SideT
いつからだろう。
憧れに煩わしさを感じるようになったのは。
「……あ……りさん。……つかれ……です」
辺りを漂う蚊の鳴き声の方がよほどうるさく聞こえるくらいの、小さな声で科白祈里(かしろ いのり)は呟いた。途切れ途切れに聞こえる労いの言葉らしきものは、彼女との会話に慣れた僕でさえ何とか聞き取れるほどであった。
「ええ……お疲れ様です」
科白の事務机には大量の本のゲラ刷りや契約書類などが、向きもそろえず無造作に積み重ねられている。そのおかげで僕らがお互いに姿を直視することはない。たとえ僕が細目でじろりと見下ろしても、気付かれないのが幸いだ。なにか余計な思考が生まれる前に、さっさと作業場を後にした方がいい。
僕は逃げるように作業場の木製のドアに多少力を込め、無造作に作業場の出入口をこじ開ける。とたんに湿気を含んだ空気が僕の顔面中にべったりと張り付いてきた。その鬱陶しさを拭いたくて、何度も鼻の頭周りを指で擦る。
だが鼻につくその原因は、決して湿気などのせいではなかった。
「……もう七月だってのに、いい加減に梅雨が明けてくれよ」
―――――
僕、或森夕輔(あるもり ゆうすけ)の夢は、装丁家になることだった。
きっかけは確か、小学生の時に読んだ子供向けのファンタジー小説のハードカバーのデザインがやたらお気に入りだったことだ。
何処かの島の自然の風景の中に、不自然なくらいなほど赤く染まった石がおかれている写真。それが切手風の額に縁どられ、散りばめられたその本に、当時少年だった僕の心は激しく動かされた。書物というものがインテリアにもなりうると知ったのもその頃だった。
いつかこんな素敵な本を作ってみたい―――
そう思うようになった原点、それが装丁家である「科白祈里」のデビュー作であり、彼女との一度目の出会いだった。
装丁家とは、本の表紙やタイトルカバーなどの本の造形デザインする仕事だ。小説やエッセイ、雑誌などの本の内容に合ったデザインを作成し、それを出版社や著者に提供することが主な内容だ。
大抵の場合はコスト削減のため、出版社がそういったデザインのチームを作ってしまうことが多い。だが売り上げやこだわりの作品作りのために、わざわざ専門の装丁家にデザインを依頼してくることもある。
事の発端は数ヵ月前。
僕は才能と出会いに恵まれずに就職先が決まらないまま、デザイン専門学校を卒業を控えていた。焦りに背中を突かれて余裕のなかった僕の前に突如として、彼女の事務所がアシスタントの募集を見かけたことで、全てが狂い始めたのだ。
白状すると、その時は恥ずかしながら、僕は運命というものを信じてしまっていた。
その当時、僕は就職難で冷静さを欠いていた。
とにかく仕事を見つけることに躍起になっていたといっていい。だから学校の就職活動コーナーで科白祈里の事務所名を見つけた後のことは実はあまり覚えていない。あまりの衝撃のせいで正確な記憶がされていないのだ。
科白祈里は、書籍界隈では著名な装丁家だった。
高い技術力と異世界からやって来たような異質な発想、そしてメールアドレスと事務所名以外のプロフィールを明かさないという、ミステリアスな存在であることでも知られていた。
気づいた時には半ば飛び付くようにして、僕は彼女の事務所に履歴書等を送りつけていた。
無論、怪しいとは思わなったといえば嘘になる。
科白のような売れっ子がなぜこんな中堅専門学校でアシスタントを募集するのか、理由が分からなかった。
だが卒業間近の僕にはそんなことを考える余裕はなかった。むしろその秘匿性が、逆に掘り出し物を見つけたような高揚感を生み出していたのだとさえ思う。
そして思い込みとは怖く、競争率も高いであろう科白祈里のアシに見事選ばれた時には、僕は完全に舞い上がってしまっていた。さも自分があの科白祈里に見込まれて、選び抜かれたかのような、己がさも未来ある若者なのではないかといった、どこかおめでたい勘違いをしていたのだ。
だけど、現実はそう甘くはなかった。
空気にまだ冷たさが残る四月の頃。科白の神秘性を守るために最終選考が終わってからようやく、事務所の住所を紹介された。
そして、この職場のドアを開けた時、僕は現実を思い知った。
『は、初めまして!或森夕輔と申します。本日からお世話になりま……』
『ひっ……やだ、帰って……!』
二度目の出会いは、随分と辛辣なものであった。
今思えば初対面でその扱いはどうかと思ったが、その時の僕の頭にはそれも気にならないくらいの衝撃が駆け巡っていた。
彼女の事務所は一言で言えば、ゴミ屋敷というべき状態だった。
インスタント食品の器と食べ散らかした菓子の包装が散らばるフローリング。
洗ったのかすらも分からないまま、畳まれずに丸まって放置された衣服やタオル達。
作業机に乗り切らずに床に直積みするも、無残に崩れてしまった書類群。
家主の生活力のなさが具現化したような情景が、暴力的な勢いで僕の目に飛び込んできた。
その衝撃は、更にとどまることがなかった。
続けて目を引いたのが科白の容姿、コレもまた衝撃的すぎた。
彼女は何年着ているのかと聞きたくなるくらいに、使い古されて襟のボロボロになったTシャツと穴の空いたスウェットを着た、干物女と呼ぶのが相応しいであろう、『見た目20代くらいの若い女性』だったのだ。
当然、おかしな話であることは分かってほしい。
科白祈里は『僕が小学生の時から』装丁家として活躍していたはずだ。
それにも関わらず、現在新卒である僕とそう変わらないくらいの若々しさを放っていた。
その疑問も、次の瞬間には衝撃と共に解決していた。
同時にいくつもの衝撃を受けたが、恐らくそれが一番だっただろう。
科白祈里は、そもそも人間ではなかったのだ。
上から絵具で色をべっとりと塗りつけたみたいな不自然な青肌と、額から禍々しく突き出た薄茶色の角。そして、普通の人間よりも何倍も大きく、ぎょろりとした、たった一つだけの目。
科白祈里は、サイクロプスだった。
唖然としてしまった。
魔物と共存している昨今とはいえ、魔物が働くだなんて僕はほとんど見たことがなかった。
魔物自体は専門学校でも見かけたことはあったが、まともにデザイン専門職を目指した魔物を僕は知らない。ほとんどは男子生徒と交際ばかりに集中し、大概は結婚のためにそのまま中退していった。デザインの仕事に真面目に就こうとする魔物なんて一人もいなかった。
僕は魔物のそういうところが苦手で、魔物とは絡まないと決めていた。魔物となんて普通に向かい合うだけで時間の無駄だと思っていたのだ。
―――だからこの巡り合わせは、誰かの皮肉なんじゃないかと思えた。
最初はどうしていいか分からなくて物凄く戸惑ったし、気まずかった。
ただでさえ女性も魔物も苦手な僕に、科白のあの異様なまでに巨大な瞳を、奇妙な青白い肌をいきなり間近にして受け入れるには荷が重かった。科白の正体を何も知らずに憧れていたという事実も、逆に僕の膝を震わせる材料になってしまっていた。
いっそのこと、科白がもっと色気のある服に身を包み、こちらの有無を言わさずに貪ってくる肉食系の魔物だったらよかったのかもしれない。
それが、こんな引きこもりみたいな小汚ない格好で、小汚ない部屋に住む目の前の魔物が憧れの「科白祈里」であるといわれても、納得できるわけがなかった。
……本当のことを言おう。
僕は科白祈里に失望してしまったのだ。
小さい頃から色恋に見向きもせずに追い求めていたはずの憧れの人が、こんな干物女の代表みたいな恰好で、なのに魔物なんていう、頭のおかしな理解のできない輩で。
もし。
そんな人に仕事中に、こんなみずぼらしい格好の魔物に。
襲われでもしたら……。
そう考えるだけで身震いが止まらない。
一体、どうしてこんなことになってしまったのか。
夢のためならどんなに仕事の環境が劣悪で想定の斜め下であろうと、めげずに頑張るつもりだったのに。
だけど彼女の装丁家としての腕は、それだけは本物のはずだ。得るものはあるはずだし、よい経験になることは間違いない。と、そう思い込むことでなんとか僕は退職を踏みとどまった。
だがそうやって無理にポジティブになろうとするも、さらなる現実が追い打ちをかけてきた。
ここに就職して3ヶ月、僕を待っていたのは極度に常識の欠けた変人ぶりを披露する科白祈里だった。
いや、魔物だから変魔とでも呼んでやろうか。
彼女の仕事ぶりは、人間の常識では計り知れないものであった。
普段は日がな一日何もせず、人形のようにただぼーっと体操座りでちょこんと事務机の前にいる。
だがひとたび僕が話しかけるとするならば、まるで捨て猫のように血相を変えて警戒をし始めるのだ。
そして何かを訴えるようにして時折何かを喋っている。だが唸るように俯いて話すものだから、何を言っているかも分からない。聞き返す度に、科白も僕もお互い段々とストレスが溜まってくるのだ。
サイクロプスはあまり積極的にコミュニケーションをとることがない種族だとは知っているが、いくら何でもここまで酷いとは思っていなかった。今ではもう、科白とは会話をほとんどしなくなった。
だが、ずっとそんな調子かと思いきや、ある時になると突然思い出したかのようにアクティブになることがある。
それもかなり極端で、急に立ち上がったかと思うとどこへともなく歩き出し、また急に座りこんではデザイン案を書き出したり色校見本のチェックをし始めるのだ。
それが作業場や室内ならまだいい方だ。
ひどい時は着替えもせずにいきなり作業場を飛び出したかと思うと、わざわざ人通りの多いコンクリートまで走り、そこでちょこんと正座をして仕事の資料をバサバサと広げ始めたこともある。道を行きかう人からの視線も、傍にいる僕のこともお構いなしだ。
元々アシスタントはつけずに、一人でひっそりと作業をこなしていたそうで、自分が他人にどう見られようと知ったことではないらしい。それはそれで流石だとは思うが。
ではなぜ今回僕が起用されたのかといえば、そんな彼女の身の回りの世話を焼くための人物が必要だったのだ。
先ほどの通り、科白は社会生活能力が皆無だった。
洗濯、掃除、身だしなみ、買い出し、料理の一切をまともにこなせない。
加えて会話もダメとなると、唯一の仕事でさえも関わる人間は限られてくる。彼女と長年付き合っている出版社も、未だに手を焼いているらしい。
それでいて事務所は売れっ子らしく、三階建ての作業場兼自宅という無駄に大きな良物件なのが、また腹の立つ話である。
今ではマシになったが、僕が来た当初は自宅の方に契約書類を持ちこんだままだったり、作業場に彼女のパンツが落ちていたりすることもあった。部屋の公私が付いていないから、実質三階分の部屋を僕が見なければならなかった。これは人にプロフィールを明かせないわけだ。
そしてそれらの家事一式をこなしている間に僕の一日は終わる。やりたかった装丁の仕事に関わることはほとんど無かった。
今までは彼女と親しい出版社の方が見るに見かねて、時々ここを訪れては世話を行っていたらしい。だが年度が変わった際に、その人は異動になったそうだ。
科白の装丁家としての実力を惜しんだ出版社は、秘匿性を多少崩してでも科白の面倒を見てくれる者の雇用をすることに決めたのだった。無論そこに科白の意志など存在しないことは、科白の僕への態度からして明白だ。
それが今回の僕の雇用の経緯だと、初日に出版社からの電話で聞かされた。その夜、僕は家で買ったばかりのスーツのシャツのボタンを全て引きちぎってダメにした。
話が長くなったが申し訳ない。
要するに、僕はただ厄介な引きこもりを押し付けられたのだ。
初めから、僕は誰にも選ばれてなどいなかったというわけだ。
「ああ、ちくしょう、くそ!くそが!」
湿気に染まる帰路の途中、踏み歩く度に何度も悪態を吐く。
だがその怒号も、無機質な藍色の道にあっけなく吸収されてしまう。代わりに残ったのは吐いた息のみ。それも湿った大気と混じり合うと、僕の肌に更にべったりと張り付いてくる。自分で吐き出した空気だからこそ、余計に煩わしかった。
僕は、装丁家になりたかったんだ。
家政夫になどなった覚えはない。
―――――
7月も後半に入ってからだ。
ここ最近、科白の様子がおかしいことに気がついた。
科白の仕事場は都会の小さな脇道小道を何度もくぐり抜けた、人気の少ない裏路地にある。仕事の依頼はメールでのやりとりが大半で、ゲラ刷りや色校正の資料も郵送だ。直接的な来客は出版社関係の人間くらいのものだった。
つまり日中は、僕と科白祈里のほぼ二人だけという徹底した陸の孤島ぶりなのである。蛇に睨まれた蛙どころの話ではない。
なのでいつもなら僕が帰っても、彼女はそのまま一人で作業場にいる。そして作業が終われば、そのまま作業場で雑魚寝のように転がって眠っていることが多い。3階の自分の部屋に戻るのは、シャワーを浴びるか食事の時だけらしい。
それが最近、仕事が終わるとどこかに出かけるようなのだ。
そう思ったきっかけは、先ほど洗濯している時だった。
「これは……?」
洗濯室の隅で偶然見つけたそれは、いつものよれたTシャツと灰色のスウェットだらけの洗濯物の中でやたらと異色を放っていた。
それは、明らかにらしくない赤色の長いスカートだった。きっとこっそり自分で洗濯しようとして、すっかり置き忘れてしまったのだろう。
科白は日中はずっと作業場にいる。となると、これを着て何かをするのなら僕のいない夜中しかない。どこにいくかはわからないが、科白は普段は着ないような派手な服を着て、夜な夜などこかに出かけていることになる。
その可能性に気が付いた瞬間、僕の背中にムカデが這うようなヒヤリとした嫌悪感が走った。
「ふざけんなよ……」
酒か?男か?
魔物だから男の可能性が高いか。
僕に雑務だけを押しつけといて、自分だけは楽しもうってことなのか。
胃の奥が熱くてムカムカする。眉間にぐしゃりと音が出そうなくらいの皺がよる。
もちろん科白がどこかに行っているということすらも想像の範疇から出ていない。だが、人間一度生まれてしまった疑念をそう簡単に払拭することはできない。
僕はその赤いスカートを、なるべく元の形のまま位置に戻す。
いくら大人しい科白でも、隠しているものを見られた女性が何をしてくるか分からない。それに気がつくくらいには、ギリギリ平静を保てていた。
しかし、頭の中まではそうもいかなかった。
「くそ、バカにしやがって……」
僕に隠している辺りがなおさらムカつく。
グルグルと回る洗濯機にでもなった気分だ。喉の奥が冷たく、それでいて焼けるような、不快な感覚。
くそ。
くそ、くそ!
なんだよ。ムカつくんだよ。
夢も追いかけられない魔物の癖に。
憤りが胸で揺れ動く。耐えられる気がしない。
いっそ、この感情を胃袋で消化してしまいたい。
「……そうだ。消化だ」
急にそれを思い付いた途端、嘘みたいに僕の胸の中がクリアになっていった。
このまま胸の奥に燻らせたまま、ズルズルと仕事を続ける方がよほど苦痛だ。もし科白が何か後ろめたいことを行っているのなら、問い詰めて揺すりのネタに使ってやろう。
どうせ途中でバレても、それならこの職場をさっさと辞めるだけだ。今まで厄介事を押し付けられていたのだから、その分のお返しをしてやろうじゃないか。
思い付いたばかりのその行為が、脳の中で少しずつ正当化されていく。
「尾行だ……」
やると決めたならなら早い方がいい。
次の日、僕は仕事終わりの科白を尾行することを決意した。
―――――
いつもの通り、心のこもらない労いの挨拶の後。
仕事場から数十m離れた家の物陰から、僕は科白の外出を待っていた。
長時間待機することになるかと思っていたが、僕が退社して十分もしないうちに、事務所の作業場の明かりが消えた。
玄関の照明だけがポツネンと光る夜の事務所に、やがてこそこそとした動きで科白が姿を現す。彼女は窃盗犯のような警戒心丸出しな様子で、事務所の出玄関ドアの隙間から顔だけをニュッとつき出している。
「何やってんだ……あの人は」
こんな夜の裏路地に大して人もいないだろうに、不自然にキョロキョロと辺りの道を見回している。玄関の明かりが古いせいで、青肌の生首が蠢きながら、羽虫と共に明滅するライトのぼんやりと浮かんでいるという絵面になっていた。端から見ると大分ホラーである。知らない子供が見たら絶対に泣く。
周囲に人がいないことを確認した科白は、胸を撫で下ろす。僕が覗いていることに気がつかない時点でその安堵に意味はないのだけども。この距離で気づかないあたり、科白は結構な鳥目というか鈍感というか。
科白は物音を立てないように細心の注意を払いつつ、玄関扉の隙間からゆっくり滑り出る。
「嘘だろ……」
おずおずと現れた科白の姿に思わず口が開く。
科白はスカートと見間違えそうなほどのフレア調の赤いガウチョパンツ、上にはアジアンな雰囲気を醸すカーキ色のキーネックシャツをゆったりと纏っていた。胸元には三日月の形が刻まれた木彫りのネックレスをぶら下げていた。
一言で言えば、「エスニック系サブカル女子」といったところだろうか。
玄関のライトの明滅が、逆にファッションショーのライトのような演出になって、科白の頭上を照らし出している。
……あの服は、洗濯室に置いてあったやつだ。
赤いスカートかと思っていたが、どうやら違ったようだった。これまでのような小汚いスウェットと黄ばんだシャツからは想像もつかない洒落た姿に、僕は動揺が隠せなかった。
と言うよりも……その。
いや、認めたくはないが。
少しだけ、見蕩れてしまっていた。
だが惚けてしまっている僕には全く気づかないまま、科白はそのままそそくさと駆け出していってしまう。
やばい。
慌てて僕も彼女の後ろを追いかける。
街灯もほとんど立っていない夜中のコンクリートの上を、科白はその細い青色の四肢をばたつかせてながら歩き続けている。
暗闇に溶け込んで消えてしまいそうなその姿を見失わないように、僕は極力足音を抑えながら追跡を続ける。
「……歩くの、遅いな」
昨日までは鬱陶しかったはずの蒸し暑さも今日はやけに心地よく感じる。
あれだけ警戒していたのにもかかわらず、以前として科白は尾行に全く気がつかない。これだけ鈍感なら僕みたいな素人の尾行でもバレやないだろう。
……それにしても、何だろう。
普段見慣れないエスニックな衣服のせいだろうか。
もしくは、サイクロプスの特徴である青い素肌が、夏の夜に妙にマッチしているからだろうか。
それともおどおどしつつもどこか楽しげな、普段とは違った科白の様子のせいだろうか。
何にせよ非現実的な科白の姿を見ていると、何故だか僕のことをどこか違う世界に誘おうとしている妖怪か何かのような錯視をしてしまう。
「当たり前か、人間じゃないんだから……」
―――――
やがて科白がその足を止めたのは、うちの事務所となんら変わらない裏路地だった。やたらと坂道が多く、辺りには無機質で背の高いコンクリートの建物が手狭に並んでいる。わずかな月や星の光さえも拒んでいるかのようでもあった。
科白はその内の一つの建物にある、真白い扉の前で立ち止まっていた。
だが科白は扉をすぐに開けることはせず、またしても身の回りを警戒し始めた。
といっても明かりと呼べるものは、扉の横のフックに掛けられた無骨なカンテラのみだ。実際のところ、今の科白の視界は事務所の前の時よりも狭いだろう。
実際、大して物陰に身を隠しているわけでもないのに、またしても科白は僕の方には全く気がつかない。本当に意味ないな、あの動き。
無駄な警戒と確認が終わった彼女はようやく扉を開け、素早く身体を中に潜り込ませる。ああやって入るのが癖なのだろうか。随分と慣れた動きで、扉の奥の様子はよく見えなかった。
やがて僕もゆっくりと扉の方へと近づき、そこでいったん静止する。
目の前にある白いファイバーグラスの扉の周りを、僕は訝しむ視線で嘗め回す。
ここは何だ。何かの、店なのか?それとも誰かの家か?
だが扉の周りをみても、家の表札も店の看板らしきものも見当たらなかった。
扉の上部には、半円に縁どられたガラス窓に金色のモールが当てがわれていて、シンプルながらも主張しない気品を醸し出していた。
扉の横のカンテラに何か書かれていないか調べてみたものの、こちらも何の変鉄もないただの市販のそれであった。中年の男が好みそうな緑色のフレームのゴツゴツしたデザインで、扉の上品さとは対照的なのが何ともミスマッチだ。
「……一体なんなんだよ、ここ」
見るからに怪しいその扉を前に、僕はなかなか踏み出せずにいた。
こうも何も書かれていないということは、基本的に表沙汰にしたくないような場所なんだろう。唯一分かっていることは、ここに用があるのは科白のような常識の通じない変魔だということだ。
……そう考えると、なんだか急にロクでもないところであるような気がしてきた。しかしここまで来て帰るには、あまりにも消化不良だ。
「……ヤバい薬の取引みたいなところではありませんように」
結局のところ、入ってみなければ分からないということか。
僕は祈るようにそう呟くと大きく息を吸い、ぐっと肩に力を込め、その白い扉をゆっくりと開いた。
憧れに煩わしさを感じるようになったのは。
「……あ……りさん。……つかれ……です」
辺りを漂う蚊の鳴き声の方がよほどうるさく聞こえるくらいの、小さな声で科白祈里(かしろ いのり)は呟いた。途切れ途切れに聞こえる労いの言葉らしきものは、彼女との会話に慣れた僕でさえ何とか聞き取れるほどであった。
「ええ……お疲れ様です」
科白の事務机には大量の本のゲラ刷りや契約書類などが、向きもそろえず無造作に積み重ねられている。そのおかげで僕らがお互いに姿を直視することはない。たとえ僕が細目でじろりと見下ろしても、気付かれないのが幸いだ。なにか余計な思考が生まれる前に、さっさと作業場を後にした方がいい。
僕は逃げるように作業場の木製のドアに多少力を込め、無造作に作業場の出入口をこじ開ける。とたんに湿気を含んだ空気が僕の顔面中にべったりと張り付いてきた。その鬱陶しさを拭いたくて、何度も鼻の頭周りを指で擦る。
だが鼻につくその原因は、決して湿気などのせいではなかった。
「……もう七月だってのに、いい加減に梅雨が明けてくれよ」
―――――
僕、或森夕輔(あるもり ゆうすけ)の夢は、装丁家になることだった。
きっかけは確か、小学生の時に読んだ子供向けのファンタジー小説のハードカバーのデザインがやたらお気に入りだったことだ。
何処かの島の自然の風景の中に、不自然なくらいなほど赤く染まった石がおかれている写真。それが切手風の額に縁どられ、散りばめられたその本に、当時少年だった僕の心は激しく動かされた。書物というものがインテリアにもなりうると知ったのもその頃だった。
いつかこんな素敵な本を作ってみたい―――
そう思うようになった原点、それが装丁家である「科白祈里」のデビュー作であり、彼女との一度目の出会いだった。
装丁家とは、本の表紙やタイトルカバーなどの本の造形デザインする仕事だ。小説やエッセイ、雑誌などの本の内容に合ったデザインを作成し、それを出版社や著者に提供することが主な内容だ。
大抵の場合はコスト削減のため、出版社がそういったデザインのチームを作ってしまうことが多い。だが売り上げやこだわりの作品作りのために、わざわざ専門の装丁家にデザインを依頼してくることもある。
事の発端は数ヵ月前。
僕は才能と出会いに恵まれずに就職先が決まらないまま、デザイン専門学校を卒業を控えていた。焦りに背中を突かれて余裕のなかった僕の前に突如として、彼女の事務所がアシスタントの募集を見かけたことで、全てが狂い始めたのだ。
白状すると、その時は恥ずかしながら、僕は運命というものを信じてしまっていた。
その当時、僕は就職難で冷静さを欠いていた。
とにかく仕事を見つけることに躍起になっていたといっていい。だから学校の就職活動コーナーで科白祈里の事務所名を見つけた後のことは実はあまり覚えていない。あまりの衝撃のせいで正確な記憶がされていないのだ。
科白祈里は、書籍界隈では著名な装丁家だった。
高い技術力と異世界からやって来たような異質な発想、そしてメールアドレスと事務所名以外のプロフィールを明かさないという、ミステリアスな存在であることでも知られていた。
気づいた時には半ば飛び付くようにして、僕は彼女の事務所に履歴書等を送りつけていた。
無論、怪しいとは思わなったといえば嘘になる。
科白のような売れっ子がなぜこんな中堅専門学校でアシスタントを募集するのか、理由が分からなかった。
だが卒業間近の僕にはそんなことを考える余裕はなかった。むしろその秘匿性が、逆に掘り出し物を見つけたような高揚感を生み出していたのだとさえ思う。
そして思い込みとは怖く、競争率も高いであろう科白祈里のアシに見事選ばれた時には、僕は完全に舞い上がってしまっていた。さも自分があの科白祈里に見込まれて、選び抜かれたかのような、己がさも未来ある若者なのではないかといった、どこかおめでたい勘違いをしていたのだ。
だけど、現実はそう甘くはなかった。
空気にまだ冷たさが残る四月の頃。科白の神秘性を守るために最終選考が終わってからようやく、事務所の住所を紹介された。
そして、この職場のドアを開けた時、僕は現実を思い知った。
『は、初めまして!或森夕輔と申します。本日からお世話になりま……』
『ひっ……やだ、帰って……!』
二度目の出会いは、随分と辛辣なものであった。
今思えば初対面でその扱いはどうかと思ったが、その時の僕の頭にはそれも気にならないくらいの衝撃が駆け巡っていた。
彼女の事務所は一言で言えば、ゴミ屋敷というべき状態だった。
インスタント食品の器と食べ散らかした菓子の包装が散らばるフローリング。
洗ったのかすらも分からないまま、畳まれずに丸まって放置された衣服やタオル達。
作業机に乗り切らずに床に直積みするも、無残に崩れてしまった書類群。
家主の生活力のなさが具現化したような情景が、暴力的な勢いで僕の目に飛び込んできた。
その衝撃は、更にとどまることがなかった。
続けて目を引いたのが科白の容姿、コレもまた衝撃的すぎた。
彼女は何年着ているのかと聞きたくなるくらいに、使い古されて襟のボロボロになったTシャツと穴の空いたスウェットを着た、干物女と呼ぶのが相応しいであろう、『見た目20代くらいの若い女性』だったのだ。
当然、おかしな話であることは分かってほしい。
科白祈里は『僕が小学生の時から』装丁家として活躍していたはずだ。
それにも関わらず、現在新卒である僕とそう変わらないくらいの若々しさを放っていた。
その疑問も、次の瞬間には衝撃と共に解決していた。
同時にいくつもの衝撃を受けたが、恐らくそれが一番だっただろう。
科白祈里は、そもそも人間ではなかったのだ。
上から絵具で色をべっとりと塗りつけたみたいな不自然な青肌と、額から禍々しく突き出た薄茶色の角。そして、普通の人間よりも何倍も大きく、ぎょろりとした、たった一つだけの目。
科白祈里は、サイクロプスだった。
唖然としてしまった。
魔物と共存している昨今とはいえ、魔物が働くだなんて僕はほとんど見たことがなかった。
魔物自体は専門学校でも見かけたことはあったが、まともにデザイン専門職を目指した魔物を僕は知らない。ほとんどは男子生徒と交際ばかりに集中し、大概は結婚のためにそのまま中退していった。デザインの仕事に真面目に就こうとする魔物なんて一人もいなかった。
僕は魔物のそういうところが苦手で、魔物とは絡まないと決めていた。魔物となんて普通に向かい合うだけで時間の無駄だと思っていたのだ。
―――だからこの巡り合わせは、誰かの皮肉なんじゃないかと思えた。
最初はどうしていいか分からなくて物凄く戸惑ったし、気まずかった。
ただでさえ女性も魔物も苦手な僕に、科白のあの異様なまでに巨大な瞳を、奇妙な青白い肌をいきなり間近にして受け入れるには荷が重かった。科白の正体を何も知らずに憧れていたという事実も、逆に僕の膝を震わせる材料になってしまっていた。
いっそのこと、科白がもっと色気のある服に身を包み、こちらの有無を言わさずに貪ってくる肉食系の魔物だったらよかったのかもしれない。
それが、こんな引きこもりみたいな小汚ない格好で、小汚ない部屋に住む目の前の魔物が憧れの「科白祈里」であるといわれても、納得できるわけがなかった。
……本当のことを言おう。
僕は科白祈里に失望してしまったのだ。
小さい頃から色恋に見向きもせずに追い求めていたはずの憧れの人が、こんな干物女の代表みたいな恰好で、なのに魔物なんていう、頭のおかしな理解のできない輩で。
もし。
そんな人に仕事中に、こんなみずぼらしい格好の魔物に。
襲われでもしたら……。
そう考えるだけで身震いが止まらない。
一体、どうしてこんなことになってしまったのか。
夢のためならどんなに仕事の環境が劣悪で想定の斜め下であろうと、めげずに頑張るつもりだったのに。
だけど彼女の装丁家としての腕は、それだけは本物のはずだ。得るものはあるはずだし、よい経験になることは間違いない。と、そう思い込むことでなんとか僕は退職を踏みとどまった。
だがそうやって無理にポジティブになろうとするも、さらなる現実が追い打ちをかけてきた。
ここに就職して3ヶ月、僕を待っていたのは極度に常識の欠けた変人ぶりを披露する科白祈里だった。
いや、魔物だから変魔とでも呼んでやろうか。
彼女の仕事ぶりは、人間の常識では計り知れないものであった。
普段は日がな一日何もせず、人形のようにただぼーっと体操座りでちょこんと事務机の前にいる。
だがひとたび僕が話しかけるとするならば、まるで捨て猫のように血相を変えて警戒をし始めるのだ。
そして何かを訴えるようにして時折何かを喋っている。だが唸るように俯いて話すものだから、何を言っているかも分からない。聞き返す度に、科白も僕もお互い段々とストレスが溜まってくるのだ。
サイクロプスはあまり積極的にコミュニケーションをとることがない種族だとは知っているが、いくら何でもここまで酷いとは思っていなかった。今ではもう、科白とは会話をほとんどしなくなった。
だが、ずっとそんな調子かと思いきや、ある時になると突然思い出したかのようにアクティブになることがある。
それもかなり極端で、急に立ち上がったかと思うとどこへともなく歩き出し、また急に座りこんではデザイン案を書き出したり色校見本のチェックをし始めるのだ。
それが作業場や室内ならまだいい方だ。
ひどい時は着替えもせずにいきなり作業場を飛び出したかと思うと、わざわざ人通りの多いコンクリートまで走り、そこでちょこんと正座をして仕事の資料をバサバサと広げ始めたこともある。道を行きかう人からの視線も、傍にいる僕のこともお構いなしだ。
元々アシスタントはつけずに、一人でひっそりと作業をこなしていたそうで、自分が他人にどう見られようと知ったことではないらしい。それはそれで流石だとは思うが。
ではなぜ今回僕が起用されたのかといえば、そんな彼女の身の回りの世話を焼くための人物が必要だったのだ。
先ほどの通り、科白は社会生活能力が皆無だった。
洗濯、掃除、身だしなみ、買い出し、料理の一切をまともにこなせない。
加えて会話もダメとなると、唯一の仕事でさえも関わる人間は限られてくる。彼女と長年付き合っている出版社も、未だに手を焼いているらしい。
それでいて事務所は売れっ子らしく、三階建ての作業場兼自宅という無駄に大きな良物件なのが、また腹の立つ話である。
今ではマシになったが、僕が来た当初は自宅の方に契約書類を持ちこんだままだったり、作業場に彼女のパンツが落ちていたりすることもあった。部屋の公私が付いていないから、実質三階分の部屋を僕が見なければならなかった。これは人にプロフィールを明かせないわけだ。
そしてそれらの家事一式をこなしている間に僕の一日は終わる。やりたかった装丁の仕事に関わることはほとんど無かった。
今までは彼女と親しい出版社の方が見るに見かねて、時々ここを訪れては世話を行っていたらしい。だが年度が変わった際に、その人は異動になったそうだ。
科白の装丁家としての実力を惜しんだ出版社は、秘匿性を多少崩してでも科白の面倒を見てくれる者の雇用をすることに決めたのだった。無論そこに科白の意志など存在しないことは、科白の僕への態度からして明白だ。
それが今回の僕の雇用の経緯だと、初日に出版社からの電話で聞かされた。その夜、僕は家で買ったばかりのスーツのシャツのボタンを全て引きちぎってダメにした。
話が長くなったが申し訳ない。
要するに、僕はただ厄介な引きこもりを押し付けられたのだ。
初めから、僕は誰にも選ばれてなどいなかったというわけだ。
「ああ、ちくしょう、くそ!くそが!」
湿気に染まる帰路の途中、踏み歩く度に何度も悪態を吐く。
だがその怒号も、無機質な藍色の道にあっけなく吸収されてしまう。代わりに残ったのは吐いた息のみ。それも湿った大気と混じり合うと、僕の肌に更にべったりと張り付いてくる。自分で吐き出した空気だからこそ、余計に煩わしかった。
僕は、装丁家になりたかったんだ。
家政夫になどなった覚えはない。
―――――
7月も後半に入ってからだ。
ここ最近、科白の様子がおかしいことに気がついた。
科白の仕事場は都会の小さな脇道小道を何度もくぐり抜けた、人気の少ない裏路地にある。仕事の依頼はメールでのやりとりが大半で、ゲラ刷りや色校正の資料も郵送だ。直接的な来客は出版社関係の人間くらいのものだった。
つまり日中は、僕と科白祈里のほぼ二人だけという徹底した陸の孤島ぶりなのである。蛇に睨まれた蛙どころの話ではない。
なのでいつもなら僕が帰っても、彼女はそのまま一人で作業場にいる。そして作業が終われば、そのまま作業場で雑魚寝のように転がって眠っていることが多い。3階の自分の部屋に戻るのは、シャワーを浴びるか食事の時だけらしい。
それが最近、仕事が終わるとどこかに出かけるようなのだ。
そう思ったきっかけは、先ほど洗濯している時だった。
「これは……?」
洗濯室の隅で偶然見つけたそれは、いつものよれたTシャツと灰色のスウェットだらけの洗濯物の中でやたらと異色を放っていた。
それは、明らかにらしくない赤色の長いスカートだった。きっとこっそり自分で洗濯しようとして、すっかり置き忘れてしまったのだろう。
科白は日中はずっと作業場にいる。となると、これを着て何かをするのなら僕のいない夜中しかない。どこにいくかはわからないが、科白は普段は着ないような派手な服を着て、夜な夜などこかに出かけていることになる。
その可能性に気が付いた瞬間、僕の背中にムカデが這うようなヒヤリとした嫌悪感が走った。
「ふざけんなよ……」
酒か?男か?
魔物だから男の可能性が高いか。
僕に雑務だけを押しつけといて、自分だけは楽しもうってことなのか。
胃の奥が熱くてムカムカする。眉間にぐしゃりと音が出そうなくらいの皺がよる。
もちろん科白がどこかに行っているということすらも想像の範疇から出ていない。だが、人間一度生まれてしまった疑念をそう簡単に払拭することはできない。
僕はその赤いスカートを、なるべく元の形のまま位置に戻す。
いくら大人しい科白でも、隠しているものを見られた女性が何をしてくるか分からない。それに気がつくくらいには、ギリギリ平静を保てていた。
しかし、頭の中まではそうもいかなかった。
「くそ、バカにしやがって……」
僕に隠している辺りがなおさらムカつく。
グルグルと回る洗濯機にでもなった気分だ。喉の奥が冷たく、それでいて焼けるような、不快な感覚。
くそ。
くそ、くそ!
なんだよ。ムカつくんだよ。
夢も追いかけられない魔物の癖に。
憤りが胸で揺れ動く。耐えられる気がしない。
いっそ、この感情を胃袋で消化してしまいたい。
「……そうだ。消化だ」
急にそれを思い付いた途端、嘘みたいに僕の胸の中がクリアになっていった。
このまま胸の奥に燻らせたまま、ズルズルと仕事を続ける方がよほど苦痛だ。もし科白が何か後ろめたいことを行っているのなら、問い詰めて揺すりのネタに使ってやろう。
どうせ途中でバレても、それならこの職場をさっさと辞めるだけだ。今まで厄介事を押し付けられていたのだから、その分のお返しをしてやろうじゃないか。
思い付いたばかりのその行為が、脳の中で少しずつ正当化されていく。
「尾行だ……」
やると決めたならなら早い方がいい。
次の日、僕は仕事終わりの科白を尾行することを決意した。
―――――
いつもの通り、心のこもらない労いの挨拶の後。
仕事場から数十m離れた家の物陰から、僕は科白の外出を待っていた。
長時間待機することになるかと思っていたが、僕が退社して十分もしないうちに、事務所の作業場の明かりが消えた。
玄関の照明だけがポツネンと光る夜の事務所に、やがてこそこそとした動きで科白が姿を現す。彼女は窃盗犯のような警戒心丸出しな様子で、事務所の出玄関ドアの隙間から顔だけをニュッとつき出している。
「何やってんだ……あの人は」
こんな夜の裏路地に大して人もいないだろうに、不自然にキョロキョロと辺りの道を見回している。玄関の明かりが古いせいで、青肌の生首が蠢きながら、羽虫と共に明滅するライトのぼんやりと浮かんでいるという絵面になっていた。端から見ると大分ホラーである。知らない子供が見たら絶対に泣く。
周囲に人がいないことを確認した科白は、胸を撫で下ろす。僕が覗いていることに気がつかない時点でその安堵に意味はないのだけども。この距離で気づかないあたり、科白は結構な鳥目というか鈍感というか。
科白は物音を立てないように細心の注意を払いつつ、玄関扉の隙間からゆっくり滑り出る。
「嘘だろ……」
おずおずと現れた科白の姿に思わず口が開く。
科白はスカートと見間違えそうなほどのフレア調の赤いガウチョパンツ、上にはアジアンな雰囲気を醸すカーキ色のキーネックシャツをゆったりと纏っていた。胸元には三日月の形が刻まれた木彫りのネックレスをぶら下げていた。
一言で言えば、「エスニック系サブカル女子」といったところだろうか。
玄関のライトの明滅が、逆にファッションショーのライトのような演出になって、科白の頭上を照らし出している。
……あの服は、洗濯室に置いてあったやつだ。
赤いスカートかと思っていたが、どうやら違ったようだった。これまでのような小汚いスウェットと黄ばんだシャツからは想像もつかない洒落た姿に、僕は動揺が隠せなかった。
と言うよりも……その。
いや、認めたくはないが。
少しだけ、見蕩れてしまっていた。
だが惚けてしまっている僕には全く気づかないまま、科白はそのままそそくさと駆け出していってしまう。
やばい。
慌てて僕も彼女の後ろを追いかける。
街灯もほとんど立っていない夜中のコンクリートの上を、科白はその細い青色の四肢をばたつかせてながら歩き続けている。
暗闇に溶け込んで消えてしまいそうなその姿を見失わないように、僕は極力足音を抑えながら追跡を続ける。
「……歩くの、遅いな」
昨日までは鬱陶しかったはずの蒸し暑さも今日はやけに心地よく感じる。
あれだけ警戒していたのにもかかわらず、以前として科白は尾行に全く気がつかない。これだけ鈍感なら僕みたいな素人の尾行でもバレやないだろう。
……それにしても、何だろう。
普段見慣れないエスニックな衣服のせいだろうか。
もしくは、サイクロプスの特徴である青い素肌が、夏の夜に妙にマッチしているからだろうか。
それともおどおどしつつもどこか楽しげな、普段とは違った科白の様子のせいだろうか。
何にせよ非現実的な科白の姿を見ていると、何故だか僕のことをどこか違う世界に誘おうとしている妖怪か何かのような錯視をしてしまう。
「当たり前か、人間じゃないんだから……」
―――――
やがて科白がその足を止めたのは、うちの事務所となんら変わらない裏路地だった。やたらと坂道が多く、辺りには無機質で背の高いコンクリートの建物が手狭に並んでいる。わずかな月や星の光さえも拒んでいるかのようでもあった。
科白はその内の一つの建物にある、真白い扉の前で立ち止まっていた。
だが科白は扉をすぐに開けることはせず、またしても身の回りを警戒し始めた。
といっても明かりと呼べるものは、扉の横のフックに掛けられた無骨なカンテラのみだ。実際のところ、今の科白の視界は事務所の前の時よりも狭いだろう。
実際、大して物陰に身を隠しているわけでもないのに、またしても科白は僕の方には全く気がつかない。本当に意味ないな、あの動き。
無駄な警戒と確認が終わった彼女はようやく扉を開け、素早く身体を中に潜り込ませる。ああやって入るのが癖なのだろうか。随分と慣れた動きで、扉の奥の様子はよく見えなかった。
やがて僕もゆっくりと扉の方へと近づき、そこでいったん静止する。
目の前にある白いファイバーグラスの扉の周りを、僕は訝しむ視線で嘗め回す。
ここは何だ。何かの、店なのか?それとも誰かの家か?
だが扉の周りをみても、家の表札も店の看板らしきものも見当たらなかった。
扉の上部には、半円に縁どられたガラス窓に金色のモールが当てがわれていて、シンプルながらも主張しない気品を醸し出していた。
扉の横のカンテラに何か書かれていないか調べてみたものの、こちらも何の変鉄もないただの市販のそれであった。中年の男が好みそうな緑色のフレームのゴツゴツしたデザインで、扉の上品さとは対照的なのが何ともミスマッチだ。
「……一体なんなんだよ、ここ」
見るからに怪しいその扉を前に、僕はなかなか踏み出せずにいた。
こうも何も書かれていないということは、基本的に表沙汰にしたくないような場所なんだろう。唯一分かっていることは、ここに用があるのは科白のような常識の通じない変魔だということだ。
……そう考えると、なんだか急にロクでもないところであるような気がしてきた。しかしここまで来て帰るには、あまりにも消化不良だ。
「……ヤバい薬の取引みたいなところではありませんように」
結局のところ、入ってみなければ分からないということか。
僕は祈るようにそう呟くと大きく息を吸い、ぐっと肩に力を込め、その白い扉をゆっくりと開いた。
16/08/11 17:38更新 / とげまる
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