連載小説
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その1
 
 ―炎と言うのは人間の生活に不可欠なものだ。
 
 炎が無ければ、人は満足に何かを造り出す事が出来ない。鉄も土も、そのままでは利用しづらいものだ。それを使いやすいように加工するために人は炎の力を借り受けてきたのである。今の高度化した経済や社会でもそれは変わらない。炎が無ければ彼らの社会は途端に成り立たなくなってしまうだろう。
 
 ―…だが、同時に他に何も出来ないものでもあるのだ。
 
 確かに炎は激しい。他の四つの元素の中でも飛びぬけて大きな力を持っていると言えるかもしれない。破壊力と言う面では他の元素とは比べ物にならない力を発揮するだろう。だが…それだけだ。炎そのものは何かを燃やし、破壊するだけの力しか持たない。それを加工に使うのは人の英知であり、人の技であるのだ。炎そのものが何かを生み出す訳ではない。
 
 ―…まぁ、つまる所…その炎の精霊である私に出来る事は殆ど無いと言うことだ。
 
 「…どうした?」
 「…なんでもないよ」
 
 ―振り返ってこちらを振り向いたのは浅黒い肌をしたエキゾチックな雰囲気を持つ男であった。
 
 日射避けの灰色のターバンを巻いた頭からは砂漠の民独特の金の髪が流れ落ちている。月の光に照らされた砂丘のように美しいその色は見るものの目を引くものだろう。そして、その下にあるのは月のように透き通った金色の瞳だ。砂漠でも滅多に見られない透き通ったその色は何処か満月を彷彿とさせるものである。見ているだけで引き込まれ、魂を吸い上げられていくようなそれに今までどれだけの女が犠牲になった事か。
 
 ―…まぁ…確かに美形なんだけれどさ。
 
 砂漠民らしい浅黒い肌に金の瞳と金の髪。それらを調和させる顔立ちはとても男らしく、彼の持つエキゾチックな雰囲気をさらに大きなモノにしている。キリッと上がった目筋も整っていて、鼻筋もピンと突き出て美しい。肌の色に負けないほど真っ赤な唇の色は艶やかで彼に大きなアクセントを与えていた。それらが高いレベルで調和し合い、絶世の美男子と言う程ではないが、中々、類を見ない程度には美形な顔立ちを作り出している。
 
 ―その上…体付きもねぇ…。
 
 ターバンと同じ灰色のローブを纏っているが、その上からでも体付きがはっきりと分かるものであった。しっかりと鍛えられ、引き締まった筋肉の群れ。実用に特化した筋肉は彼の身体を決して大きく見せるものではない。しかし、細身の体付きの中に確かな力が篭められているのを感じさせる。それが独特の魅力となって、また人間の女を惹くのだろう。
 
 「…はぁ」
 「…??」
 
 ―それが私にはどうしても気に入らない。
 
 前述の通り私は炎の精霊だ。この世界における炎の力を司り、その一部を行使する事の出来る存在である。そして彼――私の心をざわつかせる美男子様は私と契約した精霊使いだ。その絆は断ち切り難く、婚姻よりも強い物で結ばれているという確信がある。だが…それだけだ。肉体を持たない私にはどれだけ強い絆で結ばれようともそれが限度なのである。
 
 ―…そう。私は結局、人じゃない。
 
 彼――ディルクのように四肢も無く、頭も無い。ただ、宙に浮かぶおぼろげな炎の塊。それが私である。彼に愛を囁かれる資格も何もない。それどころディルクに触れることも触れてもらうことも出来ないちっぽけな存在。それが私であるのだ。
 
 「…さっきから溜め息ばかり吐いてどうしたんだ?」
 「うぅ…」
 
 ―結局の所、この感情は嫉妬なのだろう。
 
 私には彼と強い絆で結ばれているという自負がある。それはディルクがどれだけ女遊びをしようと断ち切れるものではない。彼がこの世を去るまで永遠に続く事を確約された唯一無二の物だ。だが、それでも私の心はざわついて止まらない。彼が私ではない女に一晩限りの愛を囁く度に、彼が私ではない女を悦ばせる度に、無い筈の胸が痛んで止まらないのだ。私もそんな風に愛して欲しいと、そんな風に愛を囁いて欲しいと、そんな欲望が湧き出てしまう。
 
 ―でも…それはきっとディルクの重荷になってしまう。
 
 ディルクは砂漠の民らしく束縛させるのをとても嫌う。どれだけ愛を囁いた相手であっても一晩経てば、その元からあっさりと旅立ってしまうのだ。それでどれだけ女が泣いてもディルクの足は止まらない。元々、一晩限りの相手であると割り切っているのだ。そんな姿を間近で何度も見てきた私には、今の感情を正直に彼に打ち明けるのは到底、出来るものではない。
 
 ―勿論…私は一晩限りの女とは違ってそう簡単に離れられるものじゃないけれど…さ。
 
 精霊と精霊使いとの契約はとても強固なものだ。破ろうと思っても破り捨てる事など出来ない。いっそ呪いにも近いそれは文字通り一生、私たちに着いて回るだろう。だが、だからこそ、私は彼の重荷になりたくは無かった。一生、傍に寄り添う相手だからこそディルクには気兼ねなく私に接して欲しいのである。
 
 ―だから……私は…。
 
 「…なんでもない」
 「…なんでもないってお前な…」
 
 私の答えに呆れたようにディルクが言い返した。それも当然だろう。私だって何度もこれ見よがしに溜め息を疲れた末に何でも無いと繰り返されたら呆れる。そんなに落ち込んだ姿を見せて、何でもないと言われて信じられるものか。そう言うかもしれない。
 
 ―…あぁ、ホント…不器用だね…。
 
 以前、出会った水の精霊であれば、適当な悩みをでっち上げて契約者の心を満足させるかもしれない。それだけの器用さと強かさ、そして何より知恵があの水の精霊にはあった。だからこそ、そんな彼女が契約者を見る時の様々な感情の混ざった視線が怖かったのだが――いや、それはさておき。ともあれ、反射的に答えたそれは余りにも稚拙であると言わざるを得ないだろう。実際、ディルクが私の方を完全に振り返っているのだから。
 
 「この前からずっとそうだったじゃないか。何を落ち込んでるのか知らないが、俺にも話せないのか?」
 
 ―…話せるものであれば話したいよ。
 
 だけど、恋人でもなんでもない相手に「女遊びを止めてくれ」と言われて、ディルクが止める訳がない。そもそもその理由すらないのだから当然だろう。私が勝手に嫉妬しているだけで迷惑を掛けている訳ではないのだから。それに…彼も男だ。こうして旅をしている最中に性欲だって溜まる。それを発散する事くらいは多めに見るべきだろう。私だってその事くらいは理解できているのだ。
 
 ―でも…理解出来ても心が痛いよ…。
 
 私は彼と契約するほどに強い信頼を置いている。…いや、いたと言うべきか。今の私はもうそれだけでは収まらない感情を覚え始めているのだ。かつて出会ったあの水の精霊曰く、恋であるそれは最早、信頼とは大きく切り離されたものと化している。ディルクを独占したいと言う独占欲さえ湧き上がらせるそれを私は持て余していた。
 
 「…ごめん」
 「そうか…」
 
 少しだけ時間を置いて答えた私にディルクもまた短く返してくれた。そこにはどうにも苦渋の色が浮かんでいるような気がする。容赦なく女の下を立つと言っても彼は決して冷血漢ではないのだ。いや、寧ろ砂漠の民らしくとても情熱的であると言っても良い。そんな彼が何年も身近にいる相手に突っぱねられて傷つかないはずが無いのだ。そんな事は私にだって分かっている。だけど…それでも今の私の悩みを打ち明けることは出来ない。それを打ち明ければもっと彼を追い込んでしまいかねないからだ。
 
 「そ、それよりそろそろ町が見えてくるんじゃないか?確か三日後には着くって言ってただろ?」
 
 私の所為で暗く落ち込んだ空気を吹き飛ばすように私は勤めて明るくそう言い放った。それにディルクが少しだけ笑みを浮かべてくれる。私の努力が実ったのか、はたまた付き合ってくれているだけなのか。私よりも遥かに嘘の上手い彼がどう思っているかは分からないけれど、ディルクが笑ってくれただけでも私には十分だ。トクンとまた無い筈の胸を脈打たせて、熱い感情を奥から沸き上がらせる。
 
 「そうだな。この街道もかなり開けたものになってきたし」
 
 そう言って彼が周囲を見渡せば、生い茂る緑の並木道が目に入っているはずだ。森の中に開かれた一本の大きな道は石畳でしっかりと舗装されている。馬車が三台は横に並んで走れそうな大きな道はそれだけこの先にある街が大きなものであると感じさせた。石畳の道は慣れなければ歩くのは辛いが、馬車であれば話は別である。脱輪したり、溝に嵌る心配は殆ど無く、安定した速度を出せるのだから。そして、馬車専用の道であるいっても過言ではない石畳がこれだけ整備されているという事は、これから向かう街は商業都市の名に相応しい大都会なのだろう。
 
 ―やれやれ…随分と遠くまで来たものだね。
 
 私とディルクは元々、南の辺境の砂漠に住んでいた。そこで人々は精霊――つまり火の精霊である私たちを信仰し、集落を作っていたのである。乾燥した砂漠という土地では教団の言う信仰よりもはっきりとした形で恵みを返す精霊信仰の方が適していたらしい。何度か教団の人間が布教しに来たが、それらは全て失敗していた。精霊や精霊使いを兵器として扱う教団や国と言う制度に強い反発を覚えていたのもきっと無関係ではないのだろう。
 
 ―それがこんな所まで来たのだから…感慨深い。
 
 だが、それは単純に喜ばしいものであると言い切ることの出来ない側面もまた持っているのだ。何せ…私たちがここまで足を進めてきたり理由は復讐であるのだから。私もディルクもその手を血に染める事を目的としてここまで足を進めてきたのである。
 
 ―…そもそも…帰る場所すら無いんだからね。
 
 私とディルクが住んでいた集落は精霊信仰の盛んな場所であった。それは身近に目に見える形で私たち火の精霊が存在していたからなのだろう。人々は私たちに祈りを捧げ、多くの感謝の念を送ってくれていた。私たちもそれに応え、日射を弱めたり、何も無い所から火を生み出して料理を手伝ったりしていたのである。その生活は砂漠だけあってとても厳しいものであった。だが、それでも…とても平和で穏やかな日々であったのである。
 
 ―だけど、それがいけなかった。
 
 私たちは布教しに来た人間の前まで不用意に姿を見せてしまっていたのだ。それがきっと教団の上の方まで話がいってしまったのであろう。精霊がいる場所として認識されたその集落に、教団は硬直化した魔王との戦況を打開する精霊使いを求めて侵攻してきたのだ。それは精霊使いがいればまだ防げたものであったのかもしれない。けれど、私たちは使う使われるという関係ではなく、ただ手を取り合って生活していただけなのだ。無論、精霊使いなどいるはずも無く、あっさりと村は占拠されてしまったのである。
 
 ―それから始まったのは脅迫であった。
 
 砂漠と言う火の元素の強い土地だけあって、そこには私以外の精霊が少なからず存在したのだ。精霊信仰の盛んなその集落は火の精霊にとってもとても居心地が良かったというのも無関係ではないのだろう。だが…結果としてはそれがいけなかったのだ。村の人々を人質にされた精霊達は無理矢理、契約させられていったのだから。残ったのは精霊の中でも殆ど何も出来ないような力の弱い固体だけ。
 
 ―そうして精霊を奪っていった教団の後に残されたのは絞り粕のような精霊と人間達だ。
 
 …結局の所、教団は精霊の信頼を勝ち取ることが出来なかったのである。いきなり攻め込んできた無礼な連中との契約を頑なに拒んだ精霊の代りに、仲介者として村の人間が何人か名乗りを上げたのだ。それは契約者になる選択でもあり…そして同時に戦争の道具に使われるも同然の選択であったのである。お陰で教団との戦闘は避ける事が出来たが、数多くの働き手が戦争の道具として連れて行かれることになり、村は一気に縮小する事になったのだ。祭事を行う司祭や村長まで連れて行かれた私たちは生活する術を殆ど持ってはいなかったのである。
 
 ―何せその集落での生活は良くも悪くも精霊頼みだったのだから。
 
 精霊が生活基盤まで入り込んでいる村から精霊を取上げられて上手く行く筈がない。何体かは残っていたが、その力は今までと比べられるものではなかった。どれだけ頑張っても日射一つ和らげることが出来なかったのである。さらに集落の仕事を取り仕切っていた村長や司祭、そして分業していた仕事の技術を持つ人々も契約者として連れて行かれたのと相まって、一人、また一人と死んで行き、集落は一気に滅亡の危機に瀕していたのだ。
 
 ―そしてある日…ディルクが尋ねてきた。
 
 子供たちが一人、また一人と死んでいく中で村長の子供であったディルクだけは生き残っていた。元々、生命力の強い子供であったのだろう。それでも頬が痩せこけ、今にも死にそうだったのを覚えている。そんな彼の様子を見て私たちは責められるのかと恐々としたものだ。集落がどんな状態かは私たちも良く把握していたのだから。
 
 ―だけど、彼が言い出したのは責める言葉などではなかった。
 
 ディルクはこの村の現状は教団の所為であると考えたらしい。そして…彼らに復讐したいと、地獄の業火で焼かれるような苦しみを味わわせてやりたいと懇願したのだ。その為には力が必要であると、力が欲しいと渇いた地面に額を擦り付けて。涙まで流して必死に繰り返す少年の姿に私たちは強く心打たれたのだ。どうせ私たちがここにいても出来る事は殆ど無い。ならば…この生き残った少年の願い一つくらいは叶えてやっても良いのではないか。私たちはそう思ったのである。
 
 ―そして、私たちは契約した。
 
 だが、絞り粕のような精霊がどれだけ集まった所で何か出来るはずが無い。火の元素が飛び抜けて強い土地であっても碌に何も出来ないからこそ連れて行かれなかったのだから。だが…私たちは根本的には魔力の塊であり、強い融和性を持つ。自我を棄てれば、他の個体に吸収される事もそう難しい事ではない。そうして私たちは自分を棄てて、文字通り『一つ』になったのだ。
 
 ―そうして私…オームと名乗る炎の精霊が生まれた。
 
 一人の少年の怒りに応えて生まれた存在。それが私だ。そして…私とディルクは教団に復讐するために旅に出たのである。殆どが死に絶えた集落を捨て、僅かな生き残りと共に。だが、それらも一人、また一人と脱落して、最後に残ったのはディルクだけ。私は…私たちは結局、誰も護れなかったのである。それはきっと彼にとってもとても悔しかったものなのだろう。ディルクはさらに怒りを滾らせて、過激なまでに教団への攻撃を開始した。
 
 ―幾つもの教会を焼き、何人もの要人も焼き殺した果てに何時しか私たちは別名で呼ばれるようになった。
 
 『パイロマニア』。放火魔を意味する言葉を当て嵌めたのはそれが私たちの殺害方法故だからだろう。彼の強い要望どおり私たちが焼き殺す時は常に火で、内側から、じっくりと、丹念に、しっかりと苦しませて殺すのだ。私の目の前で渇いて、飢えて、死んでいった者達の苦しみを少しでも味わわせるように。私だって…何も出来ずに目の前で死んでいった人々に対して強い無念と、そして怒りの感情を覚えていたのだ。
 
 ―だが、ある日、私たちはある精霊使いに止められてしまった。
 
 教団の要注意人物として指名手配される程にもなった私たちの前に両腕を失った男が立ち塞がったのである。水の精霊…いや、魔精霊を従えるその男は私たちとは比べ物にならない力で勝利した。手も足も出ない力量差に戦慄さえ覚えたが、その男はディルクを教団へと差し出さず、少しだけ言葉を交わしてその場を去っていったのである。
 
 「…オーム?」
 「え…あ…ごめん」
 
 そんな事を考えていれば何時の間にか白い――いや、夕日に染まっているので赤いと言うべきか――城壁が視界の中に入ってきた。煉瓦を幾重にも重ね合わせて作り上げたその大きな壁はその街が大きな力を持っていることを誇示しているようにも感じる。山間の街道を幾重にも通すこの街は文字通り交通の要所に当たるのだ。恐らくこの街では昔から交通権を巡っての争いが絶えなかったのだろう。荘厳ゆえに歴史を感じさせるその城壁にそんな事を思った。
 
 ―…ここに何かあるのかねぇ…。
 
 私たちを破ったあの男はディルクにこの街に行けば良いと言っていた。それは罠かもしれないと私は何度も警告したが、彼は聞き入れてはくれなかったのである。きっと…ディルクも迷っているのだろう。このまま復讐の旅を続けて良いのか悪いのか。敗北から一度もその事に触れてはいないけれど、何時もより少し小さく見える彼の背中が何より如実にそう語っている。
 
 ―まぁ…私はディルクに何かがあれば全て焼き尽くすだけだけれど。
 
 それは自然の一部である精霊としては褒められるべき思考ではないのだろう。それは私も自覚していた。だが、彼の怒りを聞き届け、今の姿に変わった私にとってディルクこそが全てである。それ以外は塵芥にも等しい。それに…私は他の三つの属性とは違い、誰かを傷つけ、殺す事しか出来ない力だ。だからと言って、それを振るうのに躊躇していては結果として彼を傷つけるかもしれない。私にとってそれは自分の体が傷つくよりもよっぽど辛い出来事である。
 
 「そろそろ…検問が見えてきたな」
 
 ディルクの言葉に意識を前へと戻せば、私たちの目の前に大きな門が広がっていく。元々は凱旋門だったのだろうか。馬が縦に三つも並びそうな門は実用からは程遠いものだ。そんな大きな入り口の前に簡素な皮鎧を間接に身に着けた男達が立っている。皆一様に同じ皮鎧を身につけ、同じ制服を着込んでいるのだからきっと警備隊か何かなのだろう。腰に靡いた剣の柄に同じようなマークが刻んであるのもその印象を加速させる。
 
 「やれやれ。どうにも面倒そうだねぇ…」
 
 思わず呟いてしまうのは私たちの前に長い長い列が出来ているからだ。時刻は既に夕刻で日は沈みかけているのにも関わらず、である。夕日が照らす赤い街道には既に商人の姿はなかった。だからこそ、こうして遠慮なくディルクと会話しながら足を進められた訳だけれど…まぁ、それはともかく。そろそろ門が締まってもおかしくない時間帯だと言うのに長蛇の列はゆっくりとしか動いていないのだ。そんな列の後ろに着いてみたが、やはりのんびりゆったりとしか列は動いていない。
 
 「こりゃ…もう少し時間が掛かりそうだね…」
 「だなぁ…」
 
 そっと上から覗いてみれば、少なくとも数十組が足止めを喰らっているらしい。幾つかの商隊が連なりあっているのが見て取れる。見た目ほど長くはないが、それだけの人数が街の中に入るまでにどれだけの時間が掛かるのか。どれだけ早くても時間単位は浪費するだろう。
 
 「なんだお兄さん。ここは初めてかい?」
 
 その話し声が聞こえたのだろう。前へと立っていた一人の商人が振り返りながらそう言った。きっと行商人なのだろう。足腰がしっかりと鍛えられた身体に大きなリュックサックを背負っていた。その様はまだまだ若々しく、20代前半頃に見える。だが、行商人としてはしっかりとした経験を詰んでいるのだろう。話し出す彼の言葉は淀みなく、とても聞き取りやすいものであった。この僅かな発音一つでさえ、彼が商人としてかなりの域にある事を感じさせる。
 
 「ここは祭りの時期以外はほぼ名前の記入だけで良いんだがねぇ。どうやら最近、近くにやばい犯罪者が出たらしくてさ。そいつがここに来るかもしれないって色々、根堀り葉堀り聞かれるようになったんだよ」
 「へぇ…そうなんですか。怖いですね…」
 
 夏の青空のような澄んだ色を見せる髪と木陰のような何処か暖かみのある黒い瞳。それを人の良さそうな顔に浮かべる男はペラペラと話し出した。それにディルクはなんともなさそうに返しているが、その犯罪者はきっと――と言うか間違いなく私たちである。私たちの目的は教団だけであるとは言え、それを大々的に喧伝している訳ではない。教団の人間以外を巻き込んだ事はないし、一部の人間は気付いているだろうが、それが世間に浸透するのはもう少し先であろう。
 
 「っと、そう言えば、さっき誰かと会話してたみたいだけど…」
 
 キョロキョロと辺りを見渡す男の目には私の姿は入らない。魔力の塊である私にとって姿を隠すことなど造作もない事だ。人の身に宿る魔力が何色でもないように、元々の魔力はあくまで力であるのだから。その境界を少しばかり弄ってしまえば、一般の人間の目には留まらない。とは言え、魔力であると言う性質は変わらないので、魔術を齧ったものには見破られる可能性があるのだが。
 
 「あぁ、僕、精霊使いなんですよ」
 
 そんな男にディルクがにこりと人の良い笑みを浮かべた。ターバンの奥で微笑むその表情は非の打ち所が無いほどである。これが作り笑いであると見抜くのはよっぽど嘘の得意な人間か、或いは人の嘘を見抜くのが得意な人間でなければ無理だろう。傍から見ている私は本性を知っているので騙される事はないが、それでも時折、騙されそうになってしまうくらいなのだ。
 
 「精霊使い…あぁ、なるほど。だから、その格好も…」
 「えぇ。それっぽい格好でしょう?」
 
 冗談めかして言いながらディルクはそっとローブを広げた。その中にはあの砂漠で織られた衣服が着込まれている。彼の成長に合わせて何度か補修されたそれは今でもディルクの誇りの一部だ。わざわざ目立つこの衣装を常に着込み、復讐するくらいに。とは言え、そのエキゾチックな格好は一目で彼を普通の人間ではないという事を示しており、何度か護衛の依頼等を請け負う事もあった。基本的に路銀を稼ぐ手段を依頼と言う形に頼っている私たちにとってはこの格好自体が大きなメリットに働く事も少なくはなかったのである。
 
 「へぇ…それじゃあお兄さんの精霊は…」
 「風ですよ。それっぽいでしょう?」
 
 そう言いながら、ディルクはそっとローブを纏めた。それは無論、嘘である。遮るものの何も無い砂漠では風の精霊も少なからずいたが、私は炎の精霊の集合体だ。だが、私たちの話を知っているらしい、この男にそれを言ってしまえば下手な疑いを掛けられるかも知れない。そうなればこの街に入るの自体が難しくなってしまう。恐らくディルクはそう考えたのだろう。ここまで短くない付き合いを続けてきたのだ。その考えの全てとは言わなくても一部は感じ取ることが出来る。
 
 「風かー。良いねぇ。熱い日には風をびゅーっと吹かせてもらったりさぁ。船乗りとしても結構、良い感じなんじゃないか?」
 「はは。良く言われますね」
 
 ―そう。風はまだ幾つか使い道があるのだ。
 
 けれど、私の属性は何かを溶かし、傷つける事しか出来ない。砂漠であれば日射を和らげることが出来るが、それも風に比べれば汎用性が少なすぎる。これが鍛冶などの世界であればまた違ったかもしれないが、生憎、ディルクはそんな技術を持っていない。そして、彼と契約し、その力になりたいと望む私にはその暴力性しか差し出せるものがないのだ。
 
 「それじゃあ、暇潰しついでに何か派手な魔法の一つでも…」
 「あぁ、すみません。僕の精霊は恥ずかしがり屋でして…それに師匠から不必要な場合は使うなと厳命されているのですよ」
 
 それは半分が本当であり、半分が嘘の事だ。私が恥ずかしがり屋なのは本当だが、ディルクに師匠などはいない。全て独学で魔術を学んできたのである。ただ、精霊の力を不必要な場合は使うな――より正確に言うのであれば借りるな、と厳命されているのは本当だ。ただし、それは師匠ではなく、彼の父である首長だが。
 
 ―…ディルク…。
 
 それは断り文句として口に上らせただけで大した理由があった訳ではないのかもしれない。だが、私は彼がこうして生死も分からない父の言葉を引用するのに小さな痛みを覚えた。生きているのか死んでいるのかさえ分からない父親の言葉を思わず引いてくるくらい、彼は彼らの事を気にかけている。もう分かれて十年にもなるが、未だに消息不明のままの仲間達を。
 
 ―やっぱり…ディルクは……。
 
 きっとまだあの事件から――教団が攻めて来た日から抜け出せてはいないのだろう。その手を止めたとしても、その胸に宿る復讐の炎は今もきっと燃え続けている。それを何処に向ければいいのか分からず、悶々としているだけで教団を恨む気持ちがなくなった訳ではないのだろう。
 
 ―…私は…そんな彼に何をしてあげられるだろう…?
 
 本当は彼に道を示してあげたい。その激情全てを叩き付ける相手を見つけて、あの日から解き放ってあげたい。だが、私にさえ本当の敵は見えていないのだ。敵意を向けるべき相手はおぼろげな『教団』と言う大きな組織だけ。しかし、そんな連中に喧嘩を売っても力尽きてしまうのは間違いなくこちらだ。今は未だ顔も名前も割れていないが、何れはバレてしまうだろう。そして、バレてしまえば一巻の終わりだ。人員と言う面で圧倒的に勝る教団に磨り潰されて、消えてしまうだろう。
 
 ―…出来ればそれは避けてあげたいんだけど…。
 
 私は別にディルクと共に教団相手に玉砕しても構わない。ディルクと一緒であれば、何も怖くないし、私だって教団に怒りを抱いているのは同じだ。だが…彼には幸せになる権利があるだろう。こうして教団への復讐だけに一生を捧げていい男ではない。そもそも…復讐と言うのはスタート地点に立つ行為に過ぎないのだ。あの日から止まってしまった彼の時間を動かすためにそれは必要不可欠なだけである。何もかも始まっていないまま終わってしまうだなんて余りにも悲しすぎるではないだろうか。
 
 「そうか…。確かにそうだな。悪い事を言ってすまなかった」
 「いえ、気にしないで下さい。言われ慣れている事ですから」
 
 そう言ってディルクは頭を下げる男にそっと微笑んだ。それはさっきとは違い、何処か柔らかなものでのように見える。きっとそれは誤魔化す為の物ではなく本心からの笑顔なのだろう。自然に頭を下げて謝れる彼に、ディルクはきっと好感を抱いているのだ。
 
 ―確かに…騙すより騙される方が多そうな顔立ちをしているしねぇ…。
 
 人の良さそうなその顔立ちは商人らしからぬものだろう。こうしてディルクの嘘にも簡単に信じてしまう辺り、根本的に人が良いタイプなのだ。決して商人には向いていなさそうであるが、だからこそ、好感を抱ける相手に見える。
 
 「それより今度は僕の質問に付き合ってもらえませんか?」
 「お、良いとも。何が聞きたいんだ?お兄さんならスリーサイズでも答えてやるよ」
 
 そうケラケラと笑いながら、男は背負った大きなリュックを大きく揺らした。背負いなおしたその動作に大岩のような大きさのリュックがバランスが崩れそうになる。だが、それは彼にとっては想定の範囲内だったのだろう。すっと上手に腰を動かして軸を安定させた。慣れたその動作に彼の商人としての経験の深さを見てとれる。少なくとも駆け出しであれば、成人男性が二人が余裕では入れそうなリュックをこれだけ見事には扱えないだろう。
 
 「それじゃあ…僕達は南の砂漠地帯の方から来たんですが、貴方は何処から来たんです?」
 「あぁ、俺はこの近くの街出身でな。この街道とは別の道でこの街と繋がってる。今日は地元での商品をこっちへ納品しに来たって訳さ」
 
 「まぁ、こうして足止めを喰らってる訳なんだけれどな」とまた男は笑った。だが、その表情には何処か哀愁めいたものが漂っていたのが分かる。どうやらただ単純に商売の為だけにここに来た訳ではないようだ。そんな事を考えながら意識をディルクの方へとそっと向ける。しかし、彼は純朴な青年のような笑顔を浮かべたままで、深く突っ込もうとはしていなかった。
 
 「へぇ…この街以外にも大規模なものが?」
 「まぁ、ここほどでかくはないけれどな。この街を通って世界中に良質な鉄を送り出してた鉱山が始まりらしい。今はもう鉱物も殆ど掘りつくしたみたいだが、その間に培われた技術で何とか飯を食いつないでいる感じかね。ただ、ここよりさらに高い場所にあるから水も美味いし、酒も料理も悪くないぜ」
 
 故郷の事を語る青年の顔はキラキラと輝いているようにも見える。恐らく彼はそれだけ自分の故郷を誇りに思っているのだろう。だが、その表情には矢張り翳りのようなものが見え隠れするのだ。それが何なのか私には分からないが、彼に何か迷いがあるのだけは確かだろう。
 
 「そう言われると旅をする人間としてはどうしても気になりますね」
 「特に目的地の無い旅であれば、一度は足を運んでみても良いと思うぜ。損はさせねぇよ。まぁ、俺は殆どこの地方から出たことが無いんだけれどな」
 
 だが、それをディルクは口の端には上らせない。この青年に好感を抱いているのは確かだろうが、そこまで踏み込むつもりはないようだ。ならば、私が何か言うべきではない。ディルクの暇潰しに折角、付き合ってもらっているわけだし、大人しくしているのが良いだろう。
 
 「えぇ。この街を出れば、きっと寄らせていただきますね」
 「おう。まぁ、俺は歓迎は出来ないけれど、ゆっくりしていってくれ」
 「はい、是非とも。あ、それとこの街の事も聞いておきたいのですが…」
 「あぁ、そう言えばお兄さんはこの列に驚いてたっけかな。まぁ、まだまだ列が進みそうも無いし、構わないぜ」
 
 そう言って、青年はこの街の歴史を語りだす。元々は交通の要所だけあって支配権の奪い合いが絶えなかった事。ついこの間までは肉親同士でさえ争って骨肉の争いが続いていた事。それが今の領主に変わって、安定している事。また魔物の変化にもいち早く対応して、積極的に彼女らを受け入れたお陰で、近隣ではずば抜けて大きな経済力を誇っている事。そのお陰で教団にも狙われたが、奇跡とも言うべき逆転勝利を勝ち取った事。
 
 ―そして…その戦後処理でこの街の中に教団の教えが入り込んでいるという事。
 
 「…教団が?でも、彼らは魔物を敵視していると聞きますが…」
 
 ディルクの疑問も最もだろう。何せ教団の魔物嫌いはアレルギーとも言うべき域に達しているといっても良いくらいなのだから。教団と言う組織はその価値観に魔物は殺すべきであると刻み込まれている。そんな彼らが魔物を多く受け入れるこの街で火種にならないはずがない。軋轢を高める結果にもなりかねないと誰しもが思うだろう。
 
 「まぁ、そうだよな。ただ…それがここの領主の頭の違う所よ」
 「と言うと?」
 「つまりあいつらを受け入れる際にそのまま受け入れたんじゃなく、勝手に教義を書き換えたのさ」
 
 楽しそうに――本当に痛快そうに言いながら、青年はそっと聳え立つ城壁の向こう側を見つめた。最初の頃に比べればかなり近づいたその壁の向こうに何があるのかは分からない。だが、青年の真摯な目線は、その向こうに彼にとって何か大事なモノが移っているのを教えてくれた。
 
 「汝の隣人を愛せ。ただし、それには魔物も入る。汝、姦淫を犯すべからず。ただし、事後に結婚すれば問題ない…なんて形でな」
 
 そう青年は冗談めかして言うが、それがどれだけ難しい事か。戦争後のお互いに敏感な時期にそんな事をすればまた大きな火種になってしまう。何せここまで教義が変われば、勝手に新しい宗教を作ったも同然なのだから。教団のトップの連中からすれば、面子を汚された事に他ならない。それはそのまま戦争になってもおかしくない程の大きなシコリであっただろう。
 
 ―だけど、彼の口ぶりからは戦争になったようなものは見て取れない。
 
 恐らく深く静かに侵食は始まっていたのだろう。教団の元に報告が届いた頃には最早、手遅れなくらいに。そうでなければ、あの連中が看過するとは思えない。それだけでなく、水面下での様々なやりとりがあり、こうして親魔物領における教団と言う歪なものが出来上がったのだろう。それは勿論、主導する指導者の手腕が人並みであれば不可能な事業だ。
 
 ―やれやれ…一体、どんな魔法を使ったのだか。
 
 私たちが今まで始末してきた教団の権力者は大物小物と様々であるが、どれも頭の固い老害とも言うべき存在であった。私腹を肥やし、富を集め、聖職者からは程遠い連中。無論、教団所属する人間全てがそうとは言わない。だが、私たちが出会ってきたのはそんな殺しても良心の痛まないような悪人ばかりだったのである。その印象からしてもここの領主がやったことは、並大抵の事ではない。まだ犬に掛け算を教えるほうが幾分、マシだと思えるような奇跡であるのだ。
 
 「まぁ、そんな訳で俺もそこの信者なんだけれどな。どうよ。お兄さんもちょっと入信していかないか?」
 
 まるで喫茶店のように軽く誘ってくる青年に、ディルクは少しだけ困ったような色が浮かべた。恐らくどう返して良いのか分からないのだろう。そもそもディルクは教団に復讐するためにこうして旅を続けていたのだから。例えその形を殆ど様変わりさせたとしても、教団と言う言葉そのものが彼にとっては敵意の対象になっているのだ。
 
 ―でも…その中にもきっと迷うような気持ちがある。
 
 人の心もまた一枚岩ではない。特に今のディルクはあの精霊使いとの戦闘から目に見えて迷っているのだ。殲滅か諦念か。どちらにも着く事が出来ず、心を揺らしているのが分かる。そんな状態で持ちかけられた思いも寄らない誘いに、ディルクは強い困惑を覚えているのだ。
 
 「あ、いや…俺は…」
 「まぁ、いきなり誘われても困るよな。でも、悪くは無いんだぜ。シスターも美人だしよ」
 
 思わず素の自分を半分覗かせながら口を開いたディルクの言葉を青年が遮った。どうやら本気で勧誘していたわけではないらしい。ケラケラと下世話な台詞を口に上らせる。だが、そうは言いつつも彼が不純な気持ちで入信しているのではないのは分かった。何せ、そう言いながらも青年は大事な物を見るような目で壁の向こうを――きっとそこには教団の施設があるのだろう――を見ているのだから。
 
 「ま、興味があったら何時でも来てくれよ。城門前の大通りを真っ直ぐ行けば見えてくる小さな修道院が本部だから」
 「え、えぇ。また後でも顔を出させてもらいますね」
 
 そう曖昧に笑うディルクの頬を小さな汗が流れていった。季節はもう夏が終わり、秋も半分暮れてしまっている。寧ろ空気は肌寒いくらいで、普通は汗など流さないだろう。だが、彼の頬に伝って言った汗は決して幻などではない。きっとそんなものを浮かばせるくらい、今のディルクは精神的に追い詰められているのだ。
 
 ―…私は……。
 
 痛みを堪えているようなディルクの笑顔に思わず声が漏れそうになってしまう。だが、私自身、彼にどんな言葉を掛けるべきなのか分からないのだ。彼が苦しんでいるのに、それを解き解す言葉一つ見つからない。そんな不甲斐ない自分に怒りさえ沸いて来るが、どれだけ怒っても状況は変わってはくれなかった。
 
 「あぁ、楽しみに待ってるぜっと…どうやら次は俺の番みたいだな。暇潰しに付き合ってくれてありがとうよ」
 「いえ、こちらこそとても楽しめましたから」
 
 青年の言葉にディルクはそっと笑みを深くして答えた。それはまだ何処かぎこちないものではあったが、先ほどのような辛そうな表情は見えない。まだまだ克服できたわけではないだろうが、それに心を埋め尽くした訳でもないのだろう。そう思うと安心感と共に何も出来なかった事に対する無力感が湧き上がってきた。
 
 「んじゃ、お先に言ってくるぜ…っと」
 
 そう言って青年は踵を返して門前の検問所へと足を進めていく。そこは見るからに仮組みで作られたテントの下に机が並び、何人かの男達が座っている。その中の一つに青年は足を進めて、手馴れた様子で質問に答え始めた。この街で信仰されてる独自の宗教を内面化しているだけあって、質問に答えるのも慣れたものなのだろう。応対する警備隊員も世間話を交えながら、質問項目を埋めていた。その間にもう一人の団員が彼の荷物を受け取り、中身を軽くではあるが調べている。
 
 ―やっぱり…かなり厳重みたいだね…。
 
 普通はここまで厳重に荷物を調べたりはしないだろう。特にこのような交通と商売で食べているような街であれば特に。そんな事よりもどんどんと人を入れなければ商売も滞ってしまうのだから。商売において耳と動きの早さはそのまま武器にもなりかねない強力なものなのだ。それを滞らせるような検問は、見るからに商人が多いこの街では大きなデメリットとなってしまうだろう。
 
 ―それでもこれだけ厳重なんだからよっぽど警戒されてるって事なんだね…。
 
 それだけの事をやってきた自覚も覚悟もあったとは言え、目の前でこうして見せ付けられると心が締め付けられるような気分になる。自分達の行った出来事でどれだけの人が迷惑を被ってしまったのか。その中には数え切れないほど無関係な人間もいただろう。だが、それでも私たちは止まれない。…いや、止まれなかったと言うべきか。
 
 「次の者はこちらへ」
 
 そんな風に考え事をしているとついにディルクの番が回ってきたようだ。短くながらはっきりと告げられるその声に思わず心の中が引き締まった。だが、ここで萎縮するわけにはいかない。私の怯えは契約と言う形で繋がっているディルクにも伝わりかねないのだ。これからどんな事になるのかは分からないが、私さえ大人しくしていれば身元がバレる事はほぼ無い。ならば、私が変に心配する必要もないはずだ。
 
 ―だけど…なんなんだこの嫌な予感…。
 
 まるで夜の砂漠に吹く風が心の中に纏わりつくような独特の感覚。それがその短い声を聞いた瞬間から私の胸を支配していた。今にも背を向けて逃げ出したくなるような独特の圧迫感は初めて味わうものである。あの魔精霊使いと対峙していた時にも感じなかった危機感に私の心は押し潰されそうにさえなっていた。
 
 「…大丈夫だ」
 
 そんな私の気持ちが伝わったのだろう。ディルクはそう小さく言って、私に向かって微笑んでくれた。それは衆人環視という中で彼が取れる最大限の優しさであったのだろう。彼が精霊を連れていると警備隊に知られれば、足がついてしまう可能性もあるのだから。そんなギリギリの状況で短く告げられた言葉は大きなリスクを負うものだ。しかし、それにも関わらず、彼は私を安心させるためだけにそう言ってくれる。それが嬉しくて、炎のように燃え立つ身体がぼぅと膨れ上がってしまうのだ。
 
 「早くこちらへ。次が詰まっていますから」
 「あぁ、すみません」
 
 立ち止まって寄って来ないディルクに短く告げられる声。抑揚の殆ど感じられないそれにディルクは一つ謝りながら足を進めた。そのまま一番、奥まで行けば、ぽつんと一つ木製の椅子が空いている。どうやらそこがディルクの座る席のようだ。そう思っている内に彼はそっとそこへと腰掛け、相手の方へと視線を向ける。
 
 「それではまず名前と故郷。そして、来訪の目的をお願いします」
 
 まるで決められた事しか話さないように冷たい言葉を向ける相手はまるで狐のような顔をしていた。面長細目でひょろりとした体付きをしている彼は他の連中とは比べ物にならない独特の雰囲気を持っている。恐らくニ十代から三十代頃の働き盛りなのだろう。こんな現場に出ているという事は地位は高いわけではないだろうが、それでもこの男が只者でない事が一目で分かった。
 
 ―まさかこんな田舎にこんなのがいるなんてね…。
 
 無造作に座っている姿からはまるで隙が無い。もし、何か不審な動きをすれば腰に靡いた剣で机ごと切り裂かれてしまうだろう。そう思うほどの凄みがこの男にはあった。見た目にはそんな力があるとは思えないのに、一度、頭にこべりついたイメージは離れてはくれない。私が人間であれば冷や汗一つは流していただろう。そう思うくらいの重圧がこの男から放たれていた。
 
 「はい。僕はミルステと言います。姓はありません。出身は南方の砂漠地帯で、ここには知人から紹介されて一人旅のついでによりました」
 
 ディルクが名乗った偽名はあの砂漠の中で干からびて死んでいった子供の名前だ。彼は一度だって自分の名前を他人に教えた事がない。その必要がある時は全て偽名を――あの集落で死んでいった者たちの名前を使っていたのだ。それは彼が無念にも死んでいった仲間達の事を決して忘れまいとしているからなのだろう。
 
 「ほぅ…知人の方はなんと?」
 「えぇ。この街は人と魔物が共存していて素晴らしいので、一度、身に行くべきだ、と。また大都会であるので大抵の物が揃うとも言っていました」
 「ははぁ…それは中々。ここを故郷をする人間としては嬉しいものですねぇ」
 
 そう言いながらも、男の顔は笑ってはいない。いや、元々、笑っているように見える独特の顔をしているのだ。それが多少、口の端を持ち上げた所で微笑んでいるようには見えない。それにこの男は未だに警戒を崩しておらず、隙の無い視線をディルクに向けているのだ。
 
 「ちなみにここに寄られる前はどちらから来られたので?」
 「この街道の先にある港町ですよ」
 「なるほど。あそこの魚は美味しかったでしょう。ここにも良く入ってくるんですがねぇ。やっぱり本場で捕れたてを食べるのにはどうしても及ばなくて。昨日も妻に焼いてもらったんですが…まぁ、美味しかったんですけれどね」
 
 ―…なんなんだコイツ…?
 
 笑っているのかいないのか判別しづらい顔のまま男はどんどんと話を脱線させていく。食べ物の話から昨日の夕飯の話へ変わり、その夕飯から妻の自慢話に変わるのだ。その話の流れは正直、訳が分からなくてついていけない。しかも、それで終わってくれるのならばまだしも次々と話を横道にずらして言っているのだ。お陰で聞くべき項目がほとんど埋まらず、ディルクは曖昧に相槌を打つことしか出来ない。
 
 ―何を考えているんだ…?
 
 この時点でディルクが疑われるような要素は何一つとしてない。何せ名乗った名前も偽名であるし、ここまでの間に不審な行動を一つも取っては――あぁ、いや、さっき私に小声で語りかけたのを除けば――ないのだから。そんな相手にいきなり鎌を掛けに入るとは思えない。だが、現実に私の前でペラペラと話す男はそうとしか思えないのだ。
 
 ―だけど…あの一言だって…。
 
 この席からは数十メートルと離れていた上に、その間では問答を繰り返す商人や旅人が並んでいるのだ。そんな中で囁くように言われた言葉が端に座るこの男に届いていたとは思えない。その他に疑われる要素は正直、思いつかないのだ。少しだけ奇抜な格好こそしているが民族衣装で説明できるであろう私たち相手にどうしてこんな風に話を長引かせるのか。私にはどうしても理解できなかった。
 
 ―まさか…勘違い…なのか…?
 
 鋭い視線は未だにディルクの方へと向けられている。だが、それはただ単にそう思っていただけであればどうだろうか。最初に感じた理由も分からない嫌な予感が不必要にこの男を強大な相手であると認識している…とすれば全てが説明がつく気がするのだ。良く良く見るまでもなく、相手はかなりの細身である。正直、剣一つまともに振れるかどうかすら怪しいくらいだ。そんな相手が机を両断出来る程の実力者に映った辺りから既におかしい。きっと気負いすぎた結果、この男が歴戦の勇士のように見えたのだろう。
 
 ―なら、きっとこの視線も勘違いなのか。
 
 笑みを形作るような目蓋の奥から覗くギラついた目。どんな不審な動きも見過ごすまいとするその瞳は、まるで猛禽のようにさえ感じるのだ。だが、それはきっと感じるだけなのだろう。私の先入観と言うフィルターを外してみれば、きっと現場の――しかも、端っこの席に座るうだつの上がらない警備隊員に見える筈だ。
 
 ―なら…変に気負う必要はないかな。
 
 勿論、ここがある種の正念場である事に変わりは無いので油断はするべきではないだろう。だが、未だにこの男は関係の無い話をペラペラと話し続けているのだ。後ろが詰まっているにも拘らず、無駄口を叩いているこの男の前をもう何人の商人や旅人が通っている。その中には私たちの後ろに並んでいた人も含まれているのだ。しかし、それを見て尚、この男は無駄口を止めない。そんな相手が何かを企んでいると思う方がどうかしている。
 
 ―流石にさっきから注意するようにチラチラと見ているしねぇ…。
 
 既に数十分は無駄話を続けているこの男に横の警備隊員たちはチラチラと視線を送っている。それが何なのかは分からないが、きっと彼らもいらついているのだろう。自分たちが仕事をしている中でこうしてプライベートな話を続けて、貴重な席を埋めているのだから当然だ。それでどうして注意しないのかは分からないが、実はこの男はボンボンか何かで地位が高い男なのかもしれない。
 
 ―まぁ…全部推測なんだけれどさ。
 
 しかし、思わずそう思ってしまうくらい、その男はペラペラと話し続けていたのだ。無論、その間に私たちの前にいた行商人の青年はとっくの街の中へと入ってしまっている。他にも多くの人間が十数分の検問を受けて順調に街の中へと入る中、一人ぽつんと無駄な話に付き合わされるのだ。教団に対して以外は比較的温厚なディルクのコメカミが少しずつひくつき始めてもおかしくはないだろう。
 
 「それでですね。またその時の奥さんとはまた別の一件で顔を合わせる事になりましてね。いやぁ、アレも結構な事件でしたよ」
 「へ、へぇ。そうなんですか。それよりつづk」
 「えぇえぇ。いやぁ、貴方は幸運ですよ。その事件の時に来ていればきっと入れなかったでしょうからね」
 
 ―…流石に私もいらついてきたしね…。
 
 数十分は続く話の中でディルクは何度と無く話を本筋へと戻そうとしていた。だが、それは全てこの男に遮られて止められてしまうのである。そんなやりとりを何十回と続けてきて、流石のディルクも限界になったのだろう。身を乗り出すようにして机を叩き、大きな音をかき鳴らす。バンッと言う空気を叩くような音と共に一気にその場が静まり返り、ディルクに視線が集中した。だが、それでも彼は怯まない。怒りを抑えるように大きく深呼吸をして、子供に言い聞かせるようにゆっくりと口を開いた。
 
 「俺たちは これから 宿も取らないと いけないんです !早くしてもらえませんか?」
 「…ほほぅ。『俺たち』…ねぇ」
 「っ!!!」
 
 ―まるでその言葉を待っていたかのように男の唇が三日月を描いた。
 
 だが、それは淡く美しい光を灯す月とは違い、身体を冷たくするようなものであった。いっそ怖気が走るとさえ言っても良いかもしれない。実際にそれを見た私の身体は萎縮するようにぎゅっと縮こまってしまったのだ。まるで普通であると思っていた道が悪魔の口へと繋がっていたのを知ったかのような感覚に私の身体はぼぅぼぅと揺らいで弱弱しくなってしまう。
 
 「私の目が確かであれば貴方は一人です。それに先ほど一人旅とおっしゃられていたような気がするんですが…」
 
 そんな私の目の前でディルクを追い詰めるように男が口を開いていく。どうして自分の話ばっかりだった癖にそこまで細かい所を覚えているのかと言いたくなるが、ここで口を開くわけにはいかない。もし、ここで私が口を開き、精霊使いであるとバレてしまえば余計な疑いがかかってしまう恐れがある。元々、交通で栄えた街にしては異例なくらいの厳重な警備を敷かれているくらいなのだ。疑わしければ別室へと特別にご招待と言う事にもなりかねない。
 
 ―どうするんだいディルク…。
 
 そっと意識を信頼する契約者へと向ければ、彼の頬から一筋の汗が流れ出ていた。恐らくこんな展開になるとは思っても見なかったのだろう。まるで足元がいきなり崩れたような展開に混乱しているのが見て取れる。だが、それでもディルクはこの場を何とかしようと必死で頭を動かしているのだろう。強い意思の篭った瞳がこの場を切り抜けるための考えを模索しているのを感じさせた。
 
 「実は……僕は精霊使いでして」
 「ほぅ」
 
 ディルクの言葉に興味深そうに男の眉がそっと上がった。細く切り揃えられたそれが上がる様は何処か演技がかっているようにも思える。いや、きっとこれも演技の一つなのだろう。こうしてディルクを隙無く見つめる目は猛禽としか思えない鋭さを誇っているのだから。最初の印象通り、この男はずっと狙っていたのだろう。怒りでディルクが冷静さを失うのを。
 
 ―…やってくれるじゃないか。
 
 どうしてそこまで疑いを掛けられるのか、その理由は私には分からない。だが、この男がただの無能であるという希望は捨てなければいけないだろう。少なくともこうしてディルクが追い詰められ、札を切らざるを得ない状況に追い込まれたのはこの男の手腕だ。それはさっきの印象を捨てて、最初の切れ者と言う印象を強めるには十分過ぎるだろう。
 
 「風の精霊と一緒に旅をしているのでついつい『俺達』と言う言葉を使ってしまって」
 「なるほど。確かにそれだと一人旅であると言う言葉とも矛盾しませんね」
 
 ディルクの言葉に納得したように男は二三度頷いた。その芝居がかった動作はいっそ道化にも見えるくらいだろう。だが、私はもうそれが道化のような可愛らしいものには見えなかった。悪魔が大口を開けて待ち構えているような、そんな恐ろしい印象さえ抱いたのである。
 
 「誤解してしまって申し訳ありませんねぇ。あ、因みに荷物の方も念のため、改めさせてもらっても?」
 「えぇ。構いませんよ」
 
 そう言ってディルクはそっと背中に背負ってた皮袋を差し出した。かなり大き目のそれはディルクの日用品を納めているものである。成人男性が一人入れるほどではないが、一人旅には十分な大きさだ。その中に入っているのはどれも一般的な道具ばかりで彼の正体がバレるようなものは何一つとしてない。
 
 「ふむ…おかしいですねぇ」
 
 だが、その男は何か不審なものでも見つけたのだろう。中に入っていた様々な道具や衣類を見てもしきりに首を捻っていた。相変わらずオーバーリアクション気味なそれは嫌味にさえ映り始めている。だが、それでコイツに何かを言ってしまえばそれは全てがご破算だ。折角、ディルクがここまで論点をズラすのに成功したのである。その邪魔をする様な事は決してしてはいけない。
 
 ―だけど…私は…。
 
 この男がどれだけ間抜けに見えたとしてもそうではない事は既に体感している。少なくとも今まで私が出会ってきた警官や官吏の中では飛び抜けて優秀だ。下手をすれば正体がバレかねない。そんな事さえ思い始めているのだから。そこまで私たちを追い詰めた男があっさりとディルクの言葉に納得し、荷物の中身に首を傾げる。それを見る私はどうにも不安を感じてしまうのだ。
 
 「貴方は風の精霊と契約してるんですよね?
 「えぇ。何か不審なものでもありましたか?」
 
 それはきっとディルクも同じなのだろう。返答する彼の声は少しばかり震えていた。ディルクもきっと目の前の男に今までに無い危機を感じているのだろう。またも額から流れた脂汗がそれを教えてくれる。彼もまた目の前の男の底の知れなさ、得体の知れなさに飲み込まれ始めているのかもしれない。
 
 「いえ、逆です。無いんですよ。『火をつけるための道具』が」
 「っ!!!」
 
 その言葉にディルクの身体が一瞬、硬くなった。確かにその道具袋の中には火をつける為の火打石一つ入っていない。それも当然だろう。何せ私は火の精霊である。その力はまだまだ弱くとも、何も無い所から火を起こすくらいは出来るのだ。身軽な一人旅であるとは言え、彼は無駄な道具を背負うほど余裕がある訳ではない。自然、その道具は私たちの生活の中から排除され、道具袋の中にも存在しないのだった。
 
 「無論、他にも幾つか火をつける手段はあるとは言え、火打石一つも持たない旅人って言うのは…ちょっと考えられないですよねぇ」
 
 嫌味ったらしい言い回しも尤もだ。例え魔術を使える人間であっても、念の為に火打石は常備する。何時、魔力が枯渇するかも分からないし、そもそも魔術が使えるほど集中できない状況も考えられるのだから。精霊魔術は彼の魔力に依存しているものではないという事と、特に集中が必要なものでもないからこそ私たちは火打石を必要としていないのだ。それに彼が魔術を紡げない状態であっても常に私が傍に居る。仮にも火の精霊である私にとって、薪に火をつけるのはそう難しい事ではないのだ。
 
 「それは…」
 「まぁ…これが実は炎の精霊と契約してた…って言うのであれば、話は別なんですが」
 
 ―そこで男の目が一気に鋭くなった。
 
 大空から獲物を狙う目から一気に仕留めに掛かった猛禽の瞳に。その変化は向けられているわけではない私の身体に薄ら寒い感覚を齎す。それを真正面から受け止めているディルクはさらに冷たい感覚に襲われているのだろう。また一つぽとりと落ちた汗が彼が追い詰められているというのを私に教える。
 
 ―だけど…ディルク…。
 
 ここからまだ言い逃れをする道は幾つかある。炎の精霊であるという事を認めれば、少なくともこの場は収まるだろう。理由も噂の『パイロマニア』と間違えられたくなかったなどと幾らでも言えるのだ。他にも火打石が壊れたり、失くしたと言い逃れをする術もある。不審がられるだろうが、これだけで正体がバレるほどではない。確かに劣勢ではあるがまだまだチェックメイトには程遠いのだ。それを精霊と精霊使いの持つ独特の魔力経路に載せて送ると、彼の顔は少しだけ明るいものになってくれる。どうやら私の考えはディルクに正確に伝わってくれたらしい。
 
 「勿論、火打石は持ってたんですが、欠けて使い物にならなくなってしまいまして」
 「ほほぅ…そりゃ災難だったですねぇ。あ、どうぞ。もう構いませんよ」
 
 ディルクの言葉にニ、三度頷いてから男は荷物を詰め直した皮袋を返した。その顔には朗らかなものが浮かんでいるが、状況は決して芳しいものではない。疑われているのはまず確実であり、別室で特別にお話を聞かれないのが不思議なくらいなのだ。何時、『ご招待』されるか分からない状況に私の身体が小さな火の粉を飛ばす。
 
 「あぁ、それで…何処からのお話でしたっけ?…あ、そうそう。質問事項をまだ埋めてないんでしたっけね」
 
 しかし、警戒する私とは裏腹に男は再び用紙へと視線を落とす。そのままディルクに再び幾つかの質問を開始した。それはさっきのように横道にズレるものではない。ただ事務的に繰り返されるやり取りだ。それに私は違和感を禁じえない。後、数手あればこちらの状況もかなり危うい所まで行くかも知れないというのに、手加減するような状況に私の心は嫌なものを感じた。
 
 ―こいつが…ここで引くだって…?
 
 此処まであの手この手で私たちを翻弄してきた相手のいきなりの撤退。それに嫌なものを感じざるを得ない。またこれも罠ではないのか、私たちを陥れようとするものではないのか。そんな思考がさっきから浮かんで止まらない。それを否定する材料は何一つとしてない上に、私たちに出来る事は何も無い。まるで早く嵐が通り過ぎるのを待つ子供のように、従順に男の言葉に従い続けるだけだ。
 
 「はい。これで終わりですよ。お疲れ様でした」
 
 そんな私たちの祈りが通じたのだろうか。結局、何事も無いまま質問は打ち切られた。それに内心、安堵の溜め息を漏らしそうになるが、まだまだ油断は出来ない。この男は人が冷静さを失うのを虎視眈々を待っていた節があるのだ。今回もまた同じように人の油断を誘っておいて、こちらへと突っ込んでくるかもしれない。その考えが私の中からどうしても離れなかった。
 
 「いやぁ、長々とお付き合いさせてしまって申し訳ありませんね。どうにもこういう仕事をしていると暇なものでして」
 「いえ、構いませんよ。ただ、もう日も落ちてしまいましたし、行ってしまっても構いませんか?」
 
 それは少々、強引とも取れる話の打ち切り方であったのかもしれない。だが、ディルクの言っているのもまた事実なのだ。既に一時間近い時間をこうしてやり取りで奪われてしまったのだから。日は沈み、夜空には満月のような大きな月が浮かんでいる。少しだけ赤く染まったそれは桃色にも見て取れて、少しだけ不思議だ。日が落ちるのに伴ってかなり冷え込んだ周辺には篝火が幾つも燃え上がっていて、検問所を赤く染めている。誰がどう見たってそれらの光景は夕方から夜に入ろうとするものにしか映らないだろう。そんな時間であるにも関わらず、宿が取れていない私たちにとって今夜の宿を確保するのは何より急務だ。
 
 「えぇ。構いませんよ。あ、でも、お詫びに良い宿を紹介しますよ。丁度、私もこれからあがる所ですしねぇ」
 「え…?」
 
 だが、それは男にとって予想の範疇だったらしい。まるで予想していたようにそう言葉を返してくる。それにディルクが言葉を失った間に、男は後ろの警備団員と二三の言葉を交わした。どうやら部下らしいその男に後を任せるように言いながら、男は椅子から立ち上がりディルクの横へと立つ。その素早い動きはまるで最初から打ち合わせされていたようで私たちに有無を言わさない程であった。
 
 ―…どうやらよっぽどマークされてるみたいだねぇ…。
 
 どうやらまだまだ危機はさってはいないらしい。それを実感した私の心は溜め息を漏らしそうになってしまった。それはきっとディルクも同じなのだろう。その顔には流石にうんざりした色が浮かんでいた。だが、男はそれを気にしていないかのように貼り付けたかのような笑顔を浮かべて、先導するように少しだけ歩く。それにディルクはもう抗っても無駄であると悟ったのだろう。うんざししたような表情を笑顔の奥へと押し込めて、男の後へと着いていった。
 
 「そう言えば自己紹介がまだでしたね。私はハワード・ノリスンと言います。よろしくお願いしますね」
 「ミルステです。よろしく」
 
 「…出来ればよろしくしたくないんだけれど」と伝わってきた感覚に思わず笑いそうになってしまう。普段のディルクはこんな風に愚痴を漏らす場として精霊と精霊使いを結ぶ魔力経路は使わない。精霊信仰の盛んであった土地で育った彼にとって、それらはとても神聖なものなのだから。だが、今の彼にはその余裕が無いらしい。その内に秘める鬱屈した感情を少しでも私に理解してもらおうと開けっ広げに思考を伝達してくるのだ。
 
 ―ふふ…もう少しだから頑張って。
 
 そんな子供っぽい彼に小さく微笑みながら、私もまた魔力経路を使って言葉を返す。まるでこっそりと裏でやり取りするような二人だけの秘密のやり取りに私の心も少しだけ躍った。幾ら精霊が魔力の塊であるとは言え、感情がまったく無い訳ではない。秘密と言うだけで心躍りそうになる自分に子供っぽいとは思うものの、ディルクと同じであればそう悪くない気がする。
 
 ―そんな事を考えているうちに私たちは大きな門を潜り、市街地へと足を進めていた。
 
 門を潜った瞬間、私の身体に濃密なサキュバスの魔力が絡みついて来た。どうやらここはもう魔界に堕ちる寸前のようだ。これだけ大気中に浮かぶ濃厚な魔力はまるで泥水のように粘っこく私に張り付いてくる。そして、張り付いたその魔力が、魔力の塊である精霊を魔精霊へと変えようと侵食してくるのだ。しかし、それは決して拒絶できないものではない。あの手この手でまとわりつくような魔力をかわしながら、私は彼等の後についていく。
 
 ―まぁ…受け入れる気になればすぐさま変容するんだろうけれどね。
 
 水飴のようにねっとりとしたサキュバスの魔力を受け入れれば、あっという間に私は魔精霊へと変わってしまうだろう。それだけ濃密な魔力がこの街には溢れていた。だが、私には未だ魔精霊へと変わるつもりはない。そうなりたいと心の中で望んでいるのは事実ではあるが、ディルクに何の相談もしていないのだ。それに魔精霊になるデメリットも馬鹿に出来ない。そんな状態で勝手に魔精霊になる訳にもいかず、私は絡みつくようなそれらを必死で拒絶していた。
 
 ―それはさておき。街の中は随分と明るい。
 
 既に幾つもの明かりが灯っているが、それらは全て松明ではない。全て魔力の光を灯す魔力灯である。一体、どれだけの資産を掛けたのか。街中にも立ち並ぶその魔力灯は夜空を明るく照らして、まるで昼のようにも感じさせる。華やかな魔力の光は店の中からも溢れて、中々は幾つもの笑い声が聞こえてきた。既に仕事を上がってきた人々が思い思いの場所で食事や会話を楽しんでいるのだろう。見た目に負けないその賑やかな声はここがそれだけ治安が良いという事を示しているような気がする。
 
 「どうです?ここがこの街のメインストリートですよ」
 「…なんというか…その…凄いとしか言いようが無いですね…」
 
 ディルクの言葉に内心、同意の言葉を返した。これまで幾らかの街と呼べる規模の集落を尋ねたことがあるが、ここまで発展しているのは一度も見たことがない。基本的に私たちが足を運んだのは魔物を排斥しようとする教団の支配地域だったとは言え、ここまで差があると正直、別の世界に迷い込んだ気さえするのだ。
 
 ―まさか…これだけの差があるなんてねぇ…。
 
 砂漠の中にぽつんとある小さな集落しか知らなかった私たちは始めて見る都市と言うものに大きく圧倒されたのを覚えている。今までの私たちの常識からは考えられない代物や商品が溢れ、集落の何倍もの人々が行き交う道。そこには露店が幾つも立ち並び、少しでも客の興味を引こうと大声をあげているのだから。その衝撃は狭い世界しか知らなかった私たちの価値観を打ち砕くのには十分過ぎるものであった。
 だが、そんな都市とは比べ物にならないのが、この街なのである。魔力灯を灯された大通りを魔物と人間が仲睦ましく腕を組んで歩いていった。その数は少ないものの、物陰に半身を隠すようにしながら見せ付けるようにキスをしているカップルもいる。周りの飲食店や宿はどれも人が一杯で、幾重にも重なった声がこの大通りにも飛び出して来ていた。きっとその中には魔物も数多く存在するのだろう。
 
 ―…こんな風に人と魔物は手を取り合えるのか…。
 
 それは教団の支配地域を渡り歩いてきた私にとっては余りにも意外な光景であった。反魔物領では忌むべきものとして排斥対象であった魔物が人間と恋人のようにして腕を組んで歩いているのだから当然だろう。しかも、彼女らの顔に浮かぶのは皆、一様に幸せそうな表情で、見ているだけでも羨ましくなってしまうほどだ。きっと今からたっぷりと子作りをするのだろう。幾人かの顔は蕩けそうなものにもなっていて、内股を刷り合わせるようにして歩いていた。
 
 ―勿論…それは道徳が破壊されているとも言えるのかもしれないけれどさ。
 
 今にもセックスを始めそうな欲情を顔中に浮かばせるワーラビット。物陰で必死に夫の背中に腕を回して、激しく舌を絡ませているサキュバス。愛しそうに男を抱き締めながら歩くミノタウロスもいるし、背中に男を乗せて疾風のような勢いで家路へと走るようなケンタウロスもいる。それら全ては教団の道徳観では到底、許容できないものであるだろう。だが、それでもここまで色々な街を見てきた私にとって…彼女らの、そしてそのパートナーである彼らの顔はとても幸せそうに見えるのだ。
 
 ―それこそ教団の支配していた街よりも遥かに…ね。
 
 教団の支配する土地はその道徳がしっかりしている反面、何処か窮屈なものでもあったのである。皆が生き急ぎでいるような姿は何処か息苦しくも感じた。だが、ここではそのようなものがまるで感じられない。最低限のルールはあるのだろうが、皆が活き活きとしていて競争しているような雰囲気もないのだ。勿論、私が見たのはまだこの大きな街の一部分だけである。だが、それでも私はこの街を早くも好きになり始めていた。
 
 ―悪くないね…。
 ―同感だな。
 
 思わずこの感覚を共有したくて私はディルクに言葉を送る。それに同意を返してくれた彼の顔は笑顔の形を作っていた。そこにはぎこちなかったり、うんざりしていたものが浮かんではいない。単純に目の前の光景を善しとするストレートな感情があるだけだ。それが嬉しくて、私の身体がまた小さな火の粉を飛ばす。
 
 「まぁ、少しだけセックスに対する道徳がゆるゆるなのが難点ですがねぇ」
 「ガチガチに規制されて固められているのよりは好感が持てますよ」
 「それは重畳。この光景を見て、引く人も少なからずいますからね」
 
 ニコニコと笑う男―ハワードの表情も何処かストレートな感情を表している気がする。警備隊などに入っているのだからきっと彼もこの街が嫌いではないのだろう。そんな街を褒められて、悪い気がしていないのは確かなようだ。その気持ちは私にも分からないでもない。私も最早、無くなってしまったあの集落の事を褒められればきっと似たような感情を抱いてしまうだろう。
 
 「まぁ、気持ちは分からないでもないんですが、逮捕しろとまで言われるのはちょっと困りますねぇ。一応、ここでのルールは出来るだけ人目につかない所でヤる事だけですから」
 「それは…確かに困りますね」
 
 それはきっと教団の熱心な信者の話なのだろう。確かに彼らからすればこの光景は決して認められるものではないに違いない。きっと彼らにはこれが無秩序で堕落した光景に見える事だろう。その気持ちはハワードの言葉にもある通り、分からないでもないし、否定するつもりは無い。だが、その価値観を他者に強要する辺りが彼らの大きな罪悪だ。普段、似た価値観で寄っている彼らにとって、それを他の価値観の許容と言う視点は大きく欠けている。自分達の価値観こそ普遍的で正義であると信じているからこそ、魔王討伐になど興味の無い辺境の集落に騎士を差し向けたり、こうした街で言いがかりをつけたり出来るのだ。
 
 「でしょう?こっちとしてはこっちのルールがあるんですからあっちの価値観を押し付けられてもちょっと…ですねぇ。どうして私たちが魔物愛護を訴えないか考えれば分かると思うんですが…」
 
 無論、魔物愛護に動き出している団体と言うのは少なからず存在する。基本的に魔物は人間よりも身体的に強く、スライムであっても並の男が束になっても勝てないだろう。そんな彼女らが虐げられる事は少ないとは言え、例外と言う奴は存在する。勇者と言う神の加護を受けた人間は魔物よりも遥かに強いことが多いし、訓練を積んだ騎士の編隊に囲まれれば魔物とて一巻の終わりだ。少なからずそう言った魔物を助けてきた身としては、その現状も良く理解しているのである。
 そう言った背景の中、魔物愛護に動き出している組織と言うのは少なからず存在しているらしい。だが、それはあくまで秘密裏なものであって国として魔物愛護を反魔物領に訴えると言うのはこの地方では聞いたことがなかった。
 
 「良くも悪くも教団は最大勢力ですからね…」
 
 そう言って呟くように返したディルクの脳裏には何が映っているのだろうか。どれだけ強い絆で結ばれ、テレパシーのように心の中を伝え合うことが出来ても私にはそれが分からない。一人で闘うには大きすぎるその相手に怒りを滾らせているのか、それとも憎悪を沸き上がらせているのか、もしくは諦念を覚えているのか。その一端すら私には掴み取ることが出来なかったのである。
 
 「おや…やはりバレてしまいましたか」
 「アレだけあからさまであれば誰だって気付きますよ」
 
 ディルクの言葉に私も内心、同意を返した。確かにハワードはわざわざ言葉を伏せていたが、そこまで魔物や交わりを毛嫌いする勢力など教団以外に思いつかない。私も精霊信仰全てを知っているわけではないが、精霊信仰は純精霊だけでなく魔物化した魔精霊や闇精霊も信仰の対象とする事が多いのだ。そんな彼らがアレルギーのように交わりを嫌うとはあまり思えないだろう。他にもこの大陸には様々な信仰が存在するが、その中で魔物を毛嫌いするのは私が知るかぎり教団だけだ。
 
 「まぁ…この街も教団相手に色々とされてきたのでこの名前を聞くだけで嫌な気分になる人も多くてですね。許してください」
 「いえ…別に気にはしていませんが…戦争もしたのですよね?」
 「えぇ。もうニ十年以上も前の話ですけれどね。いやぁ…あの戦いはホント、恐ろしいものでしたよ。五万の軍勢がずらぁぁっと街道を埋め尽くしてですね。生きた心地がしませんでした」
 
 まるで見てきたように語るが、ハワードはどう見てもニ十代前半くらいだろう。普通に考えれば彼がそんな光景を見てきたはずが無い。この街の城壁は今まで見た中では断トツに高いとは言え、それでも決して矢が届かない高さではないのだ。そんな場所に子供が入り込まないよう厳重に注意していただろう。
 
 ―なら…この男は……。
 
 インキュバスは一度、なってしまえば老化の速度がかなり低下すると聞く。決して停止ではないので老衰はあるそうだが、四、五十年レベルでは外見が殆ど変化しないそうだ。そして、この街は早くから魔物を受け入れてきた土地として有名である。ならば、このハワードと言う男もきっとインキュバス化しているのだろう。恐らく実際の年齢と外見の年齢は大きく乖離しているはずだ。
 
 「五万!?そこまで本気だったんですか…」
 
 そう言ってディルクが驚くのも無理は無い。五万と言う数字は普通の街を落とすのには十分過ぎる数である。この街は城壁に囲まれて規模もかなり大きいとは言え、それでも五万と言う大軍に耐えられるとは思えない。それに商業と交易で成り立っているこの街は囲まれるだけですぐさま干上がりかねないのだ。つまり降伏にせよ敗北にせよ、この街に未来は殆どなかったと言える。
 
 「えぇ。一応、教団としてはこの地域の交易も握りたかったみたいですね。あそこは戦争ばっかで家計が火の車ですから」
 「なるほど…でも、それは失敗した…と」
 
 だが、それは失敗した。それは普通であれば考えられない事だろう。これだけの人口を抱える街を五万の大軍で囲むだけでもかなり苦しかったはずだ。篭城戦の基本は援軍を待つ事だが、五万の大群ともなればそう簡単に兵を向けても返り討ちにあってしまう。少なくとも一国が救援へと出せる量では焼け石に水となるはずだ。そんな状況で一体、どうやって教団の軍を打ち破ったのか。正直に言えば、私も興味が尽きない。
 
 「えぇ。この辺りにはドラゴンが二匹住んでいるのですが…どうやらそれがこの街に縁の深い人物を夫にしていたようで…」
 「あぁ…なるほど…」
 
 ―ドラゴン。その名前は太古より恐怖の代名詞のようなものであった。
 
 生半可な刃を通さない硬い鱗に人間相手では壁にもならない膂力。口から吐くブレスは直撃でなくとも意識を奪うような強力なものだ。そんなオオトカゲが空をも飛ぶのだから性質が悪い。『地上の王者』とさえ呼ばれる圧倒的な存在に対し、軍隊と言うのは余りにも相性が悪いのだ。上空からブレスを吐いてくる絶対的な強者を相手に誰が冷静でいられるものか。指揮系統はあっという間に混乱して、阿鼻叫喚と化した事が容易に想像出来る。
 
 ―しかも、それが二匹もなんて…ねぇ…。
 
 一匹だけでも恐ろしいのにそれが二匹もいるのだから混乱は二倍ではなく二乗に膨れ上がるだろう。きっと混乱の最中、同士討ちも発生していた筈だ。そんな状態で戦争など出来るはずも無い。あっという間に瓦解した軍隊はボロボロになって逃げ帰ったのだろう。私は教団の事など滅べばいいとさえ思っているが、若干、同情心が疼くのは否定出来ない。
 
 「まぁ、その混乱に乗じて領主が雇った傭兵部隊が敵の指揮官を捕獲してくれましてね。何とかこっちの勝利と言う形で方がついたのですよ」
 「それは何よりですね」
 「えぇ。本当に…っと、丁度良い。アレがその後の条約で作られたこの街の修道院ですよ」
 
 そう言ってハワードが指差した先には小さな明かりを灯す慎ましやかな建物があった。それらは他と同じく洋風の建築でありながらも、何処か神聖さすら感じさせる。所々に十字架を模した意匠が刻まれているそれは誰が見ても教団の手の入った施設であると分かるだろう。
 
 「この街での大々的な布教を認めるという事で領主自らが建てたもので、今では礼拝に詰め掛ける魔物や人間で一杯なんですよ」
 「そうなんですか…」
 
 そう言ってディルクはそっとその修道院を見つめた。一体、彼が今、その瞳で何を見ているのか私には分からない。窓から漏れる光の先で歓談するシスターの姿だろうか。それとも彼女らと一緒に夕飯の準備をする子供達の姿だろうか。それともそんなシスターに混じって、つまみ食いをしようとしているゴブリンの少女の事だろうか。
 
 ―…ディルク……。
 
 昔であればきっとその光景に彼は心を掻き乱される事はなかっただろう。復讐と言う形で心を固めてしまった彼にはそれ以外の事は些事同然であったのである。無論、ただ信仰しているだけの修道女までも殺すほど無差別と言うわけではなかったが、それで心を掻き乱されるほどでもなかった。だが、今の彼の顔には明らかな迷いの色が浮かんでいる。これから先、どうするのか。その答えの一部のようなものを見つけながらも、まだもがき苦しんでいるような表情がそこにがあったのだ。
 
 ―ディルクはあの日…魔精霊使いに敗北してから復讐を止めた。
 
 彼はその敗北からずっと何かを考えているようだ。この修道院を見ても、憎しみや怒りの色を滾らせることはない。幸いにして私たちの顔も名前もバレてはいないので、このまま教団に手を出さなければ捕まる事は恐らくないだろう。だが、これから先どうするのかをディルクは口の端に上らせることは今まで無かった。復讐を続けるのか、それとも止めるのか。それはきっとまだ彼の中で答えが出ていないかたなのだろう。
 
 ―…あの日、彼は『精霊を人殺しに使うのは教団の連中と同じだ』と言われた。
 
 確かにそれは一面だけ切り取れば同じに見えるかもしれない。だが、別に私も彼も強制されて復讐していたのではないのだ。同じ意思を抱き、同じ怒りを滾らせて、行き場の無い感情を復讐と言う形で晴らしていたのである。無論、これが非難される行為であるという事は私も重々承知しているが…それでも教団と同じであると言われて反発を覚えないわけではないのだ。
 でも、それはあくまで私の話である。ディルクの中ではまた違うのだろう。元々、彼は敬虔な精霊信仰の村で生まれた子供である。私に対してもパートナーとして接する中に、明確な敬意を混じらせている。そんな彼が教団と同じと言われて、どんな風に思ったのか。それは本人ではない私には分からない。
 
 ―…けれどね。ディルク。
 
 精霊と言ってもそう大したものではないのだ。少なくとも精霊信仰で良く言われる様な自然の代行者と言う訳では決してない。私たちだって誰かを強く恨むし、憎んだりもするのだ。そして…勿論、人間と同じように誰かを愛する事も。
 
 「………」
 「…では、行きましょうか。宿までもう少しですよ」
 「え…あぁ、はい」
 
 ハワードの促す声にゆっくりとディルクの足が動き始める。しかし、それはさっきとは比べ物にならないほどゆっくりとしたものであった。時折、チラチラと後ろを伺うように振り向いているのはやはりそれだけあの修道院が気になっているからなのだろう。
 
 「まぁ、そんな訳でこの街は教団と魔物娘が共存する世にも不思議な街になってしまった訳ですよ」
 「…共存…ですか?」
 「えぇ。まぁ…少しばかり教団の在り方が変わったものになっていますが、魔物娘にも少しは我慢してもらっている訳ですしね。お互い様と言う奴ですよ」
 
 ニコニコと笑い続けるハワードの表情には何処か清々しいものが浮かんでいた。やはりこの男も教団に対して腹に抱えるものがあるのだろう。してやったりと言う様な表情は何処か子供っぽく見えた。
 
 ―…まぁ、それも当然か。
 
 ハワードの言葉が正しければ、この街はドラゴンの介入により奇跡的な勝利を収めた。だが、それでも死者がいなかった訳ではないだろう。きっと彼の所属する警備隊の中でも少なからず死人を出しているのだ。そんな現場を実際に見たであろう彼にとって、教団を恨む気持ちがなくなる日はまだまだ遠いのだろう。
 
 ―…ある種、この男も私たちと同じなのかもしれないね…。
 
 違うのは私たちが散り散りになって殆ど生き残りがいない事だけ。教団の無法に仲間が傷つけられ、悲しみを背負ったのは同じであろう。そう思うとこのいけ好かない男に少しだけ親近感を抱いてしまった。
 
 「あ、此処ですよ」
 
 そう言ってハワードが指差したのはこじんまりとした小さな宿であった。この男曰くメインストリートにあるとは思えないほど小さなそれはとても質素な外見をしている。表に宿を示す看板が出ていなければ、民家か何かと間違えていたかもしれない。だが、ここは仮にもメインストリート。街の大動脈である。そんな場所で宿を広げているのだから、外見からは想像もできないほど煌びやかな宿なのかもしれない。
 
 「まぁ、外見通り質素な宿ですが、その代わり宿泊料金も安いですし、御飯も美味しいですよ。もっと安宿もあると言えばありますが、まぁ、ここが費用対効果と言う面では一番オススメですね」
 「ありがとうございます」
 
 そんな私の予想をあっさりと打ち砕き、ハワードがニコニコと言葉を続ける。それにディルクは小さく頷きながら、そっと頭を下げた。魔力の光が照らす街の中で灰色のターバンとローブが揺らめく姿は何処か幻想的である。まるで絵本の一幕にさえ思えてしまうのだ。
 
 「気にしないで下さい。私が無礼を働いたのは事実ですから。あ、でも、一つだけ、宜しいですか?」
 「えぇ。なんでしょう?」
 
 最後に何かを付け加えようとするハワードにディルクはそっと顔を引き締まらせた。仲良さそうに歓談こそしていたが、この男に心を許していたわけではないようだ。やはり…と言うか勿論と言うべきか。この男が油断ならないのは最初の接触で身に染みて知っているのだ。また何か内側に踏み込むような言葉を繰り出してくるかもしれない。そう身構えるディルクに、ハワードはゆっくりと口を開いていく。
 
 「これまで説明して来たとおり、この街は教団とは無関係です。なので…不要な騒ぎは困りますよ」
 「…何の話でしょう?」
 「別に、ただの世間話ですよ。ただ…私は教団の追っているテロリスト…確か『パイロマニア』…でしたか?まぁ、その男に興味はありません」
 
 ―それは殆ど私たちの正体に気付いていると宣言されているようなものだろう。
 
 私たちの犯行は全て火を暴走させて焼き尽くすと言うものである。夜になれば街の中に増える炎に力を分け与えるのは私にとっては容易な事だ。そして、そのまま一気に燃え上がった炎で要人の住む屋敷や修道院などを消し炭にしてきたのである。その手口はアリバイを作るのが容易な上に、状況からは失火にしか見えないのだ。それらが私たちの存在を隠していたのだろう。『パイロマニア』と言う渾名で呼ばれ、同一犯であると言う話が持ち上がったのも此処、最近である。無論、その性別さえも掴まれてはおらず、まだまだ『パイロマニア』は謎に包まれた人物であった。
 
 ―だが…この男は今、はっきりと男であると言った。
 
 それはディルクに対して『カマ』をかけただけなのかもしれない。だが、その自信と確信に満ち溢れたその瞳がそれを感じさせない。「ほぼ間違いなくお前がパイロマニアだろう』と語りかけられているようなそれに私の心はざわついた。無論、ハワードが『パイロマニア』に興味がないと言うのは本当の事なのだろう。これまでの話の流れの中でも彼が教団に対して、腹に据えるものを持っているのが分かっているのだから。だが、それでも油断は出来ない。変な動きをするのであれば焼き殺す事も考えよう。そう思って周囲に意識を分けてみるが、私の力で暴発させられるようなものは何も無かった。
 
 ―…くっ…面倒な…!
 
 辺りにあるのは魔力の力で灯る魔力灯だけであり、松明のようなものは殆ど見当たらない。少なくともこのメインストリートは完全に整備されているのだ。近くの宿などでは暖を取るためか炎を使っているものがあるが、それを暴走させた所で意味は無い。となれば、直接、この男に炎を叩きつける事が選択肢に入ってくるが、それは決して賢い選択肢ではないだろう。人を焼き殺すほど強力な魔術ともなれば足も着く可能性が高い。何よりこうして対面しているディルクが第一容疑者になるのは確実だ。
 
 ―まさか…これを見越して…!?
 
 検問所にはかがり火のようにして大々的に炎が焚かれていた。あそこであればまだ事故に見せかける事も可能であっただろう。だが、魔力灯が明かりとなるこの場所ではそれは不可能に近い。そう考えればここまで誘導されてきたこと自体が罠であるようにも感じられるのだ。
 
 「勿論、捕まえてやる義理もありませんよ。まぁ、つまり、この街で下手な騒ぎさえ起こさなければ、定住するのも抜けるのも簡単と言う訳です」
 
 そんな風に身構える私たちを安心させるようにハワードは言葉を続けた。本当に世間話をするようなその口調はとても軽い。この言葉だけ聞いていれば何かの冗談にも感じるだろう。だが、この男は明確に私たちに疑いを掛けてきている。それが分かるだけにその口調の軽さは寧ろ薄気味悪さにも感じられるのだ。
 
 「だから…大人しくしていてくださいね。私としてもこうして自己紹介した相手を捕まえ無ければいけなくなると言うのは余り面白いものではありませんし」
 「…肝に銘じておきましょう」
 
 釘を刺すようなその言葉は口調だけ見ればやはりどうしても軽いものに響いてしまう。だが、軽いはずのその言葉は私たちにはとても重苦しく感じられる。何せそれは「大人しくしていなければ捕まえる」と言う脅しでもあるのだ。既に正体が勘付かれている私たちにとってそれは首筋にナイフを突きつけられているも同然である。
 
 「最後に面白くない話をしてすみませんね。では、この街を楽しんで行って下さい」
 
 最後にそれだけ言って、ハワードはそっと踵を返した。そのまま浮かれるような軽い足取りで魔力灯の下を歩いて去っていく。最後の最後までかき回していくその背中に炎の一つでもぶつけてやろうとも思ったが、大人しくしていろと釘を刺されたばかりだ。ここで何かすれば容赦なく捕まえられるかもしれないし、必死でそれを我慢する。
 
 「……はぁ」
 「…ディルク。大丈夫かい?」
 
 ハワードの姿が曲がり角の向こうに消えて見えなくなった後、ディルクは堪えきれなかったように溜め息をついた。万感の想いが篭められたその中には特に疲労が強いように感じる。それに思わず言葉を漏らしてしまったが、辺りには人影はない。例え、あったとしても辺りの店から騒ぎ声が溢れているのだ。それが私の声などすぐさまかき消して遠くまで伝わらせないだろう。
 
 「あぁ…少しばかり疲れたけど…な」
 「うん…ちょっと色々あったから…ね」
 
 珍しく疲労を顔一杯に浮かべるディルクはかなりの気疲れを覚えているのだろう。何せずっとこちらを疑っている相手と二人っきりで――まぁ、私が傍に居たから正確には違う訳だけれど――いたのである。しかも、相手はかなりのやり手で一瞬たりとも油断が出来ない相手であったのだ。そんな相手と時間単位で一緒に居たのだから疲れきって当然だろう。
 
 「今日は早めに宿を取って休んでしまおう。今日も結構な距離を歩いたんだしね」
 「…そうだな」
 
 今日も朝から出発して、夕方ようやく此処についたのである。途中、何度か休憩を取っているが、その距離は結構なものだ。それに旅と言うのは存外に辛く、苦しいものである。寝袋があったとしても難い地面の上で眠るのは身体に疲労が残るのだ。それが気疲れを期に身体から噴出しているのだろう。疲労困憊という姿の彼に小さくない胸の痛みを覚えた。
 
 ―私が…少しでもそれを肩代わり出来てあげたら…。
 
 だけど、それは決して出来ない相談だ。私の身体は魔力で出来ているだけであり、自分から何かに触れることは出来ない。彼の荷物を持ってあげることも、疲れきった彼の身体をマッサージしてあげる事も不可能だ。代わりに睡眠を必要としないので見張りや火の番は出来るが、それだけである。
 
 ―これが魔精霊であれば…少しは違うんだろうけれどね…。
 
 それはあの日、魔精霊と化したウンディーネに負けてからずっと考えていることであった。無論、今までもディルクと触れ合いたいと思わなかった訳ではない。だが、それが心の一角を占めるほどに大きくなったのはここ最近の事である。何せ魔精霊になれば強力な力を震えるようになる上に、様々な面で彼の手助けが出来るのだ。勿論、その中には性欲処理も含まれるだろう。旅の間に溜め込んだ性欲を行きずりの女で発散せずとも、私の身体に吐き出してもらえるのである。それだけでも私は魔精霊になりたいという願望を抱いてしまうのだ。
 
 ―…あ、いや、うん。それはさておきだね。
 
 明後日の方向に行きそうになった思考を必死で引き戻しながら、私はそっと意識をディルクへと戻した。彼は疲労を身体中から弾くように一気に身体を伸ばす。そのままぐぐぐと伸び上がっていく身体をくいっと捻れば、その顔から少しだけ疲労が消えた。そのまま踵を地に着けるように降りてくる身体もさっきよりはかなりしっかりしているように見える。
 
 「それじゃあ、行こうか」
 「そうだね」
 
 ディルクの言葉を皮切りに私はそっと彼の後ろへとついていく。それに後押しさせるようにディルクの身体は動き出し、目の前の宿の扉を開いた。カランカランと言う小気味良いベルの音と共に幾本の視線が私たちの方へと注がれる。そっと逞しい肩越しに中の様子を見れば、何人かの魔物娘とそのパートナーがテーブルに座っていて歓談している最中だったようだ。その中の何人かが入ってきたディルクに視線を注いでいる。だが、それもすぐに興味を失ったかのように元へと戻り、それぞれの相手と歓談を楽しみ始めていた。
 
 ―なるほど…こりゃ確かにオススメかもねぇ…。
 
 外見からしてこじんまりとしているこの宿屋は決して派手なものではない。だが、そのシックで落ち着いた内装は安心を感じさせるものであった。古ぼけたが故に暖かみのある古時計や、穏やかなベージュ色を示す壁紙。使われている家具はどれも古いものでありながらも、まだまだ現役である事が一目で分かる。何本か傷のようなものが走る床も、この宿屋の長い歴史を感じさせるものであった。
 
 ―うん。悪くない。
 
 決して着飾らないからこそ演出された安心感。それはまるで我が家に帰ってきたかのような独特の感覚だ。こじんまりとした小さな空間もきっとそれを助けているのだろう。そう思えば、この小さな空間にかなりの計算が積み込まれているような気がする。何もない砂漠で生まれ育ち、床よりも地面で生活していた私が『我が家に帰ってきたかのような安心感』を感じるのだから。それは偶然では決して生み出せない感覚だろう。
 
 「はぁい。ようこそいらっしゃいましたぁ」
 
 そんな事を考える私とディルクに向かって、間延びした声が届いてきた。ゆっくりとそちらに意識を向ければ、沢山のもこもことした毛に覆われているワーシープが目に入る。恐らくここの従業員か何かなのだろう。宿帳が置かれたカウンターの向こうにいる彼女は大きなエプロンを身に着けていた。今にも眠ってしまいそうなとろんとした顔に心底嬉しそうな笑みを浮かべる彼女はそのままとてとてと足を進め、こっちへと歩いてくる。
 
 「お泊りですかぁ?それともご休憩です?」
 「えっと…」
 
 ―休憩…?
 
 ディルクと共に少し首を傾げてみるがその意味がどうしても分からない。休憩であれば別に宿を取る必要など無いのだ。今の時間でも空いている飲食店に行けば十二分に身体を休めることが出来る。仮眠を取りたいのであればいっそ泊まってしまった方が良い。それなのにどうして休憩などを取るのか。それがどうしても理解できず、私の頭の中で疑問が回り続ける。
 
 「はは、エレナちゃん。この宿で休憩はねぇよ」
 「あー、またそんな事言っちゃうんですかぁ。私、怒っちゃいますよぉ」
 
 一人の客の野次にエレナと呼ばれたワーシープが両手を上げて威嚇する。だが、それはどうにも緩慢な動きの所為か、とても迫力のあるものには思えない。怒りを表現していると言うより、子供が万歳していると言った方がよっぽど適切だ。恐ろしいと言うよりも可愛らしいと言う形容詞の方がしっくりくる。
 
 「あ、あの…」
 「あぁ、ごめんなさぁい。ほらぁ、ヘンリーさんの所為でお客さん困ってるじゃないですかぁ」
 「俺の所為かよ。つーか、エレナちゃん、また困ってるって」
 「はわわぁ」
 
 そんな風にエンドレスで話を繰り返しそうな彼女にヘンリーと呼ばれた客が突っ込む。恐らくそれはこの宿では何時もの事なのだろう。他の客もそんな微笑ましい彼女の様子を見てニコニコとしていた。まるで家族の団欒のようなその光景に私の心は微かな疼きを訴える。それは私にはどうしても手に入らないもので、ディルクが失ってしまったものだからだろうか。
 
 「それで…どちらにしますぅ?」
 「えっと…それじゃあ宿泊で」
 「はぁい♪一名様ご案内ですよぉ」
 「エレナちゃん、それまだ早いってば。先に宿帳書いてもらわないと」
 「はわわぁ」
 
 今度はまた別の客に突っ込まれ、エレナは急いでカウンターの向こうへと戻ろうとした。が、やはり根がのんびり屋なのだろう。とてとてとした動きは到底、急いでいるようには見えない。それでも必死で急ごうとしているのが焦る彼女の表情から見て取れる。その姿はまるで子犬が必死になって走っているようで妙に微笑ましい。
 
 「はい。それじゃあこの宿帳にお名前を書いてくださいねぇ」
 「あぁ、分かった」
 
 そんなエレナの言葉に引き寄せられるようにディルクはゆっくりとカウンターへと歩いていく。そのままインク瓶に浸された羽ペンを取って、さらさらと名前を書いていった。それはさっきも名乗ったミルステと言う偽名である。ディルクは識字教育を殆ど受けていないも同然だが、旅をする為に独学で文字を学んだのだ。それは独学ゆえに不完全で中途半端なものだが、こうして仲間の名前を書くくらいは十二分に可能である。
 
 「はぁい、ミルステさんですねぇ♪では、お部屋にご案内します〜」
 
 そう言って宿帳を確認したエレナは再びとてとてとカウンターから出てくる。そのまま先導するようにディルクの前に立ったが、そこで足を止めて、首を傾げた。どうやら何か忘れているのに思い至ったらしい。「ん〜…ん〜?」と悩むように首を傾げている姿は何かを必死に思い出そうとしているようだ。
 
 「エレナちゃん、荷物荷物」
 「はわわぁ!に、荷物もお持ちしますねぇ」
 
 またもや客の突っ込みでやるべき事を思い出したらしいエレナにディルクは小さく微笑んで「頼む」と皮袋を差し出した。それを彼女は大事そうに受け取って両手で抱える。そのまま後ろを振り返って、とてとてと奥へと歩いていくのだ。そのゆったりとした動きに合わせて、ディルクも一歩二歩と足を進めていく。そのまま三つの部屋を通り過ぎた後でエレナは立ち止まり、腰に下げた部屋の鍵で四番目の部屋を開けた。
 
 「では、この104号室がお客様のお部屋となります〜」
 「あぁ、ありがとう」
 
 そう言ってディルクは再びエレナから皮袋を受け取った。それと同時に告げられたお礼の言葉が嬉しかったのだろうか。純朴そうなワーシープの少女はとても嬉しそうな笑顔を浮かべた。決して接客用ではないその笑顔は見ているだけで胸が暖かくなる様な素敵なものである。私も、そんな笑顔を浮かべてみたい。そんな事さえ思ってしまうほど、私はその笑顔に惹かれてしまっていた。
 
 「お夕飯はどうしますかぁ?まだ厨房の火は落としていませんし、幾つか作れますが…」
 「いや…今日は良い。少し疲れているんでもう休ませて貰うよ」
 「はぁい。分かりましたぁ」
 
 そう言ってエレナはペコリと頭を下げた。けれど、そのまま固まったように動かない。多分、また何かを忘れてしまったのだろう。微笑ましいその姿に思わず助け舟を出したくなってしまった。
 
 「チェックアウトの時間と朝食は?」
 「あぁ、はぁい!チェックアウトは十時までとなっております〜。それ以降は次の日も宿泊と言う事になってしまいますのでお気をつけください。朝食は八時までで、こちらはサービスとなっておりますですよぉ」
 
 私の出した助け舟にガバリと頭を上げて、エレナは口を開いた。間延びした口調だが、その言葉には淀みがない。少しだけ忘れっぽいだけで元々の頭は悪くはないのだろう。まぁ、ワーシープはその毛皮の魔力で年中眠そうにしているという話を聞いたこともあるし、それも仕方のない事なのかもしれない。
 
 ―案外、毛皮を刈れば凄い秀才だったりしてね。
 
 とは言え、元々、動物型の魔物と言うのは凶暴性の高い傾向にあるのだ。ワーシープもその例外ではなく、毛皮を刈れば興奮して男を襲うようになると聞く。そうなれば秀才も何もあったものではないだろう。ただ、愛しいオスを求め、孕ませられる事を望む一匹のメスに堕ちるだけだ。
 
 ―孕む…かぁ…。
 
 それは私にとってはとれも程遠いものだ。何せ私は精霊である。次世代に子供を残すことなど出来はしない。それは魔精霊も闇精霊も同じだ。どれだけ人と触れ合い、愛したとしてもその愛情の結晶である子供を産み出す事は出来ないのである。だからこそ、私は魔物である彼女が少しだけ羨ましく、神聖なものに見えてしまった。
 
 「…あ、あれぇ?今の声は…?」
 
 しかし、そんな神聖さとはかけ離れた穏やかな様子でエレナはキョロキョロと辺りを見回した。だが、彼女の目には私が映る事はないだろう。この街に入る前から姿を隠しているのは変わりないのだ。それを解くのはディルクと二人きりになってからである。私が火の精霊であり、彼と契約しているという事が知られれば、そこから捜査の手が伸びかねないのだから。
 
 ―まぁ…それでも思わず口を挟んでしまった訳だけれど…。
 
 殆ど自分で自覚しないままに助け舟を出してしまった。そんな自分に自省の念が沸く。だが、そんな私にディルクは「気にするな」と言う優しい言葉を伝えてくれたのだ。きっと私の今の気持ちが分かったのだろう。そっと横顔に意識を向ければ、その顔には笑みのようなものが浮かんでいた。
 
 「それよりさっきの件は分かったよ。ありがとう」
 「あ、え、はい〜♪伝わったのであればよかったです〜」
 「あぁ、それじゃあ」
 
 不思議そうに辺りを見渡していた顔をニヘラとだらしなく崩れさせて、エレナが嬉しそうに返した。そんな彼女にディルクは小さく手を振りながら部屋の中へと入っていく。既に魔力灯が灯っている中はこじんまりとした部屋をさらに小さくしたようなもので、一人用のベッドとその脇に小さな机があるだけだった。荷物を床に降ろせばもう殆ど足の踏み場がなくなってしまうようなそんな小さな部屋。だが、ここまで短くない距離を歩いてきたディルクにとってはそれで十分すぎるほどだろう。
 
 「ふぅ…」
 
 後ろ手に扉を閉め、鍵を掛けてからディルクは再び小さな溜め息を吐いた。普段であれば彼はこんな風に何度も溜め息を吐いたりはしない。私を心配させまいと気丈に振舞うことが殆どなのだ。だが、今はそれを忘れてしまったかのように二度、三度と溜め息を吐いている。きっとそれだけ疲れきってしまったのだろう。
 
 「大丈夫…?早く寝てしまったほうが良いよ」
 「まぁ…そうなんだが…な。荷物の整理もしないといけないし…」
 
 少しばかり鈍いその言葉はかなりの眠気を感じているからだろう。今にもオちてしまいそうな様子に整理くらいであれば変わってあげたいと思うのだ。だが、私は純精霊。物と触れ合う事は出来ず、出来る事と言ったら火の力を強めるか弱めるかが殆どである。
 
 「整理は明日でも良いじゃないか。今にも倒れそうだし…心配なんだよ」
 「む……ぅ」
 
 私の言葉にディルクは唸るように返した。そのまま迷うような表情を見せて、受け取った皮袋を床に置く。そのまま振り返って私と荷物とを何度か見比べた後、降参するように両手をあげた。
 
 「…分かった。オームを心配させると後が怖いからな」
 「人を毎日、やきもきさせてる悪ガキが悪いんだよ」
 
 軽く言い放ったそれは紛れも無く私の本心であった。普段から我慢しがちなディルクがこうして私に心配を掛けた事は一度や二度ではない。今は大分収まったが、旅の始まりなど何時倒れてもおかしくないくらいだったのだ。それでも強がって前へと進もうとする彼に何度、心が軋むような感情を覚えたか分からない。今は旅そのものにも慣れたお陰で心配をする事は減って来ているが、それでもこうして我慢をしすぎる性格は変わってはいなかった。
 
 ―…まぁ、やきもきするのはそれだけじゃないけれどねぇ…。
 
 その魅力的な外見を遺憾なく利用するディルクは女に手を出すのも早いのだ。それを間近で見せつけられている私にとって、それがどれだけ辛く、悲しい事か。私が魔精霊になれれば、そんな女に手を出さずとも幾らでもシてあげるのに。口でも胸でもアソコでもお尻でも、何処でだって彼にご奉仕してあげるのに。そう思った回数は本当に数え切れない。だが、私は未だに肉体を持たない純精霊であり、交わるどころか触れ合う事さえ難しい身の上であった。
 
 「おぉ、怖い怖い。それじゃあ年寄りの冷や水にならないように早く寝るかな」
 「誰が年寄りだって?」
 
 ディルクの冗談に怒ったように炎のような身体を燃え上がらせる。だけど、別に私はそ処まで真剣に怒っているわけじゃない。そもそも精霊に年齢と言う概念はかなり薄いのだ。永遠の命を持つ精霊にとって老いとは決して問題ではない。寧ろ、その力が増して尊敬を集めるものでもあるのだ。そんな価値観を持つ精霊に年寄りと言っても、褒め言葉にしかならないだろう。だが、それでもディルクとこんな軽いやりとりが出来るのが嬉しくて、私の炎は一気に燃え上がるのだ。
 
 「さぁ、誰だろうな…と。俺は誰とは言ってないぜ?」
 「まったく…口ばっかり達者になっちゃって…。教育を間違えちゃったかねぇ…」
 
 ニヤニヤとからかうような笑みを浮かべるディルクに嫌味ったらしくそう言ってやる。別にディルクの全てを私が教え込んだと自負する訳じゃないけれど、それは私の本心からそれほど遠くないものであった。こうしてからかってくるのはまだしも、ディルクの女遊びは少しばかり行き過ぎている感がある。いや、勿論、健康な男盛りの青年が女に興味を持たないよりはよっぽど安心できるのだけれど…しかし、それでも、やっぱり……ねぇ?
 
 「お陰様で女を口説くのにも不自由しない。オームには本当に感謝してるよ」
 「感謝してるなら言葉じゃなくもうちょっと別なもので現しておくれよ」
 「ん?何か欲しいのか?」
 「出来れば反省した態度が欲しいね」
 
 身に着けていたターバンとマントを脱ぎながら寝る準備をするディルクにそう言い放ってやる。とは言っても、私は別に何か欲しいモノがある訳ではない。何にも触れられないこの身ではどんな物を贈られても身に着けることすら敵わないのだから。
 
 ―強いて言えば…貴方の心が欲しい…なんてね。
 
 物質的な物に価値を見出せない私にとってこの世で欲しいのはたった一つ。それはディルクの心だけだ。しかし、そんなモノを口に出せば彼は困惑するだけであろう。それが分かっているだけに私は冗談のようにして誤魔化す事しか出来なかったのだ。
 
 「オーム母さんは相変わらず手厳しいな」
 「悪いね。私は教育はスパルタで行く事にしてるんだ」
 
 そんな風に冗談を言い合っている間にもディルクはどんどんと服を脱いでいく。ターバンの解かれた頭では美しい髪の色が魔力の光を受けて輝いていた。ローブを解かれた下の服も彼の手で少しずつ剥がれている最中である。自然、彼の引き締まった身体が私の目に晒され、心をざわつかせるのだ。きっとこれが欲情と言う感覚なのだろう。今にもその肌に触れたい、感じたいと感じるような感覚は裸の彼を見る度に感じる身近なものであった。
 
 ―でも…私にはそれは叶わない。
 
 どれだけその汗の浮かんだ肌に触れたいと思っても、思いっきり匂いを嗅いで見たいと思っても、舌を這わせたいと思っても、私には手も鼻も舌も存在しない。触れるべきなにものも持たず、感じるべきなにものも持っていないのだ。私とディルクの間にあるのは精神的な繋がりに近い魔力経路だけで、他は皆無と言っても良い。
 
 ―…ふぅ。止めよう。深く考えても意味のない事だしね。
 
 契約によって結ばれた絆などではない。もっと確かな肉体的な繋がりが欲しい。そう思っても私にはそれは手に入らないものだ。無論、魔精霊化すればそれは可能なのかもしれない。だが、それは同時に私の欲望が留まる所を知らなくなってしまうのだ。そうなれば最早、復讐どころではない。今まで抑えこんできた欲望を全て叩きつけるようにディルクを存分に味わおうとしてしまうだろう。それが分かっているだけに私は積極的に魔精霊になろうとは思えないのだ。
 
 「ふぅ…」
 
 そんな事を考える私の目の前でディルクの服は完全に脱ぎ去られていた。肌着も何も身に着けておらず、下着だけを身に着けた裸である。浅黒い肌を魔力灯の下で晒す身体は何処か扇情的にさえ見えた。それは惚れた弱味なのか、或いはディルクの持つ元々の魅力なのか。彼と契約し、ここまでの成長を見守ってきた私には両方の様な気がするのだ。
 
 「さて…それじゃあ眠るか」
 「うん。そうしなよ」
 
 宣言するように言いながら、ディルクはそのまま布団に腰を下ろした。瞬間、ぽふんという音と共に彼の身体が大きく揺れた。どうやら良いバネを使っているらしい。ハワード曰く質素な宿とは言え、かなり高いベッドを使っているようだ。まぁ、魔物娘の交わりにとってベッドはかなり重要であるから、ベッドの質が集客に繋がるのかもしれない。そう考えれば決して大きいとは言えないこの宿でも良い寝台を使っている理由が分かる気がするのだ。
 
 「うぉぉ…」
 
 だが、それに感動を覚えるディルクも勿論、理解出来てしまうのだ。何せ彼はここまでずっと安宿にしか泊まったことがないのである。教団に復讐するためにはあまり依頼ばかりを受けてはいられない。自然、私たちの旅は金欠が長く続き、宿泊施設は常に硬い床の上に布団を敷いただけのものか、それと変わらない硬いベッドだったのである。そんな生活を続けてきたディルクが初めて味わうマトモなベッドの感覚。それが大きな感動となったとしても何らおかしくはないだろう。
 
 「おぉ…ワーシープの毛だぞこれ…」
 
 ぽふぽふと子供のようにはしゃぎながら布団を叩くとそこから薄い魔力が広がるのを感じる。独特の色を灯したそれは間違いなくワーシープの眠りの魔力だろう。この毛の力で男を捕まえることもあると言う彼女達の魔力は触れたものに眠気を齎すと言うとても強力なものだ。特に寝具などに使うために高く取引されるそれは間違いなく高級品である。貴族などの上流階級くらいしか使えないであろうその寝具にディルクがはしゃいでしまうのも無理はない。
 
 「こんなので寝たら一生、起きれなくなってしまいそうだな…」
 「馬鹿な事言わないの」
 
 無論、それが冗談であるという事は私も理解している。だが、もし、そうなってしまったら、と考えるだけで私は凍えるようにも感じるのだ。身体などないはずなのに、まるでツララを差し込まれたかのように冷たく恐ろしい感覚が支配する。それを振り払おうと軽く叱ってみたけれど、それが成功しているとはあまり言えなかった。
 
 「悪い悪い。冗談のつもりだったんだ…っと」
 
 そう言ってディルクは立ち上がって壁のスイッチを一つ押した。瞬間、パチンと言う音と共に魔力灯が途切れて部屋の中に夜の帳が降りる。しかし、それでも真っ暗な訳ではない。枕もとの側にある大きな窓からは今も魔力灯の光が差し込んで来ているのだ。親魔物領らしく防音効果はばっちりなのか、声までは聞こえない。それがまるでここが外界から閉ざされてしまっているような独特の雰囲気を生み出していた。
 
 「これでよし。それじゃあ、今度こそ寝るな。おやすみ」
 「うん。お休み」
 
 寝る前の挨拶を交し合いながらディルクはそっと布団へと潜り込んだ。まだ水浴びもしていない処か汗も拭いていない状態だが仕方が無い。礼儀としてはちゃんと汚れないように汗の一つも拭いてから入るべきなんだろうが、今の彼にはその体力も残っていないのだろう。軽口を叩いていたさっきも疲労の色が強く浮かんでいた。
 
 ―これが…私が拭いてあげられれば良いんだけれど…さ。
 
 それが出来ればこんな風に悶々とした日々を過ごさなくて済むだろう。実質、彼は食事の準備から何から全てを一人で行わなければいけないのだ。無論、私とて手伝える事もあるが、炎の精霊に出来る事などタカが知れている。結局、ディルクがこうして疲れている時にも、私は言葉を掛けるだけで何の手助けもしてやれないのだ。
 
 ―…はぁ…これじゃ『母親』失格だね。
 
 別に私は母親であるという事にそこまで固執している訳ではない。確かに集落を出てからディルクの教育相手として様々な事を教えたりしていたが、彼がここまで成長したのは多くの人との出会いがあったからだ。そこで私が果たした役割は本当に微々たるものであろう。それに、私は母親であるよりもディルクの恋人でありたい。そう願うだけに母親と言う立ち位置にそれだけ執着している訳ではないのだ。
 だが、それでも私だって彼の母親変わりであった自負と言うものがある。彼の成長を誰よりも間近で見つめてきたものとして、やっぱり色々と彼にしてあげたいのだ。
 
 「ん…」
 
 そんな事を考えているうちにディルクが小さく寝返りを打った。それに惹かれるように意識をそちらに向ければ、彼はもう眠りの中へと堕ちているらしい。規則的な寝息を立てて、胸を上下させているのが見えた。疲れていたのとワーシープの眠りの魔力が効いたのだろう。ほんの数瞬、目を離していただけの間に彼は深い眠りに堕ちていた。
 
 「うぅ……う……うぅ…」
 
 だが、その中でディルクは小さく呻き始めた。きっと何か悪夢を見ているのだろう。それは…別に今に始まったことではない。こうして疲れていると心まで弱くなるのか、彼は良く魘されているのだ。一体、何を見ているのかは本人に聞いても覚えていないらしい。だが…彼がここまで魘されるのなんて故郷での出来事しかないだろう。未だこうして魘されるほど、あの出来事は彼の心の中に強くこべりついているのだ。
 
 ―ディルク……。
 
 横たわった身体を丸めて何かに耐えるような姿勢を取りつつも、彼の呻きは止まらない。その閉じられた瞳からは涙すら浮かび始めていた。ついこの間まで幸せそうにしていた隣人が飢えて、渇き、死に、そして、腐っていく。そんな地獄の様な光景が彼の目蓋の裏では再生されているのだろう。
 
 ―でも…私には…。
 
 その悪夢を消すどころか涙を拭ってあげることすらできない。彼の痛みを肩代わりしてあげる事も、彼の代わりに涙を浮かべることも出来ないのだ。ただ、こうして彼の魘される姿を見つめ、心配するだけ。それが…それがどれだけ辛い事か。今まで生きてきた中でもディルクが魘されるのを見るだけのこの時間が一番、無力であると感じさせる。それはあまりにも辛すぎて思わず逃げ出したいという弱音さえ顔を出すほどだ。
 
 ―でも…ここから逃げたくはない。
 
 私はあの日、誓ったのだ。私だけはこの子を裏切らず、ずっと傍に居てあげようと。他の誰もがこの子の傍から消えてしまっても、私だけはずっと支えてあげようと。それが私の契約だ。それを…反故には、いや、嘘にはしたくない。ディルクの最期の瞬間まで私は彼の傍に居続ける『義務』があるのだ。
 
 ―…ディルク…ごめんね…。
 
 傍に居るのが私のような出来損ないの集まりでなければ良かっただろう。いや、それどころか私が破壊に特化した炎の精霊でなければ…彼は復讐など考えなかったかもしれない。外の街に出て分相応な幸せを得ていたかもしれない。もしかしたら…玉の輿に乗って今頃は左団扇の生活だったかもしれないのだ。それは…勿論、考えても仕方の無い仮定の話である。だが、彼をこんな修羅の道に引きずり込んだのには少なからず私の責任がある。だが、その精霊はそんな彼に何も返すことが出来ていないのだ。その涙一つ拭ってやることの出来ない無能なのである。
 
 「…ごめんね……ごめんね…」
 
 そう謝る度にディルクがまた大粒の涙を流す。それに胸を痛めても私は何もする事が出来ない。ただ、謝罪の言葉だけが溢れるだけだ。
 
 ―そして、私はそのまま夜更けまで魘され続ける彼の上で謝り続けたのであった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ―それから三日が経った。
 
 ハワードの言ったとおりこの宿の宿泊料金はかなり安いものであった。いや、その言葉では足りないだろう。まさに破格とも言うべき値段で一泊が可能なのだ。他の街では場末の安宿に泊まれるかすら妖しい値段でここでは一泊が可能なのだから。一体、どれだけの価格競争があったのか。それすら想像もできないくらいだ。
 
 ―その間、私たちは穏やかな生活を続けていて…。
 
 他では類を見ない安さに私たちはここに腰を落ち着けてこの街を出歩いていた。それは今までとは違う何処か穏やかなものである。まるで単純に観光に来ているように色々なものを見て楽しんでいた。だが、その間もディルクの顔は何処か晴れない。時折、思いつめたような表情で修道院の方を見ているのだ。きっと楽しんでいるといっても、迷いがまだまだ晴れてはいないのだろう。女遊びも鳴りを潜めて、夜になれば大人しくこの宿に戻ってくるのだ。そして、エレナお手製の夕食を食べて、横になるのがここ数日のパターンである。それら全ては破格とも言える安さで、経営が心配になってしまうくらいだ。
 
 ―でも…経営が苦しい訳じゃなさそうで…。
 
 初めての宿泊から数日が経った後もこの宿には同じ面子が泊まっている。途中で何人かが増えたりもしたがそれだけだ。決して減る事はなく、夕方には仲良く話している。最近はその輪の中にディルクも入れるようになり、元々の人懐っこい性格から可愛がられて…いや、それはさておき。つまり固定客の居るこの宿はしっかりとした収益があるので、経営が苦しい訳ではないらしい。
 
 ―まぁ、エレナもいるしね。
 
 店主であるエレナはワーシープである。そして彼女の毛は高額でされる商品である。そんな彼女が経営している宿が多少傾いた所で、毛を売ればすぐに赤字補填が可能だ。元々、エレナは利益が目的で宿を開いているのではなく、多くの人に安らいで欲しいと言う趣味で開いているそうなので多少、経営が苦しくても続けていくのだろう。
 
 ―それに…もうエレナは相手を見つけているみたいだしね。
 
 最初にエレナに向かって野次を飛ばしたヘンリーはどうやらこの宿唯一の従業員にして彼女の夫であるらしい。時折、幸せそうに二人で抱きあって窓際で眠っているのが目に入る。まるで何の心配もないと言わんばかりに安らいだ表情は少しだけ羨ましいくらいだ。それだけ安心できる相手がいて…そして自分の趣味にも付き合ってくれる。それがどれだけ幸せな事かきっとエレナは分かっているのだろう。毎日、にこにこと幸せそうな笑みを浮かべているのも種族柄ではなく、彼女がそれだけ幸せを味わっているからだ。
 
 「…良いなぁ…」
 
 私もエレナのようになりたい。そんな憧れが思わず口から出てしまった。それに焦って辺りを見渡したが、正午のこの宿には誰もいない。いや…居ると言えば居るのであるが、その二人はさっき手と手を取り合って自分の部屋に行ってしまった。きっと今頃はよろしくヤっているのだろう。
 
 「何がだ?」
 
 そんな誰も居ない空間だからこそ、ディルクも遠慮なく私に聞き返してくれる。だが、今はそれが少しだけ辛い。何せ私はそんな魔物の生き方を羨ましいと思っていたのだ。いや…魔物と言うか、その、エレナはとても良い子で、女――いや、私には明確な性別はない訳だけれど――として羨ましいと言うか…。まぁ、その、なんていうか、とりあえず、ディルクには中々、言い難い感情なのだ。
 
 ―とは言え…ここで「なんでもない」って言うのはねぇ…。
 
 ただでさえ、最近はディルクに心配を掛けさせてしまっている事が多いのだ。それは無論、私が色々な感情を渦巻かせるようになったからである。それを「なんでもない」と誤魔化し続けてきた私にとっては、それを言うのは少しばかり憚られた。こんな何でもない一幕でディルクに心配を掛けさせる訳にはいかないと必死で頭を動かし始める。
 
 ―…あ。
 
 そこで私の目に留まったのはディルクが手に持っている小さなティーカップだ。そ処にはセルフサービスで飲み放題のブラックコーヒーが入っている。そこまでやって採算が取れるのかとも思うのであるが、これも別の魔物が趣味で育てているコーヒー豆で作っているらしい。無論、その魔物も育てる事そのものが目的なので利益などは殆ど重視せず、タダ同然で譲ってくれる、と言っていた。
 
 「いや、私も一度、コーヒーとやらを飲んでみたくてねぇ」
 「む」
 「まぁ、私が飲もうとしても素通しちゃうだけなんだけどさ」
 
 軽く冗談のように言ってみたものの、ディルクの顔は少しだけ考え込むようなものになっていた。どうやら今のは彼の何かに触れてしまったらしい。思いつめるような表情に何となく胸がざわついた。そんな顔をさせない為に冗談っぽく言ったのに、それがいけなかったらしい。
 
 「あ、いや、冗談だよ。気にしないでおくれ」
 
 そんな風に付け加えてもディルクの顔は晴れなかった。麻色のシャツに若草色のズボンと言う洋風の衣服を着込んだ身体を前倒しにしてそっと口元に手を置いた。人差し指を唇に当てるようなそれはやはりかなり考え込んでいる証拠なのだろう。その顔には少なからず、迷いのようなものが溢れていた。
 
 「…なぁ、オーム」
 「ん?なんだい?」
 「……やっぱりその…辛いのか?」
 「え?」
 
 ディルクの言葉を私は理解できなかった。辛いとはどういう事なのだろう?確かに私は手の届かない無力感に打ちひしがれている事も少なくない。幸せそうにしているカップルを見てあんな風になりたいという羨望を抱いたのは両手の指では足りないだろう。だが、それはその時々の話だ。こうして穏やかな正午の時間を過ごす中では、その辛いと言う言葉は不適切な気がする。
 
 「何をいきなり。私はディルクと一緒に居られるだけで幸せだよ」
 
 それに嘘偽りは決してなかった。確かに彼の傍に居ると胸が痛む事は沢山ある。肝心な事は何も出来ない自分に嫌悪する事も少なくはないのだ。だが、それでもそれ以上に失えば二度と手に入らない幸せと言うものだと理解もしている。この痛みも嫌悪も、ディルクといなければ味わえないものだ。そう思えばそれもまた幸せの一部のようにも感じる。
 
 ―…そう言うと被虐趣味があるような感じだけれどさ。
 
 でも、幸せななだけが幸せではない。それを私はこの長い旅路の中で知ったのである。酸いも甘いも何もかも含めてこその幸せだ。それを受け止められない人間はきっと恋に恋しているだけに過ぎない。きっと少しばかり辛くなっただけで、失望として相手に嫌悪を向けるのだろう。だけど、私は違う。手放せばもう二度と手に入らないものであると、そして何も感じない日々がどれだけ無味乾燥かも知っているのだ。既に彼の居ない日々など考えられない私は痛みも苦しみも何もかも含めて、それを幸せだと言い切ることが出来るのである。
 
 「…だが、以前から迷っていたのは…魔精霊化したいからじゃないのか?」
 「っ!!」
 
 私の悩みを的確に見抜かれて私は一瞬、絶句した。彼の対面に浮かぶ身体も同様を現すようにぱちぱちと弾ける。それは人間の表情よりも遥かに分かりやすい動揺の指標だろう。特に私とずっと一緒に居たディルクであれば尚更だ。その証拠に彼はその真剣そうな顔に確信を強めて私を射抜いている。
 
 「…やっぱりか」
 「あ…いや、違うんだよディルク」
 
 自分で言っていてもその言葉は説得力の無いものだと思う。だが、それでも私はそれを言わずにはいられなかった。否定する材料なんて見当たらないけれど、それでも体面を整える為に否定しようとしていたのである。
 だが、それはディルクにあっさりと見抜かれたのだろう。彼は言わなくて良い、と言わんばかりに首を左右に振った。そのまま口を開いて、言葉を紡いでいく。
 
 「誤解しないでくれ。俺は別にそれを責めている訳じゃない」
 
 ―…でも、ディルク…。
 
 魔精霊化と言えば聞こえは良いかもしれない。だが、実際は魔物化だ。元々、魔力の塊である精霊はサキュバスの魔力の影響をとても受けやすい。下手をすれば空気中に浮かぶサキュバスの魔力だけで魔精霊化してしまう可能性だってあるのだ。そしてサキュバスの魔力に侵された精霊は魔物に近い価値観を持つと言う。
 
 ―私は幸いにも今まで魔精霊化する事はなかった。
 
 それは今までサキュバスの魔力の少ない教団の支配地域を渡り歩いてきたからであろう。だが、それも最近は少し危うい。何せこの街には魔物が一杯居るだけあってサキュバスの魔力が空気中に充満しているのだ。その濃度は何時、魔界化してもおかしくないほどである。そんな中で影響されやすい精霊がぽつんといればどうなるか。放っておけばすぐにでも魔精霊と化してしまうだろう。それを防ぐために私は四六時中気を張って、魔精霊と化さないように気をつけているのだ。
 
 ―それらは全てディルクの為に。
 
 彼がもし復讐を再開すると決めた時、私は魔精霊化しては計画が思うように進まなくなってしまうだろう。魔物に近い価値観を持つ魔精霊は不必要に人を傷つけるのを嫌うとも聞く。そんな存在になってしまえば、私はもう復讐できなくなってしまうかもしれない。いや、それどころか四六時中、ディルクを交わる事ばかり考えて、足を引っ張ってしまうかもしれないのだ。
 それに彼は敬虔な精霊信仰の信者である。生涯の相棒とも言っても良い私には親愛に溢れた口調を使っているが、それでも彼の心に敬意がなくなった訳ではない。何時でも彼は私を立ててくれているのである。そして、それほどディルクに深く根ざした精霊信仰は魔精霊を精霊と認めないものでもあるのだ。そんな価値観を持つ彼の前で魔精霊化してしまったらどうなるか。嫌われ、軽蔑される事だって考えられるだろう。
 
 「ただ…俺は…」
 「火事だあああああああああああ」
 「っ!!!」
 
 その瞬間、あたりに劈くような大声が響いた。それに私たちはお互いに顔を見合わせ、一気に外へと駆け出す。バタンと乱暴に開かれた扉の感触と同時に人々が右側へ…つまり、修道院の方へと駆け出しているのが見えた。そのまま意識を上に向ければもくもくと煙が立ち上っているのが分かる。一体、どれだけ放置していたのか。その火の手はかなり強く、既に燃え広がっているのを感じさせる。
 
 「なんなんだこの燃え方!?」
 「分からん!!いきなり燃え出して…!」
 「くそ!水だ!!もっと水を持って来い!」
 
 お互いに大声を出しながら、人々がバケツを持ち出して水を運んでいるのが見える。だが、それも焼け石に水と言った状態なのだろう。通りの向こう側に見える火の手はまるで治まる気配がない。放っておけばそのまま全焼してしまうだろう。それほどの激しい勢いであった。それに…私は嫌な感覚を覚えてしまう。それが何なのか理解していても、口に出したくないほどドス黒く絡みつくような感覚。それが私の身体を大きく震わせて、脅えるように火の粉を飛ばしていた。
 
 「…行くぞオーム」
 
 そう短く伝えてディルクは一気に駆け出した。必死にバケツを運ぶ人々を越えて、そのまま大通りへ。その頬から幾つか汗が流れ落ちていった。だが、時刻は昼とは言え、季節は冬に近い。それにディルクはそれなりに鍛えており、多少走ったところでバテたりはしないのだ。それでもこうして汗を流しているという事はきっと…同じように嫌な予感を感じているのだろう。
 
 ―そのまま私はディスクと一緒に人々の波を避け、大通りを突き進み―
 
 「…やっぱりか……」
 
 その言葉と共に見上げた先は小さな修道院であった。美しい真っ白の外壁を焦がすような炎が窓から吹き上がっている。それは決して普通の火の勢いとは思えない。明らかに何かしらの手が加わっているというのが炎の精霊である私には分かる。しかも…それはきっと魔術的なものなのだろう。現場に残る微かな魔力の残滓がそれを教えてくれた。
 
 ―くそ…っ!!まさか…こんな時に……!!
 
 嫌な予感が的中してしまった感覚に私は内心、毒づいた。これがまだ他の街であれば問題ない。だが、あのハワードと言う男に正体が露見し、釘を刺されてしまったこの街でこれほどの大火事。しかも、燃えているのは仮にも教団の施設であり、現場に魔力が残っているとなればまず間違いなく疑われるのはディルクだ。下手をすればろくな調査もされず逮捕されるのも考えられる。そんな事になる前に逃げ出すべきだろう。幸い荷物はこの前から纏めてしまっているのだ。この騒ぎに乗じて逃げ出そうとする余裕はまだある。
 
 「おい!魔術士はまだか!!普通の水じゃ無理だ!!」
 「全部、吹き飛ばさないと周りにも燃え広がるぞ…!!」
 「やめて…!あの中にはまだ子供が居るんです…!」
 「っ!!」
 
 悲痛な叫びにディルクの視線が向かったのは黒衣の修道女の方であった。恐らく急いで逃げ出したのだろう。その胸に泣き叫ぶ何人かの子供達を抱きしめながら、必死に叫んでいた。しかし、それに気付くものは殆ど居ない。皆、普通にはない炎の様子に気圧されてしまっているのだろう。燃え広がる前に建物を潰すしかないと必死に魔術士を呼んでいる。しかし、そうなれば中に取り残されているという子供は確実に死んでしまうだろう。
 
 ―でも…ディルク…構っている時間は無いよ。
 
 間違いなく第一容疑者になってしまう私達には今は一刻の余裕も無いのだ。このままここに立ち尽くしていれば間違いなく捕まってしまう。そうなればろくな調べもなく投獄される可能性もあるのだ。その前に、私たちは逃げなければならない。復讐を再開するにしても、止めるにしても、逃げ延びなければ話にならないのだから。
 
 「…オーム。行くぞ」
 「なっ…!!」
 
 だが、それが魔力経路で伝わったはずのディルクは前へと踏み出す。そう。荷物の置いてある宿の方角ではなく前――燃え盛る火の方向へ。それは様々な意味で自殺行為であろう。明らかに魔術の影響を受けている炎の中に突っ込んだら無事では済まないだろうし、無事で済んだとしても待っているのは手錠かもしれないのだ。そんな中にディルクは今、足を踏み入れようとしている。それを必死で止めようとしても、彼の足は止まらなかった。
 
 「馬鹿かい!あんな中に突っ込んで一体、何が出来るって言うんだ!?」
 
 どれだけ魔力経路を使っても止まらない彼に思わず声を上げてしまう。だが、周りが軽くパニック状態なお陰かそれに訝しげな視線を向ける人間は居ない。それに幸いと再び言葉を紡ごうとした瞬間、ディルクが先に口を開いた。
 
 「俺にはお前が居る。大丈夫さ」
 「確かに普通よりもマシだろうけどね…!だけど、あんな炎の中じゃ私の加護だって長続きしないよ!!」
 「それでも良い。中に居る子供を見つける間だけ持てば後は俺がやるよ」
 「っ!!」
 
 それは頑固と言うより無謀と言うべきだろう。火事現場において最も恐ろしいのは炎そのものではない。煙だ。下手をすれば一呼吸で人を絶命に追い込むその毒は、人の意識を奪う事もままある。そして、その煙は幾ら炎の精霊と言っても軽減できるものではない。いや、これだけの勢いで吹き上がる炎を見るに多少、軽減できたって同じ結果になるだろう。
 
 「馬鹿…!無理に決まっているだろう!!それにそんな事をやった所で…!」
 「捕まるだろうな」
 「っ!それが分かってるならなんで!!」
 
 ディルクの言葉には諦観のような響きはなかった。別に逃げるのを諦めたわけではないのだろう。寧ろ彼は確固とした意思で燃え盛る修道院に足を進めている。それが私には理解できなかった。当然だろう。あれだけの炎の中に突っ込むなんて自殺行為も同然である。それに上手く帰って来れた所で感謝される事は恐らくない。寧ろそのまま捕まって投獄される可能性の方が高いのだ。
 
 「俺は…ずっと迷ってた。アイツ等と…教団の連中と同じなのかって」
 「何を…!!」
 
 唐突に始まったディルクの独白。だが、今はそれに構っている暇はない。それよりも一刻も早く逃げなければ、捕まってしまうかもしれないのだから。だが、落ち着いた彼の口調はまるで焦りを感じていない。それどころか死ぬかもしれない場所に足を進めているというのに怯えさえもなかったのだ。
 
 「…それがこの街に来て…少しだけ答えが出た気がする。あの男の言う通りだ。俺は…お前を…精霊を傷つけるのに使った時点でアイツ等と同類なんだろう」
 
 ―そして、ディルクは落ち着いた口調でそのまま独白を続ける。
 
 それは私にとって何より否定したいものであった。確かにディルクは正義を行っているとは言い難い。だが、あの理不尽な教団の連中と同じなものか。教団は私たちに協力を強要したが、ディルクは違う。寧ろ私たちが進んで力を貸しているのだ。その違いは私にとって天と地ほどの開きがある。だが、ディルクはそうは思っていないのだろう。…元々、彼は敬虔な精霊信者だ。こうして誰かを傷つけるよりも、誰かを愛するほうがよっぽど似合っている青年なのである。
 
 「だけど…そんな俺にだってプライドはあるんだ。アイツ等と同じには堕ちたくはない」
 「同じって…」
 「ここで救えるかも知れない命を見捨てたら…それこそ俺達を見捨てた教団の連中と同じになる。俺はそう思うんだよ」
 
 そう言ってディルクは少しだけ笑う。それは悩みの色はない穏やかなものであった。彼のそんな姿を見るのは何時振りだろうか。復讐を始めると決めてから滅多に見ないその顔に彼が悩みを吹っ切ったのを感じる。それに私の心は真っ二つに割れた。彼が悩みを振り切って答えを出した事は喜ぶべきことだろう。だが、その所為でディルクは死地にも近い場所に踏み込もうとしている。それが私にはどうしても喜べない事であった。
 
 「だから…俺は行く。ヒーローになりたいとかじゃなくて…俺自身の為に」
 「……馬鹿だよアンタは…」
 
 死んでも生きて変えれても結果は最悪に近い。それでも決心を揺るがさない彼に思わず悪態めいた言葉が出てしまう。だが、それは抗議の言葉では決してなかった。今のディルクに何を言っても無駄だろう。それが分かっているからこそ、私から出るのは拒絶ではなく悪態なのだ。
 
 「悪いな」
 「…良いよ。ディルクのしたいようにすれば良い。私はそれを最大限サポートしてやるさ」
 「…ありがとう」
 
 短く交わされた言葉を背にディルクは一気に修道院に向かって駆け出した。一気に前屈みになって加速した身体はそのまま人込みを切り裂くようにして進んで行く。それを怪訝そうに見つめていた何人かがディルクの意図に気付いたのだろう。まるで燃え盛る火の中に身投げするような勢いで進むディルクを止めようと腕を伸ばしてきた。
 
 「おい!死にたいのか!!」
 「止めろ!命は投げ捨てるもんじゃない!」
 「中に子供がいるんだ!俺なら助けられるかもしれない!」
 
 彼を気遣って止めようとしてくれる人々の手を振りほどき、或いは交わしながらディルクは人込みを突き抜けた。それは最早、他の人には追えないものであっただろう。何せ修道院の扉から吹き出る炎は道まで熱気を届かせるほどのものであったのだから。火の激しさに本能的な恐怖を感じる人間がそれ以上、近づけるはずがない。
 
 ―…のはずなんだけれどねぇ。
 
 それでもディルクは迷いなく足を進める。それは私を信頼してくれているからなのだろう。ならば…私はそれに応えなければならない。文字通り全身全霊で全ての力を掛けて、私はディルクを護らなければいけないのだから。
 
 ―ここで終わりなんて…認めないからね…!!
 
 その意思を篭めて私は一気に力を広げる。周りの火の勢いを抑えつける様なそれに炎が怯むように弱くなっていった。だが、それでも火の勢いは決して大人しいものではない。まるでそれ自体が意思を持っているかのようにディルクを焼き殺そうと熱気を吹き付けてくるのだ。だが、それは火の精霊の加護を得たディルクにとって耐えられないものではない。一瞬、顔を歪めたものの、彼は扉を突き破るようにして中へと入っていった。
 
 「これは…やばいな…!」
 
 姿勢を低くし、口元を手で押さえながらディルクが小さく呟いた。外もかなり危なくなっているが、中は一面、炎で真っ赤に染まっている。火の海と言う言葉が何より相応しい光景は何かの冗談のようにさえ思えた。これほど世界が炎の赤と煙の黒に染まることがあるのか。そう思うほどの光景にディルクの足が竦みそうになっているのが分かる。私の加護がなければ一瞬で火達磨になってもおかしくはない。それだけの炎が所狭しと広がっているのだから。
 
 「…ディルク!」
 
 だが、今は様々な意味で時間が無い。ここでこのまま延焼が続けば、遠からず修道院が倒壊するだろう。そうなった時、下敷きになるのは他でもないディルクだ。そうなれば確実に助からない。私の加護だって何時まで持つか分からないのだ。どうせもう後戻りはするつもりはないのだから、時間を無駄にしている余裕は無い。その意思を篭めて、私は彼の名前を呼んだ。
 
 「…分かってる!急ぐぞ…!!」
 
 その意図が伝わったのだろう。ディルクは再び瞳に強い力を灯して足を踏み出して行く。その歩みは力強く、炎にも負けないものであった。それに微かな安堵を感じながら、私は身体中を震わせるように大きな声を出す。
 
 「おぉぉい!!誰かいないか!?」
 
 もくもくと立ち上る煙を出来るだけ吸い込むようにしているディルクには声を張り上げる余裕がない。そして、肉体を持たない私には煙や炎から影響を受けることが殆ど無いのだ。視界が黒に覆われたり、弾けんばかりの炎の力を感じて調子が良くなったりはするがそれだけである。ならば、私が代わりに声を上げるべきだろう。
 
 「……」
 
 そう思っての行動であったが、返事は返ってこなかった。それほど大きな建物ではないので恐らく全域に聞こえているはずだろう。だが、それでも返事がない。外の喧騒にかき消されて聞こえていない可能性もあるが、取り残された子供が意識を失っている可能性も高い。
 
 ―そう考えれば…ここでグズグズしてる暇はないね。
 
 この街へ来たばかりの頃にも見たが、この修道院には何人かの子供が住んでいるようだ。となれば、この建物の中には幾つかの個室があるのだろう。取り残された子供と言うのが複数と言う可能性も考えられるだけに全ての部屋を回るしかない。となれば、本当に時間との勝負になってしまうだろう。
 
 「ディルク…急ぐよ…!」
 「あぁ…!!」
 
 吹き上がる煙に涙を浮かべながらもディルクは必死に私の後ろを着いて来る。その間に私は辺りの部屋を見て回った。リビングから台所。小さな教室、そしてお風呂まで。だが、一階には誰もおらず、人影一つ見えない。そうしている内に炎の勢いはさらに激しくなり、天井の一部が崩れ始めていた。
 
 ―まずいねこれは…!!
 
 正直、ここで二階に上るのは自殺行為だ。一回の天井が崩れているという事は二回の床が何時抜けるか分からないも同義なのだから。その上、ディルクを護る力も薄れて来ていて、彼の額には珠の汗がぶっしりと浮かんでいる。咳き込む顔には余裕がなく、今にも倒れてしまいそうだ。しかし、それでもディルクは諦めてはいない。その瞳に確固たる意思の光を灯しながら、私を見据えていた。その瞳に私はここで帰ろうと言う言葉を飲み込まされてしまう。
 
 ―あぁ…もう!本当に手の掛かる子だね…!
 
 そのまま翻って燃え盛る階段を上り、二階へと駆け上がっていく。二階は一階とは違い廊下が一本真っ直ぐ通っていて、そこに幾つかの部屋が並んでいた。多分、そこが子供達や修道女の個室なのだろう。それを覗き見るのは少しだけ気が引けたが、今はそんな良心に構っている訳にはいかない。身の軽い私が先導し、先に部屋の奥を伺っていくのだ。その後ろからディルクが一歩一歩確かめるように着いて来て、何時でも扉を蹴破る準備をしている。だが、どの部屋にも子供の姿は見えない。一体何処に居るのだろうか。そんな焦りが内心に募り始めた時に私は一番、奥の部屋で横たわる小さな男の子を見つけた。
 
 「っ!!ディルク!ここだよ!!」
 「分かった…!」
 
 大声で叫ぶ私に応えてディルクの足が燃える扉を蹴破った。そのままディルクが急いで子供へと駆け寄る。そのまま首筋に手を当てたり、呼吸を確認し始めた。それは数十秒ほどの短い時間だっただろう。だが、私にとってはその時間がまるで一時間のようにも感じた。自分達の決意や勇気が無駄になるか、ならないかの重要な要素。それが判明するまで私の心はざわついて収まらなかったのである。
 
 「良かった…多分、早めに気絶したんだな。煙はそれほど吸ってないし、呼吸にも異常は無い」
 「…ふぅ…」
 
 ディルクの告げた言葉に私の口から思わずため息が漏れ出た。それは彼の勇気が無駄ではならなかったことの証であろう。あくまでもとりあえず、ではあるが。
 
 ―なにせここからが問題なんだからね…。
 
 炎の勢いが強い此処は私の力が大きく高まる場所でもある。だが、ディルクにその炎が牙を向かないようにするのにも大きな力を使わなければいけないのだ。それは高まる力よりも遥かに大きく、私を疲労に近い状態に追い込んでいる。そんな状態で私はこの子にも加護を分け与えなければいけないのだ。その上、ディルクもここまででかなりのダメージを負ってしまっている。その歩みは自然、遅くなってしまうだろう。
 
 ―どうやら…分の悪い賭けになりそうだ。
 
 これが命やお金が掛かってなければそれも悪くないのかもしれない。だが、既に私もディルクも命をベットしてしまっているのだ。掛け金は既に戻らず、奇跡でも起こらなければ勝ちはない。そんな状態に私は内心、溜め息を吐いた。やっぱり命懸けで止めておけばよかったと、そんな事さえ思うのである。
 
 ―ま、今更…か。
 
 既に起こってしまった事を悔やんでも仕方が無い。それよりも今は生き残る方法を全力で考えよう。そう思って周りに意識を向けた私に一つのカーテンが目に入った。普通の物よりも遥かに丈の長いそれは間違えて購入してしまったのだろうか。ダラリと床に垂れ下がっている状態であった。だが、その長さが今は神の助けにも思えるのだ。それなりの長さのあるそのカーテンは窓の外から降りるのに使えるかもしれない。無論、既にこのカーテンにも炎が燃え移ってしまっているが、ディルクが降りる間くらいは私の加護も持つだろう。
 
 「ディルク!あのカーテン…!!」
 
 私が言わんとする事に気付いたのだろう。その言葉にディルクは少年を抱きかかえて窓辺に寄った。そのまま乱暴に二つのカーテンを引き千切りぎゅっと二つを結ぶ。そのまま炎の熱で割れた窓から地面へと垂らすが勿論、長さが足りない。ロープでもなんでもないのだから当然だろう。だが、少しくらいの高さであれば痛みを我慢すれば良い。着地の後に歩けさえすれば命が繋がるのだから。
 
 「…うん。いけそうだな」
 
 そのままカーテンを窓枠に括りつけて、二三度引っ張ってもそれは千切れる気配がなかった。どうやらよっぽど丈夫な糸で編まれているらしい。少しくらいの負担もこのカーテンであれば耐えてくれそうだ。
 
 ―だけど…時間の猶予はない。
 
 どれだけ丈夫なカーテンであろうと火にはどうしても弱いのだ。そして、床へと垂れ下がるほど長いカーテンには既に火が点いてしまっている。それがカーテンを燃やし尽くすのが先か、それとも私たちが地面に着けるのが先か。まだまだ予断は許さない状態だ。
 
 「背中にこの子をくくりつけられるものなんかは…」
 「ちょっとないみたいだね…」
 
 丁度、逆側には同じようなカーテンがあるが、そちらのカーテンはもはや燃え尽きてしまっている。そちらだけ火の勢いが強かったのか、或いは元から小さかったのか。今からすれば分からないが、使えないのであれば同じだ。他にも使えそうなものを辺りから探したが丈夫そうなひも状の物は見つからない。
 
 「仕方ない。先にこの子から降ろそう」
 「…うん」
 
 意識を失っている子供と青年の男性。その二人が一緒にいるのであればまず前者から優先するのが普通の事だろう。だが、それにどうしても嫌な予感を感じてしまうのだ。まるでこの選択が間違っているような漠然とした不安。そんな感覚が今の私の心を支配していた。
 
 ―大丈夫…弱気になるんじゃないよ…!!
 
 そう自分に言い聞かすが胸の奥から沸き上がってくる嫌な感覚は止まらない。それどころか不安はどんどんと膨れ上がっていき、重大な間違いを犯しているような違和感すら感じてしまうのだ。私はそれから必死になって目を背けながら、窓の外から見える人込みに向かって大きな声を張り上げる。
 
 「おぉーい!!子供を見つけたよ!!降ろすから誰か受け取っておくれ!!」
 
 私の声に視界の下にいる人々が顔を見合わせてざわつき始める。その中で何人かの男が手を上げて、こちらへと近づいてきてくれた。どうやら彼らが子供を受け取ってくれるらしい。決意に満ち溢れたその表情に頼もしささえ感じてしまう。実際、受け取るとといっても簡単なことではない。窓から炎が吹き上がるこの修道院に近づくだけでも足が竦むだろう。それでも前へと出てくれる彼らに私は少なくない感謝を抱いた。
 
 ―でも、今はそれに浸っている余裕は無い。
 
 折角、こうして名乗りを上げてくれたのだ。その彼らの決意を無駄にしたくはない。それはディルクも一緒なのだろう。床へと降ろした子供にカーテンを硬く結び付けている。御腹にカーテンを巻きつけた姿はまるで釣り餌を彷彿とさせたが、今はそれに笑っている余裕は無い。ディルクも真剣そうな表情でカーテンの強度や結び目を確認している。
 
 「よし…ごほっ…大丈夫…だ…!」
 「ディルク……」
 
 大きく咳き込む彼の姿はもう限界にさえ見えた。それも当然だろう。既にこの修道院に突入してから十数分が経過しているのだ。その間、ずっと加護を与え続けていたとは言え、舞い上がる煙からは庇う事も出来ない。猛毒と言ってもいいようなその煙を彼はもう十数分も吸い続けているのだ。正直、何時倒れてもおかしくはない状態だろう。
 
 ―…本当は…ディルクの方から先に下りてもらいたい…。
 
 だが、それはこの男の子を見捨てる選択でもあるのだ。それを今更、彼が選択するはずがない。ここで命を惜しむような男であれば最初から突入などはしていないだろう。ならば…ここで問答などしても無駄だ。それよりも早く脱出できるようにした方が良い。そう言い聞かせるように胸中で呟いて、私は再び外へと意識を向けた。
 
 「今から降ろすからね!!準備は出来たかい!?」
 
 私の言葉に名乗りを上げた男達がその手を上げて応えた。彼等は既に濡れ鼠と言って良い程に水を浴びている。冬にも入ろうという時期にそんな姿になれば凍えるような冷たささえ感じるだろう。だが、彼らの目には後悔はない。それに安心しつつ、私は彼に下へと送るように言った。
 
 「ゆっくりだよ…ゆっくりだからね…!」
 「あぁ…それよりオームも…げほっ…あの子に…加護を与えるのを忘れるなよ…」
 
 文字通りこのカーテンが私たちの命綱であるのだ。これが途切れてしまうことは文字通り私たちの死を意味する。だからこそ、はやる気持ちを抑えてゆっくりと降ろす必要があるのだ。そして、その間に加護を与え続ける必要も。確かに外は中よりも幾分、安全とは言え、窓から噴出し、外壁を焦がす炎は十二分に危険なものだ。そんなものに巻き込まれてしまえば、一生物の火傷を負ってしまうかもしれない。
 
 「おい…!あのカーテン燃えてるぞ…!!」
 「正気かよアイツ!!」
 「黙ってな!!」
 
 ざわつく人込みに叫びながらも、彼らが騒ぐ気持ちは分からないでもない。確かにこのカーテンは既に燃え移ってしまっており、何時途切れるか分からない状態だ。並のものよりも丈夫であるとは言え、布では炎からは逃れられない。炎が燃え広がるのが先か、この子が安全圏まで降りられるのが先か。それは正直、誰にも分からないものであるだろう。だが、それでも今の私達にはこのカーテンくらいしか頼るものがないのだ。
 
 ―それでも…何とか順調にいけている。
 
 意識を失った子供をバランスを崩さないようにゆっくりと降ろす下で男たちは炎にもめげずに待ち構えている。後、数回も降ろせば彼らの手の届く場所までいけるだろう。後もう少し…そうディルクに伝えようと後ろを向いた瞬間、私は思わず絶句した。
 
 「…っ!」
 
 そこにはもう余裕がまるでなかったのである。窓枠にくくりつけられたカーテンは既に伸びきってしまって、これ以上、降ろす余地がない。後数回…後、数回だけ降ろせば手が届くというのに、その数回が不可能になってしまっていたのだ。さきほど確認した時はいけそうだったのにどうして…いや、待て――それは括りつけた分の長さを考慮する前の事で……!!
 
 ―…しまった…!!短くなる分を計算に入れるのを忘れていた…!!
 
 「…ディルク…」
 「まず…いな……」
 
 もう煙を吸い込みすぎて意識が朦朧とし始めているのだろう。額に手を当てたディルクはふらふらとふらつき、立っているのもやっとと言う状況だった。だが、それでもディルクはこの状況を何とかしようと必死で頭を動かしている。
 
 ―ガシャンッッ!!
 
 「キャー!!」
 「っ!!」
 
 窓が割れた音と悲鳴。その不快な協和音に意識を外に向ければ、一階の窓から吹き上がった炎がカーテンに燃え移っている状態であった。既に真っ黒に染まった場所に引火したその炎は負荷に耐えてくれていたカーテンを引き千切っていく。そのままいけば燃え広がった炎が子供にまでその手を伸ばす事だろう。
 
 「…オーム…燃やせ…!」
 「え…?」
 「焼き切って…下へと降ろすぞ…!」
 「そんな…!?」
 
 確かに事態に一刻の猶予はない。だが、そんな事をすればもうディルクが助かる道がなくなってしまう。立っているのもやっとと言うディルクが無事に階段を下りて脱出できるはずがない。つまり、この蜘蛛の糸にも似たカーテンだけが唯一、助かる道なのだ。だが、彼は今、それを焼き切ってしまえという。それが確かに私の力を使えば可能だろう。だが、それは…ディルクの命を絶つにも等しい行為なのだ。
 
 「どの道…このままじゃ二人とも助からない…!なら…ごほっごほっ!!…あ、あの子だけでも…」
 「ディルク…」
 
 それは最初から覚悟していた事ではあった。それでも彼の思うようにさせてあげたいと私はここまで着いて来たのである。だが、それでもいざとなるとどうしても決心が出来ない。私の手でディルクが助かる道を閉ざしてしまうだなんて…そんな事、出来るはずがないのだ。
 
 「大丈夫だ…!まだ…俺は…諦めた訳じゃないから…な…!」
 
 そう言って、ディルクはそっと微笑む。それは何処か安心させるような力強いものだ。だが、それは間違いなく強がりだろう。煤の張り付いた黒い頬には汗と涙が滲んで酷い事になっている。重心はふらふらと揺れて、倒れこまないのが不思議なくらいだ。カーテンを握り締めた手はふるふると震えている。そんな状態で大丈夫と言われても安心できるはずがない。
 
 ―でも…!!
 
 それがディルクの望みであるならば、私はそれを叶えてあげなければいけない。それが私があの日、誓った事であるのだから。それに…まだ手がない訳じゃない。そう決心し、私は意識を外に向けた。外では何時までも降りてこない子供の姿に下の男達が訝しげに顔を見合わせている。まずは彼らに降ろすのではなく落とす事を伝えなければいけないだろう。
 
 「聞いてくれ!長さが足りなくなったから今から切り落とすよ!!」
 「切り落とすってお前!!」
 「こっちは何とかするから子供の方は頼むよ!!」
 
 それだけ言って、私はカーテンに燃え広がる炎に意識を向ける。縦に燃え広げろうとする勢いは抑えて、横に広がろうとする勢いだけは強く。それは今まで教団の要人を焼き殺してきたのと同じ要領だ。まさか、こんな所でこんな特技が役に立つとは思いも寄らなかったが…人生がどんな経験が役に立つか分からないものである。
 
 ―そうこうしている内に炎が一気に燃え広がり…
 
 ぷつりと切れたカーテンと共に重力に惹かれて落ちていく子供を男達はしっかりと受け止めてくれた。そのまま少年を抱きかかえて修道院から離れていく。まずはあの子を医者に見せなければいけないから賢明な判断と言えるだろう。遠ざかって人ごみの中に消えていく彼らの姿に私は内心、安堵した。
 
 「さて…次はディルクの番…ディルク!?」
 
 後ろを振り返ってみれば、ディルクは床へと倒れ伏せていた。そのまままるで糸の切れた人形のようにぱったりと動かなくなってしまっている。唯一、動いているのは胸と口だけで四肢には何の力も入っていない。これでは歩くのどころか立つのすら無理だろう。
 
 「…悪い…どうやら…ここまでみたい…だ」
 「ばっ!馬鹿な事をお言いでないよ!!まだ…まだ何とかなるよ!諦めるんじゃない…!まだ…未だ此処から飛び降りれば何とか助かる目は出てくるんだから…!!」
 
 弱気な事を言うディルクに私は必死でそう言った。確かにここは高いとは言え、人一人が飛び降りられない高さではない。カーテンなどなくても骨折はしないで済むかもしれない。いや、骨折したって這ってでも動けば助かる可能性だって出てくるのだ。そう。まだ生き残る道は少なからず残されている。だからこそ、私はあのカーテンを焼き切る決心をする事が出来たのだから。
 
 「はは…もう…身体に力…げほッ…!」
 「そんな…!!」
 
 どれだけ私が必死にディルクに加護を与えても、彼が動けなければ何の意味もない。加護とて永遠に維持出来る訳ではないのだ。それに維持できたところでこの修道院はもう崩壊を始めている。このまま横たわっていれば何れは瓦礫の下敷きになってしまうだろう。
 
 ―そんな…ここまで来て…!!
 
 後もう少し。後ほんのもう少しでディルクが助かる。だけど、私にはその後もう少しの手助けさえ出来ない。今の私に出来るのは彼の命が途切れるのをほんの少しだけ先送りにする事だけだ。またも圧し掛かる無力感に私は身悶えするように火の粉を撒き散らす。
 
 「まぁ…『パイロマニア』と呼ばれたテロリストには…相応しい死に方…かな」
  
 床に倒れ伏すその顔は真っ青になり始めていた。本格的に煙が彼の命を奪い始めているのだろう。青ざめた彼の顔は呼吸さえも苦しそうだ。だが、私はそんなディルクに何もしてやれない。我が子のように、恋人のように愛おしい契約者の苦しみを和らげてやる事も出来ないのだ。
 
 「そんな…そんな事言わないでおくれよ!アンタは…ディルクは何も悪くないじゃないか…!!」
 
 仲間を、家族を、友人を、何もかもを奪った連中を恨むのが悪いはずがない。いや、それどころかその相手に復讐したいと願って何が悪いというのだろう。自分と同じ思いを、いや、それ以上の苦痛を味わわせてやりたいと思って何が悪いのか。それは人の正当な欲求であろう。どれだけその手を血に染めても、それが罪に問われる事であったとしても、どれだけの人に恨まれたとしても、ディルクを悪いとは誰も言い切れないはずだ。誰かを恨み、妬む事は人の本能に刻み込まれた原罪のようなものなのだから。
 
 「はは…でも…ごめん。こんな我侭に付き合わせ…げほっげほっ……最後まで…我侭でごめん…な」
 「ディルク!!」
 
 その言葉と同時にディルクの瞼がそっと降りた。そんな彼に何度となく呼びかけても、返事はない。どうやらディルクは意識を失ってしまったらしい。いや、それどころかその呼吸も弱弱しいものへとなり始めている。今にも命の灯火が消えてしまいそうな様子に私の心が大きくざわついた。
 
 ―私は……私は…!!!
 
 彼に触れられればまだ彼を助ける手段はある。だが、それは大きなモノを失ってしまう選択だ。もう二度と取り戻すことの出来ないものを手放してしまう選択でもある。それでも良いのか、と私の心は問いかけてきた。
 
 ―…それがどうしたって言うんだ…!!
 
 この世にディルクほど大切なものなんていない。正直に白状しよう。私にとって教団に対する復讐などどうでもいいのだ。無論、彼らに対する怒りは私の中にも滾っている。だが、私にとってはもうディルクと一緒に居るほうが大事だ。その理由付けとして、或いは彼の行為の正当化として、怒りを持ち出していただけなのだろう。復讐とディルクの命。その二つを天秤に掛けるまでもなく、私は後者を選び取った。
 
 「…ディルク。ごめんね…」
 
 しかし、その選択はきっと彼は喜ばないだろう。彼は敬虔な精霊信仰の持ち主であり、魔精霊を魔物と位置づける価値観を持つ。そんな彼のパートナーが精霊ではなく魔物に変わってしまった事を知ればどうなるか。下手をすれば嫌われてしまうかもしれない。だが、それでも私は止まらない。止められない。そんな未来の事などよりも今この場で彼の命を救うために、空気中に漂うサキュバスの魔力に身を委ねた。
 
 ―私の身体なんて…幾らでもくれてやる…!!だから…!
 
 だから、ディルクを、私の愛しい人を助ける力を寄越せ。その想いに応えたかのように空気中の魔力が私の中へと入り込んでくる。ぐちゅぐちゅとドロドロとした淫猥な感覚と共にそれは私の身体を作り変えていくのだ。いや、それは身体だけではない。私のアイデンティティそのものであると言っても良い意識すら塗り替えて別物にしていこうとしていた。
 
 「っくぅぅ…っ♪」
 
 自分が自分に似た別の何かに変わってしまう感覚。それは言うまでも無く恐ろしいものであった。それは死の感覚にも近いものであったかもしれない。だが、それでも私の心に去来するのは明白な喜悦であった。身体も意識も別の何かに犯されてしまっているというのに、それが堪らなく心地良く気持ち良いのだ。
 
 ―こんな…っ♪こんなに良いなんて…っ♪♪
 
 揺らめく炎のような身体が膨れ上がり、成人男性ほどの大きさになる。だが、それで終わりではない。そこから細い指が生まれ、手が形成されていくのだ。それは下――つまり足も同様である。それらは私の身体に今まで感じた事のない新しい感覚を齎すものであった。それは…恐らく触覚であるのだろう。燃え盛る床に触れた足が、そして空気を掴むように蠢く指がそれを教えてくれる。
 
 「ふあぁぁっ♪♪」
 
 そして、その新しく生まれ出でた敏感な器官に思わず声が漏れ出てしまうのだ。初めて味わう肉の感覚はとても新鮮で、同時に淫らなものである。面積が増えた分、私の身体に絡みつくサキュバスの魔力も増えたのだから当然と言えば当然だろう。まるで微温湯の中に漂っている心地良さの中にビリビリと電流染みた感覚を感じる。きっとそれが快楽と言う奴なのだろう。そう思った瞬間、私の身体は一気に燃え上がり、それを――快楽を貪り始める。
 
 ―あぁぁっ♪気持ち良いっ♪身体気持ち良いよぉっ♪♪
 
 無論、私だって知識でくらいは快楽を知っている。だが、それは知っていた所でどうにもならない激しい衝動であった。生まれた四肢からじわじわと染み込んで来る感覚は今まで想像もした事のないものであったのだから。頭の中に淫らな熱が灯り、淫猥な想像に思考がかき回される感覚。その上、身体中に肉の感覚が生まれ、今まで無縁だった快楽が身体中を駆け巡っているのだ。まるで新しく別の自分として生れ落ちる感覚に私の身体はのたうつように身悶える。だが、それでも私はここで引いてしまうわけにはいかない。ディルクを助けるためには魔精霊にならなくてはいけないのだ。
 
 ―だから…っだからもっと私の中に…入ってきて…っぇっ♪♪
 
 媚と甘え。そして決意を浮かばせた私の声に応えるようにじゅるじゅるとサキュバスの魔力が私へと入り込んでくる。それが私の腕を作り、脚を作り始めた。真っ白でスラリと伸びた美しい女の腕と足。それらは他の誰でもないディルクだけのものだ。そう思うとまだ作られていない私の胸が熱くなり、快楽も膨れ上がっていく。それが集約するのは主に下腹部だ。まるでそこが一番重要な部分であると言うかのように溢れんばかりに滾っている。肉の感覚へと身体を作り変えるその熱は炎の精霊である私にも耐えられるものではない。身体の奥から淫らな炎で燃やされる感覚に私の足はペタリと崩れ落ちてしまった。
 
 「んんぁああああっ♪」
 
 だが、それでも下腹部から吹き上がる快楽は大人しくはなってはくれない。いや、寧ろ、凶暴性を増したその気持ち良さに私の四肢は震えた。そして、まるで内側に逃げ込むように丸まった身体から炎が剥がれるようにして消えていく。後に残るのは女らしいシルエットを灯した魔精霊だ。全体的に細身な体躯だが、胸だけは溢れんばかりに大きい。その分、お尻にボリュームが足りない気がするが、それはおいおい、ディルクに開発してもらえばいいだろう。
 
 「あ…ふぁ♪」
 
 ―あぁ…そうだ…♪私はもう…ディルクに触って…愛してもらえる身体になったんだね…♪♪
 
 その言葉に答えるように私の腕と足、そして胸の先から炎が噴出した。恐らくこれが炎の精霊としての特徴なのだろう。火の魔精霊はこの炎でオスの欲望を燃え上がらせると聞く。ならば…魔精霊と化した私にだって同じことが出来るはずだ。そう思った瞬間、炎に覆われていない私の下腹部――いいや、秘所からぽたりと一つ雫が落ちた。それが私の欲望の証しである事はディルクと他のメスとの交わりを何度も見ている私には良く分かる。そして…それが精霊には相応しくないもので感情という事も。
 
 ―でも…そんなの私にはもう関係ない…っ♪
 
 私は精霊であるよりも彼の命を選んだのだ。文字通り私は彼の為にこれまでの何もかもを投げ捨てたのである。そんな私が今更、精霊と言う事に固執などするはずがない。そんな事よりも大事なのはディルクであり、その先にある交わりだ。そう思った瞬間、顔の部分から炎が剥がれ、完全な人型へと変わる。流石に自分の顔を見る事は出来ないが、きっと魔物らしい淫猥で美しい顔をしているのだろう。いや…そうであって欲しい。ディルクが他の女に目を向けないような淫らで美しい顔立ちをしていて欲しいと私は願ってさえいた。
 
 ―その為には…この邪魔な炎を何とかしないと…ねぇ♪
 
 天を焦がすような激しい炎は私に大きな力を与えてくれるものであった。この炎がなければ私はこれまでディルクへの加護を維持し続けることなんて出来なかっただろう。だが、それはもう必要ない。それらが与えてくれるよりももっと大きくて確かな力――つまり魔力がそこら中に溢れているのだから。
 
 ―だから…消えな。
 
 その意思を篭めて一瞥するだけで、ぱちぱちを木の爆ぜる音を奏でていた炎が全て消え去ってしまう。そこに何かの音や兆候があった訳ではない。まるで太陽がいきなり消えてしまったかのように一瞬で世界が作り変わってしまったのだ。それは今までの私には到底、無理であった事であろう。これだけ炎が燃え盛っているにも関わらず、契約者を護るのに精一杯であったのだから。だけど、今の私には腕を振るうような自然な感覚で炎を消すことが出来る。それは私の中に小さな自信を齎してくれてくれるものであった。
 
 ―あは…っ♪中々、良いモンじゃないか…っ♪
 
 空気中に充満する粘っこいサキュバスの魔力を借りたとは言え、それは見事であろう。普段は滅多に自画自賛などしないが、それでもそんな言葉を思い浮かばせてしまう。何せ今まで不可能であったことが、とても自然に出来てしまったのだ。その万能感が生まれたての私に真っ赤な熱を灯してくれる。
 
 ―でも…今はそれに浸っている暇はない。
 
 いきなり炎の消えた建物が不思議なのだろう。外では訝しげに騒いでいるのが聞こえる。まずは彼らの所までディルクを運ばなければいけない。それから医者の場所を聞いて彼をそこまで搬送する必要があるのだ。
 
 ―ディルク…。
 
 そっと膝を折って彼の顔に手を伸ばせばそこには少しだけ穏やかな色が浮かんでいた。顔色もさっきと比べれば大分、良くなっている。血色もマトモで呼吸も穏やかだ。素人判断は危険だが、少なくとも峠は脱したように見える。それに少しだけ安堵しながら、私は横たわるディルクの身体を担ぎ上げた。
 
 「よっと…っと…。中々、重いね」
 
 だが、まだ慣れていない私の身体で成人男性を担ぎ上げるのは無理があったのだろう。思わず重心を崩して左右に揺れてしまった。それでも何とか足を踏ん張り、バランスを保つ。その頃には少しだけ身体の使い方にも慣れ始め、二の腕辺りに意識を篭めればしっかりと彼を抱きかかえられる事にも気付いた。
 
 ―…えへへ♪ディルクが…こんなに近い…♪
 
 だが、身体の使い方なんぞよりも私にとってもっと大事なのがディルクとの距離である。純精霊だった頃の私はどれだけ彼と接触しようとしても通り抜けてしまうだけであった。だが、今はそうではない。しっかりと肌と肌で触れ合って、感じ合うことが出来る。それは既に持っている人間からすれば、不思議にも映るあるかもしれない。だが、私はずっと…ずっとこうしてディルクと触れ合う事を望んでいたのだ。それが念願にも近いそれがようやく叶ったのを感じて、私の身体は一気に燃え上がる。
 
 ―そう思えば…この重さも愛しい…ね♪
 
 彼を抱きかかえ、炭化した廊下を用心深き歩きながらそんな事を考える。何せこの重さも純精霊時代には決してなかったものであったのだ。物質世界とは乖離した私の生活にとってあるのは心と感情の動きだけ。こうしてディルクを抱きかかえる腕も、それを受け止める胸も、踏ん張る足も、何もかもなかったのである。だけど、今はそれをまるで人間のように感じる事が出来るのだ。その上、私が抱いているのはこの世で最も愛しい人となれば…胸を高鳴らせても仕方が無いだろう。
 
 「さて…っと」
 
 そんな私の前に焼けて真っ黒になった階段がその姿を現した。そこを下れば入り口まですぐである。だが、真っ黒になるほど焼け焦げたそこに足を踏み出すのはかなりの勇気が必要だろう。それに私は文字通り歩き始めたばかりの赤ん坊だ。それがこうして成人男性を抱きかかえて歩けるだけでもかなりの偉業だろう。その上、階段まで下りれるか…と言うのは流石に自信が無い。
 
 ―でも…やんないとね。
 
 ここで足踏みしていても何の解決にもならない。どの道、足を踏み出さなければ進まないのだ。他に頼れる人は誰もいないし、そもそも頼りたくはない。ディルクに触れるこの甘美な時間を邪魔されたくはないのだ。それに何より彼が頼れる相手は私だけであって欲しい。そんな子供染みた独占欲が助けを求める事を拒否していた。
 
 ―まぁ…何とかなるさ。
 
 ついさっきまで地獄絵図にも近い勢いで炎が燃え盛っていたのだ。まだ現場には炎の元素が多く残っている。魔精霊化してからは環境からの影響をあまり受けなくなったとは言え、それが私に力を与えてくれるのは変わりない。それに空気中には今や私の燃料ともなったサキュバスの魔力がふんだんに含まれているのだ。それらを使えば一瞬だけ浮く事だって可能だろう。例えバランスを崩したとしても、或いは階段が崩れてしまっても、幾らでもリカバリーの方法はある。そう言い聞かせて私は一歩二歩と慎重に足を踏み出していった。
 
 「おーい!大丈夫か!!」
 
 そのまま半分ほど降りたところで何人かの男が修道院の中に入ってくる。見覚えのあるその顔はさっき下で子供を受け止めてくれた男達だ。心配の色に染まっている顔はそれだけディルクが気に掛けられていると言う証しなのだろう。そう思うと少しだけ誇らしく思えた。
 
 「あぁ、丁度良かった」
 「さっきの声の人か?そっちは意識を失っているみたいだな…」
 「おい!あの先生だ!先生を呼べ!それと担架の用意も!!」
 
 弾かれたように男達は指示を飛ばしていく。その中で二人が床を踏み抜かないようにおっかなびっくりとこちらへと近づいてきた。だが、私は首を振ってそれを拒絶する。確かにディルクの身体は重いが、それは私にとってとても心地良いモノであるのだ。出来ればそれを奪われたくはない。そう思っての意思表示であったが、彼らはそれに納得してくれたようだ。
 
 「ありがとう。助かるよ」
 「良いって事よ。独占したいって気持ちは分からないでもないしなぁ」
 「まぁ、重かったら言えよ。すぐに代わるから」
 
 ―その物分りの良さが少しだけ不気味でもあるけれど…。
 
 だが、苦笑と言うか微笑ましいものを見るような表情を浮かべる二人組に特に妖しい所は見当たらない。ならば、彼らの言っている事は嘘と言うわけではないのだろう。考えても見ればこの街には私と同じような価値観を持っているであろう魔物娘が数え切れないほどいるのだ。そんな彼女たちに日頃から接しているであろう彼らにとって見れば、それは納得できる感情であるのかもしれない。
 
 「うん。でも、きっと大丈夫さ」
 
 矛盾しているようではあるが、ディルクの身体の重さが私に活力を与えてくれるようにも感じるのだ。そんな状態で彼を負担に思う筈がない。寧ろ力を漲らせる身体は興奮の色と灯し、行き場のない欲情をぐるぐると渦巻かせていたのだ。それを向けるべきディルクがこうして気を失っている状態ではそれを発散する事もできない。悶々とする感情を持て余しながら、私はゆっくりと階段を降りきった。
 
 「安心しな。もう外にこの街一番の名医が来てるからな」
 「きっとすぐに意識を取り戻すぜ」
 
 口々に私に言いながら、彼らは外への道を空けてくれる。それに感謝の言葉を述べながら、私はゆっくりと足を外へと踏み出した。瞬間、炎とは別の明るい光が雲の向こうから私の身体を照らす。それは一体、何時振りの太陽だろうか。ディルクと共にこの修道院に踏み込んでからほんの十数分も経っていない筈なのに、やけに昔な気さえするのだ。
 
 ―まぁ…文字通り生まれ変わった訳だしねぇ。
 
 そんな事を考えながら、私はディルクを抱きかかえたまま足を進めた。その視線の先にあるのは白衣を着た一人の男性である。理知的過ぎて何処か冷たい雰囲気も宿すその顔に何となく警戒心が浮かんでしまう。だが、周りの人々はそんな彼に絶対的な信頼感を寄せているのが分かった。きっと彼がさきほど言っていた「この街一番の名医」なのだろう。そう思えば、早くも安堵するような雰囲気が満ちているのにも納得が出来る。
 
 「こっちだ。そこに寝かせてくれ」
 「あぁ」
 
 短く告げられる男の声に応えて、私はそっとディルクの身体を地面へと下ろした。硬い地面の上に横たえるのは少し…というかかなり心苦しいが、ここにはベッドも何もない。私が抱きかかえたままでは診察も出来ないだろうし、仕方ないだろう。
 
 「破くぞ」
 
 その言葉と同時に男はディルクのシャツを引き裂いた。躊躇いのないその動作はそれが形式的な言葉であったことを感じさせる。だが、それに何か文句を言おうにも男の手は凄まじい速度で動き続けていた。私の加護があって尚、溢れんばかりの炎に突っ込んだ身体には幾つかの火傷が浮かんでいる。それはあの地獄から生還したと考えれば安いものだろうが、それでも私の胸を痛ませるものであった。何せそれは私が無力であり、決断を迷っていた何よりの証拠であるのだから。
 
 「下も破くぞ」
 
 同じような言葉…いや、宣言と共に鋏を握った男の手がディルクのズボンに切込みを入れていく。もう少しで下着まで見えてしまうんじゃないかと言うほどのそれに私の心がざわついた。そこから先は文字通り聖域なのである。治療の為とは言え、不用意に触れて欲しくはない。そんな聞き分けのない感情が子供っぽいと理解していても、ようやく身体を手に入れた私よりも先に見ず知らずの男が触るのが我慢ならないのだ。
 
 「…安心しろ。別に私は男に興味がある訳じゃない。…だから、そんな風に睨むな」
 「…悪いね」
 
 どうやら何時の間にかそれが表情として現れていたらしい。冷たいながらも何処か暖かみのある表情で男はそう言った。それに短く謝って私はそっと視線を逸らす。このまま見ていたら嫉妬でどうにかなってしまいそうだったからだ。
 
 ―…あれ?
 
 そしてその逸らした視線が人込みを見た時、見覚えのある顔が私の視界に映った。それはこの街の入り口でディルクが歓談したあの商人である。それがとても複雑そうな表情で私を見ていた。悲しそうな色と共に怒りを浮かばせたそれは複雑としか表現しようがない。少なくとも私の数少ない語彙では、それを明確に言い表す感情が見当たらなかった。
 
 ―でも…どうしてそんな表情を?
 
 彼のあの口ぶりから察するにきっとこの修道院に良く通っていたはずだ。だからこそ、こうして現場にもいるのであろうし、その瞳に悲しそうな色が浮かんでいるのも分かる。だが、そこにどうして怒りの色が混ざっているのか。少なくともその視線を向けられる私には彼を怒らせるような事をした覚えはない。そもそも彼にしてみればこうして顔を合わせるのすら初めてなのだから。
 
 ―…あ、だからかね…。
 
 ディルクはあの行商人に自分の精霊は風であると告げていた。しかし、今の彼の隣にいるのは紛れも無く炎の魔精霊である。それがきっと誤解の元であるのだろう。ディルクが修道院に突っ込んだ後、私が彼を伴って出てきたのだから。状況だけ見れば、私がこの火事を起こしたと思われても仕方がない。
 
 ―参ったねどうも…。
 
 あの行商人はディルクが気に入っていた相手であった。そんな相手に敵視されるのは正直、辛い。ディルクの為にも早めに誤解を解いてあげたいと思うのだ。だが、こうして治療されているディルクの傍を離れたくはない。そんな葛藤に挟まれている間にその男はふっと視線を逸らして、何処かへと立ち去っていった。
 
 ―あ……まぁ、いいか。
 
 彼がディルクの前に現れるのであれば誤解を解く機会もあるだろう。少しばかり面倒になる予感がするが、今重要なのはディルクの事だ。もしかしたらこのまま二度と顔を合わせないかもしれない相手の事ではない。そう淡白に思考を打ち切った瞬間、小さなため息が聞こえた。
 
 「処置が終わったぞ」
 
 その言葉にディルクを見れば、彼の身体に十数箇所ほどガーゼが巻かれていた。それらは多分、塗りこんだ薬が剥がれない為に巻かれているのだろう。記憶する火傷の位置と一致するそれらに私はそう思った。
 
 「お前の仕業か分からんが火傷は奇跡的と言って良い程に少ない。また煙もそれほど大量に吸い込んだわけではないようだ。二、三日も安静にしていればすぐに以前のように戻る」
 
 その言葉は淡々と事実だけを述べるようなものであった。しかし、だからこそ私はそれに安堵する事が出来る。この男が決して嘘を言っているのではないと確信出来たからだ。
 
 「後で火傷の塗り薬を出しておこう。一日二回それを塗りなおせば、肌も数日で元通りになる」
 「ありがとう…本当に…ありがとう…」
 「何、医者の務めのようなものだ。気にするな」
 
 そう言って男は少しだけその顔に笑みを浮かばせた。何処か安堵の見え隠れするそれは純粋にディルクの無事を喜んでくれているようにも思える。それを見た私は彼の冷たい表情や雰囲気は全て演技なのではないかとさえ思うのだ。その淡々とした言葉が患者を安心させる為に意図的に使われているのだとするならば――。
 
 ―いや、今は関係ないね。
 
 それより大事なのはディルクの事だ。処置を終えられ、規則的に胸を上下させる姿は眠っているようにも見える。とても穏やかなその姿に安堵を感じるが、何もここで終わったわけではない。このまま地面の上に寝かしておくわけにもいかないのだから。彼の身体を宿に運ぶ必要もあるし、医者に治療費も払わないといけない。
 
 「あ、後、治療費の件なんだけど…」
 「要らん」
 「え?」
 
 「彼を宿に運んでから支払うと言う形でも良いかい?」そう言おうとした私を遮るようにして男が答えた。そのまま何か言う暇もなく彼は立ち上がり、その場を立ち去ろうとしている。けれど、私はそれでは気がすまない。どういうつもりか聞こうと口を開いた。
 
 「ちょ、ちょっと待ちなよ!幾らなんでも治療費を受け取らないってのは…」
 「この男は火事の建物の中に飛び込んだのだろう?それで子供を助けたのだから大したものだ。その無謀さに免じて薬も含めてタダにしておいてやる。安心しろ。後で適当な奴に薬は届けさせてやるから」
 
 それだけ言って男はそのまま歩き出した。そんな彼に道を空けようとさっと人ごみが左右に分かれていく。まるで王侯貴族か何かが通るかのように何人かの目には尊敬の念すら浮かんでいた。その気持ちが私には少しだけ分かる。確かにこんな風に格好良くキメられたらぐぅの音も出ない。名医で口は悪いが性根まで立派とあれば尊敬を集めるには十分過ぎるだろう。
 
 ―まぁ、惚れる事は流石にないけれどねぇ。
 
 しかし、私はそうでも他の皆がそうだとは限らない。実際、歳若い娘の何人かは熱っぽい視線で医者の背中を見つめているのだ。それは間違いなく恋する乙女の視線であろう。しかも、それはここで燃え上がった突発的なものではない。ずっと彼を思い続けているかのような粘っこく、欲情の濃い視線なのだ。それにあの医者が気付いているのかは分からないが、傍目で見る私が一目で分かる程の熱視線があの男に注がれている。
 
 ―ま…それよりも…っと。
 
 他人の未来の事よりも自分達の事を心配しよう。そう心を切り替えて、私はディルクへと意識を戻した。シャツを破かれ、肌蹴た肢体が妙に艶かしい。浅黒い肌を晒す姿は私の下腹部の奥を擽って身体中に欲情を走らせた。今すぐ彼の肢体にむしゃぶりつきたいが、魔物化したと言ってもこんな街中で交わる趣味はない。それに何より…私の痴態はディルクだけのものである。他の誰かに見せる事は考えられず、私は必死に欲情を抑えつけていた。
 
 ―それも…限度があるんだけど…ね。
 
 また下腹部の奥からとろりと愛液が溢れそうになってしまう。だが、衆人環視の前でそんな痴態を晒すわけにはいかない。そう考えた私は人間の服のように下腹部にも炎を灯すのだ。メラメラと音を立てずに燃え盛るそれが私の欲情を隠してくれるだろう。だが、それは隠すというだけで胸の奥を締め付けるような激しい感情を失くしてくれる訳ではない。その前に何とかこの場を去って、あの小さな宿屋に帰るべきだろう。
 
 「よっと…」
 
 そう考えた私は掛け声一つあげてディルクの身体を持ち上げた。さっきと同じ抱きかかえるようなそれに身体中の炎が一気に燃え上がる。感情を何より如実に表す炎に私の顔がぼっと赤くなった。そんな私に周りからは微笑ましそうな視線が注がれている。きっと私が今、何を考えているかが彼らには一目で分かるのだろう。そう思った瞬間、私はその場から逃げ去ってしまいたくなった。
 
 ―で、でも、その前に…!
 
 ディルクを手伝い、そして心配してくれた男達にお礼を言わなければいけない。そう思って振り返れば彼らは全員、私の方を微笑ましそうに見ていた。まるで子供の成長を喜ぶ親の視線のような暖かさが妙にむず痒い。決して不快な訳ではないが、嬉々として受け止められるものでもないのだ。そんな視線に妙な居心地の悪さを感じつつ、私は彼らに向かって口を開く。
 
 「その…ありがとね。色々と。助かったよ」
 「構わねぇよ。寧ろこっちこそ助かった」
 「子供を助けられたのは間違いなくアンタらの手柄だ」
 「あぁ。俺達はその手助けをしただけだからな」
 
 口々に言いながら、彼らはそっと微笑んでくれる。気の良いその言葉に私は暖かいものを感じた。じんと胸が震えるそれは感動と言う奴なのだろう。彼らだって命懸けであったのに、そう言ってくれる。それが私には小さな感動を覚える程、嬉かったのだ。
 
 「じゃあ…私はこれで帰るよ。この人も早く休ませてあげたいし…」
 「あぁ、気をつけてな」
 「重かったら…って、これは無粋か」
 「そうだね。この人に触るのは私だけで良いよ」
 
 最後の一人にそう返して私はそっと踵を返した。そのまま散り散りになり始めている人込みを通って、私は自分達の宿の方へと歩き出したのだった。
 
 
 
 
11/08/13 00:04更新 / デュラハンの婿
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