連載小説
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禁酒宣言


 朝の光の下、礼慈は眠気を引きずりながらなんとか登校していた。

(……これは授業中保たないな)

 昨夜リリを家に送り届けた後のことだ。
 泊まっていくようにと勧めてきたネハシュの誘いを丁重に断って帰宅した礼慈は、彼が落ち着くのを待っていたかのように臨戦態勢を整えた陰茎の処遇に困り果て、結局深夜を回るまで眠ることができなかった。

 これまでならば自慰で処理することもできたのだが、昨夜はいざコトに及ぼうとしてもどうにも気乗りしなかった。
 自慰を邪魔した自分の中の要素を表すのなら“もったいない”だ。

 体内に滾るこの熱をティッシュに吐き出してしまうということがあまりに惜しく感じられたのだ。

(どうせ出すのならリリの中に……)

 あの幼く、熱い胎の中でこの渦巻く欲望を吐き出すことができたのならどれほど満たされるだろうと思うと、自分で処理してしまうなどというのはまさに無駄撃ちでしかないと感じられたのだ。

 こんなことならば昨日汚してしまって回収したリリの下着を捨てずにとっておけばよかったかと偏執的なことを考えてしまうほどに悶々としているうちに、欲求は尽きないにしても命の危機すら感じた放出によって体の方は疲れていたのか、いつの間にか礼慈は寝落ちしていた。朝起きた時にはなんとか朝の生理現象以上の猛りは鎮まっていて、ほっとしたものだ。

 昨夜のあの欲望のはけ口を求めて燻っていた時のことを思うと、リリの家に長居しなかったのは正解だった。
 これでもしアスデル家に泊まっていたら、他人の屋敷でその家の末娘を求めてしまって止まれなかったかもしれない。
 自分の中にこれほどの性欲が潜んでいるとは考えもしなかった。

 こんなことではリリが受け入れてくれなければ生活が成り立たなくなってしまうのではないかという危惧すらしていると、正門前に当のリリが立っているのが見えた。
 相変わらず見つかりやすいようにか、往来のど真ん中に佇んでいる美少女は目立つ。

「リリ」
「レイジお兄さま!」

 彼女の顔が笑み崩れ、尻尾と羽を振って駆け寄ってくる。
 一直線に近づいて来るのだが、それができるのは正門前の生徒たちがリリとこちらまでの道をさり気なく開いてくれているからだ。
 道を譲ってくれているお歴々からこちらに注がれる視線は生暖かい。

 おそらくは駆け寄る少女とこちらが親密な関係にあると認定されているのだろうし、それは彼らの中ではそういう視線で見守られることなのだ。
 礼慈としては自分の中のおそらくは古くなりつつある倫理感を脇にのけて、欲望を肯定しろと指摘されているようで妙にそわそわしてしまう。

 駆け寄ってくる勢いのままの、受け止められることを疑わない飛び込みを捕まえる。

 心地よい重さに一瞬遅れてリリの香りと小さな体から伝わる体温がやってきて、昨日の痴態がフラッシュバックする。
 また鎌首をもたげてくる欲情を頭を振って追い払いリリと挨拶を交わし、

「今日の昼は、時間があるならまた生徒会室に来るか?」
「はい!」

 輝く笑顔に思わず頬が緩むのを止めることができなかった。

   ●

 昼休みには朝約束した通り、二人で生徒会準備室の机を囲んで弁当を食べた。
 お互いの弁当の中身を交換したり、 授業中にあった面白いエピソードの話をし、今日の放課後もまた掃除の続きをしようと決まった後。一通り話題が尽きた頃合いを見計らったようにリリが記憶喪失の件を持ち出してきた。

「昨日はありがとうございました。あの、わたし、またきおくがなくなってしまって、気がついたらお店でした」

 そうであろうとはあたりがついていた。
 そうとは知らないリリはうつむき加減の上目遣いで、

「それで、あの、今日の学校の後のお話をした後でもうしわけないんですけれど……」
「気にするな。話してあげると約束したろ? 秘密基地に行った辺りからざっと昨日のことを話そうか」
「おねがいします」

 また記憶を失くしてしまわないように使う言葉、持ち出す話題に気をつけながら昨日のことを語って聞かせる。
 リリは頭の霧が晴れたように何度も頷いては感謝してくれるが、礼慈としては最も重要なところを黙っていなければならないので騙してしまった感があり、罪悪感がある。
 これはけっこう心に悪いなと思っていると、隣の部屋から「鳴滝。ちょっと顔を貸してくれないか」とお呼びがかかった。

「どうしました? 会長」
「うん、いちゃいちゃと食事を楽しんでいるところに呼び出してすまない。
 不思議の国への行き方についてだ」
「何か分かりましたか?」

 食い気味に訊くと、ルアナは「まあ待て」と手で制した。

「逸っている所に期待を持たせても悪い。結論から言おう。私の伝手では不思議の国への能動的な行き方は分からなかった」
「そうですか」
「すまないな」
「いえ、こんなに早く動いてくれてありがとうございます」
「この手のことは即行動に移した方が誰にとってもいい……まあ、結局有益な情報は掴めなかったのだが」
「いえ、助かります」
「……うむ」

 まんざらでもなさそうに頷いて、ルアナは励ますように続けた。

「まあ悲観することはあるまい。鳴滝とリリ嬢ならばそう待たずとも不思議の国へと招かれるのではないかと私は思っているよ」
「それは?」
「いや、確信があるわけではないのだ。
 ……アリスたちは元々その生涯において必ず不思議の国へと招かれる定めを持っているようだがそれとは別に、君たちは時を置かずに招かれるだろうと、そういう予感があるのだ。具体的な根拠もなくてすまないな。聞き流してくれ」

 ここで希望的観測を言って惑わしてくるようなヒトではない。ルアナの発言には本人も理解していない何かしらの論拠があるのだろう。

「私からの話はこんなものだ。邪魔をして悪かったな」

 生徒会室から出ていこうとするルアナを追うように、何かが落ちる音が聞こえた。
 音源は隣の部屋だ。
 振り返ったルアナと顔を見合わせ、礼慈は生徒会準備室に走った。
 部屋に入ると、机に突っ伏しているリリの背が見えた。

「リリ?」

 肩を揺すろうと彼女に近づいて、足が何かを蹴り転がした。
 机の足に当たって動きを止めたのは礼慈の水筒だ。
 蓋が開いたそこからは何もこぼれてはいない。つまり、

「酒を飲んでしまったようだな」

 一足遅れて部屋を見回したルアナが言う。

「そのようですね」

 口でそう言いつつ、内心で礼慈は首を傾げた。
 リリは昨日、二日酔いの症状に見舞われながら飲酒の件については反省していたはずなのだ。それが何でまた酒に手を出してしまったのだろう。

(酒も昨日より飲みづらい穀物の蒸留酒にしてたんだがな)

 リリを止めることはできなかったらしい。
 大丈夫かと声をかけながら肩を揺すると抵抗なくころんと横向きになった顔は赤くなっており、同じく赤い耳がぴくりと動くだけで、他に反応は無い。

 泥酔している。

「案ずるな。魔物はこの程度でどうにかなることはない。
 とはいえ、このままというわけにもいくまい」
「はい」

「小等部には話を通しておくから午後の授業は休んでもらおうか。彼女を介抱するのなら、保健室が手っ取り早いが――」
「酒の問題なので保健室よりも家に連れて行った方がいいと思います」
「確かに、サテュロスに任せた方が良さそうだな。ではリリ嬢を任せてもいいな?」
「はい」

 リリを背負って足早に生徒会室を出て行こうとする礼慈の背にルアナの声が届いた。

「がんばれ。君なら大丈夫だとも」

   ●

 礼慈は店の扉を体当たりするようにして押し開けた。
「母さん、酒飲んでぶっ倒れた子の介抱ってできる?」
「ええ?!」

   ●

「――ああ、驚いた」

 店の札をOPENからCLOSEに変えた礼美はテーブルに寝かせたリリの額を撫でた。

「いきなりぐったりしたリリちゃん連れて来るんだもの」
「ごめん。酒が絡むことなら専門家に頼んだ方がいいと思った」
「まあ、そうね。
 それにしてもリリちゃん。昨日少しお説教したからもうしばらくの間は飲まないんじゃないかって思ったんだけど、また飲んじゃったのね」

 それは初耳だったが、素直なリリがその上であえてお酒を飲もうとしたということに礼慈は更に疑問を強くすることになった。

「リリは大丈夫なのか?」
「ええ、バッカス様の影響を多少なりとも受けたお酒を飲んで少し体の中の魔力のバランスが崩れているのね。でも、魔物の体だもの。しばらく安静にしていれば自然に目が覚めるはずよ。もっと早くに目を覚まして欲しいのなら」

 礼美は口元に浮かぶニヤけを消しきれない顔で、

「昨日家に来る前にしていたようにしてあげればすぐに目を覚ますはずよ。二日酔いにはなるでしょうけれどね」

 そう口にするということは、礼慈とリリがナニをしているのかは知られているのだろう。

(この手のことが当然のように筒抜けになってるのは皆なんとも思わないのか?)

 自分が気にするのはリリを犯すことに対して後ろめたさがあるからだろうか。

「外に仕入れに行ってきましょうか?」

 息子の沈黙をどう誤解したのか、礼美がそう言うのへ丁重に断りを入れる。

「いや、それだとよくないんだ」

 礼慈から精を受け取ることによってリリの体調が元に戻るのだとしても、性的な行為を伴って酔いを覚ましてしまえば酒を飲んだときの記憶はなくなってしまうだろう。礼慈は今回またリリが酒を飲んでしまったのは昨日の飲酒時の記憶が性交によって消えてしまったため酒に対する興味がぶり返してきたのが原因だと考えていた。

 性的な行為を経ずにリリには酔いを覚ましてもらわなければならない。

「悪いけど、リリが自然に目覚めるまで様子を見ておいて欲しいんだけど」

 そういう礼慈の思惑を深く問いただすことなく、礼美は頷いた。

「ええ、ええ。リリちゃんと礼慈のためなら何でもしてあげちゃう」
「そこまで重く構えなくていいから」
「そうはいかないわよ」

 リリの額に濡れ手ぬぐいを置く礼美に肩をすくめる。

「じゃあ悪いけど、リリを頼むよ」

   ●

 目が覚めて一番始めに知覚したのは柔らかい光を投げかけている照明だった。
 それをぼんやりと眺めている内に、徐々に意識がはっきりしてくる。

 頭には普段は感じることのない重みのようなものがある。その重みの元を取り払うために手を頭にもっていこうとして、

(……?)

 体が動くのに少し間がある気がした。
 なんでだろうと思いながら体を起こしたリリの頭から手ぬぐいが落ちる。拾い上げながら辺りを見回すと、礼美がやっている店のテーブルの上に寝かせられていたのだと分かった。

「……あれ?」
「おはようリリちゃん」
「レミお姉さま?」

 声を出したことでリリの目は完全に覚めた。
 同時に自分が学園で何をしたのかを思い出して、慌てて頭を下げる。

「おはようございます! あの、わたし、またお酒を飲んでしまったみたいで」
「ええ、聞いてるわ。なかなかの飲みっぷりだったようね」

 礼美はリリの膝から手ぬぐいを拾い上げると訊ねた。

「気分はどう?」
「……頭が、また重いです」
「二日酔いね」
「でも、あの、昨日とは少しちがいます」
「あら? そうなの?」
「昨日は、目がさめた後、頭は重かったですけど、もっと楽しかったんです」

 自分に確認するようにリリは目を閉じながら言う。

「そう、目がさめたらお兄さまが近くにいて、それで、とても心がほわっとするような、楽しかったことをぼんやりと覚えているんです。
 だから、またお酒を飲めば楽しいがのこって、楽しくお酒が飲めるわたしはオトナになれてて、オトナなわたしはきっと成長できてて、そんな成長したわたしならきっときおくが消えることなんてなくて、レイジお兄さまとずっとそんな時間がすごせると思っていました……」

「それでまたお酒を飲んじゃったのね」
「……はい」

 縮こまるリリに、礼美は苦笑して、

「お酒を飲んだ後にどうなっていたいかをリリちゃんはもう持っていたのね。これは昨日のおばさんの言い方が悪かったわ」

 そうね、と一息して彼女は続ける。

「お酒は大人かどうかを測るものではないし、お酒のおかげで楽しくなるわけじゃないの。楽しかったのは、お酒のおかげじゃなくて礼慈と居たから。そうじゃない?」

 リリは目をぱちくりと開いた。

「そ、そうですっ。きっとお兄さま以外のひととではあんなに楽しくはなれなかったと思います」
「人の交わりがあって、お酒はその関係に添える彩りなの。お酒だけでは酒精の酩酊を楽しく思えても、心が安らいだ気になっても、それだけ。酒精が消えた後に残るものはなくて、きっと虚しいわ。だから大切なものを見誤ってはだめよ。私はそれに気付くのが少し遅かったけれどね。
 それが分かったのなら、きっともう失敗しないわね。さあ、いっぱいお水を飲みましょう。二日酔いを治さなきゃ。あ、昨日のフルーツあるわよ」

「ありがとうございます」

 リリは座ったままだったテーブルから降りて、グラスを受け取った。それをぐいっと飲み干して、

「テーブルふきます」
「ありがとうね。でもゆっくりくつろいでいてくれた方がおばさんは嬉しいかな」

 もう一杯水を用意した礼美はフルーツの皿を置いてリリに微笑みかける。

「学校も今日はもうお休みにしますって言ってあるからね。礼慈が迎えに来るまでうちに居なさい」

 言われた通りにリリは大人しく椅子につくが、何もしていないのが気になるのか、もじもじと体を揺すっている。その様子に苦笑して、礼美は彼女の横に座った。

「お酒を飲んじゃったってことは、礼慈と一緒に居たってことよね? 今日は二人で何をしていたのかしら?」

 問いかけにリリの顔がぱっと晴れる。

「朝、ふたりで会ってですね! それでお昼をいっしょに食べましょうって約束したんです。それで、いっしょにお昼を食べました」
「今日は話してくれるのね」
「あの、今日はヒミツじゃないので……」
「あら嬉しい。じゃあお昼は食堂で食べたのかしら?」
「いえ、ルアナお姉さまがいらっしゃるお部屋のとなりの、じゅんび室というところで食べました」
「ルアナ様というと……生徒会長よね。あら、職権乱用」
「しょっけん……?」
「リリちゃんのことを他の男の子に見せたくなかったのかもしれないわね。リリちゃんすっごくかわいいから」
「わたしなんてそんな」
「おばさんがサバト信者だったら即ハイエースよ」
「ハイエース?」
「ふふ、大人の言語よ。もう少ししたら学ぶかもね。それにしても面白い話が聞けたわ。他に礼慈が学園でどんなことしてるかって知ってる?」

 俄然興味を示した礼美にリリは首を傾げた。

「レミお姉さまはお兄さまと学校でのことはお話にならないのですか?」
「うーん、年頃の男の子にそういう話題はどこの家でも振らないかな。それに、私はね……」

 笑おうとした礼美の顔がぎこちなく強張った。その自覚があるのか、彼女は困ったように顔を両手で揉みこむ。

「レミお姉さま?」

 心配するリリに目を合わせて、礼美は深呼吸をした。

「そうね。これを黙っていてもしかたないものね……。ねえ、リリちゃん。おばさん、リリちゃんにありがとうって言わないといけないの」

   ●

「――この家にはお父さんは居ないの。どうしてそうなったのか、リリちゃん……いえ、魔物の皆には、話をしても理解は難しいんじゃないかと思うけれど、あの人も私も結局はヒトとして未熟だったのよ。そして私は母親としてもあまりに弱かった。
 あなた達に助けられて魔物になった私は自分を立て直すことができたけれど、小さかった礼慈には決して償えない歪みを与えてしまったわ。それを救ってくれているリリちゃんには本当に感謝しています。
 そんな過去があるから、私はあの子の為にもできるだけあの子の人生に関わらないようにしないといけない。そう思っているけど、でもあの子がどうやって過ごしているのか、私が歪めてしまった影響は出ていないのかって心配になっちゃって、リリちゃんにどんな学校生活を送っているのかってお話を聞いてしまいたくなったの。
 この歳になるまで魔物たちが通う学園で相手がいないのは心配だったけど、このところの礼慈は楽しそうで特にリリちゃん。あなたに出会ってからは……そう、雄になったみたいだしね。どう? 礼慈は優しく抱いてくれているかしら?」

 礼美が語る内容にリリは真剣に耳を傾けていたが、最後の言葉に恥ずかしそうな表情を浮かべた。

「レイジお兄さまにぎゅってしてもらったことですか? あの、おひざの上にすわった時にやさしくしてくれました」
「んーそうではなくて、セックスしたときのことなんだけど」
「せっくす……?」
「あら?」

 リリが言葉の意味を理解していないと悟った礼美はいくつか違う言葉でリリに問うた。その全ての言葉をリリに知らないと答えられ、ならば、と具体的な行為の内容について話を及ばせようとしたとき、リリは意を決したように礼美に言った。

「あ、あの! 話さないでいてごめんなさい! わたし、さいきんきおくが消えてしまうことがあるんです。だから、うまくお答えできないかもしれないです」
「記憶が……? そういえばさっきも記憶がどう、って言ってたわね」
「はい。それで、学園でもうまくみんなといることができなくなって、どうしようもなくなっていた時に」
「礼慈が何かしたのね?」
「はい。お兄さまが助けてくれました」

 常盤の瞳を潤ませて熱っぽく言うリリの様子から察するに、冗談でもなんでもなくその時彼女は本当に救われたのだろう。であればリリの礼慈への懐き具合も納得である。
 ところで、とここでにわかに湧き出した疑問を礼美は口にした。

「あなたは、サキュバス、じゃないの?」
「わたしは、アリスっていうそうです」

 もう一つの納得が礼美に訪れる。

「お客様に聞いたことがあるわ。……そう、そういうことなのね」

 礼慈が性交によって酔いを覚ますことを避けようとしたのは、彼女の種族の特性も絡んでいるのだろうと礼美は判断した。

「記憶が消えることは怖いことよね。ごめんなさいね、秘密にしようとしていたことを話させてしまって。誰にも言わないから安心して欲しいわ。そして今私が言っていたことは忘れてちょうだい。きっと消えてしまっている記憶のことを訊ねてしまっているから。
 でもね、あなたが覚えていなくても礼慈はしっかりと覚えているでしょうから大丈夫よ。それに、私の感謝は変わらない」

 この話はおしまいとばかりにリリの頭に手を置く礼美へ、リリは言いすがった。

「あの、わたし、レミお姉さまは礼慈お兄さまとお話した方がいいと思います」
「それは、どうしても怖く感じてしまうわ。思ったことを素直に、とは、もうできないの」

 感情を押し隠すような曖昧な笑みを浮かべて礼美は言う。

「ごめんなさい。私はあなたの思う大人とは違うでしょう? でも、大人の正体の一つでもあるの」
「いえ、お姉さまだってステキなオトナの方です」

 人間だった時の記憶と積み上がった負い目が魔物の純粋性を煎じ詰めたような存在を前にとらせた謝罪を、リリはやんわり否定した。

「それに、あの……お姉さまが悲しいお顔をするのは、悲しいです」

 思わずリリを抱きしめて、礼美は小さく囁く。

「ありがとう。そしてごめんね。変な話をしちゃって。リリちゃんがあまりにも話しやすいものだから、つい口が滑ってしまったの」

 店の扉が開く音がして、礼美はぱっとリリを放した。

「ただいま、リリは――大丈夫そうだな」

 テーブルに並べられたフルーツ盛りを見て安心したように言う礼慈に、礼美は補足を告げる。

「お帰り礼慈。リリちゃん、さっき目が覚めたの。今はアルコールの影響が少し残っているけど、明日には元通りになると思うわ」
「そうか」
「……おかえりなさい、お兄さま」

 恐る恐る、といった感じのリリの肩に手を置いて「大丈夫よ」と耳打ちし、

「それじゃあ、邪魔者は去りましょうね」

 自分の役目は終わったとばかりに厨房に行く。
 礼慈はこれを見送って、

「さて、リリ。もう遅くなってしまったし、家まで送ろう」

 伸ばされた手。リリは厨房の奥に消えてしまった礼美の方を見ていたが、やがて目の前の手を両手で握り返した。

「これじゃあ歩けないな」
「あ、ごめんなさい」

 慌てて手は離されたが、片方の手は繋がれたまま、二人は特に話をすることなく店を出て行く。
 リリがお酒を飲んでしまったことを後悔しているのは傍から見ても分かるし、礼慈もリリの様子からそれを察していて、その上でどう接したものかと思い悩んでいるのが分かる。

(口を出したくなってしまうけど、おせっかいよね)

 厨房の奥から顔を覗かせてそんな二人を見守る礼美は、それは自分の領分ではないかなと結論し、夜の営業に向けて普段より遅めの準備を始めた。

   ●

 店から貴族区画へと続く道。
 礼慈はそろそろ慣れを感じ始める道のりを歩きながら、なんと話を切り出したものかとリリの手のひらを何度も握っては緩めてを繰り返し、やがて歯切れ悪く切り出した。

「これでまあ二度目だし、よく分かったと思うんだが、酒はリリにはまだ早いよ」
「……はい。ごめんなさい」
「いや、お昼に俺もお酒のことはあまり詳しく話さなかったからな。自分がいつも飲んでるからって優先度が低くなってしまったんだ。悪かった」

 昨日は酒と性的な記憶が密接に結びついている状態だったため、詳しく話をするとまた記憶が消えてしまう領域にまで話が及んでしまうという懸念もあってのことだったが、そのせいでこうなってしまったのならリリには悪いことをしてしまった。

「俺の考えが足らなかったな。酒に対する興味が強く残ってる状態だと思わなかった」
「ちがうんです」

 リリは小さく首を振った。

「わたし、昨日はお酒を飲んでレイジお兄さまのお家で目が覚めたとき、頭は重かったけど、でも楽しかったって思ったんです。お酒が楽しいと思えたわたしはきっとお父さまたちみたいにオトナになれるって思っちゃって、もっとオトナになろうと思って、そうしたらお兄さまと楽しい時間をいっぱいすごせると思って、昨日もお酒は飲まない方がいいって言われたのに飲んじゃいました……。
 でも、それはちがいました。レミお姉さまに、いっしょに居たヒトがお兄さまだから楽しかったんじゃないかって言われて、そのとおりだって思ったんです。お酒で楽しかったんじゃなかったんです。わたし、そんなことも分かっていなかったです」

 落ちていた視線を上げ、

「オトナなお酒の飲み方はまだムリで……だけど、すぐに分かるようにがんばりますから……もう少しだけ待ってくれると、うれしい、です」

 礼慈はリリに見つめられることに耐え切れずに目を逸らした。
 居るだけで楽しいのだとリリに言われ、その言葉が持つ破壊力に負けたのだ。
 素直なだけに余計にキた。

「そういうことなら俺も大人なんかじゃない。きっとリリと俺は似たようなもんだ。俺が飲む酒なんてバッカス様が知ったら怒られてしまうようなものだ。だから、待つも何もない」
「そんなことないです!」

 礼慈という人間を肯定してくれようとするリリの頭に落ち着け、と手を置いて、諭すように言う。

「そんなもんだよ」

 酒に手を出した理由を正直に告げてくれたリリに、自分も誠実に答えられればと思いながら礼慈は腹を括る。

「俺も大人な飲み方ができるわけじゃないし、リリがそうするんだ。同じようにお酒は飲まないようにしよう」
「え?」
「決まりだな。二人で立派な大人ってやつを目指してみよう」

 これを成し遂げられるなら、自分はまだリリにお兄様面していられる所に居られるだろうか。
 そんなことを考えながら、礼慈は明日からの学園生活に向けて少し気合を入れた。


19/03/27 00:37更新 / コン
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■作者メッセージ
生きてると魔物でも悩みって出るよねーとか、そんな感じ
オトナもコドオも大変よ。じゃあ両者の違いってなんじゃろな。

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