連載小説
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SideU
 「うっ……」

 開け放った白い扉のその向こうから飛び込んできたのは、眩しいくらいの青白い光だった。今まで暗闇の路地にいたせいで思わず目を細める。
 しかし最初こそは驚いたものの、その光には不思議と煩わしさがなかった。
 光は弱くはなかったが決して刺激的なものではなく、網膜全体を優しく包み込むような、とても淡く柔らかな印象だった。

 やがて、瞳もそれに次第に慣れてくる。
 僕は恐る恐る、その光の方に向かって瞼を開いていく。

 すると目の前に現れたのは、巨大な月だった。

「室内だろ、ここ……」
 
 視界のほとんどを青い月光が埋めつくしていた。
 

 おかしい。
 部屋の中に入ったはずなのに、月がある?

 部屋の隅々まで青色に染まったその空間は、部屋ごと宙へ浮き上がるようで、どこか現実離れしていた。
 その光景を眺めているだけで、本当に異世界にでも紛れ込んでしまったのでは錯覚してしまう。
 が、そんな僕をあえて落ち着かせるかのように、青い月光は優しく降り注ぐ。
 
 その光を受けて、やがて狼狽した心を取り戻すと、僕は月の周囲をよく見渡してみる。するとやはりここは異世界ではない、紛れもない現実のものであることに気がついた。
 月は限りなく本物に近いが、よく見ると明らかに通常のものに比べて大きすぎる。
 大きな月の正体、それは半径3m以上もある丸いスクリーンだった。
 最初の青い光も、その丸いスクリーンの裏にある照明から発せられているものらしい。スクリーン全体には天井にぶら下がった映写機の幻灯により、デコボコの月面が細部にわたって映し出されていた。その質感と迫力は、本物を持ってきたのかと錯覚してしまうほどのリアリティを放っている。
 普段見ている小さな月がこうして目前で大きく見せられると、いかに月というものが荘厳なものなのかを教えられるようだった。何を語るでもなくそこにただ浮かぶだけのはずの月に、僕の目は自然と何度も惹き付けてしまう。
 この月の映像は一体どこから仕入れたのだろう?
 まるで月を中継して映しているみたいな空気感。この月を作った人は、よほどのこだわりがあったのだろう。ただのコピー&ペーストで見せられる様な単純さではないことは分かるが、詳細を聞いてみたいものだ。
 
 (っと、いけない。)

 そのデザインとこだわりにあまりに感心してしまい、思わずここに来た目的を忘れてしまいそうになる。
 そうだ、今は科白を探しに来たんだった。
 僕はようやく、月以外のものに視線を送る。月の周辺にはダークブラウンの木製の丸い椅子とテーブルがいくつも並んでいる。そこにはちらほらと座っている者もいて、どうやら何かの店であることが窺えた。
 薄暗いのでどんな人が座っているかは分からないが、おそらくその中に科白ではないだろうということは分かった。

「あら、初めての方ですか?」

 僕の挙動不審な様子が伝わってしまったのだろうか。
 聞こえてきたのは、穏やかでややハスキー気味な女性の声だった。
 その声のする方を振り向くと、黒いエプロンを身に着けた二十代後半くらいの若い女性が立っていた。髪は柔らかそうな紫のセミロングで、その手元にはワインのグラスと白いタオルが握られている。
 僕は彼女のその姿と、その立っている場所を見てようやくこの場所が一体何なのかを把握したのだった。

「ここは、バー……?」

「はい、正解です。どうぞこちらに」

 店員の前には、テーブルと同じく木目の模様が主体のバーカウンターが設置されていた。カウンターの脇には小さなライトに照らされた真っ赤な唐笠が設置されていて、全体的に和のレイアウトが意識されている。
 表に店の名を示す看板がなかったのは、いわゆる隠れバーという奴だからなのだろう。
 店員は物腰柔らかく微笑むと、近くの空席に向けて右手を差し出す。

「どこでも構いませんよ。立って話すのも何ですから」

 僕は少しだけ考える。
 科白を探す前に、ここがどんな場所かを知っておくべきだろう。
 しかし、科白のことだからてっきり男漁りかと思ったが、意外に酒の方だったか。
 ここもどうやら、怪しい店ではありそうだが……。
 店員に変に怪しまれたくはないし、しばらく客のふりをして様子を見てみることにするか。

 僕は店員に言われるがまま、空いている席へ腰を下ろす。
 隣の席には先客がいた。おそらく外回りか何かでよれよれになったであろうスーツを着たサラリーマンが、その背中を丸めて座っていた。
 彼の目は、一般的なサラリーマンらしく死んでいた。が、そこから出る視線には随分と熱が込められているようだった。そしてその視線は真っ直ぐ店員の方へと向けられている。

 なるほど。
 心を奪われているのが、火を見るより明らかだった。

 ……まさか、人間を誘い込んで精を搾り取るのが目的か?
 某料理店のように、きっと僕らは飲むのではなく飲まれる方なのかもしれない。
 多分考えればきっと色々な疑惑の可能性が湧いてくるのだろう。バーなんて言うのも実は体のいい口実で、きっとそういう人間や魔物の色欲を発散させることが目的の場所なのかもしれない。
 いずれにせよ、ろくな場所ではないことは覚悟しておこう。 
 偏見と卑猥に満ちた思案を続けていると、そのサラリーマンと僅かに目が合った。
 惚気てはいるが、一応思考はしっかりしているようだ。彼は赤ら顔で頭を下げる。照れながら後頭部を掻く男の仕草は、さながら初めて恋愛をしている男子中学生のようであった。
 一応、僕も軽く会釈を返しておくことにした。

「嬉しいですね。新しいお客様が来るなんて本当、何時ぶりでしょうか?」

 僕が椅子に座ったのを確認すると、店員は話を再開させる。

「そりゃまあ……知らない人が外から見たら、ここが店かどうかも分かりませんからね」
 隣のサラリーマンはそういうと、グラスに入った酒を一口飲む。
 しかし酒が苦手らしいのか、飲んだ途端にひどく眉を歪ませている。

「そうなんですよ。うちのマスター、どうしても看板を作りたがらないんですよねぇ」

「……それはなんでまた?」

 妙に朗らかな店員とサラリーマンの会話につい、僕は言葉を返してしまう。 
 いきなり愚痴を聞かせてしまったことを申し訳ないと感じたのか、店員は軽く頭を下げて答えてくる。

「あまり変に目立ちたくない、この店は『世の中の裏方』でいいんだ。というのが口癖の人でして……私も概ね同意なのですけども、新しいお客様があまりにいらっしゃらないとお店の経営が……あら、ごめんなさい。初対面の方に言うことではないですよね」

 頬に手を当てて悩みっぽく言いながらも、彼女のクスクスといった穏やかな笑い方に、見た目の年齢以上の大人らしさが感じられる。だが決してお高く止まっているわけではなく、言葉もところどころ崩したりちょっとお喋りなところなど、堅苦しさも抑えられていた。

 僕はそんな彼女のある一点だけを見ながら、愛想笑いを返す。
 店員はあくまで僕を新参の客として扱うつもりらしい。その方がこちらもしても助かる。

 だが、僕の方は彼女をいまいち信用することが出来なかった。
 その理由は、彼女のこめかみの辺りにあった。

 店員はふと、その目を細めて口を開く。

「……その反応、初めてではないようですね」
 しまった。訝しい視線で見すぎたようだ。
 一瞬、息を飲む。そのせいで言葉の意味が理解できない僕を他所に、店員は不意にカウンターに手を乗せる。そのまま、上半身を乗り出して僕の顔を覗き込んできた。

 同時にぐっと強調された彼女の胸元。
 エプロンの上からでも分かる、蠱惑的な腰のライン。
 獲物を刈る肉食動物の牙のように、僕を捉えて離さないといわんばかりの真っ黒な瞳。

 今にも、彼女に食べられてしまいそうだ。

 突然の行為に思わず僕は顎を引いてしまう。
 まずい、このまま彼女を見ていると僕も惚けてしまいそうだ。僕は無理やり視線を店員のこめかみのそれに向けてやり過ごす。
 
「あまり見つめないで下さい。想像妊娠してしまいます……」
「ぶっ!」

 さらに店員は、肩から腰をくねらさせて両手を口元に当て、妙に甘ったるい声を出してくる。思わず更に、大げさに後ろに反ってしまった。
 あとついでに、脇にいるサラリーマンさん、刺し殺しそうな勢いの鋭い視線を飛ばすのはやめてほしい。

「あら、思っていたよりいい反応」
「な、なにをいきなり言って……」
「私のコレ、ずぅっと怖い顔をして見つめていらしたので。少し『魔物らしく』ふるまってみましたけど、お気に召しませんか?」

 やがて店員は身を起こすと、頭の上のそれを指差して答えた。
 彼女のこめかみ辺りには、オウム貝のように大きく渦巻いた山羊の角が生えていた。角はセミロングの髪の中を、まるで壁を突き破るようにして伸びていた。
 その角を軽く撫でながら、店員は言葉を続ける。
 
「魔物はお嫌いですか?それとも、人間だったらお好きですか?」

 腹の底を見透かしたような鼻につく言い方に、僕は分かりやすく歯ぎしりをしてしまう。

「何を、知った風に……」 
 僕は敵意を込めてにらみつけるものの、店員はそれをお軽くいなす。

「これは失礼しました。でもそういう見方は、こちらもあまり気持ちのいいものではありませんので、控えて頂きたいものですね」
 
 先程と一変して、余裕を見せつけるような店員の振舞い。始めから僕の敵意など相手にしていないとでもいいたげだ。
 既に見透かされていたのが悔しくて、僕は再び歯を強く噛み締める。

 この店員、やはり信用ならなかった。
 いまさらながら、油断ならない環境だということを理解する。 
 この店自体だって普通じゃない、あの科白が来るようなところなのだから。
 
「ここは現実の喧噪に埋もれた隠れバー。魔物と人間が等しくいられる場所」
 
 店員はまたしても、見透かしたような暗い瞳で僕を捉える。
 そして目付きはそのままに。
 店員は姿勢を正して、恭しく頭を下げる。

「申し遅れました。この店『電気羊と泡沫の月』のバーメイドを務めております、サテュロスの深月と申します。その嫌悪が蜜の始まりとなりますことを、願っています」



―――――



「なるほど、知り合いの魔物がここに入っていくのを見たから気になった、ですか……」

 おかしい。
 どうしてこうなった。
 
 先ほど出会ったばかりで信用ならない、普通じゃないといったばかりだぞ、一体どうしてだ。
 体感的にあれから三十分弱だろうか。
 いつの間にか僕は、このサテュロスに向かってこの店に来た経緯を丁寧に話していた。
 先ほど片鱗を見せた、深月と名乗る店員の魔物の力なのだろうか。彼女と少し対話するだけで、まるで自白剤を打たれたみたいにポロポロと隠そうとしていた情報を漏らしてしまった。
 話の途中でその違和感に気づいたが、喋る口はもう止められずにいた。せめて科白祈里の名前と種族は口にしないようにするのが精一杯だった。

「深月さんに隠し事しようとしても無駄ですよ。彼女にはすべてが筒抜けさ」

 サラリーマンがなぜだか自慢げにそう語る。正直、鬱陶しいが無下に扱うのも少し気が引ける。僕は口元が引きつりそうになりながらも、へぇと適当な返事をする。

「そんな大層なものじゃありません。万が一、客を装った不審者だったら困るからそうしているだけですよ」

 深月はそう謙遜しているが、実際のところ僕はストーカー行為を行っている真っ最中だ。決して適当に言っているわけではなく、気が付いているぞと暗に僕に言っているようで、肝が潰れてしまいそうだった。
 まずい。すでに後手に回っている。
 隠し通すはずだったのに、さっそく僕が人を探していることがバレてしまった。そのうち、ストーカーとして通報されてもおかしくはない。
 
「いえいえ深月さんはすごいんですよ!この間だって……」
「ちょっと雄二さん、お客さんひいちゃってますから、もうその辺で」

 焦る僕のことを興奮気味に話し始めようとするリーマンに深月は呆れながら制止を促す。随分と仲のいい二人のようだ。付き合っている訳ではなさそうだけども。
 まぁ別にそこに興味はない。今はとにかく、さっさと退散することを考えた方がいい。

「……それで、或森さん。その目的の娘は見つかりましたか?」
 
 不意に、聞かれた質問にどう答えていいか、少し迷ってしまった。
 
 「それが、まだ……」

 そこまで言いかけて、僕はすぐにそれを後悔した。
 店に入った時に、客の顔ぶれもチラリと見ていた。しかし、その中のどこにも科白の姿は見当たらなかった。
 となると、科白は『ただの客』としてきている訳ではない可能性が出てくる。
 もし科白がこの店の関係者だったとしたら、深月は彼女を呼びに行ってしまうかもしれない。科白が普通の客でないのなら、なおさら隠し事を知る前に接触するわけにはいかないだろう。

 言葉尻を濁したまま続きを言わない僕に、深月は何かを察したのだろうか。
 手に持ったグラスを置くと、そこにゆっくりと氷を入れ始めた。

「……別に、関わるつもりはありませんよ」

 意外にあっさりと引き下がる深月に拍子抜けだった。
 僕は既にパトカーに乗る羽目になると覚悟をしていたのだ。だがそんな僕の思案など気にもしないとでも言うように、彼女はゴソゴソと後ろにある戸棚を開ける。
 何かを取り出しているようだった。今のうちに逃げようかどうか迷ったが、考えているうちに深月はこちらに向きなおった。

 深月のその手には、赤いラベルの貼られたライチリキュールとトニックウォーター、そしてグレープフルーツのジュースが握られていた。
 それらをカウンターに置くと、馴れた手つきで素早く混ぜ合わせた後、彼女は続けて真っ青に染まった瓶を取り出す。

「ただし……この店に来る方は『人や魔物も関係なく、必ずお酒を楽しんでいってもらうこと』それが唯一のルールです。外の世界の情念を持ち込むのは、マナー違反ですよ」

 深月は最後にカクテルを軽くステアすると、グラスのふちにレモンを差し込み、僕の前にそれを差し出した。
 透き通った水色のカクテルが印象的で、七月にぴったりの爽やかさが溢れる一品だった。夏の暑さを払拭するほどの冷気がグラスから漂ってくる。ふちにあるレモンの瑞々しい黄色と、カクテルとのひんやりとした水色の組み合わせがとても上品にマッチしていた。

「チャイナブルー?」

 隣のサラリーマンが呟くと、深月はこくりと小さく頷いた。

「どこかのCMでもあったでしょう?瀬戸物と瀬戸物がぶつかると壊れてしまうと。先程の失礼な発言のお詫びとして、そのカクテルの代金は結構です」

 深月はそう告げると、何か意味ありげに微笑みを浮かべる。

「ただ一言だけ、言わせていただくなら……その娘のこと、もう少し素直に受け止めてあげてもよろしいのでは?」
「……何か、知ってるんですか?」

 深月の言葉とは裏腹の不敵な笑みについ、突っかかるようないい方になってしまう。

「ふふ……さぁ、何のことでしょう?私にはさっぱりです。私も、瀬戸物ですし」

 しかしそこまで言っておいて、深月ははぐらかすような態度をとる。
 短気な性格ではないはずなのだが、こうも茶化されると段々僕は苛立ちが募ってくる。

「あんた、ふざけてると……」
「あ、そろそろ始まりますね」

 僕の言葉を遮って深月は後ろの月のスクリーンの方に顔をやる。

 それにつられてつい、僕も後ろを振り向く。



「……っは?」

 月の真下には周りよりも一段高いステージがあり、そこにはバンドのセットが置かれていた。
 深月のいう始まるとは、バンドの演奏のことだった。
 真ん中にドラムセットがあり、その左にはキーボードスタンド、右にはヴァイオリン、ベースと並んでいる。
 既にそれぞれの楽器の奏者は準備ができているらしく、何かの合図を待っているようであった。ボーカルがいないのかドラムの横に無線マイクがおいてあるだけで、マイクスタンドはなかった。
 バンドの編成としてもどこか少し特殊な印象はあった。

 しかし、問題はそこではなかった。
 
 そのバンドの端にいる、物静かにべースを握る女性。それはもう見間違えようもないくらいに知っている顔だった。

「あ……いつ、何やって……え?」

 ベースを握るそいつの手の色は、嫌気がさすくらい見慣れた青色であった。
 額には大きな薄茶色の角が生えていて、顔のほとんどが大きな一つの瞳で埋まっている。

 紛れもない、あの科白祈里がステージに立っていたのだ。

「うちの専属のガールズバンドなんです。真ん中のギザギザ頭の子、ドラムがリーダーです」

 深月が嬉々として彼女たちのバンドについて語るが、もはやそんな声など僕の耳には届いていなかった。

 僕はただ目の前の事態を飲み込むことさえできなかった。

 話し終えた深月はその場で手を挙げて、バンドに合図を送る。
 すると、それに応えたバンドメンバー達が各々の楽器に向き直る。
 ドラムにはサンダーバード、ピアノにはキキーモラ、ヴァイオリンにはケンタウロス。

 そして、ベースにサイクロプスの科白。

 誰も彼もが静まり返り、店内の雰囲気がガラリと変わる。

 月の明かりだけが満ちる中、キキーモラが静かに鍵盤に指を乗せ、滑らかに鍵盤を奏で始める。

 美しい和音が重なり合い、月光と交じり合い。

 そして、次の小節に入った瞬間。

 大人しかったドラムとヴァイオリン。
 そしてベースが急激に豪音の壁を生み出す。

 同時に、背景の月も急激な変化を遂げる。
 スクリーンの横のライトがに強く輝き出したかと思うとその青色が紫へと変わっていった。
 そして青から紫へ変わったと思うと、次は紫から赤、赤から黄と、虹のように順々に色が移ろっていく。
 やがて緑色になり青色に戻ると、また最初からイルネーションの諸行が始まる。
 店内を染める月光は次々と変化していき、循環する。
その七つの光と共に、科白がベースを抱えて暴れ出した。

「……一体、何なんだよ」

 僕は開いた口を閉められなかった。
 目の前でベースを奏でる魔物は、間違いなく科白であった。
 しかしステージを縦横無尽に飛び跳ねる彼女は、もはや別人といってよかった。
 他の3人が動き回るには向いていない楽器を扱っているせいなのだろうか。
 
 どっしりと構える他のメンバーと比べて、科白はベースを抱えながら誰よりも軽快にステージを駆けずり回る。

 その顔も無表情に近いものの、いつもの仕事の時の顔とは比べものにならないくらいに紅潮し、満喫しているようだった。
 
 科白のベースから伸びるコードが新体操のリボンのように空を駆け巡る。
 科白自身も時折飛び上がって、そのたびに彼女の汗の雫が、七色に染まって宙を舞う。

 いつも部屋の隅でじっとしている科白が、今や観客たちの視線を一挙に集めて注目の的となっていた。 
 
 唖然として、立ちすくむ僕。
 科白はこちらを見ることもない。
 七つの月の下で、ただ夢中になってベースの弦をかき鳴らしていた。 


――――


「ふふ、今日も大成功ね」
 パチパチと両手を叩き、深月は科白たちに称賛を送る。

 演奏を終えた後、科白たちはステージの裏にあるであろう楽屋の方へと消えていく。
 アンコールを求めて、盛り上がるオーディエンスたちの熱気を帯びた声援が飛び交っている。今夜は正に大盛況というべきだろう。
 

 
 しかしそれらとは裏腹に、僕の心は冷え冷えとしていくのを感じていた。
 
「僕に隠れて、何やっているかと思えば……」

 ふと手元にあったチャイナブルーを見つける。先ほど深月に差し出されたまま手つかずのものだった。

「……素面でやってられるか」

 僕はグラスを掴むと、一気に煽って腹に収めてしまう。
 氷が溶けたせいか、多少薄まっている感覚はあった。
 だけど、鼻の奥からくるグレープフルーツの酸味とライチリキュールのさっぱりとしたライチ果汁の味わいも素晴らしく、決して不味いわけではなかった。
 むしろ今まで飲んだものよりも美味いといえるほどの味ですらあった。

 だが残念ながら、今の僕にはそのすべてが無用の長物であった。
 
 飲み干したグラスを乱暴にカウンターに打ちつけて、すぐさま僕は駆け出す。

「あっ、ちょっと……」

 深月の制止も聞かずに、そのまま僕はステージの脇にある、楽屋の方へと向かった。

 暗幕をめくり、そこにある細い通路を無遠慮に突き進む。
 少しカーブを描きながら通路を抜けた先。

 そこに、科白がいた。
 他のバンドメンバーは既に楽屋に入っている。
 その中で、科白は一番後ろにいた。
 通路が細いので一人ずつしか楽屋に入れないらしく、通路で待機しているようだ。

 今しかない。
 他のメンバーが楽屋に入り、科白の番が回ってきたころを見計らい。
 僕はその細くて青白いというには青すぎる科白の腕を、無理やり掴み取った。

「……っ!」

 おそらく叫び声を上げようとしたのだろう。
 しかし、彼女がとっさに叫び声が出るようなタイプじゃないことは分かっていた。ライブでの疲労も溜まっていたせいか、彼女も対応が遅れたのだろう。
 彼女の汗ばんだ腕をぐいっと引っ張り、楽屋へ入ることを妨害する。
 そして反対の手で、さも何ごともないかのように、ゆっくりと楽屋の戸を閉じる。

 楽屋前の廊下には、ぼくと祈里だけがぽつんと残される。
 
「えっ……?或森、さん?」


 相変わらずの、か細いその声を聞いた時には、もうダメだった。
 理性を保ちつつ話しかけようとしたが無理だった。
 
 扉を閉じたもう一方の腕で、今度は半ば力任せに科白の肩を掴む。

 そしてそのまま彼女の身体を抱えるようにして押して、楽屋の前を通りすぎる。
 その奥には個室トイレがあり、僕はそこへ向かって科白の身体をさらに奥へと押し込む。科白はその場で踏ん張ろうとするが、いきなりの僕の登場にまだ気圧されているのか、その身体にはほとんど力が加わっていなかった。

「な、なんで?……やだ……!」
「黙ってろ」

 鋭くドスを聞かせて、小さくそう呟くと科白はあっという間に大人しくなった。
 やがて完全に、僕と科白の身体がトイレの中に収まる。
 それを確認したのち、僕は素早く扉を閉めて、鍵をかける。
 丁度、科白に掴みかかるような形で、狭いトイレに僕と科白の身が隠れる。


 これで、完全に密室だ。


「或森、さん。何で、ここ……?」
「それはこっちのセリフだ。あんた、ココで一体なにやってんだよ……!」

 恫喝に近いほどに声を張り上げているせいか、科白は完全に怯え切っていた。
 さっきまでは楽屋とはいえ、周りにも人はいた。
 だがこうやって今密室に連れ込んで逃げ場を封じてしまった以上、もう止められない。


「ライブは随分楽しそうだったなぁ。いつもいつもああやって、仕事場のストレスをここで解消しているってわけかい?」

「違っ!やぁ……」

 顔を至近距離にまで近づけて、僕は彼女を脅す。
 いつも以上に震える彼女の声がどうにも僕の嗜虐心をそそってくる。

「何も知らない客にキャーキャーいわれて満足かよ?本当は人とろくに会話もできないコミュ障のくせしてさ」

「……謝るから、やめて、下さい」

 半泣きで懇願する科白を無視して僕は彼女の頬を掴み、嘗め回すように多方向からにらみつける。
 トイレが狭いせいで、僕と科白の四肢が軟体生物のように絡みつき、密着していた。
 
 僕は手を科白のキーネックシャツの隙間から滑り込ませる。 
 
 びくりと跳ねる科白の汗ばんだ身体をじっくり観察しながら、僕はシャツの下に眠る彼女の胸元をまさ―――



 ―――待て、僕はいったい、何をしている?


 そこで一瞬、燃え上がるような感情が止まる。
「いい加減にしとけよ、糞レイプ野郎。ここは楽屋だぞ」

 厳つい声とともに、僕の視界が暗くなる。

 そして、次の瞬間。


 重々しい衝撃と共に、ドアが破られた。

 僕はそこから飛び出してきた大きな鳥の脚に頭を掴まれる。
 鋭い爪が生えた攻撃的なその脚の登場があまりに衝撃過ぎて、振りほどく間もなかった。

 そして、激しい轟音とともに。


 僕の右頬は便器の床に深く叩き付けられていた。

「がっ……ぐふ」

 脳内が激しくシェイクされ、視線があらぬ方向へと転じる。
 視界が小刻みに揺れて、焦点が合わない。
 分かるのは大きな鳥が僕の頭を掴んでいることくらいだ。

 視界の外で姿は見えないが、それは普通の鳥の脚のサイズではないことは確かだった。
 必死に立ち上がろうとするも、床に押さえつけられた頭はピクリとも動かなかった。
 
「大丈夫か?いのっち。乱暴されなかったか?」
「えっ……あの、その」
「……のやろう。うちの大事なベーシストに手ぇ出しやがって。このまま縦筋のバーコード頭にしてやろうか」
 頭上から聞こえてくる物騒な声と、相変わらずおどおどした自信の無さそうな声。

 あ、ヤバい。
 
 意識が。
 
 跳ぶ。

 頭を床に強打したのと、さっきバーカウンター酒を一気に飲み干したせいだろう。二つの原因が重なったせいで思考がまとまらずに、知覚が薄れて霧散していく。

 目の前の景色が回転する。

 まずい、このままじゃ―――

 しかし時すでに遅く、僕の意識はそのままストンと。

 砂時計の砂のように、底の方へと落ちていってしまった。
16/08/20 10:09更新 / とげまる
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■作者メッセージ
大体、次で終わる予定です。
ハッピーエンドを、目指している、はずなんですが……
深月さんのキャラが安定しないですね。

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