おう、あいぼう。今日もちょうしよさそうだね。
男の傷は勲章だと言う。
生憎、私にはその思考は理解できないのだが、「コイツ」の傷が勲章だと言うのなら理解はできる。
綺麗に磨き上げ、鎧立てに立てられた大きな鎧。
丁寧に手入れはされているものの、よく見ると分かる各所に刻まれた傷跡が鎧の年季を物語る。
叩きつけられた刃の跡に、擦り傷、炎の跡。
この傷の数だけ、私の命は守られてきたのだ。
これは、勲章である。
私ではなく、この鎧の勲章だ。
肩当の部分を軽く撫でる。
華美な装飾などなにもない、質素な大鎧だ。
大層な鉱石を使っている訳でもなく、魔法の付与がされている訳でもない。
世にありふれた鎧。
しかし、私にとっては無二の鎧。
三十年間、私と共に歩んできた相棒である。
本当に、よく頑張ってくれた。
「ガウル殿。」
らしくもない感傷に浸っていると、背後から私の名を呼ぶ声が聞こえた。
若々しいが、精悍な印象を受ける声。
軍服を着た青年が、一糸乱れぬ直立を保ったままでそこに居た。
全く気配を感じなかったあたり、私もだいぶ気を抜いていたらしい。
「どうしたね、もう仕事の時間は終わりだろう?」
可能な限り、普段通りの口調で青年に声を掛ける。
よく見れば、青年の目はわずかに腫れている。
……彼は勇敢で優秀な男だが、兵士としては少々人情味に溢れすぎているというのが、私の彼に対する評だった。
「……本当に、一線を退いてしまうのですか。」
もう、何度この質問を聞いて来ただろうか。
絞り出すようにそう言った彼の顔が、どこか駄々をこねる子供のように見えてしまう。
いつの間にか、すっかり懐かれたものだ。
「兵士をまとめる立場の男が、そんな顔をするもんじゃないよ、ロイ君。
私ももう年だ。いつまでも、老いぼれが若人の上に居るのはよくないさ。」
少し冗談めかして言うと、真一文字に結ばれたロイの唇にキッと力が入った。
彼の目は爛々と輝いて、その目の奥に炎のような何かを幻視する。
良い目じゃないか。私にも、こんな目をしていた事があったのだろうか。
「私は、その老いぼれに今まで一度も勝てたことがありません。」
「年の功って奴さ。なに、時間の問題だよ。
いずれ、ロイ君は私より余程良い兵士になるさ。」
「私が貴方を超えた時に!軍に貴方が居ないのでは意味がない!」
ロイが声を荒げると、その目の奥の炎が揺らめく。
怒号と呼ぶにふさわしい声だったが、どこか悲壮な響きがあった。
彼の若さが、私は正直羨ましい。
これだけの思いを、大の男がぶつけてきたのだ。
多少長く生きている身としては、真摯に向き合ってやるのが礼儀というものだろう。
たっぷりと間をあけて、言葉を咀嚼してから口を開く。
「……意味はある。
私を超えて強くなった君は、きっと他の兵士からの規範となる。
ちょうど、ロイ君が私を目指してくれたようにね。」
三十年と言う月日を兵士として過ごしてきた。
父と母はとうに天に召され、守るべき家族もない。
ともすれば孤独な日常を三十年過ごしてこれたのは、ロイを初めとする若い世代が居たからこそだ。
彼らの若さは、羨ましく、眩しく、時に危うい。
それを律し、若さを強さとして育む事が私の生きがいであった。
「私は強くなければいけなかった。
君たちよりも遥かに。
人としても、兵士としても、君たちより強く在らねばならなかった。
私が、君たちに教授できるのは強い在り方だけだった。
正直、折れそうな事もあったが、それでも貫いてきたんだよ。」
そのまま、一歩ロイに歩み寄り、両肩に手を置く。
よく鍛えられた身体だ。
ロイが兵士になりたての頃は、もっと身体も細かった。
強くなったとしみじみと思う。
「だからな、ロイ君。
私に、最後まで強いままで居させてくれよ。
この在り方を最後まで貫かせてくれ。
衰えていく私を、君たちに見せたくないのだ。」
固く結んでいたロイの唇がふるふると震えている。
本当に強くなったが、涙もろいのだけは治らなかったようだ。
まあ、こんな上官が一人くらいは居ても良いのではないだろうか。
「そして、私の在り方を、どうか君たちに受け継いでほしい。
強く在れよロイ君。
私の後任に君を選んだのは、君ならそれが出来ると思ったからだ。」
「ぐ……うぅ……はい、隊長……」
「……全く、もう今は君が隊長だろうに。」
苦笑いを浮かべてみるも、ロイは泣き止む様子はない。。
精悍な男が声を殺して泣いているとなると、どうにも居たたまれなくなってしまう。
「まあ、何も死ぬわけじゃない。
しばらくは隠居の身だが、暇が出来たら隊にも顔を出そう。
サボっていたら片っ端から隊の連中を張り倒してやるから、覚悟しておくように。
……さあ、兵士は休むのも仕事だ。今日はもう帰りなさい。」
そういうと、ロイは深々と一礼して、無言のまま去って行く。
あの腫れた目を、隊の連中にどう言い訳するのかは気になったが、まあ今はほっといてやるのが優しさだろう。
「強く在りたい……ね。」
ロイが去ったのを確認した後、自分で発した言葉を反芻する。
目の前にある鎧に話しかける初老の男。
想像すると、なんとも異質な図である。
しかし、この鎧は三十年間を共に生きてきた相棒なのだ。
所詮は老いぼれの戯れである。多少は許してほしい。
思えば、この鎧とは若さと無鉄砲さだけは一人前だった私が兵士になった時からの付き合いになる。
この国も他の例に漏れず教会と魔物の争乱に巻き込まれ、その度に私は戦地を駆け巡ってきた。
ある時までは教会国家の兵士として、ある時からは親魔国の兵士として。
修羅場を生き抜いてきた私は、気づけば一兵士から複数の部下を任される立場となったのだ。
いつのまにやら軍で最高の兵士ともてはやされ、それなりの屋敷も頂戴した。
魔物の兵士が軍の戦力の基本となってからも、戦い続けた。
膂力でも魔力でも敵わない魔物と共に戦う事になっても、やはり実戦経験の差は埋めがたい。
長く戦ってきた私は、それだけでも軍としてはありがたかったらしい。
軍の上層部への誘いもあったが、それを蹴ってきたのは自分が最も貢献できるのが一隊の長としてであると分かっていたからである。
守るべき家族もないのだ。
自分の隊の連中くらいは、最後まで守ってやりたかった。
だが、それももう終わり。
一線を退く覚悟は、思いのほかすぐに出来た。
部下には必死で隠してきたが、やはり年には勝てず腕が鈍っていくのが自分でも分かってしまった。
隊の連中を守れない者に、隊長などと呼ばれる資格はない。
幸い、ロイをはじめ若い世代の台頭も目覚ましい。
私があの立場にすがりつく理由はすでになかった。
しかし、脳裏に浮かぶ僅かな懸念。
未練などという女々しい物ではないが、おそらくもっと自分勝手な感情。
守るべき家族も、部下も居ない。
私は、守りたい明確な対象があったからこそ、がむしゃらに生きてきた。
それを失った今、私はどうやって生きていけばいい?
****************************************************************
習慣と言う奴は、恐ろしい物だ。
もう、しばらくは着る事もないだろうに、朝起きると鎧の手入れの準備を始めていた。
三十年間、欠かさずこなしてきた日課である。
「おう、相棒。
今日も調子は良さそうだね。」
独り言、と言うには少々声量が大きい自覚はある。
これも老いのせいなのか、あるいは長年の孤独を紛らす自衛の術なのか、手入れの時はこうして鎧へ声を掛けるのが通例となっていた。
年甲斐も無い事をやっている自覚はある。
しかし、三十年も一緒に居たのなら、この程度の愛着は湧くものだと信じたい。
手入れの際は、最も破損しやすい革製のベルトの点検から始めるのがいつもの流れ。
一つ一つ丁寧に確認し、磨き上げる。
長年の酷使で刻まれた傷の数々は消せそうにもないが、それを除けば新品の鎧以上の品質を保てている自信はある。
部下から、隊長は鎧フェチだのと揶揄された事もあったが、自分の命を預ける相棒なのだ。
それこそ過剰な程の愛を注いでもなんの問題もあるまい。
昨日、ロイが去ってから頭の片隅に巣食い続けた私の今後の生き方への懸念も、鎧を磨いている間は軽くなる気がする。
おまけに、今日からはこれを着込んで兵舎に行く必要もないときた。
退職の折り、私は身に余るほどの方々から惜しむ声を掛けて頂いた。
しかし、この鎧の働きを労ってやれるのは私くらいのものだ。
この鎧の今までの働きを一番よく知っている私だからこそ、出来る事もある。
時間は有り余っているのだ。
隠居した退役軍人が、日夜鎧の手入れに精を出す。
なかなか、絵になる構図なのではないだろうか。
こうなれば、これまでは手の出せなかった部分まで、徹底的に磨き上げる事にしよう。
一人そう決意し、シャツの袖を捲る。
覚悟しておくがいい我が相棒。
お前を世界一手入れの行き届いた古鎧にしてやろう。
内心で嘯いて、プレートを磨く腕に力を入れた。
素人でも可能な限りに、鎧のパーツを細かく解体していく。
鎧とはただの鉄の塊ではない。
着用者を守り、かつ快適に動くため、一目では分からぬほどに細かなパーツで構成されているのだ。
決して高級品ではないが、この鎧とて同じ事。
大小さまざまな部品が、革製のベルトや鉄製のリベットで止められている。
鎧は生きている。
革は筋であり、鉄は骨格。
それぞれのパーツの一つでも欠ければ、鎧は元の姿を取れなくなってしまう。
一つ一つを工具を使って外していくと、大鎧はいくつもの鉄と革の塊となった。
解体する前は決して見えない痛みや汚れが意外な程露わになる。
最近は退役に伴う忙しさで、ここまでしっかりと手入れしてやる事も出来なかったのだ。
痛んだ革ベルトやリベットは交換しつつ、それぞれのパーツを磨き上げていく。
時間を忘れて、没頭していく。
積年の友と、酒を酌み交わすような。
あるいは、長く過ごしてきた家族と語らいあうかのような時間の経過。
全てのパーツを組み上げた頃には、とうに日の高さは頂点を超え、日の光に赤みが混ざってきた頃であった。
食事も忘れて何かに打ち込む事など、いつ以来だろうか。
年を取るにつれて、なにかに熱中するという体験が遠ざかってきた気がするのだ。
この年になって、ここまで熱を入れて取り組めることがあるのは、幸せな事である。
再び人の形を取った大鎧は、完全に輝きを取り戻した。
各部の稼働にも一部のきしみは無く、新品に取り換えたリベットが光を反射する。
満足気に小さく息を吐く。
「……やっぱり、最高にカッコいいね。お前。」
小さく呟く声は、誰に聞かせる訳でもない。
この鎧と出会った時も、たしかこのように向かい合っていた気がする。
駆け出しの兵士であった私が、一目ぼれしたのがこの鎧だ。
軍の謹製の支給もあったのだが、どうしてもこの鎧を着たくて、当時の上司に直談判に行ったのである。
特に高級な訳でも、曰くの付いたものでもない。
ただ、とにかくカッコよかった。
磨き抜かれた鉄の輝きと、余計な装飾を一切廃した武骨なライン。
異様な程、私の目にはこの鎧が輝いて見えた。
若さゆえ、ただそれだけの理由でこの鎧を購入したのだが、今になって思えば人生でも最大級の成功であった。
「お前も、ゆっくり休めよ。」
それだけ言って、踵を返す。
辺りには工具が散乱しているが、まあ片づけは明日にでもやろう。
「……ねえ。」
ふと、耳朶をうつ女性の声。
無論、この家に居るのは私一人だ。
女性など居る訳もない。
僅かに身構えつつも、ついに幻聴まで始まったかと恐々とする。
「ねえ、ガウル。」
今度は、確かに聞こえた。
咄嗟に身を跳ねさせて、鎧の側に立てかけてあった槍に手をかける。
賊がやすやすと侵入した上に、私に声を掛けてくるとも思えないが、万が一という事もある。
加えて、私も長い事軍属だった身だ。どこで恨みを買っているか分かった物ではない。
「君が何者で、何の用かは知らないが、入ってくる許可を出した覚えはないよお嬢さん。
せめて顔を見せて欲しいね。」
僅かに、槍を握る手に力を込める。
全く、しばらくはこれを握る機会はないと思っていたのに。
どうにもままならないものだ。
「……いいの?」
「なに?」
「かお、出していいの?ガウル、こまらない?」
掛けられる声に全く敵意の様なものは感じない。
しかし、近くで聞こえる割には人の気配がない。
女性の声という事も鑑みると、魔物だろうか。
初老の男の下に、彼女らが用があるとも思えないのだが。
「……侵入者の居場所も分からないこの現状が、一番困るな。
いい年したオジサンに無茶させるもんじゃない。顔を見せなさい。」
「うん、わかった。
ガウルが、そう言うなら。」
そう言うなり、背後で響く重い金属音。
耳慣れた音だが、聞こえるはずのない音だった。
「すごい。すいすい動く。さすがガウル。」
慌てて振り向く。
金属音で予想は出来ていたとはいえ、余りにも現実離れした光景に思考が止まる。
ついさきほどまで、そこに立てかけてあった鎧。
その鎧が、独りでに動き、自分の動きを確かめる様に手足を回している。
中に誰かが入っている訳でもない。
本来頭が来るであろう場所には何もない。
魔物娘が悪戯で中に入って居るのかとも思ったが、可動部の狭間からも中身の人物は見当たらない。
「ガウル?」
どこか幼く、感情の希薄な印象を受ける声が掛けられて、鎧が僅かに首をかしげる。
ように見えた。
首も頭も無いのにそう見えるのは不思議で仕方ないが。
「あ、あいさつ。
いつも、ガウル言ってた。あいさつは、大事。」
呆気にとられる私をよそに、鎧は小手と小手を合わせてマイペースに話す。
一体どこから声が出ているのだ。
そのまま、鎧は片手を上げると、
「おう、あいぼう。
今日もちょうしよさそうだね。」
舌っ足らずに、私と相棒しかしらない「挨拶」を言い放ったのである。
生憎、私にはその思考は理解できないのだが、「コイツ」の傷が勲章だと言うのなら理解はできる。
綺麗に磨き上げ、鎧立てに立てられた大きな鎧。
丁寧に手入れはされているものの、よく見ると分かる各所に刻まれた傷跡が鎧の年季を物語る。
叩きつけられた刃の跡に、擦り傷、炎の跡。
この傷の数だけ、私の命は守られてきたのだ。
これは、勲章である。
私ではなく、この鎧の勲章だ。
肩当の部分を軽く撫でる。
華美な装飾などなにもない、質素な大鎧だ。
大層な鉱石を使っている訳でもなく、魔法の付与がされている訳でもない。
世にありふれた鎧。
しかし、私にとっては無二の鎧。
三十年間、私と共に歩んできた相棒である。
本当に、よく頑張ってくれた。
「ガウル殿。」
らしくもない感傷に浸っていると、背後から私の名を呼ぶ声が聞こえた。
若々しいが、精悍な印象を受ける声。
軍服を着た青年が、一糸乱れぬ直立を保ったままでそこに居た。
全く気配を感じなかったあたり、私もだいぶ気を抜いていたらしい。
「どうしたね、もう仕事の時間は終わりだろう?」
可能な限り、普段通りの口調で青年に声を掛ける。
よく見れば、青年の目はわずかに腫れている。
……彼は勇敢で優秀な男だが、兵士としては少々人情味に溢れすぎているというのが、私の彼に対する評だった。
「……本当に、一線を退いてしまうのですか。」
もう、何度この質問を聞いて来ただろうか。
絞り出すようにそう言った彼の顔が、どこか駄々をこねる子供のように見えてしまう。
いつの間にか、すっかり懐かれたものだ。
「兵士をまとめる立場の男が、そんな顔をするもんじゃないよ、ロイ君。
私ももう年だ。いつまでも、老いぼれが若人の上に居るのはよくないさ。」
少し冗談めかして言うと、真一文字に結ばれたロイの唇にキッと力が入った。
彼の目は爛々と輝いて、その目の奥に炎のような何かを幻視する。
良い目じゃないか。私にも、こんな目をしていた事があったのだろうか。
「私は、その老いぼれに今まで一度も勝てたことがありません。」
「年の功って奴さ。なに、時間の問題だよ。
いずれ、ロイ君は私より余程良い兵士になるさ。」
「私が貴方を超えた時に!軍に貴方が居ないのでは意味がない!」
ロイが声を荒げると、その目の奥の炎が揺らめく。
怒号と呼ぶにふさわしい声だったが、どこか悲壮な響きがあった。
彼の若さが、私は正直羨ましい。
これだけの思いを、大の男がぶつけてきたのだ。
多少長く生きている身としては、真摯に向き合ってやるのが礼儀というものだろう。
たっぷりと間をあけて、言葉を咀嚼してから口を開く。
「……意味はある。
私を超えて強くなった君は、きっと他の兵士からの規範となる。
ちょうど、ロイ君が私を目指してくれたようにね。」
三十年と言う月日を兵士として過ごしてきた。
父と母はとうに天に召され、守るべき家族もない。
ともすれば孤独な日常を三十年過ごしてこれたのは、ロイを初めとする若い世代が居たからこそだ。
彼らの若さは、羨ましく、眩しく、時に危うい。
それを律し、若さを強さとして育む事が私の生きがいであった。
「私は強くなければいけなかった。
君たちよりも遥かに。
人としても、兵士としても、君たちより強く在らねばならなかった。
私が、君たちに教授できるのは強い在り方だけだった。
正直、折れそうな事もあったが、それでも貫いてきたんだよ。」
そのまま、一歩ロイに歩み寄り、両肩に手を置く。
よく鍛えられた身体だ。
ロイが兵士になりたての頃は、もっと身体も細かった。
強くなったとしみじみと思う。
「だからな、ロイ君。
私に、最後まで強いままで居させてくれよ。
この在り方を最後まで貫かせてくれ。
衰えていく私を、君たちに見せたくないのだ。」
固く結んでいたロイの唇がふるふると震えている。
本当に強くなったが、涙もろいのだけは治らなかったようだ。
まあ、こんな上官が一人くらいは居ても良いのではないだろうか。
「そして、私の在り方を、どうか君たちに受け継いでほしい。
強く在れよロイ君。
私の後任に君を選んだのは、君ならそれが出来ると思ったからだ。」
「ぐ……うぅ……はい、隊長……」
「……全く、もう今は君が隊長だろうに。」
苦笑いを浮かべてみるも、ロイは泣き止む様子はない。。
精悍な男が声を殺して泣いているとなると、どうにも居たたまれなくなってしまう。
「まあ、何も死ぬわけじゃない。
しばらくは隠居の身だが、暇が出来たら隊にも顔を出そう。
サボっていたら片っ端から隊の連中を張り倒してやるから、覚悟しておくように。
……さあ、兵士は休むのも仕事だ。今日はもう帰りなさい。」
そういうと、ロイは深々と一礼して、無言のまま去って行く。
あの腫れた目を、隊の連中にどう言い訳するのかは気になったが、まあ今はほっといてやるのが優しさだろう。
「強く在りたい……ね。」
ロイが去ったのを確認した後、自分で発した言葉を反芻する。
目の前にある鎧に話しかける初老の男。
想像すると、なんとも異質な図である。
しかし、この鎧は三十年間を共に生きてきた相棒なのだ。
所詮は老いぼれの戯れである。多少は許してほしい。
思えば、この鎧とは若さと無鉄砲さだけは一人前だった私が兵士になった時からの付き合いになる。
この国も他の例に漏れず教会と魔物の争乱に巻き込まれ、その度に私は戦地を駆け巡ってきた。
ある時までは教会国家の兵士として、ある時からは親魔国の兵士として。
修羅場を生き抜いてきた私は、気づけば一兵士から複数の部下を任される立場となったのだ。
いつのまにやら軍で最高の兵士ともてはやされ、それなりの屋敷も頂戴した。
魔物の兵士が軍の戦力の基本となってからも、戦い続けた。
膂力でも魔力でも敵わない魔物と共に戦う事になっても、やはり実戦経験の差は埋めがたい。
長く戦ってきた私は、それだけでも軍としてはありがたかったらしい。
軍の上層部への誘いもあったが、それを蹴ってきたのは自分が最も貢献できるのが一隊の長としてであると分かっていたからである。
守るべき家族もないのだ。
自分の隊の連中くらいは、最後まで守ってやりたかった。
だが、それももう終わり。
一線を退く覚悟は、思いのほかすぐに出来た。
部下には必死で隠してきたが、やはり年には勝てず腕が鈍っていくのが自分でも分かってしまった。
隊の連中を守れない者に、隊長などと呼ばれる資格はない。
幸い、ロイをはじめ若い世代の台頭も目覚ましい。
私があの立場にすがりつく理由はすでになかった。
しかし、脳裏に浮かぶ僅かな懸念。
未練などという女々しい物ではないが、おそらくもっと自分勝手な感情。
守るべき家族も、部下も居ない。
私は、守りたい明確な対象があったからこそ、がむしゃらに生きてきた。
それを失った今、私はどうやって生きていけばいい?
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習慣と言う奴は、恐ろしい物だ。
もう、しばらくは着る事もないだろうに、朝起きると鎧の手入れの準備を始めていた。
三十年間、欠かさずこなしてきた日課である。
「おう、相棒。
今日も調子は良さそうだね。」
独り言、と言うには少々声量が大きい自覚はある。
これも老いのせいなのか、あるいは長年の孤独を紛らす自衛の術なのか、手入れの時はこうして鎧へ声を掛けるのが通例となっていた。
年甲斐も無い事をやっている自覚はある。
しかし、三十年も一緒に居たのなら、この程度の愛着は湧くものだと信じたい。
手入れの際は、最も破損しやすい革製のベルトの点検から始めるのがいつもの流れ。
一つ一つ丁寧に確認し、磨き上げる。
長年の酷使で刻まれた傷の数々は消せそうにもないが、それを除けば新品の鎧以上の品質を保てている自信はある。
部下から、隊長は鎧フェチだのと揶揄された事もあったが、自分の命を預ける相棒なのだ。
それこそ過剰な程の愛を注いでもなんの問題もあるまい。
昨日、ロイが去ってから頭の片隅に巣食い続けた私の今後の生き方への懸念も、鎧を磨いている間は軽くなる気がする。
おまけに、今日からはこれを着込んで兵舎に行く必要もないときた。
退職の折り、私は身に余るほどの方々から惜しむ声を掛けて頂いた。
しかし、この鎧の働きを労ってやれるのは私くらいのものだ。
この鎧の今までの働きを一番よく知っている私だからこそ、出来る事もある。
時間は有り余っているのだ。
隠居した退役軍人が、日夜鎧の手入れに精を出す。
なかなか、絵になる構図なのではないだろうか。
こうなれば、これまでは手の出せなかった部分まで、徹底的に磨き上げる事にしよう。
一人そう決意し、シャツの袖を捲る。
覚悟しておくがいい我が相棒。
お前を世界一手入れの行き届いた古鎧にしてやろう。
内心で嘯いて、プレートを磨く腕に力を入れた。
素人でも可能な限りに、鎧のパーツを細かく解体していく。
鎧とはただの鉄の塊ではない。
着用者を守り、かつ快適に動くため、一目では分からぬほどに細かなパーツで構成されているのだ。
決して高級品ではないが、この鎧とて同じ事。
大小さまざまな部品が、革製のベルトや鉄製のリベットで止められている。
鎧は生きている。
革は筋であり、鉄は骨格。
それぞれのパーツの一つでも欠ければ、鎧は元の姿を取れなくなってしまう。
一つ一つを工具を使って外していくと、大鎧はいくつもの鉄と革の塊となった。
解体する前は決して見えない痛みや汚れが意外な程露わになる。
最近は退役に伴う忙しさで、ここまでしっかりと手入れしてやる事も出来なかったのだ。
痛んだ革ベルトやリベットは交換しつつ、それぞれのパーツを磨き上げていく。
時間を忘れて、没頭していく。
積年の友と、酒を酌み交わすような。
あるいは、長く過ごしてきた家族と語らいあうかのような時間の経過。
全てのパーツを組み上げた頃には、とうに日の高さは頂点を超え、日の光に赤みが混ざってきた頃であった。
食事も忘れて何かに打ち込む事など、いつ以来だろうか。
年を取るにつれて、なにかに熱中するという体験が遠ざかってきた気がするのだ。
この年になって、ここまで熱を入れて取り組めることがあるのは、幸せな事である。
再び人の形を取った大鎧は、完全に輝きを取り戻した。
各部の稼働にも一部のきしみは無く、新品に取り換えたリベットが光を反射する。
満足気に小さく息を吐く。
「……やっぱり、最高にカッコいいね。お前。」
小さく呟く声は、誰に聞かせる訳でもない。
この鎧と出会った時も、たしかこのように向かい合っていた気がする。
駆け出しの兵士であった私が、一目ぼれしたのがこの鎧だ。
軍の謹製の支給もあったのだが、どうしてもこの鎧を着たくて、当時の上司に直談判に行ったのである。
特に高級な訳でも、曰くの付いたものでもない。
ただ、とにかくカッコよかった。
磨き抜かれた鉄の輝きと、余計な装飾を一切廃した武骨なライン。
異様な程、私の目にはこの鎧が輝いて見えた。
若さゆえ、ただそれだけの理由でこの鎧を購入したのだが、今になって思えば人生でも最大級の成功であった。
「お前も、ゆっくり休めよ。」
それだけ言って、踵を返す。
辺りには工具が散乱しているが、まあ片づけは明日にでもやろう。
「……ねえ。」
ふと、耳朶をうつ女性の声。
無論、この家に居るのは私一人だ。
女性など居る訳もない。
僅かに身構えつつも、ついに幻聴まで始まったかと恐々とする。
「ねえ、ガウル。」
今度は、確かに聞こえた。
咄嗟に身を跳ねさせて、鎧の側に立てかけてあった槍に手をかける。
賊がやすやすと侵入した上に、私に声を掛けてくるとも思えないが、万が一という事もある。
加えて、私も長い事軍属だった身だ。どこで恨みを買っているか分かった物ではない。
「君が何者で、何の用かは知らないが、入ってくる許可を出した覚えはないよお嬢さん。
せめて顔を見せて欲しいね。」
僅かに、槍を握る手に力を込める。
全く、しばらくはこれを握る機会はないと思っていたのに。
どうにもままならないものだ。
「……いいの?」
「なに?」
「かお、出していいの?ガウル、こまらない?」
掛けられる声に全く敵意の様なものは感じない。
しかし、近くで聞こえる割には人の気配がない。
女性の声という事も鑑みると、魔物だろうか。
初老の男の下に、彼女らが用があるとも思えないのだが。
「……侵入者の居場所も分からないこの現状が、一番困るな。
いい年したオジサンに無茶させるもんじゃない。顔を見せなさい。」
「うん、わかった。
ガウルが、そう言うなら。」
そう言うなり、背後で響く重い金属音。
耳慣れた音だが、聞こえるはずのない音だった。
「すごい。すいすい動く。さすがガウル。」
慌てて振り向く。
金属音で予想は出来ていたとはいえ、余りにも現実離れした光景に思考が止まる。
ついさきほどまで、そこに立てかけてあった鎧。
その鎧が、独りでに動き、自分の動きを確かめる様に手足を回している。
中に誰かが入っている訳でもない。
本来頭が来るであろう場所には何もない。
魔物娘が悪戯で中に入って居るのかとも思ったが、可動部の狭間からも中身の人物は見当たらない。
「ガウル?」
どこか幼く、感情の希薄な印象を受ける声が掛けられて、鎧が僅かに首をかしげる。
ように見えた。
首も頭も無いのにそう見えるのは不思議で仕方ないが。
「あ、あいさつ。
いつも、ガウル言ってた。あいさつは、大事。」
呆気にとられる私をよそに、鎧は小手と小手を合わせてマイペースに話す。
一体どこから声が出ているのだ。
そのまま、鎧は片手を上げると、
「おう、あいぼう。
今日もちょうしよさそうだね。」
舌っ足らずに、私と相棒しかしらない「挨拶」を言い放ったのである。
16/05/20 03:45更新 / 小屋
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