連載小説
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前編:魔物の目覚め
 久方ぶりに彼女が目を覚ました場所は、暗く埃っぽい石室の中だった。
「ふああぁ。あれぇ、あたしは一体どうしていたんだったかしらねぇ」
 彼女は身をくねらせて自らが収められていた棺から身を起こす。
 何だかまだ頭がぼんやりとしていた。少し唸りながら頭を振ると、耳元のピアスがちりん、と涼やかな音色を立てる。
「確かファラオをやっつけにここに来て、ワンちゃんやネコちゃんを捻ってやりながらここまで来たのよね。
 ……なのにどうして、よりにもよってファラオが寝てるはずの棺で寝てたのかしら」
 彼女はこめかみに人差し指を当てて首をひねる。
 自然とそんな仕草を取ってから、彼女は自分の腕の存在に気が付いて目を丸くした。鱗も筋肉もろくについていない、艶やかで傷一つないすらりと伸びた細い腕。自分の腕はこんなに頼り無いものだっただろうか。
 指先の爪も美しい光沢さえ放っているものの、武器として使うにはあまりにも脆そうだ。
「……あたしの身体、こんなだったかしら」
 ぬらぬらとした闇色の鱗に覆われた蛇の身体には見覚えがある。だがこの"上半身"と言えばいいだろうか、鱗の無い腹から上の部分は、これではまるで人間の女のようではないか。
 内臓が収まっている腹の上には鱗一枚無く、触ればふにふにと柔らかい。そして一番の急所である心臓の上など最悪だ。腹よりは脂肪が乗っているが、この肉は信じられない程柔らかく、剣や槍はおろか小さなナイフですら防げそうにない。
「あいつの力のせいかしら。でも、いくらなんでもあたしの姿を変えられる程の力を持っているとは思えないし、それに小細工ばかり弄してきたあいつの力があたしに効くとも……。って、そうだったわ。そうだったわね」
 無意識に漏れた己の言葉から、彼女は少しずつだが記憶を取り戻していく。
 自分は太陽の王を倒すべく生み出された魔物アポピス。名はインヘル。倒してきた王、つまりファラオも数知れずで、それなりに人間達からも恐れられていた存在だった。
 そんな自分がどうして本来敵が眠っているはずの棺の中で眠っていたのか。それを思い出し、インヘルは拳を握りしめて歯噛みする。
「あの忌々しい小僧め」
 朽ち果てた壁に描かれている質素な壁画や慎ましい装飾品からも分かるように、この遺跡の主はもともとそれほど権力のあるファラオでは無かった。
 元々は戦うつもりの無かった相手だ。本命は砂漠に大国を築いた高名なファラオの遺跡だった。この遺跡はその道の途上にあるに過ぎなかったのだ。
 無視して避けて通っても良かった。しかしアポピスとしての誇りがインヘルにそれを許さなかった。ファラオの天敵アポピスが小さいとはいえファラオの遺跡を避けて通るとあっては種族全体の名折れになる。インヘルはそう考えたのだ。
 特別インヘルが驕っていたというわけでは無かった。他のアポピスであっても恐らく同じ判断を下しただろう。ただ、インヘルが考えていた以上にここのファラオは切れ者だったのだ。
 王の間までたどり着く事自体は簡単だった。ここのファラオはまだ子どもだったこともあり、守護者であるアヌビスやスフィンクスも数が少なく弱い者ばかりだった。
 しかしそれは罠だったのだ。
 棺を開き、穏やかなファラオの眠りを永遠の物にしてやるべく必殺の毒牙をその腹に突き立てた時、ようやくインヘルは自分が罠に嵌められたのだと気が付いた。
 どこからともなく現れた無数の手が自分の背を突き飛ばし、棺の中に押し込んできたのだ。勝負は戸惑っていた一瞬のうちに付いていた。抵抗しようとしたときには棺の蓋が閉められ、闇の中に閉じ込められていた。
 最後に感じたのは、してやったりというファラオの思念だった。この遺跡は、遺跡自体が幼いファラオの用意していたトラップだったのだ。眠りにつく前から、自分達を狙う魔物の事を考えて用意しておいたのだろう。
 本物のファラオが眠っている遺跡はそう遠くない場所に隠されていたのだろう。ここは分かりやすいダミーだったというわけだ。インヘルは完全に出し抜かれてしまったのだった。
 インヘルは暴れて逃げようとしたのだが、抗い様の無い眠りの封印術がそれを許してくれなかった。
 そうして強制的に眠りにつかされ、ようやく目が覚めたかと思えば遺跡はとうに朽ち果てていて自分の身体も変質していると言ったありさまだった。
 一体どのくらいの時間が経ったのか。自分の身に何が起こっているのか。インヘルは分からないことだらけだった。
「何よ、何よ、何なのよこの感じ! 不快だわ! しかもお腹空いた!」
 インヘルは頬を紅潮させ、びたんびたんと尻尾を床に叩きつける。その度土埃が舞い上がり、遺跡全体が軋むような音を立てる。
 インヘルの胸の中に湧きあがってきた感情、それは怒りだった。だが封印される前は人間的な感情というものがほとんどなかったため、インヘルにはこの感覚が何なのか、どうしていいのかも良く分からなかった。
 ふと目を降ろせば、棺の中に納まっていたのはファラオでは無く蝋人形だった。
 よく見てみれば棺にはびっしりと封印術式が書きこまれていた。棺の内側も、蓋の裏にまで念入りに書かれているという徹底ぶりだ。
 きっと自分は余裕を見せていた隙を突かれ、幻術を見せられていたのだ。蝋人形がファラオに見えるように、封印の棺が王の棺に見えるように。
 アヌビスやスフィンクスも数が少なかったのではなく、術で気配を消していたのだろう。
「よくもこのあたしを、コケにしてくれたわねッ」
 感情の赴くまま振り下ろされた尻尾は、棺だけでなく台座と、そして床までもを打ち抜いた。
 インヘルはそれだけでは飽き足らず、棺が粉々になるまで何度も何度も尻尾を叩きつける。彼女がようやく落ち着きを取り戻した頃には、部屋は土煙でいっぱいになっていた。
「はぁっ、はぁっ、こんなんじゃ満足できないわ。ぜんっぜん足りない。復讐してやらなきゃ。あのクソガキファラオ、ぶっころしてやる!」
 両こぶしを握り締めて宣言するインヘル。その目じりに涙が滲んでいるのは、土煙の為なのか悔しさの為なのか。
 感情のままさらに暴れようとしたインヘルだったが、しかし微かな音をその尖った耳に受け止めて動きを止める。
 ふっくらとした唇の端が釣り上がり、鋭利な牙が冷たく光る。
「流石に二度も同じ手は食らわないわよ。そこに居るんでしょう、ワンちゃん達」
 インヘルはおもむろに片手を振るう。すると風も無く、部屋を覆い尽くしていた砂埃が一斉に吹き払われてしまう。
 本物の砂埃に交じって幻覚の砂埃が混じっていたのだ。
 そしてインヘルが続けざまに石室の入り口を睨みつけると、空間が歪み、幾人もの人影が姿を現した。
 先頭に居たのは意外な事に獣毛に覆われた手足と狼のような耳を持った人間の女だった。同じように猫と女が混ざったような者も居る。
 数人の異形の女性達の後ろには、彼女達に守られるように待機する人間の兵士達。その中には驚くべきことに女も混じっていた。
 苦虫を噛み潰したような表情の彼等に対し、しかしインヘルは困惑げに首を傾げる。
「あの時のワンちゃん達、でいいのよね? 何だか随分と可愛くなっちゃってるけど」
「ワンちゃんでは無い! アヌビスだ!」
 アヌビスと名乗る女性が手に持っていた黄金の錫杖をインヘルに向ける。
「大体お前が人の事を言えるのか? そんな、だ、だらしない身体をして!」
 震えるアヌビスの声に、インヘルは今一度自分の身体を見下ろした。
 確かに自分の肉体も人間の女のようになっているが、しかしそれはアヌビスとて変わらない。違いがあるとすれば胸元の肉ぐらいか。
 だらしないとはこれの事だろうかと特に何も考えず揉んでみると、どこかからギリギリという歯ぎしりのような音が聞こえてきた。
「……もしかして、ワンちゃん羨ましいの?」
 にたりと笑いながらアヌビスを見やると、アヌビスは顔を真っ赤にして胸元を押さえた。良く分からないが、どうやら図星らしい。
「ば、馬鹿にするな。か、彼はこれがいいと言ってくれているんだ。……じゃなくて、私はワンちゃんではない!」
 男達から笑い声が上がり、その中の一人が俯いてしまう。猫っぽい女達、犬娘がアヌビスならばあれがスフィンクスなのだろうが、彼女らも笑いをこらえている。
 インヘルは余裕の笑みを浮かべながらも、その心中は戸惑いでいっぱいだった。
 自分は彼らの主人であるファラオの敵のはずだ。封印が解けた事に気が付いて再封印に来ることはあっても、目覚めを祝して喜劇を見せに来てくれる道理は無いはずなのだが。
「で、何なのかしら? つまらない三文芝居を見せに来てくれたの? その準備のためにわざわざあたしを棺に封じていたとか? だとしたら時間がかかった割には随分とつまらない小芝居だけど。
 ……あたしとしてはそれよりファラオの首をくれた方がうれしいわぁ」
 ファラオの首。その単語を聞いた途端、彼等から笑いが消え、殺気が漲る。
 インヘルは自然と笑いを濃くしてしまった。彼等は、殺る気なのだ。その気配は肌からピリピリと伝わってくる。
 主人の為に殊勝な事だと思ったが、正直インヘルは彼等が百人束になっても負ける気がしなかった。
「数千年経ってもお前の邪悪さは変わっていないらしい」
「やっぱりあの時噛み損ねたワンちゃんだったのね。あたしに幻術を掛けて背中を押したのもあなた。うふふ、気持ち良く熟睡させてくれたお礼をたっぷりしてあげなくちゃね」
「礼はいらない。お前には再び眠ってもらう。二度寝は気持ちいいぞ?」
「あらあら。でもベッドは壊してしまったのだけど、新しいものは用意してくれているのかしら?」
 アヌビスはインヘルの後ろをちらりと見て、舌打ちする。
「新しいベッドは用意してくれていないみたいね。このあたしに冷たい床で寝ろって言うの? 相変わらず気が利かない子達だわ。ご主人の程度が知れるわねぇ」
「言ってくれるな。お前が目を覚ませたのも、我が主が目を覚まして魔力がこの地に満ちたからだというのに」
「あら、目が覚めたのに私という最高の遊び相手を忘れてしまっていたの? ずいぶんと冷たいのねぇ、それともぼけたのかしら? どっちにしろムカつくわぁ、……殺してやりたいくらい」
 最後の一言を低く言い放つと、入り口に群がっていた戦士達の雰囲気が一変する。
 臨戦態勢に入ったのだ。インヘルとしてももともとそのつもりだった。あの男の部下達だ、最初から全員生きて返す気など無い。
「どうしたのワンちゃん。震えてるわよ? 怖気づいたのかしら?」
「数千年眠っていた貴様など、恐るるに足らん。参る」
 錫杖の先に魔力の刃を携え、身を沈めていたアヌビスが床を蹴る。
 身構えもしないインヘルの喉元へ音をも凌ぐ速さで魔力の刃が迫る。
 しかし次の瞬間にはアヌビスの身体そのものがインヘルの前から姿を消していた。石室内に響いたのはインヘルの断末魔では無く、錫杖が落下した乾いた音だけだった。
 目を見開く戦士達に、インヘルはにたりと笑って天井を指差す。そこにはインヘルの蛇の尻尾に全身を拘束されたアヌビスの姿があった。
「相変わらずあなた達の動きは直線的ねぇ」
 インヘルの攻撃は単純だった。突進以上の速度でアヌビスの身体に尻尾を巻きつけたのだ。魔法を使う必要すらなかった。
 手の届くところまでアヌビスの身体を吊り下げると、インヘルは少し尻尾に力を入れた。
「あっ、あああああぁん」
 石室内にアヌビスの細い身体が軋む音と、彼女の悲痛な叫び声が響き渡る。
 戦士達は誰も動けない。蛇に睨まれた蛙のように、誰もが息を飲んで足を竦ませていた。
 しかしインヘルは痛めつけはしても殺そうというわけでは無かった。力の加減もしっかりとされていて、見た目には分からなかったがアヌビスの骨にも内臓にも致命的なダメージは加えられていなかった。
 それでも彼等のリーダー格が一瞬で倒された効果は絶大だったらしい、戦士達は皆顔を青くして言葉を失っていた。
 一人だけ、例外が居たが。
「リコ!」
 兵士達の中から一人の男が飛び出し、インヘルに剣を向ける。
 恐らくこの男はアヌビスの情夫なのだろう。インヘルの狙いはこれだった。そう、ただ絞め殺すだけではつまらない。
「アシュート、来ちゃ、だめよ。くぁああっ」
「余計な事は言わなくていいのよ。ワンちゃん」
 インヘルは笑みを浮かべたままアヌビス、リコの顔に触れる。
 顎のラインをゆっくりと撫で上げていき、黒髪を払って褐色のうなじをあらわにさせる。そしてもう片方の手も細い肩に添え、今にも衣服の間から胸元に滑り込ませようとする。
「それ以上リコに触ってみろ、いくら魔物であろうと許さんぞ」
「あぁ、怖いわ。突然切りかかってきたらびっくりして尻尾に思い切り力を入れてしまうかもしれない。この子がひき肉にならないためにも、大人しくしていてね、ぼうや」
 血走った目を向けてくる男にインヘルはくすりと笑う。男の言葉など気にしていないかのように、見せつけるようにリコの首筋に長い舌を這わせて見せた。
「い、いや」
「っ! 貴っ様ぁ! これ以上は脅しではない。本当に切るぞ!」
「ふふ、おかしな人ね。昔っから魔物は人間の敵、それは今だって、変わら……、変わらない? のよね? アレ?」
 魔物は人間の敵、という事で良かったんだろうか。数千年前は確かにそうだったのだが、しかし今のインヘルにはどうにもそんな気がしなかった。
 人間を見れば理由も無く殺さなければと思っていたのだが、今よく考えてみると殺すのは間違っているような気がしてくる。
 むしろ必死に剣を向けてくる男の姿を見ているうちに、自分は何か途方もない間違いを犯しているような落ち着かない気持ちになってくる。
「寝惚けているのか? とにかくリコを離せっ!」
 だが剣を向ける相手を前に考え込むほどインヘルも甘くは無かった。
 考える事は後回しに、インヘルは当初の予定を実行する。
「分かった、離してあげる」
 インヘルは少しずつ尻尾の拘束を緩めていった。そして誰もが油断したその瞬間に、リコの柔らかな首筋に向かって自慢の牙を突き立てた。
「かはっ。あ、ああぁ」
「り、リコぉおお!」
 暴れようとするリコの身体を尻尾で押さえつけながら、インヘルはたっぷりとリコの身体に毒液を注入していく。
 リコの瞳が血のように真っ赤に染まり、白かった目がインヘルの魔力を受けて黒く染まっていく。食いしばっていた口元はだらしなく緩み、だらだらとよだれを垂れ流し始める。
 アポピスであるインヘルの毒は、ただの神経毒では無い。特殊な魔力を帯びているこの毒は、流し込まれた者をアポピスへの忠誠を誓う僕へと変化させてしまうのだ。その力は、ファラオの王の力をも凌ぐと言われている。
 現にリコは牙を突き立てられることに抵抗するのを止めていた。
「ぁ、ぅあぁ」
 インヘルは牙を抜き取ると、念入りに舌で傷口を舐めてやってから口を離した。
「さぁ、返してあげるわ」
 リコの身体からインヘルの尻尾が離れていく。しかしリコはその場にぼんやりと立ったまま動こうとはしなかった。
 赤く染まった瞳はここでは無いどこか遠くを眺めている。その口元も緩んだままだった。
「リコ。大丈夫か、リコ」
 駆け付けた男によって抱き留められても、リコの瞳はどこにも焦点を合わさない。
 これからだ。これからがインヘルのお楽しみだった。
「ねぇワンちゃん。本当だったら殺しているところを、命を助けてあげたあたしの事、感謝してるわよね」
「はい」
「リコ?」
 男を始め、兵士達の中に動揺が走る。猫耳や犬耳達も面白いくらいに顔を見合わせて表情を変えていた。
「じゃあ、あなたの命を助けた代わりにあなたの愛するその男を……そうね、ただ殺すんじゃつまらない。じっくり生きたまま食べてしまいなさい」
「分かりました」
 戦士達の動揺が一瞬にして恐怖に変わる。リコを抱き締める男も、信じられないと言った顔でリコの事を見ていた。
 全てインヘルのたくらみ通りだ。自分で倒すよりも殺し合ってもらった方が手がかからなくて済む。
 それに愛する者同士で殺し合う程面白い見世物は無い。……無いはずなのだが。
 インヘルは突然息苦しさを覚えて胸を押さえる。魔物としての最高の娯楽が始まるはずなのに、その胸中からわけのわからぬ不快感がせり上がってきていた。
 インヘルはその感覚を追い払うためにもさらにリコに命じた。
「ふ、ふふ。さぁ早くやるのよ。骨一本まで残さずしゃぶり取ってあげなさい」
「仰せの、ままに」
 インヘルの命を受け、リコの瞳が赤々と燃え上がる。
「リコ、嘘だろ。止めてくれ、なぁ」
 リコは男の制止も聞かずに、逃げられぬように彼の肩を力いっぱい押さえつける。そして男に喰らい付くべく、くわ、と大きく口を開けた。
「分かった。俺、お前に食べられるならそれでいい。愛してるよ、リコ」
 それが男の最期の言葉だった。
 覚悟を決めた男の顔に、リコは思い切り喰らい付いた。
 その瞬間を、なぜかインヘルは見ていられずに目を逸らしてしまっていた。魔物に人が食われる瞬間などいくらでも見てきたというのに、なぜか見ていられなかったのだ。
 そしてインヘルは戦士達に向き直ると、彼等を指差して歯をむき出しにして笑った。
「次は貴方達よ、言っておくけど一人も逃がすつもりは無いから」
 ある者は顔を覆い、ある者は顔を引きつらせる。彼らの恐怖する姿にインヘルは大きな満足感を得ていたのだが。
 間を置かず、インヘルは何かがおかしい事に気がついた。恐怖している割には誰も悲鳴を上げないのだ。それに、なぜか頬を染めている者も居る。
 そこでようやくインヘルは血の匂いが一切していない事に気が付いた。
 訝り、そして血を見る覚悟を決めて振り向いたインヘルの視界に映ったのは、彼女の想像をはるかに超えた物だった。


「むちゅぅ、ん。アシュートぉ、好きぃ。大好きぃ。骨まで残さず食べちゃうからぁ」
「あぁリコ、食べてくれ。俺を食べてくれぇー」
 インヘルが見下ろしたそこには、執拗に男に口づけをするアヌビスの姿があった。
 アヌビスはさかりが付いたように顔を真っ赤に染め、唇を押し付け、噛み付き、口の中に舌を入れてくちゅくちゅと音を立てて掻き回している。
 そしてついには我慢の限界とばかりに、力任せに男の甲冑と服を脱がせに掛かる。
「あの……、あれ? あたし確かに食べろって」
「すげぇ、あの堅物のリコさんがアシュートに喰らいついてやがる」
「は、激しいニャあ」
「羨ましい……。私も食べたい」
 リコは自分の衣服さえ脱ぐのも面倒だとばかりに破るように脱ぎ捨てていく。
 そして裸になった肌と肌を重ね、男の首筋にようやく噛り付いた。
「そう、それよ。それでいいのよ」
 しかし突き立てられた牙からは血は一向に噴き出さない。男も苦痛に顔を歪めるどころか、心地よさそうに表情を緩めてアヌビスの背に腕を回してさえいた。
 リコの尻尾が激しく左右に振られる様を、インヘルは苦々しげな目で睨みつける。
「……この駄犬」
 リコの毛むくじゃらの手が男の男根を探り当て、自分の濡れそぼった淫らな花へとあてがう。男の物はアヌビスの穴に比べてかなり大きく見え、とても入るようには見えなかった。
 これにはインヘルも流石に焦り始める。
「あの、ちょっとあんたそこまでしなくていいわよ。ね、無理しなくて」
「わおぉーん」
 リコは蕩けた顔で背を反らす。インヘルの目の前で、男の一物がゆっくりゆっくりリコの中に飲み込まれていく。
 目の前で始まった淫行に、インヘルは思わず顔を赤らめた。あまりの事に胸の中の不快感もどこかに消えてしまう。
 しかしそんな外野の事など知った事かと、アヌビスも男も激しく腰をぶつけあわせ始める。
 戦士達の間からどよめきが上がった。
 インヘルはわけがわからない。魔物と人間が交わるなど、しかも喜んで交わっているなど明らかに異常な事だ。きっと何かの間違いに違いないのだ。しかし、だとすればなぜ彼等はこの状況に驚きはしても、甘んじて見守るにとどまっているのだろうか。
 刃を交えて殺し合っているのなら近づくのもはばかられるが、肌を重ねているだけならば引きはがせばそれで済むというのに。
「あ、あんた達、何健やかな顔してるのよ。生暖かい目を向けてるんじゃないわよ。何で止めようともしないのよ。てか、おかしいと思わないの? 人前で、その、交尾なんて始めてるのよ? しかも人間と魔物が」
 戦士達は顔を見合わせる。しかし彼等は逆にインヘルの方こそ何を言っているんだといった視線を向けてくる。
「んー。大胆だとは思いはしても、おかしくはニャいんじゃニャいかニャ」
「というか、あなた実はいい奴?」
 その言葉に、インヘルの中に再びどす黒い怒りの炎が燃え上がる。
「そう。あんた達みんなしてあたしをおちょくってるってわけね。……アヌビスに効かないってんなら、人間を下僕にするまでよ」
 インヘルの尻尾が空を裂き、リコ達の異形の交わりに見蕩れていた一人の女兵士を巻き上げる。
「きゃぁっ」
 インヘルは女を自分の手元に引き寄せるなり、尻尾の拘束を解いて、まるで紙でも破くように簡単に女兵士の甲冑と衣服を破り取ってしまう。
「え、あ、やぁっ」
 みるみるうちに真っ赤になっていく女を羽交い絞めにし、戦士達に見せつける。女が少し暴れたが、人間の力程度では魔物の力に勝てるはずも無かった。
「これから面白いものを見せてあげるわ。この女が恐ろしい魔物に変わり果てて、仲間のあんた達に襲い掛かる。いい余興でしょう」
 インヘルは女の肌を撫でていく。へそから鳩尾へ、そしてふっくらとした乳房を掴み、その頂点を爪でつまむ。
 女の口から苦痛とも快楽とも言えぬ吐息が漏れる。朱に染まる顔を逸らそうとするが、インヘルのもう片方の手がそれを許さなかった。
 男達の間から歓声が上がる。
「ちょ、みんな見ないで。兄貴も見ないでよ」
「リダ。しばらく見ない間に女らしくなってたんだな」
 そのあまりにも場違いな光景に、インヘルの表情が少しずつ引きつってゆき、そのこめかみに青筋が浮かんだ。
「いい度胸ね、あんた達。全員仲間に食われるがいいわ」
 インヘルはリコの時と同様、女の首筋へと牙を突き立てた。
 今度こそは完全に自分の傀儡に墜とすべく、インヘルは先ほどとは比べ物にならない量の毒液を注入してゆく。そのあまりの毒液の多さに、唇の端から毒液がしたたり落ちる程だった。
 女の身体がびくりと痙攣する。インヘルの毒液は女の肉体を駆け巡り、人間の限界を超えた感覚を彼女にもたらしていく。
 半ば白目を剥いただらしない顔で女は身体を震わせ続ける。しょわわぁ、と音がしたかと思えば、女の足の付け根から太ももを伝って液体が垂れ落ちていた。
 湯気を立てる液体はちょろちょろと滴り続け、女の足元に水たまりとなって広がっていく。
「ふふ、あまりに怖くって失禁しちゃった?」
「きも、ち、いぃ。なに、これ」
「あらあら壊れちゃったのね。まぁいいわ、本番はこれからよ」
 女はインヘルの腕から解放されるなり、力なく床に崩れ落ちる。
 そして再びびくんと大きく痙攣した後、その変化は起こり始めた。
「嘘だろ」
「リダ……」
 女は喘ぎ声を上げながら床の上をのたうち始める。喉を押さえ、乳房が潰れる程に胸を押さえ、背をのけぞらせては胎児のように丸くなる。
「そんな……。噛んだだけなのに、信じられニャい」
 兵隊達が見守る中、女の両足がぐずぐずに溶けて一つになってゆく。
「身体が、熱くて。私、あぁ、あああ。いや、兄貴、お兄ちゃん!」
 兵隊の中から男が飛び出した。だが、もう遅い。変化は始まってしまったのだから。
 女は男の腕の中で強く体をくねらせる。その反動で、人間の脚だった皮膚がぬるりと抜け落ち、彼女の新しい身体が外気に晒された。
「綺麗な砂色の鱗ね、とても綺麗だわ」
 女の下半身はもう人間の物では無かった。そこにあったのは二本の足では無く、一本の蛇の尾だった。インヘルの強力な魔力に侵食され、女は魔物へと変わってしまったのだ。
「リダちゃんって言ったわね」
 インヘルが呼びかけると、リダは憔悴した顔に微笑みを浮かべて見上げてきた。
「はい。ご主人様ぁ」
「まずは誕生おめでとう。そのお祝いに、あなたの大好きな人をまずは丸呑みにしてみましょうか。産まれたばかりでお腹が空いてるでしょう? お腹いっぱいになるまで、心行くまで愛する人の味を楽しみなさい」
 インヘルが微笑むと、リダはにたりと唇を歪めた。
「分かりましたぁ」
「お、おいリダ」
 そしてリダが振り向き狙いを定めたのは、自分を抱き留めていた自らの兄だった。
 なるほど、魔物と化した妹が兄を喰らう、か。これ以上ない見世物だと、インヘルは声を押さえながら笑った。
 ……急に襲ってきた腹痛を堪えながら。
「お兄ちゃん。私がどうして軍に入ったか、気付いているよね」
「し、知らねぇなぁ」
「嘘ばっかり。私の気持ちに気が付いているくせに、突き放すために色んな女の人にちょっかい出して」
「はは。モテる男は辛いねぇ」
「……誰とも長続きしない癖に。ねぇ、なんで」
 戦士達が二人のやり取りに見入っている。どうしてだ。どうしてこうなる? 今度は魔力の影響のない人間の女を選んで下僕に仕立て上げたというのに、なぜ思った通りに動かない?
「なんでって、そりゃぁ」
「私の事、嫌い?」
「嫌いじゃねぇけど」
「私は好きだよ」
 兵隊達から歓声が上がる。ガッツポーズを取り始めるものさえ居た。
 渋面になって歯ぎしりするインヘルの事など誰も気にしていないようだった。だからと言って口をはさめる雰囲気でも無く、それがさらにインヘルを苛立たせる。突発的な腹痛も消え去る程の怒りだった。
 足元から聞こえてくる駄犬の喘ぎ声も相まって、インヘルの怒りは爆発寸前だった。
「愛してる。お兄ちゃんだけ居れば他に何もいらない!」
「リダ。俺は、お前を」
 見つめ合う妹と兄。二人の顔がだんだんと近づいてゆき、ついに二人の唇が重なった。
「やった。ついにやったニャ」
「あいつ、ようやく覚悟決めやがったか」
「お幸せになー」
 外野の声にはやし立てられながら、ラミアと男もアヌビス達のようにまぐわい始める。
「お兄ちゃんのおちんちん、丸呑みにしてやるんだから」
「リダ。リダの中、凄い、きつい」
 正直もうインヘルにはついて行けなかった。頭痛がし始めた頭を押さえながら、インヘルはふらふらと床に崩れ落ちてしまう。
 床に着いた彼女の手のひらが、小さなかけらに触れた。昏睡の封印式が書かれた、自らが封印されていた棺のかけらだった。
 そうだ。自分はまだ一つも復讐していない。ファラオにしてやられたまま、まだ何も仕返ししていない。
 ファラオの天敵として畏れられてきたアポピスの自分がこんな事でへこたれていてどうする。魔物や女が駄目ならば、男に噛み付いて剣で刺し殺させればいいではないか。
 インヘルはゆらりと立ち上がる。その身体からは強い怒気が溢れ出ていて、陽炎を帯びているようにさえ見えた。
「てゆーかアポピスさんは思ったよりいい魔物だったニャ。恋を実らせる魔王の使いだったのニャ」
「確かにこれなら王国に国賓として招いた方が」
「五月蠅い!」
 和気あいあいとし始めた兵隊連中に向けて、インヘルは歯をむき出しにして吠えた。
 身を低くし、いつでも飛び出せるようにする。インヘルがその気になりさえすれば、兵隊どもが瞬きする間に全員八つ裂きにすることも可能だった。
 兵隊たちは一瞬驚いて黙ったが、すぐに戸惑ったような笑顔を取り戻す。
「な、なんなのニャ。アポピスさんは別に悪い人じゃニャいんでしょ?」
 完全に舐められているのだ。インヘルは兵隊たちの態度をそう捉えた。
「ふざけるな。あたしはファラオを倒すために生まれてきたんだ。その事実は今も昔も、何千年経とうが変わらない! お前ら全員噛み殺してやる!」
 凄絶な笑みで宣戦布告した後、インヘルは殺戮を開始した。
13/03/19 21:04更新 / 玉虫色
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■作者メッセージ
本編を台無しにするあとがき。

おかしい。他にもやる事がたくさんあったはずなのに、気が付いたらまたSSを投稿している……。
というか新魔物娘のアポピスさん。個人的にツボ過ぎました。特にあの目と可愛い顔が……。

というかノリで目の黒化を書いてしまったのですが、公式的には普通の魔物娘でも黒くなったりするんでしょうかねぇ。一応、その辺はパロディという事で、大目に見てもらえるとありがたいです。
思い付くまま書き殴ったのでつっこみどころが多いと思いますが、少しでも楽しんで頂けたら幸いです。
ここまで読んでいただきありがとうございました。

後編はがらりと雰囲気が変わる予定ですが、そちらも読んで頂けたら嬉しいです。

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