読切小説
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地を揺らすのは
山に踏み入る男が一人。
服装は軽装のまま。靴だけは分厚く、ひざまで覆える皮のグリーブだ。
ひざまで覆っているのは、草や虫から身を守るためだ。
腰には、即効性の塗り薬の瓶が入ったポーチをつけている。非常用だが、最近は使うこともない。
彼は傾斜のきつい山肌も、ぬかるむ足場も、意に介さず分け入っていく。
彼が求めるものは、多くない。
「お」
そのうちのひとつを目にする。
「そろそろか」
彼は見上げる。その先には、数十メートルはあろうか、という大木。
その幹はでこぼこしており、ロッククライミングの要領で上っていくことはできそうだ。
ただ、それでは時間がいくらかかるのか。余計な時間は割きたくない。
そして頂上には黄色く、丸く熟れた木の実が十数個見える。
幹だけでも何メートルというこの大木には、いくつの実がなっているのか。
それを考えただけでも、興奮が抑えきれない。
自然と、彼は屈伸を始める。跳躍の前準備だ。
「っ!!」
一気に息を吐き出し、そのまま上へと自らの身体を足の力で飛ばす。
速度は上るにつれてだんだんと遅くなり、そして止まる。
上昇から落下へと転じるその一瞬。その一瞬を、彼は逃さない。
止まったと同時に、彼はその両手で幹を掴み、両足を出っ張りに乗せて安定させる。
ここから、彼の登攀が始まる。
すでに跳躍で10メートルほどは稼いだ。あとは、目視で約20メートルといったところ。
「これならすぐに帰られるな」
彼は、に、と笑った。
彼の名は、フランク・グリーンウェル。
街から離れた山中の小屋に、一人で住んでいる猟師である。
特徴は、その額から左目、そして左の頬にまで及んでいる、縦長の傷跡である。

「『ユグドラシルの実』か」
「はい、ご存知ありませんか?」
二人の旅人が、俺の家をたずねてきた。
どうやら、街の人間が俺のことを紹介したらしい。
一人は、精悍な顔立ちの、おそらくは20代前半の男。
体付きは華奢ではないが、腕を見ればほどよく鍛えられていることがわかる。鍛錬を欠かさない証だ。
特徴的なのは、左腕の包帯。一体、何を隠しているのか。
「ここから、東へ三日ほどの丘に『ユグドラシル』と呼ばれている樹がある」
「そこなのかしら?」
もう一人は、緑の長髪、金色の瞳が目をひく美女。
肌が黒く、そのイメージに似つかわしい露出の高い服を着ている。
どうも「人」ではない感じがするが、深くは尋ねないことにする。
「道なりに進めば、ちょっとした集落があるからそこで改めて聞くといい」
「なるほど、ありがとうございました」
「ありがとうね、おっちゃん」
「……」
「サニー、馴れ馴れしいのはちょっと困りもんだぞ?」
「いいのよ、私はこれくらいが」
仲がいいのはいいことだな。

二人の旅人を送り出し、俺は山へと入る。
もう何度も同じ山へ入り、その都度獲物をもって帰ってきている。
危険だとは思わないが、油断はしないようにしたい。
そう思いながら歩いていると、かすかに「ニオイ」がした。
「これは」
独特の、鉄のような「ニオイ」。
しかし金属のような無機質な「ニオイ」ではなく、生臭い「ニオイ」だ。
俺は「ニオイ」がしたほうへと行き先を変える。
さて、鬼が出るか蛇が出るか。
歩いて数分も経たないうちに、開けた場所へ出た。
「……」
目の前には、息も絶え絶えのワーウルフが横たわっていた。
眉間にしわを寄せ、ぐるる、と呻いている。
左足の腿とと右手の上腕を何者かに食いちぎられた跡があり、牙の形がくっきりと残っている。
傷口からは鮮血が漏れている。遠く離れた場所にいた俺にも嗅げるほど、強烈な「ニオイ」だ。
と、ようやくワーウルフは俺の姿に気づいたようだ。
眼だけが、ぎん、とこちらをにらんだ。
これだけの傷を負いながら、まだ威勢が衰えない。
俺は駄目もとで話しかけてみる。
仮にこのワーウルフが「俺に襲われた」として仲間を呼んだ場合が危険だからだ。
少なくとも、俺に敵意がないことだけは認識させておく。
「俺は通りすがりの猟師だ。傷の手当てぐらいならできるが、要るか?」
ワーウルフは、無言でこちらをにらみ続けている。
これはまずいかもしれない。
俺の背中に、ひやりとした汗が一筋流れた。
にらみ続けていた彼女の瞳が、急に閉じられた。
ぐるるうぅぅ、と再び呻き始める。我慢の限界だったのだろう。
彼女は左手で右手の傷を押さえつつ、歯をギリギリと食いしばっている。
そして、彼女は絞り出す声で言った。
「お願いする」
彼女の声を聞き届けた俺は、そろそろ、と近づく。
もちろん、彼女の警戒心をむやみに煽らないためだ。
しゃがみこみ、腰のポーチから塗り薬の瓶を取り出す。
「それは?」
痛みに耐える彼女は、瓶からすくいとった金色の軟膏について尋ねてくる。
不安から、というより、疑心から、のほうが正しいだろうな。
「即効性の強力な薬だ。龍の牙と、トラペゾヘドロンの雫。それにベイセン草とを混ぜ合わせた」
「トラペゾヘドロンの雫? ニンゲンが、よく獲れたね」
「昔はならしたもんだぞ」
敵意むき出しの発言に、俺は軽い口調で流す。
彼女の言葉にあったのは、敵意だけではなかった。
トラペゾヘドロンの雫。
ここから遠く離れた「聖地」と呼ばれる谷にある「石」から湧き出る液体だ。
一年に一日、一つの小瓶にたまるぐらいの液体が湧き出る、淡く黒く輝く偏四面体の石。
この「石」、トラペゾヘドロンは何個か見つかっている。誰が作ったのか、いつ作られたのかはわからない。
わかっていることは、今の技術では作り出せないということと、雫の効果くらいだ。
このトラペゾヘドロンの雫は、傷に垂らすだけで元の状態に戻るという。回復薬としては最高レベルの代物だ。
しかも、その「傷」は、生物の傷だけではなく無生物についた傷ですらも元に戻すという。
回復薬としてより、壊れたモノを直すほうによく使われたらしい。
回復、というより、時間を巻き戻す、といったほうが近いのかもしれない。
ただ、その雫を手に入れるためにはそれこそ人が入らないような秘境を行かなければならない。
しかし、俺は雫どころかトラペゾヘドロン自体を所持している。保管場所は誰にも教えたことはない。
もし「俺が持っている」ということを誰かが知ろうものなら、確実に奪いにくる。
それこそ、国が動いてもおかしくはない。
それほどの貴重で、誰もがほしがるもの。それがトラペゾヘドロンであり、トラペゾヘドロンの雫なのだ。
「いひいぃっ!?」
薬を塗った瞬間、彼女が先ほどのイメージとは打って変わって面白い悲鳴を上げた。
それもそのはず。
この塗り薬は、すぐ効くすごく効く、なのだが、すごくキく。
要は、しみるのだ。
「いたいぃっ!!」
彼女は叫ぶ。
さきほどの傷の痛みではなく、しみる痛みと戦っている。
声がさきほどの深刻なものではなくなったから、とりあえずは一安心、といったところか。

俺は彼女を放っておくことにした。
野生のものには、できる限り干渉しない。
仲間を呼ばれないようにする、つまり、自分の身を守るためとしても、だ。
「ちょっと」
彼女が半ば叫びに近い声で俺を呼び止める。
「あんた、なんて名前なの?」
俺は彼女に背を向けたまま、思考する。
敵意があるのか、ないのか。
仲間に俺のことを言う可能性はあるのか、ないのか。
可能性を知るためには、彼女の様子を窺うしかない。俺は振り返る。
俺が見た彼女の表情は、敵意の欠片もなかった。真剣そのもの。
少し涙目ではあったものの、それは傷口に塗った薬のせいだろう。
「どうして名を聞く?」
俺は聞き返す。
「別に、ただなんとなくよ」
彼女は横を向き、俺から視線をそらしながらそう返答した。
「そうか」
一言だけ彼女に言葉を放り投げる。
そして、再び彼女に背を向けて山の中へと戻る。
「俺はこの近辺に住んでいる猟師だ。ここにいれば、いつかは出会うだろうな」

一日の勤めを終えて、俺は家で茶を飲みながら考えていた。
昼間のワーウルフ。
彼女がどんな魔物か、などということはどうでもいい。
あの腕と足にあった傷。
一体、何から受けたものだ。
そしてもう一つ。
ワーウルフの、あの顔。
見覚えがある。他人の空似か、それとも。
右手に握った湯飲みに、眉をしかめた俺の顔が映る。
左の顔を縦断する傷。蘇るあのときの記憶。
一度、あの場所に行ってみるほうがいいのかもしれない。
心の中に芽生えた予感と不安を、湯飲みの茶とともに一気に飲み干した。

朝。それも、かなり早い段階だ。
まだ空が白む前。俺は、すでに山に入っている。
今度は皮のグリーブではなく、代わりに鱗で覆われたグリーブを身にまとって。
途中、朽ちて倒れている樹を「敵」と想定して蹴りをかます。
ふ、と息を吐いて左から右へ脚を振るう。蹴りの衝撃で粉々に吹き飛ぶ、樹。
まだ勘は衰えていないらしい。
「最後に戦ったのは、いつか」
俺は山を進んでいく。

山に入ってから、数時間。
山の中腹ほどにある、開けた場所。
開けたというより、「何も生えていない」土地。
そこには樹どころか、草も育っていない。茶色の地面が空を眺めている。
奥には、巨大な肋骨が数本。
「復活したわけではない、か」
俺は安堵する。
奥に鎮座する数メートルはあろうかという巨大な肋骨。
あれは、この場所で俺が倒した「龍」と呼ばれる生き物のものだ。
もともとは「神」として崇められていたようで、確かにそれ相応の力を持っていた。
が、俺が見たときにはすでに「神」の威風はなく、ただ「魔のもの」と化して暴れまわる姿だった。
俺は、この場を見回す。
あれから数年経ったが、いまだ大地に新たな息吹はない。
この場所も、もともとは緑で覆われていたのだが、「龍」の吐く息によって茶色の大地へと変わってしまった。
朽ちた樹を椅子の代わりにして、俺は腰を落とす。
「……」
傷が、ぐに、とわずかにうずく。おそらくは、まだこの場所に魔力が淀んでいるせいか。
一体、いつになったらこの堕落した魔力は消えるのか。

俺は町の住人の依頼で、「龍」を倒すことにした。だが、腐っても「神」といったところだろう。
ダメージを与えつつも、こちらは向こうの巨大な爪や炎を避けるので精一杯だった。
そのさなかで受けた、「龍」の爪。
片手の三本あるうちの一本しかあたらなかったが、それでも強大な威力だった。
苦戦の末、どうにかして「龍」の息の根を止めることはできた。
教会で崇められている「神」とは違い、土着の「神」は具現化するのに「よりしろ」が必要になる。
その「よりしろ」を、俺は倒したのだ。
この脚で、その生命を粉々に砕いた。
「よりしろ」は、町にいたまだ若い女の子だった。
俺は、人々の願いと引き換えに、一人の生命を奪った。
そして、俺は戦うことを捨て、一人の猟師として生きることにした。
そういえば。
「よりしろ」の女の子には、妹がいたはずだ。遺体にすがって泣いていたのを見た記憶がある。
ふと、今はどうしているのか、と考えた。
できれば、不幸を乗り越えて幸せでいてくれるといい。
決して、更なる不幸に遭っていなければ。
しかし。俺は首を振る。
そんなことは、俺が望むべきことではない。
「不幸」の原因である、俺が祈るべきことではない。

「!」
物思いに耽っている場合ではなさそうだ。
この視界のよい場所には、「まだ」何も見えない。
が、その周囲を囲む森からは、たった一つの殺気が感じられる。
おそらくは、魔物。
俺は目を閉じ、微動だにせず静かに待つ。
がさ、と音が鳴る。
目を開けた。
「お前さんか」
現れたのは、昨日助けたワーウルフだった。
昨日の傷は薬のお陰か本人の生命力のせいか、完治しており跡すらもない。
だが、昨日とはまるで違っていた。
全身の毛は逆立ち、眼は血走り、ぐぐぐうぅぅ、と唸り声を上げている。
まさに、殺気の塊。
「何用だ」
「気づいたんだ」
彼女は俺に対し、低く、押し殺した声で言う。
「気づいた?」
「思い出したんだ」
俺は立ち上がる。そして彼女に対して半身になり、右脚を上げた。
両手は力を抜いて垂らし、左脚で立つのが俺の戦闘スタイル。
「お前は、姉の仇」
うすうす感づいていた。
ワーウルフは、人間の女性を襲うという。
そして、襲われた女性もまた、ワーウルフになってしまう。
不幸は、さらに不幸を呼び寄せてしまっていたのか。
「殺す」
一言だけ聞こえた。
視界に映っていた華奢な身体が、動いた。
早い。
爆薬が爆ぜたように、こちらに直線的に迫る彼女。
直線的ということは読み易い。が、それは最短距離ということ。
フェイントをかける素振りも無く、それこそ全速力でこちらへ迫ってくる。
一刻も早く、愛する姉を奪った仇の生命を食い破らんとする、殺意の表れ。
動じることなく、すうぅ、と息を長く細く吸う。
その間に、抜けるだけ力を抜く。
彼女の姿が、目の前に迫り、俺の喉笛を今まさに食いちぎろうとした、その一瞬を狙う。
弛緩していた全身に、一気に力を込める。
お、とも、あ、ともつかない叫びを上げながら、右脚を右から左へ渾身の力で振りぬく。
脚は彼女の左腕をありえない方向へ曲げ、衝撃を胴体に伝え、そして身体を吹き飛ばす。
どっ、と鈍い音がした。
俺は目を閉じる。
ずざざざ、と勢いに任せて地面をこする音がついで聞こえる。
ふぅ、と息を吐く。
一気に緊張した全身を、再びゆっくりと弛緩させていく。
この場にはもう、物音一つ無い。
彼女は、今何を思っているのか。
身体を緩めながら、俺はとりとめもなく考える。
ワーウルフになって、何を思ったのか。
いや、何を思って、ワーウルフになったのか。
仇を見つけて、どんな思いを抱いたのか。
その仇に立ち向かうとき、何を考えていたのか。
答えも出ない思考はぐるぐると回るだけだ。
しかし、俺の視界に焼きついてしまったものがある。
それは彼女の表情。
俺の喉を食い破らんとした、俺の生命を食い尽くそうとした、彼女の表情。
その刹那、彼女は泣いていたのだ。
「うあああああああああああっ!!」
いきなり、無音だった世界に音が響く。
ビリビリ、と衝撃を感じるほどの咆哮。地震か、と誤認してしまうほどの強烈な叫び声。
それは、叫び声であり、泣き声だった。
「うわああああああああああああああ!!」
彼女は泣き叫ぶ。
揺るぎない大地を揺らすのは、たった一人の、心からの声だった。
彼女は何に対して泣いているのか。
身体の痛みか、それとも。

「!?」
周りに、気配が増えた。一つ、二つ、と気配の数は増えていく。
彼女の叫び声を聞いて、仲間が駆けつけてきたのか。
俺は、彼女の方を見る。
彼女は泣くのをやめ、回りを見回している。
なぜか。
彼女自身、何がおきたのかを理解していない可能性が高い。
では、一体。
がさ、がさ、と気配の主達が姿を表した。
やはり、ワーウルフの群れ。一体いれば、所属している群れが近くにいる。
そこで、俺は不可解に思った。様子がおかしい。
いきりたった表情、血走った眼、ぐるるう、と唸る声。殺意を向けている証だ。
しかし、ワーウルフ達の意識の矛先は、俺に向けられたものではなかった。
普通、魔物達は男性を襲う。
今この場にいる男性は、俺一人。
しかも男性に向ける場合、つまり「普通の場合」は殺意など現れない。
しかしこの場にいるワーウルフ達は、誰一人として俺を見ていなかった。
そして、全身から溢れんばかりの殺意をみなぎらせていた。
あまりに異常だった。
そして、その視線の先にいたのは。
「……」
あの、魔物と化してしまった妹だった。
一体どうして。
そこで、俺は疑問の解を一つ得る。
彼女に会ったときのあの傷。「何者かに食いちぎられた」傷。
そもそも気づくべきだったのだ。
形や大きさからして、俺が倒した「龍」のそれのはずはなかった。
そして、その歯形は傷を負った妹自身の、つまりワーウルフのそれに近いものだった、ということを。
おそらくは、彼女はワーウルフに襲われたのだ。
だが、一体なぜ。
群れとして行動するワーウルフが、なぜ同じ群れにいたであろう彼女を襲ったのか。
考えても埒はあかない。
このままでは、彼女はワーウルフの群れに噛み千切られ、物言わぬ肉塊になってしまう。
「――――!」
もはや人間としても、おそらく魔物としても意味のない咆哮。
同時に、周囲で殺気をみなぎらせていたワーウルフの中の一人が彼女に向かって突進した。
まずい。
ただ、考える前に身体が動いた。
突進したワーウルフに一瞬で近づき、足の裏で蹴っ飛ばす。
数メートルほど吹っ飛ぶワーウルフ。ただ、蹴られた痛みによる呻き声はすぐに消え、すぐに体勢を整えられる。
打撃がまだ弱かったか。
「なぜ守ったの?」
左腕を押さえ痛みに耐えながら、不幸を背負い込んでしまった妹は姉の仇に言う。
「仇を狙うヤツがいなくなって、安心できるんじゃないの?」
声は泣きそうだ。
彼女の指摘通りだろう。
彼女が死ねば、俺はこれで今までどおりの安定した生活を送ることはできる。
しかし、だ。
不幸を背負い込ませた張本人がのうのうと生きているのは、俺は釈然としなかった。
姉の仇として、妹から狙われ続けること。
それすらも、俺は背負う。
俺は彼女には答えない。ただ彼女に背を向けて、ワーウルフの群れと対峙する。
答えることなら、後でもいい。今はただ守るだけだ。
「何かを守るための戦い」か。
いつぶりだろうか。
あの時は、「人々」を守るために。
今は、「自分の生命を付けねらう者」を守るために。
自然と、苦笑いが出てしまう。相当な好き者だな、俺は。
右脚を振り上げ、全身の力を込めて地面にたたきつける。
大地が、ぐら、と大きく揺れた。
「地をも揺らす剛脚、食らいたい者だけ来い」

「キリがねえな、ッ!」
喋ってる最中でも襲い来るワーウルフを、とにかく片っ端から蹴り飛ばす。
ただ、あまりに数が多すぎる。
こちらは一人、それに加えて―俺が与えたものだが―傷を負って動けない者が一人。
向こうはおそらく十数人は居る。
群れで生活するワーウルフは、その特性のせいか連帯感が非常に強い。
誰も引かなければ、誰一人として引かない。
誰か一人でも引けば、全体が引く。
だから一人だけでも引かせたい。そうすれば、この戦闘も終了だ。
だが、誰も引かない。
いい加減、こちらの体力も限界に近い。一か八か、賭けに出るしかないか。
顔のあざや腕についた擦過傷など、多少の傷を無視して向かってきたワーウルフ。
彼女には申し訳ないが、一撃で「飛んで」もらう。
全身に力を込める。
ワーウルフが跳躍し、俺に飛び掛かろうとした。
俺は身体を一回転、横に回転させた。
ワーウルフが飛び込んでくるのと、俺の回し蹴りが炸裂するのと、同時だった。
「吹き飛べっ!!」
回転のスピードをつけた俺の全力の蹴りは、人ほどの重さのものを飛ばすのには十分だった。
蹴られたワーウルフは、斜め上へと軌道を描き、そのまま小さくなっていく。
それを思わず見上げるワーウルフ達。
そして遠くから、がさ、と落下した音がわずかながら聞き取れた。
すでに、ワーウルフ達から殺気は消えていた。
脱兎のように逃げるまで、一秒もかからなかった。

俺はまだ傷で動けない妹に傷薬の入った瓶を投げる。
まだ動く右手でうまく瓶を受け取った妹は、怪訝な顔をしている。
「もらっとけ」
「!?」
「折れてるだろう、その腕。せめてもの償いだ」
そう言葉を投げつけ、俺は足早にこの場を立ち去ろうとした。
「待って」
足が止まった。
「また、ここに来るから」
黙って聞いている。
「そのときは、ちゃんと返すから」
それ以降、彼女は俺に言葉を投げかけはしなかった。
押し黙った彼女を「龍」が見守る広場に置き、俺は山を下りた。
結局、俺が彼女の復讐までも受け入れることを言わずに彼女と別れた。

その夜、俺は寝付けずにいた。
外に出て、身体を少し動かす。
右脚での蹴り上げや回し蹴りといった、一通りの蹴りをこなす。
俺の影がくっきりと地面に映っている。月を覆うものは何もない。
あの場所に、彼女はまた来ると言った。
行くべきなのだろうか。
蹴りも終えてしまった俺は、今度は拳を突き出す。
……そういえば、流れに任せて薬を渡してしまった。
また作らなければ。
龍の牙はあるし、トラペゾヘドロンの雫もある。ベイセン草は採ればいい。
拳を突き出す。瞬間、俺の頭に一つの考えが浮かんだ。
もしかすると、あの場所を元の姿に戻せるかもしれない。
やってみる価値は、あるかもしれない。そうなれば、行かなければならない。

翌日。
俺はあの場所に、再びやってきた。
昨日以前となんら変わらない、不毛の土地が俺を出迎えた。
空は白み始めた頃合だ。白と青のコントラストが美しく見える。
そして。
「来たね」
朽ちた大木に座っていたあの妹が、よ、と声を出して飛び降りた。
高さが2メートルくらいある大木から音もなく着地する。
すでに昨日の傷はない。
「これ」
地面に降りた彼女は、俺に向かって薬の瓶を投げつける。
中身はまだ充分に残っていた。おそらく、渡した時よりさほど減っていない。
「使ったか?」
「あまり」
「ちょっとは使ったんだな」
「……」
「少しだけでも贖罪ができてよかった」
俺は、ほんのわずかながら晴れやかな気分になった。
「あの、さ」
「ちょっと待て」
出鼻をくじかれたあの妹は、むっとして膨れた。
「これを垂らす」
懐から取り出したのは、一つの細い小さな瓶。中身は透明な液体だ。
蓋を取る。
何の匂いもない。単なる水と見まがってしまうような代物だ。
「なにそれ?」
「これが、トラペゾヘドロンの雫だ」
「それが!?」
眼を丸くした彼女を横目に見つつ、俺は話す。
「もし、だ。このトラペゾヘドロンの雫が『モノを元に戻す』という性質だとしたら」
「したら?」
「この土地を元に戻せるはずだ」
俺は、ゆっくりと瓶を傾け、一滴垂らした。
土地が息を吹き返した。
一滴垂らしたところから、ぶわ、と緑が円状に広がり始める。
元に戻っていく。
「うわあっ」
ちょっとした悲鳴をあげて、彼女は地面をまじまじと見る。
顔の傷は、もううずいていなかった。
「元に戻ったな」
「すごい」
両手で口を押さえて、感嘆の声を上げる彼女。
茶色い泥のような土で覆われていたこの場所に、再び緑が帰ってきた。
あの淀んだ魔力は、すでにこの場から消え失せている。
「俺はな」
「?」
しゃがみこみ、地面をまじまじと見ていた彼女に、俺は空を見上げながら告げる。
「お前が仇を取る、というのなら俺はかまわない」
「!」
彼女の耳と尻尾が、ぴん、と緊張したのを俺の視界は端っこで捉えた。
「それも、俺が『よりしろ』となったあの子を殺したことの枷だ」
「どうして」
「?」
俺は彼女の方を向く。
「どうして、そんなことを言うの?」
彼女はしゃがみこみ、うつむいたままだ。
「仇だと思ってた人に二度も助けられて」
「……」
「私は、どうしたらいいの?」
「……俺に聞くな」
「……そうよね」
その時初めて彼女は、ふ、とわずかに笑った。

あれから、一週間ほど。
なぜか彼女はウチに居ついている。
助けられた恩はちゃんと返すのが私の流儀、らしい。
「こらフランク、早く起きなさい!!」
「フランクさん、起きてください」
「いや、お前はわかるが彼にそんなことをさせなくても」
朝から一つのけたたましい声と、一つの静かな声に起こされる。
まだ眠い頭をあくびで起こし、俺は思考する。
「ああ、もう発つんだな」
「だから早く起きろって言ってるのに」
いっちょまえにエプロンをつけ、左手にお玉をもって仁王立ちする彼女。
「あはは、いいんですよ」
苦笑いしながら横でなだめるユース。
元旅の一座であるユースを一日だけ泊めたのだ。
その間、色々な出会いの話を聞けて、楽しかった。
……一度、肉体強化薬を使うという薬剤師と戦ってみたいものだ。
「物騒なこと考えない!」
左手のお玉で、すぱーん、と頭を楽器にされる。

「それじゃ、お世話になりました」
旅の青年を二人で送り出すために、家から街道に出る。
外は朝日が輝いて、澄んだ空気をさらに透明に感じさせる。
「ああ、達者でな」
「早くいい人が見つかるといいね?」
にこ、と笑う彼女と、はは、と苦笑いを浮かべるユース。
こんな満面の笑顔は出会った頃には見られなかったものだ。
何が彼女を変えたのだろうか。
「それでは、フランクさん、ローズさんもお元気で」
俺は頷きで返答する。
「私が居るんだから、元気で居ないはずがないから安心して!」
無い胸を張るローズ。
「まぁた失礼なことを考えたな!」

姉を殺した、フランク・グリーンウェル。
姉を殺された、ローズマリー・ノースレイク。
彼女の「復讐」が達成されるのは、いつの日か。
それは、彼女の「気持ち」次第である。
10/03/25 03:13更新 / フォル

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