連載小説
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魚影悲歌U
逃げようとすると笑顔で止められる。それでも無理に押し切ろうとすると数に脅される。
皆殺しという突破口は有ったが、ハルファス自身に好んで廃村を作る趣味は無く、彼の妥協という形で村の変わらぬ現状が保たれていた。薄らと狂気を孕みながらも。
閉鎖された村に甘んじて閉ざされる。遊歩は歓迎されない。自由は何故か大事に軟禁して愛でている筈の人魚に会いに行くことだけが許された。
得た許容は少なく疑問を持たずにはいられなかったが、する事の無い今、ハルファスは精一杯限られた範囲を閑歩した。
洞窟を臨む。
憂鬱が焦土を灼熱に照りつけ、悲哀の砂漠に嘆きの嵐が吹く。虚無の砂が泡沫の空に高く舞い、舐めるように傷痕を抉り黒い感情が白砂に飛び散る。
檻に囲われた楽園は本日も心地好い悲歌で満たされていた。
歌姫達が見えない世辞にも特等席とは言い難い場所にハルファスは座り込んでいた。昨日の教訓から不用意な接近が繊細な彼女達を脅えさせる事を学んでの配慮だ。
重奏に身体を預ける。
歌は太陽が吹き抜けた天蓋から顔を覗かせた頃に止まった。セイレーン達が草木の陰から羽ばたいて空に去っていく。
待っていた休憩にハルファスは再び鉄の口に進みだした。

「こんにちは」
「あなた…」

貧相な舞台に一人残った歌姫が瞼を上げる。悲しみの余韻に憂いを帯びていた表情に僅かな敵意が剥く。

「帰りなさい」
「イヤです」

凛とした声の警告を流し、昨日と同じ位置に腰掛ける。
先客として居た彩り鮮やかなクモを手で掬い、両の手を使って無限回廊を作って一挙一動を愛でながら観察する。

「何故?」
「暇なんですよ」

軽快な口調で叩きだされる重さを一切感じない真意。

「そんな理由…」

見下げるような含みが人魚の表情に混じる。

「あっ、それと貴方の歌を愛して――
「ッ!止めて!」

悲鳴に近い叫び声。

「え…?あっ」

垣間見えた激情に驚いたハルファスが態勢を変えた拍子にクモが掴まる糸が切れる。小さな虫は用意された右手をすり抜け、湖に落下して溺れる。救おうと伸ばされた手よりも先に魚が水面を揺らす餌を飲み込んだ。

「あー、彼には悪いことをしちゃいましたね」

大きく撥ねた水を苦い表情で見つめる。

「貴女にも」

そのまま視線をずらす。
人魚は蒼白の面に驚愕を張り付け、首輪を握りしめて細かく震え出していた。可憐や繊細という言葉が不似合いな一瞬で消えてしまいそうな脆さを痛ましく感じる。

「帰って…」

これ以上は悪戯に剣悪を増加させる。慰めさえも怪我を広げる刃となりそうな、衰態した彼女への触れ方が判らず、ハルファスは黙して立ち上がった。

「帰って来てよ……」

啜り泣く声に振り返った。
自分ではない。彼女の双眸は首輪を写している。

『少なくとも…あの人は……』

ふと記憶に蘇る台詞、光景。
昨日も彼女は首輪に語り掛けていた。ケースは違う。だが、自分の範囲を越えたときという共通項がある。
困った時、心が押しつぶされそうな時に頼る相手が鎖。
違うだろう。鎖との関わりが相手ではないのか。

「君は…いや、僕は何を…」

自分と同じ接点がある。そう思った事がハルファスに衝撃を走らせた。

「…同…情……?」

首を振る。人並みの感情に耐え切れずによろめいて湖に落下する。冷たい水が肌を刺す。葉陰から漏れた陽光が煩わしく視界を霞ませる。

「ニンゲン!イシュちゃんを泣かすな!」

目を瞑ってやり過ごそうとしていた。だが、降りてきた影と甲高い声に身を起こす。
青い羽がハルファスの頬を撫でて通り過ぎる。

「…セイレーン」

見上げると幾つもの好奇心の強そうな二つの光がハルファスを捕らえていた。その中で、間近で羽ばたく少女だけは正義感を宿して目尻を吊り上げている。

「随分早いですね」

まだ、半刻と経っていない。単なる休憩にしろ昼食を取るにしろ迅速過ぎる。

「叫び声が聞こえたからね」
「成る程」

自然の防音設備を通して聞こえたということは、案外耳が良いのかもしれないと頷いた。

「で、あんた何したのさ」

怒りが描かれた顔が目前に迫る。
口元に手を添えて思索する。何が引き金となって悲鳴を放ったのかが上手く分からない。
歌を褒めた事か、愛していると言った言葉か、いい加減うんざりしてきたであろう態度か。

「ふんっ!言わなくたってだいたい分かるけどね!」

少女が焦れたように、押し黙ったハルファスの周囲を旋回する。
沈黙してやり過ごすつもりと思われてしまったようだ。

「死のうとしたんでしょ!」
「違います」

額に突き付けられた羽先をハルファスが大儀そうに払う。

「…じ、じゃぁ、襲ったんだ!男は皆エロスだもんね!」
「可愛らしい思い付きですね」
「ぬ…ぐぐ……」

遠慮の無い中傷。可憐な顔が憎々しげに歪む。

「帰れ!帰れ!帰れ!理由が無くたってイシュちゃん泣かした罪は重いぞ!この漠迦ニンゲン!」

鉤爪と翼と鼓膜を打つ怒声がムキになってハルファスを襲う。

「分かりました。分かりました。帰りますよ…」

一つ一つを危なげなく回避しながら出口に向かって走る。頭上ではセイレーン達の含み笑いが騒めく。加勢する気は無いらしい。

「それでは、また明日」
「来るなぁぁあ!」

刎ねあげられた水を被りながら、ハルファスは合唱団に手を振った。



***



三日目
再度来たハルファスに歌は中断した。
人魚はもう何も言わない。ただ、ハルファスを睨んでいる。
セイレーン達もあの少女も何も言わずに空に飛び立っていった。
日が暮れるまで檻は静寂の中に沈んでいた。

四日目
ハルファスが口笛で曲を奏でると人魚もセイレーンも驚いたように彼を見た。
それ以上は何も無いまま日が沈んでいった。

五日目
檻に巻き付く緑にハルファスは身を隠した。そして、初めて間近で合唱を聴いた。
心が凍える思いで満たされる。
鉄柱を滑り降りて歌を褒めると、人魚は涙を流して湖に消えた。

六日目
人魚は口を噤んだ。だが、セイレーン達はハルファスの登場にも歌を止めなかった。
悲愴、欝塞、慨嘆、殺意を孕む副旋律が穏やかな午後を満たした。

七日目
人魚がハルファスに話し掛けてきた。良い歌だと言う答えに僅かに微笑む。
羨望が虚ろな双眸に鈍い光を得させた。

八日目
イシュタムと名乗った人魚は、表情に随分と余裕を取り戻して来ていた。
セイレーン達の敵意も薄れ、様々な事が話されるようになった。
人魚の見識の狭さが印象的だった。
彼女の世界は楽園で終わっている。

九日目
出会った時のような光景。どうやら、一週間に一回は村から医者がイシュタムの様子を見に来るようだ。その日は医者が来て帰るまでは歌えない。診察に観衆は要らない。
そういった理由でセイレーン達は始めから来ないらしい。
長く待たされ、漸く来た医者は子供が出来ていると簡単に言い残して足早に去って行った。
人魚はこの日も泣いた。

十日目
イシュタムはセイレーン達に盛大な祝福を受け、泣きながら笑っていた。
楽園の重苦しさは弾け飛び、合唱は明るくなった。胸を突く慟哭は陽気で快活な音楽に成り代わり、合唱団は一番の盛況を見せた。
相変わらず美しかったが、ハルファスは懐古を思わずにはいられなかった。



***



ある夜、海に向かって静かに歌を送っているといきなり男に告白された。イシュタムと彼の最初の出会いだった。
曰く、月明かりの中で何処までも伸びやかな美しい調べを紡ぐ姿は女神のようで、酔いも一気に醒める程の衝撃が雷のように走った。一目惚れをしてしまったと。
突然のことに驚愕と羞恥に曝され、その日は逃げたらしい。
だが、何日も通いつめる男に段々と心惹かれ、二人は直ぐに恋人と言える間柄になった。

「夫は優しかった。優しくて格好よくて誠実で、私には勿体ない人でした」

それでも彼は彼女を美しいと言い、可愛いと言い、愛していると言った。結婚してくれと言った。
村人達は新しく夫婦となる二人を祝福した。ただ一人、彼の祖父である村長を省いて。

「孫依存のお爺さんですね」
「そうなの。かわいい人でしょ」

村長の反対は次第に激しさを増し、二人の仲を妨害する程になった。教会を抑え、晴着を人に盗ませ、イシュタムに他の男と会わせて不和を作ろうともした。
その妨害もある時期を境に…村長の病が原因だそうだが、唐突に止まった。
そこで、解放された二人は急いで式を挙げた。小さくとも華やかな良い式だったそうだ。
ただ、それを聞いた村長は気を落とし、家に籠もるようになってしまった。
その事を申し訳なく思いながらも、二人の新婚生活は始まった。

「場所は此処で?」
「えぇ。村の掟で、結婚した魔物は三年間だけ此処で過ごさなきゃならないの」
「また…歪んだ…」
「先代魔王の時代から続く風習みたいだから仕方ないんじゃない」
「首輪もですか」
「首輪もね」

鎖で楽園に縛られ、自由を奪われて過ごす。それでも好きな人と同じ時間を歩み、笑顔が絶えず零れ、輝かしく充実した毎日を過ごせたことは夢のように幸せだったそうだ。
その内に夫が漁に出ている時にセイレーンの群れと出会い、退屈している妻の友達となってくれるようにと連れてきた。
最初こそ不倫したんだと泣いたが、直ぐに打ち解けることが出来たらしい。特にあの少女とは親友とも呼べる程に息が合ったと。
友に夫に家族に支えられ、楽園は外見の美しさに負けない楽しさで日々溢れていた。
だが、二年後にそれは崩れる。
沖に出ていた彼が潮に攫われて行方不明になった。
一ヶ月に及ぶ捜索で見つかったのは、帰りを待つイシュタムの思いを砕く残酷な現実。浜辺に打ち上げられた鮫の腹から出てきた人骨だった。

十一日目
イシュタムが重く吐き出した話を終えると、ハルファスは黙ったまま林檎を一口齧った。
仄かな酸味が口内に広がる。
似ていない。何も。自分の歩んだ道とは違う。イシュタムは罪を背負っていない。

「自殺でした。でなきゃ流れの速い沖に一人で行くはずがないもの。お医者さまは、私の魔力に当てられたからだって言ってたわ」
「そんな漠迦な話はありません」
「ありがとう。でも、良いの。理由が分かってほっとしてるんだから」

笑顔に拳を握り締める。
幸せな歌は人を殺さない。適当な事を言う医者にもその言葉を弾くだけの証明を展開出来ない自分にも煮えるような怒りが湧く。

「…鎖を外さないんですか?もう旦那さんは居ない。そんな漠迦な風習に縛られなくとも良いじゃないですか」
「駄目よ。私達、まだ結婚して三年経っていないもの。勝手に外したら婚約破棄になっちゃうわ」

そう言ったイシュタムの顔は今までで一番弱々しく儚く崩れそうで真っ直ぐだった。瞳に顕れている隠しきれない悲痛な叫びが、ハルファスの胸を衝いた。



***



宿屋に帰ると毎日のように顔を会わせる面々がいつものように酒を飲んでいた。

「人魚様とはどうよ?」

店主が掛けるこの言葉も最早恒例だった。
普段は軽く受け流すハルファスだが、この日は久しぶりに諧謔心が疼いていた。

「どう思います?」

口が裂ける。

「おっ!何時もと違うじゃねぇか!良いことあったのか?」
「良い方向に解釈してくれても結構ですよ」

活気に湧いた酒場からワイン一つを掠め取り、一気に呷る。甘い芳香を命一杯に味わい、それ以上の風味は含まずに部屋に入る。
甘い匂いによろけてベッドに倒れこむと、妙に昂揚した気持ちを沈めながら微睡みの中に意識を手放した。



***



時刻が深夜を過ぎた頃、ハルファスの部屋の戸が開けられた。静かに侵入して来た影は四つ。それぞれが手に鈍く光る得物を携えている。
影は足音を立てないようにゆっくりとベッドに近付いていく。
ハルファスは起きない。起きる筈が無い。部屋には彼等が用意した睡眠を深みに誘う香木の甘い煙が蔓延している。
無防備に差し出されている首に断首の斧が振り下ろされた。
悲鳴が上がることも無く、青年の身体は衝撃に揺れた。
10/05/02 09:22更新 / コトワリ
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■作者メッセージ
えろすを変換すると何故かヱロスが一発目に出ます
使いませんでしたが、こっちのが少しばかしエロティクに見えますね

えっ!?見えませんか?そうですか……

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