連載小説
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金貸し狸にご用心?



 とある晩。一人の男が足取りも軽く飯屋へと入ってきた。

「オヤジ、酒――熱燗と適当な肴を出してくんな」
「おや丁さんじゃないか。今日は何時もみたいに、腹ごしらえの為だけのぶっ掛け飯じゃないのか?」

 この丁という男は二十歳前と歳若く、腕を売り出し中と公言しながらも、簪から根付まで果ては祝箸などなど物の加工を行わせたらこの界隈随一と評判の、非常に腕の良い飾職の職人である。
 そのために日頃は方々から持ち込まれる依頼に忙殺される仕事の虫であり、飯の用意が七面倒くさいと飯屋に訪れては手軽に出来るぶっ掛け飯を頼み、それを掻き込んで仕事に戻ると言う有様。
 なので店主が丁が珍しく酒と肴などという、仕事の邪魔になりそうな注文を入れたことにたいそう驚いているようであった。

「その仕事が一つ片付いたんで、少しばかり懐が暖かいのさ」

 丁はお金が入っているであろう懐を二度ほど軽めに叩く。すると軽い金属が擦れあうちゃりちゃりとした音が、服越しにくぐもって聞こえてきた。たしかに何時もは仕事に必要な物の仕入れに金子を使ってしまうために、懐は常々寂しいはずの丁なのに、今の懐の音は中々に重量がありそうだった。
 そんな上機嫌な丁の様子に、飯屋の店主も上機嫌が伝播したのか恵比寿顔で注文を受けると、そのまま調理場へと向かい肴と燗の準備をし始める。
 まだかまだかと手を擦り合わせて待ちわびながら、どうやら今片付けた仕事の仕上がり具合、もしくはそれを受け取った依頼人の事でも思い出しているのか、丁の顔は終始にこやかである。

「はいお待ちどうさま」
「おお、すまねー……チッ、何してやがんだ、そんな格好しやがって」

 しかしお盆の上に熱燗と肴を持ってきた女中の顔を見た瞬間、さっきまでのが嘘かのように丁は急に不機嫌な調子になると、酒を猪口に注ごうともせず受け取った徳利をそのまま机の上に置いてしまう。
 
「随分な言い草じゃないか」

 どろんと出た音と煙が女中を包みそれが晴れると、そこには見た目はほぼそのまま同じだが、女中の粗末な服から商人が愛用する仕立ての良さそうな服へと変じた女が立っていた。
 いや服装よりも突如現れた頭に載っている丸みを帯びた耳や、尻から伸びている太く長い狸と見紛う尻尾の方を注目するべきだろうか。
 なにはともあれそれらの特徴から察するに、この女は人ではなく刑部狸と呼ばれる妖怪であろう。先ほどの女中姿は、狸らしく妖術で変じた姿というわけだ。

「まあその言い草も、私の変化を見破った事で帳消しにして上げようじゃない。オヤジさん、私にも同じもの頂戴」

 何をあんな大雑把な変化ぐらいで何を言うかと口の中で零しながら、丁は肴を食べようとして小鉢に何も入っていないことに気がついた。そして徳利から猪口へ酒を注ぎ匂いを嗅いでみると、そこに酒の匂いはなくただの水の香り。つまりこれらも狸女の化かしたもの。
 何でこんな悪戯をと丁が考えていると、目の前の席に狸女が座ろうとしているのが目に入った。

「なんだお縞。俺と差し向かいでやるつもりか?」
「あら、別に私が何処で飲もうと良いのではない?」
「――チッ、久しぶりの酒だってのに」

 苛立たしげに猪口の中の水を一口含んで唇を潤した丁は、視線を目の前のお縞と読んだ女から外し、脇にある品書きへと落す。
 しかしそんな丁の仕打ちも慣れたものなのか、お縞はじっくりと穴が開きそうな程に、その大きい眼で丁を見つめていた。

 さて酒と肴が運ばれてくる間に、如何してこの二人がこの様な雰囲気であるのかを、少々説明しなければならないだろう。
 丁が腕の良い飾職人で評判であるとは先に記したのでご存知であろうが、職人気質な所と気風の良さもこの界隈の評判となっている。
 例えを上げるとするならば、腕を知ってもらうために食うに困らない程度に稼げれば良いと、仕事の出来栄えの割に品代が安いため商家では重宝がられ、近隣に住人が病気などで金に困ればお互い様と見返りを求めず工面してやり、貧乏人の娘の嫁入りでは簪の一つも無いと親の面目が立つまいと一つ無料で拵えてやる。
 そんな人の良さから丁の事を、仏の生まれ変わりと崇める声もあり、また貧乏人に利用されている愚か者だとなじる者もあるが、それでも丁は懐の豊かさよりも心の豊かさを選ぶという、下町職人らしい粋な気質の持ち主である。
 しかしそんな丁と真っ向に相反するのが、何を隠そうこのお縞という狸女。
 さてこのお縞をこの界隈住人が言い表すとするならば、守銭奴、金貸し狸、金にものを言わせる業突く張りというのが一般的。
 そんな悪口を言わなくてもと思われるかもしれないが、お縞の悪行の数々を知ればそうは言っておられまい。
 お縞は金貸しという商いをしているわけではあるが、その回収の仕方がかなりあくどい。
 期日に金を用意出来なければ、家財道具から日用品まで全て差し押さえ、それでも足りないと判るやその住人を住まわせる大家からも取り立てるという悪行ぶりとのこと。
 見るに見かねて役人に訴え出ても、その役人の大半がお縞の顧客で強くは言えず、それ以外の相手にはお縞の手がするりと伸びて袖の下と鼻薬を嗅がせて黙らせて仕舞うのだから性質が悪い。
 まさに芝居小屋で見受けられる悪徳商屋の典型。それを地で行くのがこのお縞という女狸である。
 そんな人間味と粋さの欠片も持ち合わせていない野暮狸を、丁は蛇蝎の酷く嫌っている。
 しかしながら人の縁とは奇なるもので、近隣住人がお縞に作った借金を丁が肩代わりしてやったり、丁の取引先の商屋の店先で番頭がお縞へ利息の取り立てで顔色を青くしていたり、たまに今日のように町中で出くわしたりと、二人は何故か頻繁に顔を会わせる。
 そんな奇縁が始まったのは何もつい最近の事ではない。

「でさぁ、アンタの隣の職人もジョロウグモと祝言を挙げたそうじゃないか。だからもうそろそろアンタも落ち着いてみない?私なんてどうかね?」
「冗談にしては笑えねえな。お前の様な性悪女なんぞ、こちとら願い下げだね」
「どうして幼馴染の私をそう悪し様に罵れるのか。私は悲しいねぇ」

 そうこの二人、生まれた時から近所に住んでいたという、幼馴染の間柄。
 お縞の母は隣町随一の商屋を切り盛りする大女将で、丁の父親はそこで働く手代。そんな中で生まれた丁とお縞の二人は、歳が近いと言うこともあり、昔は二人ともに良く遊んだりしたものであった。
 だが丁が齢十を数えた時に、親の反対を押し切って飾職の親方に押しかけ弟子となったことで、ここで二人の関係が一時切れる。
 しかしこの町で修行を終えた丁が飾職人として一人立ちをした頃、この町に新しく起業した金貸しとして、ひょっこりお縞が丁の前に現れたのであった。
 そこからはお縞は持ち前の商才を遺憾なく発揮し、瞬く間に界隈の金貸しを牛耳ると、今や両替商も商う程の大商いの主となっていた。

「うるせぇ、たまには人様の役に立ってみろ」
「役に立っているじゃないか。金が無いって泣きついてくるのに、気前良く金を貸してね。涙を流して喜んでくれるよ」
「その後に取立てで泣かしているんだから世話無いな」

 幼い頃に良く遊んだ幼馴染だからこそ、丁はお縞の容赦なく人を泣かせる商いに一言言わなければ気がすまない。いやむしろお縞の金の力に恐れて物が言えなくなっている人々の代わりに、自分だけは言わなければならないと義務感に似た感情を抱いていた。
 
「なに甘い事言ってんのさ。借りたものは返すのが道理だろうに」
「道理の筋にも通し方ってモノがある」

 だからこそこの二人が顔を付き合わせると、どうしても言い合いが熱を帯びてしまう。
 それこそ二人の間に極力入りたく無いのかそっと注文の品々を机の上に置き、さっさと引き上げてしまう飯屋の女中が出てくるほどに。

「まあいいさ、アンタもそのうち銭の偉大さが判るようになるさ」
「はんッ。金が幾らあったところで、俺の飾職の腕前も心意気も買えないな」
「さてそれは如何でしょう?」
 
 そのまま二人はにらみ合うかの様な面持ちで酒と肴を胃の腑に収めると、お縞は先にきっちりと御代の分だけ机の上に金を置くと、そのまま飯屋から狸尻尾を振りながら立ち去っていった。それを見送った丁はぐいっと徳利をそのまま呷った後、迷惑料を含めた御代を机の上に置くと、苛立たしげな歩調を隠さず家路へついた。
 


 さて今日も今日とて飾職の仕事に精を出す丁。
 つい先日のお縞とのいざこざなどもう記憶の彼方。負の感情を日を跨いで持ち越さないのも、彼の持つ長所の一つ。
 カカッと小さい槌を鑿に打ち付け、鉄の板に模様を刻み込んでいく。
 流石に界隈一と名高い丁の仕事だけあり、書道家が書をしたためる様な素早さで、見事な花の模様を刻んでいく。

「御免よ、丁さん」
「開いてるから入ってくんな」

 戸越しに声を掛けられても、きりの良い所までは仕上げるつもりなのか、一向に顔を上げようとも槌を振るう手を休ませようともしない。
 そんな丁の様子を障子戸を開けて入ってきた商人らしい男は咎めもせず、上がり框に腰を下ろして丁の手が止まるのを待っていた。

「よっし――お、中洲屋の番頭さん、いらっしゃい。お嬢様への祝品を納める期日はまだ先だと思いましたが?」

 満足いくところまで進めたのか、丁は槌と鑿を脇に置いて顔を手拭で拭いながら、納期が何時の何日だったか思い出すためか首を横に傾げている。

「大変申し訳ないのですが、それの入り用の日にちが早まりまして、丁さんはお忙しそうなので別の所に頼もうかと……」
「でしたら他のは期日に余裕がありますので、先に仕上げても宜しいですよ」
「いえ、そう言って下さるのは有り難いのですが……」

 なにやら奥歯に物が挟まった言い方をする番頭に、やや不可解なものを感じ取ったのか、丁は腕を胸前に組むとじっと番頭の顔を見始めた。
 すると番頭はなにやら後ろ暗い所があるのか、その目にややたじろいでしまう。

「俺の作るものが気に入らないか、他にいい腕の職人見つけたのならそう仰って下さい。素直に引き下がりましょう」
「いえいえ、丁さんの作は相も変わらずお嬢様のお気に入りで、見当たらないと癇癪を起こすほどで」
「でしたら……お縞のヤツですか?」

 必死に弁明しながらも何かを隠しているような番頭の様を見ていた丁の第六感が働き、その口から幼馴染の狸娘の名前が零れ落ちた。
 その名前を番頭が耳にした瞬間、その顔にびっしりと冷や汗が浮び、心なしか表情も引きつっているように見受けられる。

「やっぱりあいつの仕業か」
「どうか、どうか私の所為で……」
「――ということで、注文は取りやめと言うことで宜しいんで?」

 番頭が何かを言う前に、丁は遮りつつ目を瞑りながら言葉を吐き出した。
 そんな丁の仕草を見て、丁が中洲屋の内情を察してくれたと感じたのだろう、番頭は取りやめにした注文の材料費として多少の金子を上がり框に置くと、何度も何度も頭を下げつつ丁の元を去った。
 その番頭の足音が消えるまで目を瞑り続け、その足音が聞こえなくなってから一つ長く息を吐いた丁は置かれた金子を拾い上げると、自分の腕で稼いだ訳ではない金を懐に収める事に気が引け、その金を丸まる神棚に置くと途中で止めていた作業を再開させた。

 しかしその後、あらかじめ戴いていた大半の注文が取りやめになり続け、それでも残った仕事に力を入れて優先して仕上げて納入していた丁だったが、最後の注文をこなしてしまう頃には、一切の新しい仕事が入らなくなってしまう事態になっていた。
 長屋の家賃は月々払いに行くのも大家に受け取りにこさせるのも面倒だからと、この事態になる前に受けていた仕事の給金で数か月分まとめて払ってあったので、今すぐに家を追い出されるということは無い。
 しかしもともとそんなに蓄えのない丁は、直ぐに食うに困る羽目になる事は目に見えていた。
 だが情けは人のためならずとの言葉通り善行は積んでおくもので、仕事が無くなった丁を心配した近隣の住人が、お縞の影に怯えながらも厚意で丁に食料を分けてくれるようになった。
 それを当初は迷惑が掛かるかもしれないから受け取れないと拒否していた丁だったが、今まで良くしてくれたせめてもの恩返しにと繰り返し言われ続け、そこまで言われたら逆に受け取らない方が筋が通らなくなると納得し、せめて彼ら彼女らの厚意に感謝の意味を込めて毎食毎食味を噛み締めて食事をしつつ、皆のためにもこのまま厄介になり続けてはいられないと、方々へ自分の腕を見本と共に売り込みに走る毎日を送り始めた。
 しかしどんなに方々の商屋に売り込みをしても、もう既にお縞の手が伸びているのか、一向に仕事を貰える気配すら無い。
 もうこうなればこの町を捨て、新たな場所へと腕と道具を持って旅に出ようかと迷い始めた頃に、丁が訪れた商屋で一人の四十頃の隠居間近に見える役人侍に出会った。

「本当に仕事を頂けるんで?」
「これほどの腕でこの値ならば、今まで苦労を掛けた女房への労いにはもって来いというものよ」

 その後豪快に笑うと侍は丁に簪を一つ注文し、期日と予算に彼が住んでいる場所を言い渡すと商屋を出て行った。
 久しぶりに受けた簪作りとあって、丁の意気込みは並大抵のものではなかった。
 さっそく家へ取って返すと、材料の購入のために大事に残してあった金子を引っつかみ、まずは良く取引をしていた場所へ向う。

「馬鹿な!何時もの倍以上の値じゃないか!」
「丁さん。申し訳ないが、それが今の相場なんだ」
「ぐぐぐ……」

 何処かで丁に仕事が舞い込んだと知ったお縞の仕業か、簪の材料になる品々のことごとくが値上がりしていた。
 普段ならば十二分に余裕があるはずの量の金子が懐にあるのに、この値では簪に必要な量を買う事が出来ない。かといってあの侍に前金の催促が出来る程に、丁は厚顔でも無かった。
 その結果、懐の金子でも買える所が無いか、丁は町にある全ての材料商を駆けずり回る破目になる。
 しかし何度と店を変えても、本来ならば店毎に値にばらつきがある筈なのに、簪の材料だけが判で押したかのようにぴたりと同じ値で取引されていた。
 そして最後の店に丁が足を運びその暖簾を潜ろうとした時、その店主とお縞が隣り合って座っているのに気がついた。

「それでは、よろしく頼みますよ」

 そう呟いたお縞の手がするりと店主の袖に入り、その袖が金子の重さで少し沈むのと、その店主の頬がその重さに思わず緩んだのを丁は目にした。
 やはりという思いと、何故という思いがない交ぜになった不思議な感情が、丁の胸の中を駆け巡る。
 そこに暖簾を潜り出てきたお縞と鉢合わせするような形で、面と面とを向かい合わせにしてしまう。

「お縞。お前がそこまでするほど、俺は目ざわりなのか……」
「言ったでしょ『金の偉大さが判るようになる』ってさ」

 ひらひらと手と尻尾を振りながら丁の横を通り過ぎようするお縞の横面に、思わず拳を振り上げそうになった丁だったが、寸での所で思いとどまれた。
 そんな丁の心情を手に取るように判っているのか、お縞は挑発するように自分の頬を平手で軽く叩くと、にっこりと笑みを浮かべて立ち去っていった。
 その後一応念の為にとその店の番頭に簪の材料となる物の値を聞いてみたが、やはり今までに他の店で聞いたのと全く同じ値であった。


 裏で糸を引いているのがお縞となれば、もうこうなれば形振り構っては居られないと、丁は自立した際に此処にだけは頼るまいと心に決めていた所を曲げ、一路彼の飾職の親方の住む隣町へと足を運んだ。
 隣町に行くのならばそこで簪の素材を買えば良いではないかと思われるかもしれないが、この町こそ丁の生まれ故郷であり、お縞の生家である大店のある場所。つまりはお縞がその母狸伝いに、金に物言わせて既に手を回している可能性があるため、丁は真っ先に昔ながらの職人気質である親方の下へと足を向けたのであった。

「おお、ぞろ目じゃねーか。久しいな」

 昔懐かしい修行の場に居たのは、少し歳を経て白髪がちらほらと目立ち始めてはいたが、足腰丈夫で矍鑠とした雰囲気を纏わせている初老の男。彼こそ丁の飾職における師匠であり、名を留蔵という知る人ぞ知る飾職人である。
 ちなみに丁半博打において必ずぞろの目が丁になる事から、彼はぞろ目という愛称で丁の事を弟子の頃から呼んでいる。

「此方でお世話になっておきながら、今の今まで文の一つも出さなかった自分が――」
「かー、そう言うのはいいって何時も言ってんだろうが。用件を言え用件を」
 
 土間で膝を折り伏して口上を述べ始めた丁を押し留めた留蔵は、気短そうな口調で丁の用件を問いただす。
 丁はその場で顔だけ上げると、いま自分が置かれている状況を、気が短い留蔵に合わせ掻い摘んで要点だけ話した。

「つまりは何だ、その嬢ちゃんと言い争いして、結果仕事が出来なくなったと。そんなの完全にテメエの落ち度じゃねーか」
「弁明のしようもありません」

 丁も自分とお縞の生い立ちやら紆余曲折やらから、心の底から自分の落ち度だと理解したわけではないだろうが、職人の上下関係は実の親子よりも厳格で、親方が黒といえば弟子は黒としか言えないのが当たり前。
 親方である留蔵が落ち度が丁にあると言えば、それは丁にあってしかるべきものになる。

「まあ俺ッちもその嬢ちゃんの親御さんから、テメエが泣き付いてきても取り合うなと金を積まれて頼まれてる。テメエもそんなことは重々承知の上で此処まで来たわけだ」
「はい、そこを曲げてお願いいたします」

 土間で額を地面に擦りつけながら必死に頼み込む丁の姿に、留蔵は同じ職人で無ければ判らないなにかを悟ったらしく、手の掛かる弟子に向けて大きく溜息を吐いた。

「俺ッちも人の子よ。よそ様の子供より自分の弟子が可愛い。だからだ、材料欲しけりゃこの場でその腕前を見せてもらおうか。俺ッちが納得すりゃぁ分けてやる。もしも下らねぇ物を作りやがったら、判ってんだろうな?」
「は、はい!」

 丁は早速留蔵の作業場に上がり込むと、今まで培ってきた腕前を出し惜しみ無く一枚の銅板へと刻んでいく。
 本来ならば墨で下絵を描いてから鑿での削りを行うのだが、頭の中で銅版へ刻む図面を確りと思い描いているのか、この場所から巣立ってから休み無く働いた丁の手は、淀みなく銅板の上を進んでいく。
 銅版に刻まれるのは金や銀の板で尊ばれる鳳凰や龍の図柄とはまた違う、庶民が愛用するのを視野に入れた、小さな花と蔓草とが合わさった何処か素朴ながらも赴きのある図柄だった。
 そして日が傾き始める頃にようやく大方の削りが終わり、さてこれから夜通ししてでも仕上げると丁が腕まくりして気合を入れ直した時、その手を留蔵が掴んで止めてしまった。

「其処までだ」

 その固い口調に丁の全身は固まった。
 何か自身では気がつかなかった手違いを犯してしまったのかと、戦々恐々とする丁の手から銅板を取り上げた留蔵は、しげしげとその銅板に刻まれた筋に目を凝らした後、そっと線の上を指でなぞっていく。

「確かに彫りの仕事は見事だが、焦りがここから滲み出てしまってる。どんなに急ぎの仕事でも、きっちりと下絵は済ませてから掘れと俺ッちは教えたはずだ」
「……」

 流石に一流の職人である留蔵の目は節穴では無い。ほんの少しの素人目には判断がつかないほどの小さな線の歪み。それを彼の目は逃さない。
 そんな事はと留蔵の指差す場所に目を向けた丁は、確かにその場所に粗い仕事を見た。
 お縞とのいざこざの所為なのか普段では絶対にあり得ない仕事に、まさか一番重要な場面で取り返しのつかない失敗をしてしまったと丁は項垂れる。
 
「俺ッちらの仕事は自己満足じゃいけねえのは知ってるな。こんな仕事を客には出せねぇ」
「はい」

 親方からの厳しい言葉に、丁は益々小さくなってしまう。
 あの界隈で随一と煽てられて、知らず知らずの内に天狗になっていたと、自分の喉を鑿で突かんばかりの心持で留蔵の次の言葉を待った。

「これに懲りたら基本を確り守れよ、ぞろ目。俺ッちも目を見張るその彫りの腕が泣くぞ」

 そんな優しげな留蔵の言葉と共に丁の膝元にバラバラと投げつけられたのは、丁が留蔵から分けて欲しいと告げていた品々。
 一体なにがどうなったのかと腑に落ちていない様子の丁だったが、留蔵の瞳に浮ぶ我が子の成長を目にした親が浮かべるのと同じ色を見つけ、さっきまでのはなまじ腕が立ち始めた丁を諌めるための言葉だったのだと気がついた。

「せめて分けていただく品の御代を」
「弟子からそんなもん受け取れるかってんだ。良いからさっさと仕事場に戻って仕事を片付けろい。不肖の弟子の世話を何時までもしてられるほど、俺ッちは暇じゃねんだ」

 しっしっと野良犬を追い払うような仕草で丁を追い立てると、ぴしゃりと音を立てて戸を閉めてしまった。
 それが留蔵の一種の照れ隠しの行動だと感じた丁は、閉じられた戸に向って深々と一礼をすると、暗くなり始めた空を睨みつけながら、一目散へと自分の仕事場へと向って走り出した。




 隣町から引き返し、真夜中に仕事場に戻った丁は行灯に火を灯すと、早速仕事に取り掛かった。
 親方から貰った材料は必要最低限の分量しかない。失敗は許されない。
 なのでまずは障子紙の修復用に取ってあった浮世絵の裏に、どんな絵柄と構図を簪に施すのかを思い描きながら墨と筆とで線を引いていく。
 一枚目を書き終えて、これではないと丸めてしまう。
 焦るな期日にはまだまだ十分に時間がある、他に仕事もないのだからこれだけに集中しろと心の中で呟いた丁は、二枚目の浮世絵の裏に線を描いていく。
 その頭の中で思い浮かべるのはあの侍の姿。
 体格が良く剣術の腕も立ちそうな手の平をしていた侍。彼に嫁がれた奥方も、やはり武家の嫁らしい凛としたお方だろうと予想を立てつつ、武家の女が喜びそうな絵柄を二枚目に描いていく。
 しかし途中で余りにも描いた構図が賑やかに過ぎるのを察して、またもやくしゃくしゃと丸めてしまう。
 最近の武家では質実剛健な風潮が流行りと聞く。するとさっきのでは武家ではなく公家や殿様の姫への捧げ物にしか見えない。
 三枚目の浮世絵の裏に、墨に濡れた筆が走る。
 目指すのは派手過ぎず、かといって控えめに過ぎない、そんな構図と絵柄。
 最終的に丁が選んだのは鵬と呼ばれる大鳥が、二匹仲良く羽根を畳んで寄り添う姿。
 鵬とは魚が鳥へ変じて生まれるという逸話から、特に武家で出世の縁起物として用いられる目出度いもの。それを武家夫婦の絆の証として二羽を仲睦まじい様子で配置する。
 羽根を畳んでいるのは、あの侍の隠居後の事を思ってのことだったが、このままの構図では将来性が無いと受け取られかねないかと危惧し、夫の方の鵬にだけ嘴で毛づくろいしている絵柄に差し替え、それの片羽根を上げさせる事で今後の飛躍を願う構図へと変化させる。
 まあここらへんが落としどころかと呟いてから、実際に銀板の上に墨で下絵を描いていくが、浮世絵の裏にでかでかと書いたのを、簪用の小さな銀板に合う様に縮小して描くには、腕に緻密さが脳裏では最終的な見栄えを思い描く事が必要となる。
 一筆一筆に魂を込め、筆の毛先に意識を集中させ、只管にただ只管に鵬という架空の生物を銀板の中へと封じ込めるように描いていく。
 やがて書き終えて筆を置き、銀板の上の墨が乾いた頃、丁はじっくりとその絵の出来栄えを品定めする。
 何処かの線が歪んではいないか、銀板の中にいる鵬の絵姿に違和感が無いかを見極める。
 やがて納得いくまで確認できたのか、その銀板を台の上に置いた丁は、鑿と小槌を手に持ち、親方にも褒められた彫りの腕でカツカツと素早く、しかし丁寧な仕事で鵬の絵柄を浮き彫りに彫り込んでいく。
 もう空は白く明け始めていた。



 仕事場に戻り、夜を徹して作業に没頭していた丁だったが、中天から日が傾き始めた頃になると、銀板の絵を荒く彫り終えるまでというきりの良いところで、腹の虫が大声で急かすので飯屋へと出かけようとした。

「おっと、これを盗まれでもしたら事だな」

 丁寧に手ぬぐいに彫り終えた銀板を包み、それを懐へと仕舞い込んだ丁は、その足で飯屋に駆け込んだ。無論頼むのはぶっ掛け飯。
 しかし何時ものとは違い、雑穀交じりの米の上は魚のあらや菜っ葉の煮込んだものやらで賑やかだ。

「なに、何時も贔屓にしてくれているんだこれ位――それに疲れてそうだしな」

 頼んだものとは違うのではと尋ねた丁に、店主はそう耳打ちするとそそくさと厨房へと下がっていった。
 人の心遣いがここまで染みるものかと、目に涙を浮かべながらも決して泣くまいとそそくさと飯を食べ終えると、御代を机の上に置いて外へ出ようとし、そこで目の前に腰に刀を帯びた人影――侍だ。
 
「おっと、御免なすって――って、あれ、旦那。何処かにお出かけですか?」

 そこにいたのは丁に簪を注文した件の侍。横には彼の妻と思わしき女性の姿。
 それだけならばどこぞの芝居小屋へでも行くのかと思うところだが、二人の格好が普段のものではない。
 夫婦ともに編傘を手に持ち、足には草履ではなく雪駄という、明らかな旅装束。
 
「ああ、妻への長年の労いに湯治に行こうと思うてな。しかしお主、どこぞで会ったか?」

 その侍の言葉に少し意表をつかれた丁だったが、奥方へ贈り物は内緒にするのかと察し、すこし道脇に侍を先導してから注文の品の概要を耳打ちした。
 しかし耳打ちされた内容にも侍の反応は薄く、丁の事を何かの押し売りではないかと思っていそうな目付きすらしていた。
 もしや忘れているのかと丁は事のあらましを小声で伝えたが、ますます侍の困惑の色が深くなる。

「それは異な事を。某はその様な物を頼んだ覚えは無い。第一お主の言うその店は――」

 その後に続いた侍の言葉に、丁はまさかと何かに思い至った。

「すみません旦那。どうやら俺の思違い――いや人違いしていた様で。お手数お掛けしました。奥方様と湯治を楽しんで下さい」
「そうか、ならば良い。お主も疲れている様子。今宵は湯浴みでもしてゆっくり過ごすとよかろう」

 何度も頭を侍に下げて見送り続けその後姿が見えなくなると、丁は顔を上げてその場から駆け出した。
 角を曲がり人が行きかう大通りの中を、切迫した形相で駆け抜ける。
 やがて辿り着いたのは、あの侍と出会ったはずの店。
 しかしその店のはず場所には、もう何年も雨風に曝されて続けて朽ち掛けたあばら家が建っていた。
 否――周りの通行人を捕まえて尋ねてみると、もう三年は住むものが居ないと言っていたのだから、これが本来の姿なのだろう。
 つまりは化かされていたのだ。あのお縞に。
 もう何が化かされているのか、化けていない本当の事か判らなくなりかけた丁は、前に一度簪の材料の値を尋ねた材料商へ足を運び、再度その値を尋ねてみた。
 その値は前と一切変わってはいなかった。
 そのことになぜか丁は、少しだけ安心してしまった。



 さて時は丁と侍が出会ってから、日が三度昇った所。
 相変わらず丁に舞い込む仕事は無い。しかしその手は何かを作っているようで、台に向ってなにやら作業をしていた。
 何をしているのか見てみると、手にあるのは侍に納めるはずだった簪。
 どうやら狸に化かされて拵えてしまったというのに、途中で作業を放り出すのは職人の意地に反するのか、もう少しで完成のところまで進んでしまっている。それこそ後は受け取る人に合わせて、少し手直しする位で。
 もっとも受け取る人は、狸の化かした煙の中。つまりは実在はしないはずである。

「御免よー。丁、居るかい?」
「どちらさんでー……って、お縞。寄りにもよってオマエか」

 戸から丸みを帯びた耳が乗っかった顔をみた丁は、あからさまに大きな溜息を吐いた。
 そんな丁の仕草が癇に障ったのか、お縞はむっとした表情を作ると、丁の言葉を待たずに部屋へと上がり込む。

「なにさ寄りにもよってって。折角尋ねてやったってのに」
「お客ならお前でも歓迎すらぁ。でも違うだろう?」

 横目でそう尋ねた丁の言葉に、ちょっとした違和感を感じているのか、お縞は小首を傾げてその違和感の先を探ろうとした。
 しかしその違和感を探る前に、丁の仕事場の様子が何時もと違っている事に気を取られてしまった。
 
「おや、随分とさっぱりしたねぇ」
「お陰様で。道具屋に大半の物を引き取ってもらったよ」

 そのお縞の言葉通り、この部屋の中には箪笥も行李に果ては万年床だった布団すら無く、あるのは丁が長年愛用する仕事道具だけという、さっぱりとしたものだった。
 これでは座布団や茶など気の利いた物は出てこないだろうと判断したのか、嫌味一つ言う事無く畳みの上に座ったお縞だったが、丁が如何して部屋の中の物を売り払ったのか、その理由に気が付いたような顔になると、嫌な微笑みを浮かべて丁に顔を向けた。
 
「それでどれだけの金子になったんだい?ここ最近、材料商に足を運んでいたそうだけど、簪の材料を買えるほどには集まったのかな?」
「白々しい。どれだけ俺が金子をかき集めようと、お前のお陰で材料が買えることは無いんだろう?」
「おやばれていたの。それは気が付かなかった」

 言葉とは裏腹に、むしろ気が付いていた様子の口調でお縞は言い放つ。
 そんなお縞の様子に「まあいいさ」と呟いた丁は、その場で体ごとお縞の方へと向き直ると、その顔は職人の顔になっていた。
 何時もは面を合わせれば憎まれ口しか叩いたことの無いお縞にとって、それは初めて見る丁の一面。それを間近に見たお縞の頬に朱が差す。

「そのまま動くなよ」
「ちょっと、何をするつもりだい」
「いいから動くな」

 そっとお縞の顎先を指で摘んだ丁は、しげしげと彼女の顔の輪郭を眺め始め、やがてもう一方の手でお縞の後頭部へと手を当てて軽く引き寄せた。
 何時もなら何をからかっているんだと怒りそうなお縞だが、丁の真剣な眼差しにそんな減らず口も出せず、そのまま丁のなすがままにされてしまう。

「やっぱり似合わねえな」

 しかし丁は不意にそう言葉を紡ぐと、興味を喪ったかのようにぱっと手を離し、台の方向へ向き直ってしまった。
 その余りの変心振りに、お縞はぽかんと大口を開けた後、今度は照れと憤怒から来る赤で顔色を染める。
 そしてその心の中に浮んだ言葉を丁へと吐きかけようとしたところで、その膝元にぽとりと何かが丁から投げ渡された。
 今度は何だと目と肩を怒らして見てみれば、そこには二羽の鳥が掘られた簪。
 一体どういうことかと視線を丁へと戻してみると、そこには道具を箱へと仕舞い込む丁の姿があった。

「お前があばら家の中で俺に注文しただろう。簪を一本ってな」
「……それ、気が付いていたの」

 今度はさっきのとは違い、完全に意表を突かれた様子のお縞。どうやら丁にばれていないと思っていたらしい。
 しかしそこではたと、暗に自分が丁をだましていたと白状してしまった事に気が付いたお縞は、慌てて言い繕おうとあたふたし始めた。

「な、何を言っているんだか。わ、私が簪の注文なんかするわけが無いじゃないか。第一、こんなもの渡されたって、私は鐚銭一文たりとも」
「そういうのは良いって。それは俺からお縞にやるもんだ。業突く狸じゃなく、幼馴染の女へな。だからせめて今この時ばかりは、商人の顔は引っ込めてくれ」

 もう全部ばれているのだと観念したのか、お縞は肩から力を抜くと、投げ渡された簪を手に取った。
 出来上がった鵬の絵が彫り込まれた銀板が付いた簪は、流石に界隈随一と呼び声高い丁の作品。見事なものだった。

「ねえ、似合うかい?」

 御髪に貰った簪を差すと、丁に良く見える様にか少しだけ頭を傾げつつ、嬉しそうな笑顔でそれを見せるお縞。
 しかし丁は何処か納得行かない様子で、お縞の一部となった簪を眺めると、ぼそりと一言だけ口に出した。

「やっぱり似合わねえ」

 その丁の無遠慮な言葉に、あからさまに気分を害したのか、お縞は簪を引き抜いて丁へと叩き返した。

「態々私に似合わないのを嫌味で作ったってのかい!」
「痛ってえなぁ!今生の別れかもしれねえから、確りしたもの一から拵えてやりたかったのに、それを方々で今の今まで邪魔してたのはお前本人だろうが!」

 そこでお互いにハッと口を噤んでしまう。
 お縞は丁の口から飛び出てきた『今生の別れ』という言葉を耳にした所為で、丁は要らない事を怒りに任せて口に出してしまった事で。

「ちょ、ちょっと、どういうこと。今生の別れって……」

 擦り寄って問い質してくるお縞に、丁は苛立たしげに後頭部をがりがりと掻く。
 それはこれから丁が言うであろう事は、お縞には言う心算がなかった事を如実に表している。

「ここじゃもう商売にならないからな、修行も兼ねて他へ行くんだよ」

 その言葉に、お縞は行き成り横っ面を叩かれたような表情を浮かべた。

「修行って?だってさ、界隈随一って言われているじゃないか。それじゃあ不満なの?」
「たかが一商人の袖の下だけで、方々に早々と切捨てられる程度の腕しかないのはお前の知っての通りだよ。俺の親方だったらこうはならない。お前との付き合いで得られる金子より、親方と繋がっていた方が金子だけではない実入も含めて商いに役立つからな」

 この丁の言葉は、何時も下町職人然とした彼らしからぬものだった。
 それは商人の息子で十まで丁稚の真似をさせられた事で染み付いた、拭いきれない何かがお縞と相対して表面に滲み出てきたのだろうか、それとも先ほどの丁がお縞に告げた通りに、この時だけはお縞を幼馴染として扱っているからなのだろうか。
 それは丁の胸の中にある事なので、対面に座っているお縞ですら判らない。
 
「お金が無いなら貸してあげるよ。丁は幼馴染だから、利子はウンと負けてあげるからさ」
「そういう問題じゃない。第一、今俺の懐には旅支度でかなりの金子がある。他の町で職人を小さく始められる程度にはな」

 もう丁の中ではこの町を出て行くのは決まったことなのか、お縞の言葉に取り付く島の無い様子の丁。

「もう意地悪は止めるよ。材料の値も元に戻すから、だからここに居てよ」
「はぁ……俺は簪一本作るのに、態々お前のお伺いが必要なのか?そんな息が詰まりそうな所には居たくない」

 言いたいことは他に無いかと目で訴える丁に、一体何をどう言ったら丁は思いとどまってくれるのかと頭を捻るお縞。しかしいい考えが思い浮かばない。
 無いのならと呟いた丁は立ち上がると、道具箱を旅行李の中に仕舞い始めたのを皮切りに、どんどんと旅支度を進めていく。
 その丁の様子に思わず項垂れたお縞の目に、畳の上で光を照り返す銀の簪があった。
 もう何も考え付かなかったお縞は、何かに突き動かされるようにその簪を手に持ち立ち上がる。

「出て行くと言ったのを取り消して。でないと――」
「でないと俺がくれてやったその簪で俺を刺し、無理矢理息の掛かった病院に連れて行き、高い治療費を暴利で貸し付けて、借金で俺を縛るとでも言う心算か?業突く張りな狸らしい卑劣な手だな」

 先ほどまでは少しは温かみのあった、丁のお縞へ向ける視線の温度が急速に冷えていく。
 その視線の冷たさがお縞の手にある簪にも伝わったのか、冷たい鉄を握った者がそうする様に、慌ててその手の中から簪を離した。
 なんでこんな事をしようとしたのか混乱するお縞を尻目に、もうすっかりと旅支度を済ませた丁は、彼女の横を通り過ぎようとして、ふと思い出した様に近くにあった神棚に丁は手を伸ばす。
 そこにはお縞が一番最初に丁への注文を辞めさせた、あの番頭が残した金子が乗っていた。
 呆然と丁を見ているお縞を無視し金子を懐に収めた丁は、草履を履こうと腰下ろす。
 あの草履を履いてしまったら丁ともう二度と会えなくなると鈍った頭でも判ったのか、お縞はよろよろと危ない足取りで丁へ近づくと、その背中に抱きついてきつく抱きしめてきた。

「離せお縞」
「いや……」

 お縞から丁の表情を見ることは出来ないが、その声は怒りを含んでいるのか硬く重い。
 その丁の声色にじんわりとお縞の目に涙が浮ぶが、それは前を向いている丁の目には入らない。

「離せって言ったぞ」
「やだー!丁ちゃんが居なくなるのもう嫌なの!だから行かないで〜!!」

 目から涙を流しつつ、そう丁の背中に縋りついて咽び泣きながら告げたお縞の言葉を受けて、丁の草履を履く手が止まる。

「謝るから。今まで意地悪してたのも、お仕事の邪魔してたのも謝るから。だからだから、お願い。出て行くって言わないでー!」

 お縞が滂沱の涙を流しているのが濡れた背中越しに判ったからか、丁の手から草履が離れた。そしてお縞を背中から無理矢理剥がす。 
 縋り付いていた背から力ずくで剥がされ、より一層心細くなったのか、お縞の目から流れる涙の量と口から出る嗚咽の頻度が増える。
 丁はそんなお縞を無視して出て行くかと思いきや、一転してお縞に向き直るとその懐の内に、ぐしゅぐしゅに顔を濡らしたお縞を抱き寄せた。

「漸く昔の泣き虫お縞に戻ったな」
「御免なさい、御免なさい……」
「判った判った。昔みたいに俺の胸なら貸してやるから」

 ぽんぽんと丁に優しく背を叩かれながら、血も涙も無いとこの界隈で言われているお縞は、何時振りかにお縞は彼の胸の中で大泣きに泣いた。
 


 お縞が落ち着くのを待ってから、丁は畳みの上で向かい合ってお縞に色々と今までのこと――あくどい商いをしていた事や丁への嫌がらせの意味を尋ねた。
 その疑問を幾つか聴いていたお縞は、非常に言いにくそうな顔つき――もっと言うなら、素直に言って丁に嫌われやしないかと怯えた表情をしつつ、その疑問に答えていく。

「金貸しをしていたのは、お母さんが手っ取り早く金を増やすなら金貸しが一番良いって。物の売り買いをしないから損が出にくいし、確りと利子だけでも回収さえすれば、必ず利益が出る職業だって」
「それで金貸しを始めたのか。だが方々に金蒔いたり、恨みを買ったりと忙しい様子だったが?」
「だって、私の事を歳若い女だからって甘く見る人が多いんだもの。そういう人をちょっと懲らしめてやろうと色々したら、噂が噂を読んじゃって。そしたら引っ込みが付かなくなって……」

 お縞の言う事には当初はそれを払拭しようとしたらしいが、ある時からは皆が望むなら寧ろ絵に描いたような悪徳金貸し屋になってやろうと躍起になってしまったらしい。
 決意する方向を間違っているのではと考えずには居られないが、しかしそれが成功して町の小さな金貸し屋から、両替商という皆が恐れる大商いの女将へと数年でのし上ったのだと言うのだから、恐るべきは刑部狸の溢れるほどの商才と言った所か。

「お縞。お前の苦労は良く判ったが、それが如何して俺の仕事の邪魔に繋がる?」

 方向性は別にして商いは大成功しているのだから、町の飾職人一人を陥れるために大枚を費やすなどという行為をするなど、むしろ商いの邪魔にしかならないのではないのだろうか。
 そもそも丁の仕事は、直接的にお縞の金貸し業には関係していないのだから、丁を陥れてもお縞には実入りが一つも無いのだから、丁でなくても疑問で首を捻るのは致し方の無い事。

「だってさ、私が金を貸し付けようにも丁ちゃん堅実に仕事して稼ぐし」
「あたぼうよ。こちとら家をおん出ても商人の子、食うに困らない程度の金はきっちりと稼ぐ。って、俺の仕事の邪魔と関係ないんじゃないか?」
「それは兎も角、こうなったら一生楽できる程度の金を稼ごうと決意して、寄り一層商売に力を入れたのだけど、ふと丁ちゃんが仕事のしすぎじゃないかって言う噂を聞いたの」
「まあ仕事優先だってのは否定はせんわな」
「それでね、丁ちゃんが良く行くって言う飯屋――直ぐそこのあそこに行って、丁ちゃんの好みを調べがてら普段どんな物を食べているのか聴いてみたの」

 それで仕事のある時に丁がぶっかけ飯しか頼まない事を知ったお縞が、このままでは丁が体を壊すと心配し、丁の大変そうな仕事を減らして日を作り、その時に手料理を持ってくるか飯屋にでも連れ出して、たんと栄養を付けさせてやろうかと思ったのだと。
 ちなみにお縞と丁が飯屋で出会ったあの時が、丁度お縞が店の主人に丁の事を尋ねた日だったのだそうだ。

「それで俺の一番大変そうな仕事を依頼していた中洲屋さんに、その仕事を他に回すようにって賂積んで頼んだら、噂が広まり俺の仕事が無くなったと」

 流石に中洲屋さんも大商いの部類に入る商屋。金子を町中に回す役目の両替商に楯突く恐ろしさを知っているし、あくどい商いをするお縞の事も知っていたのだろう、取引する間柄の商屋に損が出ないように、瞬く間に『お縞があの飾職人を狙っているらしい。手を引いて様子を見ろ』とでも広めたに違いない。
 もし自分が中洲屋番頭ならそうすると、丁はそう心の中で呟いた。

「いやでも待て、飯屋で出くわしたあの時『銭の偉大さが判るようになる』とか言ってなかったか?」
「どうせ丁ちゃんにご飯食べさせるなら、仕事に空きが出来て暇を持て余した頃に丁ちゃん家に呼んでさ、日頃食べられない珍しい食材用意して、一流の板前に調理してもらって、そりゃもう豪勢な食事をさせて上げる心算だったの。そこで私が丁ちゃんに言うのさ『どうだこんな料理食べた事あるまい。銭の偉大さが判っただろう!』って。そして私は丁ちゃんに、これからは毎日こんな食事をさせて上げるって言うの。そうしたら丁ちゃんが……」

 その計画を話す最中に妄想の世界に旅立ってしまったお縞は放って置いて、丁はそのお縞の話に一応はなるほどと頷いた。
 お縞の立てた計画では、丁が一日二日ばかり仕事をしなくて良い日が出来れば良かったのだろう。しかしお縞は自分が周りに与える影響を念頭に入れるのを忘れたようで、その計画通りに仕事が無くなくなり暇にはなったが、それが行き過ぎてしまったのだろう。
 まったく迷惑な話である。

「それで俺が残りの仕事に傾倒するのも思惑とは違ったし、全く仕事がなくなった俺に周りの住人が飯を分けてくれるのも予定外だったわけだ」
「誘おうとすると何時も誰かからご飯貰っているんだもん。そんな中で連れ出そうものなら、丁ちゃん怒るだろうし……」
「あたりまえだ。他人の施しを蔑ろにする奴は畜生以下よ」

 ふんすと鼻息を荒く吐く丁に、本当にしなくて良かったと胸を撫で下ろすお縞。
 話を戻して、何時までたっても周りの人からの施しが耐えないし、飯を食べたら仕事を探しに方々駆け回る丁を見たお縞は、仕方無しに計画の変更を決意した。
 今度は仕事を出来なくしてから、丁に材料費の高騰から来る金子の不足に漬け込んで借金を背負わせれば、それこそ銭の力で丁を縛りつけて、ゆくゆくは――と考えたお縞だったのだが、またその計画は上手くはいかなかった。
 元々その仕事が無いのだ。仕事が無ければ材料を買う必要も無い。つまりは何時までたっても丁が金を借り入れる事は無い。
 そしてなまじ仕事が丁に舞い込んだとしても、材料を買うための虎の子の金子がまだその懐に有った。
 それを刈り取りさらに借金を上乗せするために、全ての材料費の値上げを全ての材料商に打診するわけにはいかない。それこそ金子が幾ら有っても足りるものではない。
 しかし丁にだけ材料費を値上げするよう頼むと、他の飾職人から丁が手に入れるかもしれない。
 そこでお縞は考え付いた。ならば丁が作る物を限定すれば良いと。そしてその後でその材料になるものにだけ値上げするようにと頼めば、金子も少なくて済むし、確実に丁を追い込む事が出来ると考えたのだった。
 そして情報を集め、一組の役人侍の夫婦が近く湯治に出掛ける予定がある事を掴むと、その侍に変化しついでにあばら家を店に見せかけて、丁へ簪の依頼をする事がまんまと出来たのだった。
 そこで計画は最終段階へと移る。
 この町では無理だと判断し、隣町へと材料を求めて繰り出した丁が失意の元に家に返れば、どうにか金を工面しようと家中の売れる物を売ってそれなりの金子を得るだろう。
 しかし材料商の簪の材料の値上げは、丁の懐にある金子の倍の値に据え置くようにお縞が働きかけて、手に入れさせない。
 もう駄目かと丁が諦めかけたそこで、今まで見落としていた一つの材料商――無論お縞が化かして作った店だ――に丁が出会い、そこでギリギリ足りない程度の値を丁へ教え、足りない分はまた持ってくれば良いと、少ない借金額が書かれた証文へ名前を書かせ拇印を押させる。
 そして仕事場へと帰る丁を見送った後にお縞が変化を解けば、そこには空き家とお縞の手には丁の名前と拇印以外は何も書かれてない証文が一枚。あとはその証文に、丁が一生働いても返せそうも無い金額を書き込む。
 そして丁が簪を拵え終えても納める先は無く、まるっと懐の物を吐き出して路頭に迷う寸前の丁の元に、お縞が大金の借り入れを丁がしたという内容の証文を持って現れ、あわれ丁の頭の天辺から足のつま先までの身柄はお縞の物に。
 今日この日で丁が町から出ると言い出したために破綻したのは、そんな筋書きの計画だったらしい。
 
「よくもまあそんな事にまで知恵が回るな」
「そんなに褒めないで」
「いや、褒めちゃいねーよ」
 
 実際に計画の半分まで――しかもその計画の中には無い、丁が親方の助力を得ていたのにもかかわらず、町を捨てる所にまで追い込まれてしまった丁は、馬鹿げた計画だと笑うに笑えない。

「しかし何でそんなに回りくどい事をしたんだ?賭場に偽造した証文渡して取り立ててもらうなり、誰かを雇って町中で俺が何かをしくじって借金負うように仕向けても良いだろう」
「それじゃあ、丁ちゃんの体が危ないじゃない……」

 身が危ないというのなら話がわかるが、体が危ないとはこれいかに。まさか妖怪に手篭めにされる心配があるのだろうか。
 確かに賭場の取り立てや、町中の荒事を頼むのならばアカオニが適任ではあるが……
 しかし丁は単なる言い間違いだと思ったようで、話を流してしまった。

「金が勿体無いだろうって話だ。そんなにぽんぽんと袖の下使うなんてな」
「だって、そのぉ……」

 そこで突如ごにょごにょと言いよどむお縞。
 一体今更何を言いよどむ事があるのかと、お縞を急き立ててつつも、丁ははっきりとお縞が言葉を口に出すのを待った。

「もう!だから、私たち刑部狸はこんな愛し方しか知らないって言ってんの!愛する人を借金塗れにして縛り付けるか、相手の商売を家ごと金子で乗っ取るとかしてから、愛する人を骨抜きにする事しか知らないの!」
「はあ?いや、うん……はぁ?」

 最初の丁の「はあ?」は、刑部狸の愛し方が人間のそれとは全く違っていた事に対する困惑によるもの。
 二度目の「はぁ?」は、そんな愛し方を向けた先が自分であった事に対する戸惑いによるものである。

「そもそも何で家を出ちゃったの?そんなに親父さんに扱き使われたのが嫌だったの?それとも家の商いに不満があった?」
「なんじゃそりゃ。何時俺がそんなこと言った?いやその前にちょっと待て、混乱してっから」

 丁は何か行き成り大変な事になったのに対して、額に手を当てて今の状況を整理する。

「一先ずお縞が俺の事が好きだと聴いたことは置いて」
「置いちゃうの?」
「一先ずだ、一先ず!」

 悲しげに丁を見つめるお縞を手で制しながら丁はそう大声を出した。
 とりあえずお縞は丁が愛の告白を聞いてくれていたと判ったからか、一先ず引き下がるようだ。

「別に家を出たのは、親に丁稚の真似事で扱き使われたからとか、お縞の実家に不満があった訳じゃない。特にお縞のお母さんには良くしてもらったしな」
「じゃあ何で出たの?」
「飾職の仕事に魅せられたって言うのが本当の所だ。親は俺の商才を信じて、商人にしたいみたいだったから、飾職人になるには家を出るしかなかったんだよ。しかし飾職に魅せられた元を正せば――」

 そこで言葉を切った丁は、腕を上げてある一点を指差した。
 その指の先にはお縞の顔がある。

「お前だよ、お縞」
「わ、私?……なにか丁ちゃんの癇に障ることした?」

 お前の所為だと指差されて言われたお縞は、思わず瞳を潤ませてしまう。
 
「ああもう、覚えていないか、昔に俺が小遣いで買ってやった竹串の簪」

 丁が慌ててながら弁明した内容。それは二人が本当にまだ幼い頃、祭りの夜店で丁がねだるお縞に買ってやったものの話。
 今の丁にしてみれば、それは素人芸以下の出来栄えの――それこそ竹串に丸く薄い板をつけただけという、子供相手の詐欺紛いな酷い出来な一品。
 
「だけど受け取って『ありがとう』って涙目で言うや否や、お前は嬉しそうに髪に差して、そこから祭りが終わるまで引っ切り無しに聞いて来るんだ。『ねえ丁ちゃん。似合う?』ってな」
「そんな事あったかな?」
「あったさ。無けりゃ俺が飾職になろうとは思っちゃいない」

 その時に幼い丁は知ったのだ。
 同じありがとうでも、商いの手伝いで親や他の商人からありがとうと手間賃を渡されるのと、何かを誰かに贈りその誰かにありがとうと笑顔を向けられるのの違いに。
 そしてどちらに丁が寄り惹かれたかは、いま丁がやっている仕事や彼の気質を知っていれば、語るには及ぶまい。

「じゃあさ。丁ちゃんはその時、私の事好きだった?」
「い、行き成り何を言い出すのかと思えば」
「ねぇ、どうなの?」

 突然の触れがたい話題に踏み込んできたお縞。さらに追い討ちをかけるように丁に近づいたお縞は、そのまま丁の胸板へとしな垂れかかった。
 そのときふわりと香しい、甘くさわやかさのある匂いがお縞から発せられ、それが丁の鼻腔をくすぐった。

「き、嫌いじゃなかった……」
「聞こえなかったなぁ。もう一度言ってみて」

 胸板に頬を擦りつけながら、お縞は丁を逃さないようにするためにか、腕をぐるりと丁の背後へと回し、そして自分の方へと引き寄せる。
 
「ああもう判ったよ。好きだった!将来は夫婦になるのも良いなって思ってたよ!」
「好きなのは過去の事?今は好きじゃないの?」
「それはだな……」

 何時もハキハキしている丁にしては珍しく言葉を濁した。
 それが気に入らないのか、お縞は寄り一層体を引き寄せ、更には自分の体を丁へと押し付けるように密着させる。

「どうしたの?やっぱり業突く張りの金貸し狸は嫌い?」
「嫌いだ――いや嫌いだった。昔のお縞じゃなくなったみたいでな」
「それじゃあ今は?」
「それだが。前々からお縞に好いた男が出来たのなら、飾物の一つもくれてやろうとは決めていたが、それは相手が俺の事だとは知らなかった事だしな。事ここに到っては、自分の事ながら一体お縞をどう思っているのか見当が付かない」
「そうなんだ……」

 少なくとも丁に嫌われてはいない事が判っただけでも安心したのか、そのままお縞はうっとりと目を細ませながら、幸せそうに丁の胸板に顔を埋めていた。
 そんなお縞の様子を受けて、丁は引き剥がすかそれともこのままにしておくか迷ったようだったが、まあ減るものではないしとお縞にさせるがままにさせつつ、その後頭部を優しげに――昔に幼い彼女へ丁がそうしたように、柔らかく撫でてやった。



 とまあここで終われば刑部狸と飾職の男の恋物語がきれいなままで終わるのだが、しかし妖怪と男が引っ付いたままで時を過ごせばそうは成らないのが御定法というもの。
 それに愛する殿方を腕の内に入れた妖怪がどうするかなど、火を見るより明らかである。

「はぁー……はぁー……丁ちゃんの匂い」
「ちょ、テメエお縞、なに発情してやがる!離れやがれ!」
「ぜーったいに離さない」

 そのまま畳の上に両者共に転がると、丁を下にお縞が上に乗る形となった。
 
「御免ね丁ちゃん。丁ちゃんとの初夜に向けて私の家に色々と用意していたのに、今日は持ってきてないんだ」
「謝るぐれぇならすんな、止めろ!」
「安心して。初めてでも妖怪はそこらの夜鷹よりは上手に出来るって、お母さんも言ってたから。ちゃんと丁ちゃんを骨抜きにして上げられるから」
「女将さん何を娘に教えているんですかー!つーか、骨抜きにされてたまるか!」

 ぎったんばったんと畳の上で跳ね回る丁に、それに膠でくっ付けたのかと疑うほどにぴったりとくっ付き離れないお縞。

「ねえ丁ちゃん。私金貸しで大金稼いだから、店を畳んで二人で何処か静かな所へ引っ越して、じっくりと昼夜問わずに愛し合おうよ。子供は何人が良い?私は沢山欲しいな」
「止めろつってんだろうが、この淫乱狸!俺はまだ飾職を続けるんだー!」

 とまあこんな感じで、近隣住人も痴話喧嘩に時間を割くのが惜しいのか、だれも二人のこんな奇行を止める事は無く、天に輝くお天道様は静かに傾いていくのでした。


    ちゃんちゃん。

12/02/18 19:32更新 / 中文字
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■作者メッセージ

関西弁を操る狸の中、江戸の下町言葉を使う狸がいても良い。
自由とはそう言うものだ。

もうちょっとだけ続くよ!

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