読切小説
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電気羊と泡沫の月
 俺は仕事なんて嫌いだ。
 いつだって、そいつのせいで俺は損をする。
 
 既に夜は十分にふけっていた。
 坂道の多い通勤路を、俺は疲労の溜まり切った両脚を必死に引きづりながら歩いている。周りの店や建物は戸締まりを終えていて、明かりなんてどこも灯っていない。
 今宵は新月。俺の歩く道なんぞ月は照らしてはくれない。
 その代わりにあるといえば、わずかな星の光と全自動で点灯する無機質な街灯。だがそれらも月の光にはどこか敵わない。こんな暗い夜道を歩くものなんて、俺のようなしがないサラリーマンだけだろう。 
 俺は自分の左手の腕時計を重たそうに顔に近づける。今からじゃ走っても大して変わらないか。

 今日も今日とて辛い一日であった。
 ここ最近は繁忙期のせいか、ひたすらに残業と激務が続いている。
 最後の2時間は特に最悪だった。

 こんな残業をすることに果たして何の意味があるのかと。
 こんなに必死になってまで俺が会社にしがみついて存在する必要があるのかと。

 仕事中、日がな一日、泥臭く萎びた思考が俺の脳の中を満たしていた。
 せめて表に出ないように、精一杯取り繕って堪えていた自分を誉めてやりたいくらいだった。
 一つ歩くたびに目の奥で、残業で酷使されて、タプタプと溜まりまくった疲労と不快感の波がたつ。それだけが今日の俺に唯一残されたものだと思うと、なんだか乾いた笑いが出てくる。
 坂道を下っていくにつれて、小さな星々と人工の光は建物に遮られていく。同時に、情けなく丸まった俺の背中も色を失っていく。まるでゆっくりと暗闇の沼に沈んでいくような錯覚さえ覚えるが、今はその沼にいち早く浸かってしまいたかった。
 
 いや、もうよそう。
 仕事は終わった。終わったのだ。

 今日はもう何も考えないことにする。
 幸いにして今日は週末だ。今の俺にはそんなことに不平不満に漏らすよりも大事な約束がある、いや正確にはあったのだが。
 とうに彼女との約束の時間は過ぎてしまった。だがそれでも最低限の誠意は見せないといけないだろう。
 
 やがて俺は目的の場所がある、ひと際薄暗い裏通りへとたどり着いた。
 すると不思議なもので、疲れ果てたはずの身体にいつの間にか力が入るようになった。通い慣れた藍色の夜道に入るだけで、猫背だったはずの背中はシャンと伸びていく。暗闇が深まるほど、反対にその歩幅と速度は高揚し、前進する。

 目的地は、もうすぐだ。

 次第に奥の方からポツリと一つの小さな明かりが浮かび、近づいてくる。
 それは緑と黒色のゴツゴツしたフレームのカンテラの光だった。カンテラは壁に打ち付けられた金属製のフックに吊り下げられていて飾り気がない。
 
 だが、それでいい。
 無理に目立たれるとミーハーな客が増えてしまうと困る。

 俺はその光の元までたどり着くと、その前で立ち止まる。
 明かりの隣にある白いフェイバーグラスの扉を見つめて、一度深く息を吐き出す。
 そしてくたびれたスーツの襟元を正し、袖にシワがよっていないかの身だしなみをチェックをする。別にそんな些細なことを気にする彼女ではないけれど、一応だ。
 周りの建物によって光は完全に遮られてしまっているが、その不格好なカンテラのおかげでドアノブを見失うことはない。
 
 よし。

 気合いを入れ終わった俺は、緩い歩調で手前にある段差を上る。
 そして、白い無地の扉に手をかけて、ゆっくりと開く。

 ―――カラン。

 扉の上部についた錆びたベルが軽く安っぽい音を立てる。
 通いなれた今となっては、この不細工な音が堪らなく心地が良い。
 聞き馴じんだその音が店内に響き切る前に、「店の中から」眩しいくらいに輝いた、鮮やかな青白い満月の明かりが差し込んできた。

 無論、この満月は本物ではない。
 店の奥の壁に設置された直径3m以上はあるであろう巨大な丸いスクリーン。そこへ向けて特殊なプロジェクターから、満月の映像が投射されているのである。その映像は月面のクレーターの一つ一つまでを鮮明に映し出していて、まるで店の中に本物の月が浮かんでいるように見えるというわけだ。

 俺は美麗な月が一番良く映えるカウンター席へと近づいていく。
 だけど、俺は「その月」を見るためにそこを選ぶわけじゃない。
 目当ての席の目の前に立つと、カウンター越しのセミロングの女性店員がこちらに気付く。

「あら、雄二さん。」
 ややハスキー気味で落ち着いた声が、朗らかに俺の名前を呼ぶ。それが俺の幸せに一層強く拍車をかける。
「……こんばんは、深月さん。」
 毎回、声が上ずりそうになるのを堪えるのが大変だ。
 つい緩みそうな口元を誤魔化すために、俺は少し大袈裟に会釈を返す。たった五文字の言葉を聞くだけでこんなにも心地の良い気分に浸れてしまうあたり、我ながら単純な人間だなとつくづく感じる。

「随分と遅いご来店ですね?」
「すみません。もっと早く抜け出したかったんですが。どうしてもね」
 いつものお気に入りのカウンター席。
 深月さんの距離が一番近くなる、手前から三番目の席。そこに座りながら俺は遅刻の言い訳をする。
「本当ですよ。とうとう過労死してしまったのではないかと心配になるんですよ?」
 ぷりぷりという音が出そうなくらい、彼女は唇を尖らせている。だが実際には全く怒っていないだろう。おそらく年もそんなに若くはないはずなのに、その仕草の可愛らしさにまたしても口元がだらしなく崩れてしまいそうだ。
「はは、まだこの齢で死ぬわけにはいきませんよ。スプリッツァーで」
「はい。ワイン作っている私としては割らずに飲んでほしいんですけどね」
 多少すねたような声で深月さんはそう答える。そんな姿も何故だか可愛らしくてたまらない。
「すみません、鍛えるために定期的に飲んではいるんですが、まだ全然ダメでね」
「あらそうだったの?ごめんなさいね……そんなつもりじゃなかったんですけど」
 彼女はちょっとした意地悪で言ったつもりだったのだろう。
 すかさずフォローを返してきた。
「いえ、仕事での付き合いの時に飲めることに越したことはありませんし、飲めるようになればこの店にも貢献できますから」
「ふふ、ありがとう。でもあまり気にしないで下さいね。たった一杯でも飲んでくれる人がいるって、すごく作り甲斐あるんですよ」
「……ありがとうございます」 
 深月さんは俺に背を向けて、後ろの棚から白ワインのボトルと瓶のソーダを探し始める。その彼女の臀部のあたりでは、フワフワと羊の柔らかな尻尾がご機嫌そうに漂っている。
 
 ……今のうちか。
 深月さんの優しい気遣いの後に、こんなことをするのは気が引けてしまう。
 だが俺はこれが楽しみで、今日一日辛い仕事を頑張ってこなして、ここに来ているのだ。

(どうか、お許し下さい。)

 俺は深月さんに悟られないように、艶かしく振られる彼女の下半身を己が目で丹念に舐め回す。
 ……うーむ。やはり、深月さんはパンツスタイルが良く似合うな。
 七分丈のホワイトのぴっちりしたパンツが左右に振られるたびに、俺の目線が合わせてスライドする。古時計の振り子にでもなった気分だ。
 そしてその七分の裾の隙間から見える綺麗に手入れされた羊の体毛が、なんかもうエロい。最高に楽しい。今が最高。
 
 深月さんの臀部が何度目かの振り子運動の後、不意に尻尾もろともキュッと引き締まり、コンクリートが固まったかのようにゆれ動くのをやめる。
 カクテル作りに集中するときの彼女のいつもの癖だ。実に可愛らしい。
 
 深月さんは「サテュロス」という山羊の魔物だった。
 その側頭部には、羊らしい立派な巻き角がセミロングの髪の間から突き出している。
 
 この店は彼女が中心となって経営をしている隠れバーなのである。

 魔物が、こうして汗水垂らして働くなんてことは珍しい。
 働くということは、損をすることだ。
 働くということは、ストレスが貯まるということだ。 

 毎日律儀に出勤して、ノルマをこなし、時には急で無茶な案件に振り回される。
そんな労働ストレス社会の中に、元来快楽主義である魔物が溶け込むことは容易ではない。

  ましてや会社の人間関係など、魔物にとっては辛い事案の筆頭だろう。深月さんのような自営業の職場ならまだしも「一ミリも興味のない夫以外の男」のために気を使う会社勤めなんて、不服以外の何物でもない。たとえ男同僚に気があったのだとしても、会社に男を探しに来たのかと偏見を言い出す輩もいる。これでは魔物側にはたまったものではない。 
 そしてそれは人間だって同じだ。
 特に人間の男性は日々の激務の中、女として魅力的な魔物達と「単なる仕事仲間」とか「嫁ではないただの会社の同僚」として話さなければいけない。仕事に追われる「仕事モード」な男達にとって、これほどやりづらいことはないだろう。
 夫のストレスを忘れさせるのが生き甲斐の魔物たちが、逆にその存在自体が夫以外の人間のストレスになるのだ。
 魔物達が夫以外の男に関心を持たないとは、つまるところそういうことなのだ。

 そしてサテュロスはそんな魔物の中でも、遊び人と称されるほどの享楽的な性格。そんな彼女が働くこの店は、実はそれだけで非常に稀有な存在であった。

 だがだからといって、それが俺がここに来る理由になるわけではない。
 俺は別に珍しいものが見たいのではない。それではただのミーハーだ。
 俺はただ深月さんに会えればそれでいいのだ。この目の前でセクシーに揺れている深月さんの小ぶりな臀部と尻尾が見たくてここにきているのだ。我ながらゲスい。
 迫りくる月曜日に勇敢に立ち向かうため、今の俺には心の栄養補給が必要だ。

「雄二さん、あの……いつも言いますけど、少ないとはいえ他のお客さんもいますからね?」
「はいっ」

 補給タイム終了の鐘が聞こえた。清々しいまでに良い返事をしてしまったぜ。
 いつもならもう少し眺められたのだが、今日は調子がいまいち良くない。だがそういう制止のセリフも彼女はちょっと照れ気味に言うので、これがまた男心をくすぐってくる。これはこれで、いやむしろアリだ。とてもやめられそうにない。

「……なんだか、セクハラにキレがないですね。雄二さん、仕事で無理しているんじゃないですか?」
「えぁ、まあ……いや。そうですね」
 背を向けたまま、低いトーンで深月さんが尋ねてきた。
 対して、突然の胸を射るような発言に俺は誤魔化しきれず白状してしまった。お見通しだったのはセクハラだけではなかったようだった。
 深月さんに必要以上に気を使わせてしまうのはどうかと思って言わないつもりだったのだが、実はもう疲れがピークで結構しんどい。今しがた注文した酒を飲み干せるかどうかも怪しいくらいだ。
「最近、スケジュールがギリギリなんです。俺がやらないと……だから仕方のないことですよ」
 言いつつも、俺は深月さんの方向を見てはいなかった。
 アルコールには弱いとは言ったが、素面で正面切って弱音を吐けるほど素直な人間でもない。

「……本当にお疲れさまです」
 必要以上に詮索することなく、ただただ労う言葉。
 それがこんな麗しの女性から聞けるだけで、俺は十分に恵まれている。こんな疲れすらも、安いもんだと思える。
「でもせめて……この店では、これくらいラフでいてくださいね」
 そういって深月さんは、出来立てのスプリッツァーを差し出してくる。
 名前の響きと弱い俺でも飲めるアルコール度の低さ、単純に白ワインをソーダで割っただけという単純さと、爽快さを表したような淡黄色、俺のお気に入りのカクテルだ。

「ソーダの方、多めにしておきましたから」
「ありがたい……いただきます」
「雄二っ!やっと来たかぁ!」
「うわっと、と」

 深月さんからカクテルを受け取ろうとした瞬間、突如ドスンと、後ろから何者かがぶつかってきた。
「おー悪い悪い。酒こぼしてねえか?」
「え、ええ、大丈夫ですよ」
 衝撃と共に後ろから投げかけられる、快活な女性の声。
 バンドをやっていますと言わんばかりにトゲトゲとした金色のハリネズミヘアーが俺の側頭部にチクチク刺さる。
 さらに流れるような動きで、俺の肩にナイルグリーンに色めく鳥の翼がぐるりと組まれる。

「いや、それどころじゃねえぇ!来るのがおせぇぞ!約束しただろうがよ!」
「すいません、悠希さん。今日の演奏、間に合わなくて……」
 目の前にいるこのご機嫌ナナメなヤンキー風の女性もまた、魔物だった。
 悠希さんはサンダーバードという鳥の種族だ。
 彼女はこの店の専属バンドとして活動していて、定期的に彼女のバンドの演奏が行われている。ゆえに悠希さんは2人目の看板娘のようなポジションにあたる。1人目?もちろん深月さんだ。
 不機嫌さを丸出し大放出で突っかかってくる悠希さんに対して、俺は素直に平謝りする。
 事情はどうあれ、俺が「今夜、ライブを見に行くから」という悠希さんとの約束を破ったのは事実だから仕方ない。
 
「あー安心しろ、まだやってねえ」
 赤みがかった顔でしれっと悠希さんは言い放つ。その様子からして既に飲んでいるようだが、まさか酔っぱらって演奏不能なんてヘマをしでかしたのだろうか?いや、いくら何でもそんな娘じゃないと思うが。

「何か、音響機器のトラブルでもあったんですか?」
「いや、なんも」
「じゃあ何故……」
「んなの、決まってんだろーがっ!」

 突然大きな声を張り上げた悠希さんに思わずびくっとする。酔っ払いの行動は急激だから困る。だがそんな及び腰の俺にはお構いなしで、彼女の厳つい二つの羽が俺の上半身にバサリと覆いかぶさる。

「雄二。お前が聞かなきゃ意味ねぇだろう?」

 やだ……イケメン。
 自分の少女漫画のヒロインみたいなキュンっぷりに軽く引く。悠希さんの身長は俺よりも低いが、それに反して翼のボリュームが凄まじい。猛禽類のそれに似た彼女の両翼によって、俺の上半身はバッサリと隠されてしまった。

 これが彼女の壁ドンに変わるイケメン必殺技、「羽バサ」である。
 というかヤバい、絡まれた。
 彼女の顔が近い。空気が籠ってすごく酒臭い。
 過去何度かこれをやられたことがある。視界も逃げ道も塞がれるので、一度捕まるとなかなか逃げられないのだ。

「悠希さん、別に口説くのは構わないけれど、そろそろ演奏準備の方いいかしら?」
 翼のせいで顔は見えていないが、俺が困っているのを察してくれたのだろう。深月さんが助け舟を出してくれた。
「あ……ああ、そうだな。雄二も来たことだし、もう始めないとな。これ以上他の客を待たすのはマズい」
 先程とはうって変わって勢いのない悠希さん。雇われている身である以上、悠希さんは深月さんには頭が上がらない。そしてその演奏の開始が遅れているのなら尚更だろう。

「そうね。まぁ、大体は常連の魔物さん達ですから。ムーンライトラウンジで『愛しい彼氏にラブソングを』とでもいえば分かってくれるとは思いますよ?」
「ちょ……そういう言い方よしてくれよ!古いし恥ずかしいなぁ!」
「あら悠希ちゃん、顔が赤いですよ?」
 演奏が遅れたせいなのだろうか。いつになくいじわるな深月さんだ。
「酒のせいだよ、酒の!じゃあ、そろそろ行くから」
 笑う深月さんを他所に、悠希さんは最後まで言い切る前にぐるりと振り返る。その勢いのまま、彼女はカウンターから離れていく。心なしか早歩きだ。
 
 悠希さんはそのまま、先ほどの月の映像のスクリーンの真下にある演奏ステージの方へと向かっていく。ステージには既に悠希さんのバンドのメンバーであるサイクロプス、ケンタウロス、キキーモラが各々の楽器を握って待機していた。
 遠目からは何を話しているかはわからないが、メンバー達と合流した悠希さんはえらく小言を言われているようだった。さっきはあんな風にキザッぽく言っていたけど、どうやらかなり無理を言って俺の到着を待ってもらっていたらしかった。メンバーに両手を合わせ、何度も頭を下げている悠希さんを見ていると、今さらになって約束を破ってしまったことが申し訳なくなってくる。

「……随分と熱烈なプロポ―ズをかけられていますね?」
 不意に呟いた深月さんが、またもクスクスと笑いはじめる。
 しまった。からかう相手がいなくなったから、今度は俺の方に矛先が向いている。
「ええ……まぁ、俺なんかのどこに惹かれたのはさっぱりですけど」
「そうかしら?お似合いだと思いますよ」
「やめてくださいよ、もう。」
 なんだか恥ずかしくなってきた。女性に好意を向けられて嬉しくないと言えば嘘だが、どうにも慣れなくて首元が落ち着かない。というか深月さんも、分かってて自覚で言っているのがまたタチが悪いな。優しそうな顔して人のことをいじめるのが好きらしい。

「彼女は、お気に召しませんか?」
「いや、決してそういうわけでは……」
「じゃあいいじゃないですか」
「だからその、そう単純なことではなくて……」
 しどろもどろになっていく俺に対して、深月さんの笑みは次第に大きくなっていく。
「からかいがいがありますね、雄二さんは。そういう所、あの子もきっと好きなんだと思いますよ?」
「いや、だから僕は最初から―――」
 いつもだったら愛想笑いで軽く流すところを、疲れのせいか思わず言葉に感情が乗っかってしまう。
 だがそこまで言いかけた後。
 深月さんは俺の口元に人差し指をつき出してくる。不意打ちで行われたその行為に、俺は思わずつばを飲んでしまう。


「それは……声にしてはダメですよ、雄二さん。」

 ……相変わらずズルい方だ。そうされると何も言えなくなる。
 
 深月さんはそのままにっこりと笑うと、俺を制したその手を奥にあるステージの方へと向ける。その手の先を追いかけると、月の下のステージに立つ悠希さんがその合図を返していた。どうやら準備が整ったらしい。
 そんなやり取りに気がついたのか、他の魔物客達も談笑をやめて、悠希さん達の方にバー内の視線が集まる。
 
 照明がやおら消え落ちていき、月のスクリーンだけが店の中をほのかに青白く照らす。

 ……始まる。

 シンと、静まり返った室内。

 誰一人として喋らず、息を漏らしたり身動きをする音も聞こえない。
 ただ一人、悠希さんが大げさに深呼吸をしている。

 その呼吸音とともに、先ほどの酔っ払いの悠希さんの姿が緩やかに消えていく。
今の彼女の瞳は、まさしく狩りをする時の鷹だ。
 四つの鋭い視線がステージでぶつかり合うと、メンバー全員が同時に息を吸って、吐き出す。
 悠希さんは緩やかに両翼を持ち上げる。
 その翼には革とゴムで作られたリストバンドがはめられていて、そこにドラムのスティックが取り付けられていた。普通のドラムスティックは扱えない悠希さんのために作られた特別製だ。
 
 薄暗い店内で悠希さんがスティック同士を4回、軽快に叩きつけた。



 その直後。
 ピアノのジャジーで、力の籠った音色が室内全体へと駆け巡る。
 ピアノを弾くのは、キキーモラだった。
 本業はメイドらしいが、なぜか演奏中の今もメイドの恰好をしている。
 しかしその大人しそうな見た目からは想像もつかないほどの疾走感と瑞々しさが彼女の電子ピアノから産み出されていた。狼が狩りの先陣を切るようにして、彼女の十の指が鍵盤の大地を駆け抜ける。

 そしてピアノと並走する形で悠希さんがドラムを連打する。
 さらにその隣の、ベースを持ったサイクロプスが続いて演奏に参戦する。サイクロプスは普段は喋ることのない種族らしいが、今演奏している彼女は重低音を部屋中に轟かせながら暴れている。

 誰よりも生き生きと、誰よりもやかましく。
 サイクロプスは暴力的にベースの弦を掻き鳴らす。

 だがドラムの悠希さんも負けていない。スネアとバスドラムを特殊スティックで器用にビートを荒々しく刻み、ベースに対抗する。
 キキーモラの軽やかに駆け抜けるピアノ旋律の凱旋に、ベースとドラムが互いに勢力をぶつけながら混ざり合う。

 怒涛の幕開けに歓声を上げる客たち。
俺も決して例外ではなく、足元から全身にかけて震えがぶわりと沸き立つのが分かった。

 ああ、悠希さん達の演奏は、やっぱり最高だ。
 
 急激に上昇する店内の熱気。
 楽曲の盛り上がりと共に、演奏のピークの頃合いで加わったのが、ヴァイオリンを弾くケンタウロスだった。

 彼女のヴァイオリンがかき鳴らされた瞬間。
 後ろにある月の映像がプロジェクターの横の照明機具によって一気に七色に変化する。
 青色だった月光が紫色に変わり。
 紫色から赤色に移り変わる。
赤から黄色、黄色から緑、緑から青。 
何度も何度も、色は波のように変化を繰り返して、循環していく。
 
 その色鮮やかな月光の扇が、4人の魔物をきらびやかに染める。
彼女たちは息を完全に合致させて、絶妙なバランスで美麗なインストロメンタルを紡いでいく。
 夢中でドラムを叩く悠希さんの汗がキラリと跳ねる。その滴にカラフルな月光が当たって反射される。その光が火照った悠希さんの顔の艶かしさと麗しさ、繰り出されるドラム演奏の勇ましさを一際強く演出していた。



「……綺麗だ」
 自分で口に出していたことに気が付かず、思わずハッとなってしまう。俺はチラリと横目で深月さんを見る。聞こえていないだろうか?いやライブ中だし、きっとかき消されているはず。

「本人の近くで聞かせてあげて下さい。きっと喜びます」
「いやいや、綺麗ってあれです!月のことですから……あ、いや。そういう意味でもないですけど……」 
 ばっちり聞こえていたようだ。
 酒も飲んでもいないのに、しどろもどろな醜態をさらしながら必死にごまかそうとする。だが深月さんはただひたすらに今日一の笑顔を浴びせかけてくる。

 あ……。

 今さらになって、俺は気がついた。
 目の前のスプリッツァ―を一度も口にしていなかったのだ。折角深月さんが作ってくれたのに、さっきのバタバタですっかり忘れてしまっていた。
 深月さんもそれに気が付いたのか、少し遠慮気味に言葉を漏らす。

「いいんですよ、無理はしなくても……疲れているんでしょう?」
「いえ……頂きますよ」
 確かに俺は疲れている。
 出された酒を一口も飲まないのはマナー違反だなんて、下戸の俺には口が避けても言えない。
 しかしこの酒を残すほど、男のプライドを捨てたわけでもないのだ。
 俺はスプリッツァーを一口、ぐいっと煽る。
 そのまますぐ飲むことはせず、口の中で味わうように舌の上で転がす。パチパチと気楽に弾ける感覚が上あごから目の裏を通り、脳へと伝わっていく。
 十分に泡沫を味わったのち、それを全て喉の奥へ運んで、飲み下す。
 
 すぐさまアルコールによる熱が胃から上ってくる。
 目の奥がクラクラとして、きつい。すごくきつい。
 
 だがそれも最初だけだった。
 彼女のワインは不思議と不快感を伴わない。
 それどころか白ワインと爽やかな炭酸が、逆に心地よく俺の脳を酩酊させてくれる。
 
「……美味しいです」
 
 瞼に力を入れて深月さんの方を見る。彼女はカウンターに肘をついて、身体を前に突き出している。さっきまで俺のことを茶化していたのに、今は心配そうに俺の顔を見つめていた。

 先ほど飲み下したそれを、俺は脳内で反芻してみる。 

 俺は初めてこの店に来た時から、深月さんが好きだった。
 深月さんと、深月さんが作ってくれるスプリッツァーが好きだった。
 だが、それは言葉にしてはいけないことも理解していた。きっと深月さんはその言葉を望んでいないことも。

 深月さんは、魔物なのだ。

 魔物に本当に必要な男は同僚でもお客さんでもない、夫だけだ。
 口の中に酒は残ってないが、それでも無理矢理何とかして俺はゴクリと飲み下す。
 代わりに、俺は自分の家の鏡の前で何度も練習しておいた言葉を吐く。



「……旦那さんは、マスターは元気にしてますか?」

 一瞬、深月さんは驚いた様な顔をしたが、やがていつもの朗らかな笑顔に戻る。


「おかげさまで、仲良くやっています」
 ありきたりの言葉、やはり彼女は詮索をしない。
 だが、それでいいのだ。

「よかったです。健康を崩したら大変ですからね」

 同じように、俺もありきたりの言葉を返す。
 本当は色々と聞きたかったし言いたいこともあるけれど、やはりそれも声にしない。
 俺はこうべをゆっくりと垂れて、そしてもう一度悠希さんたちの演奏の方へと向き直る。
 
 客たちは完全に聞き入っていた。
 最前列の魔物達が酒を片手に、悠希さんたちに向けて幾度目かの歓声を上げる。
 その声に応えるように、悠希さんはいっそう力強く、テンポを上げながらバスドラムとシンバルを叩き鳴らす。
 残りのメンバーもそれに続く。勢いを増して各々の楽器を指で叩き、弾き上げ、こすり上げる。
 誰しもが心の底から、演奏を楽しんでいる。子供がお気に入りのおもちゃを持って暴れているかのようである。

 悠希さんたちのバンドにボーカルはなく、ゆえに歌詞もなく肉声一つとして聞こえはしない。しかし彼女達の思いはそこに絶えず鳴り響き、耳に飛び込んでくる。


 仕事なんて大嫌いだ。
 いつだって、そいつのせいで俺は損をする。
 
 でもそれは、彼女たちにとっても同じことなのだと思う。
 彼女たちもきっと同じようにそうであって、何かを抱えているのだろう。
 その重さを、ストレスを感じる瞬間なんていくらでもあるのだろう。

 仕事なんて大嫌いだ。
 辛さのない仕事なんて存在しない。苦痛こそが労働社会だ。

 それでも。
 それがあってこそ、この店がある。

 そしてそれはきっと、幸せなのだと。

 深月さんも悠希さんたちもきっと胸を張って、そう言うのだろう。
 仕事に対してそう思えるのは心底羨ましいし、ほんの少しだけ共感もできる。
 
 俺だってそうだ。
 ここにいるのが幸せだから、来ている。
 辛い仕事帰りにここに座って、このいつものカウンターで。
 悠希さんの演奏が聴けて、深月さんの酒が飲めれば、それでいい。
 深く考えることに意味はないし、環境や想いを無理に言葉にする必要はない。

 人生なんて、それくらいラフでいいのだ。
 ここは、それをいつでも何度でも教えてくれる。

 俺はもう一口だけ、手に持ったスプリッツァーを煽る。
 再度、泡沫が身体の中で踊るように弾けると、弱った心身にじんわりと染み渡る。
 
 電気で出来た人口の月の光が、泡沫のグラスを優しく照らしていた。
 
16/11/06 17:01更新 / とげまる

■作者メッセージ
魔物娘のいる隠れ家的バーみたいなのがあるといいよね、魔物に振られる男の話も書いてみたいね。なんてイメージだけで書き始めたらこのざまでした。なんだこれ。
 深月さんのお相手のお話も作れたらいいなと思いましたが、ネタ切れです。

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