読切小説
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海の上と海の下
 旅の資金を稼いだら、また出立しよう。青年がそう決めて船渡しという仕事を始めてから、もう、一年が経つ。
 客を乗せて群島の間を行き来する仕事は、決して、楽なものではない。島を出てどこか知らない地を放浪できるだけの資金は、もう貯まっている。
 それにも関わらず、青年は今日も船を出す。
 行くあてのない旅を続けられるほど、自分は強くなかった。
 心のどこかでその事に気づいてしまったのは、いつだっただろうか。

「……おつかれさまでした。お気をつけて」
「うむ。お前も、気をつけてな」
「はい」

 浜に半ば刺さるように乗り上げた舟から、乗客の老人が降りていく。
 この島の、そして群島で唯一の医者である老人は、青年に船渡しの仕事を紹介した張本人だった。
 青年はその事に感謝しつつも、自分がよそ者であるために半ば押し付けられた仕事であることも理解していた。
 先代の船渡しは、魔物に船を沈められて消えた。
 住人たちから聞いた話は嘘ではないのだろう。だからと言って老人に文句を言うつもりもない。こうして仕事を貰ったことで、生きていられるのだから。

「……帰るか」

 呟いて、青年は浜に乗り上げていた舟を押した。
 複数の島と入江によって、この近海は波と風が安定しない。落ち着いている間に島を渡るのがコツであると、嫌でも学ばされた。
 日は海面に近づいてきている。住んでいる島に帰るのが先か、日が落ちるのが先か。

 やがて波が高くなりはじめると、青年はオールを舟に上げて、自らの首に下げている首飾りを握った。
 銀色のペンダントトップがついた、飾り気の無い首飾り。
 親から子へと代々伝えられてきた「幸福を呼ぶ首飾り」とやらも、どうやら俺には意味がなかったらしい。
 自嘲気味に胸中で呟いて、ただ揺られるだけになった舟の上で空を仰ぐ。日が落ちても、灯台のある島に帰ることはできる。だが、視界の狭まる夜の海を行くのは、短い距離でもぐっと危険になる。
 そうして、空を仰いでいたせいか。青年は、ひときわ高い波が迫っていたことに気づけなかった。
 波は、勢いよく舟を持ち上げる。大きく傾いた舟の上で、青年はとっさに縁を掴んだ。積んでいた浮き具が跳ねて、海へ投げ出される。オールが滑り、木同士のぶつかる硬い音が立つ。
 数度揺られたところで、ようやく、波は落ち着いた。
 転覆はしなかった。しかし、この調子では、いずれ舟はひっくり返るだろう。魔物の仕業であるとか、そんなことも関係なく。

「……あれ」

 跳ねた飛沫で頭からずぶ濡れになった青年は、やはりずぶ濡れのシャツの胸元に手を当てて、こぼした。

「無い……」


…………


 明るくなってから舟を探してみたものの、首飾りはどこにもなかった。
 気が沈まなかったと言えば嘘になる。自嘲の種にしかなっていなかったとは言え、父親や祖父から誇らしげに逸話を聞かされた物を失くしたことは、青年が思った以上に悲しみを覚えさせた。

 しかし、どれほど気持ちが沈もうが、三日も経てば人の気分は変わってくる。
 船渡しとしての仕事をしつつ日々を過ごすうちに、青年も、自分が首飾りを落としたことに対して、気持ちの整理がついてきていた。
 ふとした時に感じる首元の寂しさは誤魔化せないが、ある意味では、長々と続く風習から解放されたとも言える。

 今日は、天気がいい。海も落ち着いている。
 今のうちに、港町まで買い出しに行ってもいいかもしれない。あるいは、久しぶりに魚でも釣ろうか。
 ぼんやりと外を眺めながら、青年は決まりもしない予定をもてあそぶ。
 その青年の視界の端で、何かが揺れた。波とは違い、海が曖昧な形を持ち、動いている。
 このあたりでは見ないが、クラゲだろうか。なんとはなしに眺めていたその塊は、ゆっくりと、浜へと上がってきた。
 水色の体に、青いひらひらとした物を纏った、奇妙な生き物。
 あの魔物か、と、青年はその生き物を眺める。
 この島には、たまにだが、大きななめくじ、あるいはウミウシのような姿をした海の魔物が上がってくることがある。
 はじめの内こそ警戒したものだが、どうやらその魔物に人を襲う気は無いらしいとは、何度目かの遭遇ではっきりとした。陸に上がった青い魔物は、ひらひらとドレスのようなものを引きずりながらしばらく砂浜を這い回り、やがて海へと帰ってゆく。何かを探しているようでも、何も考えていないようにも見えた。
 無害であると分かれば、怖れることもない。青年からすれば、退屈な島の暮らしにたまにやってくる見世物のようで、来てくれるのを楽しみにしているようなところもあった。
 眺めこそすれど声はかけず、向こうからすれば見られていることも知らないであろう、奇妙な距離感。長く続き、これからも続くはずだったその空白は、しかし、ただ一つの物に埋められた。

「……!」

 魔物の首元で、鈍く光る銀の飾り。
 遠目でも分かる。それほどまでに、自分はあのきらめきを知っている。

 考える前に、青年は小屋を飛び出していた。
 丸石に躓き砂に足を取られながらも、魔物へと駆け寄る。
 叫んだのは、最も単純な呼びかけ。人の言葉が通じるのか、などとは考えもしなかった。

「あのっ!」

 突然聞こえた大声に驚きもせず、魔物はゆっくりと振り返る。
 足元を覆うヒレ状の何かが揺れ、わずかに波打つ。近くで見るその姿は、柔らかなゼリーのような質感をしていた。
 長く垂れた前髪の隙間から時折覗く目は、明らかに人のそれとは違い、文字通り透き通っている。
 するりと流れる後ろ髪も、よく見れば先端へと行くにつれて、透明感が増している。
 そして何よりも、遠目で見ていた時の印象よりもずっと大きい。べちゃりと広がった足元もさることながら、それが支える上半身は人間のそれを一回り大きくしたようだった。
 魔物を構成する一つ一つの要素に、自分が声をかけたものは人ではないのだと実感が湧き、青年が言葉に詰まる。

 しかし、魔物は拍子抜けするほど落ち着いて、首を傾げてみせた。

「あら、人間さん……ですか?何か、ご用でしょうか」

 美しく、優雅な声。
 それがまた、青年を動揺させた。
 ただ、「その首飾りはどこで手に入れたのか」とだけ言えばいいはずなのに、この気品ある魔物に対してふさわしい言葉を選ばなければならないと思ってしまう。
 結局、魔物を待たせてようやく口にできたのは、「その、首飾りは」という、短い一言だけだった。

「首飾り……ああ、これですね」

 しかし、やはり魔物は、平然と首飾りを見下ろした。
 麻と絹が混ざった紐の先では、銀色のペンダントトップが、豊かな胸の膨らみに乗っている。

「いつの間にか、わたくしの背中に乗っていたのです。もしかしたらポセイドン様からの贈り物かもしれませんし、せっかくですから、身に着けておくことにしましたの」

 悪びれず、それが誰かの落とし物であるなどとは露ほども思わず、魔物は言った。目は長い髪に隠れており分からないが、口元は、穏やかに微笑んでいる。
 青い体を飾るペンダントは、まるで最初からそこにあるべきだったかのように、静かにきらめいている。元の所有者が「それは自分のものだから返してくれ」などと言うのが躊躇われるほどに。

「……そうでしたか。いえ、大したことではないんですが、とても綺麗だと思ったので」
「ふふ。そうですよね」
「呼び止めてしまってすみませんでした。では」

 足早にその場を立ち去り、小屋へと逃げ帰って、青年は一つため息をついた。
 あの魔物は、ペンダントを気に入っているようだった。
 ならば、それでいい。惰性で着けられるよりも、装飾品として利用してくれる者のところにあるほうが、ペンダントも喜ぶだろう。それが魔物であっても。
 もう一度ため息をつき、首元を撫でる。
 そこには、何もないという寂しさだけが残っていた。


…………


 垂らした釣り糸は波に揺られるばかりで、魚がかかる気配はない。かたわらに置いたバケツの中身も、海水のみ。
 桟橋に腰掛けた青年は、今日何度目かも分からないあくびをした。
 船渡しは、島を渡る人がいなければ仕事がない。やることもないので魚でも釣ろう、と決めたのは昼のこと。そろそろ、太陽は海の向こうに沈もうとしている。入れ食いなどは願わないが、一尾くらいは釣れてもらわないと、エサにしたミミズにも申し訳が立たない。
 一度竿を上げ、今度は少し遠くへと投げる。
 軽い音を立てて水面に波紋が広がり、その中央で浮きが揺れる。
 この海は、釣れる日と釣れない日がはっきりと分かれている。今日は、釣れない日だろうか。
 いっそ、舟を出して沖で釣りでも、と青年が考え始めた頃。ぐい、と力強く糸を引かれる感触があった。

「……おっ?」

 真横に糸が動く。根掛かりしたわけではないらしい。それにしても、随分と引きが強い。竿を引こうとしても、力で負けている。
 魚影は大きい。青く大きな何かが、ゆっくりと、針を飲んだことなど些事であるとばかりに流れていく。
 竿がたわむ。糸が張る。このままでは、体ごと持っていかれる。
 少し考え、青年は釣り竿を離すことにした。たわんでいた竿が手元から跳ねて、海面に浮かぶ。竿を失うのは心苦しいが、魚に負けたのだから仕方ない。あの安物の釣り竿には、トカゲのしっぽになってもらう。
 しかし、波紋を作りながら流れる釣り竿は沖へと連れて行かれるどころか、ゆるやかに曲がり、浜へと向かいはじめた。
 どういうことだ、と青年が眺めていると、ぱしゃりと小さく音を立てて、何かが浜に上がった。

 ドレスの裾を引きずるような、青い姿。見覚えがある、あの魔物だった。
 背中に針を引っ掛けたまま、釣り竿を引きずって砂浜を緩慢な動きで徘徊している。相変わらず、首元には銀色の首飾りが揺れていた。
 あっけにとられる青年へと、魔物が視線を向ける。そして、口元を微笑ませると、青年の方へと歩き――どちらかと言えば這い始める。するり、するりと近寄ってくるその背後では、引きずられた釣り竿が砂浜に無規則な模様を描いていた。

「こんにちは、人間さん」

 手を伸ばせば届くほどの距離まで来たところで、魔物は青年へと優雅に挨拶をしてみせた。釣り竿が桟橋の上で転がりからからと鳴っていても、自分が針にかかっていることには、気づいていないらしい。
 頭一つ分以上は高い視線から見下されながら、青年もかろうじて挨拶を返す。

「……どうも」
「以前も、ここでお会いしましたね。海を見るのがお好きなのですか?」
「見るのが好きというか、無いと生きていけないというか」
「まあ、まあ!それはそれは、とても素敵ですね!」

 一体何がそんなに嬉しいのか。魔物のことはよく分からんと青年が困惑する間も、魔物は話を続ける。

「わたくしも、海がないと生きていけないのです。ですから、わたくしたち、同じですね!」
「……そうですか?」
「ええ!だって、わたくし、海の中でないと何も食べられませんもの」

 海の中で。
 青年は魔物の食事風景を思い浮かべる。こんな上品そうな姿をしておきながら、海藻をむしって食べているのだろうか。あるいは、貝でもこじ開けて食べているのだろうか。少なくとも、魚を捕れるほど素早くは見えない。泳いできた魚を捕まえようと手を伸ばした頃には、とっくに泳ぎ去られてしまっていそうだ。
 勝手な想像で、青年の口元に薄く笑みが浮かぶ。それを自覚すると同時に、慌てて口を隠すように手で覆った。
 だが、魔物はそんな青年の振る舞いに気を悪くするどころか、くすくすと上品に笑ってみせた。

「ふふ。うれしい」
「……何か、いいことが?」
「ええ。だって、やっと人間さんが笑ってくださったんですもの」

 面食らった。青年の反応は、そう形容するに相応しいものだった。
 目を丸くし、ややあって、魔物の言葉を噛み砕く余裕を取り戻す。
 魔物に気を遣われていたことは恥ずかしく、同時に、嬉しくもあった。二つ三つと感情は混ざり合い、むずがゆさに、青年は手で隠した口をへの字に曲げる。
 しかし決して、嫌ではない。この魔物との会話に楽しさを見出しているのは、嘘ではない。

「これは、なんでしょうか?」

 こちらの様子をまるで気にする様子も無く、舟を見下ろして尋ねるような振る舞いも、心なしか気軽で好ましいものに思える。

「舟です」
「まあ、これが舟なんですね。人間さんたちはこれで海を泳ぐと聞きましたけれど、本当なのですか?」
「いや、泳ぐわけじゃなくて、これで海の上を……」

 そこまで言って、青年は「待てよ」と一つの予想を立てる。もしや、魔物には「船に乗る」という文化がないのだろうか。海の中を自在に泳げる生き物であれば、それも不思議ではない。
 ならば、説明するよりも、実際に体験してもらったほうが早いかもしれない。

「……乗ってみますか」

 その提案は、青年自身にとっては気まぐれでしかなかった。あるいは、成果も出ない釣りよりもよほど実のある暇つぶしのつもりだった。

「乗る……?」
「あー……人間は海を移動する時にはこの上に乗るんです」
「まあ!とっても楽しそう!」

 そのつもりだったのに、陽を受けた水面のように目を輝かせる魔物を見ると、そこに淡い感情が混ざり込んでしまう。
 この魔物が楽しそうにしているのは、嬉しい。
 思えば、首飾りにしてもそうだった。「返してくれ」と言えなかったのは、この魔物がとても嬉しそうに首飾りを下げていたためだ。

「この上に、乗ればいいのかしら?」
「はい。俺も乗るので、真ん中ではなく前の方へお願いします」
「こちらですね」

 桟橋に足元を張り付かせ、粘液がゆっくりと滴るように、魔物は器用に舟の上へと降りた。魔物の重量は見た目相応のようで、小さな舟は大きく傾く。
 果たして、二人分の重さに耐えきれるのだろうか。
 恐る恐る青年も舟へと足を下ろす。明らかに、いつもより舟が沈んでいる。その上、なめくじのような魔物の足元は、若干舟からはみ出てしまっている。人間を乗せているときと同じ感覚で測ることはできない。
 しかし、もし舟が壊れたとしても、少なくともこの魔物は溺れないはずである。
 きっとなんとかなるだろう、と青年は舟に乗った。係留していたロープを外して、足元のオールを取る。
 海はゆるく波打っている。舟は、青年に漕がれるままに海へと出た。
 ひとつ、ふたつとオールが舟を押す。
 船首が海面を割り、規則的な波紋を形作る。ゆっくり、ゆっくり、桟橋が、陸が遠ざかる。それに従い、二人の影も滑るように沖へと進んでいく。
 群島の周囲には岩礁や浅瀬が多く、大きな船は使えない。小舟でしか移動できないのは不便ではあるものの、複数の島に囲まれ、あたりを見回せばどこかしらの島と灯台が目に入るのは、独特の光景ではある。

「わあ……!」

 魔物は、そんな景色に感嘆の声を上げた。

「素敵……人間さんは、いつも、こんな風に海を見ていたのですね」

 とても美しいものを見たかのような言い方に、青年もいつになく純粋な笑みで頷く。
 つまらない光景だと思っていたが、見る者が異なれば、見えるものも異なるらしい。
 いや、思い返せば、自分も初めて海を見た時には感動していた。見える光景自体は、きっと今も変わっていない。

「海の中とは違いますか」

 漕ぐ手を止めて、青年は尋ねた。
 無害であるとは言え、魔物を乗せている姿を他人に見られるわけにはいかない。ある程度離れておけば、島からはドレス姿の婦人が乗っているだけであるように見えるだろう。

「ええ、違います」
「何が、違いますか」
「風も、景色も、全部が違います。それに、人間さんがいませんわ」
「……確かに、それは違いますね」

 どこか的を外れたようなやり取りではあったが、青年には、そんな肩の力が抜けるようなやり取りがありがたかった。
 そして、魔物に対して、少なからず興味を抱き始めていた。
 この魔物は海の中に生きている。それは間違いないだろう。なのに。

「……どうして、海から上がってくるんですか?」

 唐突な質問だった。少なくとも、魔物にとっては。
 どうして?と首をかしげた魔物に、青年は付け加える。

「海の中で生きているのに、時々陸へ上がってくるのはどうしてだろうって、気になって」
「……たしかに、どうしてでしょう?」

 今度は、その答えに青年が首を傾げる番だった。

「分からないんですか?」
「うーん……ふわふわと泳いでいると、いつもあそこに着いていますの。ポセイドン様のお導きなのかしら……?」

 「不思議ですね」と言う魔物の表情は至って真面目。からかっているわけではないらしい。
 あるいは、魔物というのはそういうものなのだろうか。
 自分の中で落とし所を見つけて、青年は「不思議ですね」と適当な相槌を打った。

「人間さんは、この舟に乗って、どこへ行かれているのですか?」

 今度は、青年が答える番だった。

「どこへ……というか、色んなところに」
「色んなところ?」
「……向こうに見える島とか、あっちにある……ここからだと見えないですけど、港とか」

 船渡しという仕事を説明しても、きっと分かってもらえないだろう。そう考えて、曖昧ではあるが間違っていない解説に留める。
 魔物はと言えば、やはりあまり分かっていない様子で「むこう……」と言いながら、窮屈であろう舟の上で器用に振り向いた。
 足元が波打ち、半分ほどは舟の上からはみ出して海面を撫でる。舟自体も大きく揺れたが、魔物も青年も、落ちることはなかった。

「あちらにも、人間さんたちがいるのですか?」
「はい」

 遠くに見える島を、あるいは灯台を見ながら言った魔物に青年は答える。
 しかし、青年は島ではなく、目の前に向けられた魔物の背中を見ていた。

 魔物の背中には、いつの間にか釣り竿がくっついていた。正確には、背中にある触手のようなものが、釣り竿を食んでいる。絡んだ釣り糸から手繰り寄せたのだろうか。
 おとなしく、人間と同じ言葉を用いてはいるが、うごめく触手を見るとあくまでも魔物は魔物であると思い知らされる。
 そう思いつつも、青年は恐怖は感じない。釣り竿を取ろうと手を伸ばしたのも、いつまでもこのままでは邪魔だろうという優しさからだった。
 だから、伸ばした手が触手に絡め取られても、すぐには危機感を抱かなかった。

「え」

 どのように畳まれていたのか、触手は驚くほどの速さと長さで、手を伸ばしていた青年の体をまるごと捕える。

「なんっ……」

 喉元まで出かかっていた悲鳴は、口に侵入した触手に抑え込まれた。代わりにとばかりに、触手から解放された釣り竿が海面に落ち、小さな波紋を広げる。

「あら?」

 舟の上から物珍しそうに島々を見ていた魔物は、一瞬だがたしかに聞こえたはずの声に振り向くものの、そこには何もいない。首を回しても、体ごと振り返っても、背中にぴったりと飲み込んでいる青年の姿は、視界に入らない。

「人間さん……?もしかして、海に……?」

 人間は泳げない。
 魔物が持つ、数少ない人間に関する知識を思い出して、「大変!」と、慌てているようにはまるで聞こえない声をあげる。
 その「人間さん」が背中でもがいていることも知らず、魔物は舟から海へと、こぼれ落ちるように身を投げた。


…………


 青年が触手から解放されたのは、魔物が海の底まで到達してからだった。息ができる奇妙な水の中で浮かんでいた青年を、魔物はすぐさま保護し、自分の住処へと連れ込んだ。
 しかし、自分が触手で捕らえて引きずり込んだなどとは微塵も思っておらず、「海に落ちた人間さんが、ここまで来ていた」と思い込んでいる。

「人間さん、大丈夫かしら……?」

 巣に反響させながら聞こえてくる魔物の声に、青年は曖昧に頷いた。
 沈んでいる間に触手に服を剥がれ、一糸まとわぬ姿になった青年は、魔物の胸に顔をうずめる形で抱きしめられている。あるいは、もはや体ごと埋もれていると形容したほうが正しいかもしれない。
 事実、魔物が着けていた首飾りは、青年を抱きしめることに夢中になるあまり、紐ごと首元に沈み込んでしまっていた。それほどまでに、魔物の柔らかな体は、人の体の「柔らかい」とは異なっている。
 それでいて、人間同士が触れ合うよりも遥かに幸福で、いつまでも身を委ねてしまいたくなるほどに心地よい。
 ここが逃げる場所の無い海の底で、形が変わっただけで魔物に囚われているということに、一切の危機感を抱かないほどに。

「……あら?」

 魔物は、青年と全身を密着させたまま首をかしげた。その拍子に、くっついた体はぐちゃりと粘度の高い音を立て、頭の上にある一対の触覚もぐねと揺れる。
 魔物が人間の雄を捕まえたのは初めてだった。それでも、感じ取ったものが何かは本能的に理解できた。

「……うふふ」

 穏やかに優しく、しかし間違いなく淫靡に微笑みながら、魔物は言った。

「はい。わたくしも、同じ気持ちですわ」

 青年は、何も言っていない。何かを言えるほど頭も回っていない。
 ただ、柔らかな体と濃厚な魔力にあてられて、なかば無理矢理に雄としての繁殖欲求を呼び起こされているだけだった。
 性器は屹立し、魔物のやわらかな下腹部にめり込むほど押し付けられ、先走りを垂れ流す。
 だが、それはこの上なく単純で原始的な「交尾をしたい」という意思として、魔物に伝わった。

「ふふ……人間さん、お顔を見せてくださいな」

 魔物の手がゆっくりと動き、青年の両頬に添えられて、その顔を上向かせる。
 胸にうずめていた青年の顔から、ねちゃりと粘液が糸を引く。口は半開きになり、視線は定まっていない。
 それでも、魔物は満足そうに青年の目をじっと見つめながら、半開きの口に「あー……」と自らもやや開いた唇を重ねた。

「ん……ふ、ちゅ……じゅる……んふふ……」

 恋人同士の甘いキスなどとは程遠い、ひどくぬめる水音が、合わせた唇の間からこぼれだす。
 舌を舐り、歯の一本一本にまで粘液をまとわりつかせ、どろりとした唾液を獣が口移しするかのように飲ませる。
 ただ愛おしさのままに、魔物は青年の口を犯す。

「ちゅ……っ……ん、く……」

 どれだけ、そうしていただろうか。
 魔物は、垂れた前髪の隙間から覗かせている目を、僅かに細めた。
 直後、青年の体が大きく震えた。口づけだけで射精まで導かれた。それを恥じるほどの理性も、青年には残っていなかった。本能的に腰を突き出し、魔物の体に押し付けた性器から、精液を垂れ流す。
 白く濃い大量の精液は、魔物の下腹部にゆっくりと染み込んでいく。

「んふ……ふふっ……」

 口を犯し続けながら、魔物は堪えきれなかったかのように笑みを浮かべる。
 はじめて触れた、男性の、愛おしい人の精の感触。それだけでも、魔物の大柄な柔らかい体は強い快楽に波打った。
 だが、それで満たされたわけではない。
 精を受け止めるべき場所は、まだ、空いている。

「ぷぁ」

 ようやく、魔物が青年の口を解放する。
 粘性の強い魔物の唾液と青年のものが混ざり合い、開いたままの口の間で糸をつなぐ。
 ただ動くものを目で追うようにして、青年の視線はその糸へ向かう。
 ぷつりと糸が切れたら、今度は、「人間さん」と呼ぶ口元へ。

「……こんどは、こちらへ」

 こちら、という言葉に反応して、青年は自分の頬から離れていった魔物の手の動きを見る。
 大きく柔らかい胸を揺らし、腹部をなぞり、白濁のこびりついている下腹部を撫で、その、下へ。

「ふふ……」

 魔物の指が、そこを割り開く。
 スリット状の入り口の奥には、雄の精を搾り取り受け止めるための肉襞がうごめいていた。
 体表の粘液よりも更に濃い粘液に濡れそぼった、つがいとの交尾をするためだけの箇所。
 思わず、青年はつばを飲んだ。
 魔力と快楽に濁った思考でも、二度と戻れなくなると理解できるほど、魔物の誘惑は蠱惑的。そして、戻れなくなることの何が怖いのかと思ってしまうほど、魔物から感じられる愛情は。

「さあ、人間さん……わたくしの、大切な旦那様……」

 青年の背中に腕を回し、やさしく抱きしめながら、魔物はささやく。
 人間の理性を壊すには、それだけで十分だった。
 ずぶずぶと、温かいぬかるみに沈み込む感触とともに、魔物のそこに青年は自分のモノを押し込んだ。
 途端に、無数の襞が肉棒に絡みつき、精を催促するようにうごめく。少しでも腰を振ればあっという間に果ててしまうような強烈な快楽に、青年は思わず魔物に抱きついて歯を食いしばる。
 だが、魔物にとってはそれも、自分を求められているという強い悦びへと繋がるものだった。

「うふ、ふふふ……ええ、どうぞ、お好きなだけ、わたくしを求めてくださいな……」

 より強く、魔物は青年を抱きしめた。
 乳の間に青年の顔をしっかりとうずめさせて、慈愛と性愛が混ざりあった声色で耳を犯す。激しく動きはせず、それでも、溶け合いそうなほどに密着させた体は精を搾り取ろうと震える。
 とても、耐えられるはずがない。
 青年の口から、うめき声が漏れる。腰を振るというよりも、ただ前に押し付けるだけの緩慢な動きとともに、再び、精液を放った。

「あ……は、あ……ふふっ、素敵……とっても、とっても……」

 どぷ、どぷ、と、さっきよりもずっと深い場所で精を受けた魔物も、静かに深い快楽に息をつく。抱きしめたまま背を撫でる手も、より多くの精を求めて蠕動する肉壺も、青年の手に絡みつく触手も、ただひたすらに眼の前の「旦那様」への愛情を示すためだけに動いていた。
 そして魔力に浸され続ける青年も、一度や二度の射精では熱を吐き出しきることができなくなっていた。
 萎えるどころか依然として硬いままの竿を魔物の最奥に届かせようと、より強く柔らかい体を抱きしめる。その分だけずぶずぶと体は沈み込み、感じられるぬめりと柔らかさと温かさのすべてが、快楽に変わっていく。

「まあ……ふふ、うれしい……」

 もはや魔物を求めることしか考えられなくなった青年に答え、魔物も青年を自らの深いところに導くように抱き返す。
 時折、ぐちゃりとねばついた音が、余すところなく密着した二人の間に響く。
 ほとんど動かないまま、しかし、繰り返し繰り返し互いを悦ばせる。静かだが激しい交尾は、海の上で日が沈み、月が頂点に上ってもなお、終わる気配を見せなかった。


…………


 海の底にも集落がある。
 そんなことを地上で言ったら、面白い冗談だと笑われるのだろうか。あるいは、頭がおかしいと思われるのだろうか。
 大きな魔物に後ろから抱きすくめられたまま、青年は巣の入り口を通して外を眺める。
 また、一匹。魔物が通った。今度は、サメのような姿をしていた。さっきは、奇妙な海藻のようなものが通っていった。
 地上で暮らす人が思うよりも、海の中は、魔物が多いのかもしれない。

「あなた、あなた」

 そんな青年の考え事も、すぐそばから聞こえた魔物の――つがいの声に、一瞬で塗りつぶされた。

「何か、しましょうか?」
「んー……」

 海の底でできることなど、そう多くはない。
 水底で出す舟など無く、釣りをせずとも食べ物は手に入る。
 もう何かをすることも、どこかに旅立つことも、求めなくていい。

「……しばらく、このままでいていいですか」

 抱きしめてくれている魔物の手に自分の手を重ねて、青年は言った。

「ふふ、もちろん。あなたのしたいことが、わたしのしたいことですもの」

 満足そうに答えながら、魔物は体に纏っているヒレをゆるやかに揺らした。
 その隙間からは、魔物の軟体に沈み込んだ首飾りが、時折鈍く銀色を光らせている。
22/10/22 23:00更新 / みなと

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