……霧深い天崙山、その中腹に座する仙石楼。
　その大庭で、誇り高き三獣拳士が倒れ伏しその身を震わせ血を吐いていた。

　その身を蝕むは毒

　あのティエンの同門であろうものが、このような卑劣な手を使うとは思わなかった……そうした油断がタオフーたちになかったかと言えばあったであろう。
　それに、己の肉体に対する自負や自信もあった。事実、タオフーら三獣拳士、ひいては魔獣は高位の存在であればあるほどその体の強靭さ、宿る生命力は強大なものとなり少々はおろか強力な病毒ですら効きが悪く、果ては受け付けないことも珍しくはない。それに、タオフー、ヘイランの両者は特に多くの戦いを経たこともあり、毒を受けたことも一度や二度どころではなく数え切れぬほどである。それでも、ここまでの“猛毒”はその過去を振り返っても類を見ぬほどの激烈さであった。その毒が今、タオフーたちの全身を廻り、その血を、体を蝕んでいた。

　「き、貴様……！！　ぐっ……ぅ！」

　唸り声と共に虎の爪が、恨めし気に宙を掻く。
　だが、その爪に力はなく、震え地へと落ちるのみ。

　その目に宿る怒りは燃え、いまだ尽きぬ闘志を燻ぶらせるものの体は動かず。むしろ、動かそうとその身に力を籠めようものならば全身が引き裂けんばかりの激痛が走る。それは動きを封じ、耐えがたいほどの苦痛をもたらしていた。
　だが、真に恐ろしかったのはその毒は命を瞬く間のうちに食い尽くすようなものではなく、真綿に水滴が落ち、ゆっくりと染み込んでいくようにじわじわと……骨の髄から溶かしていくように……命を削る点にあった。それは呪詛にも似ていた。
　長く、できるだけ長く苦しめるための毒。
　いったいどれほどの悪意を、この者たち……ファンジェンは持っているというのか。

　苦しみに悶えるタオフーたちの前に、悠々と立つ。

　その翡翠は毒を満たし、口の端を上げる。
　悪意に満ちたその瞳をタオフーは睨みつけるも、いよいよその体の指先一つさえも動かせぬほどに毒が周りつつあった。その姿は紛うことなく……地を這う弱者であり、ファンジェンは勝ち誇る勝者であった。
　「刃を」
　ファンジェンは振り返ることなく、後ろで負傷者の手当てに走る門弟の一人に声をかけ、手を差し出す。門弟の一人は何も言わずに、ファンジェンに腰に差した柳葉刀の柄を差し出す。その柄を握り、重さを確かめるように振るうファンジェンの眼差しは冷たく、目の前の獣の首へと注がれる。

　ここまでか

　そう、タオフーは恨めし気に歯噛みする。その目の端からは血が流れ、血涙が地を汚す。

　……口惜しく思うは、約定を果たせぬこと……

　もはや、守られるかはわからぬ約定。だが、何時かは果たそうと、そう誓った約定。
　（……あやつは……待ち続ける……だろうか）
　帰ることのない、宿敵を……

　毒蛇が、狙いを定め……その鎌首をもたげる

　その牙を開き、噛みつかんと……



　したその時であった





　「ファンジェン！！　何をしているか！！」





　霧が揺らぎ

　木々が震え

　葉が落ちる



　静寂、響き渡るは、重荷を下ろす音。
　それは待ち望んだものの声、たとえ動かずとも、獣の身が、耳が、打ち震えるのがわかる。

　そして、ゆっくりと、そう、ゆっくりと蛇の翡翠が振り返る。

　「ああ……」

　深く、深く息を呑むように……牙をしまい……その首を垂れる。


　「ティエン兄……お久しゅうございます」

　「……答えよ、ファンジェン」
　首を垂れて腕を組み、深々と礼を示すファンジェン。それに倣うように門弟たちは一言も発することなく、両膝を付きその額を地につける。それは一見して異様な光景であった。先ほどまでの毒蛇が嘘のように、その瞳を潤ませ口元を緩ませる。蛇は人に懐かぬというが、もしも懐くのならばこのような表情をするのだろう、そう思わせる姿であった。

　そして同時に、ファンジェンの告げたことは真ではあったのだろう。

　「……師兄と呼ばなかったことをお許しください……あまりに嬉しく……」
　「ファンジェン」
　手にした刃を隠すように逆手へと持ち替え、すっとティエンの傍に寄ろうとするファンジェンを制すように、ティエンは片手を突き出す。そして求める、なにゆえ此処にいるのかと。
　「……このファンジェン　老師より門主の名を拝し数年、師兄の行方を追っておりました　その中で六月ほど前、師兄が天崙山にいると　三月前には山に潜む魔に挑むと　そして一月前には山から戻らぬと……お聞きしました」
　言葉を切り、静かにティエンを仰ぐ。
　「挑めば最後、生きては戻らぬと　そう聞かされておりました……けれど」
　その目は、鋭く……師兄と慕う男の眼を射抜く。
　「師兄　お聞かせください　……なぜ、この魔どもと共に居るのですか」
　すっと、ティエンの前に立つ。

　その目は、どろりと燃え立つように濁る。

　「この者たちは件の魔の者たちではない！　だというのにこのような狼藉を……！」
　「……それは失礼、うっかり首を刎ねる処でした」
　「ファンジェン！」
　毒蛇は悪びれることもなく、侮蔑するかのように吐き捨てる。
　「では、殊更お聞かせください　なぜ、件の魔ですらない魔の者たちと暮らしているのですか　件の魔を討ったのであれば、もう用はないはず　……それにこのファンジェン、もう一つ師兄に関わる重大な噂を聞いております、そちらは是非とも師兄ティエン　貴方にお聞きしたい　……かつて魔が潜んだという仙石楼……そこに新たに三匹の獣仙が住み着いたと……一人、人間の従僕を連れて　まあここまでならば、よくある話です　知恵をつけた畜生は人の真似事をしたがるもの　大方主人を気取り、主に相応しいみすぼらしい奴隷でも連れているのだろう……そう思いました　ですが」
　翡翠が揺らぐ。
　「その噂には続きが……　その獣仙の見目は麗しく、まるで天女のようだと……そして従僕は素朴なれど精練に鍛え抜かれた錬士であり……　そして……畜生どもの情夫である……と！」
　忌々しく、吐き捨てるファンジェン。何時、この地の噂が下界に下りたのか、それはティエンにはわからなかった。だが、恐らくはティエンと三獣拳士、その妹たちの話であることは間違いなかった。
　「ティエン兄！　お答えください！　なぜ貴方はこの畜生どもといるのですか！？　貴方ほどの人がなぜ！　畜生の情夫などに……！　どうか嘘だと！　そう、嘘だと！」
　戦慄く表情は苦悶に歪み、嫌悪に染まる。

　「事実だ　ファンジェン、このティエン　魔の者であるタオフー、フオイン、ヘイラン……彼女たちと情を交わした」
　硬く、口を閉ざすようにして言葉を結ぶティエン。そのティエンを前に、絶句し目を見開くファンジェン。
　「事の成り行きは複雑ではある、だが未だ山を降りぬは決着を約束した魔の者……タオフーの兄、ライフー殿の帰りを待つが故　……しかし、そうでなくとも私は情を交わした責を果たすつもりです」
　力強く言い切るティエンとは対照的に、言葉を紡ごうとするも舌が動かぬとばかりに呆けるファンジェン。

　その後ろで、タオフーが喀血する音が響く。

　「！　タオフー！」
　そのまま、叫んだティエンは呆けたファンジェンの横を通り過ぎ弱るタオフーと、その横でぐったりと倒れ伏すフオインに駆け寄る。そして、すぐに気が付く、タオフーたちの体を蝕む、その毒の正体に。
　「ファンジェン……！　なぜこれほどの毒を！　精心瘴血を使ってまですることか！！」
　それは、ファンジェンがティエンと共に仕えた道祖の師ウーシュから授けられた秘奥義が一つ、その名は“精心瘴血”。

　己が体を、心臓を毒の器とし、その血を……体液全てを毒へと変じさせる術

　魔と戦うため、その体全てを武器にする、道拳が奉ずる道の一つ……その終着が一つであった。
　当然、習得には長い鍛錬と恐るべき荒行を経る必要があり、習得者はごく限られていた。その奥義をファンジェンは二十にも満たない年齢で会得し、数年の内にもはや並び立つものがないほどに強力な毒を精製できるまでにその術を高めていたのである。
　そして、その激烈な毒はファンジェンの体質さえも変質させ、肌から僅かに滲む汗や油さえも猛毒へと変えたのである。それが滲み、染み込んだ髪……それがファンジェンの持つ最大の武器であった。

　そしてまた、ファンジェンの精心瘴血の恐るべきはその毒の多様さにあった。通常、この奥義は毒と化した己の血の成分……ある程度の変化は可能だが……毒の性質を複雑に変えることはできない。だが、ファンジェンは奥義を体得後、様々な薬術、毒術の知識をもって更なる修行を経たことで、己の体内で未だかつてない“新しい毒”を作ることすらも可能にしていた。

　故に、ファンジェンを良く知るものはこう呼ぶのだ、艶やかなその似姿を……

　―毒花―

　または、好む色を合わせて……鮮やかな花ほど、毒を危ぶむべしとの警句を込めて……

　“紅花”

　……と


　「……ティ……エン」
　掠れ掠れの声が、虎の口から漏れるように流れる。血涙を流す目は赤黒く染まりながらも、確かにその目の内に愛するものの顔を映しこむようにしっかりと見開かれていた。だが、それはあまりにも痛々しく、そして毒が深く、ゆっくりとその身を蝕んでいく様を見せつけているかのようであった。
　その傍に倒れるフオインに至っては、小さいが故に毒の周りが早いのかすでにこと切れたかのように倒れ……擦れるような呼吸の音だけが苦し気に響くだけであった。
　ヘイランもまた、少し離れた場所で倒れ伏していたがタオフーと同じく、その視線をティエンへと向けていた。だが、毒は深くその体を蝕んでいるようでもはや動くことさえもできない様子であった。

　その無残な姿、愛するものの苦しみを前に……そっとティエンはタオフーの手を握りながら重く口を開く。

　「……ファンジェン」
　何も言わぬ、かつての師弟に声をかける。
　「何が、望みだ……」

　「……そんなこと、ここに来た時点でご存じでしょう　ティエン兄」
　じっとりと、囁くように告げる。
　「ですが、あえて告げましょう　私の望みは、師兄は私と共に来ていただきたいのです……理由は知っているはず」
　ことも何気に、勝ち誇るようにファンジェンは言葉を並べていく。そのファンジェンの後ろに門弟の一人が紅い椅子をそっと据えると、そうするのが当たり前だというようにすっと座りながらもなお続ける。
　「さらに言えば、師兄を誑かし……その身を穢してくれたそこの獣たちには死んでいただきたいのですけども……」

　張り詰めた静寂と共に霧が、揺らぐ。

　「……共に来ていただけますか？」
　諦めたように、ファンジェンは告ぐ。
　「この者たちを癒せ　それが条件だ」
　「……どうしても？　いえ、いいでしょう　師兄に二言はないでしょうから……」

　精心瘴血、その毒を解するのもまた精心瘴血のみ。

　故に、その毒を扱うものは恐れられる。

　ファンジェンは椅子に座ったまま、その指先を門弟の一人に向けて差し出す。
　門弟は杯を取り出すと、短刀をそっと構える。暫く……ファンジェンの指先が濃く、黒くなった頃合い……すっと、その刃を入れ血を受ける。それは黒い、墨のように黒い血。
　「……それを針に塗り、突痺眠に刺せ」
　突痺眠、首にあるという経穴が一つ。針孔のように小さく、突くには熟練の技を有する……そして、打ち方によっては“痺れるように、眠らせる”……深く、深く眠らせ、時に死にさえも至らしめることさえも可能な危険な経穴だが、それは同時に全身の経脈をつなぐ重要な経点の一つであり、僅か一滴の薬や毒であっても針に塗って刺せば事足りるという。
　血を受けた門弟はその経穴の打ち方を習得しているのだろう、静かに頷くとタオフーの傍による。
　「私が打つ」
　針を手にした門弟を制すように、ティエンはその手を伸ばす。ティエンの要求に門弟は少し怯んだように、視線をファンジェンへと向ける。
　「……渡してやれ　それによく見ておくといい、師兄ティエンの……暗技を見る機会はそうはないぞ」
　その言葉を受け、門弟はティエンに杯と針を渡す。受け取った杯の中の血をティエンはじっと確かめるように眺める。その血は黒く光りながら、杯の中に広がっていた。
　「師兄……貴方との約束は守りますよ　ですが最初に伝えておきましょう、薬針を打って暫く……概ね二日から三日の間は眠りに落ちます、目を覚ましたとしてもまともに動けるようになるには十日ほど、完全に治癒するのは一月経ってからです　ですが、それを待つことはできない、わかっていますでしょう」
　面白く無さげに、ファンジェンは告げる。長い眠りと回復までにかかる時間の長さ……それはひとえに毒の激烈さもあったが、同時にあえてそうしたということもあった。早く癒せば、恐らくタオフーたちはティエンを取り戻すべく即座に動いたであろう。ファンジェンと約定を交わしたのはティエンだからだ、タオフーたちは違う。それではせっかくの好機を自ら潰してしまうことになる。生かしておかねばならぬ以上は、時間を稼ぐ必要があった。遥か遠く、もはや追うことも叶わぬほど遠くへと行くための。

　無論、癒すと言って、眠るように殺す毒を作ることもできたであろう。

　だが、ファンジェンはわかっていた。それをすれば、ティエンの心は完全に離れるだろう。それはファンジェンにとって本意ではなかった。それにティエンは “極めて鋭かった”。僅かな気の変化、体の変化でそれがまことに薬かどうかを見破ったことであろう。

　ティエンはすっと、刺すように針を血に浸すと優しくタオフーのしなやかな首を撫でる。毒に侵された肌は熱く、しかしその芯は冷え切っていた。その様子だけでも、いかに強烈な毒を盛られたかがわかるようであった。そして、同時に感嘆と共に天へ感謝する。もしもタオフーたちの心身が弱ければ、たちまちのうちに……ティエンが戻るまでもなく毒に蝕まれた瞬間に死んでしまっていたであろう……
　くっと、指が止まり……経穴を探り当てる。

　そのまま迷うことなく、針を取ると音もなく静かに突き入れる。

　びくりと、虎の全身が震えると同時にその瞼が落ちる。針を抜くとティエンは、確かめるようにタオフーの首に再度手を当ててその脈をあたる。変わることなく、乱れるように脈は流れていたが、ゆっくりとだが確実に整い始めた脈を見出すと同時に、芯の中に熱を感じる。効果がある、そう確かめるように静かに頷くと、ティエンはフオインの下へと歩み、そっと身を抱え起こして同じように処置を施す。
　フオインはすっかり衰弱しきっていたが、処置の後に少しせき込むように、しかしてしっかりとした呼吸をし始める。そのまま頬を撫でるようにして寝かせると、ヘイランのほうに歩み寄る。
　「ぅ……ふう、ふふ……ごめん、な……さいね……」
　足音で気づいたのだろうか、血涙に潰された眼がティエンを探すように揺らぐ。抱きかかえるようにしてその身を起こし、経穴を探るために首に手をかける。その手を握るように、ヘイランの柔らかな手が重ねられる。
　岩術の賜物か、ヘイランの身を蝕む毒はタオフー、フオインに比べ周りが遅かった。だが、だからと言って効かぬわけではない。岩を穿つ水滴のように、毒はゆっくりと確実にその体を侵し……最後にはその心臓を貫くだろう。

　経穴を探り当て、針を当てる。

　ぐっと固く、入らぬ針。
　「……ヘイラン」
　口の端から、血を流して微笑む。わかっているのだろう、その針を通したら最後、愛しい人がいなくなるのを。だが、何時までも持つわけではなかった。
　暫く、その僅かな抵抗の後……ヘイランは力なく、最後に笑うとその岩術が解かれ……針が経穴を刺す。



　「終わりましたか」

　見届けたように、ファンジェンがその時を告げる。すでに門弟たちは身支度を終え、門の前にてその身を並べていた。そこには御輿のような寝台もあり、恐らくこれを門弟に担がせてファンジェンはこの山を登ったのであろうことが伺えた。
　「最後に、彼女たちに別れを」
　「……良いでしょう」
　不満気ではあるが、渋々と認める。その言葉を聞き受け、ティエンはタオフー、フオイン、ヘイランを優しく抱え、仙石楼の中へと寝かせる。そして最後に、眼を閉じ……心の中で誓う……

　その時であった、物陰に、闇に紛れたものの視線に気づく。

　「ナオ殿」
　幸いにして、仙石楼の中にはティエン以外に誰もいない。ティエンは静かにそのものの名を呼ぶ。
　「ﾋﾟｷﾞ……」
　うにょんと、闇の中から粘性がその姿を現す。最初は太った大鼠程度だったその体も、今は小さな犬程度までに大きくなっていた。鋭い牙があちこちから突き出し、複数の濁った眼を持つ魔性……一見して恐ろしい存在だが、その性質に恐ろしさはない……ティエンたちに危害を加えようとしない限りは……
　そんなナオが、不安げにその瞳を回す。恐らく、この不気味ながらも賢い不定形は感づいていたのだろう。

　主が去ろうとしていることを

　そんなナオの不安を窘めるように、ティエンはそっと撫でる。少しばかりひんやりとした、名状しがたい感触。伸びた触手を絡め、引き留めるように小さく鳴く。

　「……ナオ殿、ここを……仙石楼を頼みます」
　「ﾋﾟ！　ﾋﾟｷﾞｰ！！」

　引き留める触手を解くようにして、ティエンは立つ。
　あまり長居はできなかった、もしもファンジェンが門弟の一人でも様子を見に行かせればナオが見つかる恐れがあった。ナオもまた魔物としての力はそれなりにある方であったが、それでも門弟たちとその門主たるファンジェンに勝つことは無理な話であった。

　ティエンは再び、静かに眠りにつく仙石楼の妹たちに向けて……心の中で誓う……

　いつか必ず、責を果たすと……


　……霧が渦巻く天崙山、その中腹にある仙石楼から一団が旅立つ……
　……鮮やかな紅の一団、その中に一人……