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後編

 私は魔物のことをあまり知らなかった……だけれどもぼんやりと人に害をなす悪い存在だというイメージはあった。例えば悪魔だったり、獣人だったりのような、人を襲い場合によっては命まで奪ってしまうような──化け物。
 現に、鏡の前に現れたあの子を、私は最初魂を奪いにきた卑劣なる悪魔だと思っていた。
 しかし、そんな私のイメージはかなり時代遅れのようだ。今の時代、魔物が象徴するものは暴力や殺戮なんかではなく──
──その……どっちともものすごく言いにくいのだが……
──『愛』と『セックス』なのだそうだ。



「──うんうん、そうだよ。そんな感じだよー」
「ふぅん……」
 と、彼女に話してみるとそんな返事があった。
「意外だね……まさか『私』がセックスについて知ってるだなんて」
 純粋な顔して知っていることはもう知っているのか……
 いや私が知っているのだから当然か。
「うん。こっちでお姉さん達に教えてもらったからねー」
「え?」
 え? 何それは?
 要するに……『私』はお姉さん達にセックスの手解きを受けるってことなの?
 現代の魔物は一人の夫しか持たないらしいし、手解きを受けたとなるときっとそれは女の子同士の……
「えぇと……どんなこと教えられたの?」
 こんな無垢な女の子に何を教えたのだ、その不埒なお姉さま方は。私は興味が出てきてしまった。
 自分の趣味に合ったエッチな本が目の前にある。そんな気分だ。
「何って、セックスは魔物にとってとても大事なもの。でもそれはいつか大人になったら自然とわかることなんだよ……って感じかな?」
「それ、だけ? 実際にセックスを観たりシたりは……」
 何だその子供にセックスについて聞かれたときの模範解答みたいなセリフは。
「見てないし、してないよ。大人になるまでは知らなくていいとも言ってたからね」
「な、なぁんだ」
 残念だ。
 でも同時に安堵する。
 よかった、この子はまだ汚れてないのか……それはそれで今の私とはなんだか矛盾が生じる気もするけども、魔物化の時にある程度のことは起きるのだろうと察することもできた。
「……でもなぁー、■■■ちゃんが私のことそう見てたのはちょっと傷ついちゃったなー」
「ん? なんのこと?」
「ほら、私が■■■ちゃんの魂を奪いにきたーだとか悪魔だーとか」
「あ……」
 そこは話さなくてもよかったか……ついつい口が滑ってしまった。
「ぶー……いいよ。■■■ちゃんはそんな卑劣な悪魔になんかなりたくないよねー?」
「え?」
「ならー……ならせてあげないよー、私に」
「あ! ちょ、ちょっと!」
「ん? なぁに?」
 彼女はニヤニヤと意地悪く笑っている。
 一瞬、本気にしてしまったが完全にからかってるな『私』……
「本当、ごめん。そこは謝るからさ、そんなこと言わないでよー」
 私が『私』になれないなんて考えたくもない。
「ふぅん……もうちょっと誠意を見せる必要があるんじゃないかな?」
「えぇ……」
 自分にそんな要求するなんて、ほんとどういうつもりなのだ……
「な、何をすればいいでしょうか?」
「じゃーあー」

「前髪、切ってきてよ」

「……前髪」
「うん、前髪。前髪を可愛く切ってー私に■■■ちゃんの可愛い顔を見せてほしいなー」
「っ……」
 嘘だろ? 『私』なら私にとって前髪がどれくらい大事が知っているだろうが……
「ね、ねぇ、他にはないの?」
「ない。今すぐに、ここで前髪切って。私が指導してあげるから」
「うぇぇ……」
「大丈夫だよ■■■ちゃん」
「大丈夫、な、わけないでしょ……どうしてこんな醜い顔晒さなきゃいけないのよ……」
「大丈夫だよ、すごく可愛い顔なんだから」
「そんなわけ……」
「ねぇ、■■■ちゃんは今まで誰かにブサイクって言われたことあるの?」
「……ない」
「でしょ?」
「でも、きっと思ってるに違いないよ……」
「それはさ……■■■ちゃんがそう思い込んでるだけじゃないかな?」
「……」
「未来の私が言うけども……■■■ちゃんのことをブサイクって思ってる人は一人もいなかったよ──いや、一人だけいた。■■■ちゃん自身だよ」
「……そうだとしても、同じだよ。私が醜いって思う。私の中の私が醜いって馬鹿にしてくる」
「でも『私』は──可愛いって思ってるよ」
「……」
「ね、一回だけ。いいでしょ? ていうか、もうすぐあなたは私になるんだし、その少しだけの期間、吹っ切れちゃってもいいんじゃない?」
「……」
「もー! 黙ってると本当に消えちゃうよ!?」
「わ、わかったから……ちょっと待ってよ」
 私は慌ててハサミを探す。
 そうだ。私はどうせ『私』になる。あの美しく可憐な私に。きっとそうなれば過去の失敗とか恥とかは気にしなくてすむのだ。
 じゃあ、それまでの間は、私は何をしても大丈夫なのではないのだろうか……
 いや、少なくとも、今はそう断言しておかなければ。そうでないとあの子は──消えてしまう。
「はい、ハサミ持ってきたよ──どう切ればいいの?」
「んーと、それじゃあね──」
 彼女は指示する。それはとてもわかりやすい、私の体に手にとても馴染む指示だった。自分自身だから当たり前なのかもしれないけども、私の動き方とか心とかを知り尽くしているそれだった。
 ショキ、ショキ
 ハサミの音と、彼女の声だけが耳に入る。私は無心になって切り続ける。いつの間にか前髪だけじゃなくて全体的に散髪し始めたが気にならなかった。
「──うんうん! それでOK!」
「ほ、ほんとに? 大丈夫なんだよね?」
「大丈夫! 私を信用して!」
 何しろ今の私は鏡に映らない。だから彼女にすべてを託すしかないのだ。
 いやでも、写真はそのまま私だったんだ……後で自撮りでもしようか。
 まさか、この私が自撮りをする事になるなんて……
「あー、すっごく可愛いよー」
「そ、そうなの?」
 『私』は満足そうに私を眺める。
「あ」
 が、ふいに彼女は目を見開いた。
「え? 何?」
「いや、あのね。その……」
「何何何!? 何があったの!?」
 やめて、そんな不安になること言うの!
 その調子だったら多分、切るのミスって禿げたとかそんな反応だよね!?
「いや、大丈夫……全然大丈夫だけども……その、驚かないでね」
「なんなのよ!?」
「こう……頭の両側触ってみて──あーもうちょっと下、あ、そこらへん」
「え──っ!?」
 触ってみて……気がついた。
 ぽこり、とそこが膨らんでいる。側頭部が瘤のように固く膨らんでいる。
「な、え、え」
 驚くなという方が無理だ。こんな、こんなのヤバい病気に決まってるじゃないか。
「ちょ、ちょっと! ──あっ!」
 私は『私』に目をやる。するとそれは病気なんかじゃないとすぐにわかった。
 彼女は角の付け根当たりを触っていた。
 つまり瘤はちょうど彼女の角の位置にあるのだ。
 するとこの瘤は──
「角……なの?」
「うん、そうみたいだね」
 ということは。
「魔物化が──始まってるの?」
「そうだね──おめでとう!!」
「私……魔物になるんだ」
 この時になってようやく実感が湧く。
 あぁ、私、人間じゃなくなるんだ。
 悲しくなんかない、むしろめちゃくちゃ嬉しい。
 ついつい顔が綻んでしまう。
「おめでとう──」
 ただ。
 鏡に映る彼女は、少しだけ寂しそうに見えた。






 彼女が来てからどれくらいが経っただろうか。
「なんだか……すっかり慣れちゃったねー」
「うん、そうだねー」
 浴槽でお湯につかりながら私は『私』と向かい合う。位置は少し遠いが私が少しでも映っていれば彼女は存在できるのだ。
 ただ……裸を見られるのも、裸を見るのも恥ずかしくてのぼせてしまいそうになるが。
「やっぱり私が魔物化してきてるっていうのもあるんだろうけども」
 私の角は随分と大きくなってしまった。おかげで隠すのに苦労した。だいたいは『私』に教えてもらった魔法のおかげだが。
 そして、もう一つの変化が──
「でもまぁ、角よりも扱いに困ったのは尻尾だよねー。魔法と言っても隠すだけでなくせるわけじゃないから……お尻に物が生えるって結構きついよねー」
「そうそう、椅子に座るときとかもそこらへん気にしなきゃいけなかったしね」
 私は風呂から出て体を洗い始める。割と敏感な角や尻尾を念入りに洗わなければならないのもデメリットの一つだろう。
「んっ……はぁ」
「んっ……はぁ」
 私がそこを洗うと必然的に彼女もそこを洗うことになる。そのせいで喘ぎ声が重なってしまう。
 ただ洗っているだけなのに……いやらしい気持ちになってしまう。
「ぅ……んんっ」
「んんっ……でも、これだけは、んゃぁ、慣れないかも……」
 でも彼女は違うらしい。
 彼女はそんなエッチな気持ちになどならず、本当にくすぐったいというだけなのだろう。どこまでも純粋だ。
 なんだか悔しい。
「えいっ……んんんっ! あっ、あぅ」
「あっ、待って、んにぃっ! んっんっんっ、やぁ」
 私は尻尾を激しくしごいてやる。するととめどなく快楽が溢れてくる。それはオナニーにも匹敵するような快楽。ここまですれば彼女も少しは──
「はっ、んっ、ど、どう? 気持ちいい?」
「あっあっ、よ、よく、わ、わっかんない、よ、ぉっ」
「ふふふ」
 やばい。彼女のことを見ながらこんなことをするなんて……本当に達してしまいそうになった。
 見栄張って余裕ぶってるけども、内心はものすごくドキドキしてるし、ものすごくイキたかった。
「はぁ──はぁ──」
 彼女の方は、そんな余裕ぶってる余裕もないらしい。
 顔を真っ赤にして息を荒らげている。
 なんだかものすごく……背徳的だ。
「ね、ねぇ……」
 私が内心で興奮していると、苦しそうに彼女は話しかけてきた。
「どうしたの?」
「はぁ──はぁ──なんだか……熱いの収まんないよ……」
「のぼせちゃった?」
「うぅん、違う。なんだか、こう、何となくだけども──誰かとちゅーしたいって感じ」
 完全に欲情してしまっている。やりすぎてしまったか。
 こうなるとそれを抑えるのは私にしか出来ないのだ。
「キス……したいの?」
「うん……ちゅーしたくてたまらないよぉ……」
 どうしよう。風呂場の鏡って綺麗なのかな……いや、そんなのはかまわないか。
「わかった、してあげる。だから落ち着いて」
「うぅ、落ち着けないよ……熱いのに、もどかしくてもどかしくてしかたないよ……」
 そうか、彼女は私が動かさなければ体が動かせないのだ。もじもじとした動きすらできない。
「恥ずかしいから……目、瞑って」
「イヤ、■■■ちゃんの顔見てしたい」
「っ」
 何故だろうか。
 ものすごく──嬉しかった。
「んちゅ……」
「んっ……」
 二度目のキス。きっと彼女にとっては一度目のキス。相変わらず冷たくて固くて不味いけども……それでも、ちゃんと向き合ってる分、心が通じ合えた気がした。
 彼女の目がとろんとする。
 もしかしたら、私も──
「ぷ……はぁ……」
 鏡についたキスマーク。
 それを見ると少しだけ虚しくなる。
 あぁ、そっか……どうあがいても彼女とはキスができないんだ。
 そう思うと、自然と。
「あれ……」
 涙が出てきた。
 そうだ、どれだけ心が通じ合っていたとしても、彼女とは触れ合えない。彼女と会うには、こうやって鏡を隔ててではないと駄目だ。
 だって、そうでなければ同化してしまうから。
 私達は一人になってしまうから。
 そう思うと。
 胸が。
 きゅっ、と締まった。
「あ、ごめ……気にしないで」
 私は取り繕うように彼女を見る。
 すると、彼女も泣いていた。
「……ごめんね」
 あれ? どうだったっけ。
 表情は通じてなかったけども。
 私たちの涙はどうなんだっけ?






 そうだ、彼女と二人でいられる時間は──そう長くはないんだ。
 いくら永遠のように感じられても。
 それはいつかはやってくるんだ。
 私が『私』になる時が。
 私が独りになる時が。






「ただいまー」
 もう角も『私』と同じくらいの大きさになって、尻尾も同じくらいの大きさになった。
 もう時間の問題だ。
 だから覚悟はしていた。いつ私が変わってしまってもいいように。
 だけれども、やっぱり──

「おかえり。■■■ちゃん」

「あ──」
 駄目だった。
 私は、彼女が鏡から出て、あのドレッサーの前に座っているのを見ると、すとんとその場にへたり込んでしまった。
 力が抜けてしまった。
 どうしようもなく、哀しくなってしまった。
「来ちゃったね……この時が」
 彼女は寂しそうに笑う。
「……」
 言葉が出ない。
「本当は、ずっとあなたと向かい合っていたかった。ずっとおしゃべりをしていたかった。でも──もうそれもお終い」
 彼女は一歩、また一歩と近づいてくる。
 なんだ……やっぱり、やっぱり悪魔じゃないか。
 最後の最後にこんな酷いことをしてくるだなんて──
「ねぇ、最後に顔を見せて──そして、ちゅーしよ。今まで一度も出来なかったけども今だけなら一度だけ──」
 私は立ち上がる。同じ背丈だ。
 そして、彼女と顔を合わせる──やっぱり綺麗な顔。いつまでも──そういつまでも、ずっとこうして眺めていたかった。
 『私』としてではなく。私、■■■として。
「わかった……しよ。これで、全部、最後」
 彼女はにこりと笑う。
 そして、私に抱きついて唇を重ね合わせた──
 最後の最後のキス。本物の正真正銘のファーストキス。
 それは暖かくては柔らかくてそして──

「でもね。そんなのはイヤ」

「んむっ……」
──変な味がした。
「んちゅ、れろ」
 私の口に、彼女の舌と一緒に何かが入ってくる。それは上手に押され、私の喉の奥に。
「ん、ご、くっ──げほっげほっ、な、何? 何飲ませたの?」
「ごめんね……■■■ちゃん……こんなことしたくなかった」
 彼女は泣きながら震える声で言う。

「ごめんね──本当は、私になりたかったよね? 私になって、美しくなりたかったよね──」

「なに──いや、いや! なに! なんなんよ!」
 ぞわりと、寒気がする。
 凍えるような寒さ。
 死んでしまいそうなほどの寒さ。
 立っていられない。全身の力が──抜けていく。
「はぁ、はぁ、ひぃっ! いや、だ。寒い、寒いよ──嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! 助けて! 助けてよぉ!」
「ごめんね──」
 彼女は私を抱きしめる。私も彼女にしがみつく。
 強く強く。絶対に離れないように。
 少し寒気が和らぐ、それでも、止まらない。
 震えが、涙が。
 止まらない。
「はぁー……いや……いやだよぉ……」
「ごめんね……ごめんね……」
 私たちはそれから永い時間、それこそ永遠に感じられるくらいの時間、お互いの肩を濡らしあった。
 私の体が……変容していく。
 角も尻尾も消えて……服も消えた。
 そして、何かが全身を覆っていく。
 湿った何かが。

「ごめんね。私は、あなたの永遠の夢でいることにしたの。絶対に叶わない。遠き理想に」

「そうすれば──永遠に一緒にいられるの」

 凍えが、収まった。
 私は彼女を離す。彼女も私を離す。
「永遠の──夢」
「そう」

「もう、あなたは私にはなれないの」

 私は自分の体を見る。緑色の燕尾服を身にまとっている。それに、あまりにも自然に乗っかっていたからわからなかったけども、頭にはシルクハットが──
 どれもこれもが、すべて湿り気を帯びている。
「ごめんなさい──私は、あなたの願いを──」
「……いいんだ」
「え──んむっ」
 私は彼女を抱き寄せ、もう一度キスする。
 あぁ、そうだ。いいんだ。
 私は誰であってもいい。
 ただ、君のそばにいる、私であればいい。
 それ以外はなんにもいらない。
「本当にいいの?」
「あぁ……そうだ」
 美しさ、そんなものもいらない。
「でも、あなたは十分に美しいわ」
「あら、そうなの? それじゃあ──あなたの側にいるのにふさわしい美しさを手に入れるのも面白いのかもしれないわね」
 私は少しおどけてみる。
 クスクスと笑いあう。
「行きましょう」
「どこにだい?」
「とてもとても不思議な国に──大丈夫。ここにも戻ってこられるから」
「戻る気なんてないよ──私の居場所は君なんだから」
「うふふ──嬉しいこと言うわね」
 彼女は私に手を差し出す。

「それじゃあアリスちゃん。ついてきて──ずっとね」



 少女が二人。
 鏡の中に融けていった。

17/09/17 22:34 鯖の味噌煮

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