連載小説
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龍帝の咆哮
かつてのオレは、自分の姿に誇りを持っていた。
四肢は大地を踏み砕き、鋭利な鉤爪は獲物を屠り、強靭な肉体は刃物などものともせず、豪奢なる両翼は大空を思うがままに飛行した。
息を吐き出せば、森の一つなど簡単に焼き払い、雄叫びを上げればすべての存在が恐れおののき、逃げ出す。例え同族の中であっても、オレに敵うものなどいなかった。

ところが魔王が代替わりしてから、それら全ては脆く崩れ去った。

かつての誇り高き姿は脆弱なニンゲンに変えられ、しかも事もあろうことか、性別が雌に変えられてしまった。

それだけならばまだいい。魔法を使えば短時間の間とはいえ、かつての姿に戻ることも出来る。
さらにはこの姿になったために小回りが利く様になった他、不足分を補うために新たな魔法を会得していった。どちらもかつての姿ならば、絶対に実現し得なかったことだ。

オレにとって最も不満なのは、この姿になってからニンゲンを殺すことに嫌悪感を抱くようになったことだ。

かつてオレが集めた財宝を狙い、数多のニンゲンがオレの寝床に乗り込んできた。それらを俺は全て平等に迎え撃ち、そして屠っていった。
弱き者に生きる価値など無し、それをオレは自ら体現していた。

ところがどうだ、この姿になってからは、オレの財宝を狙って乗り込んで来たニンゲンを屠る事も出来ない。
しかしそんな事などお構い無しに、ニンゲンどもは頻繁にオレの寝床に乗り込んでくる。それにほとほと辟易して、住み慣れた寝床を離れたのも、一度や二度ではない。しかしそれでも、ニンゲンどもは執拗に追ってくる。
今だってそうだ。

「ば、化け物め………」

目の前には、雄雌合わせて五匹のニンゲン。そいつらが怯えた表情で、オレを生意気にも睨みつけ、敵意を発している。

まだオレは何もしていない。ただ単に威圧感を漏らしていただけだ。それだけなのに勝手に怯え、あまつさえ化け物呼ばわりとは、昔のオレならば一瞬で血霧に変えていたところだ。

「失せろ」
「ひ、ひぃ………」

こうして少し睨み返し、凄んで見せるだけでニンゲンどもは一層怯え上がり、後ずさる。

「持っているもの全てをその場に置いて、即刻オレの前から姿を消せ!」
「うわぁぁああああああああああああぁっ!!」

こう言うだけで、ニンゲンどもはオレの言葉を素直に聞き入れ、持ち物を置き去りにして逃げ出す。もっとも、そのうちの半分以上は使い物にならないゴミだ。
財宝を集める効率は遥かに向上したが、同時にいらないゴミも増えていく。かといって、一々捨てに行くのも面倒だ。結果、適当に部屋の隅に積み重ねるに留まっている。

「………退屈だな」

誰も居なくなった空間で、昔ニンゲンから奪い盗った、上質なソファに腰を沈め、オレは一人ごちる。

昔はよかった。毎日のようにニンゲンと魔物との間には争いが発生し、オレは他の同族とは違い、自ら進んで参戦して行った。個人で俺に敵うものなどいなかったが、ニンゲンどもの数と戦術は中々侮りがたく、命の危険を感じたことも多数あった。

ところが今において、ニンゲンと魔物との間に争いは滅多に無い。たまに会ったとしても、それは遠く離れた地における話で、オレが参戦する機会など無い。ニンゲンどもは愚かにも、同族同士で争う始末だ。

愚かといえば、それは同族に関しても同様のことが言える。

何でも、同族は自らを打ち倒すほどの強者であるニンゲンと添い遂げるという。だが、冗談じゃないと思う。

確かに魔王の魔力のせいで、そういう本能が植えつけられてしまっていることは認めよう。しかし、だから何だというのだ。

オレ達は地上の覇者なのだ。ニンゲンなどに遅れなど取らないし、取るはずもない。若い連中ならば、万に一つの可能性で敗れることもありえるかもしれないが、群れなければ何一つ出来ないニンゲンに、長き時を生きたオレや他の同族はが敗れるはずがないだろう。

にも拘らず、ニンゲンと共に生きる同族は後を絶たない。オレの顔見知りにも何人か、そういう奴がいる。不愉快なこと極まりない。

そこまで考えたところで、オレの聴覚は新たな侵入者を捉える。全く、懲りない奴らだ。
わざわざ財宝を溜め込んであるここで迎え撃つこともあるまい。オレは体を持ち上げ、普段ニンゲンどもを相手している部屋へと向かった。


――――――――――――――


「ああ、ヘイルのやつか。知ってるよ」

右目に走る傷跡を初め、顔中に大小様々な刀傷を負った、明らかに堅気の人間じゃない雰囲気を醸し出している酒場の店主が答える。

「そいつについての情報が欲しい」
「そいつぁお前さん、無理ってもんだぜ。最近は個人情報がなんたらで、かなりうるさいからな。最も…………」

そこで酒場の店主が、いやらしい笑みを浮かべる。

「そっちの誠意次第だけどなぁ?」

こんのクソジジイ、と毒づきそうになって堪える。最初から予想できていた展開だ。

腰のポーチから、掌に収まる程度の巾着袋を取り出し、カウンターに置く。
その際に、口紐をわざと少しだけ緩めておき、ちょうど金貨の表面が覗くようにしておく。

最も、中身全てが金貨な訳が無い。それどころか、金貨はほんの二、三枚程度だ。それを袋口の間近に置いておき、その下は全て銅貨で埋め尽くされている。こういった事態における常套手段だ。
そうとも知らずに、それを手に取った店主は満足気に笑い、丁寧に懐に収めてから話し始める。

本名はヘイル=テルゼン。主に遺跡やダンジョンに入り、財宝を運ぶ、どちらかといえばトレジャーハンターという呼び名の方が近い冒険者。
アッスルーには三週間ほど前から滞在しており、つい数日前に数人の募集メンバーと共に、とある遺跡の調査の依頼を請け負って出立したまま音沙汰無し。

「その遺跡ってのは?」
「これ以上聞くには(ry」

一瞬だけ怒りがメーターを振り切りかけたが、なんとか自制。先ほどとは別の巾着袋を取り出し、カウンターに投げ出す。
今度は口紐は締められており、代わりに投げ出された際にジャラリと重厚な音を立てる。

「まいどあり」

店主がニヤニヤしながらも回収した巾着の中身は、小指の先ほどの大きさの小石を詰め込んだだけの袋だ。
普通ならば感触で分かってしまうようなものだが、事前に本物を渡しておけば案外ばれない。こんな事もあろうかと、周囲の痛い視線に耐えながら、路上で拾い続けたのだ。

「オーケー、必要なのはそれだけか?」
「いや、もういい」

聞きたいことはあらかた聞き出した。もし細かい情報が欲しくとも、絶対にこの店主には頼まない。
一応礼儀として頭を下げて、さっさと酒場を出る。中身を確認されれば、激昂して追いかけてくるのは目に見えていた。

「………だりぃ」

今さらだが、俺は自分がやっていることに疑問を持ち始めていた。


――――――――――――――


アッスルー郊外には、寂れた遺跡が存在している。
遺跡といっても、大したものではない。当時様々な状況が重なり、遺跡の周辺に大量の墓が設置されたことにより、軽い心霊スポット化しているくらいである。

上記に加え、遺跡に元々あった財宝の類も、随分昔に盗り尽くされていて、冒険者たちにとっても全く旨味の無い遺跡だ。

店主の話によれば、およそ数ヶ月前から、その遺跡から原因不明の不穏な唸り声が聞こえてくるとの事。

原因もクソも、立地条件をもう一回見直してみろよというジグ自身のツッコミは置いといて、その調査依頼をヘイル=テルゼンは数人の同業者と共に引き受けたらしい。
ところが、往復の時間も考えても二、三日程度で終わるはずの楽な内容に反して、一週間近くたった現在でも、何の音沙汰も無い。

「単純に考えれば、遺跡に何かやばいものがいたか、もしくはトラップにやられたかだな、っと!」

横から放たれてきた矢を伏せて躱し、そんな事を一人ごちる。

「ったく、さっきからこんなんばっかだな」

壁に当たって転がった、鏃の錆びた矢を忌々しげに睨みながら一人ごちる。

遺跡には、繰り返し発動する仕組みのトラップや、あからさま過ぎて誰も引っ掛からないトラップなどがいくつか放置されていた。
今しがたジグが引っ掛かった、矢が飛び出してくるという単純なトラップにしても、引っ掛かるのは実に四回目である。

「つーか、何だって俺はこんな危険な場所に居るんだぁあああああああああっ!?」

等間隔の穴の開いた、明らかに一目でトラップだと分かる床の上を通った直後、穴から錆びた槍の穂先が飛び出し、ジグは間一髪で前方に飛び込んで回避する。

「あっぶねぇ! 今のはガチで危なかった!」

耳障りな音を立てて再び沈む槍の群れを睨みながら、はやる動悸を鎮める。今のも含め、現在までに遭遇した十数個のトラップに、ジグは全て引っ掛かっていた。普通ならば、死にはしないにせよ傷を負っていてもよさそうなものだったが、ぱっと見た限りでは、ジグは全くの無傷だった。

偶然………などでは、勿論ない。

「こちとら日常的に城の罠を回避してたんだ。この程度のトラップで死んで堪るかっての!」

ジグの故郷であるエヴァンシュタイツ王国に限らず、大抵の国の城には、緊急避難用の隠し通路というものが存在する。その名前の通り、緊急時に場外に脱出する為に用いるものだ。

ところがジグは、それを城外に脱出するためではなく、城外に脱走するために用いていたのだ。その事に頭を痛めた大臣たちは、やむなしとみてその通路に捕獲用のトラップを大量に設置した。
結果として外部へと逃げるための通路から内部の侵入者を逃さないための通路へと変貌した通路を利用し続け、尚且つそのことごとくを掻い潜り続けたジグは、エレネーゼの指導も相まり、人並み外れた危機回避能力を獲得するに至った。

最も、それだけの経験をすれば、トラップを事前に発見する観察眼も養われても良さそうなものだが、不思議なことにその方面に関してはからきしであり、これまでの人生において遭遇したトラップを、一つ残らず発動させるというマヌケさを発揮していた。

―――閑話休題―――

ともあれ、ここまでの道程に設置してあったトラップのことごとくを作動させながらも、それらを紙一重で回避し続けているジグは、確実に奥へと向かっていた。

白亜の石畳が敷き詰められた床や壁は、埃が積もっているものの、見る者が見れば歴史的価値のあるものだと、一目で理解できるものだった。ジグもまた肩書きは曲がりなりにも王族であるため、ある程度の審美眼は持ち合わせてはいたが、しかしこの場におけるジグの胸中を占めていたのは、歴史の遺産を探索していることによる感嘆ではなく、疑念だった。

(妙だな………)
(これだけ奥に来ているのに、魔物の一体も見かけない………)

どんな場所であれ、必ずその環境に適した生態の魔物が存在するはずなのだ。にも関わらず、一体たりともその姿を見かけないのは、不自然に過ぎた。

考えられる理由は二つ。

遺跡の奥に好んで生息しているのか。
もしくは住む場所をナニかに追い立てられたか。

「………後者だったらやだなぁ」

自分が出した結論にげんなりしつつ傾斜を降っていると、突然踏み出した足が僅かに沈むのを感じ、足元を見下ろすと、何故か周囲の石畳と違い赤く塗り分けられた床を踏んでいた。
それと同時に、背後からガゴンという物々しい音が響き、続いて振動と共に地響きが辺りに響き渡る。振り返ったジグの視界に映ったのは、傾斜で徐々に勢いを増しながら転がってくる歪な球体の岩。

「あーはいはい、岩が転がってきて侵入者を圧殺ってわけね。ベッタベタだな」

そのベタなトラップに嵌った自分のことを棚に上げ、そんな事を暢気に言いつつ壁に張り付く。

「だいたいこういうのは、万が一味方が引っ掛かった時の為に、壁に隙間を――――」

余裕で解説していたジグの言葉は、突如として視界が傾くことによって、正確には、もたれた壁が後方に反転して身体が傾いたことにより途切れる。傾斜を転がってくる巨大な岩をやり過ごそうと壁に張り付いて体重を掛けた瞬間、反転して壁の向こう側へと強制的に追いやる二段構えのトラップに、持ち前の間抜けさを遺憾なく発揮したジグは、そのまま壁の向こう側―――何故か未だに水の流れている水路に、頭から真っ逆さまに落下した。


――――――――――――――


「ゲホッ、ゴホッ………ウ、ウオエ※▲×#●*☆¥□…………」

水路に落下し、割と強い水流に飲み込まれて流されたジグは、それでもその途中にあった通気口に無我夢中でしがみ付いて身体を引き上げ、水路から脱出した。

「はぁ……はぁ……お、俺って、ここんところ濡れてばっかじゃね?」

勿論その疑問に答える者などいない。ジグは水を吸って重くなった衣服をそのままに、身体を引き摺りながら持ち上げる。

ジグが辿り着いたのは、広大な敷地と低い天井で構成される空間。薄暗い空間の中央には、ところどころが脆く崩れた石棺が、蓋を開けられた状態で置かれている。もしかしなくとも、死体安置所であることはすぐに分かった。

一昔前までは豪華な財宝で敷き詰められていたであろう石棺の中は空で、死体すら存在しなかった。おそらくは魔物化して歩いていったのだろうと一人結論付けたところで、石棺の蓋に真新しい文字が残っているのに気がつく。古代文字の溢れる中で、異質な存在感を放つ現代文字に顔を近づけ、目を凝らして読む。

『あんなベタなトラップに引っ掛かるなんてアホですね(笑)』

「誰がアホだゴルァッ!!」

一切の人気が無い遺跡で落書きに怒鳴る人物、傍から見れば変質者そのものである。後この文面から察するに、書いた人物もそのベタなトラップに引っ掛かっている。

「……………………」

落書きから顔を上げて周囲を見渡すと、すぐに安置室に降りるための階段を見つける。薄暗い安置室に僅かな光を運んでくるその階段の上方を、ジグは鋭い目付きで観察する。

(………あの上に、ナニかがいるな)

遺跡に入った時から抱いていたある種の疑念は奥に進むごとに膨れ上がり、そしてここに辿り着いた時には決定的な形としてその存在を主張していた。
ジグの全身を包む寒気として。

ジグが水路に落下してずぶ濡れであるということとは一切関係無しに、その全身を包む感覚を幾度と無く体験してきたため、それが何なのかはよく理解していた。
それは即ち、明確な敵意であり、殺気とも形容できるもの。ジグが感じているのは、エレネーゼが修行中に何度もジグ自身に向けてきたものと酷似していた。

ただし、エレネーゼがジグに向けてきたそれと、現在ジグに向けられているそれには、決定的な違いがあった。

エレネーゼの放つそれは、肌を逆撫でるような寒気であるのに対し、現在向けられているものは、全身に刺すような痛みを幻視させる。両者を比べれば、どちらが自分にとって脅威となるのかは、火を見るよりも明らかだ。

しかしジグは、それにあえて不敵な笑みを浮かべる。

「上等だ。どこのどいつだか知らねぇが、喧嘩売ってるってみなしていいんだよなぁ?」

恐怖心が欠片も無いといえば嘘になる。
だが、そんなものなど全く意に介さないほどの好奇心が、ジグの胸中を支配していた。

はやる好奇心を堪え、石造りのボロボロとなった階段を軽い足取りで上る。
階段を上りきったジグを出迎えたのは…………。


――――――――――――――


階段を上ったジグは巨大な空間に出る。遠く見上げた先にあるのは白亜の壁。
数十メートルほどの高さもある天井には、仄かな光を放つ水晶が露出し、薄紫から薄青、薄緑と等間隔でその光の色を変えていた。

視線をおろせば、大理石の床が広がる。埃を被った平面はいたるところが割られ、砕かれ、穿たれており、焦げ跡のようなものまでが見られた。
床からは等間隔に白亜の柱が並んでいたが、それらにもまた、床と同様の傷跡が刻まれていた。
床には埃が積もっている反面、穿たれた穴の縁が真新しいため、穴が穿たれたのはつい最近のことだと予測したあたりで、ジグに声が降りかかる。

「ここに何の用だ、ニンゲン」

おそらくは神殿だったのであろう空間の奥、嫌がらせではないのかと疑ってしまうほどの段数で構成された階段の上から、澄んだ心地の良い声は発せられていた。
視線を向ければ、罰当たりなことに、祭壇らしき物体の上で腕を組んで仁王立ちをする人影が視界に入る。

「………………」

その人影を見た瞬間、ジグは問いに答えることも忘れ、感嘆に近い念を抱く。

腰まで伸びた鋼色の髪に、見る者を惹きつける金色の双眸。整った鼻と、小さく形のいい唇。それらが形成する顔は、百人中百人が美人だと評するような、美貌を宿していた。
体の要所を申し訳程度に覆う機能しか持たない薄い衣服の上から、鱗をなめして作ったかのような胸当てと腰当てを身に付けているだけで、陶器のように白く滑らかな素肌や、すらりと長い肢体などが惜しげもなく晒されていた。
天井から降り注ぐ、水晶の仄かな光を浴びるその姿は、さながら完成された一つの芸術品のよう。
その余りにも威風堂々とした佇まいから、その美貌にも拘らず性別を錯覚しそうになるが、胸当ての上からでも判るほどに存在を主張する豊かな双丘が、その人物の性別を明確に物語っていた。

どれもが幻想的だった。

そのどれもが、幻想的なまでに、酷く現実離れしていた。

遠目に細部まで理解できるような容姿も。
その人物が発する、濁りの無い心地の良い声も。
その人物が身に纏う、尊厳なる気配も。
そして…………。

「何の用だと聞いている」

組んでいた腕を解き、祭壇の上から降りたその人物は、階段をゆっくりと降りながら、同じ問いを発する。
ジグは目で近づいてくる人物を追いながらも、答えられずにいた。

たが、答えられなかったのは、その現実離れした美貌に目を奪われていたからではなかった。

彼がその容姿に対する感嘆の念に囚われたのは、一瞬のこと。
次の瞬間にはある事に気がつき、感嘆の念を覚えるどころではなかった。

先ほどまで全身を包んでいた寒気は、あたかも背中に氷の塊を落とし込んだかのようなものへとなっていて。
ありもしない幻痛を覚えるほど恐ろしく、それでいて静かなその敵意は、明らかに彼の視線の先にいる人物から発せられていて。
それ以上に。

(……こんなの、人間が発していいもんじゃねえだろ…………)

どちらかといえば、それはかつて彼が山中で猛獣に囲まれたときに叩きつけられていたものに、酷似していた。
勿論、今感じているものはその時感じたものと比べるべくもないが。
それでもその二つは、よく似ていた。

「オレの言葉を二度も無視するとは、ニンゲンの分際でいい度胸だな」

眉を顰め、声に微かな不快さを滲ませる。そして直後に、何かに気付いたような素振りを見せる。

「ああ、そうか………」

その唇の両端が釣り上げられる。

「お前、無視しているんじゃなくて、答えられないのか」

釣り上げられた唇は笑みを象る。

「この姿のオレが放つ覇気を、お前は感じ取れているのか」

声に似合わない、凄惨なまでの笑みを。

「成る程な。これまでのニンゲンどもより、多少はマシみたいだな」
「あんた、は…………」

もつれる舌を動かし、言葉を紡ぐ。

「言葉から察する限り、人間じゃないのか?」
「あぁッ!?」

半ば答えを予想しつつもあえて問い掛け、直後に猛烈に後悔する。
ジグが問い掛けた瞬間、ゆったりと階段を降る足取りがピタリと止まり、代わりに全身から怒気が噴き出したのだ。

凄みのある双眸に射抜かれ、蛇に睨まれた蛙よろしくジグは身動きすら取れなくなる。

(地雷だったか………)
「テメェには、オレがニンゲンに見えてたってのか!?」

そう言い放った途端、絹を裂くような音が鳴り響き、直後にその人物の背中から、人が持ち得ぬ体構造が飛び出す。

大気を掴み羽ばたく、豪奢なる翼と。
鞭のように撓り、地を叩く尻尾の二つ。

「どうなんだよ、オイ!」
「………どっからどう見ても、魔物の女性です。すいませんでした!」

蒼白の表情を浮かべ、冷や汗をこれでもかとかきながら、恥も外聞もかなぐり捨てて謝った。エレネーゼの教育の賜物である。
だが息をつく間も与えず、それが失敗だと思い知ることになる。

「女性……ねぇ…………」

喉の奥でくぐもった笑いを発しながら、予備動作なしの跳躍。ただ一度の跳躍で、ジグの数メートル先まで飛び上がり、着地する。
とても人一人の質量が落下してきたとは思えない重低音が響き、その長い両足が、大理石の床を踏み抜く。一切の誇張無く、文字通りに。

「オレが雌だって、テメェはそう言いたいわけか………」

宙を仰ぎ、乾いた笑いをあげる、絶世の美貌を持った女性。傍から見る分には、シュールに過ぎた。

床に埋まった両足を順に引き抜き、細かな破片を蹴散らす。
いざ同じ土俵に立って見ると、その女性とジグとの間に身長差が殆ど無いことが分かる。ジグの身長は同年代に比べても平均的な高さを持つため、この場合は相手のほうが破格の高さを持っていると見るべきだろう。

破片を蹴散らしながら近づいてくる相手が片腕を持ち上げたところで、ジグは違和感を抱く。
一瞬、相手の手が不自然に強張ったように見えて――――。

「ざっけんじゃ、ねえッ!!」

直感が瞬間的に警鐘を鳴らし、生存本能が悲鳴を上げる。それらを素直に受け入れ、ほぼ反射的に後方に跳ぶ。風切り音が響き、先ほどまでジグが立っていた空間を、何かが薙いでいく。
一瞬遅れて、ジグの鼻先を熱いものが掠める。鼻に手をやり、戻した手に血が付着しているのを確認する。

「オレのどこが、雌だってんだ?」
「………………」

さっきまでとは比べ物にもならないほどの怒気を叩き付けられ、ジグは地雷だったのは先ほどの発言ではなく、今の発言だったのだとようやく思い至る。
考えてみれば、魔王の代替わりによって魔物娘化した魔物達の中には、雄の個体だっていたはずなのだ。そしてその事は、先ほどから相手が口にしている一人称からも察するべきだった。

そこまで思い至ったとき、ジグはようやく違和感の正体に気付く。
先ほどまで確かに素肌を晒していたその手は、いつの間にか鱗に覆われていて、さらにはその指先からは、ナイフのように大振りで鋭利な鉤爪が五爪、緩やかに湾曲して延びていた。
その鉤爪を、まるで火打石であるかのようにカチカチと打ち鳴らしながら、金色の双眸でジグを射殺す勢いで睨む。

「四度は言わねーぜ。何の用だ?」
「えっと…………」

根元から凍りついた舌を、それでも必死に動かして言葉を紡ぐ。

「さ、探し者…………かな?」

語尾に疑問符をつけるマヌケな返答に、場の空気が凍りつく。
そのまま僅かな時間、両者の間に奇妙な空気が流れた後、先に動いたのは女性のほうだった。

「そうかよ………」

どこか落胆したような声音で、掲げていた鉤爪を下ろす。

「テメェも、所詮は他の連中と同じ、くだらねぇ俗物だってわけか」
「……は?」

言葉の意味が分からずにジグが漏らした声に構わず、相手は続ける。

「今すぐオレの目の前から失せろ!」
「いや、だから言ってる事の意味が――――」

ジグの言葉はそこで途切れる。

骨が軋み、肉が砕け、皮が裂ける耳障りな音が鳴り響き、同時に相手の姿の輪郭が揺らぐ。
音に合わせて背中の豪奢な両翼が変形・肥大化し、神殿内の大気を打つ。
尻尾がうねり、伸長してしなり、大理石の平面を叩いて亀裂を入れる。
身につけていた鱗の防具が、白く滑らかな素肌に埋もれ、一体化する。そればかりか、全身の皮膚の下から鱗が浮かび上がり、全身がそれに覆われていく。
四肢もまた鱗に覆われ、骨格が作り変えられ、筋肉が膨張する。両手の鉤爪は短剣から長剣へと姿を変え、地面に下ろされて床に引っかき傷を刻む。
首が天井へと伸び上がり、端正な顔立ちが崩れる。後頭部からは逆巻く一対の角が姿を現し、鰐のような頭部には、左右に縦長の瞳孔の金色の目。真っ赤な口腔には、鉄杭のような鋭利な牙が無数に並んでいた。

顕現したのは巨大な影。鰐のような頭部から尻尾の先まで、鋼色の鱗で隙間無く覆い、強靭な丸太ほどの太さのある後ろ足と、鋭利な鉤爪を携えた前脚を持った銀色の竜―――ドラゴンだった。

「嘘だろ、これぇええええええええええええええええっっ!!!!」

目の前に広がった光景に、ジグが悲鳴を上げる。

獲物を見る目付きでジグを睨んだ竜が、鋭利な牙の生えた口を開き、咆哮を上げる。
まるで至近距離で爆発が起きたかのような大音量に大気が震え、衝撃となってジグの全身を打つ。物理的な圧力を伴った振動に、ジグは反射的に後退し、同時に防衛本能に従うままに反撃を試みる。

幼い頃、剣だけでなく魔法も使いこなす魔法剣士に憧れ、町を駆けずり回って探し出した魔術師に一時期だけ師事した事があった。
才能が無いだの言われながらも数年間師事し、色々あってその魔術師とは別れたのだが、それまでにランクの低い魔法をいくつか習得することに成功していた。

魔力を練り、編み込んで術式を構築。術式が完成すると同時に、その式を現実に顕現するために必要なイメージを強く意識するために、言霊を口にする。

這いずる業魔の囀り

突き出した手から、一条の雷撃が迸る。雷系統の魔法では初級の、しかし人間一人を丸焼きにするには十分な威力を持った雷撃が、周囲に轟音と閃光を撒き散らしながら竜へと放たれる。
一直線に伸びた雷撃は、そのまま竜の胴体に命中。
鋼色の鱗の表面で火花が散り、白煙が上がる。だが、それだけだった。

濛々と上がる白煙が晴れた時に現れたのは、焦げ後一つすらついていない、竜の胴体だった。
まるで応えた様子の無い竜だったが、それでも反撃されたことに対して寛容という訳にはいかなかったようだった。

ジグを見据えて、竜が口を開く。また咆哮が来るかと身構えた瞬間、口腔に小さな火球が出現。徐々に大きくなるそれを見た瞬間、ジグは全力で近くにあった白亜の柱の影に退避する。

ジグが退避した直後に、竜の口腔から炎の吐息が吐き出される。
神殿内の空間を、莫大な量の炎が敷地の床を埋め尽くさんばかりに這い回る。
莫大な量の炎に比例して発生する輻射熱を頬に感じながらも、幸いにもジグが盾にした白亜の柱は、盾としての役割を忠実に果たしてくれていた。

「クソっ、冗談じゃねぇ!」

先ほどまでの威勢は欠片たりとも見せず、未だに放出されては周囲の床を埋め尽くす炎を、厳しい面持ちで見つめる。

多くの魔物達は、概ね人間に対して友好的であるという記述を、城にあった書物のどこかで見かけたのを思い出しつつ、ジグは現状を冷静に分析する。

「いやもう、友好的のゆの字どころか、俺をベリーウェルダン以上のナニカにする気満々なんだけども…………」

無事に生還できたら本の著者をしばき倒すことを決意しつつ、ようやく炎の放射が止まったのを確認し、慎重に顔だけを柱の影から出す。
柱の向こう側の光景を視界に納められたのは、ほんの僅かな間。次の瞬間には慌てて頭を引っ込め、一瞬の差で炎の吐息の第二射が吐き出される。だが、知りたいことは確認できた。

(案の定、出口は向こう側ですかい………)

そもそも、彼がこの空間に辿り着いたのが正規のルートではないため、仕方の無い事と言ってしまえばそれまでだが、だからと言ってはいそうですかと片付けられる問題でもなかった。
一瞬だけ確認した出入り口は、今ジグが隠れている柱との間に竜を挟んだ反対側にあるため、逃走するにはどうしても目の前の竜を掻い潜って行かなければならないのだが…………。

「いやいやいやいやいや、絶対無理だろ」

早々に諦めそうになって、慌てて頭を振る。

(待てよ待て待て。確かエレネ―――師匠は、昔ドラゴンと遭遇したことがあるって言ってたよな?)

唐突に思い出し、記憶を掘り起こす。

……………………………………。

…………………。

………。


――――――――――――――


日も沈み始めた城下町の、寂れた一角にある酒場。
築数十年は経っているであろうそこは、普段エレネーゼがジグにその日の指導を終えた後、彼に酌をさせて酒を楽しむお気に入りの場所だった。
そして酒を楽しみつつ、弟子に自らが体験した武勇伝を話して聞かせる、ジグもまた楽しみにしている空間でもあった。
その日もまた、弟子に酌をさせながらエレネーゼは自らが体験した話を、面白おかしく話していた。

「へえ、じゃあ師匠は、ドラゴンと会った事があるんだ」
「ああ。まあ、正確にはうっかり遭遇してしまった、というのが正しいがな。あの時は本当に危なかった。もしあの時機転を利かせられなかったら、命を落としていたかもしれない」

ジグの感心した言葉に、程よく酒が回った状態で、昔を懐かしむように語る。

「どんな風に?」

空になったグラスに、新しくビンに入った酒を注ぎながら、興味津々にジグが尋ねる。

「あれは、まだ魔王が代替わりする前の話だ。これでも私は昔、それなりに名の通った存在でね。部隊を率いていたこともあったんだぞ」
「すごいねぇ」

心から感心しつつ、話の先を催促していたジグが、そこでふとした疑問を抱く。

「あれ………? ねえ、師匠」
「ん、どうした?」

グラスの中身を一口だけ口に含み、エレネーゼが尋ね返す。

「それって、魔王が代替わりする前の話でしょ? 魔王が代替わりしたのって、少なくとも俺の祖父ちゃんが現役だった頃より前だよね?」
「そうだが………それがどうかしたのか?」

要領を得ない言葉に、エレネーゼが本題を促す。
この時の彼は、別段悪気があったわけではない。子どもならば抱いて当然の好奇心から生まれた、純粋な疑問を抱いただけである。
だが、時にそういった純粋な思いは、平然と他人の心を傷つけてしまうことを、この時の彼は知っているべきだった。

「師匠って一体、何歳なの?」
「……………………」

ピシリ、と空気が凍りつく。同時にパリン、という酷く軽い音。
音はエレネーゼが手に持った酒の入ったグラスが、持ち主自身の握力によって砕けた音だった。それによって酒が零れてエレネーゼの身体を濡らすが、彼女は一切気にしなかった。

エレネーゼは笑顔を浮かべていた。まるで非の打ち所の無い、完璧な笑顔。それにも関わらず、それが全く笑顔だと認識できないのは、はたして何が原因か。
さらに言えば、それなりに蒸し暑かった店内の気温が、急激に下がったように感じたのは、一体何が原因なのか。
ついでに、それまでカウンターで皿を洗っていたバーテンダーが「ひっ………!」という短い悲鳴と共に皿を取り落としたが、それは何が原因なのか。

それらの疑問に対する答えは提示されず、しかし明確すぎる最中、まるで状況に気付いていないジグの肩に、エレネーゼはそっと手を置き………。

……………………………………。

…………………。

………。


――――――――――――――


記憶はそこで途切れていた。

「いや待てよ、オイ! 怖ぇっての!」

知らず知らずのうちに、独りでに震えだす体を自ら抱きしめ、必死に鎮めつつ叫ぶ。

「何!? ねぇ、何があの時起こったの!? 一体俺の身に何が起こったの!? 何で打開策を模索している最中に、トラウマ掘り起こさなきゃなんないの!?」

半ばヒステリックになりながら、ジグは叫ぶ。もちろん吐き出した疑問に答える者はいない。
それはさておき…………。

(ええい、とりあえず記憶の探索は後回しだ。とりあえずは………)

いつでも動ける態勢をとりながら、炎の放射が止むのを待つ。
そして数秒後、炎が止んだ瞬間、全身のバネを発揮して地を蹴る。そして猛烈な勢いで、一気に走り出す。

記憶を探りながらも状況を観察していたジグは、何度か炎が吐き出されているうちに、一度炎が鳴り止んだ後には、最低でも二秒のインターバルがある事を発見していた。
考えてみれば当然で、炎を吐き出している以上、吐き出し多分の空気は改めて吸い込まなければならない。言い換えてしまえば、炎が吐き出された直後は隙ができるという事だった。

さすがに二秒で出口に辿り着く事は不可能だが、少しでも出口に近づこうとした刹那、風切り音が耳に飛び込む。
ほぼ直感的に屈んだジグの頭上を、唸り声を上げて通り過ぎたのは、鱗に覆われた、強靭な鞭のような尻尾だった。
尻尾はジグの頭上数センチを薙ぎ払い、勢いをそのままに、次の目的地にしていた白亜の柱に命中。派手な音を立てて、柱を根元から倒壊させる。

「ですよねー」

何も炎の息だけに頼る必要など、どこにもない。それ以前に強固な体躯があるのだから、それでジグを一撫でしてしまえば、それだけで決着はついてしまう。それなのに使わないというほうがおかしいだろう。

ジグを視界の中央に捕らえた竜が、また口を開く。口腔に見えるのは、あの火球。周囲を見渡し、一番近くの柱が薙ぎ倒されているのが目に入る。

「ちょっ、ヤバ……!」

慌てて脳内で打開策を練る。

さっきまで隠れていた柱に戻る。
まず間に合わないし、接近されたら今度こそお終いなため却下。

魔法による防壁を張る。悪くは無いが、問題がある。
そもそも魔法は、術式を組み上げるために用いた魔力量と、その構成の緻密さで精度が決まる。
その点で言えば、まず人間であるジグと、地上の王者であるドラゴンとの魔力量の差は絶対的。そもそも張り合うのが間違い。
また構成に関しても、ジグは才能がないと言われるぐらいには粗雑なため、やっぱり却下だった。

そして最後の案。即ち、攻撃は最大の防御を実践する。

以上の三つをコンマ一秒で組み上げ、選択の余地無く三を選ぶ。だが、これは賭けに等しかった。

「よりにもよって、ぶっつけ本番かよ! これなら練習しとけばよかったっての!」

腰に下げていた宝剣を引き抜く。脳裏に掠めるのは、ソルと名乗った単眼の少女が手渡してくれた、羊皮紙の束に書かれていた事。
突拍子も無い話なのは確かだったが、それでも現状を打破するには、信じるしかない!

右手に宝剣を握りつつ、左手で後ろ腰のポーチのすぐ下に巻いてあるベルトに装着してあるものを掴み、口でキャップを外し、迷い無く右手首に突き入れる。
血管を外したかと懸念したが、それも一瞬だけ。きちんと針が血管に潜り込んだのを感じ取り、シリンダーの尻を親指で押し込む。手首に刺さった注射管の中に入っていた薄緑色の液体が体内に入り込むと同時、ありったけの魔力を剣に込める。

確かな手応えを感じたのと同時、先ほどよりも大きな火球を生み出した竜が、それを一気に吐き出す。
膨大な炎の奔流が、ジグを目指して殺到する。それをスローモーションで捉えていたジグは、両手で剣を握り、そして振り下ろした。

無音。

その瞬間、本当に僅かな間だけだったが、ありとあらゆる音が消え失せた。
音を取り戻した世界で、響き渡るのは風の唸り声。
ジグに対して殺到する炎の奔流に対し、ジグが振り下ろした剣の軌跡から発生した膨大な風の奔流が、炎を二つに割き、押し戻し、掻き消しながら奔り抜ける!

「――――っはあ!」

ぶっつけ本番が成功したことを確認しつつ、全身に急激な虚脱感を覚えたジグが膝をつく。

鳴り終えた風の変わりに響くのは、竜の苦鳴。
膨大な風は巨大なカマイタチとなり、炎にその威力の大部分を減殺されながらも、竜の胴体に命中。硬い鱗を引き裂き、その下の肉に深々と傷を刻み込んで止まった。

その昔高名なサイクロプスの刀匠が、生涯の中で一つのコンセプトを追及し続けて鍛えた、最高傑作の一つらしい(未だに胡散臭いと思っている)宝剣のテーマは、羊皮紙に書かれていたデータによれば風属性だった。
持ち主の魔力を取り込み、それを増幅。その増幅した魔力全てを風に変換するというのが、この宝剣の能力だった。
変換した風を、今し方のように純粋な刃や飛礫として放ったり、慣れれば他にも多様な使い方があると書かれていたが、少なくとも今のジグには、今のが精一杯だった。

膝を突いたまま、ジグは竜のほうを見る。
血を流す傷口をそのままに、竜は目の前で起こった光景が信じられないかのように硬直していた。
たかだか一人の人間が、それまでよりも多くの魔力をつぎ込んだ吐息を跳ね返し、自らの体に傷をつけたというのが理解できないようだった。

勿論、ジグが競り勝ったのにも訳がある。

いくら宝剣が持ち主の魔力を増幅するからといって、元々の量が少なければ、増幅したところでたかが知れている。
だが、持ち主であるジグは人並み外れて多くの魔力を持っているわけでもない。しかし彼の場合、彼に魔法を教えた師が少々特殊だった。

名前をラドマン=ケネグというその老魔術師は、見た目を裏切らない腕の確かな老練の魔術師であり、同時に老いて尚盛んな好色爺であった。
自らの欲求を満たすために魔導研究に余念が無かったラドマンはあくる日、通いに来たジグにある物を見せた。

『見るがいい、ジグよ』
『何これ、尿瓶?』

ラドマンが見せたのは、毒々しい緑色の液体が詰まった容器だった。

『違うわい! こんな色の小便があってたまるかい!』
『じゃあ何なの? 人の支払った法外な額の月謝を無駄遣いして、何を作ったのさ』
『相変わらず口の減らないガキじゃな、おまえは。全く、儂を師としてちっとも敬っておらん』

ぶつぶつと文句を言いつつも、言い合っても不毛だと感じ取ったのか、説明を先に始める。

『これはな、名付けてラグアイバMkUじゃ!』
『MkU? Tはどうした? つーか何だよ、その胡散臭い名前』
『胡散臭い言うでない! これは儂の生涯の中でも、最高傑作だと自負しておる!』
『はいはい、最高欠作ね』
『字が違うわ!』

どうせロクでもない物だろうと、ジグはそれまでの経験で何となく決め付けていた。

『はいはい。で、結局何なの?』
『ふっふっふ、よくぞ聞いてくれた』
『………ウゼェ』

ジグが師事した人物は何人かいるが、その中でもラドマンは一位、二位を争うぐらい嫌っていた、言い換えれば軽蔑していた人物でもあった。

『これはな、一言で言えば〈超強力精力増強剤〉じゃ!』
『世話になったな』
『だから待てというのに!』

本気で踵を返したジグを、ラドマンが呼び止める。心底うざそうな顔で、ジグが足を止める。

『よいか、これは儂がアルラウネの蜜や人魚の血、他にもアレとかコレとかソレとかを混ぜて黒魔術を少々スパイスに加えて作ったもので………』
『材料うろ覚えじゃねえか。つーか黒魔術を少々ってなんだよ。黒胡椒を少々みたく言ってんじゃねえよ。んな危なっかしいの作ってんじゃねえ!』
『大丈夫じゃっての。レシピはほれ………あそこらへんにある。話を戻すとじゃな、これを体に打てば、たちまちイチモツも滾り、一週間はオールナイトで……待て待て、話を最後まで聞け』
『あんたの好色趣味にこれ以上付き合えるか!』

ジグは真剣に自警団に訴えてやろうかと考え始める。

『分かった。お前にも役に立つ効果を教えてやる。いいか、さっきのは原液のまま投与した場合じゃ。この原液を水で二十倍に希釈して打てばなんと、一時的にじゃが魔力の絶対値が爆発的に跳ね上がるのじゃ!』
『………おお、それはちょっと凄いな』

本気で感心する。もしそれは本当ならば、構成が雑なジグにとってはこれ以上無いくらい便利な道具となる。

『これ、副作用とか無いよな?』
『…………無いぞ』
『その間は何だ』
『とにかくだ! 希釈するときは絶対に魔法で生成した水を用いてはならん』

ジグの追求を無理矢理断念させ、あえてそんな事を言う。

『へぇ。何で?』
『いいから絶対にじゃ。水に関わらず、絶対に魔力に反応させてはならん。反応させれば最後、超反応でアレがああなってああなるぞい』
『肝心なところがアレばっかじゃねえか!』

その後ジグはその原液を盗んで持ち帰り、私室で魔力で生成した水と混ぜ合わせ、気がついたら病室のベットの上にいた。
無事退院できたとき、まっさきにラドマンの元へ向かい、ドロップキック(完全な八つ当たり)を決めたのは、ラドマンが強姦未遂で捕まる二週間前のことだった。

両脇を自警団員につかまれて引き摺られていくラドマンは、ジグに縋り付くように見たまま投獄され、獄中で病没した。

「………思い出したくもねぇことまで思い出しちまった」

頭を振って嫌な記憶を振り払う。全身の虚脱感は、急激な魔力の消耗による反動だった。
気だるさを抱えながら、さらにもう一本注射器をベルトから取り外し、手首に差し込む。効果がたちまち現れ、全身の虚脱感から開放される。

「さて、と………」

ジグは視線を、出口のほうへ向ける。そこにあるはずの出口は、瓦礫に埋もれていた。

「やっちまったぁ………」

先ほど放ったカマイタチの余波は、竜の背後まで迸り、そして柱の一本を斜めに両断していた。
都合の悪いことに、出口のすぐ側にあったその柱は床に落ちた瞬間に砕け、出口を完全に塞いでしまったのだ。

「あれをどうにかする暇は………与えてくれませんよね」

視線を前に向ければ、混乱から回復した竜が、自身に回復魔法を掛けて傷を塞いでいるところだった。
完治するまでに僅か数秒。おまけに、先ほどの攻撃自体も然したるダメージは負わせられていない。
竜の硬直の原因は混乱が大半であり、傷そのものは深かったが重傷にはなりえていなかったのだ。
例えるならば目の前の竜のHPが10000あったとして、さっきので1000ぐらいは与えられたけど、すぐにベホマを使われてしまいましたといったところだった。

ただし、地上の王者たるドラゴンを怒らせるには、今の一撃は十分すぎるらしかった。

憤怒に染まった目でジグを睨んだ竜が、咆哮と共に移動。巨躯に見合わぬ俊敏さを発揮して接近すると共に、鉤爪を振りかざす。
まるで反応できなかったジグが、それでも辛うじて掲げることが出来た宝剣に、長剣のような五爪の鉤爪が激突する。
サイクロプスが鍛えた宝剣は、竜の一撃には耐え切った。だがその代わり、脆弱な肉体しか持たない人間であるジグは踏ん張りきれずに振りぬかれ、宙を舞う羽目となった。

猛烈な勢いで弾き飛ばされたジグは、しかし大人しく壁まで飛ばされることも許されなかった。
滞空中に尻尾が唸り、どてっぱらに命中する。声すら上げられず、余りの痛みに一瞬意識が飛び、そのまま出口とは反対側の壁にまで叩きつけられる。

壁に磔にされ、浮遊感が全身を襲い、地面に受身も取れずに落下する。
幸いにして骨は折れなかったが、変わりに尻の下で何かが割れる音と、ズボンが濡れる感触。

「げっ……」

腰のベルトに固定していたラグアイバMkUを希釈したものが入った注射器の残り三本が、無残に割れていた。
当然中身は零れ、二度と使えない。原液は一応あるが、少なくとも今この場においては使えない。つまりは、おそらくは切り札であり、目の前のドラゴンを打倒できる唯一の手段を失った事となる。

「クソっ………って、ヤバイ!」

痛む体に鞭を打って、ふらつきながら無様に跳躍。遅れてジグが倒れていた空間を炎が薙ぎ払っていく。
それでも完全に避けきることは出来ず、左半身を炎の舌が舐め取っていく。

「があああああああああっっ――――!!」

薄っぺらいライトレザーなど瞬時に燃え尽き、その下の服も燃え、皮膚を蒸発させ、肉を焼く。泣きそうになるほどの熱と痛みが走るが、見ると怖いため見れない。
代わりに視線を、燃え盛る炎へと向けたとき、脳内にある考えが浮かび上がる。

(………そうか、その手があったか!)

確信も無い、本当に通用するのかも分からない、策とすらいえないような策。だが可能性はゼロではない。

(ゼロじゃねえなら、賭ける価値はある!)

どの道、このままただでやられるつもりなど毛頭無かった。生きる目があるならば、それに賭ける。全てを諦めるなど、論外だ。
退屈なる生涯よりも、波乱万丈に満ちた短き生を選ぶ。それがジグの信条だった。

「なら、やるっきゃねえよなぁ!」

右手だけで握った宝剣に魔力を込め、しかし先ほどのように虚脱感を覚えない程度に加減し、振りぬく。
二度目だったためか加減はうまくいき、先ほどよりもいくらか威力の弱い風の刃が飛ぶ。
迫り来る刃に対して、ドラゴンは先ほどの経験を踏まえ、おのれの防壁を過信せずに魔法による防壁を作り出す。
風の刃と防壁が激突。前者が競り勝ち、竜に着弾。多少の傷は、あっという間に治癒されてしまう。

だがジグの目的は、意識を風の刃に向けて移動することにあった。
機動力の落ちた状態で目的地に達するには、如何に相手に気取られずに先に行動するかが肝になる。
走るジグに対して、ドラゴンが口を開く。胸腔が膨らみ、そして炎が吐き出される。
間一髪で身を投げ出したジグは、残っている唯一の白亜の柱の影に辿り着き、炎をやり過ごす。

(三、二、一……今だ!)

タイミングを計り、影から飛び出す。余り速いとはいえない足取りで、着実に竜との距離を詰める。

動き出したジグに気付いた竜が、頭部をジグへと向ける。何度目かの吐息を吐き出そうとしたところで、ジグが先手を打つ。
狙いは小さい上に、動き回るため当て辛い頭部。確実に命中させるため、極限の集中力を発揮して標準を調節。さらに併せて、残ったありったけの魔力をつぎ込み、組み上げる。

そして最後に、呪言実行。

這いずる業魔の囀り

一発目とは比べ物にならない勢いをもった雷撃は、狙い通り竜の頭部に命中。閃光と雷撃が迸る。
当然、ジグの紡いだ未熟な魔法などで、傷は与えられない。時間も一瞬しか稼げない。だがジグの狙いは別にあった。

白煙を振り払った竜は、しかし周囲を見渡し、口内の火球をそのままに放とうとしなかった。
その隙をついて、一気に距離を詰める。

(ま、当然だろうな)
(なんせ、相手にはこっちが見えていない!)

雷撃によるダメージが皆無でも、併せて発生する光によるダメージは、どれ程強固な鎧であっても防げない。
ありったけの魔力をつぎ込んだ雷撃によって発生した大光量に、竜は視界を奪われたのだ。

冷静に見れば、五感のうちの一つを封じられたのみ。通常ならば、他の感覚でジグの位置は掴める筈だった。
だが、今回に限っては、それは不可能だった。

(ドラゴンってのは、地上の王者だ。つまりそれは、天敵がいないことを指す)
(天敵がいないなら、まず聴覚は必要ねえよな?)

天敵がいないために、敵の接近を知らせる聴覚は、他の生物と比べて未発達であるとジグは読んだ。そしてそれは、見事に当たっていた。
そして獲物を探るための嗅覚も、散々炎によって埃が燃えた臭いが充満した密室内では、ジグの臭いを辿る事は困難を極める。

念のため横から回り込み、右手に握った宝剣を、鱗の薄い柔な脇腹へと、深々と突き刺す。

正真正銘の、重傷足りえる傷に、竜が咆哮を上げて身を捩る。
剣を捻って傷口を拡げつつ、横に引き抜きながらジグは後退。傷が治癒されるのを確認しつつ、退避に移る。

退避するジグに対し、傷からおおよその方向を掴んだ竜が取った行動は、口内に生み出した火球の射出。
ただし、拡散する炎としてではなく、爆発する炎弾として。

「なっ、ぐ――――!」

炎弾は直撃こそしなかったものの、ジグの近くに着弾。爆発し、砕けた大理石の床の破片がジグに直撃。
たまらず倒れたジグの身体を、影が覆い被さる。

「がっ、ぁああああああああああああああああああああああああっっっ!!」

振り下ろされた竜の右前脚がジグを捕らえ、重度の火傷を負った左半身を中心に圧し掛かる。
鋭利な鉤爪が左肩から腕に掛けて肉を刻んで抉り、竜の重量が骨を砕いて軋ませ、新鮮な激痛を次々と感覚に送り込み、視界を真っ赤に染め上げる。
痛覚の許容量を超えてもなお送り込まれてくる痛みに、しかし地面に磔にされているため、悶え苦しむことすら許されなかった。

それでも、頭の中で激しく鳴り響く警鐘に従い、歯を食いしばって痛みを堪えつつ、視界を明瞭化させる。
明滅する視界に映ったのは、顎を上下に開いた竜の姿。口腔の奥に光って見えるのは、先ほどのように炎の吐息を吐くつもりなのか、それとも別の何かか。どちらにせよ、ジグにとって愉快な展開であるはずは無かった。

その場から退避しようにも、他でもない竜の鉤爪による束縛が、それを許さない。当然ながら、ただの人間にそれを押しのけるような膂力は存在しない。

通常ならば、そこで詰みだと悟り、諦めるだろう。あるいは、結末を受け入れられずに、惨めったらしく足掻くだろう。
だがジグは、そのどちらも選択しない。
エレネーゼに刷り込まれた教えと価値観は、彼に第三の選択肢を選ばせる。

自分の体を押さえつける鉤爪をそのままに、いくらか自由な右半身を支点に、強引なまでに左半身を捻り、上体を起こす。

鋭利な刃が身体に押し込まれて固定されているところに、あえて無理に力を加えた結果、ぶちぶちという生々しい音と共に、ジグの左半身が切り刻まれる。
ジグにとって幸いだったのは、左半身に負った火傷により、感覚が半ば消失していることだった。
勿論痛いことは痛いが、意識を失うほどの激痛から、死にそうになるくらいの痛み程度には緩和されていた。

当然そんな事をすれば、肉体のほうはただでは済まない。
だがジグは、自分の身体に関して、あまり心配はしていなかった。
多少不便になるという程度は考えたが、しいて言うならばそれだけだった。

要は、優先順位の問題だった。
生物に、全てを選択することは出来ないということを、ジグはエレネーゼから嫌というほど教わっていた。
その理屈でいけば、今回の場合で最も優先順位が高いのは自分が生き残ることであり、自分の身体の無事は二の次だったのだ。

その優先順位に従い、左半身を犠牲にして自由を得る。
筋繊維が捻じ切れる音に加え、左半身に僅かに残っていた感覚が完全に消失。そのくせ痛覚だけは正常に作動し、信じられないほどの激痛を訴える。非常に気になるが、見ればおそらく動けなくなるため、意図的に無視をする。考えるのも怖いため、意識から一切排除。

そのまま間髪入れずに反撃に移ろうとするが、一つの誤算。
全く動かなくなった左半身は、体のバランスに対し、深刻なまでの悪影響を与えていた。
戒めから逃れ、スムーズに反撃態勢に移行するはずが、左半身の重石のせいで身体の均衡を保てず、無様にふらつく。そして捕食者は、その隙を逃すほど優しくは無かった。

空を貫く風切り音を聴覚が捕らえ、音の正体を確認するよりも前に、通格が右の二の腕の異常を捕らえる。
熱。
まるで焼き鏝を押し付けられたかのような灼熱感が二の腕を中心に広がる。視線を移動させて見ると、銀色の、槍の穂先のような形をした細長い物体に、二の腕を貫かれていた。
それが眼前のドラゴンの尻尾だと認識した直後、その尻尾がうねり、驚異的な力を発揮してジグを貫いたまま飛翔。ジグの背後の壁に突き刺さり、ジグを縫い止める。
手に持っていた宝剣が持ち主の手からするりと抜け、焦げ後の広がる床に落下。乾いた金属音が、密閉空間内で反響する。

獲物を尾に捕らえた捕食者が、縦長の瞳孔をジグへと向ける。その目に浮かぶのは、残酷さか、優越感か、それとも別の何かか。妙に醒めた頭で、そんな事をジグは考えた。

そこで、ふと奇妙な違和感に襲われる。脳裏に瞬くのは、これまでの空間内で行われた戦闘。その一つ一つに、言い様のない違和感が存在した。
その違和感が明確なものへと昇華される前に、ジグを縫いとめた尻尾がうねり、蠕動し、傷口をねじ拡げる。貫かれ砕けた骨が、肉が攪拌される痛みに、ジグの口から苦鳴が漏れる。

今まで経験もしたことの無い激痛に、自分の両足で立っていることが難しくなる。皮肉にも、竜の尻尾で壁に縫いとめられているがため、辛うじて立ってられている様なものだった。

「かっ、はは………」

自身を襲う激痛を他所に、無理に笑おうとして、失敗する。だが、それでも笑わずにはいられなかった。
自身が導いた、余りにも突拍子の無い、滑稽極まりない答えに笑いながら、右腕に許された僅かな稼働区域を駆使し、必死に右手を後ろ腰へと運ぶ。
後ろ腰に提げていた、護身用にしても頼りない小振りなナイフの柄が掌に納まったのを確認し、引き抜く。
手に持ったそれを逆手に握りしめ、切っ先を自らの首元に導く。そこで初めて、眼前の竜の目に恐怖が広がったように見えた。少なくとも、ジグにはそう見えた。

小さいながらも鋭利な切っ先が、首の皮を破り、僅かに血が流れ出した刹那、それ以上進めずに宙を舞う。
下から掬い上げられた鋭利な鉤爪が、ジグの右腕を根元から切断。衝撃で壊れた振り子時計のように揺れた手からナイフがすっぽ抜け、地面に落下する。

(やっぱりな……)
(思った通りじゃねぇか………)

膝から崩れ落ちながら、ジグが口元に引きつった笑みを浮かべる。
余りにも滑稽に思えた。今までの自分が。そして眼前のドラゴンが。

地面に顔面から落下しようかという寸前、側に落ちていた宝剣の柄を咥え、歯でしっかりと固定。両足の力だけでその場から跳ね起きる。
ジグを壁に縫い付けていた尾は、根元から切断された右腕を貫いたまま壁に固定されていた。蜥蜴の尻尾切りよろしく自由を得たジグは、口に咥えた宝剣を、そのまま突き出す。

その余りにも無防備に晒された、おそらくはドラゴンの全身の中で最も鱗が薄く、そして最大の弱点である喉元へと。

「おぉおおおおおおおおおおおおおおおおおっっ!!」

くぐもった雄叫びと共に、勢いも無ければ、大した力も込められていない、突きとも言えないような刺突が、竜の喉元に吸い込まれ、そして切っ先が鱗を割り、肉を刺し貫く。
途端に口内に血の味が広がり、ジグは柄から口を離して噎せ返る。貫通には到らなかった刃は、支えを失って自由落下。竜の喉元から抜け落ちる。

付けられた傷は、非常に小さなもの。だがその傷は、ジグの狙い通りのものを通っていた。

閉鎖空間内に、今迄で一番の竜の絶叫が響き渡る。

宝剣が貫いたのは、周囲に並ぶ鱗と比べ、上下逆さまに生えた鱗だった。
俗に逆鱗と呼ばれるそれは、地上の王者であるドラゴンの唯一にして最大の弱点であり、些細な傷であっても致命傷に成り得る部位だった。

「けは……はは、は………」

床に伏しながら忘れていたかのように咳き込み、そして付け加えたかのように笑う。
億劫そうに上げた顔の先には、首の傷にのたうちながらも、治癒魔法を自身に施す竜がいた。だがそれまでと違い、その傷の治りはひどく遅いものだった。
たっぷり二、三分は掛かり、ようやく喉元の傷が完治。平静さを取り戻した竜の目には、それでも極限の怒りが湛えられていた。

口を開き、咆哮を上げようとした竜が、不自然な態勢で停止する。

「ようやく、か……賭けには……勝ったな…………」

出血多量で朦朧としてきた意識の中、噛み締めるように一人呟く。

大口を開けた状態で停止した竜が、小刻みに痙攣を始める。両目はこれでもかと見開かれ、瞳孔が激しく収縮する。やがて徐々に痙攣が大きくなり、程なくして横倒しに倒れる。

「さすがは……ラドマン………といったところか」

ラドマン=ケネグが生涯最高傑作と称したラグアイバMkU。絶対に魔力と反応させてはいけないと厳命した理由が、これだった。

一定以上の濃度の魔力がラグアイバの原材料の一つである、ギルタブリルの毒と反応。無色無臭の気体を発生する。
この無色無臭の気体の正体は、早い話が毒ガスだった。
ギルタブリルの毒は、魔物達が持つ物の中でも一際強力なものであり、体内に入れば強精症状と全身麻痺を引き起こす。
そしてラグアイバが魔力と反応した際に発生する気体は、そのギルタブリルの毒の中でも、全身麻痺を引き起こす成分のみが抽出されたものであり、たとえ微量吸い込んだだけでも、軽く半日は身体の一切の自由が奪われてしまう。
今回は二十倍に希釈して注射管に詰めていたものが、魔力によって生成された竜の炎の息と反応して発生したものだった。

だが、元々微量の原液をさらに二十倍に希釈した程度のものから発生する量で竜を昏倒させられるかといえば、正直賭けでしかなかった。
そこでジグが打った手は、相手に治癒魔法を連発させることだった。

本来治癒魔法とは、被術者が持つ代謝能力を極限まで引き出して治癒を促進する魔法である。
たとえ体内に入り込んだ量が微量であっても、治癒魔法を連発して代謝を促進し過ぎれば、毒はあっという間に全身に周る。
勿論、それで竜が倒れるという保障はどこにもなかった。
ここが地下の閉鎖空間内だったこと。相手が都合よく治癒魔法を連続で使用してくれたこと。そしてなにより、運よく相手の逆鱗を傷つけることが出来たこと。それらの要因が揃って初めて、ジグはその僅かな可能性を掴み取った。自分の発想を信じ、実行に移さなければあり得なかった結果だった。
もっとも、同じ空間内にいるジグに、前回経験したことによって耐性が付いているという仮定の上で立てた作戦だったが。

ジグは何とかして立ち上がろうとして、失敗する。

右腕が消失し、左半身の感覚が無いのに加え、両足もまるで言うことを聞いてくれなかった。酷使し過ぎたせいで、彼の肉体はとっくに限界を超えていた。
その事に不思議と考えが至らず、ジグは倒れたまま、自分の左半身をひょいと眺める。
腕の上腕部から左肩、胸、脇腹までの衣服は欠片たりとも存在せず、露出した皮膚はあちこちが熱によって溶け、あるいは蒸発・炭化していた。
左肩から胸に掛けて縦に走った傷は、まるでミートフックで滅多打ちしたかのようにグチャグチャで、傷口から赤黒い肉が生々しく露出していた。
左腕にいたっては、辛うじて皮と一本の筋繊維だけで繋がっているというのが、何箇所も存在した。最早原形を留めていないのは、言うまでもない。
唯一の慰めは、肉が炭化するほどの火傷のお陰で、出血が殆ど無いということぐらいか。それ故に、いまだに失血死せずに済んでいる。

「見なけりゃ……よかったな………」

乾いた半笑いを浮かべる。自分の命を最優先した結果といえばそれまでだが、だからといってこの結果はあんまりだと、自分勝手なことを考える。

今後の事を考えるのが怖くなり、気を紛らすように、横倒しになった鋼色のドラゴンを視界に収める。
毒といっても、元々が原液の二十分の一の濃度しかなかった上に、相手は人間よりも頑健な肉体を誇る魔物なのだ。すぐにでも毒は抜けてしまうと見て、まず間違いない。

しかしそれが分かっても、身体は動かない。それどころか、新たな異変すら生じさせていた。

「う、あぁ………」

突然胸の奥に熱が生じ、そしてそれが徐々に全身へと広がり始める。
元々体に負っていた火傷とは別の、まるで身体の内側から針の筵を押し付けられているかのような感覚に、苦鳴が留めなく溢れていく。

「がぁ、ぐ、ぁあ、ああああああああああああっっっ!!」

負傷のせいでのた打ち回る事すら出来ずに絶叫し続け、ジグの意識が薄れ始める。

視界がブラックアウトする寸前、眼前に倒れている竜が、微かに身じろきしたような気がした。


――――――――――――――


ラグアイバMkUの超反応でぶっ倒れ、復活してちょうど二週目の頃。その日もまた、週一ペースで通っているラドマンの所へと向かっていた。

いつも通り寂れた区画を通り抜け、見るからに怪しい、廃屋となった元酒場の建物の地下へと降りる。そして木製の扉を開けるところまではいつも通りだった。だがそれ以降は、いつも通りではなかった。

開けた扉の向こう側には、下卑た笑みを浮かべたラドマンが、醜いモノをたぎらせた状態で、おそらくはアリスと思わしき全裸の少女を、抵抗できぬように押さえつけていた。
アリスの少女は両目を恐怖で染め上げ、涙を浮かべた状態で、すがりつく様に突如として乱入してきたジグを見ていた。
対するラドマンは、卑下た笑みをそのままに、入り口で硬直しているジグを一瞥してこう言った。

「どうした、女の裸を見るのは初めてか?」
「……………」

初めてか否かで言えば否だったが、それは置いてジグはその瞬間、自分の中の何かが音を立てて切れるのを聞いた。

嫌がる素振りを気にした風もなく、無理矢理アリスの股を開こうとするラドマンまでの距離を詰めるのに、僅か〇・一秒。そのまま握り締めた拳を、大分皺の寄った顔面へと叩き込んだ。
声を上げる暇も無く昏倒したラドマンを一瞥すらせず、ジグは紳士的に自分の服を脱いでアリスの少女に被せてやり、ついでにラグアイバMkUの原液とレシピを初めとした、多数の研究成果を無断で拝借。少女と一緒にその場を脱出し、家まで送り届けた後に自警団に通報した。
程なくして、ラドマンは自警団につれられて投獄された。連行されている最中のラドマンは、まるで裏切り者を見るような目付きでジグを見ていた。

そんなラドマンを尻目にジグは脱兎の如く駆け出し、その足でエレネーゼの元へと向かった。そして両手両膝を付いて、その日一日の記憶を抹消してくれるよう懇願。弟子のその姿にただならぬナニカを感じ取ったのか、神妙な表情でエレネーゼもこれを承諾。そのまま腰に下げている剣を引き抜き………。

……………………………………。

…………………。

………。


――――――――――――――


「――――――――――」

朦朧とする意識の中で耳に流れ込んでくる歌は、ひどく優しく、心地が良く、それでいて懐かしいものだと感じられた。

ありふれたフレーズの並んだそれは、まだジグの母親が生きていた頃に、幼い彼の為に歌っていた子守唄と全く同じだった。
それを奏でる済んだ心地の良い声と、後頭部に感じられる不思議な柔らかさ。その二つが覚醒しかけた意識を、再び奈落の底へと沈めようとする。というより、自ら飛び込………、

「おっ、目が覚めたか」

………む訳にはいかなかった。

意識が奈落の底に沈むことを渇望する中、奈落の底にダイブしようとしていた意識の首根っこをつかみ、一撃を入れる。

「ここ、は………」

どこだ、と続けそうになり、寸前で飲み込む。余りにもベタ過ぎるというのと、そもそも尋ねる意味が無いというのが主な理由だった。

薄く開かれた視界には、まるで心配するかのように見下ろす影。
見る者を惹きつける金色の双眸は、どこか優しげな色が宿っている。
陶器のように白く滑らかな肌に覆われた、整った顔立ち。鋼色の髪が垂れ下がり、鼻先をくすぐっていた。
それを、暢気にもむず痒いと考えていたあたりで、ようやく目の前にいるのが誰なのかを認識する。

「おまっ――――」
「じっとしてやがれっ!」
「ぐっ、え………」

慌てて飛び起きようとした所で頭部を押さえつけられ、結果的に首がもぎ取れそうになり、潰れた蛙の様な声を漏らす。それを聞いた相手が、心なしか申し訳なさそうな顔をする。

「あ、悪ぃ。そんなつもりでやったんじゃ――――」
「いや、待て待て、待てよ待て。待てと言ったら待て。絶対的に待て。俺の全存在意義を賭けて待て」

正直、何を言っているのか自分でもよく分かっていなかったが、それでも意図は伝わったらしく、相手は首を訝しそうに傾げる。ちっとも伝わってねえじゃねぇか。

ひとまず深呼吸をして状況を整理。ここで最もやってはいけないのは、矢継ぎ早に質問して相手を無用に混乱させ、不毛に終わることである。よって質問は厳選して、一つに絞らなければならない。
そしてその上で、真っ先に尋ねなければならないのはコレだろう。

「あのさ、これってどういう状況?」
「あ? 見て分かんねぇのかよ。こりゃぁ、あれだ。その………膝枕………つったっけか?」

答える本人も、曖昧だった。あと状況を鑑みて、見ることは叶わない。

「いやいやいやいやいや、そうじゃないそうじゃない、そうじゃないって。俺が言いたいのは、何でお前がそんな事を?」

ジグが問い詰めたのは、意識を失う寸前まで戦っていたドラゴンの、人間形態だった。

「………その、悪かったよ」

どこか気まずそうに、視線を逸らしながら、唐突に謝罪の言葉を口にする。

「………は?」
「だから、いきなり襲い掛かっちまった事についてだよ! 察しろよ、そんくらい!」
「ああ………」

言われてようやく得心したというように、ジグが相槌を打つ。そして至極当然のように、あっさりと言ってのける。

「別にいいんじゃね?」
「いいんじゃねって、オイ。殺されかけたのはお前だろうがよ」
「嘘だね」

呆れたように、そして諭すように言う相手の言葉を、ただの一言で切り捨てる。切り捨て御免である。

「あんたさ、一度も本気で俺を殺そうだなんて、してこなかったじゃん」
「………………」

意表を突かれたという風に、相手が黙る。そんな事などお構い無しに続ける。

「最初の鉤爪の攻撃だってさ、俺は辛うじてだけど反応できたよ? その後竜の姿になった攻撃には、まるで反応出来なかったってのに、それより身軽な状態での攻撃に反応できるって、そんな事がある?」

それだけに関わらず、戦闘中にも、いくつもその傾向は見られた。

竜形態となったとき、わざわざ予備動作があって躱しやすいブレスを連発することに意味など無い。そもそも対格差に絶望的なまでの差があるのだから、それにものを言わせて肉弾戦をしていれば、初めの一分で勝負はついていた。
そしてそのブレスに関しても、明らかに手加減されていた。
ブレスを喰らったとき、確かにジグは重度の火傷を負った。皮膚は溶けて蒸発し、肉は炭化した。だがむしろ、その程度で済んでいる事がおかしいのだ。強大な竜の息吹は、広大な森であっても一瞬で燃やし尽くす。そんな熱量を持った炎を喰らって、人間が平気なはずが無い。

竜形態での接近戦もまた、同様の事が言える。
鉤爪による初撃など、反応できない云々を差し引いたとしても、ジグが堪えきった事が不自然なのだ。竜の攻撃に人間が耐え切れるはずなど無い。それはその後の尾槌の一撃などに関しても同様だ。
確かに空中で喰らえば、いくらか衝撃は軽減される。だがそんなものなど微々たるもので、あの時点で内臓が破裂して終わりのはずだ。前脚による拘束に関しても、意図的に体重を掛けないようにしなければ、ジグの身体が耐え切れるはずが無いのだ。

「つまりは、そのどれもが俺を追っ払うのが目的で、殺すのが目的じゃないって事だ」
「………目聡いな」

苦笑する相手を見ながら、そこでジグはようやくある事に気がつく。

「あれ、俺の腕!?」

ガバリと身を起こす。今度は相手も制止しなかった。

「つーか、たしか俺って火傷してた……よな? 左腕にいたっては、原型留めてなかったよな………?」

ペタペタと自分の身体を撫で回し、腕を振り回し、それが現実のものだと確認する。

「あー、お前が寝ている間に、繋げておいた」
「繋げた!?」

慌てて袖を捲くり、切断されたあたりを見るが、縫合痕は見られなかった。

「つーか、服! 俺こんなん着てたっけ!?」

ジグが現在身につけているのは、普段着ていた麻のシャツではなく、簡素ながらも肌触りのいい、高級な生地を使っているシャツだった。

「次から次へとうっせぇな。服はオレが燃やしちまったから、適当に見繕っといた。とりあえずお前が元々着ていたのに似たやつ選んだだけだから、文句があるなら他にも種類があるから、そっから選べ。あと、繋げたってのは魔法でだ」

言われてようやく、周囲を確認する。

そこは水路に落ちて辿り着いた安置室でもなければ、戦闘を演じた神殿でもなかった。

周囲には金銀財宝が所狭しに重ね上げられ、それらの隙間から、大理石の壁がのぞいている。財宝に囲まれた中央には、先ほどまでジグが横たわっていた仕立ての良さそうなベッドや、高級そうなソファなどが置かれている。
そして相手が指差した先には、無造作に重ねられた衣類の山。そのすぐ側には、剣や槍といった武具が積み上げられた山があった。

「これ………全部お前が集めたやつか?」
「そうとも言えるし、そうじゃねぇとも言える。元々オレが集めたのもあるが、それを狙ってきた俗物共が置いてったものもある。お前の治療に使った道具は、そういった俗物共のだ」

そう言って相手が指し示したのは、旅のお供である各種ポーションのビンが、規則正しく積み重ねられており、プチピラミッドを形成していた。意外と遊び心があるのかもしれないと、そんな事を考えてみる。

「初めはテメェもそいつらと同じだと思ったんだけどよ………」

ガリガリと頭を掻く。そこでようやくジグは、そもそもの事の発端を思い出していた。

「あ、そうだった。そもそも俺が来たのは――――」
「人探しだろ? ったく、紛らわしいったらありゃしねぇ」
「………どうしてそれを?」

幾分警戒を含んだ声音で、慎重に問いかける。記憶にある限りジグは探し者と答えており、それを相手は探し物と誤解したからこそ戦いが始まったのだ。
だが相手は、至極あっさりと白状する。

「んなの決まってんだろ。オレがお前の記憶を、お前が寝てる間に覗いたからだろうが」
「いや決まってねぇよ!」

ジグがツッコミを入れる。至極当然の反応だった。

「しゃーねーだろ。一応弁解しとくと、記憶覗いたのはやむまれなかったんだぞ?」
「どこらへんが?」
「どこらへんがって、そりゃお前、お前が妙な薬使うから、治療が大変だったんだよ」
「妙な薬……?」

まったく身に覚えがないと思ったのは、束の間のことだった。

「ほら、なんかしんねーけど、魔力が増大する薬使ってたろ」
「ラグアイバMkUの事か?」
「そう、それだ。それの副作用でとんでもねーことになってたから、どうやって作られてんのか知る必要があったんだよ」
「ちょい待ち」

本日何度目かの待ったを掛ける。

「副作用って?」
「副作用って、そのまんまの意味だ」
「ごめん、俺に分かるように説明してくれない? 俺、あれを実戦で使ったの、今回が初めてなんだけど」
「はぁ!?」

今度は相手のほうに驚かれる。

「お前、あんな危険なもんを、初めて使ったのか!?」
「え、そうだけど……何か問題でも? 記憶覗いたんだったら、それぐらい分かるだろ?」
「全部見たわけじゃねえよ。これでもテメェの事を気遣ってんだぞ? 見たのは本当に最小限だ。それなのに問題も何も…………はぁ」

盛大に溜め息をつかれ、ジグは軽く傷つく。随分と相手に順応しているなと、どうでもいい事を考える。

「ようは、あれは魔力の保有量の上限を引き上げるわけだ。で、上限を引き上げた分だけ、魔力を一時的に保有できる。言い換えれば一種のドーピングだな。だが、当然のように薬である以上、持続時間が存在するわけだ」
「それぐらいは、まぁ………」
「ほんとに分かってんのかよ。分かってたら気付くはずだってのに………まあいい、本題に入るとだ、効果が切れて上限が元に戻っても、テメェの身体は上限が上げられた状態として魔力を作り出すんだよ」
「…………どういう事だ?」
「ここまで言って分からないか? つまり、テメェという器がバケツからコップに戻ったのに、テメェの身体はそれに気付かず、魔力という水が溢れても補給しようとするんだよ。で、結果として溢れた魔力がテメェの身体を蝕んで、死に至らしめる。分かり易く説明したらこんなもんだ」
「………………………」

ジグは普段余り発揮しない頭をフル回転させ、なんとか要領を掴む。掴んだ上で、納得する。つまりは、意識を失う寸前に感じた熱は、魔力が体を蝕み始めた兆候だったのだと。

「………あんのクソジジイ、ちゃっかりばっちり副作用あんじゃねぇかよ!」

この程度の事、開発者であるラドマンが知らなかったはずが無い。つまりは、知っていた上で黙っていたという事になる。

「おら、分かったら寝てろ。まだ完全に漏れた魔力が浄化しきったわけじゃねぇんだからよ」
「そうなのか?」
「オレに出来んのは、テメェが必要以上に魔力を作り出そうとすんのを止めるだけで、既に漏れ出した分に関しちゃ、時間の経過に任せるっきゃねぇんだよ」
「なるほど」

何がなるほどなのかは全く分からなかったが、そしてそれ以上にツッコミどころ満載な現状に関して殆どツッコんでいないが、それはジグ自身の疲労の表れでもあった。
大人しく相手の忠告に従い、寝心地のいいベッドに身を横たえる。シーツを被った所で、ベッドの縁に腰を掛けていた相手が、おもむろに歌を口ずさみ始める。

「…………それ」
「んあ? 人間の世界じゃ、寝るときはこうして唄い聴かせるもんじゃねぇのか? 勝手が分からなかったから、勝手にお前の記憶を覗かせてもらったけどよ、気に障ったんなら…………謝る」
「いや………」

申し訳なさそうにうな垂れる相手の言葉を否定する。否定した上で、口を開く。

「………母さんがよく歌ってた。懐かしい」
「………そうか」
「もしよかったら、俺が寝るまでの間でいいから、聞かせてくれない?」

相手からの返答は無かった。その代わりにジグの額におもむろに手が置かれる。
ひんやりとした滑らかな手の平の感触を感じながら、ジグの意識は不自然なほど急速にまどろみ始める。
意識が沈みきる寸前、彼の耳には、懐かしいフレーズが聞こえた。


――――――――――――――


ジグが再び意識を取り戻したのは、体内時計を信じるならば、丸一日が経過した頃だった。
気絶していた間も含め、二日近く何も入れていない腹が、痛いほどの空腹を訴える。

すっかり人肌程度に暖められた手の平が、今だに自分の額に置かれているのを確認し、視線を動かす。

「やっと起きたか」
「………おはよう」

外の時刻が分からなかったため、何と声を掛けるか迷ったが、とりあえず無難な挨拶を選んでおいた。

寝過ぎたためか、全身に倦怠感を覚えながらも、億劫そうに身体を起こす。そして相手と顔を見合わせ、どちらからとも声を発することなく、気まずい沈黙が流れる。

「………あのさ、一つ聞いていい?」
「何だ?」

沈黙に耐えかね、先に口を開いたのはジグのほうだった。

「何で俺を手当てしてんの? 一応俺はあんたの敵で、あまつさえ、逆鱗まで傷つけたわけだけど?」

本来ならば目覚めた直後には投げ掛けているべき疑問に、そこで初めて、相手が戸惑ったような表情を浮かべる。

「何でって…………そういや、何でだ?」
「いや、俺に聞かれても………」

そこで頭をガリガリと掻き揚げる。見た目は絶世の美女だが、動作の所々が男臭く見える。

「なんつーかな、上手く言えねーけど……とにかく助けなきゃって思ったんだよ。あの戦いで、テメェはオレに勝っただろうが」
「いや、手加減されてたのに勝ったも何も」
「オレが殺さないようにしていたからって、テメェの勝ちには違いねぇだろうが。んで、その勝ったやつが死んで、負けたほうが生き残るってのも、後味が悪いだろ? 多分それが理由………いや、言っといてアレだけど、何か違うな。なんつーか…………」

ぶつぶつと呟くが、それでも釈然としないようで、やがて吹っ切れたように声を張り上げる。

「あーもう! 面倒くせぇ! とにかくだ、オレはテメェに死なれんのが嫌だったんだよ! 何でそう思ったのかは知らねーが、細かい理屈なんざどうだっていい! 要は、オレがそう思ってテメェを助けた、それでいいだろうが! なんか問題でもあんのか!?」
「いえ、ありません………」

凄まれ、すごすごと引き下がる。

「………で、お前この後どうすんだ?」
「どうするって、俺がここに来た目的は――――」
「ここに来た筈の人間を探してんだろ? 正確には、その人間が持っているはずの、サイクロプスが作った武器を。その上で言うが、少なくともここに来た連中が置いてった物の中に、テメェが探しているものはねえぞ。一通りオレが確認したからな」
「それってつまり、ヘイル=テルゼンはここに来てないって事?」
「んなのオレが知るか。一々来た人間の顔なんざ、憶えてねぇっての。ここに来たやつらは、オレの姿を見て覇気を浴びただけで、すぐに逃げ出して行ったからな。たまに持ちこたえても、ブレス一つで終わりだ。それなのに憶えていろってのが、無理難題だろ」
「いや、責めている訳じゃないんだけどさ………」

不機嫌そうに相手が言うため、慌てて釈明する。そして話題を逸らすように、思案を巡らせる。

「しっかし、どうするって言われてもなぁ。元々が目的の無い放浪だったわけだし、頼まれ事だって、消化するような義理は無い訳なんだけど………」

しかしそうは言っても、曲がりなりにも約束事を反故にする事には、多少なりとも引け目を感じるのもまた事実だった。

「………まあ、適当に旅でも続けるかな」
「………そうか」

最終的に導き出した、投げ槍とも取れる結論に、相手は何かを言いたそうな素振りを見せ、そして口を噤む。
そこで難しい表情を浮かべ、盛大に溜め息をついた後、周囲の適当な物を指差す。

「テメェの役に立つかどうかは知らねぇが、ここにある好きな物を、好きなだけ持っていけ」
「………へ?」

一瞬何を言われたか理解できず、内容をよく咀嚼した上で、慎重に聞き返す。

「………いいの?」
「ああ。テメェは勝者で、オレは敗者だ。テメェが何を欲しがろうが、オレにとやかく言う権利は無い。ここにある物なら、どれを選ぼうが構わねぇよ」

その魅力的な提案に、ジグは腰を浮かし、周囲の物をじっくりと観察する。

(改めて見ると、ほんと色んな物があるな)

周囲にある物を見てそんな感想を抱くが、実際のところ、どれを選ぶかとなると中々の難題だった。

(財宝は……そんな欲しいとも思わないし、道具類ってもなぁ………)

元々祖国を出る際に宝物庫から金品をいくつか拝借しているため、金銭に関しては多少の余裕がある。
勿論いずれは尽きるだろうが、だからと言ってここで手に入れなければならないほど切迫していない。
あちらこちらにある武具に関しても、ジグは剣の扱い方しか教わっていないため、持っていても宝の持ち腐れにしかならないのが関の山だった。その剣に関しても、現在所持している宝剣だけで十分だった。
道具類にしても、わざわざここで貰わずとも市場で購入すれば賄えるものが殆どであり、取り立てるほどのものは無い。

(魔道書………は、そもそも俺が読めないから却下。なんか魔具っぽいのもあるけど、使い方が分からなきゃ意味無いしなぁ…………)

まるでいい欲しい物が思い浮かばず、頭を唸らせていると、ふと、頭に妙案が思い浮かぶ。

「あのさ、ここにあるものなら、何でもいいんだよな?」
「ああ、そう言ってる」

何でものあたりを強調して尋ね、望んだとおりの返答が得られ、ジグは満足気な笑みを浮かべる。

「んじゃ、言うけど………俺はあんたが欲しい(足として)」
「………は?」

ポカンと、そんな音が聞こえてきそうなリアクションが返され、沈黙が流れること数秒。

「はぁああああああああああああああああああああっっ!?」

たっぷりと間を溜めた後、そんな絶叫が響き渡る。

「ばっ、おまっ、一体何言ってんのかりゃかってるまんど#+×な*&◎■――――――」
「はい、とりあえず落ち着いて。そっちが何を言ってんのか分からないから」

ジグのアドバイス通り、深呼吸して落ち着きを取り戻すと、一気に捲くし立てる。

「テメェ、アホか! 自分が言っていることの意味が、ちゃんと理解できてんのか!?」
「できてるよ。俺はあんたが(足として)欲しい。最低限の義理を果たすためにも、デオドラ山脈のほうまでは行かなきゃいけねぇわけだし、その間だけでもあんたが必要だ(足として)」
「お前、んな事いきなり言われてもよ、こっちにも都合ってもんが………」
「…………駄目なのか?」
「いや、そういう訳じゃねえけどよ………」

既に両者の間には、埋めがたいほどの認識の差異があるが、どちらもその事に気がつかずにいた。

「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!! ああ、もうっ! わーったよ! テメェに付いて行く。デオドラまでなんて言わずに、一生な!」

場合によっては凄まじい意味すら伴う内容の言葉を、顔を赤く染めながらも一気に言い放つ。最早捨て鉢状態だった。相手がジグであるため、自暴自棄とも取れる。

「おら、そうとなったらとっとと行くぞ! ここにある物は、魔法で運べば問題ねぇ。どこに行く?」
「………まあとりあえず、アッスルー……ここの近くの街に戻って、何か腹に入れたいんだけど…………」

矢継ぎ早の言葉に圧されつつ意見を言うと、間髪入れずに反駁される。

「はぁ? オレに人間どもが集まる空間に入れってのか!?」
「まあ、そういう意味だけど。その姿だったら、見た目人間と変わらないし」
「ざっけんな。何でオレがそんな真似をしなきゃいけねーんだよ」

相手が顔を顰めるのを見て、ジグはおおよその相手の気持ちを察した。

「………いやさ、何となくだけど、言いたい事は分かるよ? だけどさ、今後の事を考えても、その気持ちは仕舞ってくれるとありがたいんだけど? 後、できれば人間に対する偏見は、一端捨ててくれないかな? 案外今の世の中も、悪いもんじゃないと思うよ?」
「………………」

若干及び腰になりながらの説得に、相手は考えるような表情を浮かべた後、口を開く。

「………今回だけだぞ」
「できれば今後もそうして欲しいんだけどさ。………あ、あともう一つ聞いていい?」
「……今度は何だ?」
「名前、あるでしょ? 何て呼べばいい?」

最早今さら過ぎる質問に、だが相手は意表を疲れたような表情を浮かべた後、後頭部を掻きながらぶっきらぼうに名乗る。

「………ティアランドだ。好きに呼べ」
「んじゃあティアで。俺はジグヴェルト=エヴァンシュタイツァール。ジグって呼んでくれ」

背筋を伸ばして姿勢を正し、毅然とした態度で名乗り返し、手を差し出す。
ジグの差し出した手を、ティアは不思議な目で見つめる。

「……何だ、これは?」
「握手って、知らない? 人間の世界だと、自分の利き手を相手に預けて友好の意を示す習慣があるんだけど」
「…………妙な習慣もあったもんだな」

心から不思議そうに呟いた後、ティアがジグの差し出した手を握る。

「これで満足か?」
「………うん、そうだね」

苦笑するジグを促し、宝物庫と化している部屋から出る。

これがかつて『龍帝』と呼ばれ、同族にすら恐れられた銀鱗のドラゴンと、脆弱ながらも酔狂な価値観を持った放蕩王子とのファーストコンタクトだった。

12/01/25 13:30更新 / テンテロ
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■作者メッセージ
という訳で、三話目をお送りいたします。皆様、お久しぶりです。

少しと言いながら大分遅れてしまい、申し訳ございません。今後は無いよう善処していきたいので、生暖かく見守っていただければ幸いです。

重ねて謝罪となりますが、前回の感想で連投について指摘してくださった方。完全にこちらのミスです。申し訳ありません。
最後になりますが、ここまで呼んでくださった方々、どうもありがとうございました。あわせて誤字・脱字、意見等ありましたら、遠慮なく報告お願いいたします。

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