読切小説
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きみのまにまに
白。白。白。白だらけ。
あたり一面が、真っ白だった。息まで白く染まってしまって。
これ以上、外を見ていても仕方ないから、中に戻った。
中、洞窟。
洞窟の中は、常に、一定の気温らしい。外は真っ白なのに。
吹雪いてすらいるのに、温かい。
ごつごつとした地面は、少し痛いけれど。
それでも、死ぬよりは、ずっと、ましだった。
そう、ましだ。死ぬよりは。
死ぬことだけは、嫌だった。
嫌、と、駄々っ子のように言い散らして。そして、僕はまた丸くなった。
こうしないと、寒さで死んでしまうから。ああ、寒い。
どうしてこんなことになったのだろう?
考えて、ふと気づいた。
僕が悪かったのか。
どれもこれも、僕が悪かったのか。成績が悪かったから捨てられて。
あれもそれも、僕が悪かったのか。生活が辛かったから捨てられて。
なら、仕方ない。
そう思って、僕は隅っこで縮まった。ボールのように。身を寄せ合う動物のように。
僕は一人だから、寄せ合ってくれる人なんて、いないけど。
ふと、父と、母の顔が、頭に浮かぶ。
元気だろうか。
僕を捨ててから、憑き物が落ちたように、優しい人に、なってくれてるといい。
少し、眠くなってくる。
今寝ては危険だと、そうは思うけれど。でも、だって、
眠いものは仕方がない。
とくん。とくん。とくん。心臓が抗議の声をあげていた。
五月蠅くて、ぐっすりとは眠れそうにないな、なんて、他人事のように思ったり。
寝てはいけないよ。死んでしまう。
誰かが、心臓がそう囁いた気がして、僕は、いつの間にか閉じかけていた瞼を開く。
暗い岩肌が、やけに冷たく見えた。
ひどく無機質なそれが。
ひどく身勝手なそれが。
猜疑心も。孤独感も。悲壮感も。全部、凍らせて、凍てつかせてくれた。気がした。
いや。違う。
そう思いたいだけだ。
ああ、洞窟は暖かいはずなのに。寒い。
寒い。寒い。寒い。
きっと、寂しいせいだ。寂しい性だ。
きっと、独りのせいだ。独りの姓だ。
寒いなら、身体を。身体を、動かさなくちゃ。
でも、筋肉が氷結してしまったのか、動けない。
関節が、きい、きい。金属が軋むような音をたてて。煩わしい。
けれど、その音が聞こえている間は、僕は生きているんだ。
なんとなくそう考えた。
そして、唐突にやってくる睡魔。
気持ちいい感覚。
居心地いい感覚。
全ての罪を、内包している安心感が。
胎児になったような、幼稚な甘えが湧いてくる。
微睡みながら、寝ちゃだめと、必死に生の声を聞く。聴く。
それでも、視界は容赦なく暗澹へと。
怖いな。ひょっとしたら、死ぬのかな。
それは、怖い。怖い。怖い。
怖くないよ。
誰の声だろう。ぞっとするほど綺麗で、淫靡で、そして蠱惑的な声音。
怖くないよ。
また、聞こえる。
でも、怖いものは怖い。恐怖で、身体が小さくなる。
一寸法師の逆みたいに。どんどん。どんどん。
怖くないよ。
また、聞こえる。
ここまでしつこく、僕に声を掛けてくれるのは誰だろう。
その正体を知る前に、僕は、落ちていく。
底の見えない、深淵に。真っ暗な大穴へ。
いつ地面にぶつかるのか、いや、違う。そもそも。
地面があるのかどうか、それすら、わからない。わからない。
そんな、大穴へ。落ちていく。
昏々と眠り続ける、その予兆。
ぞっとしない。
思うだけで、抵抗する意思も、思惟も。雲散霧消に片付いて。
慣性に、重力に身を任せ、委ね。
僕は、眠りの沼に、身を浸らせた。
その直前、誰かに、抱きしめられた気がした。
ぬくもり。
その言葉が、しっくりくるようで。死ぬことも、怖くない。そうだね。
怖くないよ。



覚醒。
接着剤で、しっかりくっついてしまったのか、瞼が開かない。
いや、開けない。
動作の一つ一つが、億劫で。
気だるい。気だるいけど、心地いい。
温かくて、不思議な感覚。包まれている。
そう、何かに。抱きしめられるように。
ううん、違う。
ように、ではない。実際に。
何かに、抱きしめられて、いる。
何に?
主語が、欠けている。でも、仕方ないこと。
だって、僕を抱きしめてくれる人、なんて、いないから。
そう、いない。親ですら、しなかったこと。
だから、そんなぬくもりをくれる人なんて、
いないはず。
どくん。どくん。どくん。
鼓動が、耳朶をうつ。
僕の、生きることを諦めていない、心臓。
それと、重なり、もう一つ。もう一つ。
どくん。どくん。どくん。
共振。あるいは、共鳴するように、重なる鼓動。
僕のものではない、もう一つの、命。
抱きしめている、正体。
ぬくもりの、正体。
確かめたい、そう思って。
いや、少し、違う。
確かめるのが、当然のことに感じて。
僕は、瞼を重くしていた呪縛を、解く。
開く、視界。飛び込む、色彩。
岩肌と同じくらいに、茶色い肌をした、獣。
いや、獣というには、あまりに人に近い。
ああ、でも、人には真っ白で、もふもふした毛なんて、生えてないから。
やっぱり、獣かも、しれない。
でも、あまりにその体型は、人のそれに、酷似して。
どっちだろう。
どっちつかず。
悩んでいるうちに、それは口を開いた。
開口一番、それは言う。

――目が覚めた?

不思議な声だった。
慈しむような、声。とでも、いえばいいのか。
いや。僕に、それを。
慈しみだとか。そういったものと判断するのは、難しかった。
判別するのは、難しかった。
そういったものとは、稀薄な生活、だったから。
でも、それでも。
そう、思ったのは。きっと。
それの声が、柔らかかったから。だろう。
柔らかさ。
物理的――ではなく。
精神的な。柔らかさ。
それに、どこか安堵すると同時に、恐ろしくもなった。
声だけで、ここまで安堵するのなら。
僕は、少しでも会話をすれば。
虜になってしまうのでは。
馬鹿げた妄想だった。
滑稽な想像だった。
でも、でも、でも。
どこか、リアルな感触を持ったそれに、背筋を撫でられて。
それもあながち、頭の中だけじゃ、ない。
朧気に思った。

――よかった。ずっと寝ていたから。

耳に浸透していく声。
声。声。ああ、声。
薬のような中毒性を孕んだ、その声に、僕は絆される。
絆されて。
解かされて。

――お姉さんは、だあれ?

気づけば、僕は問うていた。
御礼も言わず。
不躾だと、つくづく思う。でも、
お姉さん。そう言ったのは。
間違いでは、ないと思う。
豊かな胸は、女性にしかついていないと、思うから。
無礼な僕に対して、お姉さんは、また、あの柔らかい声で囁くように、言った。

――私はね、イエティ。
――イエティ?

変わった名前だ。そんな感想を抱いたのも、つかの間。

――魔物なの。

日向に晒された、氷のように。
静かに、音も立てず。何かが氷解していく。きっと、それは、さっき感じていた、温かさ。
温かいのに、溶けていく、なんて。
おかしな話。
でも、それくらい、僕には絶望的なことだった。
魔物は、人を食べる。
そう聞いて、いたから。
骨の髄まで残さず、ぺろりと平らげられてしまう。
死んでしまう。
それは、嫌だ。
逃げなきゃ。
脳が命令を出すより、早く。
ほぼ、反射のように、身体を動かした。
だからって、どうとなることは、なかったけれど。
僕がいくら動いても、びくともしないお姉さんは。
ただ、優しい目で、僕を抱きしめていた。
おや、と思う。
どうして、僕は、食べられないのだろう。
ひょっとして、真ん丸に太らせて、脂を蓄えてから、ぱくりと、頂かれるのか。
その妄想は、なるほど説得力は、あった。
でも、噛み合わない。
恐ろしい妄想と、現実目の前にある。
優しい笑顔に、蕩けそうな声は、噛み合わない。
奇妙な、違和感。

――お姉さん。
――どうしたの?
――僕を、食べないの?

自分でも、馬鹿な質問だと、思ってしまう。
それくらいに、間の抜けた問い方。
お姉さんは、そんな質問にも。
嫌な顔一つせずに、白い歯を覗かせて、笑った。
微笑んだ。

――食べたりはね、しないの。

お姉さんが答えたのは、それだけだった。
自分でも、聞こえないほどの。小さな声で。
そうなんだ。
と、呟いた。
溶けだした雪の色のような、お姉さんの毛皮が、僕を包む。
温かい。
表面だけではなく、芯まで。
奥底まで、染み入る温かさだった。このお姉さんが、嘘を吐いているのかも。
忠告をする役目の、猜疑心は、溶けていた。
なぜだろう。
嘘を吐いているようには、思えなくて。
温かさだけが、僕の体に深々と、積もる。
どくん。どくん。
活動を忘れていたのか、今さらながらに、心臓が五月蠅く鼓動を始めた。
耳をすませば、もう一つ。
規則正しく、刻まれる、鼓動がある。
外は、吹雪いているのだろうか。
わけもなく、考えた。
毛皮が、直に触れている、肌が。
境界線が、あやふやになって、一つになっていく。
幻視に、決まっているけど、瞼の裏で確かに見えた、憧憬の、的。
このぬくもりは、いつまで続いてくれるのだろう。
綴じられた本のように。
いつか終わってしまうのか。
急に不安が、襲い掛かる。
おかしい。このお姉さんは、魔物なのに。
でも、生きているんだ。
こうして心臓を、動かして。
生々しくて、えも言われぬ温度を、孕ませて。

――お姉さん。

無意識のうちに、出ていた。
結露していた情操が、色鮮やかに。
芽吹いた新芽のように、瑞々しく。
ううん。そこまで、大そうなものじゃ、ない。
けれど、口にしないと、不安で。
呑み込まれそうで。
寒さに、呑み込まれてしまいそうで。
だ。
か。
ら。
口に、する。

――どこにも、いかないで。

自然と。

――寒いんだ。
――そう。

お姉さんの声は、どこまで優しかった。
沼のように、底が、見えなくて。
でも、落ちていくのは、不快では、なくて。
むしろ、心地よさを感じたりなんか、しちゃって。

――いいよ。

この世の、どんな賛辞よりも、嬉しい言葉が。
僕を雁字搦めに、火照らせた。
少しだけ、手を動かして、お姉さんの背中を、頑張って探る。
やがて、お互いが抱き合う格好になったことを確認して、目を閉じた。
意識がまた、途切れる。

――

直前、お姉さんが、何かを、言った、気がする。
それが、嬉しくて。
僕は、頬を緩ませた。
15/11/11 22:02更新 /

■作者メッセージ
そんなお話でした。楽しんでいただければ幸いです。
停滞はとっても怖いので、日々自分を殺るような感覚です。
イエティの温かさは、もう色々な方が書かれていたので、じゃあ心の温かさでも挑戦しようとして生まれました。
今回は、リズムなども考え、かなり変わった文体になっているかと思います。

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