に処刑の断首台に乗っている。
僕の頭は巨大な刃物だ。
他でもない僕自身が、台に乗った夢の首を切り落とすのだ。
今、その首に引導を渡すために、僕は顎を大きく縦に―――
「あの……!」
ふいに聞こえてくる大声は聞き覚えがあるようで、今までついぞ聞いたことのなかった新鮮さも含んでいた。
振り向けばそこには、やはりいつもの青い肌と、1つしかない大きな瞳。
その声の主、科白祈里がドアノブをガッチリと握って立っていた。
16/09/02 19:43更新 / とげまる
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