連載小説
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手汗まみれの「ただいま」と「おかえり」 後編

重い脚を動かしつつ帰るいつもの道。
もうとっくに日は落ちて、街はそこかしこの家屋から漏れる光で照らされている。

魔物の移住が本格的に始まってから、この街もだいぶ雰囲気が変わってきた。
この通りも以前は、よく言えば閑静、悪く言えば活気のない通りだったのだが、今はかなり賑やかだ。
腕を組み歩くカップルに、心配になるほどの薄着で練り歩く魔物娘。
耳を澄ませば、少し外れた所にある草影から僅かな嬌声が聞こえてくる始末である。

よく勘違いされるのだが、俺は騒がしいのは嫌いではない。
騒ぎの中に入るのが苦手なだけだ。
モラルの低下と言われれば何も言い返せないが、少なくともすれ違う連中は揃って幸せそうである。
少なからず、こうして街の雰囲気が変わった事に俺の仕事の成果があるならば、そう悪い気はしない。

例えば、そこのデレデレと鼻の下を伸ばしながら美人と連れ添う見知らぬ男。
アイツなんかは少しは俺に感謝してくれてもいい。
役人が恋のキューピッドというのも、なんともおかしな話であるが。

しかし、悲しいかな。
いかに仕事の成果が上がろうと、やりがいがあろうと、激務をこなせば疲れは溜まるものだ。
特に今日はターニアさんの移住の手続き、魔界軍の魔物娘との会議、セレモ二ーの後始末などなど、非常にハードな一日であった。
未だ家屋に明かりが灯っている時間に帰る事が出来たのは僥倖である。
というのも、ハラルドさんが便宜を図ってくれたおかげだ。
家に帰れば、そこに妖精女王が居るというあまりにも日常からかけ離れた状態の俺を、あの人なりに気遣ってくれているのだろう。


我が家に辿り着くと、明かりが点いたままである事に違和感を覚えた。
思えば、他に人が居る家に帰ってきたのはいつ以来の事だろうか。
妙に緊張しながら、家の戸を開けた。


「あ、おかえりなさい!」


戸を開けて最初に目に入ったのは、いつからそこに居たのか俺を玄関で出迎えたターニアさんだった。
シャワーでも浴びたのだろうか、金色の美しい髪が濡れて肌に張り付き、肌は火照ったかのように紅潮していた。
異様な程の色気。
自分の家とは思えない花の香りが漂って、頭が少しクラクラとした。

「た、ただいま帰りました。」

なんという事はない挨拶のはずなのだが、最近は全く縁がなかった。
思わず、言いよどんでしまう。

「はい、お仕事お疲れ様でした、ローディ君。」

ターニアさんが、にこりと花のように微笑んで、俺の鞄を優しく受け取る。
距離が近くなって、瑞々しい肌が目前に迫る。
寝巻だろうか、薄手の衣服はわずかに肌の色を透かして強烈に目に刺さる。

「ふふふ、私、勉強したんですよ?
 人間のご夫婦は、仕事から帰ってきた旦那さんを玄関でお迎えして、鞄を受け取るんですよね?」

してやったりと言いたげな顔である。
彼女の勉強における参考書は、かなり偏りがあるらしい。
しかし、彼女の行動に否応なく胸が高鳴った身としては、あまり否定も出来ない。

「ローディ君?どうかしましたか?」

つい、黙り込んでしまう俺を、不思議そうに彼女が覗き込んでくる。
吸い込まれそうな程に深い瞳と目が合った。

「あ、い、いや、すみません。誰かが家に居る事に慣れてなくて……」

我ながら情けの無い話なのだが、誰かから「おかえり」と言ってもらえる事が想像以上に、『響いて』しまった。
俺は一人でも平気な性質だ。
今まで、一人の生活に孤独感を感じた事もなかったのだが、この感情は自分でも対応に困った。

「……その、誰かから、『おかえり』と言われる機会が無かったので……
 すみません、少し混乱しました。」

混乱からか、言わなくても良いような事まで口に出してしまう。
それを聞いたターニアさんは、一瞬驚いた顔を見せると、一転して眼を細めた。
彼女が時折見せる、子を見る母のような、優しい笑み。

「これからは、私が毎日言ってあげますよ。
 ふふ、早く慣れて下さいね。」

底なしの優しさ、とでも言うべきか。
短い言葉に込められた慈愛に、身体がカッと熱くなるのを感じた。

「……ありがとうございます。」

「いえいえ♪」

次の瞬間には、いつもの少女の様なターニアさんが居た。
……なんと言うか、卑怯なほどに魅力的に見えて、つい目を逸らした。

「それで、あの、私、ご飯を用意したんですけど……」

「え?そんな、わざわざすみません。」

「本に書いてあったんですよ!
 魔物娘流嫁入り修行書の第5章に、『旦那様の胃袋を掴むべし!』って!
 それで、頑張ってみたんですけど……」

「けど?」

どうにも、ターニアさんの歯切れが悪い。
彼女は少しだけ目を伏せて、もじもじと身体を捩っている。

「えっと、見て貰った方が早いですね……」

そういうと、彼女は居間の方へと向かう。
よく分からないまま彼女に着いていくと、鼻孔をくすぐる花の香りに、それとは違う甘い香りが混じった。

テーブルを見ると、そこにあったのは、お菓子の山。

「作り始めて気付いたんですけど、私、お菓子しか作れなくて……
 けど、なんだか楽しくなっちゃって、そのぅ……」

クッキーに、チョコレート、ゼリー、俺では名前も分からないお菓子まで。
机の真ん中には、とても素人の作った物とは思えないほど立派なケーキが鎮座していた。

「……す、すげぇ。」

あまりの量と、そのクオリティに、敬語も忘れて声が漏れる。

「ごめんなさい、これじゃ夕ご飯にはなりませんよね……」

シュンとしたターニアさんが、いつもより小さく見える。
なんと声を掛けたものかも分からなかったが、とりあえず手ごろな大きさのクッキーを手に取ってみる。
まだ僅かに暖かい。
そのまま、口に運ぶと、再び声を上げる事になった。

「うっわぁ……!メチャクチャ美味い!!」

比較的、自分は静かな方だと自負しているのだが、本当に美味しい物を食べた時は人間声が上がるものらしい。
味も、食感も、完璧である。
お菓子に詳しい訳ではないが、これが凄まじく美味しい事は俺でも分かる。

「え?あ、えへへ、ありがとうございます。」

「いや、本当に美味しいですよコレ!」

迷わず、次のお菓子に手を伸ばす。
形の良いチョコレートも、やはり衝撃的な美味さ。

「うおぉ……コレも美味い……!」

「や、やだなぁ、ローディ君。
 こんなの誰だって作れますよぉ。」

美味い美味いと連呼する俺を見て、手をブンブンと振りながらターニアさんが言った。
断じて誰でも作れるようなものではない。
俺にはひっくり返っても無理だろう。

「いや、そんな事は無いですって……
 こんな美味い菓子、食べた事ないです。いや、本当に。」

「も、もう……」

珍しく、本当に照れているのだろう。
ターニアさんは頬を赤くして顔を伏せてしまった。

「なんでこんなお上手なんです?」

「えっと、妖精ちゃん達によく作っていたので、自然と覚えてしまって……」

興味本位で聞いてみると、相変わらず恥ずかしそうにターニアさんが答えた。
王宮はお菓子だらけだとターニアさんも言っていたが、こんな美味しいものを妖精達は食べていたというのか。

「あのぅ、夕ご飯、これじゃダメですよね。どうしましょう……?」

申し訳なさそうに言うが、俺としてはこれだけ美味い物を用意して貰って文句を言うつもりなど更々ない。
正直に言えば、普通に夕飯を食べるくらいなら、このお菓子を食べていたいのだ。
身体に悪い事など百も承知だが、知った事ではない。

「いや、今日はこのお菓子で大丈夫ですよ。
 というか、そうしたいです。」

「……本当ですか?無理、してません?」

「してません。」

あまりの即答にようやく彼女も信じてくれたのか、ようやく笑顔が戻ってきた。

「……えへへ、ありがとうございます。
 私、これから頑張って人間さんのお料理も覚えますね?」

「ええっと、なにもご飯まで作って貰わなくてもいいんですよ?
 最低限なら俺にも作れますし……」

「駄目です!
 『旦那様の胃袋を掴むべし!』ですからね!」

そう言って、ターニアさんは小さくガッツポーズした。
普段の快活な笑顔が戻ってきたことに安心する。

「せっかくお菓子があるんですし、お紅茶も淹れてきますね。
 リっちゃんからも褒められた事もありますから、期待してて下さい!」

余程嬉しかったのか、ターニアさんはいつになく饒舌である。
ぴょんぴょんと跳ねる様に台所に向かうターニアさんを見送りつつ、クッキーを一齧りする。
甘い。
溜まりきって沈むような疲れが、少しだけ取れた気がした。


**********************************************************


「ふぅ……」

おそらく数年分のお菓子をいただいた後、数少ない癒しである風呂の時間。
程よい温度のお湯も、ターニアさんが準備しておいてくれたらしい。
女王様にここまでして頂くのは恐縮の極みだが、素直にありがたいものだ。

風呂場と居間を隔てる薄い戸の向こうに、絶世の美女(おまけに一国の女王様)が居るという現実。
実際にこの日が来ても、やはり現実感は湧かない。
俺も男である以上、色んな欲を抑えねばならない覚悟はしていたのだが、現実感の無さのおかげでその手の欲望を感じる余裕も無かった。

先ほど、お菓子の山の隣に置いてあった分厚い本の数々。
題字をちらりと見ただけだが、人間の歴史や文化などの本だった。
妙にピンク色の表紙が多かったのが気になるが、しおりが沢山挟まった本を見れば、彼女がそれらを読み込んできているのはよく分かる。
以前、ターニアさんは人間の事を勉強したいと言っていたが、それが本意だったのだと今更思い知った。
正直に言えば、今回の移住は暇を持て余した女王様のきまぐれだと思っていたのだが、違っていたらしい。
彼女は、真摯に人間社会の事を理解し、学ぼうとしている。
不思議と、それが嬉しかった。
不安しかなかった同居生活であるが、彼女が本気で人間の事を学ぼうとしているならば、それに協力するのは吝かではない。

そして、そんな彼女に畏れ多くも邪な感情を抱くなど、あまりに不義理である。
ある意味、俺は彼女の人間観の根幹となりかねない訳だ。
俺はお世辞にも優れた人間ではないが、とりあえずの真人間としての体裁は保たねばならない。

頬をピシャリと叩いて、気合を入れなおす。
悲しいかな、おそらく今後はベッドで寝る事が出来ない訳で、風呂場で疲れは取れるだけ取る必要がある。

「ローディ君、お湯加減はどうでしょう?」

不意に掛けられる声に、思わず身が跳ねて水音が鳴る。
風呂場の戸の向こうから、声を掛けてきているらしい。

「あ、はい、ちょうどイイです。」

「そうですか、よかったぁ。人間さんのお風呂の温度は分からなかったので……」

風呂場の引き戸が開けられる音。
更衣用のスペースに、ターニアさんが入ってきたらしい。
驚いたが、タオルでも取りに来たのだろうか。
だとすれば、注意するのもはばかられる。

妙に緊張しながら押し黙っていると、僅かに衣擦れの音が聞こえてきた。
まさか。

「……あの、ターニアさん?」

「はーい?ちょっと待ってて下さいね。」

「いや、あの、一体何を」

しているんですか?と聞こうとしたのだが、生憎発声する時間はなかった。
風呂場の戸が、勢いよく開く音。

「ローディ君!お背中お流ししますよ!」

網膜に突き刺さる白い肌の色。

「ちょちょちょっ!?」

反射的に奇声を上げて、水しぶきを上げる。
人間、こういう事態が起こると胸元と股間を手で隠すように出来ているらしい。
誰も得をしないセクシーポーズをキメつつ、思い切り顔を背ける。

「あれ?ローディ君?」

不思議そうにターニアさんが言うが、こちらはそれどころではない。
今振り向けば、不敬罪まっしぐらではないのか。いや、不敬というのもおかしいが、おそらく何らかの刑罰はまったなしであろう。
思考がまとまらない。

「た、ターニアさんっ!!急にどうしたんですか!?」

目を固く瞑りつつ、声を張り上げる。
風呂場であるゆえに声が籠り、自分でも驚くほどの音量になった。

「魔物娘流嫁入り修行書第2章!『良妻足るもの旦那の背中は常に己で磨くものと心得よ』ですっ!」

嬉しそうな声。
胸を張って自慢げに言っているのが眼に浮かぶようだ。
ついでに、ターニアさんが裸で胸を張るのも眼に浮かびそうだったので、慌てて妄想を振り払う。
やはり、後でターニアさんの本はチェックする必要がありそうだ。

「いやいや!そんな事までしなくていいですよ!というか服を着て!」

必死の叫びである。

「うーん、やっぱりお勉強した事はすぐに実践しないと!
 それに、バスタオル巻いてますから大丈夫ですよぉ。
 ほら、早く。風邪引いちゃいます。」

悲しいかな、ターニアさんは全く動いてくれそうもない。
どうやって居間に戻ってもらうか考えるも、風呂とこの状況で茹りきった頭は碌に働いてくれなかった。

「あれ?どうしたんですかローディ君?
 あ、一緒にお風呂にも入りたいんですか?
 ちょっと狭いけどそれはそれで……」

「出ます出ます今すぐ出ます!!」

俺の負けだ。
さっきは手を繋ぐのに赤面していた彼女が、何故こうも平然と大胆な真似が出来るのか訳が分からない。
なんとかターニアさんを視界に捉えないようにしつつ、風呂を出る。
無論、マズイ部分は手で隠しながらである。
どうしても視界の端に肌色が入り、胸が跳ねる。

「よぉし、お姉さんに任せて下さい♪」

なんとも楽しそうに、ターニアさんが泡立てたタオルを俺の背中に当てた。
女性らしい力加減が生々しくて、全身が緊張する。
股間はタオルで隠したものの、いつ血が集まるか分かったものではない。

「やっぱり、男の人の背中って凄いですね……」

「え?」

「私や、妖精さん達とは全然違います。
 広くて、ゴツゴツしてますもの。」

妖精の国では、やはり男性はほぼ居ないのだろう。
ターニアさんの独特の距離感や価値観も、そういった部分が影響しているのかもしれない。
付き合う側としてはあまりにも心臓に悪いのだが。

「私、憧れてたんです。
 男の人と一緒に歩いて、男の人と一緒にご飯を食べて、お風呂に入って……
 ふふふ、たった一日でこんなにも夢が叶っちゃいました。」
 
感慨深そうに言うターニアさんの手から少し力が抜ける。
少し顔を上げると、鏡には俺の肩越しにターニアさんの顔が見える。
湯気のせいで見づらいが、彼女の顔は喜んでいるようにも、泣きそうになっているようにも見えた。

「ローディ君、本当にありがとう。
 こんなに幸せな事はありません。
 私、あなたの家に来れてよかったです。」

「……そうですか。」

真っ当な経験のある男ならば、ここで気の利いた台詞も言えるのだろうが、残念ながら俺にはできなかった。
まっすぐな感謝の気持ちに、応える術がない自分がもどかしい。

「えへ、えへへへ……
 すみません、変な事言っちゃって。
 しっかり洗いますね。」

ターニアさんは取り繕うように言うと、再び手に力を入れた。
風呂場に流れる妙な空気感。
お互いがほぼ裸という事も相まって、どうにも落ち着かない。
しかし、だからといって何を言っていいかも分からず、口をつぐむしかなかった。

「よい、しょ……」

あの細腕では、俺の背中を洗うのも結構な重労働なのだろう。
時折声を出しながら、ターニアさんが一生懸命に背中を磨いている。
疲れからか荒くなる息が、間近に感じられて緊張する。

何よりも問題なのは、背中に押し当てられる柔らかな感触。
柔らかいのに、張りがある双丘。
余程集中しているのか、ターニアさんは全く気にしていないようだが、俺としてはたまったものではない。
未だに、下半身が平静を装えている事が奇跡である。
流石に、限界だった。

「あの、ターニアさん!?」

気合を入れ過ぎて、自分でも胸がくっついている事に気付いていないようだ。
鏡越しに、彼女と目が合う。
赤くなった俺の顔を見られている気がして恥ずかしい。

「その、胸が……」

「お胸ですか?」

「胸が、当たっているので……」

絞り出すように、なんとか口に出す。
更に顔が熱くなった気がする。
俺の言葉を聞いた瞬間に、ターニアさんがバッと身を離す。
柔らかな感触が離れるのが、少し寂しかったのは顔に出さないように努めた。

「す、すみませんっ!」

「い、いえ……」

鏡越しに見るターニアさんの顔も、赤らんで見える。
バスタオル一枚で風呂場に入ってくるのは平気なのに、これでここまで驚かれるのは意外だった。

「……」

「えっと……」

再び、お互い黙り込む。
嫌な沈黙である。

「ねえ、ローディ君?」

沈黙を破ったのはターニアさんだった。
鏡を見ると、やや上目遣いで俺を見る目。
今までにない妖しい輝きを孕んだ目に、ゾクリと背中を寒気が撫でた。

「は、はい?」

タオル越しではなく、彼女の素手が俺の方に添えられる。
指先だけを置くような強さだが、その動きはあまりにも蠱惑的だった。
手を添えられた肩が、くすぐられるような快感。
一人で混乱していると、彼女の顔が耳元に寄せられる気配を感じた。

「ドキドキ、しましたか……?」

「っ……!!」

耳を、甘く舐めとられるような、感覚。
今までのターニアさんのどのような声とも違う。
直接脳を揺さぶる様な甘い声と、熱い吐息。

「……♥」

俺の耳元で囁いたまま、彼女は動きを見せない。
しかし、纏う空気は今までとは違う妖しいものだ。
俺は蛇に睨まれた蛙のように動けないでいる。
いや、むしろとっくに蛇の腹の中に呑み込まれたような感覚。

「た、ターニアさん?」

あまりに異質な空気に耐えかねて、何とか声を発する。
すると、ターニアさんが纏う妖しい雰囲気が一気に霧散した。

「あ、あれ……?私、何を……。
 え、えへへ、なんちゃって!
 ちょっとリっちゃんの真似してみました!」

先ほどと同じように、ターニアさんが跳ねて離れる。
どういう訳か、彼女自身が一番混乱しているようだ。

「あの大丈夫ですか?疲れているんじゃ……」

「そ、そうですね!
 もう、背中も流せましたし、私は失礼します!
 あの、ごゆっくりどうぞ。」

急に挙動不審になったターニアさんが心配になり声をかけると、あせあせとターニアさんが風呂場を出ていった。
何か悪い事をしただろうかと思ったが、なにも思い浮かばない。
釈然としないものを感じつつ、俺も早めに風呂を上がることにした。


************************************************************


風呂から上がると、もう夜もすっかり更けていた。
ターニアさんは移住初日で疲れているだろうし、先ほどの様子がおかしかった事を考えると、もう寝た方が良いだろう。
目下最大の問題は俺が何処で寝るかであるが、まあその気になればどこでも寝る事は出来る。

「ターニアさん、今日は疲れたでしょうし、もうおやすみしてはどうでしょう。」

「えぇ、もうちょっとお話しましょうよぉ。」

風呂場での雰囲気はどこへやら、頬を膨らませて抗議する様は少女にしか見えない。
おそらく、先ほどのアレは風呂場で少しのぼせてしまったのだろうと無理矢理納得する。

「……早く寝ないと、明日起きられなくなりますよ。外へ出る時間も遅くなります。」

「む、むぅ……それは嫌です。」

「お話は明日からでも出来ますよ。」

「……はぁい。」

だいぶ、ターニアさんの扱い方が上手くなってきた気がしないでもない。

「はい、おやすみなさい。部屋のベッドを使って下さい。」

「ローディ君は、どこで寝るんです?」

「あー……」

出来る事なら、俺の寝床については話を出さずにおきたかった。
彼女の性格上、俺が床で寝る事を知ればどうなるか分かったもんじゃない。

「来客用の、布団があるので……」

「あ、そうなんですか!じゃあ、私がそちらで寝ますよ。」

マズイ。
咄嗟についた嘘が、自分の首を絞めていく感覚。

「い、いや!ターニアさんにあんな安物で寝て頂く訳には……」

「もうっ!私は居候だって言ってるじゃないですか!
 ローディ君はお仕事で疲れてるんですから、ベッドで寝るべきです!」
 
ぐいと顔を寄せて、ターニアさんが言う。
ようやく分かってきたのだが、ターニアさんは大別して二つの顔がある。
一つは、先ほどのような少女の顔。
二つ目は、今のような年下の世話を焼く姉のような顔である。
そして、経験上、姉モードのターニアさんは非常に頑固だ。

「い、いやぁ、そのぉ……」

言いよどむ。
上手い言い訳も思いつかないでいると、こちらを見るターニアさんの目が、なんとも疑い深そうに細まった。

「……ローディ君。なにか隠してるでしょう?」

「……そんな事はないです。」

「ホントは、何処で寝るつもりだったんですか。」

姉モードのターニアさんは、頑固な上に鋭いらしい。
徐々に膨らんでいくターニアさんの頬を見ると、これ以上隠せる気がしなくなってしまった。

「……適当に、床で寝るつもりでした。」

「ばか。ローディ君のばか。」

「返す言葉もありません……」

「私、怒ってます。」

ターニアさんの膨れきった頬を見れば嫌でも分かるのだが、ここは素直にハイと答えておく。
ジト目で俺を貫く視線に耐えかねて、つい目を逸らしてしまった。

「なんで私が怒ってるか、分かりますか。」

「……嘘を吐いたから、でしょうか。」

昔、母親に叱られた時も、こんな感じだっただろうか。
肩身が狭くて仕方ないが、彼女の視線が俺を捉えて離さない。

「そうです。嘘はいけません。
 ……だけど、なによりも、ローディ君が私に遠慮して苦しい思いをしようとしていたのが悲しいです。」
 
「……ごめんなさい。」

諭すように言うターニアさんの顔が、本当に悲しくて仕方がなさそうだったので、反射的に素直に謝罪の言葉が出てきた。
遠慮というよりは、配慮のつもりだったのだが、彼女にとってはそうではなかったらしい。

「もう、これからはそういうのはナシですよ。」

「はい……」

「うん、約束です。」

そう言うと、ようやくターニアさんはいつものように微笑んでくれた。
ほっと胸を撫で降ろすも束の間、俺の腕がターニアさんに絡めとられた。
絶対に離すつもりはないとでも言いたげな強い力。

「さあ、ベッドに行きますよローディ君。」

「……はい?」

さも当然のように言うターニアさん。
有無を言わせぬように、俺の腕が引かれていく。

「た、ターニアさん!俺はベッドじゃなくても大丈夫ですから!」

「ダメです。ローディ君が床で寝るなら私も床で寝ます。」

「いやいやいや!駄目ですよ!」

「じゃあ、一緒に寝るしかないですね。」

「もっと駄目です!!」

必死の説得にも拘わらず、彼女の腕から力は抜けない。
姉モードのターニアさんが頑固なのは分かっているが、これだけはマズイ。
ぎゃあぎゃあと喚く俺をターニアさんは気にする様子もなく、遂にベッドの前に来てしまった。

「……私も、妖精さん達とよく一緒に寝てましたから、大丈夫ですよ。」

「俺が大丈夫じゃないです!」

そう叫ぶと、ターニアさんの身体がビクリと跳ねる。
それきり、彼女は急に黙ってしまった。
不審に思って彼女の顔を見ると、その顔は真っ赤である。
絡められた腕にキュッと力が入る。
少し、彼女の腕が震えているようにも思えた。

「……大丈夫じゃなくても、いいんです。」

「え?」

「私に、いたずら、してもいいんですよ?」

真っ赤な顔で、上目遣いに俺を見つめる。
勝手に背筋が伸びて、生唾を飲み込んでしまう。
飲み込む音がターニアさんに聞こえてしまうのではないかと不安になる程、大きな音が鳴った。
ぐらぐらと、頭の中が煮えていくような感覚。
足元がおぼつかない。

「……し、しません。」

「ほんとうに?」

煮え立った思考を何とか冷やし、言葉を発する。
それを確認するターニアさんの声は、安心しているようにも、残念がっているようにも、あるいは甘えてきているようにも聞こえた。

「……本当です。
 そんな事をして、この関係を崩したくないです。」

これは、偽らざる本心である。
まだ一日しか一緒に過ごしては居ないのだが、間違いなく楽しかった、気がするのだ。
一人ではない家が新鮮だった。
家に居て、これだけ会話が出来たことが嬉しかった。
それに、俺はどうしようもなく女性との関わり方が不得手だ。
なんとも情けない話だが、「いたずら」の仕方が分からない。

「優しいですね。ローディ君は。」

ターニアさんはこう言うが、それは違う。
俺は情けない男だというだけの話。
どうにも居たたまれなくなって、恥ずかしくて、少し唇を噛む。

「……そんな事はないです。」

「いいえ、あなたは優しい人です。」

嬉しいのか、寂しいのかよく分からないターニアさんの声音。
それだけ言うと、ターニアさんはベッドの中に潜り込んだ。
そして、俺をベッドの中に誘うように、掛布をめくる。

「いたずらしないなら、大丈夫ですよね?さあ。」

「いや、しかし……」

「……本当は、私、一人じゃ寝られないんです。
 だから、ね?」

諭すように彼女は言うと、俺の服の裾を軽く抓む。
彼女に上目遣いに見つめられると、俺は何も言えなくなってしまう。
本当に、ズルいと思う。
無言のまま、なるべく彼女を見ないようにして、ベッドの中に入った。

「ふふふ、やっぱり、優しいじゃないですか。」

すぐ傍で、ターニアさんの嬉しそうな声が聞こえる。
布団の中は、彼女の体温で暖かい。
花の香りが、頭の芯の方を痺れさせる。

「……俺は優しくなんかないです。」

頭が碌に働いてないせいか、つい言葉を返してしまう。
彼女に言っても仕方ないのは分かっているのだが。

「俺は、人との上手い関わり方が分かりませんから。
 優しいんじゃなくて、情けないだけです。」
 
「ふふっ……」

どこまでも情けない俺の話を聞いて、ターニアさんが薄く笑う。
笑われて当然の話である。
仕方ないことだと思っていたら、突然柔らかい感触が頬を撫でた。

「分からないから、慎重に私の事を考えてくれているんでしょう?
 とっても優しいじゃないですか。」

暗がりでよく分からなかったが、ターニアさんが俺の頬を優しく撫でている事にようやく気付く。
あまりにも、頬の感触と声音が優しい。
底に沈んで凝り固まっていた感情がほぐされていく感覚。

「私ね?ローディ君の事大好きですよ。」

「え!?あの……」

あまりにもこれまでに縁のなかった言葉だった。
混乱する俺の頭を、ターニアさんが手で引き寄せた。
俺の頭が、優しくターニアさんの胸元に寄せられる。
暖かい。

「ローディ君の家に来られて本当に良かったです。
 あなたがとっても優しいから。
 情けないなんて事はないです。
 自信を持ってください。ローディ君は、とっても素敵です。」

後頭部を、優しく撫で降ろされる。
花の香りと、柔らかな感触、暖かな温度。
甘く、優しい。

「私、ローディ君以外の男の人と、一緒にベッドに入るなんて出来ませんよ?」

「それは、ターニアさんが俺以外の男の人を知らないからで……」

「そんな事ないです。きっと、これからもずっと、ローディ君以外とこんな風にはなれません。
 お姉さんの言う事は信じてくださいな。」
 
不思議な事に、これだけターニアさんと密着しているのに興奮は覚えなかった。
感じるのは、強烈な安心感と、無条件に自分を肯定される多幸感。

「ちょっとは、自信持てましたか?」

「……はい、ありがとうございます。」

「ふふふ、よかったぁ。
 じゃあ、もう寝ましょうか。」
 
「……あの」

「はい?」

「……もう少し、撫でて貰えませんか?」

自分でも、何という事を言っているのかと思う。
しかし、あまりにも優しいこの手つきが離れると思うと、名残惜しくて仕方なかったのだ。

「ふふふ、可愛いんだから……♥」

恥じらいは感じたが、それを遥かに凌駕する安堵。
ワーシープベッドの力と、甘い花の香りに、いつになく早く眠りに落ちる。

意識を手放すその瞬間まで、彼女の優しい手の感触は続いていた。。

16/05/08 21:37更新 / 小屋
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■作者メッセージ
童貞力高い主人公を書きたかったのです。

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