読切小説
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師範代
「朝ですよ!旦那様!」

最近の俺の朝は、こいつの第一声で始まる。

いや、第一声かどうかは分からないが、俺にとっては第一声なのでそう定義しておく。


「俺はお前の旦那じゃねぇ…何度言わせる気だ。」

気怠さを堪えて、布団から身を起こしながらぶっきらぼうに応える。

「し、失礼しました!では、殿と!」

「やめろ、要らぬ誤解を招いてややこしくなるのが関の山だ。」

「で、では…主殿。と。」

…む。それはなかなか心地いい響きだ。名前で呼んでほしいというのが本音ではあるが、前にそう進言したところ『そんな!恐れ多くも貴方様をお名前で呼ぶなどと!!』と断られてしまった。

「…はぁ、それでいい。」

俺はこれ以上の問答は“面倒”と判断し、妥協することにした。

「おお!では、主殿!」

「なんだ。」

早速、呼んでくるこの小娘に俺は不機嫌マックスで返す。

「早速、朝の稽古と参りましょう!」

「…断る。」

「えー!」

「えー!じゃない。この朝の貴重な黄昏時を、稽古なんかで無駄にはしたくない。」

…それに今日は午後から町に用があるからな。

「なんかとは随分な言いようですね、主殿!朝稽古は基本中の基本ですぞ!主殿も武人であるならばー」

くどい。果てしなくくどい。このモードに入るとこいつは平気で小一時間説教垂れてくるのが常だ。
朝から無駄な時間を使いたくない俺は、布団の隣で正座して“武人の何たるか”を小うるさく語るこいつを無視して静かに布団の中へと戻っていった。

「ーであるからして!…て聞いてます?主殿…って寝てる!?あ〜ん、おきてくださいよ主殿〜!」

俺は寝る。そう固く誓った俺は、布団ごと揺さぶられるこの状況を揺籠と想定して心地良く夢の世界へと旅立っていった。


















「なぜ、お前が付いてくる?」

午前をたっぷり睡眠に費やした俺は、二度寝特有の気怠さを伴いながら渋々町へと足を運んでいた。
そして、その隣にはなぜかこいつもいた。

「はて?従者が主人の護衛を務めるのはごく当たり前のことと存じますが?」

いつから貴様は俺の従者になった?
そう思いながら訝しげにこの鬱陶しいガキを見つめる。

頭部、後ろで結んだ艶やかな黒髪の間から生やした二本の可愛らしいツノ。紅く光る瞳を見て、改めて思い返す。
それは半年前のことだ。



この地域、つまりは美濃国一帯という幅広い地域で傭兵稼業を営む俺がいつものように仕事を終えて帰宅した時のこと。
家の門の前に倒れこむ1人の少女を見つけた。

顔つきにまだあどけなさを残す彼女は裸足にボロ布一枚といった粗末な形で倒れていた。
『また、面倒ごとか。』
傭兵という血生臭い仕事をしていると必然的にこういった厄介事が舞い込んでくるのはいつものことだった。
面倒だと思いながらも、家の前でのたれ死んでもらっては迷惑と思い仕方なく少女を抱き起こした。すると、彼女の頭部に人間にはありえないものを目にした。

二本のツノ。

それはまだ歪曲しかけの発達途中のもので前髪の両端の付け根の辺りから申し訳程度に覗いている程度だったが、確かに生えていた。すぐに引っ張ってみてこれが頭から生えていると確認したから間違いない。

『いたた…!…あ、あれ?ここは、どこです?それに貴方は?』

…どうやら引っ張られた痛みで目を覚ましたらしい。

『よう…お前、なんでこんなことになってんだ?』

『??なんででしょう?』

…直感で分かった。こいつは記憶をなくしている。
そう思うとこの場に放置するという選択肢は自然と消え、町に突き出すのも気が引けた。

『…うち、来るか?』

だからこう答えた。…しかし、これは後に過ちであったと反省せざるを得ないだろう。
汚れた身なりで虚ろな瞳をなんとか俺に合わせた彼女は一度だけ、小さく頷いた。








それで今に至る。

「主殿!あれ!あれが甘味屋というやつですか!?」

…そして、こいつはひどく世俗に疎い。記憶喪失に関係しているのかは知らないがとにかくこいつは町や人々の営みについてまったくと言っていいほど無知だった。

「…はしゃぐな、遊びにきたわけじゃない。」

…あの後、家に連れ込んだ彼女を介抱し、体調も段々と回復し普通に生活できるくらいになった頃、朝の稽古をしていた俺を偶然目撃したあいつは、稽古に付き合わせろとしつこく言い寄ってきて、挙句には弟子になると言い出した。

どこで習ったのか、基本の刀さばきはできていたので稽古自体にはさして問題はなかった。
だが、これでも俺は我流剣術・黒鷺流地這い刀術の開祖だ。おいそれと技を教えるのも癪にさわったので、当分の間は基本の稽古を言いつけて適当に放置していた次第だ。

「あのー…主殿?」

回想に浸っていると、いつの間にか大人しくなっていたこの小娘・鬼丸(俺がテキトーにそう呼ぶことにした)はもじもじしながらこちらを上目遣いで見ていた。
時折、目が泳いでいるが一体どうしたというのだろう?

「…なんだ?」

「え…と、私…その、お…おしっこしたくなったであります。」

「っ!」

!何を顔を赤らめているのだ俺は!!相手は小娘、別段欲情したわけでもあるまいに。
しかしながら、率直にというか直接の表現で伝えるのもどうかと思う。

「あ、あの物影でしてこい!こ、ここで待ってるから。」

「えー!?お、女の子に野糞をしろというのですか!?」

「ばか!でかい声で言うな!ていうか野糞じゃない!…ったく。」

頭をかきながらあたりに用を足せる場所がないか見渡すが、どこも店ばかりで便所らしき建物は見当たらなかった。

そうこうしているうちにも鬼丸は我慢の限界に達しようとしていた。
顔を顰め、口をきゅっと結んだ赤ら顔はさながら赤鬼と呼ぶにふさわしい様である。

「…って言ってる場合じゃないか、とにかく人気のないところへ!」

内股の鬼丸の手を掴み、俺は隅の草むらの中へと駆け出した。

「あ、あるじしゃま〜!」

「我慢しろ!もう直ぐ森の中だ!」

街から離れ、といっても隣の森なのだが。そこにあった適当な木の根元に達したところで俺はあたりに人がいないのを確認して鬼丸の手を離した。

「よし、今なら人はいない。さっさと済ませてしまえ。」

「う、うん。」

鬼丸は大急ぎで紅色の着物を捲り上げその場にしゃがみこんだ。そしてチョロチョロと用を足す音がー

「ってここでするのか!?」

「ふぃ〜…スッキリしました〜。」

慌てて顔を背ける俺を気にすることもなく、鬼丸は惚けきった顔つきで順調に小便を垂れていた。

「…ふぅ。」

用を足し終えた鬼丸は満足げな顔つきで、持っていた紙を秘部にこすりつけていた。

「ん?ちょっと待て。その紙見せてみろ。」

「え!?わ、私の尿の臭いを嗅ぎたいのですか!?…主殿も以外な性癖をお持ちで。」

「ばか、違う。いいからよこせ。」

恥じらい顔でこたらに紙を差し出す鬼丸。…一応断っておくが俺は匂いフェチではないぞ。ましてや尿の匂いで興奮するほど落ちぶれてもいない。俺はただちらっと見えた印が気になって…

「あーーーー!!!!」

「え!な、何事ですか!?」

鬼丸の尿でびしょびしょになった紙に書かれた文字を見て、俺は絶望した。
その紙にはすらすらと数十行の文とその端に朱色の印が押してあった。
まぎれもない。俺が昨日徹夜で書いた報告書である。ちなみに印は仕事先でもらった証明印である。

「あ…あぁ…俺の…俺の報告書がぁ。報酬がぁ」

「えーと?その紙、そんなに大事だったんですか?」

きょとんとした顔でそんなことを言う鬼丸に、俺は鋭い視線を送る。

「…言ったはずだぞ、これは大事な書類だから絶対に汚すなと。」

「あ。」

あ。じゃない。

「す、すっかり忘れておりました…。」

たはは、と困った顔で笑いかけてくる鬼丸に俺は言いたい。こっちの方が困っていると。

「…はぁ、まあ仕方ない。こんな状態であいつに出す訳にはいかないしな。もう一度、印を貰いに行くしかあるまい。」

「も、申し訳ありません!主殿。私が粗相をしたばかりに…。」

「まったくだ。どこのバカが書類で股を拭くんだ!」

鬼丸はしゅんと項垂れて黙り込んでしまった。…いや、俺は悪くないぞ。そもそも出かける前に用を足しておけとあれほど言っておいたはずなのに。

「…。」

…ぬぬぅ。そうも落ち込まれるとこちらも罪悪感が湧いてくる。

「…ったく!仕方ねぇな!許してやるから顔上げろ!」

「…主さまぁ。」

ゆっくりとあげられた顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。…そんな泣くことかよ。ったく、ガキはこれだから。
だが、俺も大人だ。こいつも俺の黒鷺流を継ぐ者である以上けじめはつけさせなければならない。

「ただし!お前も俺の仕事に同行すること!いいな!」

高らかな宣言に鬼丸の顔に笑顔が戻った。…我ながらなんとも甘い。

「おや、そこにいるのは黒鷺ではないか。」

不意に、茂みの中から見知った声が俺を呼んだ。
草をかき分けて現れたのは俺の旧友・氏元だった。

「お前こそ、こんなところでなにやってんだ。」

端正な顔立ちのちょんまげ侍である氏元は爽やかな笑顔で語り出した。

「なにって、虫取りに決まってるじゃないか。今日は蝶を3匹捕まえたぞ。」

…いい歳こいて何してんだお前は。

「…お前、仮にも領主だろ。」

「領主!?この方が?」

氏元の登場で俺の背にぴったりくっついていた鬼丸が急にひょこりと顔を出した。

「まあな、この大野群を治める領主がこの氏元だ。…ちなみに、この小便塗れの書類を提出する先もこいつだ。」

「え…。」

「小便塗れ??…今日、出す予定の書類なら今見てもいいが。」

「ああ、それは助かる。」

俺は手にしていたびしょびしょの書類を氏元に見せる。

「おわぁぁぁ!?何してるんですか!?」

黄ばんだ書類を領主に突き出した俺を、鬼丸は慌てて引き止める。

「…何をする?ここで見てもらえば、また現場に行かなくて済むだろう?」

「そういう問題ですか!!あ、あああれには私の、私のがっ…!」

慌てる鬼丸を放置して俺は、不思議そうにしている氏元に件の書類を見せた。

まじまじと書類を見つめた彼は、しばらくして頷いた。

「うむ…確かに。」

「あぁ…。」

「そうか、なら報酬はいつもの通りに。」

項垂れる鬼丸をまたも放置して俺は氏元に礼をしてその場を立ち去ろうとする。

「待たれよ、主殿。」

すると、目の前に鬼丸が立ち塞がった。その手には俺が与えた刀が握られている。

「…何のつもりだ?」

聞いておいてなんだが、理由は検討がついている。俺はシラを切り平静を装う。

「知れたことを…!あの様な辱めを受けては、私は貴方に…貴方に嫁ぐしかありません!!」

「…は?」

…からかったことは謝ろう。しかし、なにがどうしてそうなる?予想外過ぎる反応に俺は混乱する頭をフル回転させて訳を探る。

「さぁ!勝負です!」

「…まあいい、ここで修行の成果を見てやるのも悪くないか。」

適当な理由を見つけて自分を納得させた俺は、腰下げた刀を抜刀する。

「型は特に指定しない。自分のやり易いように振るうがいい。」

「!…あまり油断なさると、足元を掬われますよ?」

「御託はいい、かかってこい。」

「…いきます!」

大地を蹴り、こちらに一直線に向かってくる鬼丸に俺は刀を構えて迎えうつ。

山道で始まった唐突な戦いは、山に響き渡る甲高い金属音を開戦の合図とした。
















「いったーい!」

夜も更け、蝋燭の灯火が部屋を照らす中で、俺は鬼丸の傷の手当を行っていた。

「喚くな、大人しくしていろ。」

諌めると鬼丸はむくれた顔で涙目になってそっぽ向いた。
俺は溜息を吐いて、鬼丸の頭に包帯を巻く。

「…ほら、終わったぞ。」

「れ、礼は言っておきます…あ、ありがとうございました。」

口を尖らせて言う鬼丸を少しばかり可愛いと思いながら、俺は笑みを浮かべた。そしてその頭に手を乗せて優しく撫でてやる。

「うぇ!?な、何をするのです!?」

慌てる様が余計に可愛く思える。俺は緩みかけた頬をなんとか引き結んで鬼丸を撫で続ける。
やがて大人しくなった彼女は、目を閉じて俺の手に身を任せた。

「…主殿は、いじわるなのです。」

「あ?なんだぁ、急に。」

聞き返すが、返事はない。ただ口を尖らせてむすっとしているだけだ。

俺は軽く息を吐いて、撫でていた手を止めぽんぽんと叩いてみる。

「どうした、鬼っ子。今更、故郷が寂しくなったか?」

言って、気付いた。そういえば彼女は以前、記憶を失ったままだということを。
とんでもない失言をしてしまった俺は慌てて取り繕うとするが…

「…そうなことではないのです。…まったく、私の気持ちに気付いていながら…ブツブツ。」

とまあ、小声でなにやら呟いてからそっぽを向かれてしまった。

いまいち彼女の考えが読めなかった俺は頭をかきながら溜め息をついた。
そして、そっと彼女の側まで行き後ろから抱きすくめる。

「うひゃ!?なな、何を…?主、どの?」

「悪い…お前、寂しかったんだよな。」

「へ?」

「いや、隠さんでいい。…記憶を亡くし、帰るべき故郷も分からないなんて、寂しいに決まってるよな。それを分かっていながら俺は…俺はお前に。」

抱く力を強めて、身体全体で鬼丸の体温を感じる。俺の半分くらいの背しかない彼女の身体は驚くほど華奢で、小柄だった。この体のどこにいつものあの元気が詰まっているのか知りたいくらいに。

「主殿…。」

「鬼丸…これからはもっと、優しく、長く、一緒に居てやるから。だから…もう少し、俺の側にいてくれ。」

…何を言ってるんだ俺は。こんな子どもに、一緒に居てくれだなんて。気でも狂ったか?
だが、考えるまでもなく俺は理解した。俺はこいつが好きなんだ。女として以前に、その底なしの明るさが、殺伐とした俺の日常を照らしてくれた。その事実だけでも、俺は彼女を愛おしく思えてしまう。

…未来ある若者を束縛しているようで俺の心が痛む。でも、それでも俺は…こいつ無しではもう生きていけなくー

「主殿は…分かっていない。」

「!!」

そのまま、彼女を押し倒してしまいそうになったところで、不意に鬼丸は口を開いた。

「え…?」

「貴方は何も…分かっていらっしゃらない!!」

声を荒げた彼女は、俺を振りほどいて駆け足で家から飛び出していった。

「ま、待ってくれ!鬼丸っ!」

叫ぶ頃には彼女の姿は闇夜に消え、俺は1人、取り残されていた。

「おに、まる…。」














「う…うぅ…!」

泣きながら走る。夜の帳の降り切った漆黒の町内を。

嗚咽交じりに息を荒げながら、全力で走る。
行き先など決めていない。でも、とにかくあの人の側から離れたかった。

そうしないと、彼を襲ってしまいそうだったから。



それだけはいやだ。力ずくで彼を得ても何も嬉しくない。ちゃんと…ちゃんと、私を好きになってほしいから。

「…でも、あの人は、私を…子どもとして、力無き弱者としてしか見てなかった。」

いくら鍛えても、頑張っても!…あの人は私を保護者目線でしか見てくれない。

「それならいっそ…彼の前から立ち去りたい。」

泣きながら、どうしてこうなったのか。その経緯を少しづつ思い出した?





好きなったのはいつからだろう?

助けてもらったあの日からだろうか?
彼の家の前で倒れていた私は、あの逞しい腕に抱かれて家へと連れて行ってもらった。

傷つき、記憶もなく、ただ横になっていることしかできなかった私に彼は付きっ切りで看病してくれた。
おかげで、すこぶる快調になって、動けるようになって。

最初は何か恩返しがしたいと思った。料理をしたり、狩りをしたり。そんなことしかできなかったから、私は精一杯それを頑張った。

『ありがとう。』

頑張った私は、その日、初めて彼に褒められた。
その時だ。
私の中で熱い何かが、心を満たす何かが溢れてきたのは。

それから私は、もっと彼に褒めてもらいたくて剣の稽古を始めた。



ある日、いつもより遅い時間に稽古をしに出て行った私は、朝稽古を行う彼に会った。

美しかった。その太刀筋、構え、息遣い。彼の動き全てが精錬された一つの技のように見えた。

思わず私は彼に稽古をつけてくれるように頼み込んだ。

しぶしぶ了解してくれた彼と私は、次の日から一緒に稽古するようになった。





一月が過ぎて、私は物足りなさを感じていた。

というのも、彼は基本の素振りと走り込み。その他、諸々の基礎しか教えてくれなかったから。その殆どが、町の剣道場の素人がこなすものと変わりなかった。
魔物としての体力に加え、身体に染み付いていた剣道の心得を持っていた私には緩すぎる修行だ。

私は彼の剣を知るべく、もっと高度な修行を行ってくれるように頼んだ?

『お前には…まだ早い。』

返ってくるのはその言葉だけだった。
確かに基礎は大事だ。何事も基盤ができていなければその上へと、高みへと登ることはできない。
しかし、彼の顔から見えてきたのは、私をこれ以上剣の道から遠ざけようとする、保護者の目だった。

私はショックだった。これまでの働きを認めて稽古をつけてくれるようになってくれたのかと勝手に勘違いしていたのは私だった。…でも、そんな、私を危険から遠ざけようと奥に仕舞い込むような考えは…いやだった。

私を大切に思ってのことかも知れない。…でも、私は納得できなかった。

だって私は…彼の隣で、一緒に、戦って行きたかったから!

「…でも、そんなのは私のわがままでしかない。…家に残り、家事をして彼の帰りを待つ。そういうやり方なら共にいられたかもしれないのに。」

でも、もう引き返せない。

あんなことを言って飛び出してしまった以上、あの家にはもう帰れない。
帰ったところでどんな顔して彼に会えばいいのだろう?どんなことを言って謝ればいいの?
学のない私には分からない。

そう考えると、途端に孤独が身近にあるのを感じる。

「もう…会えない。1人…。」

自然と涙が溢れる。止まらない。

「いやだよ…もう会えないなんて…もう、一緒に居られないなんて…いや。」

足腰から力が抜けてその場にへたれこんでしまう。それでも涙が止まらない。

「ふぇぇ…うっ…ぐす!…マナトぉ…」

走り過ぎたせいか、泣き叫ぶ体力もなく、ただ涙を流して力無い声を出すことしかできなかった。

「ここにいるよ。」

「!」

ふわりと、肩に掛けられた布と共に聞き慣れた声が耳元で囁いた。
振り向くと、そこには愛しきあの人の顔があった。心配そうに微笑みながらこちらを見ている。

「あ、主…どの。」

「まったく…勝手に出て行ったら危ないだろ。この辺だって夜は危険なんだから。」

いつもの笑顔。それを見ただけで私の中の思いが一瞬にして溢れ出した。

「うわぁぁぁん!まなとー!」

「おわっ!…たく、主殿って呼ぶんじゃなかったのかよ。」

「ううっ!ぐす、ごめんなさい…ごめんなさい!」

抱きついて彼の胸板に顔を押し付けながら必死に謝る。
彼を困らせたかったわけじゃない。心配させたかったわけでもない。
私はただ、彼が…彼が好きすぎてー

泣き叫ぶ私を彼はその大きな手で優しく撫でる。

「鬼丸…。」

「うう…まなと…怒ってないの?」

「当たり前だろ?あれは俺が悪かったんだから。」

「?」

「…お前を追いかけてる最中に考えてたんだ。俺はどうしてこんなにもお前を守りたくなるのか。そんでやっと気づいたんだ。…いや、正確には認めることができた。かな?」

「??まなと?」

そう言って自虐的に苦笑した彼は、優しく私の体を抱きすくめた。今度は正面から。
そして、私の耳元で確かにこういった。

「好きだ、鬼丸。」

「…え。」

「こんなこと…俺みたいな大人が言うべきではないと分かっている。でも、言わせてくれ…俺は、お前を愛している。」

「まな、と。」

それは私がずっと、聞きたかった台詞。でもこんな唐突に言われるだなんて誰が想像できただろう?
溢れそうになる涙をこらえて必死に彼の腕にしがみつく。

「…お前の答えを聞かせてくれるかい?」

そう言って彼は私を見る。今までで一番優しくて暖かい笑みを浮かべながら。

…聞くまでもない。とうに私の心は彼色に染まっているのだから。

「私も…私も大好きです、まなと。」

だから私も満面の笑みで答えた。













あれから一月、私は縁側で静かにお茶を啜っていた。

「隣、いいか?」

「どうぞ、旦那様♥」

私は笑顔で答える。すると彼は頷いてからゆっくりと私の横に座り込んだ。

「…なぁ、鬼丸。」

「はい、旦那様。」

「…後悔、してないか?」

「…はい?」

「俺みたいなろくでなしと、その…結婚したこと。」

何を言うかと思えば…

「今更ですね。」

「う、まあな…でも、どうしても聞いておきたくて。」

「そうですねぇ…まあ、少しは後悔してるかも。」

「え…。」

「もう少し焦らしてたら、もっと旦那様の恥ずかしい姿が見れたかなぁとか思ったりします。」

「お、お前なぁ…」

「あはは!でも、私は満足ですよ?」

「ほう。」

「だって…こんなにもイケメンで、かっこよくて、優しくて、おまけに甲斐性のある旦那様と一緒になれたんですから!」

コツンととなりの彼の肩に頭を乗せてみる。

「ふ…そうか。」

それだけ言うと、彼は手にしたお茶を一口すすった。

「えー、それだけですか?もっと、こう…『俺もお前の〇〇なところが大好きだよ!』とか言ってくれるんじゃないんですか?」

「ばか…俺がそんなこと言ったら、気持ち悪いだろ。」

「そんなことないですよ?…言ってくれたら、もっとあま〜いセックスもできちゃうんですけどねぇ?」

着物の肩をずらして、足をもじもじさせると、彼は口のお茶ぶちまけながら咳き込んだ。

「…そ、そういうこと言うな。…まったく、どうしてこんな淫猥になってしまったのか。」

「そんなの、旦那様が毎晩激しく抱いてくださるからに決まってるじゃないですか。」

またも彼はお茶を吹き出した。

「ご、誤解を招くいいかたをするな!…毎晩は抱いてない。」

「でも…あの夜は…激しかったですねぇ。」

「う…忘れろ。」

「無理です!だって、私たちの初夜ですよ?記念すべき日じゃありませんか。」

「…まあ、そうだな。あの時のお前の乱れようは、俺も脳裏に焼き付いている。」

「へ!?そそ、それは!まことで!?」

「ふ…嘘だ。第一、あんだけぶっ通しで交わり続けたら記憶も飛ぶだろ。」

「!ひどーい!忘れたのですか!?私のあの恥じらいようを!あの初々しき夜を!!」

「はいはい…」

熱烈な私の抗議を軽くあしらった彼はすくりと立ち上がってどこかへと歩き出した。

「?どこへ行かれるのですか?」

「あ?忘れたのか?今日は俺とお前の新婚旅行の日だろうが。」

「あ!」

すっかり忘れていた。言い出しておいて、これでは世話ない。

「…ったく、ほら、さっさと支度を済ませて来い。」

「は、はい!ちゃんと待っててくださいよ、旦那様!」

「無理、二十数えるうちに済ませて来い。」

「ええ!?それはいくらなんでもー」

「十九…十八…」

「わわっ!今いきます!行きますから待っててくださーい!」






ドタバタと鬼丸は支度を始めた。

「…お前と俺の旅行、置いてくわけねぇだろが。」

慌ただしく身支度をする鬼丸から視線を逸らし、ふと、此度の旅行の真の目的を思い返す。

「お前の故郷、見つかるといいな。」

…見つけたら、そこで一緒に暮らそう。

「お、終わりましたぁ…はぁ…はぁ…!」

「うむ、時間通り。じゃあ行くか。」

「はい!旦那様♥」

俺と鬼丸は意気揚々と門をくぐる。
頭上から照りつける日光は暖かく、追い風は清々しい。

2人で歩く小道の脇を、まるで祝福しているかのように咲き誇る野花が彩っていた。






16/02/12 15:01更新 / King Arthur

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