前編
とある親魔物の国の、とある地方に、美しく穏やかな自然の緑と、同じく穏やかでやわらかい空気に囲まれた屋敷がある。
この屋敷は、この地方を治める領主の屋敷で、飾り気が少ないながらも、周囲の風景と相まって荘厳な雰囲気をかもし出している。
だが突如として、その雰囲気を打ち崩す様な高い大声が屋敷を揺らす。
大声を聞いた屋敷に仕える従者達は一瞬仕事の手を止めるものの、何事かと驚いたり慌てふためいたりする事は無く、一様に“またか”と言った表情をすると、すぐに何事も無かったかの様に各々の仕事に戻る。
何故ならこの大声は日常的な事で、一々気に留めていても仕方が無い事を知っているからだ。
そんな従者達の中、一度では鳴り止まない大声を聞いた一人の長身の男だけは、他とは違いうんざりとした表情で溜息とぼやきを一つ付く。
「いい加減にしてくれ……」
男は両手に抱えていた荷物を手近な場所に降ろすと、大声のする方へと全力で走り出す。
屋敷の廊下に飾られる調度品は、どれも高級な品物だと一目で分かる物ばかりで、外面の荘厳さが張りぼてでは無い事を物語っている。
だが昼間だと言うのに、廊下の窓の全てに陽の光を遮るカーテンが下ろされ、代わりに魔力の火で照らされているが、本物の陽の光に比べれば頼りなく、少しばかり不気味である。
そんな廊下の中を男が駆け抜けている間も、大声は鳴り止む事をせず、それどころかますますと大きくなっていくのは、男が声に近づいたからか、それとも声の音量が更に増したからか。
答えは、その両方だ。
「ギリー！ ギリー！！ どこにいるの？！」
何枚も壁を隔て、まだそれなりの距離もあると言うのに、まるで耳元で叫ばれている様な大音量。
ギリーと、廊下を走り続ける男の名前を呼ぶ女の声が、幼子の様なの高い音程の声だと言う事も要因だろう。
声の主がいる部屋の前へと辿り付いたギリーは、それなりの距離を全力で走った事で少しばかり上がった息を整えると、長身の自分よりも大きく厚い扉を三回叩き自分の名を告げ到着を知らせる。
この大声の中で聞こえるかどうか少しばかり不安になるが、ノックの音を聞いて、声はピタリと収まり、＂入りなさい”と言う先ほどの声と同じながらも、ぐっと音量の下がった返事が聞こえてくる。
「……失礼します」
「おそいわ！！ なにをやってたのです！？」
扉を開き、おずおずと部屋へと足を踏み入れたギリーを迎えたのは、今まで以上に大きな、文字通り爆音とも呼べる声。
ギリーが鼓膜に痛みを感じる程の大声の主は、煌びやかなドレスを着飾った、一見すると人形と錯覚してしまう程に小柄な少女だ。
まだ十にも満たない、一体何処からあの様な大声が出ているのか、不思議に思える程に華奢で可憐であった。
「申し訳ありません……ローズ様」
「そうおもうのでしたら、もっとはやくいらっしゃい！ しゅじんをまたせるだなんて、ぶれいですわ！！」
ギリーは自分が全速力で、それも期限を決められた仕事を取りやめてまで駆けつけた事を弁明せず、ただ黙ってローズと呼んだ少女の叱責に耐えている。
例えローズがギリーの事情を知ったとしても、考えを改めたり、彼を労わったりする事は無いのを、ギリーは十分承知していてる。
それは彼女が冷酷だからではなく、見た目相応に……いや、この地を治める領主の一人娘として生まれ、蝶よ花よと大切に育てられたせいで、他の同年代の子供以上にわがままに育ってしまった結果だ。
「……それはよしとしましょう。ギリー、わたくしのどがかわきました」
「あの、ティータイムにはまだ早い……」
「わたくしがティータイムと言ったら、じかんなんてかんけいないのです！」
「……分かりました」
ギリーはシャツのボタンを上からいくつかを緩め、首筋を露出させると、ゆっくりと片膝を付いて首筋をローズの顔の位置まで下げる。
彼の首筋には、いくつかの、見る者に痛々しさを覚えさせる傷跡が存在しているが、ローズはその事を気にする様子は無い。
「いただくわ」
ギリーの首に両手を回し、抱き付く様な体勢は、身長の差もあって父親や兄にすがりつく子供の様に見える。
だが実際はそんな生易しい物ではないのは、ローズがギリーの首筋に、人間にしては不自然に鋭い牙を突き立てている事から分かる。
ローズがギリーの首筋の傷跡を見ても何ら気にする事が無かったのは、その傷跡を付けたのは他ならぬ自分であったからだ。
立てた牙を沈めて肉を突き破り、その下に存在するやわらかくデリケートな血管を切り裂き、本来あってはならない出血を促す。
皮膚に空いた小さな穴から湧き上がって来る血液を、ローズはまるでキスをするかの様に傷口もろとも口に含め、その小さな舌で血を掬い、唾液と混ぜて喉を潤す様に吸い取っていく。
この様な猟奇的な行いをするローズは、人間の少女では無い。
正面からでは分かりづらいが、その背中に蝙蝠の様な形の、とても小さな翼が生えている事からも見て取れる通り魔物。
それも魔物の中でも上位の種族にあたるヴァンパイアだ。
ヴァンパイア、つまり吸血鬼にとってのティータイムとは、文字通り“人間の生き血”を啜る事である。
ローズはギリーの首筋から流れ出るその血を、一滴でも無駄にすまいと、拙いながらも一生懸命な舌使いで舐め取っている。
「んっ……おいしい、です……ギリー」
先ほどまでの怒りの表情や、高慢な姿は何処へやら。
今の彼女の表情は惚ける様にとろけ、ほのかに上気した頬の色と相まり、年齢に不相応な色艶をかもし出している。
ヴァンパイアに取って吸血とは、喉の渇きを癒すと同時に、強い快楽と性的興奮を得る行為でもある。
それは幼いローズとて例外ではなく、彼女も小さな心臓をバクバクと高鳴らせ、未発達の女性器が熱を持つのをしっかりと感じ取っている。
一方のギリーも、体を傷付けられている割には、痛みを感じている様子は無い。
もちろん最初の頃は、この吸血行為に対して恐怖や不愉快さを感じ、少なからぬ嫌悪感を抱いていた。
痛みが無いとは言え、自分の体を傷つけられ、自分の一部である血液を食されるの事を快く受け入れる者はいない。
それでも毎日、無理やりな形でローズに仕える様になって一月の間、幾度と無く繰り返された事と、吸血の度に微弱ながらも発生する小さく、奇妙な快感が悪感情を上書きする様に消していった。
「ん……ぁ……ごくろうさま。もうさがっていいわ」
吸血を終え、首筋から体を離すローズの表情には、先ほどまでの恍惚の感情は無い。
貴族である自分が、人間の前で醜態を晒すなどあってはならない事。
震える声を必死に声を落ち着かせ、性欲を押し殺し平静である事を装っている。
ヴァンパイアの吸血にその様な意味合いがある事を知らないギリーは、彼女が演技をしている事には気付かぬまま、残った仕事を片付ける為にさっさと部屋を後にした。
「ギリー……」
ギリーが去って、部屋にひとり残されたローズは、ふらふらと力なく、よろける様にベッドに腰を下ろす。
押し殺していた反動で息は荒く、呟いた声はまるで嬌声の様に甘く震えている。
ギリーが微弱ながら快楽を感じるのは、ヴァンパイアが吸血の際に少量だが自分の魔力を流し込む事によって、痛みを快感へと変換させているからである。
同時に、吸血する側のヴァンパイアに取って人間の血液は、性的な興奮を呼び覚ます媚薬の様な効果があり、吸血の後はどうしても体が火照ってしまう。
ローズもその例に漏れず――むしろ体の小ささも相まって、普通のヴァンパイアよりもはるかに興奮していた。
激しい疼きは彼女の小さな体を溶かす様に広がり、火照る体を慰めろと、今すぐギリーを追いかけて抱く様に求めろと、欲望が脳を強く揺さぶり訴えかける。
「ダメ……きぞくがにんげんにどきどきしては……」
だがローズはその欲求を激しく拒む。
ヴァンパイアの矜持に反する事だと、理性に強く言い聞かせる。
多くのヴァンパイアと同様、彼女も人間との交わりを忌諱すべき物だと考えている。
欲望とジレンマが、幼い胸の中でぐるぐると、複雑に渦を巻き、ローズを苛む。
「ギリーのばか。はやくにんげんなど、やめてしまいなさい」
人間で無くなれば、忌憚無く純潔を捧げ事が出来る。
幼い子宮を精で満たし、愛する彼の子を孕むと言う、魔物にとっての最上の幸福の訪れる日を待ち遠しく思いながら、この場に居ないにギリーに対して、理不尽で切ない恨み言が虚しく響いた。
・ ・ ・
その日の夜の事。
ローズは両親と食卓を囲み、一家団欒の時を楽しんでいた。
母ヴィルヘルミナは古くからこの地を収めていたヴァンパイアで、父のジョゼは、かつてヴィルヘルミナを退治する為に現れた元ハンターである。
二人の戦いの結果は、ローズと言う一人娘を生まれている事から分かる通りである。
打ち負かした、打ち負かされたと言う経緯があり、一家のヒエラルキーの頂点は母であり、父もそれに不服に思う事無く従っている――外面上は。
「ローズ。今度の週末に行われる社交界に、あなたも出ていいわ」
団欒の最中に母から告げられた言葉は、ローズに取って文字通り衝撃的な知らせであった。
貴族を自称するヴァンパイアは、社交界と称して同種間のパーティーを行う事が多く、ローズの母親は社交界でも華やかな存在として知られ、多くの貴族から羨望の対象となり、パーティに招待される事が多かった。
「それはほんとうですか！ おかあさま！！」
「えぇ……あなたにもぜひ参加してほしいと、今回の招待状に記されていたの」
だが母親が華やかな舞台に立つ一方で、ローズは幼い事を理由に社交界への参加を許されてはいなかった。
両親がパーティーに赴いている間、彼女は家で留守を命じられ、不満に頬を膨らませるばかりであった。
その反動だからだろうか、ローズは社交界と言う物にひどく憧れていた。
人づて、あるいは本を読んでは想像を巡らせ、自分が華々しい舞台に立つ日の事を強く夢見ていた。
「やった……わたくしもしゃこうかいにっ！ やったわっ！」
「よかったね、ローズ」
「よくはないわ……私は不安なのよ」
「ローズだって、本番ではちゃんとするよ」
「その楽天さは愚かよ」
念願かなった事で我を忘れて大はしゃぎをするローズを見て、苦笑いしながらも、彼女のその姿を可愛く思うジョゼと、不安に思うヴィルヘルミナ。
「まぁまぁ。社交界まではまだ時間もあるから、その間にしっかりと作法を学ばせれば良いじゃないか」
「はぁ……そうね、そうする他は無いわね」
「そうだわ！」
ローズは何を思い付いたのか、作法を教える段取りをしていた両親を少し驚かせる程の大きな声を出す。
「おかあさま、おとうさま。そのしゃこうかいに……」
ローズの提案を聞いたヴィルヘルミナは、今までで一番大きな溜息を付くと、明らかな難色を示す。
一方のジョゼは、ローズの提案を好意的に受け取り、彼女と共にヴィルヘルミナの説得に回る。
結果、二人のに押し切られる形となって、ヴィルヘルミナは仕方なしと認めるローズの提案を承諾した。
厳しい事は厳しいが、ヴィルヘルミナも結局は娘には甘いのだ。
「おかあさま！ おとうさま！ ありがとう！！」
ローズは嬉しさを再び爆発させると、止める間も無い勢いで部屋を飛び出していった。
「ジョゼ、あなたはローズを甘やかしすぎだわ。今回はあの子に社交界の空気を教える程度で十分よ」
「いいじゃないか。あの子はずっと我慢してたんだ。大目に見てやるべきだよ」
「……多めに見るその代わり、あなたにはいつもよりたくさん奉仕してもらいましょう」
両親のやり取りがそんなやり取りをしている頃。
ローズはバタバタと足音を大きく鳴らし、息を切らせる程の勢いで廊下を駆けていた。
豪奢な調度品が並ぶ廊下の先にある扉をくぐると、そこからは雰囲気ががらりと変わり、絨毯こそ敷かれているが調度品が一切配されていない、華の無い廊下が続くこの場所は、従者達が生活する場である寄宿舎である。
走る速度を緩める事の無いローズが、その勢いのまま飛び込んだ部屋は、彼女の寝室と比べれば、当然ながら幾分格の下がる部屋だ。
ノックする事無く、扉を壊さんばかりの勢いで飛び込んできたローズに、部屋の住人であるギリーは目を丸くする。
ローズの突然の来訪は、寝巻きへと着替え、布団に入ろうとしていたギリーのまどろんでいた意識を完全に吹き飛ばすには十分で、朝が早いギリーに取って迷惑この上無かった。
「な、何か……御用でしょうか？」
戸惑うギリーの様子と事情に構う事無く、ローズは得意気な顔のまま、ギリーのすぐ目の前、文字通り目と鼻の先の距離まで近づく。
「こんど、わたくしはしゃこうかいに、はなばなしくデビューしますの」
「はぁ……おめでとう、ございます」
満面の笑みを浮かべ、自慢するかの様にギリーに告げる。
それを言う為だけに来たのかと思ったが、表情を崩さないローズの様子からして、この話にはまだ続きが、それも自分に取ってあまりよからぬ話であると考える。
果たしてどんな理不尽な言葉が飛び出して来るのかと思うと、ギリーは気が気ではなかった。
「ギリー。あなたはわたくしのじゅうしゃです」
「えっ？ ……はい、そうですが」
ローズの改めて確認するかの様に問い。
意図がまったく読み取れないギリーは、小さく気返事するしか出来ない。
「じゅうしゃのはじは、わたくしのはじです。わたくしがはじをかかないためにも、わたくしとともにさほうをまなびなさい」
「……は？」
なぜ自分が社交界での作法を学ばねばならないのか。
無茶な注文を押し付けられる事は多いが、意味の分からない注文を付けられるのは初めてだ。
「自分は人間の従者ですから、社交界に出向いたりする資格は無いと思うのですが」
当然の疑問で、もっともな反論だ。
人間を見下すヴァンパイアが、華やかな社交界に人間の従者を連れて行くと言うのは、矛盾した行為だ。
「たしかにそのとおりです。ですがわたくしにはまだ、おっととなるかたがいません。このようなヴァンパイアは、かわりにじゅうしゃをとなりにたたせることになっているのです」
従者を隣に立たせる、つまり社交界にギリーを伴う。
これこそ、ローズが両親に提案した事である。
下賤な人間を隣に立たせるとは、ヴァンパイアの矜持に反する様な事に見えるが、この様な場合は将来の婿である男のお披露目をかねている。
後に男が貴族となった際に、ただの人間がどれほど立派になったかを推し量る為だ。
だがローズの様に、まだ幼いヴァンパイアには対しては別に適用する必要の無いルールだ。
両親と共に一人で参加しても問題は無い。
ヴィルヘルミナが最初反対していたのも、そう言う事情があるからだ。
一人でも構わないとは言え、社交界の舞台に赴くと言うのに、両親に付き従うと言うおまけの様な形ではあまりに寂しい。
たった一度しかないデビューの時を、出来うる限り完璧な形で行いたいと考え、母を無理やり説得したのだ。
だが何度も言う様に、ギリーはヴァンパイアに付いての知識が乏しい。
加えて、この様なヴァンパイアの間でのみ成立するローカルルールなど知りうるはずが無い。
つまるところ、自分はお飾りや引き立て役をさせられるのだと勘違いし、心の中で小さな怒りが芽吹く。
「あしたから、きびしくいきます！」
得意気な顔で、右手の指をギリーの方へと勢い良く向けて宣言する。
実際に指導するのは両親達で、自分もギリーと共に学ぶ身なのだが。
「それでは、おやすみなさい」
唖然と、そして不愉快な気持ちをするギリーを置いて、ローズは部屋を出て行った。
だがそのまま部屋に戻る事無く、閉じたギリーの部屋の扉に持たれかかり、どこか幸せそうな顔を浮かべる。
「ギリーといっしょに、しゃこうかいのおべんきょう……うふふ」
嬉しさと腹立たしさ。
ボタンの掛け違いの様な小さな誤解が、二人の心を隔てている事など、ローズは露とも知らない。
ローズの宣言通り、次の日からギリーは彼女と共に、ヴィルヘルミナとジョゼの授業を受ける事となった。
ジョゼはともかく、ヴィルヘルミナの授業の中は、彼女も人間を下賤と見ている事もあってかとても厳しく、仕事との両立で疲労するギリーの心身に堪える物だった。
彼のストレスと疲労の蓄積は、ローズやヴィルヘルミナを除いた誰の目にも明らかで、同僚達からは同情と気遣い言葉が、ジョゼからは妻と娘の無茶に対する謝罪といたわりの言葉を掛けられる始末。
みじめと感じてしまうこんな生活に、ギリーはどんな形でもいいから終止符を付けたいと考え過ごす様になるが、結局はどうする事も出来ず、ただ時間だけが過ぎ、ついにローズが心待ちにした社交界の日が間近に迫るのであった。
この屋敷は、この地方を治める領主の屋敷で、飾り気が少ないながらも、周囲の風景と相まって荘厳な雰囲気をかもし出している。
だが突如として、その雰囲気を打ち崩す様な高い大声が屋敷を揺らす。
大声を聞いた屋敷に仕える従者達は一瞬仕事の手を止めるものの、何事かと驚いたり慌てふためいたりする事は無く、一様に“またか”と言った表情をすると、すぐに何事も無かったかの様に各々の仕事に戻る。
何故ならこの大声は日常的な事で、一々気に留めていても仕方が無い事を知っているからだ。
そんな従者達の中、一度では鳴り止まない大声を聞いた一人の長身の男だけは、他とは違いうんざりとした表情で溜息とぼやきを一つ付く。
「いい加減にしてくれ……」
男は両手に抱えていた荷物を手近な場所に降ろすと、大声のする方へと全力で走り出す。
屋敷の廊下に飾られる調度品は、どれも高級な品物だと一目で分かる物ばかりで、外面の荘厳さが張りぼてでは無い事を物語っている。
だが昼間だと言うのに、廊下の窓の全てに陽の光を遮るカーテンが下ろされ、代わりに魔力の火で照らされているが、本物の陽の光に比べれば頼りなく、少しばかり不気味である。
そんな廊下の中を男が駆け抜けている間も、大声は鳴り止む事をせず、それどころかますますと大きくなっていくのは、男が声に近づいたからか、それとも声の音量が更に増したからか。
答えは、その両方だ。
「ギリー！ ギリー！！ どこにいるの？！」
何枚も壁を隔て、まだそれなりの距離もあると言うのに、まるで耳元で叫ばれている様な大音量。
ギリーと、廊下を走り続ける男の名前を呼ぶ女の声が、幼子の様なの高い音程の声だと言う事も要因だろう。
声の主がいる部屋の前へと辿り付いたギリーは、それなりの距離を全力で走った事で少しばかり上がった息を整えると、長身の自分よりも大きく厚い扉を三回叩き自分の名を告げ到着を知らせる。
この大声の中で聞こえるかどうか少しばかり不安になるが、ノックの音を聞いて、声はピタリと収まり、＂入りなさい”と言う先ほどの声と同じながらも、ぐっと音量の下がった返事が聞こえてくる。
「……失礼します」
「おそいわ！！ なにをやってたのです！？」
扉を開き、おずおずと部屋へと足を踏み入れたギリーを迎えたのは、今まで以上に大きな、文字通り爆音とも呼べる声。
ギリーが鼓膜に痛みを感じる程の大声の主は、煌びやかなドレスを着飾った、一見すると人形と錯覚してしまう程に小柄な少女だ。
まだ十にも満たない、一体何処からあの様な大声が出ているのか、不思議に思える程に華奢で可憐であった。
「申し訳ありません……ローズ様」
「そうおもうのでしたら、もっとはやくいらっしゃい！ しゅじんをまたせるだなんて、ぶれいですわ！！」
ギリーは自分が全速力で、それも期限を決められた仕事を取りやめてまで駆けつけた事を弁明せず、ただ黙ってローズと呼んだ少女の叱責に耐えている。
例えローズがギリーの事情を知ったとしても、考えを改めたり、彼を労わったりする事は無いのを、ギリーは十分承知していてる。
それは彼女が冷酷だからではなく、見た目相応に……いや、この地を治める領主の一人娘として生まれ、蝶よ花よと大切に育てられたせいで、他の同年代の子供以上にわがままに育ってしまった結果だ。
「……それはよしとしましょう。ギリー、わたくしのどがかわきました」
「あの、ティータイムにはまだ早い……」
「わたくしがティータイムと言ったら、じかんなんてかんけいないのです！」
「……分かりました」
ギリーはシャツのボタンを上からいくつかを緩め、首筋を露出させると、ゆっくりと片膝を付いて首筋をローズの顔の位置まで下げる。
彼の首筋には、いくつかの、見る者に痛々しさを覚えさせる傷跡が存在しているが、ローズはその事を気にする様子は無い。
「いただくわ」
ギリーの首に両手を回し、抱き付く様な体勢は、身長の差もあって父親や兄にすがりつく子供の様に見える。
だが実際はそんな生易しい物ではないのは、ローズがギリーの首筋に、人間にしては不自然に鋭い牙を突き立てている事から分かる。
ローズがギリーの首筋の傷跡を見ても何ら気にする事が無かったのは、その傷跡を付けたのは他ならぬ自分であったからだ。
立てた牙を沈めて肉を突き破り、その下に存在するやわらかくデリケートな血管を切り裂き、本来あってはならない出血を促す。
皮膚に空いた小さな穴から湧き上がって来る血液を、ローズはまるでキスをするかの様に傷口もろとも口に含め、その小さな舌で血を掬い、唾液と混ぜて喉を潤す様に吸い取っていく。
この様な猟奇的な行いをするローズは、人間の少女では無い。
正面からでは分かりづらいが、その背中に蝙蝠の様な形の、とても小さな翼が生えている事からも見て取れる通り魔物。
それも魔物の中でも上位の種族にあたるヴァンパイアだ。
ヴァンパイア、つまり吸血鬼にとってのティータイムとは、文字通り“人間の生き血”を啜る事である。
ローズはギリーの首筋から流れ出るその血を、一滴でも無駄にすまいと、拙いながらも一生懸命な舌使いで舐め取っている。
「んっ……おいしい、です……ギリー」
先ほどまでの怒りの表情や、高慢な姿は何処へやら。
今の彼女の表情は惚ける様にとろけ、ほのかに上気した頬の色と相まり、年齢に不相応な色艶をかもし出している。
ヴァンパイアに取って吸血とは、喉の渇きを癒すと同時に、強い快楽と性的興奮を得る行為でもある。
それは幼いローズとて例外ではなく、彼女も小さな心臓をバクバクと高鳴らせ、未発達の女性器が熱を持つのをしっかりと感じ取っている。
一方のギリーも、体を傷付けられている割には、痛みを感じている様子は無い。
もちろん最初の頃は、この吸血行為に対して恐怖や不愉快さを感じ、少なからぬ嫌悪感を抱いていた。
痛みが無いとは言え、自分の体を傷つけられ、自分の一部である血液を食されるの事を快く受け入れる者はいない。
それでも毎日、無理やりな形でローズに仕える様になって一月の間、幾度と無く繰り返された事と、吸血の度に微弱ながらも発生する小さく、奇妙な快感が悪感情を上書きする様に消していった。
「ん……ぁ……ごくろうさま。もうさがっていいわ」
吸血を終え、首筋から体を離すローズの表情には、先ほどまでの恍惚の感情は無い。
貴族である自分が、人間の前で醜態を晒すなどあってはならない事。
震える声を必死に声を落ち着かせ、性欲を押し殺し平静である事を装っている。
ヴァンパイアの吸血にその様な意味合いがある事を知らないギリーは、彼女が演技をしている事には気付かぬまま、残った仕事を片付ける為にさっさと部屋を後にした。
「ギリー……」
ギリーが去って、部屋にひとり残されたローズは、ふらふらと力なく、よろける様にベッドに腰を下ろす。
押し殺していた反動で息は荒く、呟いた声はまるで嬌声の様に甘く震えている。
ギリーが微弱ながら快楽を感じるのは、ヴァンパイアが吸血の際に少量だが自分の魔力を流し込む事によって、痛みを快感へと変換させているからである。
同時に、吸血する側のヴァンパイアに取って人間の血液は、性的な興奮を呼び覚ます媚薬の様な効果があり、吸血の後はどうしても体が火照ってしまう。
ローズもその例に漏れず――むしろ体の小ささも相まって、普通のヴァンパイアよりもはるかに興奮していた。
激しい疼きは彼女の小さな体を溶かす様に広がり、火照る体を慰めろと、今すぐギリーを追いかけて抱く様に求めろと、欲望が脳を強く揺さぶり訴えかける。
「ダメ……きぞくがにんげんにどきどきしては……」
だがローズはその欲求を激しく拒む。
ヴァンパイアの矜持に反する事だと、理性に強く言い聞かせる。
多くのヴァンパイアと同様、彼女も人間との交わりを忌諱すべき物だと考えている。
欲望とジレンマが、幼い胸の中でぐるぐると、複雑に渦を巻き、ローズを苛む。
「ギリーのばか。はやくにんげんなど、やめてしまいなさい」
人間で無くなれば、忌憚無く純潔を捧げ事が出来る。
幼い子宮を精で満たし、愛する彼の子を孕むと言う、魔物にとっての最上の幸福の訪れる日を待ち遠しく思いながら、この場に居ないにギリーに対して、理不尽で切ない恨み言が虚しく響いた。
・ ・ ・
その日の夜の事。
ローズは両親と食卓を囲み、一家団欒の時を楽しんでいた。
母ヴィルヘルミナは古くからこの地を収めていたヴァンパイアで、父のジョゼは、かつてヴィルヘルミナを退治する為に現れた元ハンターである。
二人の戦いの結果は、ローズと言う一人娘を生まれている事から分かる通りである。
打ち負かした、打ち負かされたと言う経緯があり、一家のヒエラルキーの頂点は母であり、父もそれに不服に思う事無く従っている――外面上は。
「ローズ。今度の週末に行われる社交界に、あなたも出ていいわ」
団欒の最中に母から告げられた言葉は、ローズに取って文字通り衝撃的な知らせであった。
貴族を自称するヴァンパイアは、社交界と称して同種間のパーティーを行う事が多く、ローズの母親は社交界でも華やかな存在として知られ、多くの貴族から羨望の対象となり、パーティに招待される事が多かった。
「それはほんとうですか！ おかあさま！！」
「えぇ……あなたにもぜひ参加してほしいと、今回の招待状に記されていたの」
だが母親が華やかな舞台に立つ一方で、ローズは幼い事を理由に社交界への参加を許されてはいなかった。
両親がパーティーに赴いている間、彼女は家で留守を命じられ、不満に頬を膨らませるばかりであった。
その反動だからだろうか、ローズは社交界と言う物にひどく憧れていた。
人づて、あるいは本を読んでは想像を巡らせ、自分が華々しい舞台に立つ日の事を強く夢見ていた。
「やった……わたくしもしゃこうかいにっ！ やったわっ！」
「よかったね、ローズ」
「よくはないわ……私は不安なのよ」
「ローズだって、本番ではちゃんとするよ」
「その楽天さは愚かよ」
念願かなった事で我を忘れて大はしゃぎをするローズを見て、苦笑いしながらも、彼女のその姿を可愛く思うジョゼと、不安に思うヴィルヘルミナ。
「まぁまぁ。社交界まではまだ時間もあるから、その間にしっかりと作法を学ばせれば良いじゃないか」
「はぁ……そうね、そうする他は無いわね」
「そうだわ！」
ローズは何を思い付いたのか、作法を教える段取りをしていた両親を少し驚かせる程の大きな声を出す。
「おかあさま、おとうさま。そのしゃこうかいに……」
ローズの提案を聞いたヴィルヘルミナは、今までで一番大きな溜息を付くと、明らかな難色を示す。
一方のジョゼは、ローズの提案を好意的に受け取り、彼女と共にヴィルヘルミナの説得に回る。
結果、二人のに押し切られる形となって、ヴィルヘルミナは仕方なしと認めるローズの提案を承諾した。
厳しい事は厳しいが、ヴィルヘルミナも結局は娘には甘いのだ。
「おかあさま！ おとうさま！ ありがとう！！」
ローズは嬉しさを再び爆発させると、止める間も無い勢いで部屋を飛び出していった。
「ジョゼ、あなたはローズを甘やかしすぎだわ。今回はあの子に社交界の空気を教える程度で十分よ」
「いいじゃないか。あの子はずっと我慢してたんだ。大目に見てやるべきだよ」
「……多めに見るその代わり、あなたにはいつもよりたくさん奉仕してもらいましょう」
両親のやり取りがそんなやり取りをしている頃。
ローズはバタバタと足音を大きく鳴らし、息を切らせる程の勢いで廊下を駆けていた。
豪奢な調度品が並ぶ廊下の先にある扉をくぐると、そこからは雰囲気ががらりと変わり、絨毯こそ敷かれているが調度品が一切配されていない、華の無い廊下が続くこの場所は、従者達が生活する場である寄宿舎である。
走る速度を緩める事の無いローズが、その勢いのまま飛び込んだ部屋は、彼女の寝室と比べれば、当然ながら幾分格の下がる部屋だ。
ノックする事無く、扉を壊さんばかりの勢いで飛び込んできたローズに、部屋の住人であるギリーは目を丸くする。
ローズの突然の来訪は、寝巻きへと着替え、布団に入ろうとしていたギリーのまどろんでいた意識を完全に吹き飛ばすには十分で、朝が早いギリーに取って迷惑この上無かった。
「な、何か……御用でしょうか？」
戸惑うギリーの様子と事情に構う事無く、ローズは得意気な顔のまま、ギリーのすぐ目の前、文字通り目と鼻の先の距離まで近づく。
「こんど、わたくしはしゃこうかいに、はなばなしくデビューしますの」
「はぁ……おめでとう、ございます」
満面の笑みを浮かべ、自慢するかの様にギリーに告げる。
それを言う為だけに来たのかと思ったが、表情を崩さないローズの様子からして、この話にはまだ続きが、それも自分に取ってあまりよからぬ話であると考える。
果たしてどんな理不尽な言葉が飛び出して来るのかと思うと、ギリーは気が気ではなかった。
「ギリー。あなたはわたくしのじゅうしゃです」
「えっ？ ……はい、そうですが」
ローズの改めて確認するかの様に問い。
意図がまったく読み取れないギリーは、小さく気返事するしか出来ない。
「じゅうしゃのはじは、わたくしのはじです。わたくしがはじをかかないためにも、わたくしとともにさほうをまなびなさい」
「……は？」
なぜ自分が社交界での作法を学ばねばならないのか。
無茶な注文を押し付けられる事は多いが、意味の分からない注文を付けられるのは初めてだ。
「自分は人間の従者ですから、社交界に出向いたりする資格は無いと思うのですが」
当然の疑問で、もっともな反論だ。
人間を見下すヴァンパイアが、華やかな社交界に人間の従者を連れて行くと言うのは、矛盾した行為だ。
「たしかにそのとおりです。ですがわたくしにはまだ、おっととなるかたがいません。このようなヴァンパイアは、かわりにじゅうしゃをとなりにたたせることになっているのです」
従者を隣に立たせる、つまり社交界にギリーを伴う。
これこそ、ローズが両親に提案した事である。
下賤な人間を隣に立たせるとは、ヴァンパイアの矜持に反する様な事に見えるが、この様な場合は将来の婿である男のお披露目をかねている。
後に男が貴族となった際に、ただの人間がどれほど立派になったかを推し量る為だ。
だがローズの様に、まだ幼いヴァンパイアには対しては別に適用する必要の無いルールだ。
両親と共に一人で参加しても問題は無い。
ヴィルヘルミナが最初反対していたのも、そう言う事情があるからだ。
一人でも構わないとは言え、社交界の舞台に赴くと言うのに、両親に付き従うと言うおまけの様な形ではあまりに寂しい。
たった一度しかないデビューの時を、出来うる限り完璧な形で行いたいと考え、母を無理やり説得したのだ。
だが何度も言う様に、ギリーはヴァンパイアに付いての知識が乏しい。
加えて、この様なヴァンパイアの間でのみ成立するローカルルールなど知りうるはずが無い。
つまるところ、自分はお飾りや引き立て役をさせられるのだと勘違いし、心の中で小さな怒りが芽吹く。
「あしたから、きびしくいきます！」
得意気な顔で、右手の指をギリーの方へと勢い良く向けて宣言する。
実際に指導するのは両親達で、自分もギリーと共に学ぶ身なのだが。
「それでは、おやすみなさい」
唖然と、そして不愉快な気持ちをするギリーを置いて、ローズは部屋を出て行った。
だがそのまま部屋に戻る事無く、閉じたギリーの部屋の扉に持たれかかり、どこか幸せそうな顔を浮かべる。
「ギリーといっしょに、しゃこうかいのおべんきょう……うふふ」
嬉しさと腹立たしさ。
ボタンの掛け違いの様な小さな誤解が、二人の心を隔てている事など、ローズは露とも知らない。
ローズの宣言通り、次の日からギリーは彼女と共に、ヴィルヘルミナとジョゼの授業を受ける事となった。
ジョゼはともかく、ヴィルヘルミナの授業の中は、彼女も人間を下賤と見ている事もあってかとても厳しく、仕事との両立で疲労するギリーの心身に堪える物だった。
彼のストレスと疲労の蓄積は、ローズやヴィルヘルミナを除いた誰の目にも明らかで、同僚達からは同情と気遣い言葉が、ジョゼからは妻と娘の無茶に対する謝罪といたわりの言葉を掛けられる始末。
みじめと感じてしまうこんな生活に、ギリーはどんな形でもいいから終止符を付けたいと考え過ごす様になるが、結局はどうする事も出来ず、ただ時間だけが過ぎ、ついにローズが心待ちにした社交界の日が間近に迫るのであった。
13/09/06 18:29更新 / ゴミ貴族
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