連載小説
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弐項:朝餉


狐に化かされている。

そう思わざるを得ない。
部屋に戻った私は消えかかった火鉢に薪を足しながら昨日の出来事を反芻する。
確かに『躊仙楼』と言葉に出した。聞き違えるとは思えない。

だからといって遭難しかけた所を助けてもらった手前、
この旅館の人間が嘘を付いているなどと疑うのは心苦しい。一体どうしたものか。

「朝食の用意が出来ましたよ旦那」

襖が開きあの娘が入ってくる。
今度は両手に盆を抱えている。そして膳を私の前に整えるや否や
「聞きましたよ旦那〜。なんでもこの旅館へは顔を隠した女に唆されて来たんだってネ」

私は頬が引きつるのを感じた。あの清楚な女将が人の醜聞を言いふらしたりはしない。となるとあの無愛想な受付兼案内の老人か。
「青さんから…聞いたのか?」
「いーえ。女将さンからですよゥ?」

私はがっくりと項垂れる。そうだった。女はこの手の噂が大好物だ。
いかに外見が美しかろうと女将も例外ではなかった訳だ。

「…私はここへ何のために来たのだろうか・・…」
死の危機に瀕してまでの寒中行軍でやって来た秘境の宿。商売しようにも客は自分一人。
「はぁ」
「旦那旦那、まずはご飯でも食べて下さいよゥ。考えるのはそれからでもできます」
「ん、あぁそうだな」
思えば昨日の夕方から何も口にしていない。目の前の碗からは白米と汁物のかぐわしい湯気が立ちこめている。私は一人手を揃え”いただきます”と声に出し、箸を料理に運ぶ。

「うん。これは美味いな」
「そうでしょう。ここの料理は全て自信作なのサ。なンてったって冷えても美味しいんですよゥ」
娘は笑うと笑窪が出来るようで、いっそう愛嬌が増す。
「…」
「…」
「…台所に帰らないのか?」
「えぇ?居ちゃ駄目なんですか?」
「駄目ではないが…」
そういえば客は私だけだった。しかし女に見られながらの食事というのはいささか具合が悪い。

「旦那?旦那は諸国を渡り歩く商人なんですよネ?じゃあ、いろんな場所もいろんな事も知ってるンでしょ?」
娘が急にもじもじしながらそう切り出した。
「まぁ…何でも、という訳にはいかないが、凡そのところは旅したな」
「へぇえ。良かったらその話私に聞かせて下さいよゥ」

娘はどうもこういう話を聞く為に部屋に残っていたらしい。目が輝いている。
辺境の山深い雪国の宿だ、外との交流もそう多くないのだろう。故に
行商をしている私なども少女にとっては興味の対象なのだ。
私は娘の期待に応えるようにぽつり、ぽつりと旅した先々での出来事を語り出した。

どれだけ時間が経っただろうか。
いつの間にか私たちはお互いの身の上を話すほどに打ち解けていた。
娘は名を耶麻(やま)といい、この旅館に身売りされて来たがとてもよくして貰っているため今は
売られた事を悔やんではおらず寧ろ感謝しているのだと語った。

「旦那」
耶麻が自らの頬を指さして微笑む。
米粒だろうか?、と私が自分の顔を手で探ろうとした時である。
不意に耶麻が立ち上がり近づいて来たかと思うと顔を寄せ、私の頬を舐めた。
「なっななな…何を!?」
「何って米粒が付いてたからとったンですよゥ?」
「…へ…は…うぅ、そ、そうか」
「どうしたんです?」
「い、いやもう食事は済んだから下げてくれ。話の続きはまた後でな」
「はい旦那。面白い話沢山ありがとうございますネ」


耶麻が空になった膳を重ね盆を持って出ていく。
私は心臓の音の高鳴りを感じながら平静を装う。
彼女の温かく滑らかな舌先の感触がまだ頬に残り熱いくらいに生々しかった。
女将が視覚的に訴えてくる美しさならあの給仕娘は嗅覚や触感、匂い立つような色香が私の心を乱す。

まぁ、図らずともここに来てから私の心は掻き回されっぱなしなのだが。
11/12/04 01:23更新 / ピトフーイ
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