連載小説
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前編
鉛色の空模様はこれから続くの雨季の到来を予感させている。
分厚い雨雲はすでに細かな雫をこぼし始め、周辺には濡れた地面の臭いが充満していた。
日夜海の上を飛び交う海鳥達も、容赦なく打ち付けてくる雨には勝てないのか、雨よけ出来る場所を探し漁港の水揚げ場や民家の屋根などの建造物に所狭しと集まっている。
某国の周辺の海岸にてその村はあった。

―漁村"ポートリア"

規模としてはそこそこの漁村ではあるものの、他の都市と都市を繋ぐ行商人達の通商ルートの途中にある事から少なくない商人達がこの街でしばしの暇を過ごす事もあって、他の同規模の漁村と比較すれば経済的に潤っていると言って良いだろう。
だが、彼らは腐っても商人。金を落とすだけの事はしない。漁村では手に入れづらい木の実や果物と言った内陸からの農作物や魚網のような漁師には欠かせない道具を露天売りしたりして、彼らもその懐を暖めているのだ。
最初は宿の周りで露天商を始めた事に対して村民との間にいざこざがあったらしいが、露天商目当てにやって来た客がそのまま宿を利用すると言う事も少なくなかったため、次第にそれもなりをひそめたと言う。

店があれば人が集う。例えそれが雨の中でもお構いなかった。とはいえ雨のなか店を出せるのは露店のための屋根を持つ商人だけなので、店の数は晴れの日の半数以下といった所だろうか。それを見にくる客の数も同じく、である。

そんなポートリアの露店通りの前を、一人の青年が走っていた。

海に連日出ている為か肌は焼け、おまけに潮風にやられてか硬そうである。袖や裾から覗く手足はやはりと言うべきか海に出て網を引き、籠を持ち上げて働く男達のそれであり、手入れが面倒くさいからと言う理由で短く切り整えられた頭髪も彼の粗暴そうなイメージに拍車をかけている。しかし、その相貌はよく見れば端正なものであり、その目には一端の漁師の子らしからぬ思慮の深さが見て取れた。

彼の名はエドル。ここポートリアの村長の一人息子だ。
夜通しの漁作業を終え、港に戻ってきた彼は贔屓にしてる行商人が彼のお目当ての物を持ってきたと言う知らせを聞き、必死に走っている訳である。日夜の労働で得た健脚による全力疾走。すれ違う人々からすれば恐怖でしかないが、そのかいあって彼がお目当ての露店に着くまでにそこまでの時間はかからなかった。

「はぁ、はぁ、・・・・じいさん!アレは!?」

「挨拶も無しか、こいつは」

息も絶え絶え、全身から汗を流すエドルの声に答えたのは一人の老人だった。
なんとも胡散臭そうな様相でまさに"老獪"の言葉が似合う人物ではあるものの、その品の取り揃えに関してはポートリアにやってくる行商人達の中でも随一である。

「持ってきたぞ、コレじゃ」

そういって、露店に並べてある品とは別に用意した物を置いているのだろう、横の大きな皮袋から布でぐるぐる巻きにされたそれを取り出した。

「漁師の倅の癖に酒よりも本を買うとは物好きなものじゃな・・・」

「それよりも、見せてくれ!」

「その前に金じゃ」

すこし汗で濡れた代金を手渡すと、エドルは半ば奪い取るような形でそれを手にし、ぐるぐるに巻かれた布を剥がす。
すると中から、"魔物録"と言う表題の分厚い本が出てきた。
それを確認すると、ここにはもう用がないとばかりにそこから立ち去っていった。

―魔物録。
各地の魔界化が進む事により、人類と魔物との戦いは激化していた。
魔物達の性質はその支配者として君臨する魔王によって変遷していく。
数世代前の邪悪なる魔王が悪意を持って生み出したカースドソードが跋扈した時代にはそれはもう血で血を洗う惨状だったと言う。だが、人類もそれに対して"勇者"と言う暴力をぶつける事で抵抗していた。
結局のところ、人類も種として見れば暴力的な存在だったという事だ。
魔物と人類の戦いは純粋な暴力と暴力のぶつかり合いであり、そこには搦め手も策謀も介入する余地はなく、また人類は、彼らの掲げる"勇者"と言う存在は、そのぶつかり合いを拮抗させる事が可能な(勿論、時には犠牲が出る)存在だったのだ。つまり、人類は魔物との戦いにおいて犠牲は出て、戦いを終結させる勝利を収めることは出来ずとも、決定的な敗北を喫することもなかったのだ。勝敗が決まらない戦争に終りはこない。人々はいつしか心の中で今の現状が、この膠着状態による戦線以外が平和と言う状態がこのまま続いていく事を予想していた。

しかし、魔王の代替わりが起こった。

先の通り、魔物達の性質はその支配者として君臨する魔王によって変遷していく。
その魔王が暴虐をよしとする者であれば、その配下たる魔物たちもそれに準ずる気質、性質となる。

ではその代替わりした魔王は如何なる者か?

―性愛をよしとする者、"サキュバス"である。
性交、淫奔、堕落、快楽、誘惑。ありとあらゆる性愛と良しとするサキュバスが魔王となったのだ。
変化は著しかったという。なにせ戦いのあり方が変わったのだから。搦め手も策謀も介入する余地の無かった筈の戦場には魔物達の性を前面に押し出した誘惑が蔓延する事になった。戦場での魔物達の装備も変わった。身体に物理的な損傷を与えるのではなく全身を流れる魔力自体に損傷を与える魔界銀と言う金属性の武具が主となり、戦場にて人が死ななくなった。
良い事だろうか?―否、これ程恐ろしいことは無い。今まで殺すか、殺されるかだった魔物と人類の関係が一変し、魔物は人類を己の同胞とする術を得たのだ。
戦場で頼もしいと喧伝されていた戦乙女が、快楽で蕩けた様相をした敵として戦場で相まみえることになったという話しも一つや二つではすまない。
加えて、死ななくなれば人は油断する、決意は緩む。そしてその緩みを突く形で魔物達の性の誘惑が飛び交う。
人類にはこの変化は劇的過ぎたのだ。人類はその支配者たる王が変われど、その支配下の人々の思考まで変わることはない。怨恨は末永く引き継がれるし、易々と忘れられない。だからこそ、暴虐の時代に抗えていたのだが。

暴力と暴力のぶつかり合いの中を進んでいた筈の人類は、気がつけば巨大な誘惑の渦に立ち向かわねばならなくなったのだ。

そんな中、魔物に対する姿勢を変えることに成功した人々も出てくる。敵としてではなく、対話相手として。興味の対象として。
そう言った価値観を持った魔物学者の一人が書き記したのがこの"魔物録"であり、挿絵の充実したそれは魔物図鑑とも呼ばれた。

重い雨音が響く部屋の中で、エドルは無心でその本を読む。細心の注意を払い、読み零しの無い様に。
これほど彼が魔物について興味を持つのには理由がある。

あれは彼がまだ少年だった頃。
ポートリアの漁港は時には交易船の荷下ろし場として使われることがあった。父が村長であることもあり、エドルは大きな交易船に乗る機会を得ることが出来た。漁船と違う構造をしている交易船はエドルの少年ながらの好奇心をいたくくすぐったのである。
一体何回目の事だっただろうか。エドルは不意に交易船の向かう先の地を見て見たいと思った。
思い立てば吉日と言うべきか、父が村長と言う立場を全力で活用し、ポートリアともう一つの都市を交易船が往復する事になった際、船員として乗り込むことに成功したのだ。


―しかし、まだ見ぬ土地を夢見て、交易船に乗り込んだエドルを迎えたのは不幸な事故だった。


交易船の航路が不幸にも魔界化した海の上を通ってしまっていたのだ。
魔界化した大地はそこに自生する特徴的な植物や蔓延するサキュバスの魔力などから非常に判別しやすい。しかし、海にはそういった判別基準となる物が乏しいため、運悪く魔界化した海に入ってしまうといった事故が多かった。

後悔した時はもう遅い。

揺れる船。飛び交う船員の怒号。そして悲鳴。
瞬く間に海へと投げ出されたエドルが見たものは、海の中を空を舞うように泳ぐ、十本の触手を持つ亜人型の魔物―クラーケンだった。
底の見えない海の暗さの中に居ながらも一切の陰りを見せないその美しい肢体。笑みを絶やさぬその相貌。
意識を手放す瞬間に見た、妖しさを超え、神秘性さえ感じさせるその存在はエドルの心の奥深くに強く焼きついたのだった。




エドルは何処とも知らぬ砂浜に打ち上げられていたのだという。
自分を介抱してくれた老夫婦からエドルはそう説明を受けた。しかも、所在を聞けばポートリアからそう離れていない場所だというのだから驚きだった。特に大きな怪我はないが、腹から胸にかけておろし金にこすってしまった様な擦り傷があった為に、老夫婦から「鮫にでも背負われて来たんじゃないか」と笑われたものだ。その傷に軽い疼きと熱があったものの、そのうち治まった。

なんとかポートリアの家に戻ったエドルが見た、真っ青な顔をした両親の顔は今でも忘れられそうに無い。

ポートリアに戻ったエドルの生活は一変した。
漁作業の合間に魔物についての書物、伝記をひたすらに読む。特に学のない彼の部屋に本棚が追加されるのにはそう時間が掛からなかった。
あの事件を機に、魔物についての純粋な興味が彼の中に強く根付いたのである。




―気がつけばエドルの部屋に差し込む外からの光はなくなり、時間は深夜となっていた。

「嗚呼、やっちまったな・・・。こんなに熱中してたのか」

少し休憩とばかりに本を閉じた時、かなりの時間が経っていた事にようやく気づき、小さく溜息をつく。最初の頃は両親が夕食に際し彼を呼びに来ていたのだが、あまりの熱中っぷりにその内それも無くなった。

(確か、明日は村はずれの洞窟を見て来いって言われたんだっけか・・・)

基本的に両親の漁船に乗り込み作業をするエドルは、夜通しの漁作業終えた次の日は休日となるのが定例だった。その代わり今回のように雑用を押し付けられる事も少なくない。

潮の満ち引き、波の打ちつけとは凄まじいもので、長年それらにさらされ続けると岩場が削れ、形が変わってしまう。
そういった過程で出来たのだろう、海岸沿いの洞窟がポートリアの近くにも幾つかあった。
だが困ったことに、稀にそういった洞窟に不審船が隠されているという事件があったので、こうやって人手を割いて中を見に行く事がある。
当然、それほど深くまで入っていくことはない。あくまでそこに不審な物や生物が居ついていないかを確認する程度の軽いものだ。


エドル晩飯をどうするか逡巡したようだが、どうやら沸きあがってくる睡眠欲の方が強いようだ。
面倒臭いと思いながらも、部屋の灯りを消す。
漁作業の疲労もあり、彼が泥のような眠りにつくまでにそう時間は掛からなかった。



目が覚めると、やはりと言うべきか雨の音が聞こえた。ポートリアに訪れる雨季は長い。
もしポートリアが農村であるのならエドルも天からの恵みと受け取ることが出来るのかもしれないが、生憎ポートリアは漁村であり、エドルは漁師の家系の男。雨が続けば海は荒れるし、漁に出れなくなることもある。そんなこともあって手放しで雨を喜べるような育ち方はしていなかった。

朝食を取るかどうか迷ったが、恐らく食べて落ち着いてしまうと足に根が生えたように外出する気も失せるだろうと思い、帰ってきてから食べようと決めると、服を着替え、外に出る。すると、むわりとした雨季特有の湿気がエドルを出迎える。これで気温まで低ければもはや外出する気などさらさら起きないのだろうが、小雨で気温も高い。だからこそこの湿気なのだが、それだけで外出を控えるほどエドルは軟弱な男ではなかった。
最低限の準備を整えると、村はずれの海岸へと歩を進めた。




海岸に出来る洞窟と言っても中を確認しやすいものとそうでないものがある。確認しやすいものは簡単に言うと洞窟の口が広く砂浜や岩礁部分にまで開いているものであり、そうでないものが洞窟の口が海にしか開いていないものである。不審船が隠されている等と言うのは大体が後者であり、エドルが今確認しに行くのも後者だ。
エドルが向かう洞窟はその岩の天井に大きな切れ目があり、そこから内側へと下っていく形で入る事が出来た。


しばらく歩く内に、目的の場所に近づいてきた。小雨だった雨もやや雨脚を増している。パパっと中を確認して家に帰って本の続きを読もう、そう思ってエドルが洞窟の岩の天井から内側へと下りる為に足をかけた時だった―

―ズルリ。

「しまっ―!」

足を滑らせたエドルは重力の成すがまま、雨天により荒れた暗い海へと呑み込まれる。

(まずいまずいまずい!!!!!)

エドルは自分が凄まじい勢いで海岸から引き離されるのを感じた。怒涛の焦燥感が彼の胸中を染め上げ、それでも懸命にもがく。

(クソ、クソ、クソ!!!死んでたまるか!!まだ本すら読みきって―!!!!)

漁師の子とあって必要最低限の泳ぎは出来る。だが如何せん力が出ない。恐らくエドルの体調が万全な時であればこのまま海岸まで泳ぐ事は可能だった。
しかし、今の彼は夜通しの漁作業を終えた後、わずかな睡眠しかとっておらず、その上昨晩からろくに食べていない。そんな状態の彼を易々と海岸まで帰してくれるほど海は優しくない。

(嫌だ、嫌だ、くそ、こんな事なら―!)
必死の抵抗を見せるエドルだが、その身体は流され、もまれ、次第に沈んでいく。

しばらくすると暗い海はエドルの影すらも呑み込んでしまった。







『―――さ、い』

声がする。美しい女性の声。鈴を転がすような声。

『―――て下さい』

高くとも耳障りではない。むしろ安心感さえ感じさせる優しい声。そんな声が自分に対して投げかけられている。
だが何処と無く声色に焦燥や緊張があるように思える。

『――い、――――て下さい、起きて下さい!!!!』



そこまでされてエドルはうすぼんやりと意識を取り戻した。

(あ・・・れ・・・?)

酷い倦怠感で身体を動かそうとする事自体億劫だ。寒気も酷く、如何に自身の身体が弱っているのか良く分かる。

(あれ・・・?何か軟らかいものが・・・?)

霧のかかった様なぼんやりとした意識ではあるが、エドルは自身の上半身を何か柔らかい物にもたれかける様な形で寝て居る事に気が付いた。
不思議な柔らかさである。裸足で砂浜を踏みしめた時に感じるものとはまた違った心地よい柔らかさ。そして人肌よりは少し低いように感じるが確かにそこにある温もり。

『ああっ・・!良かった・・・・。お気づきになられたのですね・・・・』

不意に投げかけられた、そして先程から確かにエドルに届いていたその声を聞き、何とか重い体を、上半身だけでも持ち上げ、その声の方向へと向ける。
そうしてようやく彼の意識は声の主へと焦点を合わせた。

腰まで伸びる長い髪には耳の辺りで上品な青のヘッドドレスによって飾れていて、前髪はその双眸を隠す程長く、その表情を窺い知る事が出来ない。しかし、そこから覗く少し少女らしさを感じさせる顎先にかけての輪郭と、そこに伸びる形の良い鼻梁、可愛らしく膨らんだ唇は見る者にその前髪の向こうに隠れている美しい相貌を予感させる。
女性らしい細い首から肩、全身に纏っているのはヘッドドレスと同様の上品な青の衣であり、そこからさらに視線を下にしていくと大胆にもほぼ投げ出されるように、たわわに実った双丘が顔を覗かせていて思わず視線が釘付けになりそうだ。袖口は大きく開かれており、そこからのぞく手の平は戸惑い気味にとじられたままだ。腰の細く美しいくびれは、その大きな胸部のふくらみと相まって艶やかで蟲惑的な女性特有の曲線美をありありと描き出し、そこから足元へかけてのふわりとしたラインはまるで貴族令嬢が着るようなドレスを連想させた。

例えるならば、晴れた日の、美しい海の青をそのまま写したようなドレスを着た貴婦人と表現するのが一番それらしいかもしれない。

「あ―」

エドルは言葉を発しようとしたが、その舌をもがれた様に言葉の先を紡ぐ事ができない。その美しさに圧倒されたからではない。

何故ならば―

『もし?大丈夫ですか?』

―自身の目の前に居る、その存在が魔物であると気が付いたからだ。

よく見ると彼女の髪や、その美しい身体の所々の透明度が高く透けており、その細い腰の横からは触手のようなものが顔を覗かせている。
また、頭部には左右対称となる形で鮮やかな黄玉を思わせる拳大ほどの触覚があり先程からゆらゆらと揺れている。いや、触角だけではない。よく見ればそのドレスに見える部分全体がゆらゆらと揺れていた。

エドルの脳裏に一つの魔物の名が浮かび上がる。

―海の魔物、"トリトニア"。

そう。今エドルの目の前に居る彼女こそ、かつてその姿を見せたクラーケンと同じく海に生きる魔物の一人なのだ。
18/05/03 20:49更新 / 稚拙作生産マシーン
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■作者メッセージ
拙者トリトニア大好き侍。


ここまでお読みくださりありがとう御座います。
出会いまでをちゃんと書きたかったんですが長くなりすぎたので分割します。。。。
結果トリトニアちゃんの出番少なすぎて悲しみ有り余る。
村名とかは適当なので気にしないで下さい
少年期のエドル君の救出はマーシャークちゃんがやってくれました。
後編はがっつり行為をします。

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