身代わりハピネス

「おはよう、レレン」
聞いたことのある…というか一日中聞こえている声が、俺の耳に入ってきた。
透き通っており、落ち着きのある彼女の声からはα波が出ている。
「あ〜しゃべらないでくれ…また眠くなっちゃうじゃないか…」
実際、彼女の声からα波が出ていようと、俺の脳からα波が出るワケじゃないんだけど…。
だが、詭弁とはこうして使うものなのだよ。
「何回その言い訳を聞いたと思ってるの…?早く起きないと、毛布剥がして布団でくるんでお日様の下にでも干すよ?」
「…………」
しぶしぶ、俺は身体を起こした。
俺の睡眠欲求をα波で刺激したくせに、その睡眠欲求を満たさせてくれない彼女は、ティリアという。
昔から仲が良くて、それこそまるで家族のように慣れ親しんだ。
明るく、正義感が強く、誰にでも優しい…そんな誰からも好かれる性格で、子供の頃にした『ティリアの御婿さんになる』という約束を、俺が告白するまで覚えていやがりまして、俺は恥ずかしさのあまり顔が真っ赤なったというのをよく覚えている。
さりげなく嬉し泣きしてたのは、今でも内緒。

それから長い間、俺はティリアと時間を共にし、日々を過ごしている。
泣いたり、笑ったり、怒ったり…色々な感情を共有した。
もちろん、その中にはお互いの関係が崩れそうになる出来事も存在している。
だが、今となってはそれさえ良い思い出だ。
俺にティリアが必要だし、きっとティリアも俺を必要としている。
それが結ばれるという事だし、それが"夫婦"という事だ。


そんな、自己完結なプロローグを長々と話している内に、どうやら朝食が出来たようだ。
「ん〜…良い匂い…」
カタ、カタ、と机に皿が並べられる音が聞こえてくる。
睡眠欲求なんぞ、食欲に比べればどうってことはないのだと、俺はベッドから降りて、机を見た。
刻まれた青葉が散りばめられた、とうもろこしのスープに、小麦色に焼けた四角形のパン。
透明なガラスのビンには、クリーム色のバターが目一杯に入っている。
「これっ、ちょっと前にエルムの牧場でもらってきたんだよ〜。あそこのホルスタウロスは一級品っていわれてるからねー。お金も持っていったのに、エルム、タダでくれたんだよ〜。ほんとにエルムは良い子だねぇ〜」
机の真ん中には、三原色の野菜とバラバラになったゆで卵を盛り付けたサラダが置かれていた。
「それだけ余裕があるってことだろ…?」
「ん…?その言い方はいただけないなぁ…」
手を伸ばし、バターのビンを取ろうとしたところを、ティリアに邪魔される。
不機嫌そうな彼女の顔に、思わず俺は目をそらした。
「そうだな…エルムは頑張ってるよ…」
「うんっ、よろしい」
相変わらず、ティリアには勝てない。
まぁ、勝てないのが日常であり、普通なのだから、特に何かを思ったりはしなかったが…。

因みに、エルムというのは俺たちの昔の同僚で、まだ魔物が、人間を殺戮のために襲っていた時に俺たちのチームに加わっていた魔術師だ。
子供らしい容姿に似合わずその腕はかなりのものだったが、召喚魔術の式を誤り、この世界と魔界を繋ぎ、大量の魔物を生み出した事がトラウマとなってほとんどの魔術が使えなくなってしまった。
本人の言っていた言葉を引用するならば、魔術は精神的集中が最も大切だから、との事。
チームとして活動できなくなった俺たちは、強制送還され城下町で街の警護に回された。
そんな、つまらない生活にも慣れ始め、3人共に笑顔が見えてきたその時に、起こったのだ。
魔王の世代交代が。

そこから、世界は大きく変わった。

そしてエルムは、城下町にいたホウルタウロスのリナルタに貞操を奪われ、そこから彼の新たなる牧場物語が幕を上げた、というワケだ。
今となっては、一級品と言われるホルスタウロスの乳の中でも、最上級と言われるまでに成長した。
時々会いに行くが、完全に牧場ライフをエンジョイしまくっていて、トラウマも、心のどこかへ押し込んでしまったかように明るい笑顔を見せる。
皮肉な話だが、彼は魔物に救われたのだ。


 食欲を満たし、ゴロンとベッドに横になる。
「また寝るの…?」
「ふむ、人間は常に欲求を抱いている。だから、自由な内に本能的な欲求は解消しておくべきなのだよ」
ワーシープの毛布を被って、椅子に腰掛けるティリアに背を向けた。
この毛布は優れものだ、眠くなくとも、まるで睡眠薬のように人を眠りへと誘うのだ。
全く、家は小さいくせに家具の1つ1つが地味に素晴らしいこの空間が好きだ。
「ふ〜ん……じゃぁさ…」
ティリアがごそごそと毛布を動かす、というか一人分のベッドの中に侵入しなさってきた。

え?なにしてんの?

後ろから手を回され、逃げるに逃げられない状況へと陥り、身の危険を察知する。
あまりにも遅すぎる察知であった。
「私も寝ちゃおっかな…?」
そう嫌らしく言って、彼女は笑む。
あなた、手が、手が触れてはいけない所に触れているんですけど。
「まだ…陽が出て間もないんだけど…」
「欲求を2つ同時に解消できるんだから良い事だと思わない?」

ぐにぐに――――

荒れた吐息が、背後から聞こえてくる。
「……っ!!やっぱり…あのバター、精力成分抜いてなかったんだな…!?」
「採れ立てをくれたんだし、抜く方法なんて知らないからしょうがないっ」
楽しそうに言わんでくれよ。
というか発酵の方法知ってて何で抜く方法を知らないんだ…。
というかエルムは何故それを教えずにティリアに渡した!?
そうこうしている内にも、ティリアは俺の上で四つん這いになり、エルム牛乳に対する思考を消し去る様に、唇を俺の唇と合わせた。
「ん――!?」
やはり、突然に舌が入ってくる感覚には、未だ慣れない。
それに、バターのせいかいつもよりも舌の動きが激しく、口の中の唾液を全て絡め取られたような錯覚に見舞われた。
「もう、いいでしょ…?」
ティリアが、自らの性器を、俺の性器にあてがう。
「………………」
俺はただ、両腕で顔を隠していた。
どうせ返事など何と言っても変わらないのだ。
「挿れるよ…」
くちゅくちゅと、膣と俺のナニが擦れ合って入っていく。
ピクリ、とお腹に力が入った。
「ぁん…ちょっと…跳ねないでよ…」
「そん…な…こ…っ!」
ナニが膣へ完全に収まり、ティリアは垂れたよだれをすする。
「今日はちょっと……加減できないかも……」
そして、とろけた顔で言った。
嫌らしげな笑みが、俺に向けられ、膣がゆっくりと上下運動を始める。
喘ぎ声が家中に響きわたり、果てては果て、果てては果てが繰り返された。




 お日様は、一日の内で最も高いところに位置しています。
あれから、3時間以上が経過していました。
もう2度と、エルム牛乳はもらわないと決めます。
「それじゃあ私はちょっと外に出て、自然の草を採ってくるから」
ティリアはそう言って、さっさと着替え、籠を持って、家を出て行った。
城下町の薬草やら食用の草は質が低いとか言って、ティリアはいつも城の外に草採りに出かけるのだ。
普通、女性は自分が魔物にされるのを恐れ、門を出る事が少ないが、元勇者であるティリアには魔物や野犬などの動物に襲われても対処できる技術がある故、好んで門を出る。
「それじゃあ俺は…もう少しだけ…寝ようかな…」
疲労感と毛布が、睡魔を呼び寄せ、まぶたが一気に重たくなった。
踏ん張るつもりもないので、まぶたはあっという間に閉じてしまう。
あとは、夢の世界だ。

…………。


………。


……。


…。


 周りが薄暗くなっているのを見て、思わず嘆息した。
「……寝すぎたか…」
完全に寝過ごしている。
まさか本当に1日を本能的な欲求の解消に使ってしまうとは…。
十分な睡眠を摂ったくせに、まだ睡眠を求め続ける体を無理矢理起こして、周りを見た。
う〜ん…まだティリアは帰ってきてないのか…。
夕食を作るにしても、材料がない。
城下町の市場まで出向かなければいけないようだった。
「…買いに行くか…」
俺は、フラフラとベッドから降り、バターを一口舐め、服を着替える。
そしてノブに手を掛け、ドアを開け―――


「レレン!たいへ――!?」


ドアをノックしようとしたのか、小さい子が俺の身体にぶつかる。
「…………エルム。どうした?」
小さい子、エルムは、バッと俺から離れた。
その表情から、冗談を言う余裕のなどないことを感じ取る。
少なからず、牛乳の事を言える状況ではなかった。
「急いで来て!!大変なんだ!!」
「何がどう大変なんだ。説明してくれよ」
エルムは、虚弱な力で俺の手を懸命に引っ張る。
「いいから!!」
こんな表情のエルムを見たのは"あの時"以来で、俺は手を引かれるがままエルムのあとに続いた。


 エルムが連れてきたのは、墓地。
人が近寄ることは滅多になく、ましてやエルムが俺をここに連れてくるとは思いもしなかった。
だが、人の滅多に来ない墓地でも、人を埋めるときだけはたくさんの人が集まる。
「あれだよ」
エルムが指差すのは、たくさんの人だかりのその先にある棺。
人が多くて、よく見えない。
「あれが…何だ?」
「………」
俯くエルムに、俺は少しだけ嫌な予感を感じたが、そんなワケがないと己の不安を拭き去った。
彼女にとっては、今の魔物なんて相手にならないし、動物にだって負けるはずがないと、何度思っても、不安はくつくつと込み上げてくる。
そんな事あるワケがないと、自らの不安を掻き消したい一心で、俺は人を押しのけて、棺へと走った。



現実はあまりにも現実だ。
不合理が当然で、不都合が常識、不安定など日常茶飯事だ。
この世界に絶対を求めてはいけないし、全てにおいて、不動などはありえない。
極論なのかもしれないが、それが結論である。
たとえそれが、普段の生活だったとしても、だ…。
いつまでも同じ繰り返しが続く事はなく、始まった以上いつかは終わる。
いつ始まるのかを知ることができるのは、紛いもなく始まってからであり、いつ終わるのかを知ることができるのも、終わってからなのだ。
結論を言えば、人間には、何も知ることができないのだ。


「………っ……」
「…………レレン」
血の気が引いていく。
体が硬直する。
息ができない。
息を止めているのではなく、酸素が肺に入っていかなかった。
足腰の力が全て抜けて、膝から崩れ落ちる。
瞬きを忘れている。
焦点がずれ始める。


「ティ…リア…?」


俺の口から無意識に言葉が出た。
血が巡る。
「ティリア…」
体が動く。
「ティリア」
息を吸う。
「ティリア!!」
真っ先に焦点をあわせる。
「ティリアァ!!!!!!」

もう目を覚ます事のないティリアに、俺は叫んだ。
叫び続けた。


もう動かない手を握って…。
紫色になった唇をなぞって…。
冷たくなった体を抱きしめた…。
何度も、何度も……。



 「レレン」
「大丈夫だ…。大丈夫…」
声は枯れ、城下町の賑やかな音も耳には入らず、夜を照らす様々な色の明かりも、全て白に見える。
今、どこを歩いているのかも、どこへ歩けば家に着くのかも分からない。
「レレン」
振り返ると、エルムは1つの家を指差し、こちらを見ていた。
「君の家はここだろ」
「あぁ、そうだったな。………そんな心配そうな目で俺を見ないでくれよ」
俺がドアを開け中に入ろうとするが、エルムが背中から俺の服を引っ張ってそれを遮る。
「レレン。牧場に来て、僕と一緒に暮らそう。ホルスタウロスもいるよ」
エルムなりの気遣いだったが、俺はこれを聞いても、なんとも思わなかった。
「…あぁ…考えておく…。とりあえず今日は疲れた…眠ることにするよ…」
「……また明日、来るから」
「…あぁ…」
ドアがゆっくりと閉まる。
ふと、鏡に、目が赤く充血し、疲れきった誰かの顔が映し出されたが、すぐに、自分の顔だと気づく。
こんな顔してたのか…そりゃエルムも心配がるに決まってる。
明日からは、エルムのとこに行って牧場生活ってのをしてみるのも…悪くはなさそうだ…。
いつまでも落ち込んでいられるほど世界は優しくないし、易しくない。

洗面所で、顔を洗って、ベッドに潜った。
頭の中で未だ情報が整理出来ないでいる。
毛布を被っても眠くならず、どころか、完全に目が覚めてしまって、眠る気にすらなれなくなってしまった。

俺は、ベッドから降りて、冷却付加魔術式の施されたタンスを開ける。
「………ん…?」
最上段、つまり最も温度の下がっている所に、今日ティリアが持っていったはずの籠が置かれていた。
中身は、そこらへんにでも生えているかのような草ばかり。

『それじゃあ私はちょっと外に出て、自然の草を採ってくるよ』

何が起こっているのか思考が追いつけず、俺は言葉を失った。
ティリアは、もう、居ないはずなのに…何故…籠がある…。
一度…帰ってきたのか…?いやそれはない…それならティリアは俺を起こすはずだ。
なら、籠はどうやってこのタンスの中に入れられた…?
今までの無気力がまるでウソのように思考がはたらくが、矛盾が入り混じり、どのような思考を展開しても結論が出ることはなかった。

それに加え、ガチャ、というドアの音にも気がつかなかったのだ。

「ただいま」

俺は声をした方を振り返る。


………!!!


現実はあまりにも現実だ。
不合理が当然で、不都合が常識、不安定など日常茶飯事。
この世界に絶対を求めてはいけない。
全てにおいて、不動などありえない。
極論かもしれないが、それが結論。
それは、普段の生活から逸脱した今の状況でも同じ。
いつまでも同じ繰り返しが続く事はなく、始まった以上いつかは終わる。
いつ始まるのかを知ることができるのは、紛いもなく始まってからであり、いつ終わるのかを知ることができるのも、終わってからなのだ。
結論を言えば、物語が、今幕を開けたという事だ。
物語は、終わるまで進むからこそおもしろい。


固まっている俺に、彼女は呆れたように言った。
「どうしたの?暗くて私が見えない?」
「………」
「ねぇ?大丈夫?顔が真っ青だよ?」
「………」
「もしも〜し」
俺は、距離を取り、不思議そうに首をかしげる彼女に問いかける。
「お前は……誰だ…?」
「え…?」
彼女は驚いたような表情をし、問いに答えた。
「誰って…あなたの妻のティリア・アルナレイトア―――」
俺はティリアと名乗る女性に怒鳴りかける。
「ティリアの名を気安く語るなっ!!」
一瞬彼女はたじろぎ、驚きを隠せないようだったが、すぐに言葉を返した。
「私が誰か分からないの?レレン」
「ティリアは!………ティリアはもう、この世界にはいない…!」
「……何を言って――」
高まった感情のまま言葉を発する自分の姿は、自分で言うのもあれだが、らしくない。
だが、この感情をどこかにぶつけなければ、俺の気は治まらないのだと思った。
「いないんだ…!…もう………、いないんだ…ティリアは……。ティリアは…――」
彼女はティリアではない。
例え彼女がティリアであっても、俺の知っているティリア、ティリア・アルナレイトアは…。
「もう死んだんだよ……!」

…………。

感情を吐き出し、脱力した俺はベッドに腰掛けたが、彼女はただ呆然と、まるで、自分自身の存在を否定されたかのように立ち尽くしていた。

彼女の表情は、怒りではなく、困惑。
「そんなの…嘘…。だって…ティリアは……。私はここにいる…!!」
「君がティリアだという証明は、どこにもない…」
「じゃあ、その亡くなった人が、ティリアであるって保障もないワケでしょ!?」
彼女は、自身がティリアである事を信じて疑わない。
しゃべり方、仕草、表情まで何もかもが彼女と一致しているが、それは結局似て非なるものでしかなく、似ているように見えるだけなのだと思う。
「…………骨に、微かだが魔術の力が残っていた。治癒系統のな…。しかもエルムの魔術式の跡もあった。その箇所は、左肩の付け根だ」
彼女は、その箇所を手で押さえた。
「そこは…私がエルムに治癒された所…」
「……!」
冷静さを取り戻した俺は、再び矛盾を感じ、彼女を見る。
いくら姿かたちが似ているからと言って、何故記憶そのものまでも彼女と同じなんだ…?
彼女はティリアなのか…いや、そうだとしたらあの遺体は誰だ……、いや…あれこそがティリアなんだ…。妻の顔が分からない夫などいるはずがないのだから、式の跡を確認しなくてもあれが紛いも無くティリアだとすぐに分かった。
俯いて事実を否定しようとしている彼女に再び尋ねる。
「君は…誰だ…?」
「…………私は…」
ティリア…でなければ…君は…君は…。
「………」
「………」
誰だ…?
「私は……っ!!」


彼女は、家を飛び出した。


「待てっ!」
俺の呼びかけには応じず、彼女はここをいち早く立ち去らんと、裸足で冷たい石畳の上を駆けていく。
小さくなる背中を追いかける事は、俺にはできなかった。




 人の全く集まらないような路地裏の店。
もともと人を集める気なんてさらさらない外観で、逆に入ってくるなと言わんばかりの悪臭が、毎回入るのをためらわせるが、今回は仕方なく覚悟を決めて入る。
壁に飾られた、恐怖を象徴するかのような絵画の数々に、今にでも悪魔を呼び出せそうな壷やらランプやらが置いてあった。
悪臭は消え、少し甘ったるい香りが漂っている。
全く持って相変わらず。
「何のようかしら?」
店、というか部屋、の真ん中で禍々しい魔術式を作り上げかけていた女性が俺を横目に掛けた。
赤いセミロングの髪で、顔の半分を長い前髪で隠している。
「アルキナさん、今日のそれは…何ですか……?」
「ん?あぁ…これね?ジパング地方に伝わる"ハカマ"とか言うやつよ。こっちの大陸にはない不思議な色使いが気に入ってるの」
アルキナさんはくるくると回ってみせてくれたが、魔術式を作りながらという事は、相当な集中力を持っているんだなと感心した。毎度の事だけど…。
「今日は少し、聞きたいことがあるんです」
「ん、言ってみて〜」
「例えばの話なんですけど…、死んだ人間と全く同じ姿の人間が、死んだ人間に関係のある人の前に現れる事って、あるんですか?」
途中まで興味深く聞いていたアルキナさんだったが、後半に差し掛かるにつれ、最早話を聞いている様子もなかった。
「なぁんだ…。ドッペルの事か…おもしろくないわね〜…」
アルキナさんが指揮をするように左手を振ると、怪しげな壷から紙切れがひょいと飛び出しひらひらと舞って、俺へと近づいてくる。
俺はそれを掴んで、その文面に目をやった。
「ドッペル…ゲンガー…?」
「そ、恋に破れた者の負の念と魔物の魔力が結びついて生まれたーなんて言われてるんだけど、簡単に言えば、失恋した男の前に片思いだった相手と同じ姿で現れて、Hをせがんで、一生共に暮らすっていうある意味ハッピーエンド的展開が思い浮かべられる魔物よ。まぁ力任せに押し倒すような魔物たちに比べれば、効率も良いし男も幸せよねぇ?」
負の…念…。
「そのドッペルゲンガーっていうのは…、どれくらい本物に似てるんですか…?」
彼女はその魔術式の構築をやめようとせず、だが的確にその質問に答える。
「う〜んそうねぇ…。私も見た事はないから何とも言えないんだけど…きっと、容姿はもちろん、声、性格、仕草、記憶くらいなら、ある程度男の記憶から似せる事ができるんじゃないかしら」
俺の……記憶から…。
「本物と、ドッペルゲンガーを見分ける方法とかは…、ないんですか…?」
アルキナさんはようやく、"首をかしげ"、式以外の事に頭を使い始めた。
「区別する方法は、きっとないわね。区別できてしまったらその変身は不完全って事になっちゃうじゃない?そうしたらドッペルは効率よく男から精を頂けなくなってしまうわ」
そして、あっ、と思い出したように言葉を付け足す。
「でも、ドッペルは周期的に変身できない日があるの。ジパングではそれを"新月"と言うらしいのだけど、要するに月の出ていない夜。その夜だけは、ドッペルの変身が解けてしまう。でも、ドッペルは本当の姿を見られたくないから、男の前に姿を現さないの」
「その夜が来るのは、いつ頃なんですか…?」
質問を早まっただろうか…。
「周期はおよそ30日…。だから、ざっと見積もって昨日か今日の予定だったんだけど、どうやら今日みたいね」
アルキナさんは珍しくこちらを見、嫌らしく笑んで、再び構築に戻った。
「……っ!」
「あなたは本当に隠し事が出来ない人よねぇ〜。まぁ最初から分かってはいたんだけど…」
俺は、この目で真実を確かめるために、踵を返し足早に出入り口へと向かう。
「あぁ、良い忘れていたことがあったわ」
立ち去ろうとする俺を、アルキナさんはわざとらしくそう言って呼び止めた。
「ドッペルは男の前に現れた時点で、その男に強い好意を抱いているわ。だから、たとえ変身ができない夜であっても男の傍を離れたりはしないの。私にもその気持ち何となく―――」
重要な事は聞けたので、後半はさらりと無視して、悪臭の中を掻い潜り外に出る。
空は赤く染まり、陽は随分と地平線へ近づき、肌寒い空気が夜の前触れを感じさせた。
空を仰ぎ見た俺は、自宅へと走り始める。

今夜で全てが分かる。





 不思議な感じがしてならないが、家には誰一人いなかった。
もちろん、それは当然であるしそれが自然なのだが、どこか寂しげな感じがしてならない。
人がいた事が、会話のあった事が、温もりがあった事が、どれほど幸福な事だったのかを実感し、人がいない事が、会話の無い事が、温もりのない事が、これ程までに悲しみを湧き上がらせるものだったという事を痛感した。
だが、思いにふけるのはまだ早い。
俺は、辺りを見回し、人一人分が隠れられそうな家具や隙間を探した。
ベッドや机の下、冷却タンスの中、風呂場の浴槽の中、そして――――

「………?」

まだ暖かいこの時期には使う事がなく、鍵をかけられ開かずの扉のように閉じられている衣装ダンス。
家中をくまなく探し、唯一手を付けていないのはこのタンスだけだ。
鍵が掛かっている以上入る事はできないと思っていたが、考えてみると、記憶がティリアと同じならば鍵の場所だって知っているのだから隠れる事ができるのだ。
俺はタンスに手を掛ける。

長い間、開けられる事の無かったその戸は、キキキキィィと甲高い音を立てて、ゆっくりと開いていった。

暖かそうな毛で編まれたコートが何着も掛けてあり、それを見ただけでも何だか少しだけポカポカした気分になる。
それだけなら、ただの衣装ダンス。

ゴソゴソ――

掛けられたコートの下で、黒い何かが動いた。
よく見れば、それは背中のようにも見える。
衣装ダンスの精霊にしてはあまりにも地味な、真っ黒な服を着た、真っ黒な髪の"何か"が俺の目には映っていた。
体育座りで縮こまり何も言わず、俺に背を向けじっと座っている。
ただ、肩がゆっくりと上下に動いていて、呼吸をしているという事は分かった。
「君が、ドッペルなのか…?」
"それ"は、俺の言動に過剰に反応し、ピクリと体を跳ねさせたものの言葉は帰さない。
だが、ゆっくりとこちらに振り返り、コクリとうなづいた。
「……っ…!」
魔物とは思えない程、弱々しくて、人間と何ら代わりの無い少女だった。
思わず、俺は言葉を失う。
「…レレン…」
「……!」
少女は、俺の名を不安そうな声で呼んだ。
聞こえ覚えのないはずなのに、どこか懐かしいような声に、俺の思考が少しずつはたらき始める。
「籠は…君があそこに戻したのか…?」
「……そう…」
「その籠を、どこで手に入れた…?」
「……昨日の…、お昼…、……薬草を……摂りに行くために……ここから…持って行った……」
「ここ……から……って?」
一瞬、聞き間違ったのではないかと、自らの耳を疑った。
薬草を摂りに行くと言ったのは、ティリアだ。
そして、籠を持って行ったのも、ティリアだ。
…待て…そんな……事って……。
「……そう…。レレンとの……交わりを……終えた……後…」
「ちょっと待ってくれ…!!」
肩を思い切り掴まれた事に驚いた少女は体をピクリと跳ねさせ、俺は慌ててその肩にやった手を離す。
「……すまない……。だが、確認しておきたい事があるんだ…」
髪で隠れてしまっているが、その目は俺をじっと見つめていた。
コクリとうなずいた少女に、俺は尋ねる。
「君は……一体いつから…俺と一緒にいる…?」


俺は最初、ティリアの死がドッペルゲンガーを呼び寄せたのだと思っていた。
愛する人を失い、絶望するその思いが、この少女を呼んだのだと。
そうすれば、ある程度の辻褄は合う。
死んだはずのティリアが平然と家に帰ってきた事も。
何から何までティリアとそっくりだという事も。
籠の事だって、ドッペルゲンガーなら考えればいくらでも方法は出てくる。
真実こそ、それなのだと俺は確信していた。
この少女は、昨日現れたのものだと、勝手に思い込んだのだ。


「……8年前……登山から……帰ってきて…それから…ずっと…」
……そん……な……。
8…年……前…。


 8年前、魔王の世代交代から1年程が経ち、そんな中ティリアと俺、エルムを含む15人の"元勇者"メンバーは、登山を計画していた。
案内役をハーピーに、目指すは標高8848mのアムラスタ山である。
皆、久々の城外に心を躍らせ、その日を楽しみにし、訪れたのは絶好の登山日和。
そんな日に風邪をこじらせた事を俺は相当後悔していた。

 ティリアが心配そうな目で俺を見ながら、俺と自分のおでこを合わせる。
「私もここに残ろうか?」
「いや、折角の登山日和だ。行ってこなきゃ俺みたいに一生後悔する事になる」
「…でも」
「大丈夫、帰って来る頃には元気になって迎えてやるから」
ティリアは、未だ少し悩んでいるようだったが、俺に笑顔を見せた。
「……うん…。分かった。お願いだから、無理はしないでね?」
俺は手を軽く上げて、返事をする。
ティリアが出て行くまでは平静に近い状態を演じていたが、実際は体がだるく頭がぐるぐるとし、起きているのすら辛いため、俺はすぐに眠りについた。


 それから皆が戻ってくるはずの3日後。
門から戻ってきたのは、傷だらけで瀕死のエルムとそれを運んできた案内役のハーピーだけだった。
ハーピーの話では、山で賊に会ってしまい、金目の物を全て奪われた挙句他の者たちは皆魔物の巣窟へと捨てられた。自分は何とかエルムだけを連れて戻ってこれた、と。
「これから、僕はエルムをユニコーンの所へ連れて行こうと思ってるんだ」
「あぁ、頼む。こいつだけは、助けてやってくれ…」
「分かってる」
エルムを掴み、空へと羽ばたいていくハーピーを見送り、俺は家へと向かった。
今思えば、この時の感情はティリアが亡くなった"今"の時と似たようなものだったのかもしれない。

俺は、帰ってきたティリアに結婚を申し出て、『同居している恋人』から『家族』へと、一歩踏み出すつもりだった。
その夢が永久に叶うことが無くなってしまった事に、深い絶望を感じていたのだろう。

誰もいないはずの、家の戸を開ける。

「おかえり」

「………!!」
その声がした事に、俺は驚きを隠せず、頭で考えるよりも先に、そこでぽつんと立っているティリアを抱きしめていた。
強く、強く。
「何…!?痛いよ!?」
「ティリア……結婚しよう…」
あまりに唐突なプロポーズに、さすがのティリアも完全に固まってしまっていた。
だが、すぐに俺の気持ちを理解してくれ、微笑んだのだ。
「えっと…ふつつか者ですが、よろしくお願いします」




 俺は、少女を強く抱きしめる。
「えっ…?」
一瞬、動揺し困惑する少女だったが、すぐに肩の力が抜けて俺に体を預けた。
8年前の登山の後。
それは、俺がティリアにしたプロポーズの時からだ。
今の俺に、怒りや悲しみといった感情は浮かび上がってこず、逆に喜びで涙が溢れそうになる。
この少女は、8年間ずっと"ティリア"という存在そのものを演じ続けてくれたのだ。
もしかしたら、それがドッペルゲンガーとしての効率を考えたが故の事なのかもしれない。
だが、自分という存在がありながら、この少女はそれとは違う"ティリア"を演じ続けてくれた。
8年間、好かれているのは自分ではなく"ティリア"だという事さえ受け入れ、今の今まで、俺と共にいてくれた。

俺に、訪れる事のないはずだった"ティリア"との時間を、8年も与えてくれた。

俺から出る言葉は、たった1つ。


「ありがとう………」


俺が前髪を分けてやると、少女は途端に頬を赤くし、目をそらす。
何故前髪で隠しているのかと思うほど、綺麗な顔立ちをしていた。
「俺は…君が好きだ」
「………!」
驚いてこちらと目を合わせた少女は、はっ、となって慌てて目をそらす。
「君を好きになったら、だめかな…?」
「でも…そうしたら…私は二度と……ティリアに…戻れない……」
俯いていく少女を、俺は一層強く抱きしめた。
「構わない。君は8年間もティリアという存在を生かし続けてくれたんだ。この恩返しは、きっちりとさせてほしい」
「…………」
少女は頬を赤らめながらも、その細い腕を俺の背中に回す。
「…好き、レレン」
「あぁ、俺もだ」

俺たちは、そのままゆっくりと口付けを交わした。

 ティリアの遺体が8年も経過し、尚腐敗も白骨化もしていなかったのは魔物の魔力が原因だった。
人間に魔物の魔力が蓄積すれば、やがてその魔力が人を、不老のサキュバスやインキュバスへと変える。
つまり循環の止まった彼女の肉体だけは、魔力でサキュバスに近いものに変わっており、それが絶え間なく蓄積され、結果的に栄養状態が保持されていたというワケだ。


 「おはよう…レレン」
聞き覚えのない、どこか懐かしい声が俺の耳に入ってきた。
透き通っており、落ち着きのあるその声からはα波が出ている。
「あ〜しゃべらないでくれ…また眠くなっちゃうじゃないか…」
実際、その声からα波が出ていようと、俺の脳からα波が出るワケじゃない。
だが、詭弁とはこうして使うものだ。
「今の私には……あなたを干せるほどの…力がないから…早く起きて…」
「…………」
…………。
俺は体を起こし、顔を赤らめながらこちらに微笑みかける少女を見た。


現実はあまりにも現実だ。
合理はきまぐれで、都合なんて非常識的で、安定など滅多にありえない。
この世界は常に揺れ動き、不規則な決定を下している。
極論かもしれないが、それが結論。
それは、新しい生活を手に入れたこの状況でも同じ。
いつまでも同じ繰り返しが続く事はなく、始まった以上いつかは終わる。
いつ始まるのかを知ることができるのは、紛いもなく始まってからであり、いつ終わるのかを知ることができるのも、終わってからなのだ。
結論を言えば、分からないのだから今を精一杯楽しめという事だ。

始まれば始まり、終われば終わり。
足掻きようのないその訪れを恐れるくらいならば、たった今訪れている幸せを悔いのないように存分に味わえばいい。

俺は少女に微笑み返す。
「おはよう―――」


俺は、彼女の名前を彼女自身の口から聞いたことは一度もなかった。


でも、俺には分かる。


それは、生涯愛すと誓い、今までを共に過ごし、これからも共に過ごす名だ。


俺は、何の戸惑いも、何のためらいもなく、彼女の名を口にする。



「ティリア」


う〜ん、シリアス展開は書きづらいっすね。
苦手っす。
その内コメディ系を書こうかなぁ…?
4/20、加筆修正を致しました、申し訳ございません…。

とりあえず最後まで読んでくださいありがとござます
駄文で申し訳ありません。

んにしても、ちょっと無理矢理な気がする今回の展開。
皆さんどう思いました?
ドッキリ、大成功!っていけたでしょうか?
なんてこったいと思っていただければ幸いです。

それでは、是非、他の魔物娘SSもお楽しみくだされ〜

11/04/21 01:00 たったん

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