読切小説
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司祭と仕立て屋
 深い深い水の底。人の目が届かぬ海の中で、ひっそりと、清らかな祈りが捧げられていた。
 それは、海の神に語りかける祈り。生まれ落ちた新たな命にふさわしい祝福をもたらすための、司祭の言葉。
 祭壇に立って赤子を抱く父と母は、緊張に息も止めて、儀式が終わるのを待つ。
 ふと、母親の体から小さな光が漏れ出した。混ざりあった夫婦の魔力が、海神の力を受け、光に変わったのである。
 円盤のような形をした光は、ゆっくりと移動し、半人半魚の幼子――生まれたばかりのメロウの頭に留まると、徐々にはっきりとした姿を取りはじめる。
 薄く広く広がる光は、やがて、一つの帽子へと形を変えた。
 形状が確かになると同時に、その色も白色から、淡い桃色に。飾りもない、子どもの頭には少し大きい帽子が、柔らかく現れる。

「……あとは、時の流れが帽子をその子に馴染ませてくれるでしょう」

 帽子を斜にかけた子どもを見つめたまま、司祭は夫婦に言った。
 海底都市の神殿内で行われた儀式が何事も無く終わったことに、夫婦も安堵の笑みを浮かべる。

「ありがとうございます、シエラ様。とても……素敵な帽子ですね」

 そう言いながら子どもの帽子を正す人間の父親の頭にも、似たような帽子が乗っていた。
 対して、メロウの母親は、桃色のくせっ毛に男物の山高帽をかぶっている。身に着けているものこそ違えども、両親が子を見つめる目は等しく優しい。
 二人が夫婦となってから、数年。念願の子どもを授かった事に喜んだのもつかの間、幸せながら忙しい日々に新米父母は振り回されていたが、今日、赤子がメロウの証である帽子を与えられたことで、慌ただしかった日々もひとまずは落ち着くことだろう。

「お礼なんて。わたくしは、ただ、ポセイドン様にお二人の言葉を伝えただけです。それに、その帽子は、他ならぬあなたたちが作り出したものですから」

 優しげな微笑みを浮かべる司祭――シー・ビショップのシエラは、謙遜ではなく、心からそう思っているようだった。それでも、と、幼子の両親は丁寧にお礼を繰り返す。
 感謝の気持ちから「よろしければ今夜はうちで食事を」と提案する夫婦に、シエラは静かに首を横に振った。
 赤子を持つ親の苦労に、客をもてなすための苦労まで重ねたくなかったのがひとつ。帽子が授けられた大切な日を、親子三人で過ごしてほしいというのがひとつ。
 最後にもう一度礼を言ってから神殿を出て行く親子を見送りながら、祈りを胸の内で捧げる。
 あの親子に、ポセイドン様のご加護がありますように。
 海の魔物たちと人間による婚姻の儀と同じく、海神ポセイドンからメロウの子へと帽子を授ける儀式は、シービショップであるシエラに与えられた重要な役割の一つである。
 今日、あの二人のために行った儀式の他にも、数え切れないほどシエラはメロウの子に帽子が与えられる瞬間を見届けてきた。
 そして何度見ても、我が子を見る親の姿というのは、尊く感じられるものである。

「……あっ、いけない」

 穏やかな感動に浸っていたシエラだったが、この後の予定を思い出すと、慌てて片付けを済ませて神殿を飛び出した。
 自宅に寄っている間も惜しい。儀式用の祭服を着たまま、海底都市から、まっすぐに海を昇る。海の色が、水底を照らす魔力の光による明るさから、自然に差し込む陽光の明るさに変わる。ぼやけた太陽を見上げつつ海面付近をしばらく泳ぐと、やがて、海辺の小さな村が見えてくる。
 住民は人間ばかりだが、魔物に対する理解はあり、海底都市と人の町々を繋ぐ橋渡しのような役割を果たしている村である。
 そして、その小さな村には、これまた小さな仕立て屋がある。
 若い職人が一人で営むその仕立て屋は、看板も掲げていないが遠方からの依頼も来るほど腕は確かで、海底都市での婚姻で新郎新婦が着る衣装を作ったことも一度や二度ではない。シエラが持つ数種類の祭服も、すべてそこで仕立てられたものである。
 とは言え、シエラがこの小さな村の小さな仕立て屋にこだわる理由は、職人の腕を見込んだからというだけでもない。

 魔力を纏い、一時的に陸へと上がれる姿に変わったシエラは、砂浜からまっすぐに仕立て屋と向かい、ひとまず、深呼吸をした。
 着慣れた祭服に乱れが無いか確かめ、もう一度深呼吸をして、ようやく、扉を叩く。
 「はーい」という少々間延びした返事からやや間を置いて、ドアが開いた。

「何かご用……おや、司祭様。お待ちしておりました」

 顔を出したのは、柔和な顔をした青年だった。身にまとった作業着はそこら中に繕い跡がある粗末なもので、色も褪せている。しかし、それがかえって青年の雰囲気を純朴で好ましいものにしていた。
 青年の笑みを受けて、シエラも微笑む。高鳴る胸を押さえることに精一杯で、自らの笑みがぎこちなくなってしまっている自覚はない。

「こんにちは。お願いしていた衣装なのですが……」
「ええ。出来上がっていますよ。合わせますので、桟橋の方でお待ち下さい」
「はい」

 しかし、慣れた様子で、事務的と言ってもいい対応をする仕立て屋に、シエラの笑みはぎこちないまま少しだけ悲しげな色を持つ。
――たしかに、今の私はただのお客さんでしかないのかもしれないけれど。
 言われるがまま桟橋へと向かい、水に身を浸したシエラの独り言は、波にさらわれ、彼方へ消えた。

「おまたせしました。こちらが、ご衣装になります」

 遅れて、仕立て屋も海へとやってくる。桟橋の上に立つ仕立て屋からシエラへと渡されたのは、注文していた新たな祭服である。

「司祭様がお手紙に書かれていた、西方の海の意匠を加えてみました。どうぞ、確かめてみてください」

 陸に上がることもあるが、海の魔物であるシエラは、やはり水の中で活動する時間のほうが長い。衣服は海中でのことを考えた着心地が重要になる。試着を海で行うようになったのは、シエラからの提案だった。
 祭服を脱ぎ、肌に張り付くようなインナー姿になったシエラが、受け取った衣装を身に纏う。
 白に薄く水色が差された衣装は、主に婚姻の儀礼に使う予定の祭服である。
 今まで着用していた細身の祭服とは異なり、裾がひらりと膨らんだデザインは、シエラが以前訪れた海底都市で見たドレスを模した形だった。
 襟元には海神ポセイドンをイメージしたブローチが優しく光っている。上下一体型の装束には、ところどころヒレを出すための穴が空き、ゆったりとしたラインでシエラの体を包んだ。ともすると主張しすぎるほどに大きいシエラの胸もふわりと覆い隠し、全体的に落ち着いた印象の仕上がりとなっている。

「いかがですか?」
「とても素敵です……が、その……」

 しかし、腕を伸ばし、尾びれを揺らし、着用感を確かめていたシエラは、何事かを言いよどんだ。
 仕立て屋は、すぐさま瞳に職人の鋭さを戻して尋ねる。

「……どこか、不都合がありましたか」
「不都合、と言うのでは無いのですけど……ちょっと、窮屈で」
「窮屈、ですか。それは、どの辺りですか?」
「えっと……下の方が」
「下の方」

 しばし考える様子を見せてから、仕立て屋はシエラに言った。

「少し、確かめても良いでしょうか」
「……はい。お願いします」

 確かめる、ということは、当然、シエラが触れられるということになる。
 桟橋へと上がり尾びれで器用に立つシエラの心臓は、いまや少しつつけば弾けてしまいそうなほどの速さで鳴っていた。
 しかし、あくまでも淡々と、仕立て屋は衣装を軽く引っ張り、手を添える。
 脇腹を軽く撫でられてのけぞったシエラにも構わず、仕立て屋が頷いた。確かに腰のあたりで生地が張っている。窮屈なはずである。

「もしかしたら、僕が採寸を誤ったのかもしれません。測り直しても?」
「……はい」
「では、失礼します」
「ひゃ……」

 許可を得た仕立て屋が、ポケットから取り出したメジャーをしゅるりと伸ばす。
 衣装をはだけて白く美しい背中を露出したシエラにメジャーが巻き付くと、一瞬、後ろから仕立て屋に抱きすくめられるような形になり、シエラの肩が跳ねた。遅れて跳ねた胸の高鳴りは、かろうじて、背後の仕立て屋には伝わっていなかった。
 見るからに細い腹部を測り、それから、もう少し下、腰に。

「……あー」
「ど、どうなっていますか?」

 メジャーの数字を見て合点がいったと言いたげな仕立て屋に、シエラは不安そうに尋ねた。
 まさか、太ったのだろうか。そうであれば、今すぐにでも海の底へと逃げ帰ってしまいたい。

「腹回り……失礼。お腹は問題ありません。以前測らせていただいたときと変わっていませんから」
「では、どうして……」

 不安が外れたことに安堵しつつも、衣装が窮屈だったことは確かだった。まさか、仕立てがおかしかったということは無いだろう。そう思うほどには、シエラは仕立て屋の腕を信頼している。
 そしてその仕立て屋は、若干言いづらそうにしつつも、「そのですね」と告げた。

「……腰が。えっと、言ってしまえば……お尻が、少し、間違っていたようです」

 どちらに間違っていたのかと言い切らなかったのは、恥じらいでもあり、思いやりでもあった。
 しかし、事実は変わらない。まったく意識していなかった変化に、シエラ自身も驚き、そして、耳まで赤くした。

「お尻、です、か」
「……はい」
「それは……その」

 なんと言ったらいいものか。謝ればいいのか、笑えばいいのか。
 言葉に困る二人のかわりに、海が波を寄せて、返す。

「……とにかく」

 ごほん、とわざとらしい咳払いをして、仕立て屋が言った。

「間違っていた箇所に合わせて、もう一度仕立て直します。少し修正するだけですので、明日の昼前には仕上がるかと」
「お願い、します……」

 シエラの返事は、今にも消え入りそうだった。衣装は預け、着てきた祭服をもう一度身に纏う。何も気にしていなかったはずなのに、今では、腰までボタンを留められるか妙に不安だった。

「また、当分は外海を巡られるのですか?」

 その不安を知ってか知らずか、仕立て屋は話題を変えた。
 しかし、その話題もまた、シエラの心にもやをかける。

「……はい。数日はここで帽子を授かった子の様子を見る予定ですが、その後はまた、旅に」
「……お忙しいのですね」
「でも、それだけ幸福な恋人たちがいるということですから。喜ばしいことです」

 祝福を、結ばれる二人に、生まれた子に。シー・ビショップが忙しいということは、そのまま、人と魔物の喜びが多いということに繋がる。
 だから、シエラは海を旅することも、祭祀を繰り返すことも、決して苦にしない。むしろ、祝福を受ける者たち一人ひとりの喜びが自らの喜びでもあるとすら思っている。

「受け取りは、司祭様のご都合が良いときに。いつでもお待ちしておりますので」
「ええ」

 両手でしっかりと衣装を持った仕立て屋に見送られ、シエラはぱしゃりと海の底へ向かう。
 途中振り返ろうとも思ったが、ぶり返してきた羞恥心は、シエラの尾ひれに止まることを許してくれなかった。


…………


 海底都市にあるシエラの家は、殺風景と言ってもいい。シー・ビショップのほとんどがそうするように、シエラもまた、世界中の海を巡って祭祀を司るためである。せめて花の一つでも、とは思うものの、旅の間は世話をできないと思うと飾るのもためらわれる。
 そうした理由からほとんど物の置いていない部屋で、これもやはり簡素なベッドに転がり、シエラはため息をついた。
 頬を赤くし、枕を抱きしめて考えるのは、作ってもらった衣装のサイズが合わなかったこと。
 採寸をしたのは、今回の旅を終える前。まだ半年も経っていないし、そもそももう成長して体が大きくなるような年でもない。几帳面な仕立て屋の採寸が間違っていたとも、考えられない。
 数年前の旅の途中に衣装の胸が合わなくなって、「次に帰った時に直してほしい」と仕立て屋に手紙を出した時も恥ずかしかったが、今回はそれ以上。
 あの衣装の注文をしたのは、いつだっただろうか。そんなに前ではなかった。各地で司祭としての務めを果たした後は、たいてい、祝宴に招かれる。そこで食べすぎたのかもしれない。

 考えれば考えるほど恥じらいが湧き上がり、シエラは誰にも見られていないというのに、身を縮こまらせた。

 昔、あるマーメイドと人間の結婚を祝福した時。細身の人魚を、人間が「美しい」と言っていたのを思い出す。
 人の嗜好はそれぞれである。細い方が良いという人もいれば、多少肉付きが良いと言う人もいる。それは、数多の結婚式を見届けてきて、知っている。
 では、あの仕立て屋はどちらだろうか。
 聞いてみる?どうやって?
 会話の合間に何気なく「私の体をどう思いますか」などと言えるはずがない。そんな勇気があるのならば、今頃は。

「……はぁ」

 知らずこぼれたため息に、自分でも驚く。
 こんな調子ではいけない。私は、司祭なのだから。人と魔物の喜びを海神ポセイドンに届けて祝福を求めるのが役目。常に粛々としていなければ。
 とは言え。

「私も、もっと積極的に……?」

 多くのシービショップがそうであるように、シエラもまた、人を積極的に襲うことはない。想いを寄せる人と、じっくり愛を育んでいく時間を楽しむこともできる。
 しかし、それが自分でももどかしくなる時があるのも、嘘ではない。
 今はもはや、ぎぎ、と軋んだベッドの音すらどこか情けなく聞こえるようだった。


…………


 翌日、太陽が空の頂点をいくらか通り過ぎた頃、シエラは家を出た。もちろん、注文していた祭服を受け取りに行くためである。
 いつもの祭服ではなくゆったりとしたデザインの私服であることに、他意はない。早めに行こうと思っていたのに、家の掃除や買い物など理由をつけて遅らせてしまったことにも、意味はない。
 別に、昨日の今日で顔を合わせるのが恥ずかしいなんて、きっと、ない。
 誰にともなく言い訳をしながら、シエラは海底都市の入り口を抜けて、海面へと向きを変えた。纏った泡がシエラの体から離れ、一足先に海中を昇る。しかし、細かなものも、大きなものも、海面へとたどり着くと、陽光をわずかに浴びただけで消えてしまう。
 それを見上げながら、シエラは考える。あの泡たちの中に余計な気持ちを込めてしまえば、波にさらってもらえたかもしれない。
 しかし、ぱしゃりと小さく音を立てて海面へと顔を出したシエラの中にあるものは、何も変わっていなかった。
 期待と、羞恥と、不安と。
 陸へ上がった際にまとわり付いた海水にすらそれらが含まれている気がして、シエラはいつもより少しだけ丁寧に、魔力で尾びれを脚へと変えた。
 その脚で仕立て屋の工房へと向かい、ドアノブに手をかけようとしたところで、ほんの少しだけ先に、ドアノブが動いた。
 え、と止まってしまったシエラの前で、ドアが開く。

「あら、ごめんなさい」
「わっ……いいえ、こちらこそ、失礼しました」

 店のドアを開けて出てきたのは、温厚そうな女性だった。
 道を譲ったシエラに軽く会釈をして、空っぽの編みかごを手に、歩いて去っていく。
 シエラは、思わずその後姿を目で追った。綺麗な人だった。そして何より、細い。

「おや、司祭様」

 店の前で立ち止まっていたシエラに気付いた仕立て屋が、店の中から声をかけた。

「ちょうどよかった。今、手が空いたところで。祭服の受け取りですよね?」
「え、ええ……」

 シエラが女性を目で追っていたことには気づかず、仕立て屋はハンガーから衣装を取り出し、どうぞ、とシエラに手渡した。
 受け取ったシエラはそれを両手で吊るすように持つ。渡された祭服には手が加えられているはずだが、見ただけでは、昨日との違いが分からなかった。

「さて、ではあらためて、ご試着を」
「はい」

 私服を脱いでインナー姿になったシエラは、桟橋から海水に身を浸し、新たな祭服に着替える。
 腕を通し、ヒレを通し、軽く回ってみる。

「……今度は、大丈夫みたいです」

 白と水色の祭服は、今度こそ、シエラの体によく馴染んだ。
 動いても生地が突っ張ることも無く、柔らかく体を覆ってくれている。これならば、気にすること無く海を泳ぎ回れるだろう。サイズに少し余裕があるくらいなのはどういう意図で仕立て直したのでしょうか、とまでは聞けなかった。

「気になる箇所は、ございませんか?」
「はい。今回も、とても良い仕上がりです」
「それはそれは。光栄です」

 シエラの言葉に誇らしげな笑みを浮かべ、仕立て屋は一礼をする。
 その後方、開きっぱなしの店のドアがシエラの視界に入る。つながるのは、直前にいた、一人の女性。

「あの……先程の女性は、お客様ですか?」
「女性……ああ、あれは姉なんです。貿易商をしていまして。今回の生地なんかも姉が取り寄せてくれたんですよ」
「あ、ああ!お姉様なんですね!」

 安堵から出てしまった声の大きさに、シエラ自身が恥じらう。魔物の勘とも言おうか、二人が恋仲ではないことは分かっていた。それでも、どうしても自分と異なるものは、目で追ってしまう。

「あー、それでですね、司祭様がお忙しいことは重々承知です。ですが、その……」

 シエラが安堵と不安にもやもやとしていると、ふと、仕立て屋が言った。

「……よければ少し、お茶を飲んでいかれませんか?」

 思わぬ提案に、えっ、という声がシエラの口から飛び出す。

「……いいんですか?」
「はい。思えば、ずいぶんと長く通っていただいているのにゆっくりお話したこともないな、と……」
「そ、それじゃあ、いただきます!忙しくは、ないので!」

 餌に食いつく魚のような勢いで言ったシエラに、誘った仕立て屋も若干面食らいながらも、浮かべた微笑みはやはり穏やかだった。

「よかった。陸というか、私の部屋になるのですが」

 部屋に。
 シエラの心臓が、また大きく跳ねる。
 桟橋を上がって私服に着替え直し、丁寧に畳んだ祭服を抱えて、シエラは唇を結んだまま仕立て屋に案内されるまま工房の奥へと入っていく。
 特筆することもない、テーブルとイスが置かれ、暖炉と棚がある、ごく一般的な部屋。仕立て屋はそこに「少しお待ち下さい」とシエラを残して、キッチンへ入り、すぐに戻った。

「どうぞ。お口に合うか分かりませんが。なにせ、僕も飲んだことがないもので」

 恥ずかしそうに言いながら、仕立て屋は、ことんと小さく音を立ててティーカップをテーブルに置いた。
 魔法を解いて尾びれで器用にイスに座ったシエラは、目の前のカップの中身に視線を落とす。透き通った薄緑色の飲み物からは、なんとも言えない穏やかな香りが立ち上っている。

「なんだか、とても落ち着く香りですね」
「ジパングという国の飲み物だそうです。緑茶という……紅茶に近いものらしいです」

 それにやはり見たことがないもちもちとした丸い菓子を添えて、仕立て屋はシエラの向かい側に座る。
 仕立て屋の少し荒れた指がティーカップをつまむ。く、と緑茶を一口含むと、その表情は苦笑いのようなものに変わった。

「……独特です、中々」

 仕事中の彼ならば見せることがない珍しい表情に、シエラはある種のときめきを抱きながら、「いただきます」とカップを口にあてて傾ける。
 舌に広がる味わいは、確かに独特の苦味が強い。
 海を廻りさまざまな飲み物を飲んできたが、そのいずれとも異なる味わい。

「確かに、独特ですね。ですが、美味しいです」

 広い海には、決してその場では言わないが、美味しいとは評し難い飲み物もある。それらと比べると、そのジバングの緑茶は独特ではあっても決して不味いものではない。
 もう一度カップを傾けてみせたシエラに、仕立て屋もほっと安堵の表情を浮かべた。

「……いつか、ちゃんとお礼を言おうと思っていたんです。司祭様が旅先から送ってくれる手紙は、僕にとって大きな楽しみの一つですから」

 手紙、とシエラは胸中で繰り返す。
 遠い海の風習や、そこで見た不思議な衣装のことなど、旅の最中に見たいろいろなものを手紙に綴って、仕立て屋に送る。
 それが習慣のようになったのは、ただ、離れている間の寂しさを誤魔化すためだった。

「手紙を読みながら、司祭様の見たものや感じたものを思うんです。どうしても工房にこもって作業することが多いから、そうやって遠くを感じると楽しくて」
「それは……その、手紙は、私が送りたくて送っているものですから」
「それでも、です。ありがとうございます。手紙を送ってくれて。旅の間も……僕のことを、忘れずにいてくれて」

 真っ直ぐなお礼と同じくらい、真っ直ぐな視線で仕立て屋はシエラを見た。

「……そうして手紙を呼んでいると、時々、考えるんです。ただ綴られたものを読むだけでこれほど楽しいのだから、共に見られたらどれほど、なんて……」

 シエラの息が詰まる。期待が首をもたげて、心が浮足立つ。

「……姉の店は、もっと内地の方にあるんです。仕入れは、港町に来る他所の商人たち相手にやっていると。この飲み物も、その仕事で仕入れたものを分けてくれたもので」

 突然の話題転換にも、シエラの浮かれた気持ちは上滑りし、ただ「そうだったのですね」と相づちを打った。

「実は、ここでの仕立て屋を辞めて、姉に店を譲ろうと思っているんです。小さな村ですが商船が立ち寄ることもありますし、港町も内地よりはずっと近いですから」
「えっ!?」

 しかし、話が想像もしていなかった方向へと飛ぶと、流石に慌てて素っ頓狂な声を上げてしまった。
 カップの中身が揺れるほどの声に目を丸くした仕立て屋に、シエラは頬を染めて「ごめんなさい」と咳払いをひとつ。

「それは、えっと……お、お店をやめたら、どちらへ行かれるのですか?」

 海はつながっている。仕立て屋がどこへ行っても、会いに行くことは不可能ではない。それでも、シエラは不安だった。満足はしていないがそれなりに幸福な状況が変わることに。

「……本当にここでの仕事を辞めるかは、返事を聞いてからにしろと、姉に言われています」
「返事……?」

 また、話がシエラには分からない方向へと転がる。
 落ち着くと言った緑茶の香りも、混乱を和らげるには足りない。

「司祭様」
「は、はい……」

 仕立て屋の視線が、迷うように部屋を見渡して、シエラへと戻る。

「次の旅には、僕もご一緒させてはもらえませんか」
「……えっ」

 昨日の試着から今に至るまで、繰り返し浮き沈みし続けてきたシエラの思考は、もはや仕立て屋の発言の意図を汲むことすら困難になっていた。
 カップを持ったまま固まったシエラに、仕立て屋は続けた。

「もちろん、ポセイドン神の遣いというお役目があって旅をしていることも、それは本来ならば僕がついていっていいようなものではないということも分かっています。ですが……」

 シエラが「そこまで堅苦しい旅でもないのですが」という言葉を思い浮かべているとは知らぬまま、仕立て屋は深呼吸を一つ。
 そして、言い切る。

「これ以上、ここでただ……好きな人の帰りを待つ日々は、送りたくはないんです」
「――」
「僕は、司祭様と共に日々を過ごしたい……一緒になりたいと、思っています」

 シエラの口が、陸に打ち上げられた魚のようにパクパクと開閉する。
 返事は決まっていた。だが、それは声にならず、ただ顔だけが真っ赤になっていく。
 やはりカップは持ったまま、シエラはゆっくりと顔を下に向ける。テーブルの下で自分の尾びれがびたびたと床を叩いているのが、他人のそれのように見える。

「……司祭様?」

 返事を待っていた仕立て屋が、不安そうにシエラを呼ぶ。
 答えないと、という焦りに急き立てられて、シエラは必死に考える。言うべきこと、言いたいことを。

「……私も」

 自らの尾に落とすように、言葉を紡ぐ。

「私も……同じ、気持ちです。旅をして、ここに帰るときだけ会うのではなく……もっと、ずっと、一緒にいたい、と……」

 その返答に、仕立て屋は「では……!」と身を乗り出す。
 しかし、シエラはそれに被せるような形で、「ですが」と続けて、顔を上げた。

「人と魔物が共に旅をするために、人が海の中を行くために何が必要なのか……私たち海の魔物が、何をするのか、ご存知ですか?」

 テーブル越しに、シエラは仕立て屋を見つめる。
 仕立て屋は、質問の答えを知らない。それでも、「何をされる」のかは、シエラの目を見ただけで、理解できた。

「身を清めて、支度を済ませたら……今夜また、こちらに参りますね。とても……とても大切な、儀式になりますから」

 そう言いながらシエラも身を乗り出し、仕立て屋の頬に手を添えて、乾いている唇を指で撫でた。ただそれだけでも、ぞくりと背筋が震えるほどの快楽が仕立て屋を痺れさせる。
 うなずきすら曖昧になった仕立て屋を、シエラはしばらく嬉しそうに見つめていた。
 敬虔な海の司祭の優しげな微笑みと、淫靡な魔物の情欲を色濃く滲ませた目で。
24/02/22 16:51更新 / みなと

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