連載小説
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彼女は夢を見ていた。
既に過ぎ去った過去の夢。

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場所はジパング、皇都以外との交流を全て絶ち、独自の魔術を育んできた鴉の里があった。
その里は鴉の魔術師と呼ばれた稀代の魔術師が作った小さな隠れ里である。

鴉の魔術師は独自の魔術を使っていた。
それは札(カード)に特定の魔術を封印し、必要に応じて魔術そのものを召喚する特殊魔術である。
『鴉の魔術』と呼ばれた魔術を駆使し、彼はジパングを旅していた。
今となってはその目的も定かではない、『魔術の研究開発のために旅をしていた』、『自分と並ぶ魔術師を求めていた』等々、鴉の里の人間ですら、噂や憶測でしか語れないのであった。
そして、彼(実のところ男か女かは定かではない)は何らかの理由で札の大半を失ってしまう。
それを回収するために彼は鴉の里を作り、才能豊かな魔術師を集め、子や弟子を育て、魔術師にし、札の回収に協力して貰う事にしたのだった。
しかし、彼の存命中に全ての札を回収することは出来なかった。

彼の死後、『鴉の魔術師』の称号は弟子に受け継がれていく。
そして、その弟子が志半ばで倒れればそのときに最も能力の高い弟子へと、使命と称号が受け継がれていった。

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時は聖皇暦312年。
ジパングで起きていた内乱は6年も続いている。
皇都…すなわち京の都と呼ばれた中心都市ですら、戦火は広がっていた。
だが、レムリアとジパングの同盟協定に反対する勢力は、それと相反する勢力に押され、既に皇都を残して壊滅しており、内乱終結も時間の問題であった。

そんな情勢下でジパングの皇都から徒歩で1日以上を要するほどの深い山奥の隠れ里にその娘は居た。
齢5歳という幼子ではあるが、次期『鴉の魔術師』候補の1人である。
彼女は今日、自分の世話役と共に山の中に散歩に出ていた。

「ねぇ、阿賀野、これ見て〜」

少女は今さっき手に取った物を阿賀野と呼ばれた少女に見せた。

「どうしました、桜華様…これは桜の花ですね」
「うん!、とってもきれいだよ!」

差し出した花びらは、桜華と呼ばれた少女が着込む着物に1つだけあしらわれてる花と同じ物であった。
もうすぐ6歳になる彼女は毎日毎日様々な物に興味を示す。
好奇心が増す毎に彼女は沢山の言葉や知識を身に付けていた。

「阿賀野〜桜華おなかすいた〜」
「あ…そうですね、そろそろ昼食時ですね」

日も真上に差し掛かり、2人とも空腹を感じ始めていた。
散歩道の両脇に立ち並ぶように生える桜の木には、ピンクの可愛い花が咲き誇っていた。
2人はその木の下に布を敷いて座る。
桜華が愚痴っぽく喋り始める。

「桜華はいつになったら魔術がちゃんと使えるようになるかなぁ?」
「桜華様ならすぐにできる様になりますよ」
「むぅ…でもまだ1回もちゃんと使えたことないんだよ……明日が本番なんでしょ?」
「焦らないで下さい、今日の夜にでももう一度練習しましょう?」
「…うん」

やや不満げに、桜華は持ってきたおにぎりを食べ始めた。
それを阿賀野は微笑みながら見ている。

「おいしい〜」
「それはよかったです」
「う…しゅっぱい…」

突如口中に広がった酸味が、彼女の表情を強張らせた。
少しだけ、梅干しを入れましたから、そう言って悪戯がばれた子供のように笑っていた阿賀野だったが、次の瞬間に表情を強張らせた。
彼女のしっとりと濡れた体が微かに震える。
彼女…ぬれおなごの阿賀野は何かを感じ取った。

「桜華様」
「どうしたの?」
「それを食べたら一旦里に戻りましょう」
「ん〜分かった!、でもその前にもうちょっとだけ花びら集めていい?」
「…ごめんなさい、桜華様、ひょっとしたら里に何かあったかもしれません、急いで戻らないと…」
「……ぶ〜、分かった、でもまたいっしょにここに来ようね」
「もちろんです」

2人はそれぞれおにぎりを平らげ、立ち上がり、来た道を戻り始めた。

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里へは30分も掛からずに戻ってこれた。
阿賀野が危惧したようなことは何もなく、里はいつもの様に静かな日常を過ごしていた。
それほど多くない木造の家屋を取り囲むように田畑が広がっている。
田畑で作業をする住人を脇目に、里をぐるりと見渡す。

里のほぼ中央には他の民家と比べて一際大きな木造の建物が建っている。
そこは、祭殿と呼ばれる現状里が保有している『鴉の魔術』の保管場所にして、次期『鴉の魔術師』決めるための特別な建物であった。
その周りを堀が囲み、そこから放射状に民家とそれを囲む田んぼが広がっている。
20軒にも満たない小さな里であるが、皇都から商人が来たり、皇の承認を得た才能ある若者が訪れることもある。

里全体の様子を確認したところで、阿賀野から緊張が解けるのが桜華には分かった。

「阿賀野…?」
「いえ…私の気のせいだったみたいです」
「もぅ〜阿賀野もおっちょこちょいだなぁ〜」
「すみません」

せっかくの花見&散歩が流れて少々不満そうな顔をする桜華に、阿賀野は平謝りであった。
だが、阿賀野は内心不安であった。
仮にも魔物である自分の感覚を彼女は信じていた。

(あれは…間違いなく……探査術式)

花見をしていた時に感じた魔力、それは確かに人間が使う魔術、それも人間や魔物の位置を調べるための探査魔術であった。

「桜華様、先に家に戻っていただけますか?、私は祭殿に用事が出来ましたので…」
「いいよ〜、桜華先に戻っておちゃ入れるね〜」
「楽しみにしております」

阿賀野は桜華に家に戻るように伝え、自分は祭殿へ歩き始めた。

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阿賀野と別れた桜華はまっすぐ自宅へ向かう。
彼女に両親はいない。
孤児としてこの里に引き取られた子供である。
現在の里長が桜華の魔術の才能を見抜き、彼女を引き取り世話役に阿賀野をあてがったのだった。
そして、幼子ながらにも桜華は自分の境遇を察していた。
育ての親である阿賀野は明らかに自分とは異なる種族だし、他の子供達にしても両親が健在の家庭も存在している。
だからこそ自分がしっかりしなければと年に似合わぬ事をしたりもする。
そして、桜華は阿賀野を母と呼んだ事は一度も無い。
育ててくれていることも知っているし、魔術について親身に教えてくれているのも理解しているのだが、それでも桜華は自分の産みの親への想いから、阿賀野を母と呼ぶことが出来ずにいたのだ。

やがて、木造の小さな一軒家が見えてくる。
周りはところどころ草の生えた細い道と田畑に囲まれている。
顔見知りの子供達が、なにやら魔術を使っている。
今は訓練の時間のようであった。
彼らは桜華を見ると手を振った。

「〜♪」

桜華も手を振り返す。
彼らは桜華と同じ、次期『鴉の魔術師』候補であった。
毎日自分に宛がわれた魔術を使って、明日の本試験の練習をしていたのだ。
『風』、『炎』、『水』、『土』、『凍』、『雷』…等々。
それぞれが自分に割り当てられた魔術を頑張って使いこなせるように空中に魔術を放っている。

無論、10歳前後の少年少女達では過剰な力と一癖ある性格の魔術達を使役しきれない。
よって、不発・暴発は日常茶飯事である。
そんな状況にも関わらず、桜華も他の里人もそれを気にすることはない。
それがこの里では自然な風景だったからだ。

桜華は彼らの練習風景を尻目に、自分の住まう家にたどり着いた。
彼女は引き戸を開け、中に入る。
家には当然誰もいない。
後ろ手に開けた引き戸を閉め、草履を脱いだ。

そして、台所へ小走りで向かい、お茶の葉を用意してお茶を入れ始めた。
桜華はたどたどしい手付きながらも、慣れた様子で準備をしていく。

まもなく、畳の上に置かれた小さなテーブルに二つの湯飲みの急須が置かれるが、疲れていた桜華はそれらをそのままにして昼寝を始めてしまった。
外から聞こえる声は彼女にとって慣れた子守唄のようなものだった。
魔術の訓練をする少年少女達の声は、この時間ならばいつものこと、そう考えているうちに彼女の意識は夢に落ちた。
当然その間の記憶は彼女にはなかった。

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そして、周りの空気の変化を感じ、彼女が目を覚ましたとき、桜華は里の中心に位置する祭殿の中に寝かされていた。

「ん?」

桜華には最初自分に何が起こったのか分からなかった。
時刻は夕暮れ、紅色の日の光がうっすらと祭壇の中に差し込んでくる。

(桜華、いつの間に祭殿に来たのかな?)

彼女は入り口から視線を外し、真後ろ、すなわち『鴉の魔術』である札が納められている祭壇の方を振り返った。

茶色の木肌が祭壇周りの大量の蝋燭に浮かび上がっている。
そして、その先、木で組まれた祭壇の前には誰かが立っている。
蝋燭の焔に照らされる誰かは燃えるような短い金髪と金色の瞳を持っていた。

「『太陽』?」
「…やっと目が覚めたんか?」
「ん〜、桜華どのくらいねてた?」
「真上の太陽が山に沈むくらいや」
「……ねすぎ?」
「寝すぎや」
「うぅ…」

『太陽』と呼ばれた女性の姿の『何か』はやれやれといった表情で首を真横に振った。

「それよりも、何で『太陽』が出てきてるの?、桜華やみんなの前に出て来るのって明日じゃなかったっけ?」
「それはな……おっと、阿賀野が帰ってきたか…」

『太陽』が事情を話そうとしたその時、昼間に別れた阿賀野が転がり込むように祭殿に飛び込んできた。

「『太陽』!!、自警団では抑え切れません、逃げる準備をしてください!」
「阿賀野?」

いつものおっとりとした様子とは違う、焦燥しきったその姿と声に、桜華は何かが起こっていることに気がついた。

「何があったの?」

桜華の問いに阿賀野は唇を噛んで答えない。
代わりに『太陽』がその問いに答えた。

「桜華、ウチが期限より前に出てきたのはな、里が危ないからや」
「?」
「誰か知らんが、里に攻め入ってきおった」
「!」

『太陽』の言葉に桜華は驚愕し、様々な感情がぐちゃぐちゃに混ざり合った表情を浮かべた。

「うちらの自警団程度では足止めにもならんところを見るに、相手は正規軍の類やな」
「…みんなはぶじなの?」
「………ウチも迎撃に出てみたが、今のウチでは無理や」

桜華も『太陽』が言わんとする事を理解した。
『太陽』が全力を出すには正式な後継者とそれなりの数の札が必要になるが、今はどちらも足りなかったのだ。
そして、遅れて湧いてきた疑問、それは…

「どうして桜華はここにいるの?」
「…」
「それは私から」

阿賀野が答えた。

「桜華様は次期『鴉の魔術師』候補です、その身の安全を守るのは当然のことです」
「……でも桜華以外にもいたよね?、他のみんなは?」
「…」

阿賀野は答えない。
『太陽』も押し黙る。

「みんなはどうしたの?」
「他の方は…」
「もう皆には会えん……」
「…」

名前もうろ覚えだが、皆の顔は幼い彼女ですら覚えていた。
そして、皆は桜華に優しかった。
そんな皆とはもう会えない…それが幼い桜華の心を抉った。
死という物を理解も出来なければ実感も出来ない、だが、もう二度と会う事は出来ないというただそれだけで、彼女は悲しんだ。

『太陽』が細い虹彩を更に細めて低い、獣のような唸り声を上げる。
阿賀野も気配に気づいた。

「!!、敵が…」

だが、時既に遅し。
ついに里の自警団を全て撃滅・突破してきた敵集団が祭殿の扉を破壊してきたのだった。
無駄話を悔いても遅い。
阿賀野と『太陽』は桜華の前に立ち、敵を1人も通すまいと身構えている。

だが、そんな2人の努力を他所に、桜華は微動だにしない。
阿賀野が逃げろと叫んでも反応しない。
幼い少女は友人や里の人達を失った悲しみで茫然自失となっていた。

そして…

2人に切りかかる敵やそれを撃退していく阿賀野と『太陽』だったが、1人の男が阿賀野と『太陽』の迎撃を切り抜け、桜華に迫った。

「桜華ぁ!!!」
「桜華様!!」

2人は叫ぶが他の敵に邪魔をされ、駆け寄ることが出来ない、そうしてしまえばあっさり背中を切りつけられてしまうだろう。

だが、桜華はそんな2人の必死の叫びも聞こえない。

男が剣を振り上げた。

桜華が顔を上げた。

剣が振り下ろされる。

桜華の目には鈍い銀色と紅い雫が映る。

そして…それが何を意味するか理解し、彼女の感情は弾けた。

勢いをつけた剣は彼女の顔まで後1mも無い場所で何かに受け止められていた。

黄金の杖、それが剣と桜華の間に割って入ってきていた。
『太陽』は表情を強張らせながら桜華に叫んだ。

「桜華、その杖を取れ!!」
「!!」

呆然として彼女の意識が『太陽』の叫びで戻ってきた。
そして、反射的に目の前の杖を手に取る。
それと時を同じくして、剣を振るった男は今度は横薙ぎに切りつけてきた。
桜華は半ばパニックになりつつも、頭に最初に浮かんだのは魔術であった。

「『盾』!!!」

今まで一度たりとも成功しなかった彼女に割り当てられた魔術が発動した。
男は即座に剣を引き、右掌を突き出す。
魔術の構えである。

掌から噴き出したのは無数の火球である。
桜華は焦っていた。
ただの炎術ならば『盾』でも防げた筈だ。
だが、彼女は割り当てられたもう1枚を使ってしまった。

「『鏡』!!」

行使されたのは反射術式、『盾』の上から被せられた反射結界に当たった火球が術者に跳ね返る。
それらはあっという間に、歩く松明を作り出した。
その様子を直視してしまい、顔色が一気に青ざめる桜華。

「!」

悲鳴を上げる間も無く、燃え尽きる。
それだけの火力であった。
その光景を見て、踏み込んできた男も女もその場で二の足を踏んだ。
それとほぼ同時に一気に魔力を消費した桜華は意識を失い魔術が解除された。

その2つの隙を『太陽』は見逃さない、隣の阿賀野を掴み、身を翻し倒れつつあった桜華を抱える。
今まで隠していた翼を広げ、そのまま天井を突き破って空を飛ぶ。
後ろから攻撃魔法が飛んでくる。
だが、いくら弱体化している『太陽』であってもその程度の攻撃で堕ちる程、弱くはなかった。
全ての火球や雷撃を掻い潜り、『太陽』は里から離れる。
しかし、完全に逃げ切るには『太陽』の力が足りない、途中で失速し森の中に不時着する羽目になった。

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それから先の桜華の記憶はほぼ1日分が途切れ途切れになる。
森の中を…山の中を疾走する1人と2人。
木の上に逃れ、洞窟に潜み、川に潜り……人が住んでる場所からどんどん離れるように逃げた為にそのような遁走を繰り返す羽目になった。
たった1日の事だったが、急変した日常と魔術行使による魔力不足で桜華は疲れ切っていたのだった。

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彼女がしっかりと記憶に刻み込んだのはその次の日の出来事である。

3人は森の中に居た。
襲撃者達がどこまで追ってきているのか、3人にはもう分からなくなっていた。
阿賀野は魔術の使いすぎで探査術式が展開できず、周りの状態が把握できていない。

だが、少人数ながらも確実に3人を追跡している敵が居るのは分かっていた。
何故なら振り切ったと思って移動速度を落とすと、その都度後方から魔術なり弓なりの攻撃が飛んできたからだ。
相手は探査術式を駆使して3人の位置を把握しつつ、逃げる体力が完全に尽きるまでゆっくり追い詰める気なのだろう。
それに気がついたまではよかったのだが、3人にはそれを打開する手段が既に数少なくなっていた。

そして…それは起きる。

「このままでは逃げ切れません…どうしたら…」
「…今のウチでは足止めもどれだけ持つか…」
「いけません、『太陽』には桜華様をお守りする役目があるはずです」
「Zzzzz…」

『太陽』の背中で寝息を立てる桜華を他所に、木々の間を走る2人の会話は状況が相当切迫していることを告げていた。
鴉の魔術師として、鴉の里唯一の生き残りとして桜華には逃げ延びてもらわなければいけない。
『太陽』にも桜華の護衛兼教育者として逃げて貰わなければいけない。

つまり、この場を切り抜けるために必要な事ができるのは阿賀野ただ1人であった。
そして、その方法を彼女は持っていた。

「……『太陽』…桜華様を立派な魔術師にしていただけますか?」
「何を今更なことを…」
「そうですよね…よかった…」

阿賀野は移動を止める。
それにつられて『太陽』の足も止まった。
背中の桜華は揺さぶられて、睡眠から半覚醒まで意識が戻ってきているようだが、まだ何がなんだか分かっていない。

「『太陽』、桜華様を起こして貰えますか?」
「ああ…何をするんや?」
「早く…」

焦りでも激昂でもなく、悲しげに静かに催促する阿賀野の様子を見て、『太陽』は黙って桜華を揺さぶる…
間も無く桜華は目を覚ました。

「ん〜」
「桜華様、目は覚めましたか?」
「ん」
「そうですか」

桜華が目を擦ってる様子を阿賀野は微笑みながら見ていた。
そして、阿賀野はずっと『太陽』が持っていた杖を受け取り、桜華に差し出した。
桜華は表情を強張らせる。
曰く、目の前で焼け死んで逝く人間を直視してしまい、怖くてしょうが無いと言う。
だが、それよりも自分がそうしてしまった事、容易に出来てしまう事、自分がどこかでそうしたいと思ってしまった事が怖いと彼女は言った。

「桜華…それいやだ」
「……ダメですよ、桜華様が逃げ切るにはどうしてもやって頂かないと」
「何を?」

有無を言わさず阿賀野は桜華に杖を握らせる。
それは違和感も無く、ただしっくりと手に馴染む…まるで手足の延長のように…

不思議な感覚だった。
今までまったく制御できなかった魔力が今では思うように動かせる。

「ふむ……桜華は面白いなぁ…」
「?」
「さあ…桜華様、これを使ってください」
「これは?」

阿賀野が差し出したのは裏面が桜華が持っている『盾』と『鏡』と同じデザインの札、当然描かれている魔術は異なるが…
それを受け取りながらこれが何の札なのかを問う桜華に阿賀野は答えた。

「これは『雨』ですよ、桜華様」
「どうして阿賀野が『雨』を持ってるの?」
「いざと言う時のために里長からお預かりしておりました」
「これを使うのね?」
「そうです、使い方はご存知ですよね?」

そう尋ねられた桜華は苦笑いをしながら呻く。

「……うー」
「使う魔術をしっかりイメージして下さい、それで何とかなる筈です」

桜華は言われるままに手の中の『雨』に意識を集中する。
ピエロのように尖った帽子、雨粒を模した飾りの衣装…描かれた小さな少女は意思を持つ魔術そのものである。

「『雨』!」

あの時…杖に触れたときから、桜華は自分の魔力制御が以前よりも容易になっているのを感じた。
その時までは、魔力が暴れまわるように拡散し、魔術を発動させる事などまったく出来ていなかったのだった。
だが、潜在的に余りある魔力は制御を覚えた途端、彼女が出来ることを一気に増やしていた。

「……できた…?」
「お見事ですよ、桜華様」

札は開放され、魔術が発動する。
少女が飛び出しその場で踊り狂う、それは札の絵がそのまま具現化したかのようである。
あっという間に3人の真上に雨雲が生まれ、魔力を含んだ雨が降り出した。

「なるほど、これなら相手の目を誤魔化せるかもしれん」
「?」
「魔力が込められた雨なら追いかけて来てる連中の探査魔術を無力化できるってことや」

だが、と『太陽』続けた、それでも上手く逃げられるかは分からない…と。
桜華は悲しそうな表情をする。
阿賀野はそんな桜華を後ろから抱きしめながら口を開いた。

「だからこそ私が居ます」
「どういう意味や?」
「私はスライム種の中でも突出した擬体能力を持つぬれおなごです」
「!!」

『太陽』は察した、阿賀野は自分を囮にしようとしているのだと。
だが、彼女にはそれを止める術が無い。
何故なら現状を打開して逃げ切るための方法が他には無いからだ。
残念ながら幾ら魔術の制御が可能になったっといっても、桜華は攻撃用の術式をまったく持っていない。
すなわち、追っ手の迎撃は不可能だった。

「阿賀野?」
「すみません、桜華様、しばしのお別れです」
「…えっ?」
「私はここで桜華様とお別れします」

『雨』が踊りをやめ、札に戻る。
そして、『雨』は驚愕している桜華の懐に潜り込んだ。
何を言い出したのか理解できない、そんな様子で阿賀野の顔を見る桜華に阿賀野はもう一度、はっきりと別れを告げた。
お別れ、その単語を聞いた途端、桜華の表情は崩れた。

「いやだ!!、一緒にいてよ、桜華は阿賀野ともっと一緒にいたい!!」
「ダメですよ、桜華様、貴女にはこれからやらなきゃいけない事が沢山あるんです、だからこそこんな所で死んではいけません」
「でもっ!!、桜華は……もう大好きな人とお別れしたくない!!」
「我が儘を言わないで下さい!」

頭を平手で…スライムの軟らかい手で軽く叩かれた。
桜華はそれで押し黙ってしまう。
阿賀野に怒られたことはあったが、手を上げられた事など今まで無かった。
初めての事に彼女は驚いていた。

「大丈夫ですよ、少し離れるだけです…私の居場所は桜華様と同じところにあります、必ず戻りますよ」
「……絶対だよ?」
「はい」

そう言いながら、桜華は引き下がった。
阿賀野は考える。
もう少し年齢に相応しい行動を取れるように教育していくべきかもしれなかった…この年ならばもっと子供であってもよかったかもしれない、そんな後悔であった。
里の皆と協力してきたとは言え、育て方に無理があったのではないか?
そんな風に考えてしまうのだった。

「……やばいな…」
「?」
「ウチらが足を止めて5分位やけど…もう追っ手がせまっとる」
「!、お2人は先に急いでください、ここは私が!」

阿賀野はそう叫びながら今まで来た方向を振り返る。
そうしながら、阿賀野の姿が変化していった。

桜華は目を見張った。
阿賀野が変じる姿は他でもない自分であった。
顔形はもちろん、衣服も自分と同じ着物に変わっていく。
だが、最後までそれを見届けることは無く、桜華は『太陽』に抱えられ、その場から連れ出される。
彼女は徐々に小さくなる自分の姿をした阿賀野から視線を離さない。
阿賀野は2人とは違う方向へ走り出した。

阿賀野の姿が木々に隠れて見えなくなる瞬間、桜華の目に飛び込んできたのは、着物に1つだけあしらわれた桜の花だった。
そして、自分の育ての親が完全に見えなくなった時、彼女の感情は再び爆発した。

「『お母さん』!!」

初めて、桜華が阿賀野をそう呼んだ。

『太陽』はそれでも何も言わずに、桜華を抱えたまま、走り続ける。
間も無く、爆音や魔力の乱流が生まれ、やがて消えた。
それでも、『太陽』は止まらない。
桜華はというと、さっきとは打って変わり、暴れたり叫んだりすることも無く、黙って涙を流していた。
それは阿賀野には決して見せないようにと我慢していたものだったが、それも限界、堰を切った様に溢れていたのだった。
悲しみと一緒にもっと大切なものも流れ出していたのだが、その時は本人も『太陽』も気がついていなかった…

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少女は目を覚ました。
時は夜、既に日も落ち辺りは薄暗い。
真夜中でも宵闇に沈まないのは少女の魔術の為である。
『灯』は辺りを淡く照らし出す魔術、少女は眠る前にこれを使っていた。

(…嫌な夢…)

頬を伝う何かを彼女は無意識に拭っていた。
だが、それが何かを考えることは無かった。

彼女は夢ではなく今日の出来事を思い出していた。
黒ミサ中のサバトに急襲をかけ、手練れの魔物をこの手で殺めた。
魔物を殺すことも人間を殺すこともまったく気に留める事は無い。
そうやって手に入れた物が今、少女が手にして眺めている札だった。

「…『影』…よろしくね…」

ローブを羽織った誰かが描かれた札に少女は話しかけている。
彼女…桜華にはかつての面影は無い。

里を滅ぼされてからしばらくの間、少女は幽鬼の様な有様であった。
だが、大凡1年後、『鴉の里』に戻った日を切欠に彼女は変わった。
里で何を経験したかは不明であるが、少女はその時から感情も名前も捨てて今に至る。

「……やっぱり…」

少女は何かに気がついた。
数人の人間が迫ってきている。
先程の教会騎士団の者が寝込みを襲うとしているのだろうと桜華は予想をつけていた。
桜華を魔物討伐に利用し、それが済んだら今度は自分達の障害にならないように始末する…教会騎士団らしく、自分達の神に仕え従う者以外は全て異端なのであった。
少なくとも桜華はどちらの陣営に付くことも無いだろう、そんなものよりも自分の使命が最優先なのだから。

「……私の邪魔はさせない…」

桜華は札を開放し、杖を召喚する。
いつかの杖も札に封印して携帯しているようだった。
魔法の杖を手に取り、桜華は魔術を謳い上げる。

懐の魔道書を取り出し、開く。
サバト殲滅戦における魔術の連続消費に引き続いて、彼女は更に魔術を使おうとしている。
それは桜華の魔力からすればほぼ限界まで魔術を使うことに他ならない。
しかも彼女の所有する魔術の中でも、最も大量の魔術消費を必要とする時間操作術式を使ってしまっているのだ。

まったく余裕が無い状態にも関わらず、それでも彼女は笑い、哂う。
大事な何かは流れて無くなったから、きちんと笑う事は出来ない、だが彼女は今の状況を楽しんでいる。

「『幻』『輪』」

幻覚術式と空間接続術式の複合発動。
これで追っ手は目標を見失った上に、逃げ場を失いまともな行動は取れなくなる。
だが、彼女の目的は遁走では無い、桜華は敵の撃滅以外考えていないのだった。

「『剣』」

杖を刀剣化して近接戦闘で倒す。
魔術戦は想定していない、教会騎士団に優秀な魔術師が残り少ないのを知っていたからだ。
そして…準備は整った。

「『跳』」

後は跳躍術式で「空間」を「跳び越えて」一気に敵の前まで往くだけである。
これで彼女の魔力はほぼ空である。
既に『盾』を1回発動させられるかどうかと言うレベルまで彼女の魔力は落ち込んでいた。

だがそれでも、今日も彼女は笑って戦う。
恐らく、明日も彼女は哂って戦うだろう。

桜華…いや、スペルリーダは剣を構え、肩膝を立ててしゃがむ。
跳躍術式は彼女の身体を一瞬で敵の前に連れて行ってくれるだろう。


そして…彼女は…跳んだ。


後に残るのは『灯』の仄かな明かりだけである。
それも魔力の供給を失ってやがては消える。
だがその前に彼女の仕事は終わるだろう。

彼女がこれからどこに往くかは本人にすら分からない。
再び表舞台に現れるのはずいぶん後の事であり、その間の軌跡は一切不明である。
11/09/05 14:22更新 / 月影
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■作者メッセージ
ちょこっと本筋から離れて寄り道をと思ったら、存外時間をかけた挙句、長いだけと言う…これから元のほうに力を注ぐことにします。

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