読切小説
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ドラゴン先輩の足の爪を切る話
 教室には僕らだけがいた。部屋の隅には虫やバクテリアなんかがいたかもしれないが、どうでもいいことだ。なにせ、僕の目には見えないのだから。先輩は椅子に座ってゆっくりと足を組む。右足が左ひざに乗る瞬間、青い下履きが見えた気がした。
 「じゃ、お願いしようかな」
 先輩の真面目そうなつり目はいたずらな色を帯びている。黒い鱗に覆われた手は大きな爪切りを差し出した。特殊超強化オリハルコン鋼製の刃を持つ超高級品だ。刃の鋭さについてこれに勝る刃物を知らない。僕は刃物に詳しいわけじゃないけど、少なくとも自宅で父さんが使う包丁とは雲泥の差だろう。その刃は夕暮れを反射し、僕の目にまぶしく刺さった。校則を破った生徒を見つけ、制裁を加えようとする教師の眼光のようだった。もちろん僕はそんなものを浴びた覚えもなければ、校則違反で叱られたこともない。飽くまでたとえとして、それほどに鋭い光だった。僕はこれからこの鋭い刃物で彼女の爪を切らなければならない。何も知らない人がこの状況を見ると思うところあるのかもしれないけれど、少なくとも彼女の爪を切るのは僕が望んだことだ。もちろん合意も得ているが、本心から彼女が望んでいたことなのかはわからない。僕は彼女から爪切りを受け取ると近くの机の上に置く。ごとりと重い、高級感の混じった音がした。
 ドラゴンの強靭な爪を切るにはいくつかの方法があるらしい。僕が知ってる中では熱湯につけたり精液を浴びせたりと、大変だったり不可解であったり様々だ。僕がこれから行う方法は、人間の唾液で湿らせることで柔らかくし、鋭い爪切りで切っていく。そういったものだ。先ほど挙げた例の中に熱湯を浴びせるというものがあったと思うのだけれど、溶岩の温度に耐えうるドラゴンの体が熱湯ごときで軟化するとは思っていない。それと同じように、精液をかけるのも良い方法とは思えない。そもそも彼女に対し、僕の精液をかける情景を思い浮かべるのは困難な作業だったし、淫魔の影響を受けているのだから案外魔力を吸収して硬化するのかもしれない。ともかく、僕が彼女の爪を切るためにもっとも簡便で怪しまれない方法として、爪を舐めしゃぶり柔らかくして最高級の爪切りを使用することだった。もしかしたら他にも方法があるのかもしれないけれど、僕にはこれしか考えられなかった。片思いの相手である先輩の足を舐めしゃぶり、爪を切る方法は。
 「せっかくなので、このまま爪切ってみていいですか?」自分から提案しておきながら何となく言ってみる。しらふで好きな女の足を舐めるのは気恥ずかしかった。
 「やめてくれ、刃が欠ける。もしも試せば爪切りの修理代を払わねばならなくなる」いたずらな光は笑みの色を浮かべた。光の加減か、赤身を帯びて輝く瞳。「ドラゴンとヤってみたい、という男は腐るほどいるだろう。もちろん、私は困らんが」口の端から牙がのぞいた。
 僕は深く息を吸い、吐いた。自分から爪を切らせて下さいと言っておきながら勝手なものだ。人間とは思ったよりも勝手な生物なのかもしれない。かつて自らを育んだ国を滅ぼし、野望を叶えた男のように僕は覚悟を決めた。彼女の爪を柔らかくするにはまず足を綺麗にしなければ。
 「では、失礼します……」
 傍らに用意したバケツには湯が張られている。その中に清潔(であろう)な布切れを突っ込み、絞る。程よく熱い湯を含んだ布で彼女の脚を拭いていった。先輩は運動系の部活をしているためか、鱗と甲殻には汗の結晶ができていた。鱗と鱗の間には砂埃が入り、固まっている。丹念に、丹念に先輩の足を拭く。古ぼけた教室に夕暮れが差し込み、下手糞なクラリネットのチューニングが聴こえる。音程が合わないのか、何度も同じ音を繰り返していた。一度だけ、友達に吹かせてもらったことがある。黒地に赤いマーブル模様のマウスピースに葦でできたリードを当て、リガチャーで締め付ける。僕はそれを口にくわえると、思いっきり息を吹き込んだ。かすかすとした感触、息だけで本棚を動かすような抵抗感だった。友達はにやりと笑う。「おれは1ヶ月かかった」
 布が通った後は鱗本来の色を取り戻していく。砂や汗の結晶などの汚れが取り去られた鱗はその黒さをあらわにしていた。差し込んだ夕日が反射し、溶岩を含んだように赤く縁どられた。その光景は僕に満足感をもたらした。女性の脚を撫でまわすこと、片思いの相手に奉仕すること、汚れていたものを綺麗にしていくこと。そのすべてが僕の心の中で完全に調和し、新品のタイルが隙間なく敷き詰められた遊歩道のような気持ちを感じさせていた。
 僕は視線をずらし、彼女の様子をうかがった。先輩は目をつむっていた。鱗の間を拭うたびに唇が震え、吐息が漏れる。くすぐったいのだろうか。
 「ふ、くく」先輩の喉が動き、牙の間からは殺しきれなかった笑い声が漏れる。
 「くすぐったいですか?」彼女は何も言わずに首を横に振る。短く整えられた夜色の髪が揺れた。僕も何も言わずに足の指を拭き続けた。

 先輩の足は綺麗だった。過酷な運動を行っているからだろうか、彼女の足は高密度な筋肉がつまり、頑強そうな鱗と甲殻に覆われていた。僕はよく先輩の練習風景を眺める。深夜の高速道路を走ってそうな巨大トラックを鎖で体につなぎ、広大なグラウンドを走る姿。セパレートタイプのユニフォームを汗で濡らし、砂埃を巻き上げていた。感情が昂っているのか、口の端から洩れる炎。隣をバイクが並走している。急停止すると追突してくるトラックへ蹴りを加えて強引に止める。その動作と同時に腰に巻き付いた鎖を素早く外し、背中に畳まれた翼を展開する。燃える瞳は天空へ向いていた。翼が砂嵐を巻き起こした瞬間、彼女は紺碧の空へ舞い上がっていた。ドラゴンやグリフォンといった力のある魔物や、ごく特殊な才能のある人間が行う競技。デュアスロンのようなもの。普段の酷使にもかかわらず、先輩の鱗や甲殻には傷一つついていなかった。もちろん鱗に覆われていない部分には大小さまざまな傷がついている。内腿のあたりにはトラックの破片が飛んだのか、えぐれたような傷跡があった。大小の傷は彼女の美しさを損なわず、むしろ引き立てていた。
 僕の視線に気づいたのか、彼女の手が太ももに触れる。黒く硬い手が日焼けした肌に沈み、僕の視界の隅には艶かしく歪む太ももが映っていた。怪しまれないように彼女の顔を見上げると夕日に輝く瞳が見えた。
 「ん?これか。もう塞がってるしな、ドラゴンは手足がなくなっても再生する。この程度、軽傷さ」彼女は催促するように指を動かした。先輩は靴を履かない。大抵の靴よりも自分の足のほうが丈夫で、見た目も優れていると考えているかららしい。確かに先輩の足は丈夫でもあるが、その一方で危険な面もある。一度、教師に怒られている最中の先輩を見たことがある。いつもは自信たっぷりな態度を示す強靭な尾が、しょんぼりと力なく垂れていた。爪や鱗が学校を傷つけていたのだ。その時は僕と先輩、叱り終えた教師で学校中のえぐれた跡や傷を直して回った。それほどまでに先輩の体は丈夫で鋭い。
 僕は床に膝をついて先輩の足に手を添えた。ゆっくりと爪先に口づけをする。夕日を纏って輝く黒爪を口の中に含み、舌先で転がしていく。鋭い爪先は塩辛いような、甘いような味。先ほど拭ったはずだが汗が染みついていたのだろうか。いや、舌先に触れる感触はつるりとして少し熱い。拭き残しがあるのなら砂埃の感触があるはずだ。竜の体はこのような味がするのか。
 「れろ、れる……ちゅ、じゅる」
 口内にたまる唾液をたっぷりと爪に塗り付け続ける。僕は夢中になるうちに、両足の8本の指すべてを湿らせ終えていた。視線を動かし、彼女の顔を窺う。彼女はなにも言わずに頷いた。
 僕は机の上に置いていた爪切りを手に取った。夕日に濡れた輝きが先輩の爪を挟む。ギターの6弦をニッパーで切り離したような音が小気味よく響いた。爪切りはすんなりと閉じられ、爪の破片は勢いよく飛んで行った。
 「もう少し力が必要と思ったが……、案外やれるんだな」
 僕は返事を返すことができなかった。放物線を描いて飛んでいく先輩の欠片、その動きに見とれていた。爪の破片を僕の手が拾う。魔物の体は不意に他者を傷つけてしまわぬように、魔力結界が常時張られている。体から離れたものはそのように見なされないのか、鋭くとがった爪の破片がぷつりと皮膚を破った。指先から夕陽とは違う赤が流れ出す。まるで、教壇でセックスを見せつけるアマゾネスと友人、その結合部を流れる破瓜の血みたいだった。あの二人はしばらく学校に来なかったが、ある時に日焼けした肌で教室に戻ってきていた。先輩が僕を見る。彼女は鋭く大きな声を上げた。
 「大丈夫か!?痛かっただろうに、すまなかったな」
 彼女は僕の言葉を待たず、電光の速さで指をつかんだ。人間の指は先輩に咥えられ、熱く濡れた肉が指先を包む。まるで温泉にでも突っ込んだようだった。その驚きと快感で言葉が出てこない。指を突っ込んでいる温泉が揺れる。ぴちゃり、と唾液が湿った音を立てた。
 「ふ、わらひのらえきにはひゆひゃようもある」箸をくわえたまま喋っているような声がもったりとした唇から漏れた。舌や牙、口の動き、胸から吐き出される吐息。僕は先輩の生命を指先で味わう。指の痛みはもうなくなっていた。
 彼女は僕の指を離す。僕の血はすっかり舐めとられ、傷も残っていなかった。少しもったいなかったかもしれない、せっかく先輩がくれたものだったのに。彼女から与えられる優しさを受け止めながら、なくしてしまった痛みを思った。
 「続き、やりますね」
 先輩は鼻を鳴らした。飛んで行った爪はそのままでいい、後でほうきか何かで片付けよう。そしていくつかはもらっておこう。視界の端で先輩の瞳が僕を見透かすように細くなった。
 足の爪を切ると硬質な音が響き、僕の耳を楽しませる。大きく分厚い爪を一息で切ることは難しい。少しずつ切り込みを入れてじっくりと切っていく。ぱちり、ぱちりと音を立てるたびに僕の背筋は快感で震える。彼女の爪を切る悦びに慣れぬうちに8本の爪を切り終えた。最高級爪切りが切った後は、やすりがけが不要なほど美しい断面を作り出していた。
 「どうですか?やすりがけはいらないと思いますけど……」
 先輩は立ち上がって屈伸運動をしてみたり、軽く周りを走って爪が動きを阻害しないか確認した。彼女の太ももとふくらはぎが躍動、丈夫な床に爪先から着地する。踵を床につけて柔軟体操を行う。180度の開脚、広がるスカートの花弁。教室には傷一つつけず、強靭な体は柔らかく動いた。
 「ん、大丈夫そうだ。練習してダメそうだったらもう一回言おう」
 わかりました、と言おうとして先輩の瞳が浮かべた感情に気づく。縦長の瞳は妖しく光り、艶っぽく笑っていた。首をかしげて次の言葉を待つ。
 「お礼が必要だろう?お前は十分にもらったと固辞しそうだからな」
 言い終わるが早いか、先輩の唇は僕を塞いだ。流れ込む炎と唾液、それは僕の口を焼きながら癒していく。べろりと口の皮がむけて体液が焦げても、そのそばから再生する。口内を満たしていく痛みと熱さ。ああ、きっと僕の口は焼き林檎みたいになってるんだろう。痛みも熱さも、そのすべては先輩から与えられていた。いや、きっと先輩そのものなんだ。彼女の体は灼熱に焼かれ続けているのにちがいない。唇の端から先輩の唾液が垂れる。もったいない、舌を動かして舐めとろうとするけれど体がしびれて動かない。僕を見つめ続けている瞳は捕食者の光を湛えていた。
 先輩の牙が僕の舌、その先端を噛み切った。自分の体が切り離されたかのような解放感、彼女から与えられた気持ちよさにくらくらする。陽炎になったみたいに視界が揺れ、立っていられない。赤い光、目の前の暖かさにしがみつくと、背中にしっかりとした力が返ってくる。僕の口には熱い唾液が注がれ、それは顎のみならず胸元すらしとどに濡らした。ぐるぐるする視界と遠のいていく意識。彼方の地平線から、ごくりと何かを飲み込む音がした。
 僕の唇が一人になったとき、舌先に違和感が残るだけだった。指で触ると丸みは失われ、千切れたようになっている。先輩の声が僕の脳を灼いていく。
 「お前はもうわたしの物だ。お前の体はこの腹の中で燃やされ、私の血肉となる」彼女の長く太い舌は唇を舐めた。「こうされたかったのだろう?」彼女はさらに言葉を続けた。
 「指先を切って喜ぶなど、爪をもって帰るなどせせこましい。傷が欲しいのならいくらでもつけてやろう。望むのなら、灰にだってして見せよう」
 淫魔の結界など関係ない、お前の望みをかなえてやる。お前を私の永遠にして見せる。僕の口内を満たした炎より熱い言葉。同じだけの熱を返したい、僕はそう感じた。
 「僕を焼いてください。傷つけて下さい、先輩。僕だけを。ほかの物なんかじゃ悔しいから」
 赤光に燃える黒鱗が閃き、僕を押し倒した。床とぶつかり、少し痛くて嬉しい。見上げた先輩は残忍に笑い、こぼれた舌が唇をなぞった。僕は彼女と一体になりたい。もしできるのなら、彼女の中で渦巻く業火に焼かれ、焦がされたい。僕のものは彼女の柔らかさに触れ、痛いほどだった。
 「時間だ。残念だったな」
 先輩の血走った目がゆっくりと扉のほうを向く。僕もつられて同じ方向を見た。そこには呆れた顔で僕らを眺める二人の教師が立っていた。一人は中年の男、もう一人は病的に白い肌の女。僕らは引き剥がされ、別々の部屋で説教を食らう羽目になった。

 校門には人影がもたれかかっていた。長身にしっかりした体つき、電灯の白い光に輝く黒鱗。僕が切ったばかりの足の爪の持ち主だった。
 「送ろう」
 先輩の唇が短い言葉を作る。その音は藍色に染まる空に溶けていった。僕は差し出された先輩の手を握り、校門を通過した。
 「長かったな、説教」
 「先輩は短かったですね」彼女は肩をすくめた。つないだ手が揺れる。
 「今度、補習を受けることになった。結界の操作だ」
 僕は先ほどの説教を伝えようとしたが、先輩が制した。「当てて見せようか。もう少し待て、と言われただろう?傷つけずに愛する方法がわかるまで、と」
 僕は立ち止まって先輩を見る。彼女の目は僕を向いていて、目が合った。石炭のように黒い瞳は炉から出てきたみたいに穏やかな熱を帯びている。沈んだはずの太陽が彼女の瞳のなかで燃えていた。
 「読心術ですか?」
 「軽蔑したか?」
 「読んでみたらどうですか?」僕は少し笑いながらそう言った。真面目そうなつり目が柔らかな雰囲気を持った。どうやら彼女の前で考えていたことは筒抜けだったらしい。
 僕は手を握りなおして歩き始めた。先輩は少し前を歩く。しばらく歩いていると僕の家につき、手が離される。
 「また、明日な」
 彼女はそう言うと振り返らずに歩いて行く。僕はその姿が見えなくなるまで見送っていた。
21/06/16 21:01更新 / ほのの

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