読切小説
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特異点
僕は不眠症だった。
それまで綺麗だった部屋は資料で散乱し、テーブルにはハーゲンダッツのカップが積み重ねられ、シンクは汚れ、洗濯物も放置されていた。
元来几帳面だった僕からは考えられない惨状だった。
僕は小説家を目指していた。
だが、失敗した。
日々考えてはかき消えてゆく愛すべき駄作たち。
積み重ねては崩れ、霞んでゆく。
世間から相手にされず、支えてくれる恋人もおらず。
次第に僕の心を影が蝕んでいった。
ある日のことだ。
僕は自転車で横断歩道を渡っているとクラクションが鳴らされた。
渡りきってから気づいた。
信号は、赤だった。
恐怖にかられ、急いで家に戻り、いっそう引きこもった。
うつ病もあったのかもしれない。
いつまでたっても眠れず、朝と夜の境が消えた。
涙がこぼれても、くぼんだ眼窩に溜まってしまう。
ベットから起き上がることを忘れた僕は、考えることもやめてしまった。
刻々とすぎる時。
弱まる心音。
その時が近づいていることさえも、頭の片隅でしか理解できなくなっていた時。
ベットのマットレスから、ヌッと僕のものではない何者かの腕が伸び、僕を抱きしめた。
瞬間、溶かした石膏のようになるマットレス。
抵抗もしないまま、僕は純白の闇の中へと引きずり込まれた。

暖かな空間。
赤と黄、水と緑の春風のような虹色の世界。
僕は裸になって、誰かに膝枕をされていた。
瞳に映る絶世の美女。
淫液を滴らせ、僕を覗き込んでいる。
「君は誰?」
「私は混沌よ」
答える人ならざる彼女。
僕は意味が分からず、勝手に死神なんだなと解釈した。
「お願いです。僕を殺して下さい」
涙ながらに訴えると、僕の頬に水滴が落ちた。
彼女の涙だった。
「なぜそんなことを言うの」
僕は言う。
「僕は何も手にすることはできなかった。正真正銘の負け犬さ。だから死んでも誰も悔やみはしない。だけど君のような美しい人に穏やかに殺されるなら、最後の一番良い思い出になるよ」
「そうはさせないわ」
彼女は僕の頬に手を当てる。
「常識に殺されかけたあなたを救うため、私はあなたをここに引きずり込んだの。ここは常識の外の世界だけど、幸福が常に生まれ続けているわ」
ご覧なさいと促す彼女。
僕が明後日の方を向くと、幸福な記憶がフラッシュバックした。

朝露が弾けるタラの芽。
顔をこするリス。
小魚を捉えるヤゴ。
羽化するクワガタムシ。
頬を擦り合う人と犬。
日向で眠る猫。
笑顔で出勤するリーマン。
赤ん坊をあやす母親。
香ばしいコーヒーの香り。
回る観覧車。
フーセンを配るピエロ。
楽しかった日曜日。
待ちに待った月曜日。

生命の鼓動が蘇り、生きたいと願い始める。
僕が望んでいた景色がそこにある。
まだ死ねないと溢れる涙。
再び落ち始める暖かい雨。
彼女の涙。
僕の涙と溶け合って、浅かった呼吸が深くなる。
僕の耳に、彼女の触手が伸びてきた。
「私はあなたの苦痛を取り除いてあげる。もう悩まなくて良いの」
僅かな痛みとともに、頭の中が優しくかき乱される。
「幸福の渦の中で溶け合うの。もっと幸せになるために」
僕のものに手を伸ばす彼女。
もう片方の耳から黒い水が漏れ出て、一瞬で宙に消える。
ミントを嗅いだ時のように爽やかな気分になって、また頑張ろうと思い始める。
「だから生きて。私と一緒に」
彼女の唇と僕の唇が触れ合う。
そして僕は射精した。

朝日で目を覚まし、僕は夢の中で見たはずの彼女と、抱きしめ合っていたことに気づく。
相変わらず汚れたままの部屋。
だけど、もう悩まない。
手早く片付けて、朝ごはんを食べようと思う。
大好きな彼女と一緒に。
ほかほかの白米。
ベーコンに半熟の目玉焼き。
メロンとヨーグルト、オレンジジュースを添えて。

幸福に包まれて、また、月曜日が始まる。
17/09/04 00:36更新 / コーヌスクローネ

■作者メッセージ
SINGULARITY
https://m.youtube.com/watch?v=kl_kyhwCDtY

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