アイの受け取り方

オモイアイって知ってる?
それは人を傷つけるものなんだって。
それは自分のことしか考えていない奴が持っているだって。
それは情け無い奴の証拠なんだって。









それは決してアイなんかじゃないんだって。













暦の上での春はとうに過ぎ、世間でいうところの春になって来ると、太陽が顔を出すのが日に日に早くなっていくのを感じられる。
春眠暁を覚えず、とはよく言うが御天道様の辞書にそんな言葉はないのかも知れない。
カーテン端から入り込む薄明かりを、寝惚け眼で捉えると、アマルは肺から重い息を吐き出す。
もう朝…。
動かすのも億劫な手で目をこすり、何とか意識を覚ましていく。
でも、体は未だに眠っていたいらしく、規則正しい息づかいとゆっくりとした鼓動が再び意識を微睡みへと誘おうとする。
そうして、かれこれ十分以上、体の中の睡魔と格闘していると、ふと、控えめなノック音が耳に届いた。
返事も返さずにいると、今度はノック音に続いて、女性の声が聞こえてきた。
「アマル?起きてますか…?」
「…起きていません。もう少し寝かせてあげてください…」
自分でも驚くほどの嗄れた声で何とか返事を返すと、すぐに扉が開き、コロコロと何かが回る音が近づいてきた。
そして…。
「うわっ…!?」
カーテンが勢いよく開けられた音と同時に、寝惚け眼にはあまりに強烈な朝日が顔全体に差し込んで来た。
「起きました?」
「…起きました」
そう返事をしつつも、アマルはゆっくりと体を丸め、眩しい朝日から逃れる。
「もう…。朝なんですから、起きてください?」
「…意識はあるもん。もう起きてるよ…」
「体を起こさなくちゃ、ダメです…!」
酔ってしまいそうなほど、力強く体を揺すられては、もうだんまりを決め込む訳にもいかなかった。
大きな欠伸をしながら、渋々とアマルは体を起こす。
「はぁ…。最近起こされるのが早くなっている気がする…」
「そうでしょうか?」
「そうだよ…。何処にこんなに早く起きる人たちがいるのさ…」
あまり回らない頭でぶつぶつとアマルは小言を呟く。すると、目の前に“座っていた”獣の耳と長い髪が特徴の少女は可愛らしく頬を小さく膨らませた。
「そんなこと言ってもダメですよ。アマルは起こさなくちゃ、ずっと起きて来ないんですから」
「…誰も文句なんか言わないのに」
「はいはい。さぁ、文句もそれくらいにして、ちゃんと起きてください?」
「はぁ…。分かったよ…」
大きな欠伸を最後に、アマルはしっかりとした顔で少女と向き合う。
「おはよ、アイ」
「おはようございます、アマル」
互いにぺこりと頭を下げると、車椅子に乗った少女、アイは優しく微笑んだ。









アマルがアイと出会ったのは、つい数年前のことだった。

この山に住む、というよりは婿として攫われてきたらしい、数奇な過去を持つ友人と共に野草などを摘んだその日。
取り分を分け、その友人がウシオニと呼ばれる魔物娘二人と手を繋いで帰って行くのを見届けると、アマルもゆったりと帰路へ着いた。
山の頂上にある友人宅、といっても洞穴なのだが、から山を下りながら野草集めをしたとはいえ、麓近くにある自宅まではまだかなり距離があった。
西に沈んで行く夕陽と共に、えっちらおっちら山を下りていると、ふといつも通っている道と、獣や魔物娘たちが作ったであろう獣道がある中に、見慣れぬ道があることに気がついた。
人が無理矢理通ったにしては、左右の草木が荒らされていないし、獣や魔物娘たちにしても、それらしい足跡がない。
新しい草木を踏み潰す、何かを引きずった様な、そんな跡が一本あるだけの、奇妙な道。
アマルは暫し夕陽を見つめながら考え込むと、静かにその跡を追った。
もしかしたら、巨大な大蛇か、あるいはそれに近い魔物娘かもしれない。そんなものがこの山にいるとは聞いたことがない。なら、そんなものを一目見て見たい。
そんな責めるに責めれぬ好奇心に促されたからだった。
踏み潰された草木の道を足取り軽く進んでいると、不意に不思議な音が聞こえてきた。
ガリガリ…ガリ…ガリガリ…。
何か鋭い物を木に擦り付けているかの様な耳障りな音。
しかし、アマルは特に恐れることはなかった。
この山にはグリズリーなどの鋭い爪を持つものが山ほどいる。その中の誰かが爪研ぎか、木登りでもしているのだろう。
そう推測しながら、音のする方向へと続く道を歩いて行く。
音がだいぶはっきりと聞こえ出すと、木の根元あたりにしがみつく一匹のワーウルフを見つけた。
山には似つかわしくないほど高級感のある服を着ているが、それでも毛深い手足や獣耳、尻尾などからすぐにそれがワーウルフなのだと分かった。
先ほどから聞こえていた音の主も彼女らしかった。
「何やってるの?」
「えっ!?」
声を掛けると、ワーウルフは驚き、ずるずると地面へと落ちる。そして、立ち上がろうとはせず、座ったままアマルの方へと体を向けた。
泥や土が所々に付いた顔だが、とても可愛らしい顔。長いストレートの黒髪も印象的だった。
歳は十代半ばか、後半くらいだろうか。でも、大人びた感じのする少女だった。
…少し、彼女に似てる。
「何してるの?」
「…べ、別に何もしていません」
「木にへばりついていて何もしてないって…。…もしかして怪しい人?」
「あ、怪しくなんかありません…!私はただ…」
言い澱み、俯く少女の隣にアマルはそっと腰を下ろし、その横顔を見つめた。
何か事情があるらしいのは間違いない。
でも、自分自身などが掘り起こして良いものか、聞いたことで面倒事に巻き込まれはしまいか、そんな不安がもやもやと心の中に浮かび上がる。
しばらくどうしたものかを考え、アマルは少女に小さく尋ねた。
「…そうだ、この辺で大きな蛇を見なかった?それか、蛇の魔物娘」
「えっ、蛇…?いえ、見てません…」
「そっか…。じゃあ、しょうがない。もう陽も暮れるし、今日は帰ろっと…」
「…」
どっこいしょ、と態とらしいため息と共にアマルは立ち上がる。そして、元来た道を戻ろうとゆっくりと一歩を踏み出す。すると、背中に背負っていた籠が静かに引っ張られた。
「あ、あの…。この辺に住んでいるんですか…?」
「ん?うん。もう少し下らなくちゃいけんないんだけどね」
「…」
少女はしばらく思案する様に難しい顔をする。アマルは静かにその口が再び開くのを待った。
「あ、貴方の家まで連れて行ってくれませんか…?」
後半の方は恥ずかしさや不安からか、ほとんど聞き取れない様な小さな声で少女はアマルに尋ねてきた。
やっぱり…。
「…別に良いよ。じゃあ、ぱぱっと帰ろう?そろそろ暗くなるだろうし」
立つのを手伝おうと、アマルは手を差し伸べる。しかし、少女は哀しげな表情でその手を見つめるばかりで、その手を取ろうとはしなかった。
「どうしたの?」
「…実は、私、歩けないんです…」
「えっ…?」
アマルは驚きで目を丸くする。
歩けない者たちがいることは当然知っているが、こうも普通の人たちと見かけが違わないものだとは知らなかった。
そして、そのことに気がつけない自分が少し情けなかった。
そんなアマルの驚いた表情に、少女の顔は更に哀しげになる。
「…ごめんなさい。やっぱり、迷惑ですよね、すみませんでした…。さっきの話は無かったことに…」
「ああ!いや、違うんだ!ただちょっと驚いただけで…」
「大丈夫です…。他の人たちも最初はみんな驚きますから…」
「えっ?最初って?…って、話してる場合じゃないね…」
背負っていた籠を木に立て掛ける様に置いたアマルは、そっと少女に背を向けてしゃがむ。
「おんぶなら大丈夫?話の続きは家でしよ?」
戸惑う少女にアマルは肩越しに優しく微笑んだ。







こんなにも、どこか満たされた気持ちになるのは何故だろう?
この子が彼女に似ているからなのかな…?








「へぇ…。ワーウルフになれば歩ける様になるかもしれない、か…」
渡されたカップから漂う、優しく仄かに甘いココアの香りを嗅ぎながら、アイは静かに頷いた。
「はい…。私自身は聞いてはいないのですが、両親が聞いたところではそう言われたらしいです…」
「でも、結局は歩けずじまい…。う〜ん、胡散臭い話だとは思わなかったの?」
「もちろん思いました。でも、これ以上家族に迷惑は掛けたくなかったんです…」
温かいカップを両手で包み込み、茶色の水面に映る自身の顔を見つめて、アイは苦笑いを浮かべた。
「私は生まれつき歩けなかったんです…。だから、生まれてからずっと、両親や妹、友だち、いろいろな人の手を借りてこれまで生きてきました。みんなとても良くしてくれました。でも、みんなどこか無理している、そんな気がずっとしていたんです…。出来ないことが多くて、してあげなければならないことが多い、手の掛かるこんな私に…」
「…だから、この話も断れなかったの?」
熱くし過ぎたココアをふぅふぅと冷ましながらアマルが尋ねると、アイはまた静かに頷いた。
「でも、私自身、歩けるようになるなら、歩いてみたいとは思っていたんです。だから、ワーウルフになること自体はそこまで嫌ではなかったんです。ただ…」
「…」
その先の言葉が見つからないアイ。
きっと、彼女は最適な言葉を探しているんのだろう。
自分を育ててくれた、愛してくれた人たちを傷つけない言葉を。
自分を捨て置いた彼らへの遣る瀬無い憤りや哀しみを押し殺して。
カップの中のココアが無くなった頃、アイは深い深呼吸をして、再び口を開いた。
「今でもみんなにはとても感謝しています。こんな手の掛かる子をここまで育ててくれたんですから…。それで、アマルさん、その、もし良ければ…私もここで暮らさせてもらえませんか…?」
「やっぱりそういう話になるのか…」
「やはり迷惑でしょうか…?」
「迷惑っていうよりも、この建物がボクのじゃないから、何とも言えないんだよね…」
ははは、とアマルは力無く笑う。
朽ちかけていた掘っ建て小屋をある程度手直ししたのはアマル自身なのだが、掘っ建て小屋自体の元々の主人は何処の誰とも知れない。
一応ここら辺を取り仕切っているらしい虎の魔物娘に許可はもらっているが、それらしい人物に返せと言われれば、返さぬと言うわけにもいかないだろう。
そんなアマルの反応にアイはがっくりと肩を落とす。
「そう、ですか…」
「でも、まぁ、良いんじゃないかな」
「えっ…?」
空になったカップを置くと、アマルは得意げにふふん、と鼻を鳴らす。
「返せと言われれば返すけど、言われぬなら返さぬ。…なんてちょっと虫が良すぎるかもしれないけど、そうやって何年もここで暮らしてきたんだから。一人増えたからって、急にこの家が不機嫌になんかならないでしょ」
「ということは…」
「長いか短いかは知らないけど、これからよろしくお願いね」
態とらしく深々とアマルが頭を下げると、それに倣いアイも慌てて頭を下げた。
そして、優しく微笑みかけると、そんな微笑みにつられて、アイの表情も自然と緩んだ。







心の中がふわふわと心地良くなるのと同時に、そんな心地良さを消し去りたいと思うボクもいることに気づいていた。
このままじゃいけない…。
このままいけばきっと、またあの苦しみの中に戻ることになる…。
…分かってる。
でも、ボクはボクを止めようとする手を、乱暴に振り払った。










「えっと、じゃあ、おやすみ…」
「…お、おやすみなさい」
顔のところどころに出来た切り傷を痛そうに撫でながら扉を閉めるアマルに、アイは小さな声で返事をする。そして、扉が完全に閉めるとアマルは深い息を吐いた。
迂闊だったというべきか、自身の不注意と安易な考えが招いたことか、どちらにしても
アイには酷く恥ずかしい思いをさせてしまった。
「そうだよねぇ…。お風呂なんか入れる訳ないよね…」
思い出すだけでも顔が一気に熱くなる。
もちろん、体や頭を洗うのではなく、お風呂と湯船に出入りするのを手伝っただけだが、日焼けしていない白く柔らかな肌、女性特有の何とも言えない優しい香りのせいで、どんなに固く目を瞑っていても、意識せずにはいられなかった。
もっとも、その固く目を瞑り過ぎたせいで、余計なところを触ってしまい、顔に切り傷を負ったのは当然といえば、当然の仕打ちなのだろう。
「…少し痛いから、傷薬塗っとこ」
出血こそ止まりはしたが、未だずきずきと痛む傷を手当をしようと、アマルはすぐに自室へは行かず、傷薬などが置かれたリビングへと向かった。
小さな燭台に灯した微かな炎の明かりと外から入ってくる柔らかな月光を頼りに、何とか傷薬を探り当てる事が出来た。
近くの椅子に腰掛け、鏡も見ずに痛む箇所に適当に薬を塗りつけていく。
鏡を見た方が怪我の全貌も分かり、薬も塗りやすいのは分かっているが、こんな暗がりではさすがによく見えないはずだ。
それにアマル自身、自分の顔を見るのが苦手だった。
むしろ、嫌い、気に入らないと言ってもいいかもしれない。
だって、自分自身の汚れた顔を見たくない、理由はたったそれだけだった。

コロン…!
ある程度傷薬を塗り込み、そろそろ部屋へと戻ろうと燭台を持った時、家の中で高い音が鳴り響いた。
何だろう、何か落ちたような音だけど…。
しばらくその場で考えてると、すぐにアイのことを思い出した。
もしかしたら、彼女が何かを落としてしまったのかもしれない。いや、きっとそうに違いない。
そう考えよう、少なくとも今夜中は…。
アマルは足早にリビングから離れ、飛び込むようにアイの部屋へと入った。
「どうし…」
口を開きかけたアマルだったが、窓際のベッドの上で苦しそうに胸を押さえるアイの姿が、月光によってありありと照らし出されているのを確認するとすぐ駆け寄った。
「大丈夫…!?」
「はぁ…はぁ…!」
アイはアマルの質問に答えるように何度も頷く。
でも、誰が見ても大丈夫なはずはない。
息も絶え絶えになり、額には大粒の冷や汗が滲んでいる。何か足以外にも重い持病があるのだろうか、それとも、夕食に悪い物でも入っていたのだろうか。
アイが苦しんでいる理由を考えるばかりで、何をすべきなのか、何をしてあげれば良いのかを考える余裕が、アマルにはなかった。
「はぁ…はぁ…」
「大丈夫…?」
ある程度、アイの様子が落ち着くのを待って、アマルは静かに尋ねる。
「は、はい…。大丈夫…です…」
深呼吸を繰り返し、未だ少し苦しげに胸を押さえながらも、アイは引きつった笑顔をアマルに向ける。
「…ごめんなさい。余計な心配を掛けてしまって…」
「ううん、ボクは大丈夫だけど…。アイは本当に大丈夫…?」
「はい…。本当に大丈夫です…」

…嘘だ。
顔色の良くないアイの顔を見ればそんなことはすぐに分かった。
でも、アマルは悩む。
ボクにこれ以上何かできることはあるのだろうか?
ボクが何かをして良いのだろうか?
ボクのお節介が彼女を傷つけはしないだろうか?
ボクは…。

「あ、あの、アマルさん…?」
「…えっ?」
臆病風に吹かれ、情けない思考に囚われていたアマルははっと意識を取り戻す。
気がつくと、アイが心配気にこちらを見上げていた。
「大丈夫ですか…?ぼーっとしていたようでしたが…?」
「あっ…あぁ、うん…。少し、眠いのかも…」
「でしたら、早く休んだ方が良いと思います。私のことは大丈夫ですから…」
「う、うん…。じゃあ…」
アイに薦められるままに、アマルは扉へと振り返る。
このままじゃいけない。
本当はそうは思いつつも、アイ自身の言葉を信じたかった。
そうやって、自分に非は無いと、彼女の言った通りにしたと、責任や失敗から逃れたかった。
アマルは重い足を引きずる様に前へと一歩進める。
「ひゃっ!?」
しかし、突如足裏に感じた冷気と異質な感触にアマルは悲鳴をあげる。
慌てて足元を確認すると、ベッドのサイドテーブルに置いておいたはずのコップと、その中身であろう液体が周囲を濡らしていた。
「コップ…?」
「あっ…。ごめんなさい…。あまりに苦しかったので、頂いたお茶を飲もうと思って手を伸ばしたのですが、うまく取れなくて…。本当にごめんなさい、床を濡らしてしまって…」
「あぁ、さっきの音は…。大丈夫だよ、これくらい。すぐに拭いちゃえば」
そっとコップを拾い、少し濡れてしまった足裏をズボンで拭くと、アマルは雑巾を取りに再びリビングへと向かった。

コップを軽く洗い、冷めてしまったお茶を注ぐ。ついでに、自分の分のお茶を別のコップに注ぎ、一気にそれを飲み干した。
一杯では足りず、二杯、三杯と。
喉が潤うと、自然と頭の中もすっきりした。水分が臆病風と情けない思考を洗い流してくれたかの様だった。
暗がりのリビングの中、アマルは雑巾を探しながら、また先ほどのアイについて考えた。
何故あんなにも苦しがっていたのだろう?
何か足以外の別の病だろうか?
何か悪い食べ物を食べさせてしまっただろうか?
それとももっと何か別の…?
アイが苦しんでいた原因を考えながら、月光の届かない薄暗い棚を一段一段弄っていると、やっと雑巾らしい、薄っぺらく、ふわふわ感の全く無い手触りの何かを探り当てる事が出来た。
アマルはそれを引っ張り出し、明るい窓辺でそれが本当に雑巾かを確認する。
「あっ…」
つい、声が出てしまった。
それだけ、意外なものだったのかもしれない。
それだけ、見つけたくないものだったのかもしれない。
それだけ、隠していたいものだったのかもしれない。
それだけ、愛しいものだったのかもしれない。
それは一枚の小さなハンカチ。どこもかしも不器用に縫い直された、ボロボロなハンカチだった。

冷たい…。
何処からか滴り落ちてきた雫がボクの手を濡らした。
その雫は止めどなく落ちてきて、どんどんと手や手を伝って落ちた床を濡らした。
そして、その雫がボクの自身の涙なのだと気がついたのは、とても長い時間がかかった気がした。

「もう寝ちゃった…?」
恐る恐るアマルは静かに扉を少しだけ開ける。
「い、いえ、まだ起きてます」
先ほどよりは気分がマシになったのか、ベッドに背をもたれ掛からせたアイがすぐに返事を返してくれた。
「ごめんね、遅くなって…。はい、新しいお茶」
「あっ、ありがとうございます。頂きます」
受け取ったコップに入ったお茶をゴクゴクと飲むアイを横目に、アマルは濡れた床を拭いていく。
染み込んでしまったかと思ったが、実際はそこまで酷くはなく、明日からしっかりと陽を差し込ませれば十分乾きそうだった。
「あの、ごめんなさい…。厄介ごとばかり起こしてしまって…」
「大丈夫だよ、これくらい」
コップを膝に乗せ、俯くアイにアマルは告げる。しかし、アイの横顔はまだ浮かない。
本当だったら、もっと明るく笑いかけてあげられれば、アイも少しは気持ちが解れるんだろうけど、今のアマルには出来そうになかった。
「それより、さっきは大丈夫?具合が悪かったの?」
「…具合、という程のことではないんです。ちょっと、気分が悪くなって…」
「…それって、やっぱり今の状況が原因?」
「…」
アマルの嫌な問いにアイは答えなかった。ただ、俯いて目をきつく瞑るだけだった。

やっぱり、そうだよね…。
アイの反応はとても自然で、正直だと思う。
肯定しないのは、ボクや大切な家族に、不満を露わにすることになるから。否定出来ないのは、アイの正直な性分が原因なんだろう。
優しくて、正直で、強い心。
やっぱり、この子は彼女に似ている…。

アマルは近くの椅子を引き寄せ、そこに座った。
「…アイはさ、もう寝る?」
「えっ…?」
アマルの突拍子もない質問にアイは不思議そうな顔を向ける。
「ボク、なんだが、すごく目が冴えちゃんだよね」
「えっ、でも、さっきは眠そうで…?」
「あぁ…えっと、さっきはそうだったんだけど…。雑巾を取りに行った時に間違えてコーヒーを飲んじゃって…」
「そ、そうなんですか…。私はまだ眠くはありませんが、何かしましょうか?」
「う〜ん、じゃあ、今度はボクの話を聞いてよ。さっきはアイの話ばっかりで何も教えられなかったからさ?」
「そういえば、そうでしたね。はい、分かりました」
アイは背筋を伸ばし、しっかりと態勢を正して、アマルの方を向く。
「あっ、いいよ。体は横にしてて。あんまり畏まって聞くような話でもないからさ」
「でも…」
「い、いいからさ…!」
アマルは強引にアイを寝かせる。アイは少し驚いたような表情をしたが、特に抵抗することもなく、静かに体を横にし、アマルの方を見上げてくれた。
そんなアイの優しい視線がどこか気恥ずかしく、アマルは天井や月光に照らされる外の風景を見ながら、他愛もない自身のことを語った。
相槌も、合いの手も要らない。
ただ、自分が自分であることを思い出すための、つまらない話を。
アイが眠るまでの間、ずっと…。











アマルが寝坊せずに起きれたのは、最近の朝の涼しさのせいだろう。
もっとも、正確に言うならば、日中との気温差が激し過ぎる為に、朝が少し寒く感じてしまうのが原因なのだが。
まぁ、どちらにしても、寝坊もせずに起きれたのはありがたいことだった。
アマルは軽くベッドを整えると、寝間着姿のまま、アイの元へと向かった。
「起きてる…?」
控えめなノックに応答はなかった。まだ寝ているのかもしれないとは思いつつも、扉を少しだけ開き、極力音を立てないように気をつけて、静かに部屋に入った。
カーテンからは優しげな朝日が透けて通り、部屋の中を柔らかく照らしている。
ベッドには静かに寝息を立てるアイの姿があった。周囲の物や、ベッドが乱れていないことから、あの後、また具合が悪くなる様なことはなかったらしい。
良かった、でも…。
そっと胸を撫で下ろす一方で、小さな不安が芽生えた。
アイの寝相はとても綺麗だった。両手はお腹に置き、頭はピクリとも動かない。まるで死んでしまっているかの様に、静かに眠っている。
足を動かせないアイにとっては、寝返りを打つことさえ困難なのかもしれない。それ故に、動こうにも動けないから、自然と寝相が良いように見えてしまうだけなのかもしれない。
そう思うと、アイの背負っているものがいかに重いものなのか、少しだけ理解出来た気がした。

もちろん、アイの悲しみや苦しみまでは分からないけど…。

「…ぅ、うぅん…?」
アイの、特に足の様子を伺っていると、不意に体がピクリと震え、アイの目がゆっくりと開き始めた。
「あっ、おはよ…。ごめんね、起こしちゃった…?」
「ぁっ…、おはようございます…。大丈夫、です…」
開き切らない寝惚け眼をこちらに向け、やんわりとアイは微笑む。
「ごめんね、起こして…。何かした方が良いのか、分からなくって…。何も必要ないなら、また寝ててくれて大丈夫なんだけど…」
「心配してくれて、ありがとうございます…。でも、起き上がるのは一人で出来るので大丈夫です…」
「そっか…。ごめんね、起こしちゃって…。じゃあ、ボクは朝ごはん作ってくるから…」
「あっ、ま、待ってください…!」
椅子から立ち上がろうとするアマルの手を、慌てて起き上がったアイの温かい手が捕まえた。
「あ、あの…その、す、凄く恥ずかしいんですが…」
「う、うん…」
「そ、その、と、と…トイレに連れて行ってください…!」










「ご飯できたよ…?」
食欲唆る温かな朝ごはんを目の前に並べるが、アイは顔を上げようとしない。変わらず渡した濡れタオルに顔を押し付け続けている。
やはりトイレに連れて行ってもらうというのが、とても恥ずかしかったらしい。
歩けないのだから仕方がないとはいえ、このままでは、自分以上にアイの不都合があまりに大きい。
う〜ん、どうしよう…?
アマルは朝食のことも忘れて、アイがどうすればここで快適に過ごせるのかを、目を瞑って考えた。
歩けないなら、這って移動する…。いや、だめだめ、体が汚れるし、木の棘が刺さる可能性だってある…。
なら、家全体に手すりを付けるのは…。う〜ん、アイがどれくらい足を使えるか分からない。でも、きっと、木にしがみついてた昨日様子を見ると、ほとんど使えないんだろうな…。
う〜ん、じゃあ…。
「あ、あの…」
ああでもない、こうでもないと、一人思案に暮れていると、不意に小さなアイの声が聞こえた。
「えっ…あっ、なに?」
「ご、ごめんなさい…。朝ごはん作って、運んで来て頂いたのに、すぐにお礼も言えなくって…」
「あぁ、ううん、大丈夫だよ。それより、ちょっとだけ聞いてもいいかな?」
「は、はい、何でしょう?」
若干まだ顔がほんのり赤らむアイに、アマルは以前の暮らしについて尋ねた。
昨日の今日で、また家族のことを思い出させるのは酷だと分かっていたので、可能な限り浅いことだけを。
「そうですね、あっちにいた時には、基本的にずっと家のベッドで過ごしていました…。トイレとかお風呂は家族に手伝ってもらっていました。歩けるように努力もしてみましたが、家族に禁止されてしまって…。人様に見られたら世間体が、とかで…」
「そっか…」
悲しげな苦笑いを浮かべるアイにアマルは上手く返す言葉が見つからなかった。
昨日の今日で、また家族のことを思い出させるのは酷だと分かっていながら、またアイに嫌な思いをさせてしまった、不甲斐ない自分自身が情けなかった。
でも、アイの以前の暮らしが、良くも悪くも他人に大きく依存した生活だったのだということは分かった。
問題は、アイにとって赤の他人である自分がその代わりになれるのかということと、アイ自身がそれを望むのかということ。

…でも、たぶん、アイはそんなこと望んでなんかいない。
だって、昨日、アイは家族に無理をさせていたのではないかと、とても後悔していたのだから。
それなのに、またボクが要らない世話をすれば、アイをまた苦しめることになる。
なら、やっぱりアイが一人である程度のことが出来るように手助けする、それくらいが限度かな…。

「ごめんなさい…。朝から暗い話をしてしまって…。朝ごはん、いただきませんか…?」
「…うん、そうだね」
アイの無理をした笑顔に、自分でも分かるくらい引きつった笑顔を返すと、アマルは たちは黙って朝食を食べ始めた。
結局、アイがどうすれば快適に過ごせるのかは分からずじまいだった。







朝食を食べ終え、昨夜と同じように、食後のココアを飲みながら休憩を取っていると、玄関の扉が遠慮のない力任せなノックで揺れた。
麓近くにあるとはいえ、こんな小屋まで来る者は自ずと限られてくる。それに、あまり常識的な力加減でないノックから察するに、誰が来たかはすぐに分かった。
「はい、はい…。すぐに開けます」
おそらく力自慢の魔物娘が多いこの山ではほとんど意味がないであろう鍵を外し、扉を開けると、そこにはやはり、肩に籠を背負う、黄金色に黒い線を引いた様な独特な模様が両手足に目立つ“虎”が立っていた。
「珍しいな、お前がこんな時間に起きているとは」
「今朝は寒かったですから、自然と目が覚めただけですよ。タイガさんこそ、どうしたんですか?」
「ん…」
人虎の魔物娘、タイガはアマルの質問には答えず、肩に背負っていた籠を差し出した。
「これって…」
「お前のだろ?」
籠の中の野草などは、確かに昨日アマルが友人とともに採り集めたものだった。
そういえば、昨日はアイを連れて帰る為に、仕方なく木のそばに置いてきたはずだ。おそらくそれをタイガが見つけて持って来てくれたのだろう。
ありがとうございます、と礼を言おうと頭を下げようとすると、タイガはアマルを横に退かしていつもの様に家の中に押し入る。
基本的には物静かで、凛とした佇まいと体つきは美しいのだが、ノックの件にしても、どこか非常識というか、無遠慮なところがあるのがたまに傷だ。
もっとも、街などで好ましく思われているような常識的こそが正しいと思えないアマルにとっては、たまにその非常識さが清々しく感じる時もあるのも事実だった。
「籠、ありがとうございました。あぁ、そうだ。この人はタイガさん。この辺を取り仕切ってる魔物娘だよ」
「あっ…。は、初めまして、アイです…」
アマルの声に一テンポ遅れて、アイは慌てて頭を下げる。
しかし、タイガはちらりとアイの方を見ただけで、特に会釈を返すこともなく手を洗いにキッチンへと歩いて行く。
少し冷たい感じもするが、食料を持って来てくれたりと、色々と良くしてくれる魔物娘なのは確かだ。しかし、そこまで誰かに固執したり、素性を根掘り葉掘り聞く様な魔物娘でもない。
優しい隣人程度にアマルは思っているが、会釈も返されないために困惑した表情を浮かべているあたり、初対面のアイには少し印象が悪かったのかもしれない。
アマルはくっきりと床についたタイガの足跡を雑巾で拭きながら、追いかけ、静かに服を引っ張った。
「挨拶くらい返して下さいよ」
「他人の家に入ったらまずは手を洗うこと、そう言ったのはお前のはずだぞ?」
「本当に融通が利かないんだから…。じゃあ、足も洗って、これでちゃんと拭いて下さい」
「ん…」
タオルを渡すと、タイガは手足に残った水滴を丁寧に拭き取っていく。
「それで、この子は何者だ?」
手足を拭いたタオルをアマルに返すと、タイガはずんずんとアイに歩み寄る。そして、おもむろにその首筋に顔を近づけ、クンクンと匂いを嗅ぎ始めた。
「随分と人臭いな…。アイといったな、その姿になったのは最近か?」
「は、はい…。昨日だと思います…」
「そうか…。すまない、噛んだワーウルフを悪く思わないでくれ。あの子たちもいわば本能的に人間の女性を噛んでしまうんだ。少しでも魔物娘を増やそうとしてな」
「…分かっています。だから、この山に置いていかれたんですから…」
昨夜の様に胸を押さえ、アイは苦しげに俯く。そんなアイの背中を優しく撫でながら、タイガはアマルの方を向いた。
「…どういう意味だ?」
静かではあるが、怒りの様なものを孕んだタイガの目つきに一瞬戸惑ったアマルだったが、アイの様子を伺いつつ、昨夜の話をタイガに話した。




「くだらんな」
変わらずアイの背を優しく撫でながら、タイガは吐き捨てる様に告げた。
怒りたくなるのも無理からぬことだと思う。どんな考えや策があったにしても、自分たちの娘を山に置き去りにしていくのは、やはり家族としての価値観を疑いたくなる。
でも同時に、静かに怒るタイガを見て、アマルは自分自身の価値観も疑っていた。

昨夜のボクはアイの話を聞いて、怒りを感じただろうか…?
アイの複雑な心境を察する様なことをしておきながら、共感しようとはせず、どこか冷たい眼差しでアイの話を聞き、納得していた、そんな気がする…。

「で、お前はこの子をどうするつもりなんだ?」
「当分はこの小屋で手助けしながら暮らしたいと、ボクは思っていますけど…」
「…」
タイガさんはアマルの目を見つめる。
怒気こそないが、その鋭い眼光は、まるで心の奥底まで覗き込むかの様に鋭いものだった。
ざらざらとした不快感と、息苦しさで視界がぼやけ始めたアマルは、そっと目をタイガから背ける。
「…まぁいい。だが、全く歩けないとなれば、相当にお前も大変なはずだ。一日中連れ添っているつもりか?」
「…ちょうどそれに悩んでいたところなんです。ただ、あまりいい方法が思い浮かばなくって…」
「そうか…。ちょっと待っていろ、聞いてくる」
「聞いて…えっ?」
誰に何を聞きに行くのかを尋ねる前に、タイは風の様に小屋を飛び出して行った。
優しい魔物娘ではあるのだが、やっぱりいまいち何を考えているのか分からない。でも、その行動力が、一度たりとも裏目に出たことがないのは、アマルにはとても羨ましかった。
「あ、あの…」
開け放たれた扉が、朝の爽やかな風で揺れるのを呆然と見つめていると、おずおずとアイが話しかけてきた。
「…先ほどはありがとうございました。私の代わりに話をしてくれて…」
「ううん、むしろ、勝手に話しちゃってごめん…」
「いえ、大丈夫です。タイガさん…でよろしかったでしょうか?とても優しそうな方でしたし」
「うん、優しい人だよ。ちょっと、変わってるけど…」
「ふふっ、確かにそうかもしれません」
小さく微笑むアイにつられて、アマルも自然と頬が緩む。
「そういえば、私の生活のために色々なことを考えていてくれたのですか?」
「うん、一応、ね…。でも、あんまりいい方法が考えつかなくって…」
開け放たれた扉から入ってくる風が心地よいため、扉はそのままに、ボクは席へと戻って、先ほどまで考えていたことをアイに伝えた。
「私としては、手すりを付けていただけるだけでかなりありがたいのですが…」
「でも、手すりだけじゃ、転んだ時が危ないよ。手すりを付けるなら、床全面にも何か敷き詰めないと…」
咄嗟に手がつければいいが、顔などを強く強打しては意味がない。それに、どの程度足が動かせるのか分からないが、足が絡まったりしたら大変だ。
「そこまでしなくても、私は大丈夫だと思いますが…?」
「う〜ん、でもやっぱり心配だよ…。もう少し待って、いい案が他にも…」
「はい、わかりました。ふふっ…」
口元に手をやり、アマルが真剣に考えようとすると、アイは小さく笑った。
「…何か変だった?」
「あっ、いえ、そうではないです。ただ、こんなにも私のことを考えてくれるのが嬉しくて…」

ズキンと胸が痛む。
また悪い癖が出ていた。
人が望んでいるかも分からないことを、自己満足のためにまたしようとしてしまっていた。

「迷惑だった…?」
アマル不安げな問いにアイは静かに首を横に振る。
「そんなことありません。むしろ、とてもありがたいです。ただ、私なんかの為に無理はしないでください」
「うん、わかった。…でも、嫌だなって思ったらすぐ…「待たせたな」」
不意に聞こてきた声に、玄関の方を向くとそこには、車輪がついた何かを肩に担ぐ、タイガさんが涼しそうな顔で立っていた。
「どこに行っていたんですか?あと、それは…?」
「医者から借りてきた。“車椅子”とかいうらしい」
先ほどと同じように手足を洗いに行くタイガさんにタオルを渡すと、アマルは床に降ろされた車椅子に近づいた。
あまり質が良いものとは言えない。車輪は所々錆びついているし、布地はボロボロ、こんなものを一体何に使うのだろうか。
「車椅子ですか…。私も実物を見たのは初めてです…」
「これを知ってるの?」
車椅子を近くまで押していき尋ねると、アイは頷いた。
「はい、といっても話に聞いただけなんですが、何でも、私みたいに歩けない人たちを助ける福祉用具らしいです。でも、とても高価らしくて、私は使うことができませんでした」
「ふ〜ん…。それで、これはどう使うの?」
「えっと…確か、ここに座って、手で車輪を転がして動かすんだと聞きました」
アイはぽんぽんと布地は部分を叩き、ころころと手で車輪を転がして見せる。
「へ〜。あっ、これならアイにも安全に使えるんじゃ…!?」
「残念ながら無理だな」
アマルの期待を一言で打ち砕いたのはタイガだった。
「何故ですか?確かにちょっとボロボロですけど修理すれば…」
「誰もこれをやるとは言っていない。借りて来たと言っただろ?」
アマルが今まで座っていた椅子に座り、少し気だるげにタイガさんは告げる。
医者から借りて来たということは、街まで走って来たのだろう。さすがのタイガも少し疲れたらしい。
「数日の内に修理に出して、自分のところでまた使う予定だったらしいものを見本に借りて来ただけだ。さすがにあいつでも商売道具まではくれないらしい」
「そうなんですか…。ん?見本…?」
「そう、見本だ」
「…」
ふあぁ、とタイガさんは大きな欠伸をする。これ以上説明することもないだろう?
そんなことを言わんとしている態度な気がしてならない。
数日の内に修理に出すものを見本として借りて来た…。それは、つまり…。


これから数日は眠れない日々が続くことを意味しているのだと、アマルはやっと気がついた。










「できた…」
最後の部品を取り付け、ちゃんと動くかを確認すると、アマルは力なくその場にへたり込んでしまった。
二日間、ほとんど一睡もせずに作業を続けた疲れが今頃になって出てきたらしい。
作業中はまるで気にならなかったのに…。
工具箱に道具などを放り込みながら、壁の時計で現在の時刻を確認する。
短針が四と五の間にあるのは分かるが、長身は薄暗くてよく見えない。もっとも、その薄暗さから今が早朝なのであろうことは理解できた。
もう一時間もすればアイを起こしに行かなくてはいけない。
でも…。
固く冷んやりとした床に寝そべると、瞼が一気に重くなっていく。気を抜けば一瞬にして意識が消えてしまいそうだった。
いいや、このまま少し寝てしまおう…。
そう思った時、不意にアイのことが思い浮かんだ。
アイは困ったような笑顔を見せながら、少しづつ離れて行ってしまう。
待って…!
夢現の幻にも関わらず、アマルは手を伸ばす。しかし、アイには届かない。
それでも、さらに手を伸ばしたところで目が開く。
目一杯伸ばした手が掴んだのは車椅子の持ち手の部分だった。
不快な冷や汗と、激しい動悸のせいで眠気など消え失せたアマルは、出来上がったばかりの車椅子を押して、アイの部屋へと向かった。
音を立てぬように部屋へと入ると、アイはいつも通り静かに眠っていた。
アイがいる…。アイがそばにいてくれる…。
アイの姿を見ただけで、早鐘を打っていた鼓動は不思議と次第に落ち着きを取り戻し始めてくれた。
車椅子をベッドに密着させるように止め、その傍でアマルは横になった。
耳が痛いほどの鼓動が落ち着いていき、床と冷や汗が体全体を冷やしていくと、アマルの意識は抵抗することもなくすぐ眠気に支配されていった。






ちゅん…ちゅん…。
遠くの方で小鳥の囀りが聞こえる。
ほんの少し肌寒い感じから、まだ陽はそう高くまで登っていないようだ。
鉛の様に固く重い体を少しづつ動かし、意識を覚醒させていく。
気だるい頭を抱えながら体を起こして、アマルはいつの間にか毛布が掛けられていることに気がついた。
「あれ…?こんなの持ってきたっけ…?」
柔らかい毛布に軽く顔を寄せると、お日様とはまた違う、優しい匂いがし、ぼんやりとした頭が再び微睡みに引き込まれそうになる。
コンコン…。
再び体を横にしようかと思ったその時、控えなノック音が部屋に響いた。
大きな声を出すのが億劫だったアマルは、そっと立ち上がり、扉を開けた。
「あっ…」
扉の前には、少し驚いた表情を浮かべたアイが車椅子に座っていた。
「あっ、おはよう…」
「お、おはようございます…。体の方は大丈夫ですか…?」
「体…?」
何を言っているのか分からない、そんな様子で自身の体を眺めるアマルに、アイは苦笑いを浮かべた。
「まだ少し寝惚けていますね…。朝ごはんが出来たので一緒に食べませんか?」
「あぁ、うん。食べる…」
大きな欠伸を一つし、アマルは車椅子を少しぎこちなく動かすアイの後ろをついて行った。
リビングに来ると、食欲を唆る匂いが鼻を通り過ぎ、空腹のお腹を直接突いた。
「いい匂いだね…」
「見様見真似で作っただけなので、あまり自信はないのですが、そう言ってもらえると嬉しいです…」
頬を赤らめ、アイは照れくさそうに微笑むと、椅子をどかしたテーブルへと着いた。
アマルも急ぎキッチンへと向かい、眠気覚ましには少し冷た過ぎる水で顔を洗う。何度か顔に水を打ち付けると、ぼんやりとした意識が次第に鮮明になっていくと同時に、寝惚けた頭では気がつかなかった疑問が次々に湧いてくる。
「タオルいりますか?」
ふと顔を横に向けると、いつの間にかアイがタオルを差し出してくれていた。
「あ、ありがと…。あの、いつの間に車椅子に乗ったの…?」
「朝目が覚めたら目の前にあったので、それで乗ってしまいましたが…。もしかして、駄目でしたか…?」
「いや、一応完成はしているからそんなことはないんだけど…。使い勝手は悪くない?」
タオルで顔に付いた水滴を拭き取りながらアマルが尋ねると、少しぎこちない様子ではあるが、アイは車椅子をその場で一回転させて微笑んだ。
「大丈夫です。まだ上手くは扱えませんが、練習すればもっと快適に使えると思えます」
「そっか、良かった…」
アマルはほっと胸を撫で下ろす。
ほとんどを木によって作った車椅子だけに、耐久性や操作性に関して心配があったのだが、現状のところは特に問題はなさそうだった。
しかし、これで満足する訳にもいかないのも事実で、改善点は多くある。
ブレーキの固定化や、車椅子自体の軽量化、やすりがけによる手触りの改善などが主な今後の課題だろう。
もっとも、今くらいは完成の余韻に浸っても良いのかもしれない。
顔を拭いたタオルを片づけ、アマルとアイは席につく。
「「いただきます」」
二人揃い両手を合わせて、食事の挨拶し、いつもよりほんのちょっとだけ遅い食事を取り始めた。
アイが初めて作った朝食、それはとても温かく、優しい味がした。











さぁさぁ、と勢いこそ強いものの、粒自体は小さな雨が降る外を、洞穴から見つめ続けて、どれくらいが経っただろうか。
アイに叩き起こされた朝早くは天気が良かったのに、こんなにも急転するとは。
アマルはそっと振り返り、一人焚き木に当たって何かを読んでいる友人を睨んだ。
「雨男…」
「そんなことは…うん、そうかもしれない」
友人は一瞬否定しかけたが、しばらく何かを思い出すように首を傾げると、最終的には微笑みを浮かべて頷いた。
嫌味のつもりで言ったはずが、文句の一つもなくこうもあっさり認められてしまうと、意地悪を言う毒気を抜かれてしまう。
仕方なくアマルは友人と焚き木を挟んで腰を下ろす。
「何読んでるの?」
「ん?これ?点字の本」
「点字?」
友人は本をアマルへと渡す。
本には簡単な単語が書かれ、その下にぽつぽつと突起がいくつも並んでいる。
「これは…?」
「目が不自由な人でも分かる文字、それを勉強するための本、かな?」
「そうなんだ…。もう結構分かる?」
何故こんな本を読んでいるのか、そんな野暮な質問はせず、アマルは早々に本を友人へと返し、悪戯っぽい笑みを浮かべて尋ねる。
「う〜ん、正直あんまり…。妻や子供たちの方がずっと分かってると思う。この前なんか絵本の読み聞かせをしてて、一文字間違えただけで訂正されたし…」
「ははっ、しっかりしなくちゃ、お父さん」
「本当にね」
友人は困ったように微笑む。
歳はさほど変わらず、成人にも達していないのに、友人はひどく大人びている。
過去を詮索するつもりはないが、やはりどこか苦しいこと、悲しいことがあったのだろう。そして、それを乗り越えたからこそ、こんなにも大人びて見えるのかもしれない。
「そういえば、君はどうなの?例のアイちゃんとは?」
「どうって…」
不意の質問にアマルはすぐに答えることが出来なかった。
どうと言われても、出会ってから数年が経つが、これといった変化はない。共に一つ屋根の下で暮らしているが、家族の様に馴れ馴れしくも出来ないし、恋人の様に甘い生活でもない。かといって、いつまでも他人行儀で暮らしている訳でもなく、少しづつアイの堅苦しい言葉遣いが柔らかくなっている。

でも…。

「…まぁ、逆に良いことなのかもしれないね。変わらない平穏な毎日が送れる、もしかしたら、これが一番の幸せなのかもね」
言葉を忘れてしまったかの様に、ぼんやりと遠い目をして焚き木に見つめるアマルに、友人は独り言の様に告げた。
「…そうかも、ね。ごめん、先帰る」
「えっ、でも雨が…?」
唐突なアマルの言葉に驚き、友人は慌てて外の様子を見る。
雨粒は見えないが、入り口から少し離れていても聞こえるくらいに、雨は未だ激しく降り続いている。
駆け下りるにしても、麓の家までは距離がある。それに、雨で緩んだ地面を歩くこと自体かなり危険だ。
身を以てその危険さを知っている友人はアマルを止めようと立ち上がる。
しかし、伸びたその手を振り払って、アマルは洞穴を飛び出して行った。



身体中が重い。
服がありったけの水分を吸収し、靴やズボンに飛んだ泥が重りになっているのが原因だろう。
「落とさなくちゃ…」
家にやっと到着したアマルは、背負っていた籠を軒下に置き、雨水を貯めておくための壊れかけたタンクへと近寄った。
別に家の中が汚れても、綺麗に拭き取れば良いのだが、アイの車椅子を動かす支障になる可能性を考えると、安易に汚すことは躊躇われた。
捨てられていたぼろぼろのジョウロで水を汲み、それを靴やズボンにかけて、泥を洗い流していく。
冷たいという感覚はなかった。頭から流れてくる水滴や打ち付けてくる雨が身体中をずっと濡らしているために感覚がなくなってしまったのだろう。
手を使うこともなく、ただぼんやりと泥が洗い流されていくのを見つめていただけに、かなりの時間をかけて、アマルはやっと泥を洗い流した。
泥がどこにも付いていないかを再度確認し、アマルはそっと扉を開ける。
「ただい…」
扉を開けた瞬間、思考が止まり、此処が何処かを、自分が誰なのかを忘れてしまいそうなくらいの懐疑心に襲われた。
たった一ついつもと違うことがあっただけなのに。
ただ、知らぬ優しげな男が、いつも自分が座る椅子に座って、楽しげにアイと向かい合う様にして喋っている姿があっただけなのに。














お願いだから、もう近づかないで…!
アイした彼女の悲痛な叫びを聞いた瞬間、ボクの世界から色が消えた。
優しさ、気遣い、そして、愛。
あると信じ、疑わなかったものが消え、残されたものは空っぽなボク自身。
いや、本当は元から空っぽだったのかもしれない。
優しさも気遣いも愛も、ボクは元から持っていなかったのだろう。
ボクが持っていたもの、それはオモイヤサシサ、オモイキヅカイ、オモイアイ。
本物とは似ても似つかぬ紛い物。
生まれながら持っていたのか、成長して得たものなのかは分からない。でも、結局、紛い物を本物だと思い込み、他人に振りまいていた、その馬鹿な振る舞いは取り返すことも出来ない。

ボクはもう彼女には近づけもしないのだから…。

本物の優しさや気遣い、そして、愛が何なのか、ボクには分からない。
でも、それを知る勇気もなかった。
今までの自分を否定してしまうような気がしたから。
だから、ボクは、友人も家族も捨てて、そんなものを知らなくても良い世界に来た。
色褪せた世界に色を塗る努力をしようとはしなかった。ボクには一生理解出来ず、得ることも、望むことも出来ぬものなのだと決めつけた。

…でも、アイと出会ったあの時、ボクの世界に色が宿った気がした。

アイが彼女に似ていたのもある。でも、それ以上に、どこかボクと同じような感じに強く惹かれた。
気がつくと、彼女にしていたようなことを、アイにもしていた。
今頃になって思う。
ボクは自分の心をアイしているのに過ぎないんだ。
アイが望む、望まぬに関わらず、ボクが望んだことをアイに押し付けて、それなのに恩着せがましく、アイはきっとそばに居てくれるなどと、くだらない妄想を掻き立てていた。
おわりかな…。
アイと話していた男が誰なのかはよく分からなかった。ただ、アイは連れて帰るということだけはしっかりと聞こえた。
…それでいいのかもしれない。
紛い物を捨てきれなかった情けないボクを、本物を知る勇気のなかった臆病なボクが慰める。
きっと、アイも彼女の様に、いつかボクの紛い物を否定する。なら、お互いに嫌な思いをする前に、離れるべきだ。
だから、ボクはその場から逃げ出した。













雨脚は次第に強まり、数秒も外にいればずぶ濡れになってしまうような中を、風の様に駆けていたタイガはふと、とある臭いを嗅ぎ取った。
木を燃やした臭いだろうか。雨と土壌の独特な臭いに掻き消されてしまいそうな程弱々しく臭っているだけなのだが、どこか気になる。
この雨の中、山に火を放つような愚か者もいまい。だとすると、誰かが雨宿りの間に焚いた焚き火の臭いか何かだろう。
額から流れ落ちてくる雨と汗の混じった水滴を拭うと、微かな臭いを頼りにタイガはその臭いを辿って再び駆け出した。
臭いの根源らしい洞穴を見つけるのはそう難しいことではなかった。
最初は火の始末をしてすぐに立ち去ろうとも思っていたが、強まるばかりの雨に嫌気もさし、タイガは雨宿りがてら洞穴に飛び込む。
「お前…!」
洞穴に飛び込んだタイガは驚きの声を上げる。
消えかけた焚き火のそばに、ずぶ濡れで泥まみれのアマルが倒れ込んでいたからだ。
驚いたタイガだったが、すぐに冷静さを取り戻すと、うつ伏せに倒れたアマルを抱き起こす。
「おい…!どうしたんだ…!?」
体を密着させ、何度も体を揺すり、アマルを起こす。だが、やっと開いたアマルの瞳はとても虚ろで、まるで何も見ていないかのように、色褪せたものだった。
…この目を知っている。
この目は初めて出会った頃のアマルの目だ。
色の無い、生きているのか、あるいは死んでいるのかも判然としない。人間らしい多様な欲も、獣らしい生命への渇望もなくしてしまった、空っぽな目。
「…何があった?」
タイガは静かに尋ねる。
しかし、無意識に寒さで体を震わせる以外、アマルからの反応は何もなかった。










目が覚めると、見慣れた天井が広がっていた。
ここは自分の部屋だ。すぐにそう理解することが出来たが、あまりの頭痛と気だるさに目が回り、それ以上のことを考える余裕はなかった。
「起きたのか」
痛むうえに、とても熱い頭を押さえていると、ふと聞き慣れた囁き声が聞こえた。
アマルは気だるさと戦いながら、薄目を開けて、声のした方を見る。
そこには、長い毛布で全身を包んで椅子に座るタイガの姿があった。
「あっ…」
朝の挨拶をしようと、口を開きかけるアマルだったが、からからで、唾を飲み込むのも躊躇いたくなる喉からは思ったように声が出なかった。
そんなアマルの様子を察して、タイガは毛布を羽織ったまま近づき、そっとベッドへと腰掛けた。
「無理はするな。そんな熱では動くのも辛いだろう」
いつもと変わらぬ静かな口調でそう告げ、タイガはその柔らかな肉球でアマルの首筋や額に触れる。
「まだ熱いな…」
「ボ、ボク…」
「ん?」
「ボクは、どうしたんですか…?」
「…昨日のことは何も覚えていないのか?」
タイガの質問に、アマルは痛む喉を押さえながら頷く。
「そうか…。昨日、お前は洞穴の中で倒れていたんだよ。しかも、ずぶ濡れの状態でな。今の高熱はそのせいだろう。それで、ちょうどそこに立ち寄った私はお前を抱えて、家まで連れて来た。簡単に言えばこういう事だ」
「…」
タイガの説明を聞いて、アマルもある程度のことを思い出してきていた。
連れて来てもらったあたりの記憶はおぼろげだが、雨降る中洞穴まで無我夢中で走っていた時のことは覚えている。
しかし、いまひとつ何かが足りない。大事な何かを忘れている、そんな気がしてならなかった。
タイガに礼を言うことさえ忘れて、アマルはその何かを思い出そうと、気だるい頭を必死で動かす。すると、冷んやりとしたものが額に乗せられた。
「…今お前が考えていることの答えが分かった気がする」
「えっ…?」
タイガの方を見ようとするアマルだったが、冷んやりとしたタオルの上に優しく乗せられたタイガの手が、アマルの視界を遮った。
「でも、正直、お前にそのことを告げるべきなのか、悩んでいる。告げれば、また昔のお前に戻ってしまう、そんな気がするんだ」
「む、かし…?」
「…あぁ。空っぽなお前に戻ってしまいそうなんだ」
「空っぽ…?ボクは、今も空っぽですよ…。ずっと、ずっと、空っぽです…」
「…そうか。なら、もう私の出る幕ではないな」
タイガの手がタオルから離れる。だが、アマルはそのタオルを退け、タイガの顔を見ようとはしなかった。
ベットから立ち上がり、包まっていた毛布をアマルに掛けると、タイガは扉へと向かう。そして、静かに扉を開け、出ようとしたその時、軽くアマルの方へと振り返った。
「アマル、お前は優しい子だ。そして、その優しさや愛情は、必ずアイに伝わっているから、安心しろ」
母が子を宥めよる様な、そんな優しい口調で告げ、タイガは音も無く部屋を出て行った。
タイガは出ていくと、アマルは静かに泣いた。
タイガの優しい言葉が嬉しかったこともあるが、それ以上に、アイのことを思い出し、そして、そのアイがもういないのだと思うと、とてつもない寂しさや孤独感が一気にやって来たからだ。
昨日はしっかりと理解していたはずなのに。離れることを望んでいたはずなのに。だから、逃げ出したのに。
いざとなれば、こうしてまた一人で涙を流す、情けない自分がいる。
でも、引き止める勇気もなかった。引き止めて、もっと辛い別れが来るかもしれない恐怖にも耐えられなかったから。
だから、情けなくて、臆病な自分には、こんな惨めな格好がお似合いなのかもしれない。
嗚咽も漏らさず、ただ静かに止めどなく溢れてくる涙を流し続けていると、ふと、アマルの耳に聞き覚えのある音が届いた。
ころころ、ころころ…。
その音が何なのかはすぐに分かった。しかし、何故あの音が廊下から聞こえるのか分からなかった。
次第に近づいてくる音に、アマルの鼓動は早鐘を打ち始める。
そして、部屋の扉の前まで音が近づくと、こんこんといつもの控えめなノック音が部屋にこだました。
意を決して、アマルは目のあたりまで覆っていたタオルをずらし、扉の方を見つめた。
すると、開きかけた扉からこちらの様子を伺うアイと目が合った。涙でぼやける視界でも、それはアイだと確信できた。
「気がついたんですね…!」
アマルが起きていることに気がついたアイは、巧みに車椅子を動かし、テーブルや椅子などにぶつけることなくベットへと近寄った。
「具合はどうですか…?何かして欲しいこととかはありますか?」
「えっ、あっ…」
心配そうに見つめてくれるアイにアマルはうまく喋ることが出来なかった。アイはそんなアマルの頬や首筋に片手を当てがい、もう片方の手を自身の額へと当てて、熱を測る。
「…まだ熱いですね。タオルも少し乾いちゃってる…。待っててください、すぐに水を取り替えて、何か飲み物を持って来ま…」
額に乗せられていたタオルと水の入った洗面器を膝に置き、方向転換し始めるアイの手をアマルは弱々しく掴んだ。
何故手を伸ばしたのかはアマル自身よく分からなかった。もう会えないと思っていたアイがいつもと変わらない様子でやってきたことに驚いたからなのか、あるいは、熱による頭の混乱からか。
それとも、本心からなのか。
「どうしました…?」
驚きつつも、再びアマルの方へと体を向け、洗面器などを元に戻すと、その手を優しく包み込み、アマルを見つめた。
「どうして、ここに…?」
やっとの思いで出した声はとても掠れていた。
「どうして、とはどういう意味ですか…?」
「だって…。街に連れ帰るって…」
「あぁ、そうでした。アマルはあの後のことを知らないんでしたね」
「えっ…?」
目を丸くするアマルの額に、アイは濡れたタオルを置くと、どこか怒った様子で昨日のことを説明し始めた。
「アマルが飛び出して行ってしまった後、私は幼馴染の彼を追い返したんです。私は街に戻る気はありません、って」
「どうして…?」
「…アマルにとって、私はどんな風に見えますか?」
急な質問にアマルは困る。
どんな風に見えるか、といきなり聞かれても、熱でぼうっとする思考では、アイの意図するところも、求める答えも分からない。
「アイは、アイじゃないの…?」
「私は私ですか…」
しばらく考え込んだ末の答えにしては、アイはアイらしいなどと、あまりに投げやりで、陳腐な答えだ。
だが、自分の価値観を信じられないアマルには、こう答えるしかなかった。
アイの優しさや純粋さを疑っている訳ではない。アイは本当に優しく、純粋だ。
でも、過去に自分の価値観を押し付け、その後負った正当な傷が未だアマルの胸には残っていた。
「ふふっ…」
不甲斐ない答えしか答えられない自分が恥ずかしく、また涙が流れそうになった時、アイが静かに笑った。
「ここに残って本当に良かったです。やっぱり、アマルはあの人たちとは違います」
「えっ…?」
戸惑うアマルの手を、アイは優しく自身の頬へと導く。
「あの人も、きっと家族も、私は“異常”に見えていたんだと思います。生まれながらに歩けず、他人の力を借りなければ満足に生きれない、“異常”な子。だから、“普通”になってくれることをずっと望んでいたのだと思います」
「“普通”?」
アマルが尋ねると、アイは静かに頷く。
「はい。歩けないという“異常”な子から、歩けて他の子と変わらない“普通”な子。あの人たちが望んだのはそんな、“普通なアイ”。だから、あんなにも歩けるようになることに執着をして、昨日も、きっと歩けるようになるって力説していたんだと思います。でも…」
アマルの手を、頬から自身の足へと動かし、アイは柔らかく微笑む。
「でも、アマルはこんな私を、私として見ていてくれるんです。歩けないことを“異常”として見る訳でも、歩ける“普通”を求める訳でもなく。ただありのままの私を認めてくれた。だから、私はここに残りたかったんです」
「アイ…」
ここに残りたいという、アイの思いは聞き、素直に嬉しい気持ちが湧いた。しかし、同時にトラウマという古傷から恐怖心が滲み出してきたのも事実だった。
「それに、たとえ歩けなくたって、アマルが作ってくれたこの車椅子があれば、私も頑張れますから。だから、少しは私に恩返しをさせてください」
「違う…」
「えっ?」
不意にアマルは首を横に振り、また溢れ出した涙が頬を伝う。
「ボクは、アイに恩なんか売ってない…。優しくだってしてない…。車椅子をつくったのも、手すりをつけたのだって、ボクが勝手にやったこと…。アイの気持ちなんか考えず、アイが本当に望んでいるかだって分からないのに…」
「アマル…?」
「ボクには本当の愛も優しさも気遣いもない。ボクの行うことは、みんなボクが勝手に望んだことなんだ…。だから、お願い、恩返しなんか考えないで…」
静かに涙を流しながら、アマルはアイを見つめる。
自身の価値観を信じられなくなった原因に、オモイアイとその対価を望む心があったことに気がついたアマルは、自身の行いを常に疑い、監視する一方で、他者へ何かを望む心も殺しにかかっていた。
自分がこれだけのことをしたのだから、これだけのことを仕返して欲しい、そんな身勝手な浅ましい心を。
だから、アイに恩返しなどということを考えてほしくなかった。
自分の行いは愛情や優しさなどではない、それに応える必要などないのだから。
アマルの辛そうな表情に、アイは一瞬言葉を無くす。しかし、優しくその涙を拭い、アマルの両頬を包み込むと、出来る限り顔を近づける。
鼻が詰まっているからか、いつも感じるアイのいい匂いは分からなかったが、頬から伝わるアイの温もりと、顔にかかる吐息が、不思議とアマルの気持ちを落ち着かせた。
「勝手にやったこと…。アマルにとってはそうだったとしても、私にとってはとてもありがたくて、愛や優しさを感じることなんです」
「でも、彼女は…!」
「彼女…?」
「あっ…」
つい口から出てしまった。
「彼女って誰のことですか…?」
「…」
気恥ずかしさと、申し訳なさからアマルはアイの目を見つめることを避けた。
彼女とアイを比べることに意味など無いと、頭では分かっていても、心が常に基準としていたのは、いつも彼女だった。
彼女が最後に教えてくれた、オモイアイやオモイヤサシサの概念。それがアマルを縛り続けていた。
アマルの目線が外れると、アイはその手を頬から離し、また優しくアマルの手を握る。
「ごめんなさい…。言いたくないことなんですね…?」
「…」
「…さっきの話なんですが、アマルは、自分には愛や優しさがないと言っていましたよね?でも、そんなことは無いと私は思います。だって、アマルにそういったものが無ければ、私はここにいないんですから」
「それだって、ボクが勝手に…」
「確かにアマルの勝手です。でも、私はその勝手な行為を受け入れて、今、とても幸せなんです」
「…本当に幸せなの?」
おずおずと尋ねるアマルに、アイは力強く頷く。
「アマルの言う、本当の愛とか、そういう難しい話は私にはよく分かりません。でも、今の私はアマルの行いに優しさや愛を確かに感じるんです。…アマルは、私がそう感じるのも嫌ですか?」
「…」
アマルにはよく分からなかった。
愛や優しさ、気遣いは与えるものであり、決してもらうもの、ねだるものではないと教えられた。また、そもそも自分にはそんな本当の愛や優しさが無いことも。
紛い物しか持っていない自分が与えられるものは何も無いはず。
では、アイの言っていることは嘘なのだろうか…。
そうだ、アイはボクを慰めるために嘘をついているんだ。そう告げる臆病な自分と、そんなはずはない、アイがそう言っているのだから、きっとそうに違いない、と勇気を振り絞った自分とが対立する。
臆病でいれば、これ以上の痛みはもう感じずに済むかもしれない。しかし、本当にアイを失い、また色のない世界に戻ることになるだろう。
勇気を振り絞れば、過去の過ちを許し、また前に進むことが出来るかもしれない。だが、何も変わらず、また同じ過ちを繰り返して、今以上の苦痛を味わう可能性もある。
アイを信じるか、過去の彼女の言葉を信じるか…。
「…昔ね」
「ん…?」
「昔ね、好きな人がいたんだ…。アイみたいにすごく優しくて、可愛いらしい人だった。…でも、ボクは、彼女を傷つけた」
「…手を上げてしまったのですか?」
「気持ち的にはそれに近いくらいの圧迫感があったんだと思う…」
「何をしてしまったんですか…?」
「…アイにしたように、優しさや愛だと信じていた、自分勝手なことをし続けた。そして、彼女はボクから離れてしまった…」
「…」
「でも、その時のボクには、彼女の言っていることがよく分からなくて、何度も追いかけてしまった…。それで、最後に言われたんだ…。あなたのは“オモイアイ”だって…」
「オモイアイ…」
初めて聞く言葉だった。
世間というものにあまり触れることなく育ったアイには馴染みなどなく、言葉だけで理解することは難しかった。
しかし、どういう意味なのか、今のアマルには聞く気にはなれなかった。
静かに目を閉じ、頬と唇を微かに震わせながら、涙を流す彼には。
「…それで、その彼女さんとはもう?」
「…うん。それから、ボクはもう自分が信じられなくなった…。ボクの行うこと全てが自己満足で、彼女の様に、嫌がられることなんじゃないかって…。本当の優しさや愛がないなら、何もしない方が良いんだって思った…」
「アマル…」
「…ごめんね、くだらなくて、情けない話をして…。アイも、ボクのことが嫌になったら、いつ離れても良いから…。大丈夫、絶対、彼女みたいに追いかけて、迷惑はかけないから…」
アマルは話し終えると、何度か深呼吸をした。
つまらない話をアイに聞かせてしまったことへの申し訳なさはあったが、少し気持ちが軽くなった気がした。
話したくない、触れたくない過去ではあるが、かといって、一生隠すことが出来るほど、アマルは嘘が上手ではなかったし、一人きりで解決できる能力もなかった。
結局、誰かに話したかったのだ。話して、楽になりたかった。
アイに話すことで心が少し軽くなったアマルは、具合の悪さも相まって、また次第に眠気に襲われる。
涙の跡も拭かず、そのまま眠気に任せて目を瞑っていると、アイに撫でられていた手がお腹へと戻された。
部屋を出て行くのだろう、アマルはそうアイの行動からそう予測した。しかし、手を戻された後、車椅子の車輪が転がる音が部屋に響くことはなかった。
「うぇっ…!?」
「あっ、ごめんなさい!」
急にお腹に感じた圧迫感に、アマルは目を見開く。慌ててお腹の方を見ると、アイがお腹に乗っていた。
「く、苦しい…!」
「ご、ごめんなさい、すぐに退きますから!」
アイはそう言いつつも、車椅子へと戻ろうとはせず、逆になんとかしてアマルの体を越えようともがく。
何がしたいかはわからないが、一刻も早く圧迫感から逃れたかったアマルは、そんなアイの絡まりそうだった足を持ち上げて手助けする。
「はぁ、はぁ、ごめんなさい。重かったですよね…」
「だ、大丈夫…。でも、どうして…?」
添い寝でもする様な、すぐ横で体制を整えているアイにアマルが尋ねる。しかし、アイはすぐには答えず、優しい微笑みを浮かべると、そっとアマルの胸に頭を置くようにして抱きついた。
「ぎゅう…!」
「…っ!?」
あまりに突然の出来事にアマルは混乱し、石の様に身を固くするしかなかった。その間に、アイは手の力だけで、さらに体を寄せ、アマルを強く抱きしめる。
とくん、とくん、と早鐘を打っていた鼓動が落ち着くまで、二人は何も言わず、ただ静かにお互いの温もりを感じ続けた。
「…嫌でしたか?」
胸から頭を上げて尋ねるアイに、アマルは顔を合わせず首を横に振った。
「嫌じゃないよ。ちょっと驚いたけど。でも、どうして急に…?」
「…アマルと同じことをしたかったんです」
「ボクと同じこと…?」
「はい、アマルの気持ちなんか考えず、私がしたいと思ったことをしたかった。…アマルが彼女さん、そして、私にしたことと同じように」
「…ごめん」
「謝らないでください。さっきも言ったように、私はアマルのしてくれたことが嫌だなんて思っていません。…そして、アマルも今の私のしたことが嫌じゃない、そうでしたよね?」
「うん…。嫌じゃない」
「なら、それで良いんじゃないでしょうか?」
「えっ…?」
アマルが見つめると、アイは静かに微笑み、片手でアマルの頬を撫でる。
「アマルに本当の優しさや愛があるかは、正直私にはよく分かりません。でも、アマルがしてくれたことから、私は優しさや愛を感じている。…そして、それが全てなんだと思います」
「全て…」
「はい。アマルがどんなことを思って、その行動をしたとしても、私がそれをどう受け止め、どう感じるかは、私次第なんだと思います。だから、そんなに自分を卑下しないでください。そのオモイアイだって、きっと、アイには変わりはないはずでしょうから」
「ありがとう、アイ…!」
頬に触れる温かなアイの手にアマルも自身の手を重ねると、最後の涙を流した。












梅雨が明け、天高く登った太陽の光が、生暖かい風に揺れる竹の葉をすり抜けて来る。
「ふぅ…。暑いな…」
顎下まで流れて来た汗を拭いながら、タイガは早足で歩みを進める。
こんな暑い日に、熱風が吹き込む住処に篭っていては、余計に暑さを感じてしまう気がしたために、こんな風にパトロールという名の暇潰しをしていたのだが、やはり歩いていたとしても、暑いものは暑いと気がついたタイガは、とある滝へと向かっていた。
滝までもう少しのところまで来ると、子どものはしゃぎ声と、数人の話し声が聞こえて来た。滝と言っても、別段流れの激しいものではないため、声は良く聞こえる。
子どもの声は二つ、よく似ているが、姉妹か何かだろう。他は男が二人、女が二人。
「…やはりな」
滝を一望できるところまで、お得意の息を潜めてやって来ると、タイガは眼下の六人を見つめた。
滝では、二人の小さなウシオニが水を掛け合い、涼しげに楽しんでいる。その傍では、目を周りに布を巻いたウシオニと少年がしっかりと手を繋ぎながら、足を水に浸けてその様子を見つめていた。
そして、その対岸では、車椅子を側に置き、水面に腰を下ろして話すワーウルフの少女と少年がいた。
しばらく二人で遊んでいた小さなウシオニたちだったが、遊び相手を欲したのか、あちこちに水を掛け始め、そこに少年たちが加わり、負けじとあたりに水を撒き散らし、楽しげな悲鳴がより山にこだまする。
「ふっ、全く…」
眼下で繰り広げられる微笑ましい光景に、タイガが一人静かに頬を緩めていると、目の周りに布を巻いたウシオニが不意にこちらを見上げた。そして、静かに手を振ってきた。
タイガはそれに答える様に静かに手を振り、その場を離れた。
「…そろそろ、真面目に探すか」
再び汗を拭うと、タイガは静かに決意と覚悟を胸に宿して、足取り軽く去って行く。
そんなタイガを後押しする様に、二つの家族の声が背中からしばらく聞こえた。




読んでいただきありがとうございます。
随分、久々になってしまったため、物語の構造はもちろん、誤字、脱字が酷いかったかと思います、申し訳ありません。
またぼちぼち投稿させていただくので、よろしくお願いします。
[エロ魔物娘図鑑・SS投稿所]
まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33