連載小説
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第一章:教団の奴隷(上)
 目を開けると、既に見慣れた柱と梁が闇の中から浮かび上がり始めていた。
 寝床に潜り込んだと思ったら、もう朝になってしまったらしい。納屋の中はまだ薄暗かったが、それでも夜の真の闇に比べれば何がどこにあるのかくらいの区別はついた。
 家畜の鳥が騒ぎ始めていた。僕は身を起こし、軋む身体を少しずつほぐしていく。
 寝床代わりの黴臭い乾草の中から這い出すと、日が昇る前の冷気が身体に凍みた。吐く息が白くなる程では無いものの、隙間の目立つ納屋の中で襤褸をまとっているだけの身には堪えがたいものがあった。身体に着いた草を落とす手も震えてしまう。
 身を縮めるように外に出ると、東の空が薄い青紫色に滲み始めていた。
 日が昇る直前の藍色の空の下に、波打つような黒々とした稜線がはっきりと見えた。どちらを向いても、街の外に広がっているのは暗い砂の海だけだった。
 大きな檻だ。と僕はいつも思う。
 遮るものが何も無いが、どこからでも逃げられるかと言えばそうでは無い。
 遮るものが無いという事は、逆に言えばどこからでも見つかってしまうという事だ。仮に運良く逃げおおせたとしても、この広大な砂漠を隣の集落まで生きたまま渡り切る事は不可能に近い。
 僕は赤らみだした地平線に目を細め、頭を振って大きな水瓶を抱える。
 水汲みは僕の朝一番の仕事。これから一日が始まるかと思うと、水瓶が少し重たくなった気がした。


 街の外れのオアシスにたどり着くころには太陽も稜線から姿を現していて、早朝の薄暗闇を赤く焼き上げはじめていた。
 僕は泉の淵に膝をつき、そっと水瓶を横たえて水を流し込んでいく。
 全ての仕事は水が無ければ始まらない。水汲みは何より急がなければならない仕事だったが、今はまだ日が昇ったばかりでもあり、時間には十分に余裕があった。
 日が出て少し暖かくなってきた事もあり、ついついあくびが漏れてしまう。
 僕は首を振って眠気を追い払う。こんな事ではいけないと水瓶に注意を戻していると……。
 突然予期せぬ暗闇が僕の視界を覆い隠し、驚いた僕の手の中から水瓶の縁が滑り落ちた。
「だーれだ」
 そんな声が暗闇の後に遅れてやってきた。
 目元を覆うツルツルとした暖かい感触。人の手程には柔らかな指では無いものの、ぷにっとした独特の弾力を持っているそれ。
 それから背中に当たる二つの柔らかい感触。生きている事を実感させてくる幸せな温かさ。
 こんな風に抱きつきながら目隠ししてくるような子は一人しか思い浮かばなかった。
「アズハルでしょ」
「えへへ。あったりー」
 少し鼻に掛かった女の子の悪戯っぽい声と共に、ぱっと視界が開ける。僕はとっさに水瓶の安否を確かめてしまう。
 水瓶は横になって水底に転がってしまってはいるものの、水汲みするのに支障は無さそうだった。
 ふぅ、と安堵の息を吐いた僕の胸に、彼女の両腕が回される。鈍く朝日を照り返す、昆虫のような節を持った金色の腕。異形の腕は見た目こそ硬そうなものの、実際に触ってみるとぷにぷにとした癖になりそうな弾力を持っている。
 強く胸を締め付けられても心地よいばかりで、全然痛みなんて感じない。
 背中で遠慮なく柔らかな感触が潰れ、頬ずりするような動きが背中に伝わってくる。着ている襤褸なんて本当に薄いから、直接背中にされているようなものだ。
 僕は顔が熱くなるのを自覚しつつ、声だけは冷静を心がける。
「お、おはよう。二日ぶり、かな」
「うん。お姉ちゃん達がうるさくって、抜け出すのに手間取っちゃった」
 昨日と一昨日は君に会えなくて生きている気がしなかった。死ぬほど寂しくて仕方が無かった。とは、思ってはいても流石に口には出せなかった。
 両腕がほどけ、背中からもアズハルの温もりが離れていく。
 少し残念に思いながら、僕は振り返ってアズハルと対面した。
「ごめん。久しぶりにアミルの匂いを嗅いだら、我慢できなくなっちゃって」
 照れ笑いをしながら僕を見上げる魔物の女の子。アズハル。抱きついてきた腕からも分かる通り、彼女は人間では無くケプリと呼ばれる昆虫型の魔物娘なのだった。
 年の頃十代半ばくらいの人間の女の子の身体に、黄金色をした昆虫の四肢と翅。三つ編みにして頭の後ろ側で纏められた長い髪は、夜明けの薄紫色をしている。
 健康的で艶やかな褐色の肌を覆っているのは金飾りの付いた薄い胸当てと腰巻くらいのもので、ふっくらと丸みを帯びた身体の線が惜しげも無く晒されている。
 思わず見とれてしまっている事に気が付いて、慌てて視線を上げると、大きなルビーのような双眸と目が合ってしまった。
「ごごごめん。あの、その、綺麗だなって、思って」
「綺麗だなんて……。ふふ、お世辞でも嬉しい。二日ぶりだもんね。でも、アミルにだったらいくら見せたって構わないんだよ? 良かったら、これ脱ごうか?」
 胸当ての結び目に手を掛けるアズハルに向かって、僕は慌てて首を振った。
「い、いいよ。僕にそんな事、勿体ないよ」
「遠慮しなくていいのに。でもアミルが言うなら、見せるのは後にとっとこうかな」
 アズハルは少し残念そうにしながらも、微笑みながら手を下ろしてくれた。
 僕は気を取り直して転がってしまった水瓶に手を伸ばす。少し深いところに移動してからそれを傾けて水を汲み直していると、アズハルが僕の隣に並んできた。
 生き生きとした微笑を浮かべる小さなアズハルの顔。甘くて柔らかそうな唇。くりくりした真ん丸の深紅の瞳。
 見ていると吸い込まれそうになってしまうので、僕は内心首を振って水瓶に意識を集中させる。
「ねぇ、私に会えない二日間寂しかった?」
 にやにや笑いが視界の端に見える。寂しかったのは事実だが、それを素直に答えるのも何だか癪だった。
 僕は低く唸って答えを先延ばそうとするのだが、アズハルはそんな僕に対して的確に追撃を加えてくる。
「私は寂しかったよ」
 水瓶がぐらついて、入っていた水がこぼれる。
「君に会えなくて。冷たい遺跡の部屋の中でずっと胸が苦しかった。……でも、君はそうでも無かったのかな。やっぱり私は」
「怖かったよ。もう会えないかと思って」
 アズハルが大きく目を見開くのが見なくても分かった。
 それから、アズハルは何も言わずに目を閉じて僕の肩に頭を預けてくる。
「……そんな格好してるとまた泉に落ちて溺れちゃうよ?」
 アズハルは鼻を鳴らして片目でちらりと僕を見上げてきたが、またすぐ目を閉じて、今度は腕まで絡めて体重を預けてきた。
「そしたらまた助けてくれるでしょ」
 答えなど決まっている。僕は口を開く代わりに、彼女の黄金虫を象った髪飾りに軽く頭をぶつけてやった。
 アズハルは息遣いだけで笑い、僕の肩にさらさらの髪を擦り付けてくる。まるで自分のものだとしるしをつける猫みたいだった。
 こぷりこぷりと音を立てて水瓶に水が流れ込んでゆく。他の音は何も聞こえない。聞こえるとしたら僕とアズハルの呼吸か、あるいは鼓動くらいだろうか。
 瓶に水が溜まり切るまでの、短いけれども穏やかで幸せな時間。
 不条理に罵声を浴びせられる事も無く、突然の暴力に怯えなくてもいい、生きていると実感できる瞬間。
「でも、懐かしいね」
「ん?」
「私が初めて外に出て、大きな水たまりが珍しくって飛び込んだはいいけど溺れちゃって」
「たまたま洗濯物に来た僕が助けたんだよね」
 ふふっというアズハルの笑いが、僕の首筋をくすぐる。
「アミルが助けてくれなかったら死んでいたかも」
 人外の魔物娘は、見ているこっちの胸が締め付けられるような優しい表情で、僕を見上げてこう続ける。
「ありがとね。感謝してるんだ、本当に」
 僕はその言葉に、声色に、細められた瞳の奥の感情の色に、胸の奥から熱いものがこみ上げて来るのを感じる。彼女が人間では無い事など、今更気にもならなかった。
 街の中の誰よりも僕を慕い、優しくしてくれるアズハル。街の人間達と違って、ちゃんと僕を人間扱いしてくれる存在。僕にとって大切で特別な女の子。
「……ねぇ、考えてくれた?」
 そして、だからこそ踏み込めない領域というものもあって。
「アミルさえよければ、うちに……」
「ごめんアズハル、ちょっと待って」
 ゴポリと水瓶の中から空気が全て抜けきり、中身が水で満たされる。僕は胸に痛みを感じながらも、あえてアズハルの言葉を遮るように水瓶を引き上げた。
 結構な重さだ。これを一人で持ち帰ると思うと、毎度の事ながらうんざりしてしまう。
 ……それでも、やらなければならない。やらなければ殴られ、蹴られ、下手すれば殺され、街で離れ離れになっている家族にも危害が及ぶかもしれないから。
「……それで、なんだったっけ」
 アズハルは少しぎこちない笑みを浮かべ、首を横に振った。
「ううん。大したことじゃないの、また今度伝える。今度はいつ会えるかなぁ」
「朝の水汲みと昼前の洗濯には毎日来るから、その時なら」
「じゃあ、またお昼前にでも遊びに来るね。……もっとおしゃべり出来たらいいのになぁ」
 僕は笑顔を作って、少し寂しそうなアズハルの頭を撫でる。気持ちは僕も同じだったが、少し仕事が遅れるだけで僕がどういう目に遭うのかアズハルも分かっている。
 こんな風に言ってはくれているが、僕がここにずっと居ると言っても彼女は僕の身を案じて帰るように言うだろう。アズハルは僕が傷つく事を良しとしないのだ。例えそれが僕のわがままのせいであったとしても。
 現に一度顔に青痣を作って洗濯をしに来たときには声を上げて泣かれてしまった。それ以来、僕もあまり無理はしないようにしようと決めたのだ。
「楽しみにしてるよ。またねアズハル」
「気を付けてねアミル。待ってるからね」
 手を振るアズハルに見送られ、僕は水を湛えた瓶を抱えて街への帰路についた。


 馴れ初めの話をしたせいか、独り黙って道を歩いているうちにアズハルとのこれまでの事を思い出してしまった。
 洗濯をしようと向かった泉で誰かが溺れていて、人間なのか魔物なのかも分からないまま、僕は気付けば泉に飛び込んで手を伸ばしていたのだった。今思えば、自分でもよく躊躇もせずに飛び込めたものだと呆れてしまう。
 考えなしに飛び込んだせいで伸ばした手を引っ張りこまれて自分まで溺れかけたのだから笑えない話だ。今でこそ、アズハルと一緒なら死んでもいいかな、などと思わなくは無いが、あの時は本当に肝が冷えた。
 何とか二人で岸まで上がるころにはお互い体力もほとんど尽きていて、隣り合って寝転んだまま、僕等はしばらく話すことも出来なかった。
 あまりに怖かったのか、息が整ってもアズハルはしばらく震えっぱなしで、僕の手を握りしめたまま離してくれなかったっけ。
 金色の昆虫の手足に気付いていないわけでは無かった。驚かなかったわけでも無かった。でも、彼女は演技をしているようには見えず、怯える姿は人間の女の子とほとんど変わらなかった。
 本当は急いで仕事をしなければならなかったけど、そんな彼女を放っておく事も出来なくて、結局彼女が落ち着きを取り戻すまでずっとそばに寄り添い続けた。
 決して生まれてこの方見たことが無い程に彼女が可愛かったとか、びしょ濡れになった彼女がとても色っぽかったからとか、身を寄せられた温もりを手放したく無かったからでは無い。……今はともかく、あの時は本当に怯える彼女のそばに居てやりたかったんだ。
 仕事は遅れて、もちろん主人にはこっぴどく罵られ殴られた。
 今となっては微笑ましい思い出だが、その日の夜は眠れなかった事もよく覚えている。
 アズハルとの出会い。ケプリの出現は、ファラオを信仰していた僕達砂漠の民にとっては世界を揺るがすような出来事でもあったのだ。
 魔物娘のケプリが現れるのはファラオ亡きあとの無人の遺跡だと言われている。つまり彼女が現れたという事は、この地の遺跡にファラオが既に存在しない事の証明でもあった。
 生まれてからずっとファラオを信仰してきた僕にとって衝撃的で無いはずが無かった。僕達砂漠の民はいつかファラオが蘇って楽園のような王国が復活すると信じていたからこそ、例え作物の実りが少なくとも、ほとんど狩りの獲物が居なくとも、この不毛の砂漠を離れることなく住み続けて来たのだから。
 飢饉で食べ物が無くなって飢えに苦しんでいる日も、雨季の水害で家が流されても、突然教団の軍隊に攻め込まれて奴隷の身分に身をやつしても、異教徒と言うだけで不当に貶められ蔑まれても、いつかファラオが復活して救ってくれると信じていたからこそ耐えてこられた。
 そんな僕らのささやかな希望が、突然現れた魔物娘によってあっけない程簡単に否定されてしまったのだ。ケプリが悪いのでは無いと分かってはいたが、僕の心中は複雑だった。
 その日の夜は眠れないまま色んな事を考えた。ファラオ信仰の教えや、砂漠での過酷な生活、奴隷としての日々、そして金色の昆虫型の魔物の姿が目まぐるしく頭の中に浮かんでは消えて行った。
 気が付けば納屋の中は明るくなりはじめていた。しかし太陽が昇ってもなお、僕の行く先には真っ暗な闇しか待っていない気がした。
 しかし、そんな僕を再び明るく照らしてくれたのも、他ならぬケプリのアズハルだった。
 出会った次の日から、アズハルはほとんど毎日僕の顔を見に泉に遊びに来るようになったのだ。
 他愛も無い言葉のやり取りは辛い事や悲しい事を忘れさせてくれた。屈託のない明るい笑顔は、僕の胸を温かいものでいっぱいにしてくれた。
 その姿だけで僕の後ろ向きな希望を叩き潰したアズハルは、自覚する事も無く僕の絶望もまたどこかに吹き飛ばしてくれたのだった。
 僕達はすぐに仲良くなった。友達になろうとか、相手が気になるとか、そういう事をはっきりと言葉にすることは無かったけれど、何となくお互いそういう気持ちを持っている事は伝わった。
 気が付けば僕は明日を待ち望むようになっていた。ファラオを信じていた時でさえ救いの未来に縋る事はあっても明日に何の期待もしていなかった僕が、心の底からアズハルに会えることを楽しみにしていた。
 水汲みや洗濯が済むまでの短い逢瀬。泉にいる間だけ許される他愛も無い言葉のやり取り。そんなささやかな時間が、何よりも楽しくて、嬉しくて。
 そんなほんのわずかな時間の積み重ねは、少しずつ着実に僕達の関係をより親密な物へと変化させていった。今の僕達の気持ちは、明らかに出会った頃のものとは別のものになって来ていた。
 今、自分がアズハルにどんな気持ちを抱いているのか、またアズハルが僕をどんな風に見ているのか、気付いていないわけでは無い。
 それでも僕は自分の気持ちに素直になれずにいる。お互いに遠慮が無くなってきているからこそ、親密になってきているからこそ、踏み込めない領域というものも見えて来てしまったから。
 あるいはアズハルがケプリでなく、別の種族だったのであれば僕の気持ちも違ったかもしれない。
 アズハルの身体が受け付けないわけでは無い。幼いころからファラオを信仰し、魔物娘を敬うべき隣人と考える里で育ってきた僕からしてみれば、手足が昆虫の形をしているなんて事は気にもならない。
 それでも、どんなに気持ちが大きくなっても、アズハルには手は出せない。
 ケプリは主の居ない遺跡に住みつき、喪われたファラオに代わる新しい王に相応しい人間を連れ合いにする魔物娘だ。
 仮にアズハルが求めてきてくれたとしても、僕にはそれに応えられる資格が無い。僕は王の器ではありえない。
 平民の生まれで、特別な力も無く、今は人間扱いもされない奴隷の僕が、いつかファラオが現れて救ってくれることを期待していただけの僕が、王に相応しいわけなんて無いのだ。
 僕は大きくため息を吐く。僕が仕える主人の家は、もう目と鼻の先だった。


 震える腕で水瓶を運び負える頃には、空は真っ青に染まっていた。
 目覚めた時には寒いくらいだった空気も、今は汗ばむ熱気を帯び始めていた。今日も熱くなると思うと少しげんなりしてしまう。
 水瓶を置き一息ついていると、母屋の扉が荒っぽく開いて恰幅のいい中年の男が出てきた。
 家の主であり僕の所有者でもある男は不機嫌そうに顔中に皺を寄せて辺りを見回し、僕を見つけるなり大きな声で怒鳴りつけてきた。
「水を汲んでくるだけでどれだけ時間をかけるつもりだこのクズが。生かしてやっているだけで感謝されてもいいというのに、それとも異教徒というのは水汲みだけで午前を潰すのか?」
「申し訳ございませんでした」
 俯いて謝ると、頬に衝撃が飛んできた。
 視界が揺れ、気が付いたら納屋の壁に寄りかかるように座り込んでしまっていた。頬の内側に痛みと熱が遅れてやってきて、口の中に鉄の味が広がる。
 殴られた、か。
「クズが。休んでいないでさっさと立て。ほら、次は掃除だ」
 僕は男に腕を掴まれ無理矢理立ち上がらされ、母屋に向かって引っ張り込まれる。
 視界はゆらゆらしていて、星も飛んでいた。足ももつれていたが、何とか転ばずに部屋までたどり着くことが出来た。自分でも転ばなかったのが不思議だ。
 乱暴に渡された箒を杖代わりにして、部屋を出て行く男に向かって頭を下げる。
「とっとと終わらせろ。次は洗濯。他にもまだまだ仕事はあるんだからな」
 扉が勢い良く閉められ、家が少し揺れた。
 僕は扉を見送ってから、大きく息を吐いて唇を撫でた。指が少し赤く滲んだものの、歯や顎に痛みが残っていない分今日はましかもしれなかった。


 黙々と客間の掃除をしていると、朝ご飯の良い匂いが漂ってきた。ご婦人が料理をしているのだろう。
 パンに玉子焼きに、あとは干し肉のスープあたりだろうか。砂と乾燥が支配するこの僻地にしては随分と贅沢な献立だ。
 白パンも卵も干し肉も、材料は皆主神の教徒たちが大陸から運び込んで来たものだ。彼らは、この土地の食べ物は不浄なものとして食べたがらないのだ。
 奴隷である自分はもちろんこんな豪勢な朝食にはあり付けない。もしも料理も奴隷の仕事だったのならば一口くらいつまみ食いも出来たかもしれないが、毒を盛られるという危険を排除する為という理由で奴隷は食材に触れる事さえ許されていなかった。
 奴隷の自分が食べられるものと言えば、昼過ぎ辺りに貰える余った出来損ないのパンだけだ。
 しかし食べられないと分かっていても匂いを嗅ぐだけで食事を期待し空腹の虫が鳴ってしまうのだから、人間というのは悲しい生き物だ。
 床を掃き終え、テーブルを拭いて、椅子の汚れを落として。客間が終わったら、次は浴室、便所と続いていく。
 便所掃除が終わったら洗濯物を持ってもう一度泉に行って、洗濯を終えて戻ってようやく自分の食事を取れる。
 それが終わったら居間の掃除と、また何か仕事を命じられるかもしれない。
 そしてくたびれるまで働かされたら、また寒い納屋の中で身を震わせて朝を待つ事になる。朝になればなったで同じ一日が始まるんだ……。
 でも、洗濯でも水汲みでも、泉に行けばもう一度アズハルに会えるかもしれない。
 浴室の掃除用具を準備しながら、僕は食事よりも彼女との逢瀬に胸を高鳴らせている自分に気が付く。
 アズハルに会えると思うだけで殴られた痛みも忘れられたし、重労働の疲れもどこかに吹き飛んでしまう。彼女の顔を見られるかもしれない。そんなささやかな希望だけが、今の僕の生きがいだった。
 浴室に入ると、窓から子ども達の戯れる声が聞こえてきた。ちらりと覗いてみると、僕と同じこの家の女奴隷であるザフラさんがご主人の子ども達の遊び相手をさせられていた。
 どうやら僕が客間を掃除している間に、とっくに食事は終わっていたらしい。
 あのくらいの年の頃は、僕も何も考えずに遊んでいただろうか。それとも、砂に負けずに作物を育てようとする大人達と一緒に働いていただろうか。
 上手く思い出せなかったが、過去を懐かしんでも浴室は綺麗になってはくれない。
 ……まぁ、どちらだったにしてもきっと今よりは幸せだっただろう。
 僕はそう結論付け、使い古した雑巾で掃除を始めた。


 便所の掃除を始めて間もないころ、急に主人の大きな声が聞こえ始めた。
 大声で繰り返される僕の人種に対する蔑称。あの人たちは決して僕達を名前で呼ばないのだ。便所の悪臭もさることながら、僕は自分でも顔が渋くなってしまう事を自覚した。
 簡単に手を清めて便所を出る。
 声を辿り居間へ向かうと、顔を赤黒くしながら目じりを吊り上げたご主人が居た。ただでさえ弛んだ顔が、怒りで歪んでいて、正直見ているだけでも気分が悪くなりそうだった。
「お呼びでしょうか」
 ノロマだのクズだのと罵られるかと思ったが、ご主人は僕を見ると顔を小さくひきつらせただけだった。
 嫌な予感で胸がすっと冷たくなってくる。ご主人は、本気で怒っている時は言葉さえ発さずにただ暴力に訴えてくるのだ。
 大股で近づいてくるご主人は、怒気を発しているせいかいつもより一回りも二回りも大きく見えた。
 ご主人の大きな手が伸びてくる。僕は歯を食いしばるが、覚悟していた痛みは頬にも、そして腹部にも来なかった。
 が、代わりに頭を引き千切られるような痛みが右側から走り始める。
 耳を思い切り引っ張られているのだ。と気が付いた時には、既にご主人は僕の耳を掴んだまま歩きはじめていた。
 止めてくれとは言えない。言ったらもっと酷い目に遭わされる。
 痛みでぼろぼろと涙が零れる。抑え様も無いそれを垂れ流しにしたまま、僕は必死でご主人の歩みについて行くしかなかった。
 連れて行かれたのは今朝殴られた納屋の前だった。
 ご主人は僕の耳を放り出すと、納屋の前の水瓶を指差して震える声で言った。
「おい、これは何だ」
 僕は必死に目を凝らして水瓶の様子を見る。しかし視界はいまだに涙で歪み、痛みのせいか星が飛んでいて、水瓶がどうなっているかよく見えなかった。
「何だと言っているんだ。答えろ」
「み、水瓶です」
 膝裏を思い切り蹴り付けられ、僕はたまらず地面に膝と両手を着いた。
 体勢を直しかけて、僕はおかしなことに気が付く。地面は思っていたほど熱く無く、なぜか湿っていたのだ。まるで濡れていたかのように。
「そんな事は見れば分かる。どうしてこうなっているのかと聞いている」
 地面を濡らす水分があったとすれば、水瓶の中身くらいしか無いだろう。だが横倒しにもなっていないのに水が漏れる事なんて無いはずだ。
 顔を上げた先には、見慣れた水瓶が置かれている。しかしよく見てみると、その表面には今朝には無かった罅が刻まれていた。
 罅の周りは総じて瓶の色が濃くなっている。どうやら水はあそこから漏れてしまっていたようだ。
「わ、分かりません。今朝はこんな風になっていませんでした」
 答えると無言でわき腹を蹴り上げられた。反射的に僕は空っぽの胃の中身を吐き出してしまう。痛みそのものよりも、呼吸が出来ない苦痛が全身を痙攣させた。
 口を大きく開けても空気が入って来ない。
 顔に全身の血液が集まったかのような圧迫感を感じながら、何度も咳き込むうちにようやく息が出来るようになってくる。
 涙目になった目を開けると、偶然壁の影からこっちを見ていた主人の子ども達と、ザフラさんが目に入った。
 そう言えば、ここは確か浴室の掃除をしていた時にあの子達が遊んでいた場所だ……。
「どうせ水汲みの時にお前が痛めたんだろう」
「ち、違います」
 顔に衝撃があった。何が起こったのか分からないが、鼻がつまってさらに息が苦しくなってくる。
「……ほう、それじゃあうちの子どもが壊したとでも言うのか?」
 肩を蹴られ、胸を蹴られた。数えていたのはその二回までで、それから先は考える事をやめていた。
 ただ身を縮めて、この暴力が去るのを待つしかなかった。
「主人の財産を壊しておいて子どもにその罪をなすりつけるとは、異教徒は人間性まで劣るらしいな。こんな奴らを生かしておく事自体が間違っているとしか思えん。やはりこの街を占領したときに皆殺しにしておくべきだったのだ」
 誰に向かって何を言っているのか分からなかったが、それもいつもの事だった。
 僕に出来るのはただ耐える事だけだ。
「おまけに仕事はしない癖に女を作る事だけには熱心らしい。獣だってもっとわきまえているだろうに。分かっているのか? お前の事だ。
 品の無い雌の匂いを付けて帰ってきておいて、まさかばれていないとでも思ったのか?」
 いつの間にか衝撃は止んでいたが、痛みはいつまでも後を引いて残っていた。
 全身万遍なく痛みがあるせいで身体がどんな状態かは分からなかったが、そんな事は今はどうでもよかった。それより今は主人の言葉の方が大事だ。主人はどこまで気が付いているのだろうか。
 どうやら会っている相手までは分かっていないようだったが、しかし教団が支配しているこの街の近くで、僕が会っているのが魔物娘だと知れたら……。
 アズハルにどんな危害が加わる事か。恐ろしくて想像することも出来ない。
「……ふん。ちょうどいい罰だ。主人の財産を壊した罰として、お前は去勢してやる」
 去勢。つまり、男のあれを切り落とすという事?
「あ、うぁ……」
 僕は何とか主人の足元に手を伸ばそうとする。しかしその手は当の主人の足によって踏みつけられた。
 体重を掛けられ踏みにじられるが、胸の中の衝撃の方が大きすぎて痛みなど感じられなかった。このままでは男でなくなってしまう。それだけは、それだけは嫌だった。
「この間正教徒の娘に手を出した奴隷の去勢処分が明日の昼だったはずだ。ちょうどいいからお前もやってもらう事としよう」
 目に見えずとも、主人が歯をむき出しにして笑っているのが脳裏に浮かんだ。
「ふん。街の議会に全ての奴隷の去勢処分を提言してもいいかもしれんな。人の姿をした家畜が無作為に増えられては困る」
「か……ちく……」
 手に乗せられていた足にさらに体重が乗せられ、身体のどこかから軋む音が聞こえた気がした。
「魔物を信仰していた者共も魔物と同じだ。不浄の者共は皆矯正するのではなく殺してしまうべきなのだ」
 側頭部に大きな衝撃を感じ、それを境に僕の意識はぷっつりと切れた。
13/06/22 00:18更新 / 玉虫色
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■作者メッセージ
今回は教団の方々に悪役をやってもらっています。教団の全てがこういう人達では無いでしょうが、実際の人類の歴史を考えるとこういう人達も居そうな気はしますね……。

痛々しい暴力で終わっていますが、暴力的なシーンはここがピークとなります。
予告というわけではありませんが、元々ケプリ達のハーレムシーンを書きたかったのでお話はそういう方向には進んでいきます。


ここまで読んで頂きありがとうございました。
始まったばかりですが、よろしければ続きも読んで頂けたら嬉しいです。

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