読切小説
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小さき者のささやかなる願い
プロローグ
エヴァンズという男を一言で言うならば、ろくでなしが最も相応しいであろう。
彼は大陸南東部の漁村の生まれで、父から相続した漁船を一隻所有している。
だが、彼はろくに漁に出ず、仲間と酒を飲み博打に興じていた。
無論、そんな生活を続けていればすぐに金はなくなってしまうが、彼には秘策があった。
それは漁村の近くにある、呪いの入り江へ漁に出ることだった。
常に不気味な色の雲がかかり、海水も異様な色に濁った呪いの入り江は、いわゆる魔界化した土地である。
だが、入り江の入り口近辺で獲れる魚は魔力を蓄えこんでおり、街に持っていけば非常に高値で売りさばけるのだ。
彼は金がなくなるたびに仲間を誘って船を出し、呪いの入り江へ漁をしに行くのであった。

そして今、エヴァンズは入り江の真上で渦巻く不気味な色の雲から少しでも離れるべく、懸命に船を漕いでいた。
慣れぬ作業のせいで、掌に出来た豆が潰れて血が滲み、櫂にしみこんでいる。
かなりの痛みを彼は覚えていたが、彼は掌からの痛みを無視し、全力で舟を漕ぎ続けている。
「天に座します我らが主神よ、どうかオレを助けて下さい・・・」
彼の口からは、若干うろ覚えと言った様子の主神に対する祈りが、繰り返し繰り返し紡がれている。
しかしその祈りに込められた彼の信仰心は、敬虔な信徒のそれを上回るほどだ。
無理もない、彼は今魔物に追われているのだから。
「天に座します我らが主神よ・・・ひ!?」
懸命に船を勧める彼の目に、水面下を進むいくつかの影が目に入った。
魔物だ。
エヴァンズを追って、入り江から出てきたのだ。
やはり、欲を掻いて入り江の中に入ったのがまずかったのだ。
「神さま・・・!」
彼はそう小さく叫ぶと、疲労により鈍い痛みを覚えつつある全身を叱咤し、舟を漕ぐペースを速めた。
(追いつかれたら、捕まってしまう・・・!)
ほんの数分前、入り江の中で網を引き上げていたら網ごと海中へ引きずりこまれた友人のように。
彼を助けようと濁った海に差し伸べた手をつかまれ、引きずり込まれた友人のように。
エヴァンズは、二人の友人のようにならないため、懸命に櫂を操った。
だが漕げども漕げども、渦巻く雲と濁った海水からは離れる様子がない。
一方、海水面下を行く幾つもの影は、彼との距離を詰めつつあった。
やがて、影が船に追いつく。
「ひぃ・・・!」
影の群れが左右に割れ、船を取り囲み、ぐるぐると円を描く。
そして船を中心に回る影の一つが海面を突き破り、船の縁から姿を現した。
右舷の船尾側、エヴァンズから見て左手に現れたのは、一見すると波打つ黒髪の女だった。
だが彼女の肌も青く、両耳も長く尖っており、青黒い髪の間からは角のようにも見える突起が覗いていた。
加えて、船の縁を掴む手は肘まで細かな鱗に覆われており、指の間には薄い膜が張っている。
エヴァンズは濡れた髪を顔に張り付かせながらも微笑む彼女がネレイスだと言うことを知らなかったが、それでも彼女が魔物であることは人目で理解した。
「うふ、うふふふふ」
髪の間からぎらぎらと光る目を覗かせ、口の端を吊り上げながら、ネレイスが彼に手を伸ばす。
「うわぁぁぁぁ!!」
エヴァンズは大声で叫ぶと、とっさに近づく彼女の手を払おうと、右手を振った。
指が白くなるほどの力で、櫂を握り締めたままで、だ。

ごづ

重い音と手ごたえが彼の手に伝わり、ネレイスの体がゆっくり傾いていく。
そして、大きな水音を立てながら、彼女の体が海中に没した。
「あ・・・?」
海中に消えていった魔物の姿を、彼は何が起こったのかわからない、と言った様子で見送った。
だが、彼が自分が何をしたのか理解した直後、恐怖と絶望に彩られていた彼の表情に、なんとしても生き延びようというぎらつきが宿る。
偶然とはいえ、魔物を一匹倒したのだ。
「き、来やがれってんだ魔物ども!」
左手で握っていた櫂を船に引き上げると、船を中心に回遊する影たちに向けて、彼は声を上げた。
直後、恐らくは偶然だろうがその声に応えるように、影の幾つかが船の縁に手をかける。
「く・・・ぉの!!」
数本の鱗に包まれた青い手に、一瞬彼の闘志が萎えるが、大声を張り上げながら彼は櫂を振り回した。
櫂の先端が、船の縁を掴む手を打ち据え、海面を突き破って現れる頭を叩きのめす。
ネレイスの手が、頭が、衝撃と手ごたえに海中へ消えていった。
しかし、そんなエヴァンズの活躍も、長くは続かなかった。
身を乗り出し、海中から僅かに覗く青黒い黒髪を打ちのめそうと振り下ろした櫂が、海中から伸びた手に捉われたのだ。
ネレイスの細腕が織り成す力に、櫂が動かなくなる。
そして海中から現れた新たな指が、櫂の柄を掴んだ。
「ぐ!?クソ!」
押しても引いても動かぬ櫂に彼はそう吐き捨てると、指を緩めた。
櫂の柄を海中に垂らされた綱代わりに船へ上がろうとしていたネレイスが、櫂と共に海中へ沈んでいく。
だが、彼が櫂が海に消えていくのを見送る間に、青い手が幾本も船の縁を捉えている。
すぐに追い払わないと、船をひっくり返されてしまう。
エヴァンズは、ネレイスどもを追い払う為、船に引き上げていたもう一本の櫂に手を伸ばした。
しかし、彼の手が櫂を握った直後、何者かがその手首を掴んだ。
「っ!?」
「うふ、うふふふふ」
とっさに視線を向ければ、船の縁から身を乗り出し、彼の手首を掴むネレイスの姿が目に入る。
直後彼女の両脇から、新たなネレイスが船の縁に手を掛け、船に這い登ってきた。
船の右舷から左舷から、青黒い濡れた肌の魔物が這い登り、エヴァンズに覆いかぶさってくる。
「うふふふ」
「ふふふ、うふふ」
「うわぁぁぁ!?」
彼は声を上げ、手を振り回そうとするが、彼女らは難なく彼を押さえ込んでしまった。
そして彼の唇に吸い付き、身体にしがみつき、少しでも触れようとするかのように、彼女らはその濡れた肌を彼に寄せた。
すべすべとした青い肌が彼の肌に重なり、一体のネレイスの唇が彼のそれに触れた。
彼の口を柔らかな唇が強引に押し開き、差し込まれた舌が彼の口腔を嫐るように舐め回す。
彼の腕に取り付いたネレイスが、その掌を自身の股間へ導き、彼の肩を乳房で挟み込む。
彼の脚にしがみついたネレイスが、彼の足を太腿で締め付ける。
エヴァンズの腕に、足に、胴に、ネレイス達が取り付き、肌を擦り付けてくる。
彼女らの間でもみくちゃにされているうちに、強張っていた彼の全身が次第に脱力していった。
魔物とはいえ整っている彼女らの顔立ちと、その柔らかな青い肌の感触が、彼の胸中を支配していた恐怖を押し流してしまったからだ。
やがて彼の全身から抵抗の為の力は奪われ、彼女らに身を任せるがままになる。
「うふふ」
「うふふふふ」
彼の全身が弛緩したところで、彼の腰に跨る一体のネレイスが、ズボンに手を掛けると下着ごと易々と引き裂いた。
すると彼の身体で唯一硬直したままの肉棒が、彼女の両脚の間に飛び出す。
「うふふ!」
「うふふふふ!」
露になった屹立を口に含もうと、傍らから頭をねじ込もうとするネレイスを押しやりながら、彼女は腰を浮かせ、自身の内へ肉棒を導いた。
ネレイスの女陰は既にぐっしょりと濡れており、エヴァンズの勃起を滑らかに飲み込んだ。
膨張した彼の分身が、僅かに冷えた凹凸の少ない滑らかな膣壁に包まれていく。
そして、肉棒が根元まで納まるや否や、彼女は腰を揺すり始めた。
「ん・・・!ぐ・・・!」
股間から這い登ってきた快感に声を上げようとするが、ネレイスとの接吻が続いている為、僅かな音が漏れるだけだ。
無論、漏らした声が小さかったから快感が小さくなる、などということはなく、次第に大きくなっていくネレイスの腰の動きに、肉棒から生じる快感は大きくなっていくばかりだ。
「うふ!ふふふ!うふふふふ!」
膣壁を抉り、体奥を抉る肉棒の感触に、ネレイスは心地よさげに声を上げた。
しかし、彼女はそれでも足りないとでも言うかのように、腰の動きを大きくしていく。
全身を使った、跳ねるようなネレイスの動きに、彼女の尻とエヴァンズの太腿がぶつかって音を立てた。
「うふふふ」
「うふ、うふふ」
腰の上で跳ねるネレイスの興奮が伝染したかのように、彼に覆いかぶさるほかのネレイス達もまた、徐々に動きが激しく、大きくなりつつあった。
彼と唇を重ねるネレイスは、無理矢理舌を押し込むどころか、彼の口中を味わうかのように歯茎や口蓋、舌の裏にまで舌を這わせている。
彼の掌を自身の股間へ導き、肩に乳房を押し当てるネレイスは、彼の手に自身の指を添え、濡れそぼった割れ目の内側へ彼の指を導いていた。
彼の脚にしがみつくネレイスが、腰を前後に揺すり彼の足の甲で自身の股間を擦る。
肉棒から注ぎ込まれる快感と、ネレイス達の全身への愛撫に、彼は限界を向かえた。
「・・・!ぐ、ぅ・・・!」
唇にふさがれた口から低い呻きが漏れ、直後彼の肉棒から白濁が迸った。
興奮に熱せられた粘液が、ネレイスの体奥に注ぎ込まれる。
「・・・っ!うふ!うふふふ!」
体奥で迸り子宮を灼く精液の感触に、彼女は一瞬仰け反ると楽しげな声を漏らし、腰の動きを変えた。
自身の快感を増す為の上下に跳ねる様な動きから、腰を深く沈めて精液を搾るため円を描くような動きへとだ。
凹凸の少ない滑らかな膣壁が、ネレイスの腰の動きに合わせて密着感を変え、甘い快感を肉棒に与えて射精を促す。
だが、そのような小細工で射精が終わらなくなるわけもなく、少々量が多かったとはいえ、肉棒から迸る精液が止まった。
「んん・・・うふ・・・」
「んぐ・・・んん・・・!ぶはっ・・・!」
射精が終わり、ネレイスが腰の動きを止めたところで、彼の唇をふさいでいたネレイスが離れた。
だが、すぐに別なネレイスが彼の唇を覆う。
「うふふふふ」
満足げに腹を撫でるネレイスを押しのけ、先程まで唇を重ねていたネレイスが、彼の腰に跨った。
そして精液と同族の愛液に塗れる半萎えの肉棒を、強引に胎内に導きいれる。
大きく広がった緩めの膣が、彼の肉棒を飲み込むと同時に纏わりついてきた。
「ぅぐ・・・!んんぐ・・・!」
ぬるぬるとした体液の感触と柔肉の絡みつく感触に、彼の肉棒が強引に勃起させられ、ふさがれた彼の口から小さな声が漏れた。
だが、新たなネレイスはその声に拘泥することなく、腰を揺すり始める。
注ぎ込まれる快感に、青い肌の中で彼の顔が歪んだ。
「んぐ・・・ぐぅぅ・・・うぅ・・・」
「うふ」
「うふふふ」
「うふふふふ」
低い呻き声と幾つもの小さな笑い声が、小さな漁船から溢れている。
そして、船上の宴に加わろうと、更にネレイス達が船の縁に手を掛け、登ろうとしていた。
だが、船は大分傾いており、もはや新たなネレイスが乗ることは出来そうにもない。
しかし彼女らは、手を掛け、身を乗り上げ、既に船に乗っているネレイスと入れ替わろうと、もみ合いを始めた。
喫水線が、船の縁ぎりぎりまで迫り、同時に船がネレイス達の動きに揺れ始める。
そしてついに、船が大きく傾き、転覆した。
ネレイスとエヴァンズが海に投げ出される。
だが、海面に顔を出すものは、どれ程待とうと現れなかった。


不気味に渦巻く雲の下、ネレイス達の住む『呪いの入り江』の近くで、転覆した漁船が船底を晒しながら、ゆらゆらと波に揺れていた。





一章 『呪いの入り江』
青空の下、一本の道を俺の乗った馬車が一台ゆっくりと進んでいた。
道は大陸中に張り巡らされた街道ではないものの、領主の命令で整備された立派な道である。
そして今乗っている馬車も、貴族の乗るような上等な馬車ではないが、生活必需品をあちこちへやり取りする為の荷馬車だった。
平民の為の道に、平民の暮らしを支える為の荷馬車。
この大陸で、どこでも見られるような光景がそこにはあった。
だが、同時に他所では見られないような光景も、そこにはあった。
荷台の後部に二人の男が座り込み、換気のため跳ね上げられた幌の内側から、外を眺めているのだ。
二人のうち一人は、勿論俺だ。もう一人は四十代半ばほどの、平らな顔立ちをした黒い髪の男。
俺が数日間もの間、荷馬車に押し込められる理由を作った男である。
世界広しと言えども、男二人で荷馬車に詰め込まれ、数日も揺られるなんてことがそうそうあるだろうか?
「・・・ん?」
俺の視線に気が付いたのか、男が幌の外から目を俺のほうに向ける。
「どうした、アルベルト。私の顔に何かついていたか?」
「いや・・・単にぼんやりしてたら、自然と顔と目がそっち向いただけ」
「そうか。だが、あまり近いところを見すぎるな。気分が悪くなる」
男はそう言うと、視線を外へ向けた。
彼の視線を追って顔の向きを変えるが、見えるのは青空と遠くの山。後は延々と続く道だけだ。
『アル!ヨーガン!』
不意に、跳ね上げられた幌の上から、真っ白な少女の顔が逆さづりに現れた。
だが、肌はおろか髪の毛から口の中まで真っ白な彼女の髪は、不思議なことに空に向かって垂れたままだ。
『見えてきたよ!』
「そうか、ならもうそろそろだな」
ゴーストの少女、マティの言葉に俺の向かいに座っていた男、ヨーガンがやれやれとばかりに首を捻る。
彼の固まった関節が、小気味いい音を立てた。
「さて・・・アルベルト、もうそろそろだ。馬車を降りたとき、ふらつかないよう適度に身体を動かしておくといい」
「あぁ」
ヨーガンの言葉に従い、両足首をぐりぐりと回しながら、俺は荷物の間から馬車の前方に目を向けた。
荷物と御者の背中の向こうに、道と地面とどこまでも広がる青が見えた。



――――――――――――――――――――――







「アルベルト、海に行くぞ」
「へ?」
数日前、訓練を終えて帰ってきた俺を呼びつけると、三賢人の一人、ヨーガンは小屋に入った俺にむけて、そう言い放った。
「海って・・・え?」
「何だお前、海見たことないのか?」
小屋の中央に置かれたテーブルの、入り口を背にして左手の席に腰を下ろした男が、いくらかの驚きの混ざった声を上げた。
「いいかアル、海ってのはこう・・・塩味の水が嫌になるほど集まっていてだ、広くて青くて・・・」
「いや、ソクセン。俺も海ぐらい見たことあるから」
両手で大きく円を描き、その中で手をひらひらと動かしながら(小波のつもりなのだろう)解説をするソクセンに、おれはそう突っ込んでおいた。
「それで・・・なんで海に?」
「ええ、アーハット子爵から依頼を受けまして・・・」
向かって右手の席に着く男が、テーブルの上の書類を一枚取り上げた。
「何でも、南の方に領土を構えるギュラム子爵から、アーハット子爵に『領土の一角が魔界化した。マジ困る』という相談があったそうで・・・」
「その解決を、我々に頼んだと言うわけだ」
ズイチューの言葉を、ヨーガンが引き継いだ。
「無論、それだけなら別に我々が受ける必要もない。だが、アーハットのヤツ『今回の事態が解決に至った場合、魚の塩漬けと麦の取引を行う』という約束を取り付けてきたのだ。
とりあえず今回は様子見と言うことで、ズイチューとソクセンをエルンデルストに残し、私が現場に向かってみることにした。
それで、君にその間私の警護をしてもらいたいのだ」
「はぁなるほど・・・」
ヨーガンの言葉に、俺は一応の納得をする。だが、同時に疑問も湧いていた。
「でも警護なら、俺よりセーナさんのほうが腕が立つから適任だと思うけど」
「お前話聞いてたのか?魔界化した土地に行くのに、魔物連れてってどうするんだよ」
「だったら、マティのヤツは?」
呆れた様子のソクセンの言葉に、俺は本来の質問を放った。
俺に取り付いている、幽霊少女のマティ。ゴースト、即ち魔物である彼女が魔界化した土地の影響を受けるであろうことは、火を見るより明らかだ。
「それなら問題ない」
ヨーガンはどうと言うことも無いように続けた。
「現場から近いところに漁村があるが、そこは魔界化の影響を受けていないらしい。
だから、マティ君には調査中は漁村で過ごしてもらうことになると思う」
「うーん・・・」
彼の言葉に、俺は小さく呻いた。
確かに、俺は山のセーナさんの元で修行させてもらっているが、護衛として役に立つほどの自信はない。
だが、エルンデルストに滞在させてもらっている以上、三賢人の頼みは断りづらい。
「ああ、そういえばね」
悩む俺の背を押すように、ズイチューが別な紙を取り上げながら口を開く。
「セーナから許可はもらってるよ」
彼が掲げる手紙には、確かにセーナさんの文字がつづられていた。
こうして、俺から断る理由がなくなった。





――――――――――――――――――――――




海が見えてしばらくしてから、荷馬車は漁村にたどり着いた。
海岸にへばりつくような形で家々が並ぶその村は、規模だけはエルンデルストと同じ程度である。
だが、村には寂しげな雰囲気が漂っており、エルンデルストより寂れているような印象を受けた。
「ここがオンシュマだ」
潮の香りが満ちる村の入り口で、荷馬車から降りるなりヨーガンが口を開いた。
「知ってる。ここに来るまで何度も聞かされた」
依頼内容と共に繰り返された為、聞くのもうんざりするようになった漁村の名に、俺はそう返した。
「ただの確認だ、そう噛み付くな・・・それはそうと」
うんざりした俺を適当に宥めると、彼は村の端、いやその向こうに目を向けた。
「あそこが現場のようだな」
ヨーガンの示す方向を見ると、海岸に向けてせり出した断崖が目に入った。
だがそれ以上に目を引くのは、断崖の真上で渦を巻く不気味な色の円形の雲だ。
海が近いせいか、それなりに強い風が吹いているというのに、断崖の上の雲はびくとも動く様子が見えない。
『アレが魔界化した場所?』
俺とヨーガンの間に浮かび、目の上に掌をかざして雲を見つめるマティが呟く。
「の、ようだな」
『じゃあ、私は偵察を・・・』
「行くな」
早速渦巻く雲の方へ飛び立とうとしていたマティを、俺は制する。
「まあ、何はともあれ、まずは村長から詳しい話を聞こう」
ヨーガンは渦巻く雲から視線をはがすと、地面に下ろしていた鞄を掴み、持ち上げた。
「偵察や調査はその後だ・・・行くぞ」
そう言葉を締めくくると、彼は村の中心へ向けて歩き出す。
『仕方ないわね・・・行くわよ、アル』
「言われなくても分かってるって・・・」
俺は自分の荷物を持つと、彼の後を追う。
だがそう広い村でもない為、俺がヨーガンに追いつくと同時に、彼は足を止めた。
村のほぼ中心に村長の家はあった。
「ここだな」
辺りの家屋より、僅かに立派な造りの家を確認すると、ヨーガンは玄関に立ち握り拳でドアを数度叩いた。
「はい」
しばしの間をおいてからドアが開き、老婆が顔を覗かせた。
「こんにちは。私、村長の依頼で参りましたヨーガンと申します」
「爺さんの・・・あぁ、はいはい、魔術師さんですね。どうぞ上がって下さい」
老婆はヨーガンの名乗りに一瞬挟んでから、俺たちを迎え入れた。
「お邪魔します」「お邪魔します」
ヨーガンに倣って老婆に頭を下げながら、俺たちは村長の家に入った。
俺たちをそこそこ大きなテーブルと、数脚の木製の椅子が迎える。
どうやらここが、居間兼応接間のようだ。
「狭いところですが、どうぞどうぞ」
老婆は俺たちを入れると、慌ただしげにテーブルの方へ周り、椅子を引いて座るよう促した。
「では、ちょっと爺さんを呼んでくるので待っていてくださいね」
彼女はそういい残して、奥へと引っ込んでいった。
『んー、どうやら私は見えていないみたいね』
先ほどから俺の後ろに浮かんでいたマティが、スカートの奥から伸びる煙のような塊を両脚に変えながら、そう呟いた。
マティの姿が見えるのは、魔物かある程度魔術に関わったことのある者に限られる。
つまり先程の老婆、恐らく村長夫人はただの人だということだ。
「まあ、魔界化した土地に近いって言っても、ただの漁村だしな・・・」
考えずとも当たり前の結論に至ったことに、俺は内心苦笑いを浮かべていた。
「いや、マティが見えていないと言うのは、かなり重要だ」
不意にヨーガンが口を挟んだ。
『重要って、どこが?あの婆さんが魔術との関わりが薄いってだけじゃないの?』
「魔術との関わりが薄いと言うことは、魔力の身体的浸食が低いと言うことだ」
首をかしげるマティと俺に、ヨーガンは小声で解説を始める。
「逆に考えれば、魔力の身体侵食が高い人間は魔術と深い関わりがあるということだ。
つまり村長夫人は、マティが見えるほど魔力が体を侵食していない、ということになる」
『ええと・・・つまり?』
「考えてもみろ、近くに魔界化した土地があるというのに、魔力による身体侵食が低いとはどういうことだ?」
「・・・うん・・・?」
彼の指摘した事実で、俺はようやく異常な事態に気が付いた。
「恐らく、この辺りの魔界化はただの魔界化とは異なっているのかもしれないな・・・。
まあ、話は終わりだ」
一方的に締めくくったところで、足音が一つ近づき、ドアの一枚が開いた。
「ああすみません、お待たせしました」
日に焼け痩せた老人が、すまなさそうに頭を下げながらテーブルに近づき、椅子に腰を下ろした。
「わしが、オンシュマ村長のヒューマーです」
老人、オンシュマの村長がそう名乗りながら、俺たちに向けて頭を下げた。
「ギュラム子爵からアーハット子爵を通じて依頼を受けました、ヨーガンです。コッチは助手のアルベルトです」
「宜しくお願いします」
ヨーガンによる紹介に、俺は村長へ頭を下げた。
「いやはや、お二人とも今回は遠いところお疲れ様でした。
『月の三賢人』の噂はかねがね伺っておりますが、まさか我がオンシュマまで足を運んでくださるとは・・・」
「いえ、こちらこそ一介の野良魔術師の名をご存知だと言うことだけで光栄です。
さて、早速ですが・・・今回の依頼を改めて確認します」
一通り挨拶と社交辞令を交わすと、ヨーガンが依頼の確認を行った。
「今回の依頼は、この漁村の近隣の魔界化した土地の、ええと・・・」
「『呪いの入り江』です」
「そう、『呪いの入り江』を処理する、ということで間違いないですね?」
「はい、お願いします。『呪いの入り江』の魔物が外に出るようになってからと言うものの、漁に出ても恐ろしくて恐ろしくて・・・」
自分たちの苦労を強調するように、村長は動きを交えながら語り出した。
「前までは、入り江の中に入らない限りは襲われることもなかったのですが、つい先日村の若者が襲われまして・・・」
「前まで?」
村長の言葉に引っかかるものがあったのか、ヨーガンは不意に繰り返した。
「村長、『前まで入り江の中に入らない限りは襲われなかった』とは、どういう意味でしょうか?」
「はぁ、そのままの意味ですが」
「ええと、ギュラム子爵からは、最近領土の一角が魔界化した、としか伺っていないんです。
ですが村長のお言葉からすると、どうも『呪いの入り江』が昔から魔界だったかのように聞こえますが・・・」
「ええ、そうですよ。呪いの入り江はわしの爺さんの頃ぐらいから魔界になっとりました」
村長の言葉に、俺たちは打ちのめされたような衝撃を受けた。
「爺さんの頃からって・・・」
「何で今まで領主に報告しなかったんだ」
「いえ、入り江に入らない限りは魔物は何もしてきませんし、他所から見てもぐるぐる渦を巻いているだけですし」
驚愕のあまり言葉を失う俺と素に戻ったヨーガンに、村長はどうと言うこともないと言った様子で答えた。
「昔、魔界化するより前からあの入り江は『呪いの入り江』と呼ばれていまして、何でも化け物が住んでいるという話でした」
領主への報告を怠った理由について、彼は言葉を紡ぎ始めた。
「最も、入り江に入っていったものが帰ってこない、とかいった程度で具体的に何かがいる、というわけではないようでした。
ですがある日、村を一人の魔術師が訪れ、『このままではあの入り江からこの土地が魔界化する』と警告したのです。
ですが、そんなことを言われてもわしらはこの村を離れることは出来ないし、行く当てもありません。
それで、その魔術師にどうにかしてくれ、と頼み込んだのです。
すると魔術師は、爺さんの頼みを引き受け、入り江に結界を張ってくれました。」
村長は疲れたのか、短い息継ぎの間をはさんでから続けた。
「『呪いの入り江』が魔界化したのはそれからすぐのことだったそうですが、今に至るまで広さは変わっていないのです。
ですが、入り江の魔物が外に出るようになった以上、『呪いの入り江』で何かが起こっているのは確実です。
もし、土地の魔界化が広がるようなことがあれば、わしらは村ごと飲み込まれてしまいます。
ですから・・・!どうか、どうか・・・!」
村長はテーブルに両手を突き、額をこすりつけるようにしながら懇願した。
「・・・分かった、とりあえず様子を見てみることにする」
「おぉ!本当ですか!?」
ヨーガンの漏らした呟きに、村長が顔を跳ね上げた。
「ありがとうございます!これで村は安泰です!」
「いや、私は様子を見て、出来そうなことをするだけだ。
私の手に余るようだったら、仲間を呼び寄せねばならないし、場合によれば宮廷魔術師に頼みなおさねばならないかもしれない。
まあ、あまり期待はしないでくれ」
「はい、はい!」
喜ぶ村長にヨーガンは念押しするが、村長はあまり聞いていないようだった。


――――――――――――――――――――――


オンシュマを離れて『呪いの入り江』へ向けて、木々の間を俺は黙々と進んでいた。
背の高い草や低く張り出した枝を、エルンデルストから持ってきたなたで打ち払いながらだ。
普段ならば、マティのおしゃべりがあるのだが、彼女はオンシュマで留守番だ。もっとも、彼女が村で大人しくしているわけがないので、どこかをうろついているのだろう。
だが彼女がここにいないという事実に変わりはなく、そのせいか、俺は少々の物足りなさを感じていた。
「それで・・・どうするのさ」
沈黙に耐え切れなかったのか、ふと俺はそう漏らした。
「?何の話だ?」
草や枝を打ち払う俺の後を進むヨーガンが、俺の呟きに応じた。
「いや、今回の依頼。村長のやつ、『解決するまで帰さない』って感じだったけど?」
あの後、村長は使っていない一室を滞在中俺たちに貸すと申し出て、俺たちの荷物を預かってくれたのだ。
だが、半ば取り上げるような形で荷物を預かった村長と夫人からは、ある種の脅迫めいたものがあった。
「仕方がない。
まあ、被害状況からみたところ、昔魔術師がかけたという封印が緩んでいる程度のことなのだろう。
言ったとおりできる限りのことを行って、知り合いの魔術師を呼ぶなり他所に任せるなりする」
「しっかし・・・そう上手くいくかな」
張り出した枝を打ち折りながら、俺は漏らした。
あの村長のことだ。ヨーガン一人ではどうにもならない事態だった場合、宮廷魔術師達が村に来るまで留まっていてくれ、と頼み込むに違いない。
「安心しろ、オンシュマに長期滞在する可能性は考慮している。今回二人を連れてこなかったのは、縛り付けられる可能性があったからだ」
俺と同じことを考えていたのか、彼はそう答えた。
「だが、あの二人がエルンデルストにいるのならば、最悪この村で永住することになっても大丈夫だ」
「いや、それ俺たちあまり大丈夫じゃないよね・・・と!?」
視界を塞ぐほど伸びた草を払うと同時に、日の光が俺の目を射った。
眩さに目を慣らし、いつの間にか背けていた顔を前に向けると、目の前には広々とした景色があった。
三方を断崖に囲まれ、残る一方が海と繋がった入り江。
断崖の上部には木々や岩が並んでいるが、絶壁は土がむき出しになっている。
そしてほぼ円形の入り江の中央からは、岩礁と言うのだろうか、小さな岩場が顔を出していた。
一見するとただの入り江だが、海水は不気味な色に染まっており、顔を上げれば渦巻く君の悪い色の雲が目に入る。
ここが『呪いの入り江』のようだ。
「ほう、意外と近かったな」
俺の肩越しに入り江の様子を覗き込みながら、ヨーガンが声を上げた。
そして雲や海の色を見比べてから、彼は目を見開いた。
「む・・・これは・・・」
土地の魔界化が予想以上に酷かったからだろうか、彼はそう漏らした。
「酷いのか?」
魔界化した土地と言うものを初めて見るので、俺にはどの程度酷いのか良く分からなかった。
だが、ヨーガンの返答は意外なものだった。
「いや酷くはない、むしろかなり良好な方だ。ほら、あそこを見てみろ」
彼は腕を掲げると、向かいの断崖の上辺りを示した。
「あの辺りの樹木は、かなり断崖の縁ぎりぎりに生えているが、見たところただの樹木だ」
確かに、呪いの入り江を囲む断崖に生えた木々は、魔界に隣接していると言うのに普通の木のようだ。
「気候に影響を及ぼすほど魔界化が進行しているというのに、結界の外では何の影響も見られない。
結界を張った魔術師というのは、よほど腕の立つ者だったようだな」
「良好って結界の状態かよ」
彼が話題にしていたのは、結界のことだったらしい。
「いや、結界の状態の確認も大事な仕事だぞ」
俺の突っ込みに応じると、彼は続けた。
「結界が何の役にも立っていないようならば、新たに張りなおさなければならないし、結界が上手く働いているようならば、調整程度で済む」
その見極めの為にも、結界の確認は重要だということだろう。
だが、土地の魔界化がかなり進行しているという点では、俺たちの意見は一致していた。
「しかし、これほどの魔力を押さえ込むとは相当強固な結界だな。結界の維持は・・・あれか」
そう言うと彼は腕を掲げ、対岸の何箇所かを指して見せた。
ヨーガンの指先にあったのは、緑色の柱状の何かだ。
断崖の縁ぎりぎりのところに、人の腰ほどの高さの柱状の物体がいくつかあった。
「あれって・・・多分ただの木じゃないか?」
形こそ柱のような棒状であるが、幹の半ばで折れた苔むした木のように俺には見えた。
「いや、九分九厘あれが要になっているはずだ。見てみろ、断崖の縁に沿って、ほぼ等間隔に並んでいるだろう」
確かに、一つずつ彼が示したことで緑の物体同士がほぼ同じ距離をおいて並んでいるのが分かる。
「さらに、入り江上空の雲が円形に渦巻き、入り江自体も円形。
そして、入り江を囲むように等間隔に柱状の物体が並べてあるとすれば・・・」
「何らかの役割があるのは確実だ、と?」
「そうだ」
彼はそう頷くと、俺を追い越して前に出た。
「・・・あ?ちょっと!」
「何、そう遠くへは行かん。恐らく、この辺りに・・・」
俺が切り開いた道を外れ、草を掻き分け枝をくぐりながら、木々の間を通り抜けていく。
そしてすぐに、彼は目的の物を見つけたらしく、足を止めた。
「あったぞ」
彼の前にあったのは、向こうの断崖に並んでいるものと同じ、腰ほどの高さの緑の物体だった。
こうして近くで見ると、物体は六角柱の形をして折り、その表面が苔に包まれているのが良く分かる。
「こんなところにも・・・」
「当たり前だ。等間隔、かつ円形に配置しなければ、こういったものは効果を発揮しないのだ」
柱の表面の苔を剥がしながら、ヨーガンは背中越しにそう応えた。
苔が剥がれていくにつれ、柱の表面が露になっていく。
「やはり、人の手が加わっているようだな」
一通り苔を剥がし、その下検分し終えたのか、彼はそう呟いた。
苔の下は灰色の石で、その上加工されたようにつるりとしていた。
これで、入り江を囲むように並ぶ物体が、人の手によって設置されていることが分かった。
だが、同時にそれはヨーガンに新たな謎をもたらしているようだった。
「おかしい・・・」
ほぼ全ての苔を剥がした石柱を撫で回しながら、彼はそう呟いた。
「どうした?」
「あぁ、この石柱だが・・・魔術の発動に必要な加工が全くされていないのだ」
石柱の表面を丹念に調べなおしながら、彼は続ける。
「結界を張る場合には、その要所要所に魔力を込めて、術式を描く必要があるのだ。
簡易的な結界なら、要所要所に札や杭といった魔力を込めた物品を置いたり、単純にその地点に魔力を注ぐ程度でも大丈夫だ。
だが、こういったそれなりの大きさと強度を備えた結界を張るには、そのようなやり糧では魔力も精度も全く足りんのだ」
「んじゃどうするんだよ」
「なに、簡単なことだ。その土地の魔力、即ちマナを使えばいい。
だが、その場合も結界の術式とは別に、マナを吸い上げる術式を物品なりその要所なりに描いておく必要がある。
だが、見てみろ」
彼が身体をずらし、俺にも石柱の表面がよく見えるようにした。
「何か描かれているか?」
「・・・いや、何も」
距離をおいても分かるほどつるりとした表面に、俺はそう頭を振った。
「術式がなければ、魔術は発動しない。だから、刻まれていないなんてことはないはずだ」
彼は立ち上がると、顎を指で撫でながら、推測を並べ始めた。
「見えないほど薄く刻まれているのかと思ったが、表面は滑らかに加工されている。
もしくは、この石柱自体に予め魔力を込めていたのかもしれないが、そんな莫大な魔力の持ち主が人間のはずがない。
それに、そんな魔力を持っているのなら、この土地そのものを浄化できるはずだ。
後の可能性としては・・・基本の基本だが、地下の見えない部分に刻まれている、と言うのがある」
「んじゃ掘り起こして調べてみるか?」
「駄目だ」
土を掘るのに適当な木切れを探しに行こうかとしていた俺に、ヨーガンは即座に返した。
「土地を魔界化するほどの魔力を押さえ込んでいる結界だぞ?引っこ抜いて魔力があふれ出したらどうするんだ」
「でも、結界の術式を調べなけりゃ、補強するかどうするか分からないんだろ?」
「そうなのだ」
彼は顔をしかめつつ、頭をぼりぼりと指で掻きながら続けた。
「どうしたものか・・・」
「んー・・・」
初めて見るヨーガンの困った様子に、いくらか新鮮な感覚を覚えていた。
「アルベルト」
不意に、彼が俺の名を呼んだ。
「何だ?」
「マティは確か、物体を通り抜けられたな?」
「もしかしてマティを地面に潜らせて、それの地下の部分を調べようってのか?」
「うむ、そうだ」
俺の問いに、彼は頷いて見せた。
「・・・魔物が魔界に近づくと危険だって、あんた言ってたよな?」
「状況が変わったのだ。見てみろ」
彼は一歩前に出ると石柱を背に、俺と向き合うように立った。
「人界」
短くそう言うと、一歩横に移動する。
「魔界」
一声を挟んでから、反対方向に小さく横飛びする。
「人界、魔界、人界、魔界」
横飛びと調子を合わせながら、彼は右に左に移動を続ける。
右、左、右、左・・・。
「人界人界、魔界魔界、人界、魔界、人界、魔界・・・と、どうだ」
反復横飛びを止めると、彼はどこか自信に満ちた表情で、俺に声をかけた。
「ええと・・・歳のわりに、意外と瞬発力あるなって・・・」
「違う。結界の内外を行き来したというのに、私に影響がほとんど無いということを示したかったのだ」
言われてみれば、今も結界の内側、つまりは魔界側にいると言うのに、ヨーガンの言動に変化は全く見られなかった。
「恐らく、この石柱を中心とする一定距離の魔力の行き来を完全に遮断する効果があるのだろう。だから、あまり魔界側に入り込まないよう気をつければ、石柱の調査ぐらいは出来るはずだ」
「んで・・・俺に、村まで戻って呼んで来いって?」
「ああ。ちなみに私は先ほどの反復横飛びで膝ががたがたになった。四十過ぎて反復横飛びなどするものではないな」
膝を擦りながら、彼はどうともない調子で言った。絶対嘘だ。
だが、俺には断ることは出来ない。ちくしょう。
「わかった、今呼ぼう」
俺の返答に、ヨーガンは怪訝な表情を浮かべた。
「今?」
「マティ、いるんだろ?」
俺の背後、延々と村まで続く切り開いたばかりの獣道に向けて、俺は振り向くことなく呼んだ。
『はぁ〜い?』
頭上に生い茂る木々の葉の間から間延びした声と共に、逆さになった少女の頭が突き出した。
葉を揺らすことなく現れた、髪も肌も真っ白な少女は、マティだった。
彼女を呼んだのはほぼ駄目もとの直感だったが、どうやら当たりだったらしい。
「・・・なんでここに?」
『面白そうだったから』
「・・・いつから気付いていた、アルベルト?」
「いや・・・何となくついてきてるんじゃないかなあって」
「私は村で大人しくしているよう言ったはずだが、マティ?」
『ちょっと脅されたぐらいで、私が村でじっとしてると思う?』
ヨーガンの低い問いに彼女はそう答えると、くすくすと笑った。
「私が近づかないように言ったのは、魔力の影響がどこから表れるから分からなかったからだ!」
珍しくヨーガンが声を荒げるが、彼女の態度は変わらない。
『大丈夫よー、二人の後を距離をおいてつけてたから、影響が出るにしても二人が先でしょ?』
簡単な手品の種明かしでもするように、彼女は言った。
うわあ、この女ひでえ。
「まあ、今回は結果オーライでよしとするが、次からはあまり軽々しく近づくなよ?」
『はいはーい』
ヨーガンはそこで説教を締めくくっると、彼女の返答をはさんで続けた。
「それで、頼みがあるんだが・・・」
『はいはい、分かってるわよ。地下部分の調査なんて、お安い御用よ』
石柱の地下部分を調査して欲しい、という彼の頼みに、彼女は気軽に応える。
マティは枝葉の間から身体を透過させると、地面にふわりと降り立った。
だが、彼女が地面に立ったのは一瞬のことで、そのままゆっくりと落下するように地面に沈み込んでいく。
そして、彼女の頭の先までが地面に沈み込んでから、しばらくの時間が経った。
『・・・・・・ぶはっ!』
呼吸など必要ない身体だというのに、大袈裟な息継ぎと共に、彼女が地面から顔を出した。
「どうだった?」
『長いわこの柱!地下部分が地上の三倍ぐらいの長さがある!』
地面から胸から上を出し、浮き木に掴まるように両腕で身体を支えながら、彼女は声を上げた。
『んで、模様がたくさん!嫌になるぐらい!』
「その模様が重要なのだ。少しずつでもいいから、確実に形や位置を覚えて教えてくれ」
ヨーガンは地面に屈み込み、懐から手帳とペンを取り出しつつ、彼女にそう頼む。
『えぇー?面倒臭い・・・』
「『お安い御用』、じゃなかったのか?」
『うぅ・・・まあ、そうは言ったけれど・・・』
先程の彼女の言葉を引用すると、マティは顔を引きつらせた。
「では、絶対に正確に。記憶力が不安なら、範囲を小さくしても構わない」
『はいはい、分かりました・・・うぅ、面倒臭い・・・』
彼女は渋々と言った様子で頷くと、早くもうんざりした表情で地中に沈み込んでいった。
「ところで、アルベルト」
「ん?」
手持ち無沙汰だったため、何となく近くの木の根に腰を下ろしていた俺に、彼は声をかけた。
「この様子だと、帰りは夜になるかもしれないから、今のうちに村まで戻って、ランプなり何なり照明器具を借りてきてくれ」
どうやら、村からここまでをもう一往復しなければならないことに変わりはない様だった。

――――――――――――――――――――――


その後、俺が照明器具を借りて戻ってくるまでの間に、マティとヨーガンは二人で石柱の地下部分の模様を調べ終えていた。
そして、マティがこつをつかんだ為か、俺が戻ってから日が沈むまでの間に、二人は更に五本の石柱の調査を済ませた。
「いやはや、今日は二人ともご苦労だった」
村長に宛がわれた一室で、ヨーガンは手帳に記された模様を確認しながら、そう俺たちに言った。
「明日は最初からランプ持っていくからな・・・」
『うぅ・・・あたまいたい・・・』
獣道を二往復という地味に疲れる行動にうんざりした俺と、存在しないはずの頭を苛む痛みに顔をゆがめるマティが応える。
「明日もそれなりに早く出る予定だから、今日はもう休むといい」
「言われなくてもそうする・・・」
『あたまいたい・・・』
ヨーガンの労りの言葉に、俺たちはそう返す。
そして、俺は宛がわれたベッドへ、マティは天井の梁の上へ横になった。



「・・・さて」
かすかな蝋燭の明かりの中で、ヨーガンは手帳に記された石柱の模様を『視た』。
手帳と言う平面に描かれた模様が、彼の脳裏で石柱の表面に刻まれたものへ形を変える。
木の板を机代わりに、エルンデルストから持ってきた紙へ、彼は脳裏で描かれる模様を書き記していった。
「・・・・・・」
蝋燭の明かりが照らす室内で、ペン先が紙の上を踊る音だけが響く。
紙面には石柱に刻まれた模様は無論、その変形はおろか、無数の文字の羅列が記されていた。
図の要所要所と文字の羅列が線で結ばれ、文字の羅列から新たな図が描き起こされる。
図が文字の羅列を紡ぎ、文字の羅列が図を導き出す。
やがて、数枚の紙一杯を図と文字が埋め尽くしたところで、彼の手が止まった。
「うん・・・?」
作業の過程で何か引っかかるところがあったのか、ヨーガンは不思議そうな声と共に首を傾げた。
「間違えたか・・・?」
小声で呟きながら、紙に書き記された文字や図を簡単にチェックする。
だが、そこに誤りはない。
「しかし、こんな効果を仕込むわけが・・・」
薄明かりの中、ヨーガンは首を幾度も傾げながら、手帳と紙を見返していた。





――――――――――――――――――――――


二章 ささやかなる願望
「妙なことになった」
オンシュマを訪れて四日目の朝、朝食の並ぶテーブルを俺と挟んで、彼はそう口を開いた。
この数日、『呪いの入り江』まで往復を繰り返した為か、彼の目の下には隈ができていた。
「・・・」
顔を横に向けるが、村長は既に漁に出ており、夫人も奥に引っ込んでいる。
マティはというと、まだ部屋で寝ている。
つまり、この場には俺とヨーガンしかいないということだ。
「妙なこと、って?」
消去法で彼が誰に向けて話しかけているのか推測すると、俺は返答した。
「うむ、石柱のことだ」
彼は頷くと、テーブルの上の皿をどけ、懐から取り出した紙を広げる。
そこには、マティが調べた石柱の地下部分の模様と訳の分からない図、そして判読不能な記号の羅列が記されていた。
「昨日までの三日で、我々は『呪いの入り江』を囲む二十五本の石柱を調べ終えたわけだ」
「あぁ、面倒臭かったね・・・」
朝早くから日没までひたすら地下とヨーガンの間を往復し、最後には『あたまいたい』としか言わなくなったマティの姿を思い浮かべながら、俺は呟いた。
俺自身は、オンシュマまでの往復と、石柱と石柱の間に道を開くほか何もしていない為、どちらかと言うと暇だった。
「それでだ、毎夜石柱の術式を解析していたのだが、妙な事が発覚したのだ」
「へえ?」
「見てみろ。石柱は六角形で、地下部分の側面と底面に模様が刻まれていたわけだ」
俺の気のない返事に気がつく様子もなく、彼は説明を始めた。
「地下に模様を刻むことで風雨による磨耗を防ぎ、何らかの衝撃による破損も防いでいると言う安全策をとっているわけだ
そして、地下部分への術式の描画方式は、垂直投影方式を取っている。
これは、ある一方向からならばちゃんと術式に見えるよう、術式を変形して描画する方法だ。
『呪いの入り江』の石柱の場合、底面から見上げると正確な術式になるよう、術式が変形されている。
で、これが石柱に投影された術式だ」
紙の一枚に記された二重円と記号から成る、いくつかの図を示す。
「この術式は、魔力の流れを完全に遮断する結界の術式を分割したもので、五つ揃って初めて効果を発揮する。
で、こちらが『呪いの入り江』と石柱の位置の図だ」
別の紙に記された、『呪いの入り江』の簡単な地図に、彼の指先が移る。
「入り江と言う地形の構造上、円の一角が途切れているが、そこを避けるように石柱は上手く配置されている。
これにより、『呪いの入り江』は五重の結界で押さえ込まれている、というわけだ」
「うーん・・・」
魔術のことはあまり詳しくないが、ヨーガンの説明で大体は理解できた。
「でも、それのどこが妙なんだ?」
俺はそう問いかけた。
五重の結界を張り、石柱の大事な部分を地中に埋めることで、結界の無力化を出来る限り防いでいる。
少々過剰ではあるが、魔界の魔力を押さえ込むにはそれぐらいの備えは必要だろう。
そう考えながらの俺の問いに、彼は頭を振りながら答えた。
「結界を展開する為の魔力の源が、この土地の魔力なのだ」
「・・・ごめん、もうちょっと俺にもわかりやすく」
「仕方ない、見てみろ」
五つに分割された結界の術式とやらを指し示しながら、彼は続ける。
「魔術にせよ結界にせよ、術式は魔力が注ぎ込まれること出始めて効果を発する。
魔力の源が術者ならば問題はないが、他に源を設定する場合はそれに応じた記述を術式に施さなければならない。
『呪いの入り江』の結界術式では、この部分で魔力を吸い上げ、ここで結界の展開に利用していることがわかる。
ここまではいいな?」
「ああ・・・」
彼が指し示した部分は良く分からないが、言っている内容は分かる。
「だが、魔力を吸い上げる部分の記述が、結界の外側から魔力を導くようになっているのだ。
結界の内側に魔力はいくらでも溢れていると言うのに、だ」
「・・・あ」
彼の言わんとすることに、俺はようやくたどり着いた。
「でも・・・魔界の魔力では他に影響が出る、とか理由があるからじゃ?」
「その点は私も考慮した。だが試算の結果、魔界の魔力を消費することでの影響は全くと言っていいほどないことが分かった。
それどころか、魔力の消費により魔界化の進行を押さえる可能性さえあるのだ」
「じゃあ・・・」
なぜ、このオンシュマをかつて訪れた魔術師は、そんな結界を施したのだろうか?
「私にはこれ以上のことは分からん」
彼は椅子の背もたれに体重を預けると、隈の浮かんだ目を軽く押さえながらそう言った。
「一応、今すぐにでも強固な結界を張ることは出来る。だが、魔術師の意図が分からない以上、下手な結界を張ったら何かよからぬことが起こるかもしれない」
「じゃあ、どうするんだよ・・・」
「それを考えているところだ・・・上手いこと魔術師の日誌でもあればいいのだが・・・」
そう呟くと、ヨーガンは溜息をついた。
村長の爺さんの時代に、あの結界が張られたのだ。残っているはずがない。
ある種の諦念が、俺たちの間を満たす。
「あらあらヨーガン様、大分お疲れのようですね」
台所の方から、村長夫人がねぎらいの言葉と共に姿を現した。
「あぁ、遅くなってすまない。すぐにいただきます」
「いえいえ、ごゆっくりどうぞ」
村長夫人の姿にヨーガンは慌てて食卓の上の紙束をまとめて朝食を片付け始めるが、彼女はニコニコと笑みを浮かべたままそう言った。
だが、続く問いにあわせて、彼女の顔にいくらかの陰りがかかった。
「それで、『呪いの入り江』ですが・・・どうですか?」
「あぁ、調査は順調に進んでいる。上手くいけば強固な結界が張れそうだ」
不安げな彼女を心配させないためか、ヨーガンはつい先程まで身に纏っていた諦念を微塵も匂わせない様子で、そう返した。
「ところで、今まで『呪いの入り江』に張られていた結界は、村長のおじいさんの頃にとある魔術師が張ったそうだが、その魔術師が滞在していた場所など心当たりは?」
「さあ・・・おじいさんなら色々分かるかもしれないけど、わたしにはちょっと・・・」
「そうか・・・」
ほぼ駄目もとの問いとはいえ、頬に手を当て困った様子での彼女の返答に、彼は僅かばかりの落胆の色を滲ませた。
「後は・・・村の物置にすごく古い本が何冊かあるぐらい、かしら?」
「・・・っ!?」
続いた村長夫人の言葉に、彼は椅子をひっくり返しながら立ち上がった。
「あぁ、でもそんなに期待しないで。物置の本は、うちのお爺さんでも勝手に見ちゃいけないことになっているのよ」
突然立ち上がったヨーガンの剣幕に、彼女は慌てて付け加えた。
「・・・それは、私の頼みでも見ることは出来ないのか?」
「ごめんなさいね。そう決まっているのよ」
「そう、か・・・」
意気消沈した様子で、ヨーガンはどっかりと椅子に腰を下ろそうとし、そのまま床に尻餅をついていった。




――――――――――――――――――――――





そして、その日の夜。月明かりの下、俺はオンシュマに並ぶ家々の間を気配を殺して進んでいた。
背中に袋を背負っているため意識して背をかがめ、窓の下を通り抜け、壁や塀に身を隠しながら目的地との距離を縮めていく。
目的は勿論、倉庫に収められた古い本だ。
本来ならば、マティが壁を通り抜けてその内容を暗記して来ればよい話なのだが、『もうものをおぼえるのはいやです』と拒絶したせいで、俺がこうやって出向く羽目になった。
やがて、俺は村の倉庫の傍にたどり着く。
「さあさあ皆さん、ここに取り出したるは何の変哲もない筆・・・」
倉庫の影に身を潜める俺の耳に、離れたところからヨーガンの声が届いた。
『呪いの入り江』に関する途中経過の報告と、滞在させてもらっているお礼として簡単な余興を見せると言う名目で、村人を広場に集めているのだ。
『だがアルベルト、本はなるべく早く、絶対に見つからないように調べてこい』
倉庫の影から、辺りの気配を探る俺の脳裏に、ヨーガンの言葉が浮かぶ。
『私が村人を集めたからと言って、皆やってくるとは限らない。それに私の持ちネタは三十しかないからな』
迅速かつ穏便に。それが俺に求められたことだった。
「・・・・・・」
辺りの気配を探るが、何も感じない。人どころか犬猫すらいないようだ。
俺はそっと倉庫の影から忍び出ると正面に回りこみ、扉の前で屈む。
そして、手の中に握りこんでいた針金を、鍵穴に差し込んだ。
エルンデルストに向かうまで、冒険者の真似事をしていた為、簡単な錠前程度ならこれで開けられるはずだ。
「・・・・・・・・・」
指先の感覚に意識を向けたまま、しばし鍵穴を探る。
すると、軽い手ごたえと共に扉の中の機構が動き、錠が外れた。
「よし・・・」
久々の開錠作業だったたが、思ったより腕は錆びていなかったようだ。
俺は針金を懐に入れると、扉をそっと開いて、その隙間から倉庫に入り込んだ。
後ろ手に扉を閉めると、辺りは完全な闇に包まれた。
あれだけ夜空には星と月が輝いていたと言うのに、倉庫の中には僅かばかりの明かりすらない。
だが、問題は無い。むしろ好都合だ。
外があれだけ明るいのに、中がこんなに暗いということは、壁に穴が開いていないという証拠だ。
だとすれば、倉庫の中で明かりをつけたところで、外から見えることもない。
懐から蝋燭を出すと、俺は火を灯した。
薄ぼんやりとした明かりに、棚や木箱が照らし出される。
「えぇと・・・」
棚を見回すと、すぐに目当てのものは見つかった。
革のベルトで束ねられた、やたら古い本だ。
その表面に積もって埃を払い落としながら俺はそれを手に取り、ベルトを外して適当な一冊を開く。
倉庫と言う冷暗所に保管されていたせいか、あまり色褪せはない。だが、そこに綴られた文章と図版は、俺には全く理解できそうにないものだ。
しかし、内容を理解できずとも、それが魔術に関わる品であると言うことは分かった。
俺は本を閉じると、背負っていた荷袋にそれを収めた。
そして予め袋に入れておいた数札の本を取り出し、ベルトで束ねなおすと、それを元々そうだったかのように棚の上に置いた。
袋を抱え挙げ、蝋燭を吹き消し、扉を薄く開く。
「さあさあ今度は右手でウニ、左手で栗を描いて見せよう・・・」
遠くから喧騒と共にヨーガンの声が聞こえる。
そのほかに感じられるものは何もない。
どうやら、まだ気付かれていないらしい。
俺はそっとドアを押し開くと、倉庫の外に出ていった。


――――――――――――――――――――――






「それで、首尾はどうだった?」
倉庫を出て何気ない様子で村の広場に向かい、ヨーガンの余興の残りを見てから、村長の家の部屋に戻るなり、彼はそう問いかけた。
「あぁ見ろ、ばっちりだ」
荷袋から取り出した数冊の魔術書を掲げながら、俺はそう返す。
「代わりの本は置いてきたか?」
「ちゃんと、この本が置いてあった様にしてきた」
「倉庫の扉に鍵は掛けたか?」
「ばっちりな」
「ならいい」
一通り確認を終えると、ヨーガンは俺から本を受け取り、早速一冊広げた。
「ふむ・・・やはり、これは結界製作の為の覚え書きのようなものだな」
並ぶ文章と、所々に記された図形のいくつかを雑多確認しながら、彼はそう呟いた。
「手がかりはありそうか?」
「分からん」
ページを捲りながら、彼は続ける。
「これが単に、結界を構築していく過程を記録しただけのものなら、余り役には立たないだろう。
だが、ほんの走り書き程度でも、魔力の源を土地の魔力にした理由があれば、あるいは・・・」
不意に、ヨーガンのページを捲る指と、口が止まった。
「ん?」
突然言葉を断ち切ったことに対し、俺が視線を向けると、彼は本を開いたまま動きを止めていた。
「どうした?」
「これは・・・なかなか厄介なことになった」
「読んだら死ぬ呪いでも描いてあったのか?」
「そっちの方が、まだましな気がするな」
俺の軽口に苦い表情で返すと、彼は続けた。
「結界の完成図があったんだ」
「で、どこが厄介なんだ?」
「・・・見てみろ」
彼がそう言いながら、本を俺に向けて突き出した。
そこには『呪いの入り江』の地形図と、二十五箇所に分割された五重の結界の術式が描かれている。
だが、そこにはもう一つ記されているものがあった。
「ヨーガン、これって・・・」
俺が見たのが、ただの汚れであって欲しいと言う願いを込めた言葉に、彼は頭を振った。
「どうやら、事態は相当面倒なことになっているらしい」
入り江の中央、結界の中心に当たる位置に記された、結界のものとは異なる形の術式を示しながら、彼はそう呟いた。

――――――――――――――――――――――






翌日、俺はなぜか貸してもらった小船を漕いでいた。
「魔王の交代に伴い、魔界を満たしていた魔力が変質した」
『うんうん』
波打ち際でしばらく練習したところ、危なっかしくはあるがそれなりに船を操れるようになった。
「そして魔力の変質に伴い、魔物も今の姿に変化していったことは周知の事実である」
『ああ、聞いたこと何度もあるわ』
ふと顔を横に向ければ、着衣のままでも泳いですぐにたどり着けそうなところに岸が見えた。
「新魔王の魔力の影響により、魔物は凶暴性をいくらか失い、代わりに知性を得た」
『スケルトンとか、ゾンビのことね』
すぐ傍にあるのは、登るにはきつい岩壁だったが、伝っていけばすぐになだらかな場所に出られるはずだ。
「だが新魔王が淫魔のため、過剰な魔力は魔物から逆に知性を奪い去り、性的衝動を満たす為の凶暴性を発露させる」
『あー・・・言われてみればそうよねー』
つまり、うっかり船が転覆したとしても、少々泳いで岩壁沿いに進めばオンシュマまで戻れると言うことだ。
「逆に言えば、魔界化した土地の凶暴な魔物も、魔界から引きずり出して魔力の影響を弱めれば、会話できる程度にはなるはずだ」
『おぉー』
出来れば転覆しないように、との願いを込めながら、俺は首を捻って船の進路上に浮かぶ渦巻く雲を見上げた。
そう、目的地の『呪いの入り江』上空で渦巻く、魔界の雲をだ。
「アルベルト、聞いているのか?」
「え?あぁ、うん」
ヨーガンの呼び声に、俺は顔を正面に向けた。
俺の向かい、小船に同乗していたヨーガンと彼の頭上に浮かぶマティが、腰を下ろしたまま若干怪訝な様子で俺を見ている。
『聞いてなかったでしょ、最後のほうよそ見してたし』
「まあ、『呪いの入り江』を前に緊張していると言うことだろう。とにかく、私が言いたいのは、『呪いの入り江』に近づくから油断はするな、と言うことだ」
ヨーガンのまとめの言葉に、俺は溜息をついた。
昨晩、ヨーガンが魔術師の覚え書きを解析したところ、『呪いの入り江』の中央に描かれた術式は、魔界から何を召喚する術式である可能性が高いことが分かった。
銃数日かけて解析すればより正確な内容が分かるのだろうが、村人に「目処が立った」などと宣言した手前、ずるずると事態の解決を先延ばしにするわけにもいかない。
一見すると八方塞のようにも見える事態だったが、ヨーガンは画期的な解決法を思いついた。
最も、それが最前とは言い難かったが――
(全く、『本人達に聞きに行く』って、どういう考えしてんだか・・・)
舟を漕ぎながら、俺は内心ぼやいた。
なんでもヨーガンが言うには、魔界の魔物の多くは魔界の魔力に意識を侵されているだけなので、魔界から距離を置いたところに連れて行けば多くの場合正気に戻るらしい。
そして、魔物の寿命は人間のそれより遥かに長い為、結界が張られた後何が起こったのか聞きだせる可能性がある、とも彼は言っていた。
なんとまあ斬新な解決方法だろう。
肝心の魔物の捕獲担当が俺でなければ、素直に感心してやりたい考えだった。
「さ、ついたぞ」
『呪いの入り江』の入り口近くで、ヨーガンがそう口を開いた。
俺は櫂を操り、船の速度を落とすと、波に完全に船を任せた。
このままでは沖に流されるだろうが、船を止めておくのはごく短い時間だ。問題は無い。
「それでは、確認を行う」
櫂を船に引き上げ、代わりに船に持ち込んでいた剣を握った俺に、ヨーガンが声をかけた。
「捕獲するのは、予定通り一体だけ。相手が船に上がろうとしてきたら、そいつを失神させる」
船の上どころか、今朝方から延々繰り返された作戦の内容を、俺は暗誦する。
「マティは?」
『絶対に船より向こうに行きませーん』
「相手が複数の場合は?」
「全力で舟を漕いで逃げる」
「船がひっくり返されそうになったら?」
「・・・ヨーガン先生が頑張るから、だいじょーぶです」
「よし、万全だ」
一瞬の間を挟んでの俺の最後の返答に、満足げに彼は頷いた。
「じゃあ始めるぞ」
「ああ・・・」
俺は短く応じると、『呪いの入り江』に向き直り、片膝をつく姿勢になった。
そして、剣が収まった鞘を左手で握り、柄に右手を添える。
そのまま、待つ。
「・・・・・・」「・・・・・・」『・・・・・・』
俺とヨーガンとマティの三対の目が、くっきりと色の違う海水の境を捉えたまま、しばしの時が流れた。
程なくして、海水の境目を越えて、それなりに大きな影が入り江の外へと出る。
「・・・っ!」
『出た!』
俺の背後でヨーガンが息を漏らし、マティが声を上げた。
だが、俺はただ一人沈黙を保ったまま、じっと影を見つめていた。
影は海中で浮き沈みしている為か、大きくなったり小さくなったりしながら、次第に船へ近づいている。
「・・・・・・」
右へ左へ揺れながら距離を詰める影を見つめながら、俺は静かに剣の柄に添えた指に力を込めた。
そして影が舟のすぐ傍に来た瞬間、すうっと小さくなり、消えた。
『来・・・!』
マティが短い言葉を最後まで紡ぐより先に、海水面が弾けた。
潮水が飛び散り、俺の顔を打ち据える。
だが、俺の両目は空中に躍り上がった影を捉えていた。
「―――っ!!」
吐息か、人の耳では捉えられぬ声か。
どちらかは分からない何かを発しながら、それは自身の一番近くにいた、俺に向かってきた。
それの腕が伸び、俺を捕らえようと肩に迫る。
だが、同時に俺も腕を振った。
握っていた鞘から、刀身がすらりと身を現し、柄を握る俺の右手を追うように銀色の軌跡を描く。
そして、鞘走らせた剣の腹が、海中から躍り出た何者課の顎を打ち据えた。
「―――・・・・・・」
それから放たれていた、声とも吐息ともつかぬものが途切れ、俺を捕らえようとしていた腕があらぬ方向を向く。
そして海中から飛び出た勢いそのままに、それは船の中に飛び込んだ。
「よし!気は失っているな!?」
船中に突っ伏す青い肌と青黒い髪の女を確かめると、ヨーガンは声を上げた。
「離れるぞ!」
予備の櫂を手に取るヨーガンの言葉に俺は剣を鞘に収めると、船に引き上げていた櫂を手に取り、舟を漕ぎ始めた。
並みに少々流されてはいたものの、船はすぐに向きを整えると、二人分の力で進み始めた。
「急げ!急げ!」
「言われ、なくても、分かってる!」
急かすヨーガンに応じつつ、俺は全力で舟を漕ぎ続けた。
渦巻く雲と、変色した海水が、次第に離れていった。


――――――――――――――――――――――


俺たちはしばらく舟を漕ぎ、岩壁に横付けして船を止めた。
俺たちの一生懸命さとは裏腹に、入り江からの追っ手はない。
どうやら、まだ彼女がいなくなったことに気が付いていないようだ。
船底に横たわっている青黒い髪の女を見下ろしながら、俺はそう考えた。
無論、そこにいるのはただの女ではない。
その全身は青い肌に覆われており、腕や足は半ばまで鱗に包まれている。
しかもつま先には指の変わりにひれが生えており、尻からは魚を思わせる尾が伸びていた。
特徴からするに、恐らくネレイスだろう。
話に聞いたことは何度もあったが、見るのは初めてだった。
「よし、では始めるとするか」
失神した青い肌の女の傍にかがみつつ、ヨーガンが漏らした。
『んで、本当に大丈夫なの?今は失神してるけど、一応魔界の魔物でしょ?』
「うむ、実際のところ、今起こすと襲われるかもしれない」
「んじゃどーすんだよ」
マティの問いに、考え無しとしか言いようのない返答をした彼に、俺はそう突っ込んだ。
「何、問題は無い。魔力を吸い出す術式を彼女の身体に書き込めば、十分な時間が経ったに等しい効果が得られる」
『そんな便利なものがあるの?』
「ああ、本来は結界や大規模魔術の術式に使うものだ。地面に描けば土地の魔力を消費し、人体に描けばその者の魔力を消費する」
「それで、そのネレイスに描いて、魔力を吸い出そうって訳か」
「ああそうだ。もっとも術式が複雑で描画に時間がかかるから、失神している相手にしか使えないがな。それに・・・」
懐から筆とインク壺を取り出しながら、彼は応じるが、最後でその言葉を濁した。
「それに?何だ?」
「問題がないわけでもない」
「問題?」
「うむ、知っているとは思うが、ネレイスは海で溺れたものが変じた魔物だ。理性を侵している魔力が抜ける分には構わないが、あまり時間をかけるとネレイスをネレイスたらしめている魔力まで吸い出してしまうかもしれない」
「つまり・・・溺死体が一つ出来上がる、かも?」
「・・・うむ」
俺の確認に、彼はゆっくり頷いた。
「・・・分かったヨーガン。完璧な魔術の制御を期待してる」
「そうプレッシャーをかけるな。まあいい・・・始めるぞ」
彼は筆を手に取ると、仰向けになったネレイスの腹に、その先端を触れさせた。
「・・・・・・」
無言のままヨーガンが筆を操り、ネレイスの腹に術式を描いていく。
円と直線と文字が組み合わされ、形を成していく。
そして、最後に仕上げとばかりに書き加えられた大きな円が術式全体を囲むと同時に、模様がぼんやりと光を放ち始めた。
「っ!?」
「問題ない。魔力の吸出しが始まっただけだ」
突然の発光に思わず身構える俺を制しつつ、彼はネレイスから目を離さなかった。
彼に倣って俺も目を向けると、既に魔力の吸出しの影響が現れている様子がめに入った。
真っ青と言ってもよかった肌の青みが徐々に引き、手足の末端を包む鱗が少しずつ縮んでいる。
どうやら、魔力の減少による影響は意外と大きいらしい。
こうして見ている間にも、青黒い髪の間から覗く突起が縮んでいく。
そして、彼女の肌の色が少々青ざめた人のそれと同じ程度にまで薄まった時、ヨーガンが動いた。
「・・・・・・よし・・・!」
短く呟くと、彼は手を伸ばしてネレイスの腹を拭った。
インクで描かれた術式の一部が形を崩し、直後発光が納まる。
同時に、目に見える速度だった肌の青みの薄まりが止まった。
「これでいいはずだ・・・アルベルト、起こしてやれ」
「へいへい」
狭い船のうえでヨーガンと位置を入れ替えると、俺はネレイスの背中に手を差し入れて軽く抱え、気付け代わりに背骨の一点をぐいと押し込んでやった。
「っ!?」
腕の中の青ざめた女が、短い吐息と共に目を見開いた。
「気が付いたか」
船尾の方に移動していたヨーガンが、俺の肩越しにネレイスを見下ろしながら口を開いた。
「ここ、は・・・?わたし・・・」
「ここは君の住んでいた入り江のすぐ近くだ。君と話がしたいから、こうして連れ出させてもらった」
混乱した様子の彼女に、彼はそう説明した。
「え、あ、うぅ・・・」
ネレイスは何事かを返そうと口を開いたが、すぐにこめかみに手をやり、低く呻いた。
剣で失神させた時の痛みが残っているのだろうか?
「大丈夫か?」
「う・・・はい・・・もう、大丈夫、です・・・」
俺の声に彼女はそう返すと、介抱する俺の腕に手を添え、やんわりと押した。
どうやらもう支えは要らないようだ。
俺はそっと両腕を離すと、彼女から身を離した。
「私達は、あの入り江について調べている者だ。そこで、あそこに住んでいた君にいくらか聞きたいことがあるのだが・・・大丈夫か?」
ネレイスが落ち着いたところで、ヨーガンが再び問いかけた。
「はい・・・目を覚ましたときは少々混乱しましたが、こんなに思考がすっきりしたのは久しぶりです。分かる限りのことであれば、なんでもお答えします」
彼女は流暢に、いくらかの知性を感じさせる様子でそう返す。
聞くところによると、ネレイスは魔物の中でも特に理性的とは言いがたい方の部類だそうだが、目の前の彼女からはそんな評価は真逆の印象を受けた。
流石は魔力の減衰の効能、と言ったところか。
「問題ない。分かる範囲で構わない」
ヨーガンはそう彼女に告げると、質問を放った。
「君は、今の姿になる前のことを覚えているか?」
「ええ、もちろん覚えています」
何の造作もないことのように、彼女は頷いた。
「それでは今の姿になるまで、どこで何をしていたか、教えてくれるか?」
「はい、あの入り江で穏やかな日々を送っていました」
「あの入り江とは、ついさっきまで君がいた、あの?」
「ええ、でもわたしが覚えているのは、あんな渦巻く雲が現れるより前のことですが・・・」
申し訳なさそうな彼女の返答に、ヨーガンがちらりと目をこちらに向けた。
一見すると冷静にも見える表情だが、その目にはありありと一つの感情が浮かんでいた。
『当たりだ』
渦巻く雲が発生したのは、『呪いの入り江』が魔界化してからのことだ。
だが、彼女は渦巻く雲が生じるより前のことを覚えているという。
つまり、彼女は『呪いの入り江』に結界が張られ、魔界化する瞬間に立ち会っている可能性があるのだ。
「それでは・・・あの雲が現れた瞬間は?」
大当たりを釣り上げた、という感情を押し殺しながら、彼は努めて冷静な様子で問いかけた。
「覚えています。入り江を囲む崖の上から光の柱が空に向かって伸び上がりったのを見ました」
彼女は異様に具体的な返答をすると、目を伏せながら続けた。
「その直後、入り江の中央の岩礁から何かが噴き上がりました。
何が吹き上がったのかは分かりませんが、それを浴びると同時にわたしの体がこの姿に・・・」
「岩礁から噴出したのは魔力だろうな・・・」
そして、魔界の魔力によって彼女はネレイスの姿にされた、と言うことか。
ネレイスの返答とヨーガンの呟きから、俺はそう判断した。
「そして、わたし達の全てがこのような姿になる頃には、入り江の上にあの渦巻く雲が現れ、わたし達も正気を失いました。後にあるのは、延々と続く混濁です」
目を伏せたまま、彼女は頭を振りつつ続けた。
「考えるより先に体が動き、覚えるより先に考えを忘れる。
外からの刺激に対して、わたし達は反射的に生活を送っていました。
もはやそこにわたし達の思考はなく、ただこの肉体があるだけです。
さっきまではなんとも感じていませんでしたが、今はまたわたし達が消えてしまうことが恐ろしくてしょうがありません・・・」
「正気の消失に対する恐怖か・・・」
ヨーガンは呟くと、彼女に向けて続けた。
「それなら問題はない。君の肉体を支配し、思考を奪っていた魔力は私が吸い出した。
入り江に戻らない限り、もう君の意識が混濁するようなことはないはずだ」
「そうだったのですか・・・それは誠にありがとうございます。
でも、わたし達はあの入り江に帰らねばなりません」
『え?何で?』
頭を振る彼女に、沈黙を保っていたマティが問いかけた。
「わたし達は、互いに近くにいなければ生きていけないのです。
皆で相談することが出来れば、あの入り江から外に出て、元の姿に戻ることも出来たのでしょうが、正気を失った今となってはそれも叶いません。
わたし達が正気を失い、あの入り江に止まっている以上、わたし達にはあそこに戻るほか生きていく術はないのです」
彼女は伏せていた顔を上げると、ヨーガンを見据えながら続けた。
「お願いです。どうか私にしたようにして、わたし達の正気を取り戻してくださいませんか?
お礼として、わたし達に出来る限りのことをします。
ですから、どうか、どうか・・・わたし達を、返してください・・・」
両目に涙を浮かべ、震えながらの懇願を、ヨーガンは静かに聞き届けた。
「・・・分かった、引き受けよう・・・」
「本当ですか!?」
しばしの間を挟んでのヨーガンの返答に、彼女は顔を輝かせた。
「あぁ、だが君にしたように一人一人処置するには時間がかかる。
だからあの入り江を満たす、君達をそのようにした原因を絶つ事で解決しよう」
「あぁ・・・ありがとうございます・・・ありがとうございます・・・」
「まだ私は何もしていないから礼には及ばない。だが、必ず君達は助けよう。
それまで入り江で待っていてくれるか?」
「・・・わかりました」
彼女は一瞬の間を置いてから、大きく頷いた。
そして船の縁に指をかけると、身を乗り出して海に飛び込んだ。
船が傾き、飛沫が飛び散る。
そして、いまだ波紋の残る海水面に、ネレイスの頭が浮かび上がった。
「それでは、今回は入り江へ戻ります。ですが、どうか必ずわたし達を元に戻してくださいね・・・」
「ああ、約束する」
「必ず、必ずですよ」
「ああ、必ずだ」
ヨーガンの言葉に何か感じたのか、彼女は口を閉ざすと、頭を一つ下げて船から離れた。
そしてネレイスは船から遠ざかりながらも、何度も何度も振り返りつつ、入り江へ向けて泳いでいった。
「・・・よし、戻るぞアルベルト」
入り江へと戻っていくネレイスの頭を見送ってから、彼は姿勢を戻しながらそう口を開いた。
「ああ、別にいいけど・・・いいのか?あんな安請け合いしちまって」
『そーよ、村の連中には適当なこと言って入り江に近づけさせないようにすりゃいいけど、ネレイス達はもろにあそこに住んでんのよ?』
引き上げていた櫂を海面に下ろしながらの俺の問い掛けに、マティがそう質問を上乗せした。
「何、問題は無い」
ヨーガンは別にどうと言うこともない、と言った様子で返す。
「さっきの問答で、大分目処が立った。後は術式を構築し、発動するだけだ」
「だけだって・・・えらく簡単に言うな、おい」
「うむ、もう結界の発動すら必要ないことが分かったからな。我々がすべきことは、元に戻すことだけだ」
『・・・どういうこと?』
舟を漕ぐ俺の傍で、マティが首をかしげた。
「簡単なことだ。魔術師の覚え書きに、結界の中央に術式があったのを覚えているだろう」
「ああ」
何かを召喚する術式だ、などと彼が騒いでいた様子と共に、俺は術式の形を思い出した。
「あれが、魔界から何かを召喚する術式だと言うのは、簡単に把握できた。
だが問題なのは、何を召喚したかだった。
魔術師とは別の何者かが、大量の魔物かダークマターを呼び出し、土地を魔界化したのかと最初は思っていた。
だが、先程のネレイスの言葉で分かった。
魔術師は結界を張ると同時に、魔物などより簡単かつ効率的に土地を魔界化させるものをあの入り江に召喚したのだ」
『つまり・・・』
「魔界の魔力、そのものか?」
「そうだ」
俺とマティが同時に至った答えに、彼は大きく頷いて見せた。
「いや待て、なんかおかしくないか?魔術師はオンシュマの村人に頼まれて、魔界化しかけていた『呪いの入り江』に結界を張ったんだろ?」
「魔界化しかけていた、ということ自体が魔術師の嘘だったのだろう」
『でも、何の目的で?』
「はっきりとは分からん。だが、魔界化した土地の動植物は、潤沢な魔力を蓄えこんでおり、魔術の実験に用いることが出来る。
恐らくは、そう言った魔力を蓄積した動植物を、安定的に採集できる土地を作ろうとしていたのかも知れん。
だとすれば、『呪いの入り江』を囲む結界が魔界の魔力を消費しないわけも分かる」
「うーん・・・」
櫂を操りながら、俺は呻いた。
確かに先程のネレイスの言葉や、魔術師の覚え書きなどから考えると、ヨーガンの説が正しいように思えてくる。
だが、俺は何となく魚の小骨が喉の奥に引っかかったような違和感を覚えていた。
「とにかく、土地の魔界化の原因が岩礁に設置された召喚術式だと言うのがわかれば、対策は簡単だ。
ネレイスのときと同じように、土地を満たす魔力を魔界へと吸い出してやればいいのだ」
『そう簡単にいくの?』
「ああ、召喚術式が既に存在するからな。一部分を修正してやれば、簡単に召還術式に変更できる」
「そう上手くいくかねぇ・・・」
「何を言う、私が誰だか忘れたか?」
舟を漕ぎながらの俺の呟きに、ヨーガンは不敵な笑みを浮かべながら続けた。
「『月を見るもの』の団長、ヨーガンだ。術式の修正ぐらい朝飯前だ」




――――――――――――――――――――――


三章 小さき者達の願い
船がオンシュマに戻るなり、ヨーガンは村長宅の宛がわれた部屋に篭り、術式の解析とやらを始めた。
持ち込んだ紙にペンで何事かを記し、書き連ねていく。
そして書き散らした過去の紙同士を照らし合わせながら、新たに何かを綴っていく。
文字と記号、図版に数式が連なる数十枚の紙は、俺には全く理解の及ばないものだった。
だが、彼が必死に何かを作り出そうと言うことは分かった。
「ヨーガンさんは、一体何を・・・?」
部屋の前に椅子を起き、見張りをする俺に尊重がそう問いかける。
「『呪いの入り江』を浄化する方法を発見し、今その実行方法を考えているところです」
俺はヨーガンを煩わせないよう、知っている限りの知識でそう返答し、邪魔しないようにとやんわり追い返した。
幸い、村長は『呪いの入り江』が浄化されると言う点に注目し、追い返されたことには何も感じていない様子で、僅かに嬉しそうに部屋から離れていった。
『ねー、アル』
村長の背中が視界から消えたところで、ふとマティが口を開いた。
「何だ?」
『魔術師が「呪いの入り江」を魔界にした理由って、何だと思う』
「そりゃ、ヨーガンの言ってた『魔力を溜め込んだ動植物の採集』が目的じゃないのか?」
先日、小船の上でヨーガンが言っていたことを俺は反芻した。
『でも、本当にそれだけかしら?』
「・・・どういうことだ?」
魔術師には他に理由があった、と言わんばかりの彼女の言葉に、俺は聞き返す。
『んー、別に確証があるわけじゃないけど、なんか引っかかるのよねー』
スカートの下から伸びる両脚を煙の塊に変じた幽霊少女が、空中に腰掛けながら言葉を続ける。
『ほら、私達ってイカサマ博打で路銀稼いでたでしょ?だから私、相手が本当の子といってるかどうかって何となく分かるような気がするのよ』
「気がするって・・・あのネレイスが嘘でも吐いてたってか?」
えらくあやふやな判断を基にした彼女の予測に、俺はそう返した。
『いや、私は別にあのネレイスが嘘を吐いているって言ったわけじゃないわよ。むしろ嘘を吐いた様子は全くなかったわ』
だが、彼女は手を振りながら俺の言葉を否定すると、首を捻って見せた。
『でも、何か引っかかるところがあるのよねー』
「何か、と言われてもなあ」
ネレイスと話をしてそれなりに経つ。
会話の大まかな流れは覚えていても、細かい部分など覚えてはいなかった。
『まあ、良くないことが起こらないといいんだけどね』
「せいぜい祈るしかない、ってか」
全く持って無力だ。
俺は胸中でそう続けながら嘆息した。
「出来たぞー!!」
己の無力さに苦笑していた俺の背後から、ヨーガンの声が響いた。
その直後、蹴破るような勢いで扉が開き、紙を握った彼が飛び出してきた。
「やっと出来たぞ、アルベルト!マティ!」
隈を顔に浮ばせながらも、彼は珍しく顔に笑みを湛えていた。
「術式から構造式を書き起こしてから構造式に手を加えると言う手間はあったが、ようやく出来上がったぞ。
術式外部に追加の術式を加えることで、構造式上では魔力領域成分が正負逆転するように・・・」
「あぁ、分かった分かった」
紙を広げ、興奮した様子で詰め寄る彼を押し留めながら、俺は続けた。
「つまり、そいつで『呪いの入り江』の魔力を魔界に押し戻せる、って訳だろ?」
「うむ、そうだ」
俺の解釈は正しかったらしく、彼は大きく頷いた。
『それじゃあ、その術式を使えばいいのね?』
「そうだ。だが、一つ問題がある」
マティの言葉にも彼は頷いたが、直後その表情にかすかな陰りが差した。
「問題?」
『何よ?』
ほぼ同時に、俺たちは口を開いていた。
「実は、だ・・・この術式は結界内部で起動させなければならないのだ・・・」
「ああ、言われてみればそうだな」
ヨーガンの言葉に、俺は『呪いの入り江』を囲む結界のことを思い出した。
『呪いの入り江』は、魔力の流れを完全に遮断する結界によって包まれている。
つまり、結界の外でこの魔力召還魔術を発動したところで、『呪いの入り江』を満たす魔力が減るわけではないのだ。
「まあ問題といっても、魔界に入って魔術発動するだけだろ?そんぐらい仕方ない」
「まあ、確かにそうだが・・・」
「何だ?他に何かあるのか?」
口ごもるヨーガンに、俺は先を促した。
「ああ、確かにこれは結界の内部で発動させないと意味はないのだが、結界の中央にある魔力召喚術式のところまで行かないと、発動すらしないのだ」
『へ?何で?』
「私は単一の術式から成る魔力召喚術式に補助術式を追加することで、魔力召還術式となるよう設計したのだ。
だからそもそもの召喚術式がなければ、補助術式には何の意味もない」
「なんて面倒なことを・・・」
結界の中央まで行く、という面倒臭い仕事が増えたことに、俺は溜息をついた。
「仕方ないだろう。一応術式の写しがあるから、結界のぎりぎり縁での召還術式の発動も可能だが、それでは肝心の召喚術式が生きたままだ。
いくら魔力を魔界に押し戻したところで、中心から新たな魔力がどんどん供給されるだけだ」
『他に方法はないの?』
「ないこともない。魔力召喚術式を破壊し、あとは自然に任せて徐々に魔力が減衰するのを待つ方法だ」
マティの問いに代替案を返すが、彼は両腕を軽く広げながら続けた。
「もっとも、この場合も結界の中心まで行かなければならない、と言う点に変わりはないがな」
「壊すにせよ書き換えるにせよ、魔界突入は確実ってか・・・」
ぼやく俺の肩を、ヨーガンがぽんと手で打った。
「うむ、宜しく頼むぞ、アルベルト」
『頑張ってね、アル』
二人の言葉に、俺は溜息で返すほかなかった。


――――――――――――――――――――――



俺たちが『呪いの入り江』へ向けて、オンシュマから船で出たのはその翌朝のことだった。
夜と昼の切り替わる朝の時間、風が止む凪を狙ってのことだ。
この時間を選んだのは、波はあるが風がない分船の揺れは小さいため、後々の作業が楽になるからだ。
俺とヨーガンは、先日と同じルートで小船を漕いでいた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
これからの大仕事への緊張の為か、俺たちは黙り込んでいた。
マティがいれば少しは会話もあったのかもしれないが、今回は本当に魔界に入り込む為、彼女はオンシュマで留守番をしている。
「さて、アルベルト」
渦巻く雲が近くなってきた頃、ヨーガンがふと口を開いた。
「もうすぐで『呪いの入り江』だ。念のため、やることを確認しておくぞ」
「あぁ」
櫂を操りながら、俺は短く返した。
「これから『呪いの入り江』に侵入し、中央の岩礁を目指す」
「岩礁に着くまではヨーガンが舟を漕ぎ、俺がネレイスの撃退をする。だったな?」
「うむ」
俺の確認に頷くと、彼は続ける。
「岩礁に上がった後は、入り江の中央に配置してある召喚術式を見つけ出し、私が手を加える。
一応岩礁とはいえ陸上なのでそこまでないとは思うが、その間もネレイスの対応はお前にしてもらうことになる」
「あぁ」
傍らに置いた一振りの剣に視線を落としながら、俺は答えた。
目を上に上げると、『呪いの入り江』上空を覆う渦巻く雲の縁が、頭上に掛かりつつあるところだ。
『呪いの入り江』は近い。
「さて、アルベルト、もうすぐだ」
俺の心中を読んだかのように、ヨーガンが声をかける。
「あまり怪我をさせたくはないが・・・頼んだぞ」
「ああ、任せておいてくれ」
櫂を船に引き上げると、俺は極力船を揺らさないよう注意しながら立ち上がった。
切り立った岩壁と岩壁の間に、はっきりとした海水の境目が見える。
「では・・・いくぞ」
やがて船が向きを変え、正面に海水の境目を見据えながら、少しだけ勢いを増して真っ直ぐ進み始めた。
海水の境目、つまりは魔界の境界が徐々に狭まっていく。
「・・・・・・」
辺りに注意を配りながら、俺は剣の柄に手をかける。
そして、船首が境目を通り抜け、すぐに船全体が『呪いの入り江』に入り込んだ。
最初に俺が感じたのは、こんなものか、と言うあっけなさだった。
確かに頭上では雲が渦巻き、足元の板一枚下では異様な色に濁った海水がうねっている。
だが、それだけだ。
甘ったるい匂いが漂っているわけでも、辺りに溢れた魔力に体調が急変するわけでもなく、磯の香りを孕んだ大気が辺りを満たしているだけだ。
(・・・・・・いや・・・)
そう判断したところで、俺は胸中で小さく頭を振った。
(少し影響はあるか・・・?)
腹の奥に生じた、ごくごく小さな熱に俺は認識を改めた。
どうやら男相手でも、魔力は肉体を侵食するらしい。
そう考えている間に、俺の背後から声が届いた。
「アルベルト、真正面だ」
彼の言う通り、船首の向こうに影がいくつか海面に映っているのが見えた。
「分かってる」
ヨーガンの忠告に短く返すと、俺は鞘から剣を少しだけ抜く。
だが、そのまま正面に迫りつつある影を待つわけではなく、身を捻って船尾を視界に収めた。
櫂を握り、疑問符を浮かべながら俺を見上げるヨーガンの姿が目に入る。
俺はそのまま、勢い良く握っていた剣を振りぬいた。
「っ!?」
ヨーガンが一瞬身をすくめるが、刀身は彼の頭上を通り過ぎてその背後、船尾から船に上がりこもうとしていたネレイスの側頭部を打ち据えた。
剣の腹を打ち当てられたネレイスの体がぐらりと傾き、海中に没していく。
櫂が海面を打つ音に紛れていた、かすかな水音に気が付かなかったら危なかった。
だが、ほっと息をつく間もなく、今度は船主側から水音が響いた。
「――っ」
短く、勢い良く息を吐きながら、捻っていた身を戻しつつ上半身を大きく回す。
上半身の動きに肩が引きずられ、二の腕が後を追い、下腕、手へ勢いが伝わる。
そして鞭のように加速された掌に収まる木剣が、船首側に居たネレイスの頭部に叩きつけられた。
木剣の刀身がネレイスの頭部を揺さぶり、意識を外へと追いやる。
だが、俺は海中に倒れこんでいくネレイスから視線を引き剥がすと、今度は右舷に指をかけたネレイスに狙いを定めた。
腕を引き、木剣を手繰り寄せ、一気に突き出す。
丸められた木剣の切っ先が彼女の顎の下、鎖骨の間辺りに食い込んだ。
「かはっ・・・!」
彼女の口から短い息が漏れた直後、その両の目がぐるりと裏返った。
これで三体。だが、船首の向こうに見える岩礁までの距離は、まだ大分あった。
「・・・くっ」
あまり進んでいない、という負の思考を捨て去り、俺は木剣を振るうことに意識を集中させた。
こうしている間にも、ネレイス達は波間から顔を覗かせ、船に這い上がろうと酔ってきているのだ。
左舷の一体のこめかみを打ち抜き、船尾の眉間に切っ先を突き込む。
だが、這い寄るネレイス達と同じくらいの勢いで、俺は彼女らを退けていた。
右舷の首筋を打ち据え、船首にかじりつく一体の顎を跳ね上げる。
セーナさんから教えてもらった、人型の生物の急所に面白いように木剣が入っていく。
右舷に並ぶ二体の鼻と唇の間に刺突を打ち込み、振り向きざまに左舷の縁を握る手を打つ。
なるべく怪我をさせるな、と言うのはヨーガンの注文だったが、それでも流血や打撲は免れない。
それでも命に関わらぬ程度の負傷に留めるよう注意しながら、俺は木剣を振るい続けた。
片手で握った木剣を振るい、手加減した勢いでネレイス達に当てる。
セーナさんの元で繰り返していた全力の素振りのおかげで、疲労はあまりない。だが、それでも俺はじんわりと汗ばみ、呼吸と脈拍が上がりつつあった。
「・・・くっ・・・」
腹の奥に生じていた熱が、呼吸や脈拍に呼応するように大きくなっている。
強い酒を飲んだ時のような、独特の熱にも似たものが腹の奥で膨れていく。
やはり、魔界の魔力の影響なのだろうか?
胸中でふと思い浮かべるが、振り向きざまに船尾にかじりつくネレイスの脳天を打ちのめした時、視界に入ったヨーガンの姿に俺はその予想を打ち消した。
俺の振るう剣に首をすくめ、迫るネレイスに対する焦りを瞳に浮かべてはいるものの、そのほかには何の問題も無いといった様子で彼は舟を漕いでいたからだ。
じゃあ、なぜ?
胸中に疑問が沸き起こるが、俺は頭を振って思考を追い払った。
こんなことを考えている暇はない。
右舷のネレイス達を相手しているうちに、左舷から這い登った一体の指が俺の足首に届こうとしていた。
俺は彼女の手首を打ち据え、ネレイスが痛みに船の縁を掴んでいた手を緩めた瞬間を狙い、額を思い切り突いた。
痛みと衝撃に彼女はバランスを崩し、仰け反りながら海中へ消えていった。
そして同時に、俺の腹の奥の熱がまた少しだけ膨れた。
「くっ・・・!」
思わず開いている左手で腹を押さえ、呻く。
「アルベルト!?」
俺の異変にヨーガンが声を上げ、好機と見たのか船の前方の海からネレイスが飛び出して躍り掛かった。
「ぐぉ・・・!」
俺はどうにか腹の奥の熱を意識の外に追いやると、タイミングを合わせててにした木剣を振りぬいた。
空中に居たネレイスの顔側面に木剣が食い込み、軌道を無理矢理変化させて傍らの海へと追い落とした。
「大丈夫、だ・・・!」
どうにか背後のヨーガンに向けてそう言葉をひねり出すが、腹の熱が頭に回ったように意識に靄がかかり始めていた。
「もうすぐで岩礁に着く!それまでどうか耐えてくれ!」
「あぁ・・・」
彼の言葉にそう応じながら、俺は船尾の縁を掴む青い掌を打ちのめした。
木剣を振るい、迫るネレイス達を退ける。
先ほどと何ら変わりはないが、一撃ごとに体内の熱が膨れ、一挙動ごとに意識が蕩けていく。
岩礁までもう少しの距離まで迫った頃には、俺はもはや酒でも飲んだかのように意識が曖昧になっていた。
「く・・・ぅ・・・!」
頭を振り、思考を侵す熱を強引に追い払う。
だがそれも気休め程度のものでしかなく、数度木剣を振るえば元に戻っていった。
そして、次第に船首の方から現れるネレイスの数が減り始めたところで、船底を何かが擦ったように船が小さく震えた。
ネレイスが船底から攻撃しているのか、とぼんやりした俺の意識に危機が生じる。
「着いた!岩礁だ!」
だが、俺の耳を打ったのは、ヨーガンの怒鳴り声だった。
「動けるか!?」
「あ、あぁ!」
立ち上がりながらのヨーガンの呼びかけに、俺はどうにか頷いて答えた。
「打ち合わせどおり、私が先に岩礁に上がる。いいな?」
「ああ」
狭い船上でヨーガンと位置を入れ替わり、船尾から這い上りつつあったネレイスの脳天を打ちのめす。
そして左右から手を伸ばす彼女らに、一撃ずつ木剣を打ち込んでから、俺も船から岩礁に上がった。
ごつごつとした丸みを帯びた岩に、カキのような貝類や短い海草がしがみついている。
だがいずれも赤黒く不気味に色づいており、フジツボにいたっては小型のローパーのような触手を伸ばしていた。
俺は足場と体調の悪さに苦心しつつヨーガンの後を追う。
背後に目を向ければ、俺たちに続いてネレイス達が岩礁に上がっているところだった。
しかし、彼女らの鰭で構成された足や手では岩場を踏みしめることは出来ず、這い蹲るような姿勢をとるほかない。これならば、すぐに追いつかれるということはないだろう。
そう考えながら顔を前に向けようとした瞬間、岩を踏みしめていたはずの足が宙に浮いた。
「く・・・!」
体内の熱に意識が揺らぎ、足元が覚束なくなる。
俺はとっさにその場に踏み止まり、頭を揺すって遠のく意識を引きとめようとした。
今この場で転んでしまえば、岩場に生える魔界の海草やフジツボに全身を押さえ込まれ、ネレイス達に群がられるだろう。
どうにか揺らぐ意識を取り戻すと、俺は目を開いた。
視界に、渦巻く雲と色づいた海、そして岩礁とその中央に屈むヨーガンの姿が映る。
彼は屈み込んだまま両手で岩を探り、何かを探しているようだった。
「あったぞ!」
不意に、彼が叫ぶ。
彼の前には、フジツボや改装に包まれているとはいえ、明らかに人の手が加えられたような角ばった岩があった。
おそらく、崖の上にあったのと同じ石柱が岩礁に打ち込まれているのだろう。
「アルベルト!今から術式に手を加える!」
懐から村長から借りてきたと思われる工具を取り出しながら、彼は続ける。
「三十・・・いや、二十分で終わらせる。その間ネレイスたちを遠ざけてくれ」
「ああ、任せとけ…」
打ち合わせ通りの彼の言葉に、俺は頷いて応じる。だが、体内の熱は未だ俺の意識を侵しつつあり、正直走り回ってネレイスたちを遠ざける余裕があるとは思えなかった。
「アルベルト、作業の邪魔にならない程度なら、岩礁に彼女らを上げてしまっても大丈夫だからな」
俺の異常を察知したのか、ヨーガンはそう呟く。
「大丈夫だ」
「無理はするなよ」
俺の返答に応じると、彼は手にした鏨で石柱の表面を覆うフジツボを剥がしにかかった。
ヨーガンが作業に入ったのなら、俺も役割を全うせねば。
木剣を握り直し、俺は辺りを一瞥した。
岩礁を囲む海からネレイスが這いあがり、岩の上を這いながら距離を詰めてくる。
彼女らの苦手な陸上かつ岩場のためか、彼女らとヨーガンの距離はまだ大分ある。
無論、徐々に狭まるネレイスの円陣をただ見守るはずもなく、俺は円陣の縁から一番石柱に近いネレイスの下に寄り、木剣の切っ先を背骨の一点に突き立てた。
どうやら人と身体の構造は同じらしく、ごくわずかな打撃に彼女は大声をあげて仰け反り、直後脱力して岩の上に突っ伏した。
同様にその場にいる二、三体のネレイスたちの背骨を突くと、俺は転がる彼女らに背を向け、駆け出す。
常に辺りに気を配り、一撃目と二撃目を見極め、捌く。
セーナさんから日頃言い聞かされ、訓練でも身に染み込まされた技術を、岩礁全体に展開する。
一番ヨーガンに近いネレイスと、次に近いネレイスを見極め、順に打ちのめして侵攻を止める。
陸地ということもあってか、船の上より大分楽ではあるが、走り回らなければならないのが辛い。
ヨーガンの傍らを通り抜けざまに視線を送れば、フジツボなどを剥がした石柱の表面に、鏨と槌を振るっているところが目に入った。
一瞬見えた横顔は真剣そのもので、石柱以外の物は目に入っていないという様子である。
「く・・・!」
体内の熱に俺は小さく漏らすと、木剣を振りかぶった。
ヨーガンの作業がどれほど進んでいるのか分からないが、少しでも時間を稼がなければ。
そう考えながら、木剣を上体を起こしたネレイスの肩口めがけて振り下ろす。
丸みを帯びた樫の刃が彼女の肩を打ち据え、その表情を痛苦に歪ませた。
だが、それだけだった。
肩口に集中する痛点を打ち据え、動きを封じるはずの一撃が。鎖骨にひびを入れ、身動きすら取れなくなるほどの激痛を与えるはずの一撃が。完全に受け止められていた。
「・・・っは!」
ネレイスは短く息を吐きながら、打ち据えられた肩とは反対の方の腕で、いまだ肩の上にある木剣の刀身を掴んだ。
とっさに剣を引いて逃れようとするが、彼女らの力が強いのか、体内の熱によるものか、木剣はびくとも動かなかった。
「クソ・・・!」
柄を握る指を緩め、俺は木剣を捨てて退いた。ネレイスは木剣を傍らに放り出して侵攻を再開する。
ヨーガンの作業が終盤ならば、彼女らが彼にたどり着く前に間に合うかもしれない。が、まだ時間は予想の半分しか経っていない。
時間を稼ぐには、少しでも侵攻を食い止めなければ。
木剣の代わりになりそうなものはといえば、小船に残した櫂がある。だが、小船もネレイス達の成す隊列の遥か向こうにある。
取りに行こうにも、ネレイス達を掻き分けて進む間に捕まってしまうだろう。
しかし、無手で彼女らを相手できるだけの自信は、今の俺にはなかった。
(だとすれば・・・)
先程手放した木剣に、俺は視線を送った。
俺から木剣を奪ったネレイスは既にそれから興味を失っており、その後に続くネレイスとは距離がそこそこある。
(大急ぎで回り込めば、取り返せそうだな・・・)
熱に侵された頭で、俺はそう考えた。
そして思いつきのまま、俺の体が動き出した。
大きく弧を描きながら、ネレイスの脇に回りこむ。
突然の動きに、俺から木剣を奪ったネレイスの目に浮かぶ痛苦の色に、驚きが加わる。
だが、それも一瞬のことだった。
俺が腰を曲げ、木剣へ伸ばした腕を、彼女は体ごと旋回してから掴んでいた。確かに地上での移動は遅いが、その場で向きを変えるぐらいならば簡単に出来るのだ。
手首を握る、驚くほど冷えた青みがかった指に、熱に侵されていた俺の意識が一気に醒める。
「しまっ・・・」
己の失策を悟り、とっさに振り払おうとするが、どれほどの力がこもっているのかびくともしなかった。
いや、手首にほとんど痛みが無いところを見ると、俺の力が抜けているだけなのだろう。
無論、そんな分析をしたところで何の役にも立たない。必死に逃れようと腕をばたつかせるうちに、ネレイスはぬるりと俺に這いより、足にしがみついて体重をかけてきた。
簡単に体勢を崩され、その場に崩れ落ちてしまう。
「うふふふ・・・」
「うぅ・・・放せ・・・!」
足にかじりつくネレイスを跳ね除けようとするが、彼女は愉悦の色を瞳にたたえたまま、じわりじわりと這い登ってくる。
細身ながらも独特の柔らかさを備えた肉体が衣服越しに俺の身体を擦ることで、俺はようやく自分の肉棒ががちがちに屹立していることに気が付いた。
辺りを満たす魔力に中てられたからか、ネレイスに押し倒されたからかは分からない。
だが、いずれにせよ危機的状況だというのに、勃起していることに変わりはなかった。
「うふふふ・・・」
「アルベルト!」
ネレイスの笑い声に紛れて、ヨーガンの声が聞こえた。
首を反らして、岩礁の中央に目を向ければ、鏨と槌を握ったままの彼がこちらに顔を向けているのが見えた。
「だ、大丈夫だ・・・!」
這い登るネレイスを押さえ込みながら、俺は声を振り絞った。
「どうにかするから、俺に構うな!」
ヨーガンが術式を完成させることさえ出来れば、何もかも上手くいく。そう考えての発言だったが、彼は違う意味に取ったらしい。
「・・・分かった。すぐに終わらせる」
彼は表情を引き締めると、左手に握っていた槌を下ろした。そして、右手の鏨で掌を切り裂く。
ヨーガンの表情が一瞬歪み、遅れて縦一文字の傷から血が溢れ出した。
彼は鏨も岩礁の上に下ろすと右手の人差し指で血を掬い取り、石柱に線を引き始めた。
確かに、この方法ならば槌と鏨で直接彫りこむよりも早く描くことができる。
だが、彼の向こうからは、別なネレイスの群れが迫りつつあった。
俺が自由ならばすぐに回り込んで退けることもできたのだろうが、そうはいかない。
そもそも、ヨーガンが自らの血で術式を描いているのも、俺が原因なのだ。
「うふふ…」
「くそ…」
微笑むネレイスを押しのけようとするが、俺には彼女を退けるどころか表情を変える力も残っていない。
おそらく、ヨーガンの術式描画も間に合わないだろう。
(もうどうでもいい)
体内の熱に頭が侵されていく。同時に、諦念とも倦怠ともつかない感情が俺の意識を満たしていった。
ネレイスの肩に当てていた手から力が抜け、彼女の進行を自然と許してしまう。
「うふふ…!」
俺の脱力に、ネレイスは一層笑みを深め、俺の身体の上を這い登ってきた。
魔物とはいえ、女性独特の柔らかさが衣服越しに感じられ、このまま身を任せたくなっていく。
そして、彼女の乳房が俺の腹から胸へと移ってくるころには、後続のネレイスたちも俺の側に群がってきた。
青みがかった、濡れた肌が俺を囲む。
「うふふふ」「うふふふふ」
周りから響く、少しずつ違うネレイスたちの笑い声を聞きながら、俺は両眼を閉ざした。
目蓋の裏を、三賢人やエルンデルストの住人、マティの姿が流れていく。
彼らに胸中で別れを告げ、己の失策を悔やむ。そして、始まるであろうネレイスたちの愛撫を待った。
だが、ネレイスたちの手は、俺の身体を這いまわらなかった。
「うふふ、ふ、ふ…ぅ…?」
「うふふ…うふ…?」
不意に、俺の耳を打つネレイスの声がとぎれとぎれになり、ついには途絶えた。
そして不気味な沈黙が辺りを満たす。
「…?」
うっすらと目を開いてみると、ネレイスたちは俺から視線をそらし、皆まったく別の一点を見つめていた。
首をひねって辺りを見回せば、岩礁に上陸しているネレイスのほとんどが動きを止め、断崖の上の方に顔を向けている。
彼女らの視線を追うと、渦巻く雲の一点に白い何かが浮かんでいた。
白い何かは徐々に膨らんでいる。膨らむ様を見つめて、俺はようやく白い何かが接近しつつあることに気が付いた。
そして同時に、白い何かの正体も悟った。
「マ…ティ…?」
『ぁぁぁぁぁぁぁあああああっぁぁぁあああああ!!』
俺が彼女の名を呼ぶと同時に、長く続く彼女の叫び声が俺の耳に届く。
その声は、俺が今まで聞いた彼女の声とは全く異なっていた。
マティはその叫びの勢いのままに、速度を緩める気配もなく俺に向かって一直線に突っ込んでくる。
「っ!?」
マティの叫びと勢いに気圧されたのか、ネレイスたちが表情から笑みを消し、俺から距離を置く。
その直後、白く透き通ったマティの身体が、俺の身体に激突した。

――――――――――――――――――――――

熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い
村で待っていたら急に熱くなった
熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い
暑さも寒さもあまり感じたことはあるけど
熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い
自分の体が耐えられないほど熱い
熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い
叫びを押さえられないほど熱い
熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い
存在しない身体が熱くて堪らない
熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い
そして私はようやく気が付いた
熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い
身体を冷ますための身体が欲しいのだと
熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い

――――――――――――――――――――――


熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い!!
一瞬の空白をはさんでから、全身を苛む熱が身を焦がさんばかりに膨れ上がった。
もう思考が溶けるだとか、足元がふらつくだとか言う段階ではない。
文字通り、炎に包まれているような熱さが全身をつつみこんでいる。
「ああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁああああああぁぁぁああああ!!」
同時に、俺の耳を甲高い絶叫が打った。
マティのものかと思ったが、低すぎる。熱で耳がやられたのだろうか?
だが、視界に映るネレイスはおろか、ヨーガンさえもが作業の手を止めて俺に視線を向けている。
そこで俺はようやく、自身の喉の震えに気が付いた。
何だ。叫んでいたのは俺か。
考えてみれば簡単なことだ。ヨーガンより俺の方が魔界の影響を受けていたのも、マティが取り付いていたからだ。
俺の身体に注ぎ込まれた魔力の影響を彼女が受けるのならば、彼女が俺の身体に入り込んでその影響を受けるのも当たり前だ。ははは。
その事実に行きつくと同時に頭がすっきりし、何もかもを理解したような気がした。
叫んでいるのは俺であり、マティなのだ。
頭はすっきりしているというのに、考えがまとまらない。
しかし、何となくもう大丈夫だということはわかった。
マティが来てくれたからだ。
耳を澄ませば、俺の叫びに混じるようにしてマティの声も聞こえる。
俺は岩礁に手を突き、ゆっくりと立ち上がると、辺りを見回した。
ヨーガンは未だ俺のほうを見つめたままだが、ネレイス達は混乱から脱したらしく、ゆっくりと侵攻を再開していた。
止めなければ、ヨーガンが危ない。
そう思うと同時に、俺の足が踏み出していた。
呆けるヨーガンの脇を自動的に駆け抜け、元いた場所と対極の位置のネレイスの一団の前にたどり着く。
そして駆ける勢いをそのままに、這い蹲るネレイスの顔面を蹴り抜いた。
俺を見上げていた微笑が強張り、直後柔らかな感触が足の甲を包み込む。
彼女は蹴りの勢いに仰け反ると、そのまま仰向けに倒れ伏していった。
これまでとは違う、情けも容赦もない一撃だったが、ネレイス達は痙攣する同族に目もくれず、侵攻を続ける。
どうやら魔界の魔力は、彼女達から恐怖の感情さえ奪っているらしい。
だが、それは俺もマティも同じことだ。
手を伸ばし、ネレイスの鱗に包まれた足首を掴むと、そのまま持ち上げる。
俺の腰と肩がみしりと音を立てるが、身体は止まらない。彼女の足首を掴んだまま、力任せにネレイス達の一団に投げつけたのだ。
俺の視界の中で、ネレイス達の体が激突し、衝撃に転がり、倒れ伏していく。
だが、彼女らの末路を見届けるより先に、俺の身体は次の標的に向かって進んでいた。
「アルベルト・・・」
視界の端を通り過ぎていくヨーガンが、呆然と呟くのが見えた。
そんな暇があるならば、早いところ術式を完成させればいいのに。手から血を流しているのに呑気なものだ。ははは。
俺は這い蹲るネレイスの数歩手前で岩を蹴って跳躍し、その背中に着地した。
膝や腰で衝撃を殺さなかった為、その青ざめた肌に足が突き刺さる。
背を仰け反らせたネレイスが大きく口を開き、そののど奥から吐息と共に短い声を漏らした。
俺は軽く膝をかがめると、ネレイスの背中を蹴って、次の青い背中へと再び跳躍した。
むき出しの青い肌に包まれた腰や背中を、水面から顔を出す川辺の岩のように、飛び移りながら移動していく。
ネレイス達は、ひらりひらりと飛び移る俺を捕らえようと、懸命に岩礁の上を這いまわり、俺に向けて手を伸ばす。
だが、俺はかざされる鱗に包まれた掌ごと、ネレイスの身体を踏みつけ、跳んでいった。
私に向けて差し伸べられる手は、まるで草花のようだ。
草原をスキップしながら進んでいるような気分だが、実はそんな経験は一度もない。
マティと草原を歩いたことは何度もあるが、私は殆ど宙に浮いていたからだ。
肉体があるというのは、なんと素敵なのだろう。
と、何度目か知れない青い背中への着地と同時に、その前方に居たネレイスの一体が上体を起こし、俺の脚にしがみついた。
柔らかな乳房が太ももを圧迫し、ズボン越しにその柔らかさが私に伝わる。
彼女はそのまま、海水か粘液に濡れた手を俺の股間へ差し伸べた。
押さえ込んだまま口で吸い取ろう、って魂胆ね。
私は握り拳を固めると、ズボンに手を差し込むネレイスの側頭部に打ち込んだ。
拳に鈍い衝撃が加わり、直後ネレイスが腕を緩め、首を捻じ曲げながら傾いていった。
寄りかかる彼女を払おうと腕を上げてみれば、人差し指と中指が拳を固めているにも拘らず、ぶらぶらと揺れている。指が折れたみたい。俺が叱るんだろうなあ、はははは。
拳で殴る為にはそれなりの訓練が必要といったのは誰だったか。俺は指を広げると、次は掌底を使おうと決めた。
「アルベルト!」
ヨーガンがアルベルトの名を不意に呼んだ。俺は首をめぐらせると、岩礁の中央に目を向けた。
「もうすぐだ!もうすぐ描き上がる!」
露出した石柱の表面には赤い線が踊っており、その密度と量から、彼の言う通り描画が終わりに近いことが分かる。
「もうすぐで終わりだ!だから、正気が少しでも残っているのなら、そのままじっとしていろ!」
そう声を張り上げるヨーガンの向こうで、ネレイスが彼を捕らえようと腕を伸ばすのが見えた。
どうやら、この辺りの連中に構いすぎたようだ。
ヨーガンの言っていることは良く聞き取れなかったけど、どうやら私にもう少し頑張れ、と言っているみたいだ。
初めてマティが身体を手に入れたのだ。俺は私に肉体を任せ、ヨーガンの傍のネレイスへ向かうべく、アルの足で足下の青い身体を蹴った。
ネレイスの腕が上がり、俺の脚が岩礁の岩に触れる。
ヨーガンの赤く濡れた指先が石柱に触れ、私の蹴りが再びあるの身体を跳躍させる。
ネレイスの指がヨーガンの身体に迫り、彼の指が赤い線を引いていく。
そして、俺が手を振り上げ、ネレイスがヨーガンの服を掴んだ瞬間、彼の指が石柱から離れた。
同時に、石柱に描かれた赤く濡れた線が、眩い光を放つ。
「・・・っ!?」
「間に合った・・・」
光に思わず目を閉じ、身を捻る私の傍を、ヨーガンの声が通り過ぎていった。
直後、岩礁を捉えるはずだった俺の足が空を掻き、バランスを崩して岩の上を転げてしまう。
突然の眩さと衝撃に、私の意識は一瞬遠のいていった。

――――――――――――――――――――――



最初に感じたのは、手足の痛みだった。続いて目蓋を透かす強い光と、耳を打つ音が俺の意識に届く。
「アルベルト!アルベルト!」
音が意味を成し、声と認識できる頃には、俺は目を開いていた。
「うぅ・・・ヨーガン・・・?」
ぼやける視界の中、横たわる俺の肩を打ち、声をかける男の名を俺は呼んでいた。
「気が付いたか」
「あぁ、どうにかな・・・」
「全く、突然暴れ出した時は何が起こったかわからなかったぞ」
俺の返答に、ほっとしたような安堵を孕んだ苦笑いを浮かべながら、彼は続けた。
「やはり、マティが憑いていたせいで、魔力の影響をもろに受けたようだな」
「みたいだな・・・」
鈍痛の残る頭で、俺はつい先ほどのことを思い出そうとした。
だが、霞がかかっているかのように記憶は曖昧で、なにやら気分がよかったということ以外は何も思い出せない。
「で、マティは?」
「まだお前の中だろう。多分寝ているはずだ」
「そうか・・・っ!?」
彼の言葉に適当な軽口を返そうとした瞬間、俺は重要なことを思い出した。
「ネレイスは!?」
「もう大丈夫だ」
「大丈夫だって・・・うぐっ」
彼の言葉に周囲を確かめようと身を起こそうとするが、右手や腰に激痛が走る。
「見てみろ」
ヨーガンは俺の背中に手を差し入れると、支えながら俺の上体を起こした。
俺の目に、岩礁を中心とする『呪いの入り江』の全貌が映った。
雲は螺旋を描きながら勢い良く回り、不気味に色づいた海も嵐のように波打ち、飛沫を上げている。
そして、俺たちのいる注視を除く岩礁の殆どを、ネレイス達が埋め尽くしていた。
だが、彼女らは俺たちに向かってくるわけでもなく、ただじっとその場に止まり、呆けたように虚空を見つめていた。
彼女らの視線を追って顔の向きを変えると、そこには石柱があった。表面に描かれた模様が、煌々と光を放っている。
「始まるぞ」
ヨーガンがそう呟いた瞬間、それが始まった。
『呪いの入り江』の海面から、渦巻く雲から、岩礁から、果ては居並ぶネレイス達から、黒くか細い煙のようなものが滲み始めたのだ。
煙は宙に滲むと、そのまま風に乗ったようにふわりと流れ、大きな円を描きながら石柱へ吸い寄せられていった。
「魔力の抽出だ」
辺りを吹き抜けるか細い煙の渦に晒されながら、ヨーガンはそう説明する。
「土地や生物に染み付いた魔界の魔力を吸出し、石柱の術式を逆にたどって元あった場所へ送り返している」
渦の中心、岩礁に突き立てられた石柱に、煙は吸い寄せられていく。
か細い黒い煙が幾筋も螺旋を描きながら石柱に吸い寄せられる様は、底に小さな穴が開いた桶から水が流れ出すかのようであった。
そして、俺は次第に頭上を覆う雲の渦が小さくなり、海水の色が褪せていっていることに気が付いた。
土地の魔力が抜けてきているのだ。
岩礁の岩に目を向ければ、見たことのない形をしていた海草も、触手のようなものを伸ばしていたフジツボも、次第に俺の良く知るものへと形を変えていく。
海が、空が、生き物が、魔力の影響から解放されていく。
だが、不意に辺りを見回すヨーガンの表情が強張った。
「な・・・!?」
あまりの驚きによるものか、声を漏らす。
彼に倣ってネレイスのほうへ目を向ければ、俺も自分の表情が強張るのを感じた。
視界に映るネレイス達の姿が、徐々に崩れ始めているのだ。
青ざめた肌は、次第に人のそれへと近づいている。頭髪の間から伸びる突起や、手足の先端を包む鱗も、段々縮小している。
しかし、それ以上に彼女らの姿が、人や魚などとは言いがたい形に変わりつつあった。
背筋を反らせていたネレイスの両腕がぼきりと折れ、支えを失った状態が岩に叩きつけられる。
岩場に座り込んでいたネレイスの背骨が徐々に曲がり、背中の皮膚を突き破って飛び出し、彼女の胴体が折りたたまれる。
空を仰いでいたネレイスの首が、頭部の荷重を支えきれず、後ろへと頭が転がり落ちる。
俺たちの目に映っているのは、もはやネレイスなどではなく、崩れかけのゾンビの群れと言った方がよかった。
やはりヨーガンが前に言っていた通り、ネレイスたちの正体は溺死者で、魔力を抜き過ぎたせいで溺死体に戻っているのだろうか?
臭ってきそうなほど溶け崩れたネレイス達の姿に、俺は鼻を覆おうとした。
同時に、違和感が俺の胸中を去来する。
「・・・ヨーガン・・・」
「あぁ、私も気が付いたところだ」
俺の声に、ヨーガンは溶けた肉汁に倒れこむネレイスの骨格を見据えながら応じた。
ネレイス達の腐乱死体もかくや、というような惨状にも拘らず、辺りには腐臭のふの字も漂っていないのだ。
か細い煙のような魔力とほのかな潮風の香りの中、透き通った青空と海の間で彼女らは溶け、崩れ、砕け、解れている。
「何が起こってるんだよ・・・術式が間違ってたのか・・・?」
どうにか問いを紡ぎだすが、次の瞬間には彼女らのように腐り始めるかもしれない、という恐怖に言葉尻が震える。
「いや、術式に間違いはない・・・はずだ」
「じゃあ、これは一体何なんだよ!?」
俺の指し示した先で、崩れ落ちた肉や骨が震え、もぞりと蠢き出した。
あたかもスライムが移動するときように、ネレイス達の肉と骨の混合物が岩礁の上をずるずると這いずり始める。
青い皮膚に包まれた指や、青黒い髪の毛など、彼女らの名残を残したまま蠢く肉粘液に、俺の指先や目から背中へ、怖気が走った。
「彼女らは・・・いや」
岩礁の上を這いまわり、俺たちの前でぐるぐると渦を成しながら集まっていく肉と骨の混合物を見つめながら、彼は一旦言葉を切り、小さく頭を振ってから続けた。
「あれは、元に戻ろうとしているのだ・・・」
「元に・・・?」
渦巻く肉片と骨片の粘液が、俺たちの前で盛り上がっていく。
「思い出しても見ろ。我々が『呪いの入り江』のネレイスから話を聞いた時のことを。あのネレイスは、魔力の召喚が始まる前のことを話すときは『わたし』といっていたが、召喚以後は自分自身のことも『わたし達』と呼んでいた」
盛り上がった肉粘液の塊は、既に見上げるほどの大きさになっていた。
「あの時はただ聞き流していたが・・・あれは、実は彼女らが元は一体の生物だった、ということではないのだろうか?」
「そんな、馬鹿げたことが・・・」
俺は口ではそう言うものの、目の前で膨れ上がる不透明な粘液の塊に俺の常識は屈しそうになっていた。
渦を成しながら、肉と肉が積み重なり、骨が枝を伸ばし、粘液が絡みついていく。
まるで、木々の生長を時間を早めて見ているかのように、岩礁に広がる肉と骨の混合物を吸い上げながら、それは成長していく。
「アルベルト、受け入れるんだ」
眼前で形を成していく肉と骨から視線を外し、俺のほうに向けながら、ヨーガンはそう言った。
そして、彼の言葉と同時に、渦巻く粘液の奔流が次第に速度を落とし始めていることに、俺は気が付いた。
ぶくぶくと膨れつつ所々にくびれのある、不恰好な肉の丸太が岩礁の上に鎮座していた。
丸太の下から湾曲した二本の棒が延びており、丸太の上端の横からも同じような棒が垂れ下がっている。
上端の上には三つの真黒い穴が穿たれた丸っこい塊が乗っており、その上には幾本にも枝分かれした枯れ木のようなものが生えていた。
やがて、そいつの表面を形作るべく、もぞもぞと蠢動していた粘液が次第にその動きを弱め、ついには滑らかな肌となった。
まあ、見ようによってはそれは人間の赤ん坊にも例えられるような形をしていた。
最も、座ってもなお三階建ての家屋ほどの大きさを誇り、頭頂から枯れ木を生やしている点を無視できれば、の話だが。
(何だコレは・・・!?)
魔物でも、動物でも、無論人間でもないそれの姿に、俺の意識が疑問と驚きに支配されていく。
「ん、ん・・・んーん・・・」
頭頂から枯れ木を生やした巨大な赤ん坊が、目と口の位置に穿たれた穴を収縮させながら、低く呻く。
「んまぁぁぁああああああああああああああああああああ!!」
直後、呻きは叫びに変わった。
腹を打ち、辺りの大気をびりびりと揺さぶるほどの叫びであったが、不思議とうるさいとは感じなかった。
「あぁぁぁぁぁぁぁああああああああぁぁぁぁぁあああああ!!」
ソレの叫びは高く低く、まるで何かを確かめるように変化し、やがて始まった時と同じように唐突に止まった。
静寂が、『呪いの入り江』を支配する。
「お前達か 我を一つにしたのは」
不意に、俺の耳を聞きなれない声が打った。
それはしゃがれた赤子のような、張りのある老人のような、低い女のような、高い男のような、何人もの人間が同時に喋っているような不可思議な声だった。
「・・・っ!?どこだ!!」
何処からともなく響いた声に、俺は思わず誰何の問いを放っていた。
「目の前だというのに 恩あるといえども 何たる仕打ち」
再び、何人もの人間がたった一人で喋っているような、雑音とも取れるような声が耳を打つ。
「目の前、って・・・まさか・・・」
「どうやら、そのまさからしいな」
俺の推測を後押しするように、ヨーガンが低い声で続けた。
「これは失礼しました。物を知らぬ身ゆえのことです。どうかお許し下さい」
「よろしい よろしい ゆるす ゆるす」
目の前の巨大な赤子のようなソレが、頭部を小さく揺らしながらヨーガンの言葉に応じた。
「この身を幾つにも引き裂かれ 正気を失っていたところを 一つに戻してくれて 感謝する」
目と口の位置に穿たれた、奥も見通せぬほど深くて黒い穴を広げたり縮めたりしながら、ソレが言葉を紡ぐ。
すると不意にソレは右の方の手を掲げ、手の甲を下にして、指先を俺たちの方に向けた。そして右手に並ぶ七本の指が順に折り曲げられるのに合わせ、俺たちの背後、岩礁の中心に突き立てられた石柱が、重い音を立てながら見えない何かに引き抜かれ始めた。
やがて岩同士が擦れる耳障りな音が止み、人の背丈の倍ほどの石柱が、何の支えもなく俺たちの目の前に浮かんでいた。
「これほど小さな物により 我は分け隔てられていた」
ソレの感慨深げな口調に、俺たちが肩越しに振り返ってみれば、ソレはもう片方の腕も掲げ、脊柱に向けてかざしていた。
「我を砕いたのも小さき者ならば 我を一つにしたのも小さき者 小さき者なれど偉大なり」
ソレはそう言って言葉を切ると、広げていた方の七本の指を一度に握り締めた。同時に、宙に浮いていた石柱が砕け、その破片さえもが粉々になり、虚空に溶けるように散っていった。
何が起こったのか、何をしたのか、全く分からない。
俺にはただ固まって見上げるほか、何も出来ることはなかった。
「さて 約束どおり礼として 我に出来る限りのことをしてやろう」
ソレは掲げていた両腕を下ろすと、収縮を繰り返す三つの黒い穴を俺たちに向けた。
「約束どおり この安住の地を出て 我らが地と海を埋め尽くす前に」
だが、続く言葉は俺たちの理解を超えるものだった。
安住の地を出て、我らが海と地面を、埋め尽くす前に。
確かにソレはそう言った。
「さあ 願いを言え 叶えてやる」
「・・・質問に答えて欲しい」
俺たちの返答を促すソレに向けて、ヨーガンが口を開いた。
「安住の地を出て、海と地面を埋め尽くす、とはどういう意味だ?」
「そのままの意味だ」
彼の言葉に、それは頭を揺すりながら答えた。
「我と我らで 地と海を全ての小さき者の代わりに埋め尽くすのだ 二度と分け隔てられぬように な」
それの頭頂から生えた枯れ木がぽつぽつと芽吹き、言葉に合わせて生長を始める。
一瞬、枝葉が茂るのかと思ったが、芽から生じたのは果実であった。
頭と胴と手足を備えた、丁度枯れ木の根元を支えるソレと瓜二つの果実だ。
恐らく、あの果実はそのまま地に落ちて、その一つ一つが成長し、また果実を実らせるのだろう。
そうやって、ソレは増えていくのだ。
「・・・っ!」
脳裏に、ソレによって埋め尽くされた大陸の姿が浮かび、俺の背筋を怖気が走った。
「埋め尽くすのは勘弁してくれないだろうか・・・」
「ならぬ」
大きな頭を揺すりながら、それは続ける。
「長い間をかけて やっと見つけた安住の地だ かつてはここでじっとしていたが 再び己を失い ここを失うわけにはいかない
それに おまえのお前の願いは もう叶えた」
ヨーガンの放った懇願を、ソレはきっぱりと跳ね除けた。
「次は お前だ」
ソレが顔と思しき部分に穿たれた穴を俺のほうに向け、そう続ける。
ちらり、とヨーガンの方をみれば、彼が口元に指を当て、首を振っていた。
どうやら下手に何か言うと、それを願いだと認識されるらしい。
さて、どうしよう。
どうやら奴の言葉からするに、願いは一人一つ。その上、世界を埋め尽くすのを止めろ、という願いは駄目なようだ。
では、どうにかして時間を稼ぐ願いを考えなければ。
焦りが思考を空回りさせるが、俺は必死に考えた。
「もしや 願いはないのか」
沈黙を守る俺に向け、それは首をかしげた。
「ならば 我は」
「いや・・・『待て』」
俺の口から、考えるより先に声が出た。
「待て それが願いか」
「『ああ、そうだ』」
自然と続く俺の言葉に、俺の横でヨーガンが顔を強張らせた。
だが、俺には口が勝手に動いたことに対する小さな驚きはあったものの、しまった、というような思いはなかった。
願いの意図に、気が付いたからだ。
「『俺の願いは、待て、だ』・・・・・・ただし、世界の終わりが来るまで、な」
俺は願いを補足すると、視線をヨーガンにむけた。同時に口の端が勝手に吊り上がり、にぃ、と小さく笑って見せた。
「マティ・・・か?」
彼の小さな呼び声に、俺の腕を通り抜けるようにして、白く透き通った細い腕が現れ、小さく手を振った。
「『待て 世界の終りまで』 それが 願いか」
ソレが、低い声で俺の口から紡がれた願いを復唱した。
多くの人間が、ぼそぼそと呟くような声を練り合わせたような声のため、感情を読むことができない。
少なくとも、ソレが俺の願いを快く引き受けてくれることはないだろう、ということは予想できた。
ヨーガンも俺と同じ思いなのか、表情が強張っている。
だが、続くソレの言葉は、俺たちの予想を大きく裏切るものだった。
「よかろう そのささやかなる願い 叶えよう」
「っ!?」
却下どころか、渋る様子すら見せず受け入れたという事実に、俺は驚きを隠せなかった。
「安息の地を求めて 幾兆の昼と夜を掛けて 我は星の海を彷徨った」
それは背筋を伸ばし、両手を広げると、七本の指の生えそろった掌を打ち合わせた。
鈍く低い、肉同士のぶつかり合う音が辺りに響く。
するとそれの背後、晴れ渡った青空を背に、金色に輝く円が現れた。
僅かに青空と海が透けて見える、ごくごく薄い金色の円盤だ。
「それに比べれば 世界の終わり 即ち お前達小さき者の子々孫々が 死に絶えるまでの数百億の昼と夜を待つことなど 皆無に等しい」
円盤がゆっくりと前進し、ソレの頭頂から生えた枯れ木がや背中が飲み込まれていく。
「では 小さき者達よ 我はしばしの間 深き所で待つことにしよう」
円板の向こうに身体の後ろ半分飲まれながらも、ソレは言葉を紡ぎ続けた。
「この地が誰のものでもなくなる その時まで」
黒い穴が穿たれた顔と、七本指の手と、胴を支えていた脚をだけになりながら、ソレは手を振りながら言った。
「さらばだ 小さき者達よ」
そして、ソレの指先さえもが金色の円盤の向こうに消えると、円盤は急速に収縮し、虚空に消えていった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
『・・・・・・』
ヨーガンと、俺と、マティの三人分の沈黙が、寄せては返す波が岩礁に当たって砕ける音を背景に、辺りを満たしていた。
そして、柔らかな潮風が俺の頬を撫でた。


――――――――――――――――――――――

エピローグ
ゴロゴロと、荷馬車が音を立てながら街道を進んでいく。
オンシュマに向かう時と同じく、俺は荷物の間に身をねじ込ませ、揺れる荷台に身を任せていた。
違いといえば、荷物から漂う魚の干物の匂いと、俺の心にモヤモヤとしたものが加わったことだろうか。
「・・・・・・」
揺れる荷台から青空を見上げながら、俺は『呪いの入り江』で起こったことを思い返していた。
アレが俺とマティの願いを聞き届け、虚空に消えた後、オンシュマに戻った俺たちを迎えたのは村人達の歓待だった。
魔界化した土地の証だった、渦巻く雲が消え去ったのだ。
もう魔物の被害にあうどころか、その影に怯える必要もなくなったのだ。
だが、歓待を受ける俺とヨーガンは心中あまり晴れやかではなかった。
それもそうだ。名も知らぬ魔術師が、その技術で持ってどうにか封じ込めたアレを、解き放ってしまったのだ。
無論アレの存在は、ヨーガンと口裏を合わせてオンシュマの村人には伏せている。
しかし『地と海を我々で埋め尽くす』という、あの複数人の声を強引に一つに練り上げたような言葉が、今も俺の耳の奥底にへばりついている。
あの不気味な巨体と、頭頂に鈴なりに生った何百もの赤子。手をかざし、七本の指を動かすだけで石柱を引き抜き、粉微塵にしてしまった力。
今まで見てきた魔物などより、段違いに禍々しいアレの姿は、俺の心の奥底に深く染み付いていた。
魔界化した土地が元に戻ったことで村人は喜び、元に戻れたとアレは喜んでいる。
誰も苦しまず、悲しむこともなく、皆から感謝されているというのに、なぜここまで俺の気は重いのだろう。
「おい、アルベルト」
そんなことをつらつらと考えていたら、俺と同じく荷台に乗っていたヨーガンが声を掛けて来た。
「何だ?」
「マティは今どこだ?まさかオンシュマに忘れてきた、とかはないだろうな」
言われてみれば、オンシュマから荷馬車で移動し始めて大分経つが、マティの声を聞いていない。
まあ、忘れてしまったとしても、彼女は飛ぶことが出来るので大丈夫だろう。
そう踏んで、俺が返答を返そうと口を開くと。
「『ここにいるわよ』」
俺の口から、マティの声が紡がれた。
直後、俺の身体を通り抜けるようにして、白く透き通ったゴーストの少女の姿が、荷物の間に浮かんだ。
「マティ」
『いやー、身体の感覚があるって、なかなか面白いものね』
下半身を煙の塊のようにして、ニコニコと微笑みながら、彼女は荷物の上の空間でくるりと回転して見せた。
「全く、どこにいるかと思ったら・・・」
『別にいいでしょー?新発見した機能は、徹底的に試さないと』
ぼやく俺に、彼女はそう応じる。
「呑気なもんだな・・・こっちは世界の終わりを待っているバケモノで頭が一杯だってのに・・・」
俺は軽く頭を掻くと、マティから視線を外し、ヨーガンの方に向けた。
「それで、ヨーガン。アレはどうするんだ?」
「アレ?」
怪訝そうな顔で、彼が首を傾げる。
「アレだよ。『呪いの入り江』の。とりあえず、世界の終わりが来るまで待つとか言っていたけど、どうにかしないといけないだろ」
俺はあまり魔術には詳しくないが、石柱を破壊し、何処かへ己を消したアレの魔術がとんでもなく高位の物であることは分かる。
アレが『呪いの入り江』に帰ってくるのがずっと先なのだろうが、アレが地と海を埋め尽くす為に増えるのは確実だ。
アレを防ぐ手立てを見つけなければ、言葉どおり地と海が埋め尽くされてしまう。
しかし、ヨーガンは俺の言葉に軽く頭を振りながら、口を開いた。
「どうにかも何も、我々は何もする必要はないぞ」
「は?」『へ?』
思わず俺とマティの口から、間抜けな声が漏れた。
『いや、いやいや、何もする必要はないって・・・』
「アイツも言っていただろう、『世界の終わりが来るまで待つ』とか」
『そんなこと言ってても、途中で気が変わったとかで帰ってきたらどうすんのよ』
彼は少しだけ姿勢を変えながら、続けた。
「アイツは少なくとも、約束を違えるような種類の存在ではないはずだ。
幾つにも分割されたうちの一体であるネレイスの状態で、我々と交わした約束どおり、我々の願いをかなえてくれただろう。
しかも、私の『質問に答えてくれ』という願いをかなえた後は、私の言葉に耳を傾ける様子もなかった」
『だから、アレが世界の終わりまでちゃんと待ってくれるだろう、って?』
「うむ」
「でも、アレはしばらく待つとか言ってただろ?その『しばらく』が経っても、地上の生き物が滅んでいないってこともありうるんじゃ?」
「残念ながら・・・それはない」
再びヨーガンは頭を振って、続けた。
「アイツは『数百億の昼と夜』とも言っていた。単純に計算すれば、一億年ほど待つということだろう。これが千年や一万年ぐらいならば、まだ人間や魔物が地上にいるかもしれない。
だが、一億年も経過してしまえば人間や魔物はおろか、生き物さえもいなくなる可能性が出てくる」
『生き物さえも、って・・・』
「まあ、多分生き物は残っているかもしれないが、少なくとも我々と関わりのある種類ではないだろう」
彼はそう言うと、足を組み、両腕を頭の後ろに回して木箱に背を預けた。
「つまり、我々が今どうこう騒いだところで、遠い未来に帰還したアイツの増殖を止めることは出来ないということだ」
「そんな・・・」
「さて、アルベルトにマティ。私は昨日のオンシュマでの宴会で疲れているから、これから一眠りしようと思う。そして目が覚めたら、『呪いの入り江』で魔力を除去したより後のことは忘れてしまうはずだ。君達も一眠りして、頭をすっきりさせるといい」
ヨーガンがこちらに目を向け、低い声で続ける。
「そして、エルンデルストで今までどおりの生活をしようじゃないか」
『ヨーガン・・・』
「・・・・・・」
「人の力には限界がある」
顔を上に向け、両の目蓋を下ろしながら、彼は言った。
「限界の内ならば、全力を尽くさなければ生らないが、自分の力の及ばぬ領域のことなら、とっとと忘れてしまえばいい」
そのまま言葉を切ると、彼はゆっくりとした吐息を重ね始めた。
『ヨーガン・・・』
マティが名を呼ぶが、本当に寝入ったのか、彼は答える様子もなかった。
『はあ・・・』
マティは溜息を一つ挟んでから、俺のほうに顔を向けた。
『全く、ヨーガンも困ったものね。一億年も未来に、アイツが帰ってきて世界を支配するだなんて。寝言もいいことだわ』
彼女はそう言うと、俺の返事も聞かずに、空中に浮かんで仰向けになりながら続けた。
『あーあ、私も疲れたし、寝るわ』
そしてすぐに、控えめな寝息が俺の耳に届いた。
どうやら、彼女も俺と同じ結論に達したらしい。
言われてみれば最もだ。今から俺が騒ぎ、アレの存在を信じさせたところで、一億年も未来のことなどどうしようもない。
対立している魔物と人間が完全に手を組み、アレの帰還を待ち構えるなど不可能な話だ。
だとすれば、俺に出来ることはただ一つ。忘れることだけだ。
俺も二人に倣って、荷物の間に寝転がり、出来るだけ楽な姿勢をとると、そのまま目を閉ざした。
程なく、心地よいまどろみが俺を包み込み、意識を何処か深いところへ沈めていく。
俺は抗うことなく、まどろみに何もかもを任せた。
『呪いの入り江』のアレを忘れる為に。
そして、エルンデルストでの日々に、全力を尽くせるようにする為に。
10/10/06 15:31更新 / 十二屋月蝕

■作者メッセージ
お久しぶりの十二屋です。七月ごろから書いていた長編が、ようやく完成しましたわ。
まあ、読んだ方は分かると思いますが、今回もどうしようもないぐだぐだっぽいお話です。
ここまでお付き合いいただいた皆さんに、感謝します。

さて、今回は、魔物と魔界の関係について書いてみました。
図鑑世界では、凶暴な魔物も魔界の魔力である程度温厚な魔物娘になり、魔物娘は魔力で周囲の土地を魔界化するとされています。
魔界化した土地では魔物娘が発生し、魔物娘は土地を魔界化するという設定ですが、逆に土地を強引に魔界化すれば、その土地の凶暴な生物や魔物は比較的大人しい魔物娘になるということではないか、と考えました。
それで、書き上げたのが今回の作品ですが、ええもうグダグダです。
他の生物から変異する設定があり、かつ大量に変異する可能性のある魔物としてネレイスを選びましたが、お読みの通り図鑑設定とは別物です。
アルベルトはマティと合体して暴れ始めるし、最後にはアレが出てくるしで、反則も脱線もいいとこです。
次はもっと上手くまとめられるよう、精進したいと思ってます。

それでは今回はこの辺で、十二屋でした。

追伸
アレは、昔私が書こうとしていた作品の存在ですが、設定を知りたい方っていますか?
もしいるのならば、コメント欄にそのうち投下しようと思います。

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