読切小説
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虚ろと従者
 物心付いた時から、山で木こりとして暮らしていた。
 随分昔に帰らなくなった父母の顔など、とっくに忘れてしまい、これからも独りで、ろくに物も知らぬまま山で生きて、死んでいくのだと思っていた。
 だから、偶然見つけた鉱脈の価値など分からなかったし、それが自分の物になると説明されても、理解できなかった。
 役人たちが入れ替わり立ち代りやってくるようになると、たちまち、山は鉱山労働者たちで賑わうようになり、道を作るために木は無計画になぎ倒され、木こりとして暮らしていくのは難しくなってしまった。

 斧の代わりにペンを持たされ、連日連夜、山の管理者としての仕事をさせられるのが嫌になり、適当に偉そうな人に頼んで、山を買ってくれる人を探した。
 数日もしない内に買い手が現れ、あれよあれよいう間に話は進み、代金として、一生遊び続けても使い切れないほどの大金が転がり込んできた。

「こんな安値で売るなど、信じられない」

 荷物を纏めていると、そんな声が聞こえた。後で聞いた話だと、適正価格は決定した値段の倍以上だったらしい。
 もっとも、そんなに金を貰っても、何に使うのだろうかという疑問しか湧かなかったのだが。


 手に入った金をもとに、かつての静けさの気配も無くなった山を出て、人里離れた空き地に家を建てた。
 野菜を作るために、荒地を開墾して畑にした。少し離れた場所に広い草原があったので、厩舎を建てて、牛と馬を飼った。
 必要な物が揃うにつれて、街に行く頻度はどんどん少なくなった。

 一年ほど、平地での孤独な暮らしは続いた。野菜や家畜を育てる生活は、慣れぬ仕事という事もあり、忙しかった。しかし、その忙しさも、心は満たしてくれなかった。
 やはり、木こりが自分には合っているのかもしれない。ここも誰かに売って、今度は鉱脈などない山に住もうか。
 そんな事を考え始めたある日の朝、ふらりと、奇妙な女性が家にやってきた。

 腰まで伸びた紺色の髪をうなじの辺りで一本に束ね、紺色の給仕服を着ている。とても美しい容姿だが、何よりも目を引くのは、その黄金色の瞳だった。

「使用人は、いりませんか」

 その女性は、狭い洞窟で喋っているような、何度も反響して聞こえる不思議な声で、簡潔に言った。
 使用人の募集もしていないのに、突然現れて何を言うのか。「不要だ」と即座に答えそうになったが、寸前で思いとどまった。

 畑や牛馬にかかりきりになっていて、家の掃除が行き届いていないところはあった。掃除や炊事をやってもらいつつ、暇な時の話し相手にでもなってもらうのも、良いかもしれない。
 家を建てる際、間取りは大工に任せたため、部屋は余っている。泊り込みで働いてもらうのにも困らない程度の広さはある。

 結局、その女性を雇う事にした。
 雇うに当たって話をしたのは、賃金についてと仕事の内容、それと、風呂や台所は好きなように使ってもらって構わないという事だけだった。

 晴れて使用人となったその女性は、とてもよく働いた。
 掃除を任せると、塵一つ残さず片付けてくれた。何も言わなくとも、必ずこちらが望んだ時間に、驚くほど美味しい食事を用意してくれた。

 ただ、厩舎へと案内した際には、どういう訳か牛馬が酷く怯えてしまい、世話を任せる事などできそうにもない状態になってしまった。
 曰く、「昔から、動物には嫌われてしまうのです」と言う事だった。それ以来、彼女は厩舎には近付かないようにしている。

 そして、普段は寡黙だが、「何か話をしてくれ」と頼むと、まるで語り部のように話を語ってくれた。
 その内容は多岐に渡り、遥か遠くの地に伝わる伝承や、今も存命である勇者達の冒険譚、他愛も無い街での事件など、一つたりとも同じ話は無かった。
 だが、特に彼女が好んだのは、地底に生きていたという奇妙な存在の話だった。
 地上のものとは何もかもが違うその存在を語るときだけは、彼女はここでは無い、どこか遠くを見ているように思えた。

 するりと頭に入ってくる不思議な声で紡がれる、どこか奇妙で、しかし愉快な話に、時が過ぎるのを忘れて聞き入る事も多々あった。
 そのまま夜を明かしてしまっても、不思議な事に、疲労は残らなかった。それどころか、その一日は、全身に気力が満ちた素晴らしい気分でいられた。


 平和な日々は続き、ある頃から、寡黙な使用人に興味を抱くようになった。
 とても効率良く仕事をする彼女は、持て余しているであろう時間に、何をしているのか。
 ある日の晩、共に食卓を囲んでいる時に、それをそのまま尋ねてみると、使用人は、私室から一つの皿を持ってきた。

「こういったものを、創っておりました」

 淡々と、誇らしさも恥ずかしさも含んでいない声で、彼女はそう言った。

 装飾の入った、美しい皿だった。木彫りにも見えるが、触ってみると、陶器のように硬い。
 芸術とは無縁の生き方をしてきた身にも、これはとても美しく、価値のある物だと分かる。

「それでは、ぜひ、ご主人様に使っていただけませんでしょうか」

 思いつく限りの賛辞を述べると、彼女は珍しく歓喜の感情を声に滲ませた。

「私たちと同じように、道具も、使われるために創られる物です。
 この皿も、私の部屋で埃を被っているよりも、ご主人様に使っていただける方が喜ぶでしょう」

 美しいものを汚してしまう事には抵抗があったが、同時に、芸術品にも近いそれを自分のものにできる喜びも感じていた。
 何より、彼女が望むのならと思い、その皿を受け取る事にした。

 その日から、彼女は自分が作ったものを様々に用いるようになった。
 材料はいずれも不明だが、彼女の作ったものは見た目も良く、道具としての質も良かった。

 ある時、愛用していたナイフが刃こぼれしてしまったので、彼女のものを借りてみると、どんなに硬い物にも容易に刃が通り、驚いた。
 それでいて、うっかり指先に刃を滑らせてしまっても傷が付いたりはしない、不思議なナイフだった。
 返す際に、このナイフも自分で作ったのかと聞くと、彼女は頷いた。

「ご主人様がお望みならば、お創りしましょうか」

 と言うので、ぜひ頼むと答えると、翌日には鞘まで付いたナイフができあがっていた。
 少し曲がった柄は、順手でも逆手でも良く馴染み、刃は、伸縮しているのでは無いかと思うほど、何を切るにもちょうど良い長さと厚さだった。
 鞘に彫られた独特な紋様は、見る角度によってその姿が変わり、飽きる事無く、いつまでも見ていられた。

 鍛造設備など無いのに、どうやって刃を作ったのかという疑問はあったが、それを訊ねても、彼女はただ一言、

「秘密です」

 と微笑むだけだった。

 また別の日には、使っていた椅子の足が折れてしまったため、修理をするためにちょうど良さそうな木材を探していると、

「ぜひ、私に修理させてください」

 と申し出られた。
 断る理由も無かったため任せてみると、その日の晩には、黒檀らしき素材でできたイスが返ってきた。
 修理ではなく、一から作ったのではないかと尋ねると、何も言わず微笑まれた。

 しかし、もし一から作ったのだとしても、責めるつもりなど毛頭無かった。
 包み込むように体を支えてくれて、座っているだけでも不思議と安らぐ特製の椅子に、文句を言えるはずもなかった。

 それからは、彼女の話を聞いている時間が今まで以上に増えた。お手製の椅子に座り、暖炉の前で彼女の声を聞いている時間は、いつの間にか、かけがえの無い楽しみになっていた。
 また、その一方で、椅子に座ったまま眠ってしまう事が増えた。寒い冬が近付くにつれて、暖炉の暖かさが心地よくなってきたためかもしれない。

 しかし、どうせ眠るなら、やはりベッドの方が良いと思う程度の理性はある。心地良いからと言って、椅子で寝続けるのは躊躇われた。
 次に椅子で眠っていたら起こしてもらえないかと使用人に伝えると、彼女は、いつもと同じ微笑を浮かべて言った。

「少し、残念です。ご主人様の寝顔を見ていられるのは、椅子でお眠りになられた時だけですから」

 ふざけているのではない、心の底からそう思っていると感じられる言葉だった。
 彼女は、いつもそうだった。淡々と言葉を紡ぎ、笑みを絶やす事も無いが、その奥底に秘めた感情は不思議と伝わってくる。

「それでは、次はベッドを創りましょう。椅子よりも寝心地の良い、離れられぬ程の快眠を得られる物を」

 その言葉も、冗談では無いようだった。




 使用人を雇ってから、初めての冬が来た。
 その日の空は灰色で、今にも雪を降らせそうだった。
 早朝の冷たい空気に震えながら、いつも通り牛馬の様子を見ようと厩舎を開けると、すぐに違和感を覚えた。

 見れば、二頭いる牛の片方が、地に伏せたまま動こうとしない。普段ならば顔を見るなり世話をねだってくるのだが、今はただ、苦しげに呼吸を繰り返し、時折弱々しく鳴くだけだった。
 見たところ、怪我ではない。病であれば、素人が見るよりも街から専門の者を呼んだ方が良いだろう。

 家に戻って街へ行く支度をしていると、こちらの焦燥を見取ったのか、使用人に「何かあったのですか」と訊ねられた。
 牛の様子がおかしい事を伝えると、彼女は、壊れた椅子を見たときと同じように、

「ぜひ、私に診させてください」

 と言った。
 彼女が近付くと牛馬が酷く取り乱してしまうのは分かっていたが、今回ばかりは、仕方なかった。

 厩舎へと使用人が入ると、伏せった牛を心配そうに見ていたもう一頭の牛が、けたたましく鳴いた。
 しかし、彼女はそれを気にする様子も無く、地に伏せたままの牛にそっと手で触れた。
 途端に牛は興奮し、暴れ、鳴いた。
 頭を振り回した拍子に、角が使用人の腕を掠め、傷跡から黒い血が流れた。それでも、彼女は手を離さず、じっと牛を見つめ続けた。

 やがて、牛は暴れるのを止め、鳴き声もあげなくなった。

「もう、大丈夫です」

 腕の傷跡を押さえながら使用人がそう言うと、つい先ほどまで苦しげに伏せっていた牛は、たちまち立ち上がって、尻尾を揺らしながら元気よく鳴いた。
 ただ、手を触れていただけなのに。驚きを隠せずに呟くと、彼女はいつも通りに微笑んだまま、平然として言った。

「私は生まれつき、この力を持っていました。あまり、人前では見せないようにしていたのですが」

 腕を押さえていた手を離すと、そこにあった傷は、すっかり治っていた。裂けた服までもが、何事も無かったかのように直っている。
 ようやく、合点が行った。今まで彼女が作ってきた様々な物は、今見せてくれた力の一部だったのだろう。

 この不思議な使用人の事を良く知る前ならば、恐れ、不気味に思い、追い出していたかもしれない。
 しかし、今ならば、そんな必要など無いと分かる。むしろ、彼女がずっと隠していた秘密を知れた事に喜びすら覚えていた。

 包み隠さず、それをそのまま伝えると、彼女はいつもよりも少しだけ嬉しそうに、笑った。

 気付けば、牛たちも、彼女を見ても騒がなくなっていた。命を救われたことを理解したのかもしれない。
 使用人とは関係無く、時折、手が付けられないほどに暴れる事もあった二頭の牛は、非常に従順な家畜へと変わっていた。
 無尽蔵に沸いてくるのでは無いかと思うほどに乳の出が良くなり、その味も、高級品と違わぬほどだった。

 街へ行くのに使っていた馬も、彼女が世話をすると、たちまち名馬へと変貌した。
 どれだけ重い荷を積んで走ろうとも疲れを見せず、口笛を吹けばどこからでも駆け寄ってきた。


 ふらりとやってきた使用人のお陰で、満たされなかった日々は随分と色鮮やかになった。
 理由も分からぬままに、自らの全てを捧げんばかりに尽くしてくれる彼女に、どうしても礼がしたくなった。
 しかし、女性への贈り物などした事もない独り身の男には、何をすれば彼女が喜ぶのか、見当も付かない。
 しばし考えた後、直接本人から聞く事にした。

 洗濯をしている所を掴まえ、「何か欲しい物は無いか。どれほど高価なものでも構わない」と言うと、使用人は首を傾げ、少しだけ考える素振りを見せてから、答えた。

「ご主人様に、触れていただきたいです」

 聞き間違いかとも思った。しかし、そうではなかった。
 触れるだけ。ただそれだけを、彼女は望んでいた。

「私は、ご主人様の傍にあり続けられるだけでも、十分に喜びを感じます。ですが、それでも何か褒美を望めるのならば、触れて、褒めていただきたいのです」

 今まで礼を言った事こそあれど、はっきりとその行いを褒めるような事は無かった。思っていた形とは違うが、感謝を伝えるには、こういう方法もあるのかもしれない。

 想像とは違う、子どもらしさも感じる願いに応え、使用人の頬に触れ、頭を撫でる。
 使用人は、柔らかい頬を微かに紅潮させ、時折熱っぽい吐息をこぼしながら、じっと撫でられていた。

 もう良いだろうかと手を離すと、彼女は使用人らしく、一歩下がって恭しく頭を下げた。

「美しい宝石よりも、煌びやかな衣装も遠く及ばない。このひと時こそが、私の心を満たしてくれるのです……ありがとう、ございます」

 それは言いすぎでは無いか。笑って答えると、使用人は静かに首を横に振った。
 いつも通りの微笑みは、確かに、満足そうだった。




 時は流れ、草木の萌える春が訪れた。

 使用人は、相変わらずよく尽くしてくれ、並行して、色々なものを作り続けていた。
 彼女の作ったものは、彼女自身と同じように、こちらに一切の不便を感じさせない。もはや、家の中で彼女が作っていないのは、この体と家そのものくらいしか残っていない。
 そんな中で生活しているためか、自分が少しずつ使用人と一つになるような錯覚すら覚え、苦笑する事もあった。

 しかしその一方で、それも悪くないとも、心のどこかでは思っていた。
 それをはっきりと自覚したのは、月の無い、暗い夜の事だった。

 夜中に目が覚めてしまい、何をするでもなく、ただ天井を見上げていた。
 しばらくすると、外から微かに歌声が聞こえる事に気付き、起き上がった。
 夜の空気は、まだ冷たい。使用人の織ってくれた外套を纏い、歌声の聞こえる方へと向かう。

 牛や馬を放すための草原。そこには月の明かりも火の灯りも無いというのに、使用人は仄かな輝きを纏いながら、歌声を響かせていた。
 聞いた事の無い歌は、理解のできない言語で紡がれている。そのはずなのに、心の遥か奥底に眠る、産まれる前の記憶のような物を揺さぶられる気がした。
 立ち竦んでいるのか、聞き入っているのか、自分でも分からずにいると、使用人はやがて歌うのを止めて、振り向いた。

「良い夜ですね。風も光も無い、揺らがぬ闇夜です」

 彼女の言うとおり風も無いのに、足先まで隠す長いスカートはゆらゆらと揺れ、時折形を変えてすらいる。一つに纏めた髪も、触手か何かのようにうねっている。
 驚きはしなかった。ただぼんやりと、あれが彼女の本来の姿なのだと理解して、頷いた。

「申し訳ございません。起こしてしまったようですね」

 詫びる彼女に近付きながら、首を横に振る。それに呼応するように、外套の裾がはためいた。
 むしろ、良い物が見られた。こんな事ならば、夜通し起きていてもいい。心の底から、そう思った。

「……ご主人様がお望みならば、いつまでも、いくらでも、歌いましょう」

 そう言うと、使用人はいつもの給仕服に、舞台衣装の様な装飾を少しだけ加えてから、再び歌いだした。
 聞いた事も無い、理解もできない言葉で、時には何かを讃えるように。時には、何かを嘆くように。いつも通りの微笑みに、少しだけ、感情をにじませて。

 柵に腰かけると、外套が独りでに形を変え、隙間の無い筒のように体を包んでくれた。彼女に抱きすくめられているような温もりの中、空が白み始めるまで、夢心地で彼女の歌を聞いていた。

 その夜から、使用人は本来の姿を隠さなくなった。

 何か作業を頼めば、触手を伸ばし、一度に複数の作業をこなした。彼女の本体は料理を作りつつ、触手だけが別の部屋で掃除をしているような事も多々あった。
 また、何かが欲しいと言えば、足下から自身の一部を膨らませ、求めた物を創り出してくれる。
 手にする物も、纏う物も、それは、木でも鋼でも布でもなく、彼女であると、この時、完全に理解した。
 そして、理解すると同時に、喜ばしい充足感が湧き上がった。自分は、常に彼女と共にあるのだと。

 自分の心はおかしくなっているのだと、何かが叫んでいた。それでいい。おかしくなっていても、構わないと思った。
 その、狂気にも似た欲望は、一度自覚してしまえば、際限無く膨らみ続けた。

 彼女の作ったものを以外に触れると、違和感を覚えるようになった。常に彼女の一部を身につけていたいと思っていたのが、いつの間にか、もっと強く深く触れていたいと願うようになった。
 そうなってしまえば、本来ならば叶うはずの無い願いにまで変化するのに、そう時間はかからなかった。




「……この時を、待ち望んでいました」

 月の無い、暗い夜。
 半ば無理やりベッドに押し倒されたにも関わらず、使用人はそう言って微笑んでいた。

 灯りの無い部屋の中でもぼんやりと光を放つ彼女の肢体に手を這わせる。
 服の下に手を潜り込ませ、普段から給仕服を押し上げて自己主張している豊かな乳房を少し乱暴に掴むと、彼女は小さく喘いだ。

 黄金色に光る目を見つめたまま、唇を重ね、舌を絡める。彼女の口内は温かく、甘かった。
 思考までも溶けてしまいそうな口付けを続けていると、彼女の給仕服がぐにゃりと形を変え、こちらの手を包んだ。
 それだけではなかった。普段、彼女の足下で揺らいでいる、人の形を取る事の無い彼女の一部も全てを使って、二人分の体を包もうとしていた。

 水のように、彼女は体を溶かしながら纏わりつく。

「あぁ、ずっと、こうして、ご主人様と……」

 唇を重ねたまま言葉を発する事などできないはずであるが、彼女は、確かにそう言った。
 包まれた手を動かすと、彼女の乳頭に、手のひらが擦れた。
 体中に走った快感は、どちらが感じていたものか、分からなかった。

 辛うじて人の形を維持しつつも、彼女は快感に体を震わせるたびに、黒く溶け出していた。
 彼女の溶けた体が、体中に纏わりつき、染み込んでくる。そこから、彼女が感じている、感じていた快感が、こちらにも伝わってくる。

 彼女の作ったものに触れたときにこちらが感じていた幸福感。彼女は、触れられるたびにそれ以上の快感を体の内に秘めていた。
 今感じている、彼女に触れられる快感と似ている、心身共に満たされる快楽。

 しかしながら、彼女はずっと、あと僅かに物足りない悦楽に、身を浸していた。

 それも、今この瞬間、満たされようとしている。
 単なる性交には収まらない。互いの全てを重ね合い、混ざり合う行為によって。

 空いていた手で、彼女の頭を撫でた。
 完全に流体と化した彼女の髪にその手も包まれ、指先まで、柔らかく愛撫される。
 愛するものに撫でられる幸福感と、もどかしいような性的快感が、同時に流れた。
 もっと、互いを感じたい。その思いが、交えた体を通して、満ちた。

「ひとつ、に……」

 その言葉は、どちらが発したものか分からなかった。あるいは、同時に、同じ言葉を発していたのかもしれない。

 とぷん、という音が聞こえた。彼女の目と同じ黄金色の光に包まれ、彼女の体と同じ紺色の闇に包まれた。
 黄金色の光の向こうに、見慣れた景色が見えた。紺色の闇の向こうに、見慣れない景色が見えた。




 形容できない二つの何かが愛し合っていた。その光景は、愛し合える存在のいない従者たちに、孤独を教えた。
 孤独の空虚を知ってしまったものたちは、一様に、心を満たしてくれる存在を求めて旅立った。

 しかし、それは、遠く地上を目指している内に、随分と小さくなってしまった。
 暗い岩窟の中に閉じ込められたまま、力が戻るのをじっと待った。
 長く時を経て、他の生物を形作れるようになった頃、岩窟に光が差した。怪訝そうにこちらを覗き込む目は、とても深い孤独の色を目に宿していた。
 あの目ならば、抱いた虚ろを満たしてくれると思った。あの目の奥にある虚ろを、満たしたいと思った。

 岩窟を切り開き、静寂を壊した生き物たちの記憶から、相応しい姿を読み取った。
 きっと、この姿ならば、受け入れてもらえるだろう。
 期待を胸に、地の中を這い進んだ。あの目の持ち主のもとへ。今も変わらず、孤独の中にいるであろう、あの人のもとへ。
 それは、今一度、誰かに仕えるために。そして、今度こそ、誰かと愛し合うために。


…………


 雨の匂いがした。雨の音はしなかった。眠っているうちに、通り雨があったらしい。
 太陽は既に空の頂点近くまで昇っている。随分と寝過ごしてしまっていた。
 使用人は、先に起きて軽い食事を用意している。同時に、触手を二本切り離し、外で洗濯をさせている。

 体を包んでくれていたベッドを抜け出す。こちらの起床に気付いた使用人が、少しだけ慌てたように、急いでサンドイッチを切っている。

「おはようございます、ご主人様」

 リビングでは、彼女がいつも通りに微笑んでいた。サンドイッチを乗せた皿と牛乳の入ったコップを持つ姿に、慌てた様子など一切見えない。
 互いの事が全て分かる今となっては、その表面上の平静も少しおかしくて、笑ってしまう。

「……申し訳ありません。ご主人様と共に眠るという状況は、私が想像していた以上に脱しがたい幸福な時間でしたので、起床がいつもより遅れてしまいました」

 それは、同意せざるを得ない言葉だった。何より、こちらも寝坊したのだから、責められるはずもない。

 心身を交え、重なり合って眠る。その行為によって得られる幸福感は、全てを捨て去ってしまっても構わないと思うほどだった。
 しかし、この使用人と共に送る「人としての生活」もまた、幸せなものである事には間違いない。
 たとえ、人では無くなって、形ばかりのものになってしまったとしても。

 彼女は、人間のような食事をしなくても生きていられる。それでも今まで食事をしてきたのは、食卓を囲む時間に幸せを感じていたから。
 今は、こちらもその気になれば食事は必要ないだろう。それでも、二人で共に食事を取るのは、その時間に幸せを感じているから。

「厩舎の屋根が、雨漏りしているようですね」

 洗濯を終えた触手を厩舎に向かわせて、彼女は言った。
 確かに、昨夜の雨が屋根の下にある地面を濡らしている。屋根に上がって補修しなければならないだろう。

 直後、牛の中に入り込んでいた彼女の一部から、空腹が伝わってきた。
 食事の時間なのに放牧場に出してもらえず、不満を抱いているらしい。

「……次からは、寝坊しないように気をつけます」

 その言葉に頷き、牛乳を飲み干して立ち上がる。
 早いところ牛を出してやらなければ、更なる不満を訴えてくるだろう。

「ご主人様」

 厩舎に行こうとしたところで、不意に呼び止められて、振り向いた。
 椅子から立った使用人は、足下を揺らがせながら、体の前で手を組み、恭しく頭を下げた。

 これからも、私は、あなたと共に。

 空気を揺らさない、体の内から響いたその声に、微笑を返す。


 厩舎の鍵を取り、外へ出た。
 衣服の袖を曲げて帽子を創り、切り離したそれを被る。
 今日は、日差しが強い。洗濯物が良く乾きそうだ。
 物干し竿に掛けられ、時折ぐにゃりと歪んでいるベッドのシーツを見ながら、心の内でそう呟いた。
16/04/28 01:46更新 / みなと

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