読切小説
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Dear Papa!!
 その日、流浪の剣士ガルディンは敗北した。夕暮れ時に行われた、一対一の真剣勝負。そこで彼は対戦相手に己の剣を弾き飛ばされ、尻餅をついたところで鼻先に剣を突き付けられたのだ。
 
「私の勝ちだな」

 そうしてガルディンの眼前に剣を向けながら、彼の対戦相手であるリザードマンは小さく笑みを浮かべてみせた。勝利を確信した者が見せる、優越感に満ちた笑みだった。
 
「さてガルディン殿よ、どうする? 負けを認めるか? お前がまだ続けると言うならば、私はいくらでも付き合ってやるぞ?」

 リザードマンの魔物娘、エリザが確認するように問いかける。鋭く研ぎ澄まされた眼光と凛々しく引き締まった顔だちを持った、歴戦の勇士と呼ぶに相応しい面構えをした女性であった。実年齢はガルディンより若く、胸もぺたんこだったが、当のエリザはどちらも気に病むことはしなかった。特に胸の平坦さは、戦う上ではむしろ好都合であった。
 
「無理強いはしない。お前の判断に任せるよ」
 
 そんな高潔なデュエリストは怜悧な表情を僅かに緩め、自分より遥かに年上の男に降参を勧めてきた。二人は戦う前に互いに名乗りあっていたので、互いの名前を既に知っていたのだ。一方で名を呼ばれたガルディンは最初の方こそ肩を強張らせ、その顔に悔しさを滲ませながら、エリザをきっと睨みつけていた。
 しかし、やがて彼は観念したように肩の力を抜いた。力なく項垂れ、それまで全身から漲らせていた覇気をあっさりと消し去った。
 
「……いや、俺の負けだ。これ以上戦う気はない」

 ガルディンはあっさりと己の敗北を認めた。剣戟を交わした相手の力量を見抜けない程、彼は愚鈍ではなかった。そして一つの戦いの結果にぐちぐち拘泥するほど、女々しい男でもなかった。何十年も前に世界一の剣士を目指して故郷を飛び出し、それ以来剣一本で世界中を渡り歩いてきたこの男は、非常に潔い性格をしていた。
 何百何千とこなしてきた戦いが彼の腕と心を磨き、何千何万と潜り抜けてきた修羅場が彼の精神を気高く鍛え上げていった。その結果出来上がったのが、今のガルディンであった。彼は剣士として、また人間として、大きく成長を遂げていたのだ。
 しかしどれだけ高みに登ろうとも、上には上がいるのである。それをガルディンは、今更ながら痛感した。
 
「まさか、俺よりずっと強い奴がいるなんてなあ」

 地べたに座り込んだまま、その髭面の男は力なく呟いた。既に四十代を越えていたガルディンの顔は晴れやかではあったが、やはりと言うべきか、そこにはまた一抹の寂しさや虚しさも含まれていた。どれだけ歳をとろうが、勝負に負ければ悔しいものだ。それが己の全てを懸けた真剣勝負ともなれば尚更である。
 そんなガルディンに対し、エリザは剣を鞘に納めながら声をかけた。
 
「私が勝てたのは、ただのまぐれだ。僅差で勝てたと言ってもいい。お前の太刀筋は見事としか言いようがなかった」
「そこまで褒められたものじゃないと思うが」
「事実だ。人間とは何百回も戦ってきたが、戦っていて恐怖を感じたのはこれが初めてだ。勝てたのが不思議なくらいだよ」
「そうか」

 それは単なる同情ではない。真に好敵手と認めた者の健闘を讃える、彼女なりの最大級の賛辞であった。そしてガルディンもまた、エリザのその言葉が決して上っ面だけの空虚なものではないことに気づいていた。魂をぶつけ合った者同士だからこそ、相手の言葉の真の重みに気づけるのである。
 閑話休題。それを聞いて顔を上げるガルディンに対し、エリザは静かに手を差し伸べた。
 
「むしろ私の方こそ、大いに勉強になった。世の中にはお前のような凄い剣士もいるのだな。もし良かったら、また私と戦ってほしい。お前の剣から、もっと色んなことを学びたいんだ」

 手を差し出しつつそう言ってきた女剣士の目は、好奇と活力に満ちていた。声も弾み、汗まみれの顔には喜びと達成感がありありと浮かんでいた。今年で十八になると決闘前に明かしてきたリザードマンは、まさに勝ち負け以前に強者との戦いそのものを楽しんでいるようであった。
 その姿は若い頃の自分にそっくりだった。ガルディンは無鉄砲でがむしゃらだったかつての自分の姿を思い出し、懐かしさとシンパシーを感じて、無意識に苦笑を漏らした。それを見たエリザが首を傾げると、ガルディンは「なんでもない」と返しながらリザードマンの手を取った。

「俺でよければ、いつでも挑戦を受けてやるよ。俺もお前に負けっ放しなのは気に食わないからな」

 ガルディンが力強く言い返す。エリザもそれを聞いて喜色満面になり、大きく頷いて口を開く。
 
「よし、約束だ。絶対だからな!」
「ああ。約束だからな」

 二人の剣士がより強く互いの手を握り合う。心の通じ合った求道者は、共に好敵手を見つけたことに大きな喜びを感じていた。
 
「さて、それはそれとして。約束と言えばもう一つあったな」

 その喜びを噛み締めたまま、エリザが思い出したように声を放つ。ガルディンもそれを聞いて、対戦前に交わしたある「約束」を思い出した。
 
「ああ。確かにまだ別の約束事があったな」
「覚えていてくれたか。てっきり有耶無耶にして無かったことにするのかと思っていたが」
「そんなことするかよ。それはそれ、これはこれだろ?」

 勝った方は負けた方に、なんでも一つ好きなことを命令できる。それが二人が交わした「約束」だった。エリザもガルディンも、それをしっかり覚えていた。そして尚且つ、敗者であるガルディンはそれを反故にしようともしなかった。
 彼は潔い男だった。
 
「それで、お前の命令は何なんだ。なんでも喜んで聞くぞ」
「随分と簡単に言うんだな。恐ろしくはないのか?」
「約束は約束だからな。それを破るわけにはいかないだろ」
「どこまでも律儀な男なのだな。……き、気に入ったぞ」
「それはどうも……」

 エリザからの好意を、ガルディンが軽く受け流す。この時二人は互いに頬を赤らめていたのだが、二人してそれを意識的に無視した。続けて二人は「激しく動いたばかりでまだ体が暖まっているのだろう」と、ほぼ同じ内容の理屈を無理矢理つけて納得したりもした。
 二人してとっくに汗は乾いていた。
 
「さて、ではさっそく命令を出すとしよう」

 そんな己の心に蓋をしながら、エリザが咳払いの後に重々しく口を開く。ガルディンもまた意識を今に集中させ、その時を固唾を飲んで待ち構える。
 やがてその表情をより一層厳めしいものにしながら、エリザが言葉を放つ。
 
「――私の、父親になってほしい」

 意味がわからなかった。ガルディンは目を丸くした。
 そのガルディンに向かって、再度エリザが顔を真っ赤にしながら声を上げた。
 
「お前がパパになるんだよ!」

 何度言われても意味がわからなかった。
 
 
 
 
 次の日の朝。ガルディンは決闘場所の近くにあったエリザの家に厄介になり、そこで貸し与えられたベッドの上で静かに寝息を立てていた。エリザとの約束を果たすため、彼女に招かれたのであった。
 エリザ本人はここにはたまにしか帰って来ないと言っていたが、それでも家の中はよく片づけられていた。寝室も同じように掃除が行き届いており、ベッドメイキングも完璧だった。
 おかげで彼はそこで、心行くまで惰眠を貪ることが出来た。貰えるものは貰うのが彼の信条である。
 
「お父さん、朝ですよ」

 そんな彼のいた寝室の中に、一人のリザードマンが姿を現した。昨日彼と剣を交えたエリザである。この時彼女はフリルのついたエプロンを身に着け、おたまを大事そうに両手で持っていた。
 そしてエリザは彼が起きないよう静かにドアを開け、こっそり彼の寝るベッドの横まで来てからそう声をかけた。その微笑を湛えた顔は親愛と慈愛に満ちており、昨日の決闘で見せた凛々しさや鋭さはかけらも見られなかった。
 
「お父さん、起きてください。もう朝の七時ですよ」

 エリザがそう言いながら、ガルディンの体を優しく揺らす。ガルディンもそれを受け、一瞬煩わしげに顔をしかめてからその瞼を開ける。
 
「……ああ、エリザか。おはよう」
「はい。おはようございます。お父さん」

 ガルディンからの問いかけに、エリザが笑って答える。ガルディンはそのやり取りに何の疑念も抱かず、すぐさま上体を起こして背筋を伸ばした。そうして体の中にあった怠さを取り除いた後、彼はすぐにベッドから降りてエリザと相対した。
 
「もう七時か。はやいな」
「私もさっき起きたばかりなんです。今から朝ごはん作りますから、リビングで待っててくださいね」
「わかった。着替えていくよ」

 慣れた口調でガルディンが答える。エリザはそれを聞いて一つ頷き、それから「ゆっくりでいいですからね」と答えてから寝室を後にした。エリザがいなくなった後、寝室は途端に静かになり、それを肌で感じたガルディンは心の一部が欠けたような大きな寂しさを味わった。
 今まで散々一人旅をしてきたから、独り身には慣れているつもりだった。しかしなぜ今になって、一人になって寂しいと思うのか? ガルディンはそれに対する納得いく答えを出すことが出来なかった。
 
「しかし、お父さんか……」

 そんな寂しさを誤魔化すように、ガルディンはその場で立ち尽くしながら言葉を放った。そして昨日エリザから告げられた「命令」の内容を思い出し、照れ隠しの意味合いを含めた苦笑をこぼした。
 明日一日、自分の父親になってほしい。それがエリザの命令であった。最初ガルディンはその突拍子もない文言を聞いて面食らったが、すぐにそれを了承した。何がどうあれ、勝者はエリザだ。敗者は潔く勝者の言う事に従うものである。一方のエリザも、そうしてあっさりそれを承諾したガルディンを前にして驚いたりしたが、それでも最終的には自分のワガママを聞き入れてくれた中年剣士に感謝の意を告げた。
 それから二人はこのエリザの家に向かい、別々に分かれて――なぜかはわからないが、二人して「今日は別々に寝た方がいいだろう」と考えていた――夜を過ごし、そうして今に至る、ということである。
 
「あんな美人の娘がいるっていうのも、悪くないな」

 そこまで考えて、ガルディンは思わずニヤついた。齢四十を越えた自分に人並みの色欲が残っていたことに、彼は軽く驚いたが、それも含めて悪い気はしなかった。一日だけとはいえ、父親を演じるというのも悪くない。
 彼は前向きに生きるのが長生きの秘訣であると、長い放浪生活の中で実感していた。そして今回も、彼はそれを実践することにしたのである。何事も楽しまなければ損である。
 
「さて、早く着替えて娘のところに行かないとな」

 それからガルディンは思考を素早く切り替え、寝間着姿から私服へと着替え始めた。どれもここに来る前に、エリザと一緒に近くの町で「調達」したものであった。それが他人の目からどのように見えていたのか、二人は意識して気にしないことにした。
 ドアの向こうから間の抜けた悲鳴が聞こえてきたのは、そんなことを考えながら彼が着替え終えた直後だった。
 
 
 
 
「エリザ! 無事か!?」

 必死の形相でガルディンが寝室のドアを開けて外に飛び出す。寝室とリビングは壁一枚隔てた格好で繋がっており、ドア一つで直接行き来することが出来た。そしてこの家はリビングとキッチンが一体化しており、リビングに飛び込めばすぐにキッチンの状況を知ることも出来たのだ。
 そうしてリビングへ飛び出したガルディンは、すぐに目を見開いてキッチンの方へ視線を向けた。そこで彼が見たのは、片手で袋を持ったまま、全身真っ白になったエリザだった。水気やぬめり気もない、色香とは無縁の無味乾燥した白装束姿であった。
 
「あう、お父さん……?」

 ガルディンの存在に気づいたエリザが、ゆっくりと彼の方へ顔を向ける。その顔は悲嘆に暮れ、完全にしょげかえっていた。
 
「ああいや、その……すまない。ちょっと失敗してな……」

 素に戻ったエリザが弁解を試みる。しかしそこまで言ったところで、彼女は辛抱たまらないとばかりに大きく咳き込んだ。そうして彼女が咳をすると、彼女の体に纏わりついていた白いものが剥がれ落ち、空中で粉末状にばらけて周囲に飛散していった。
 それを見たガルディンは、そこでようやく彼女を白く染めていたモノの正体に気づいた。
 
「小麦粉?」
「そうだ。パンケーキを焼こうとしたら、手が滑ってしまって……」

 しどろもどろになりながらエリザが説明する。至極簡潔な内容だが、それだけで状況は十分理解できた。
 そして彼女が無事であることを知ったガルディンは、大きく安堵のため息をつきながら膝に手を置いて上半身を前に倒した。
 
「良かった。火傷とかはしてないんだな?」
「それは大丈夫だ。粉をひっかけてしまっただけで、負傷はしていない」
「そうか。本当に良かった……」

 エリザの返答を聞いたガルディンが、とうとうその場にへたり込む。それを見たエリザはそんな彼のリアクションを不思議に思い、そして好奇心のままに彼に声をかけた。
 
「どうしてそこまで安心するのだ? 私はただ、小麦粉を被っただけなのに」
「いや、いきなり悲鳴が聞こえてきたもんだからさ。つい体が動いちゃって」
「そうなのか……どうやら、いらぬ心配をさせてしまったようだ。すまない」
「別にいいよ。お前が無事ならさ」

 そこで胡坐をかきつつ、ガルディンがエリザの言葉に笑みを浮かべて答える。その直後、彼は何かを思いついたように、その笑みを不敵なものに変えた。そしてそんな彼の気配の変化に気づいてそれを訝しむエリザを見つめながら、ガルディンは大げさな語調で声をかけた。
 
「それに、娘の心配をするのは、父親として当然のことだろう?」
「なっ……!」

 不意打ちだった。エリザは何も言えず、その場で体を石のように固くした。顔は粉越しにそれとわかるほどに真っ赤になり、かつて抜き身の刃の如く鋭い光を放っていた瞳は、驚愕と羞恥によって大きく見開かれていた。
 そこにいたのは万夫不当の剣士ではなく、親からいきなり優しくされて困惑する年相応の娘であった。
 
「そ、そうやって、いきなり設定に忠実になるのはやめていただきたい! こちらにも準備というものが……!」
「でも、俺に父親になってくれって言ったのはお前だろ?」
「――ッ!」

 悉く正論であった。エリザは何も言い返せなかった。代わりに彼女はますます顔を赤くし、身に付いた粉が吹き飛ぶのも忘れて、体をわなわなと震わせた。
 
「……わかりました! では改めて朝食の準備をしますので! お父さんはテーブルに座ってて待っててください!」

 そして凄まじく投げ遣りな調子で、エリザが娘を演じる。いかにもヤケクソな反応であり、体を震わせて小麦粉の袋を握りしめるその姿は、凄まじく愛嬌に満ちた仕草だった。一言で言うと可愛かった。
 しかし今それを言うと、ますますエリザを困惑させてしまう。空気の読めるガルディンはそれを悟り、心に抱いた感想を胸の内にしまいながら立ち上がった。しかし彼は、素直にエリザの言う事を聞く気は無かった。
 
「その前に、まずお前は体を洗ってこい」

 自然な足取りでガルディンがエリザの元へ近づいていく。そして汚れるのも構わず彼女の肩を叩きながら、ごく自然な口振りでエリザに提案する。

「ここは俺が片づけておくから。それで一度全部綺麗にしてから、もう一度二人で作り直そう」
「へぁっ!?」

 またも不意打ちであった。咄嗟の反応が出来なかったエリザは、思わず口から変な声を出した。
 そんな彼女の隣にいた中年男はニコニコしていた。
 
「父の言う事には従うもんだぞ?」
「は、はうぅ……」

 ガルディンが追い打ちをかける。いきなり男に肩を叩かれ、男の吐息と気配を間近で感じたエリザの頭は、あっという間に真っ白になっていった。おかしい。いつもは男が近づくだけでこんなことにはならないのに。
 
「わ、わかりました……」

 しかしどれだけ考えても結論は出なかった。そしてここで意地を張っても詮無いので、エリザは大人しく「父親」の言う事に従うことにした。
 それでも、彼女にも意地はあった。どこまでも甘えっぱなしで終わるわけにはいかない。
 
「でも、朝ごはんは私が作りますから」
「俺にも手伝わせてくれよ。娘だけにやらせるのもあれだろ?」
「でも」
「もっと甘えてきなさい。お前は娘なんだから」
「……ッ」

 ガルディンがここぞとばかりに父親風を吹かす。エリザは圧倒されるばかりだったが、不思議と悪い気はしなかった。
 それどころか、彼女はこの時、心が芯から暖かくなっていくような感覚さえ味わっていた。顔はなおも赤く、心臓は早鐘を打つように激しく高鳴っていた。これもまた、今まで男のお節介を受けた時には感じなかった気持ちであった。
 彼が「父親」だからこうなったのだろうか? 本当に?
 
「じゃあ、ご飯は二人で……?」
「ああ、二人で作ろう。ほら、はやくお風呂に入ってきなさい」
「わかりました。じゃあ行ってきます……」

 だがエリザはそれにも、結論を出すことは出来なかった。そして胸の高鳴りという未知の感覚に戸惑いつつ、彼女は娘と父の関係を続けることにした。
 今はそれが唯一理解できる感覚であったからだ。
 
 
 
 
 そうして二人で朝食を作り、テーブルを囲んで食事を済ませた二人は、この後昼頃まで何をしようかと相談し合った。そしてそこでエリザはガルディンが服装に無頓着なことを指摘し、それがきっかけで二人一緒に彼の服を買いに行くことになったのであった。
 
「本当、お父さんは私がいないとダメダメなんですから。ここはちゃんと私に任せてくださいね」

 次の行動が決まった直後、エリザは得意げに無い胸を張ってそう言った。その姿は完全に、だらしない父に対して見栄を張る娘そのものであった。かつて放っていた決闘者の気迫は、この時は完全に雲散霧消していた。
 
「身だしなみくらいちゃんとしなきゃ駄目ですよ。そんなんじゃ、いつまで経っても結婚できませんよ」
「別に俺はいいんだよ。一生剣で生きていくって決めてるんだから」
「そんなの駄目です! 独身なんて絶対ダメですからね!」

 エリザが口を酸っぱくして忠告してくる。それは果たして娘としてなのか、それとも魔物娘の本質が独身を許せずにいるのか。ガルディンには判断がつかなかった。
 しかしその代わり、彼の胸中にふと悪戯心が沸き上がった。それから彼は、このしきりに結婚を推してくるリザードマンに対して、不敵な笑みを浮かべて言葉を投げた。
 
「じゃあお前が俺と結婚してくれるか?」
「は」

 エリザはそこまで言って、その場で体を硬直させた。対して反応の返って来ないことを訝しんだガルディンがエリザの方を見てみると、彼女はそこで石のように固まっていた。
 ついでに言うと、彼女の顔は頭から煙が噴き出さんとするかのように真っ赤になっていた。その体もわなわなと震え、今にも爆発寸前というような体であった。
 
「わ、わたしが、おまえと? わた、わたしが……」

 震える声でエリザが呟く。その声には驚愕と羞恥と、若干の歓喜が混じっていた。

「結婚かあ……えへへっ」

 ガルディンは咄嗟に身の危険を感じた。

「ごめん! さっきの無し! はやく出かけよう! 出かけて服買おう! そうしよう!」

 ガルディンはすぐさま椅子から跳び上がり、大急ぎで外出の準備を始めた。それにつられてエリザも正気を取り戻し、それまでだらしなく緩みきっていた表情を一瞬で引き締めた。
 
「そ、そうだな。食器は私が片づけるから、お前は寝室の整理をしておいてくれ!」
「よしきた! すぐ終わらせて服買うぞ!」

 エリザもエリザで、つい先ほどまで見せていた醜態を取り繕おうと必死だった。生まれついての戦士であるリザードマンにとって、あの姿はやはり万死に値する様相であったのだ。そしてガルディンもまた、この部屋に漂い始めた甘い空気を振り払おうと必死になっていた。これまで独り身を貫いてきたこの中年男は、自分がまともな恋愛をすることに慣れていなかった。異性と交わすそれに恐怖すら抱いていた。
 
「おい娘よ! こっちは終わったぞ! はやく行こう!」
「はい! こっちもいまちょうど終わったところです! お父さんは玄関で待っててください!」

 だからガルディンも、ここぞとばかりに父親役に縋りついた。これなら恋愛感情抜きで、エリザと堂々と接することが出来るからだ。
 しかし、本当にそれでいいのか? この時ガルディンの本心は、彼の理性が下した「弱腰」な判断に疑問符を投げかけてきていた。ガルディンはそれを努めて無視したが、彼の心は一向に晴れなかった。
 
 
 
 
 こうして二人は、親子ごっこを続けたまま外出した。家を出るとすぐにエリザがガルディンの腕に抱きついてきたが、彼女は驚くガルディンに対してつっけんどんな態度で釈明した。
 
「これはお父さんに甘えてるだけです。親子ならやって当然のことです」
「そうか? 普通の人間はここまでしないと思うが」
「魔物娘にとっては普通のことなんです! いいから行きますよ!」
「お、おう」

 結局ガルディンは、エリザの言う通りにした。それ以上先に踏み込むのが怖かったのだ。エリザもまた、己の本心と向き合うことに未だ躊躇していた。
 二人とも剣に関しては勇猛果敢であったが、色事に関しては奥手もいいところであった。
 
「それで、今日はどこまで行くんだ?」
「うむ。近くの町にちょうどいい服屋があるのだ。そこに向かうとしよう」
「わかった。案内してくれ」
「承知」
 
 エリザの目指す服屋がある町は、彼女の家から歩いて五分程度の所にあった。そこは完全な親魔物領であり、通りを見れば魔物娘と人間が当たり前のように肩を並べて行き来していた。路地裏に隠れて逢瀬にふけるカップルもいるくらいだった。
 その中を、ガルディンとエリザは二人並んで歩いた。途中すれ違う魔物娘の幾人かが、彼らに向かって妙に熱い視線を投げかけてきたりもしたが、二人とも意識してそれを気にしないようにしていた。
 
「あらエリザ! いらっしゃい! 久しぶりね!」
「うむ。そちらも変わりないようで何よりだ。少し見て回るぞ。いいか?」
「もちろん。どうぞ好きなだけ見ていってね」

 彼女の目指す服屋は、サキュバスが取り仕切るごく平凡な洋服店であった。そこそこ繁盛しているらしく、広くないが明るい彩りで飾り付けられた店内では、何人もの客が思い思いに服を物色していた。そしてその客のほぼ全てが、異性とペアを組んで店の中を回っていた。
 ガルディンにとってはまったく未知の領域だった。そもそもファッションとは無縁の自分が、こんなキャピキャピした場所に足を踏み入れること自体、生まれて初めての体験であった。彼はどことなく居心地の悪さを感じ、それを払拭しようとそわそわ体を動かし始めた。
 
「あら、そちらの方は? もしかして、今日はその人の服が欲しくて来たのかしら?」

 そうして店に入ったガルディンが物珍しげに辺りを見回していると、そんな彼の存在に気づいた店主サキュバスが彼に視線を向けてきた。慣れない場所でいきなり魔物娘に注目されたガルディンは年甲斐もなく狼狽したが、そこはそれまで彼女と親しげに話していたエリザが間に入ってとりなした。
 
「実はそうなんだ。今日はこの者に合う服を探しに来たのだ」
「あら、そうなの。あなたが男の人の服を取り繕うなんて珍しいわね」
「そ、それくらい特別でもなんでもなかろう。私だってそれくらいはするのだ」
「ところでこの人は? 知り合いなのか?」

 サキュバスの指摘を受けてあからさまに動揺するエリザに、空気を読まないガルディンが説明を求める。しかしエリザにとって、それはある意味助け舟であった。彼女はすぐにガルディンの方に向き直り、頷きながらそれに答えた。
 
「ただの顔馴染みだよ。私がこの店の常連で、通い詰めているうちに彼女と親しくなった。それだけだ。私が実家を出て、ここで一人暮らしするようになったのはちょうど十歳の頃だから、もう八年くらいの仲だな」
「そうね。この町でエリザと一番付き合いが長いのは私くらいかしら。だから私、この子のことは何でもお見通しなのよ」

 エリザの説明にサキュバスが乗っかる。
 
「――この子が、あなたを好きになっていることくらいね」

 そして躊躇なく爆弾を投下する。小気味よい喧騒に包まれた店内で、ガルディンとエリザは揃って体を石にした。
 
「は?」
「なにを」
「とぼけても駄目よ。一目見てわかるんだから」

 突然のことに思考停止する二人に、サキュバスがクスクス笑って声をかける。中年男とリザードマンの頭の中は仲良く真っ白になった。周りでは買い物を楽しむ客達の楽しげな声が飛び交っていたが、彼らの耳が聞き取ったのは自分の心臓の鼓動だけだった。
 
「サキュバスの観察眼を舐めたら困るわね。それで、どこまで行ったの? 一緒に買い物に来てるんだから、もう告白とかは済ませたのかしら?」

 好奇心を隠そうともせずにサキュバスが問いかける。一足早く我に返ったエリザは、そんな顔馴染みからの追及に対して釈明しようとした。
 
「いや、違う。違うんだ。この人間とは、別に恋仲になっているわけではなくてだな。その、私のワガママでここまで一緒に来ているに過ぎんのだ」

 さすがに「父親になってもらっている」とは言えなかった。しかしそのようにはぐらかしたエリザに対し、サキュバスは容赦なく言葉を投げかけた。

「誤魔化したって駄目。あなたこの人が好きなんでしょ? いい加減素直になりなさいな」
「だから、この人間とは普通に親しくしているだけであって、恋人では――!」
「じゃああなた、なんでその男の人の腕にしがみついているのかしら?」
「えっ」

 サキュバスにそう言われて、二人は今の自分達の姿に改めて気づいた。家からここまで、ずっとエリザがガルディンの腕に引っ付いていたのだ。そして二人は同時に、どちらもそれを特別なものと意識せず、そのスタイルのままここまで来ていたことにも気づいてしまった。
 何より、そうして二人一緒にいた時、共にこれまで感じたことのない安堵感と幸福感に包まれていたことにも。
 
「あ、うっ、うわあっ」
 
 それをここに来て初めて認識したエリザは、慌ててガルディンの腕を離して彼と距離を取った。顔は真っ赤に染まり、心臓が爆発せんほどの勢いでバクバク跳ねまくる。ガルディンの様子はどうか? 彼の顔を伺うことも出来なかった。エリザはただ俯き、バツの悪い表情を見せるだけだった。
 しかしここで無関係を装うとしても、もはや後の祭りであった。
 
「その人の隣にいるのが心地よかったから、そうして抱きついたままここまで来れたんでしょう? 今更誤魔化したって無駄よ」
「いや、それは、その……」
「自分の気持ちに素直になりなさい。無理して我慢するものじゃないわ。自分に正直になるのよ」

 サキュバスが優しく諭すように言葉をかける。心の壁を取り払い、彼女の本心を優しく引きずり出す。
 初心なエリザにとって、そのサキュバスの搦め手は効果覿面だった。彼女は居ても立ってもいられず、そこで初めてガルディンの顔を見た。

「……」

 彼もエリザと同じように顔を赤くしていた。視線はせわしなく泳ぎ回り、額からは汗が流れ落ちて来ていた。
 自分と同じなのか。それを見たエリザは安心を覚え、同時に胸の奥から暖かい感情が溢れ出してくるのも感じた。
 そこでガルディンがエリザの方を向く。二人の視線が交錯する。
 
「あっ」
「きゃっ」

 次の瞬間、同じタイミングで視線を逸らす。それを見たサキュバスは思わず苦笑をこぼした。
 
「この二人、相性バッチリね」

 そしてそんなことを呟きながら、彼女は一人でガルディンに合う服を探し始めた。今の二人の空気をぶち壊すような野暮な真似はしたくなかった。
 それからサキュバスがいくつか見繕った服を持ってきて彼らの元に帰って来るまでの間、エリザとガルディンは互いに視線を逸らしたままその場から動こうとしなかった。
 
「……」

 しかし二人の指だけは、この時しっかりと絡み合っていた。直接手を握りあうのではない、指同士だけの控え目な繋がり。
 それでも、二人は確かに繋がっていた。
 
 
 
 
 それから家に帰るまでの間、二人は終始無言であった。
 サキュバスの選んだ服を物色し、それを買ってその場で着こなし、代金を払って外に出た。その後屋台でサンドイッチを買い、二人一緒にそれを食べた。そして腹ごなしを済ませた二人は、町の中を適当にぶらぶら回って時間を潰した。
 その間、二人は何も喋らなかった。無言で町を回り、無言で家路についた。町を出る頃には夕日が沈みかけていたが、それを見ても誰も何も言わなかった。
 ただ手だけをしっかり握り合い、二人寄り添って歩き続けるだけだった。
 
「……」

 彼らの間に言葉は無かった。しかし不思議と、その心は暖かさで満たされていた。
 戦いでは絶対に得られない、奇妙な心地良さ。しかしその謎の高揚感を、二人は共に喜んで受け入れていた。
 
 
 
 
 夕飯を作る時も、二人は無言だった。長年連れ添ったパートナーのように的確なチームワークを発揮し、見事なまでの流れ作業でてきぱきと料理を作っていった。
 そうして出来た料理を、二人はまたも無言で食べ始めた。何を作って食べたのか、二人はよく覚えていなかった。相手の顔を見るのに夢中で、手元と舌に意識が回らなかった。
 
「エリザ」
「ん」

 二人が会話を交わしたのは、そうして淡々と食事を済ませ、食器を片づけた後だった。何をするでもなく、二人してリビングでくつろいでいた時、不意にガルディンが彼女の名を呼んだ。エリザもまた素直にそれに応じ、流れるような足取りで彼の隣にちょこんと座った。
 そのまま自然な動きで、エリザがガルディンの肩に頭を載せる。ガルディンもまたそれを受け入れ、何も言わずに彼女の頭を撫で始めた。
 
「私な、子供の頃から母上に憧れていたんだ」

 エリザが言葉を続ける。ガルディンは何も言わず、彼女の頭を撫でながらそれに耳を傾ける。
 
「母上は立派で、凛々しい方だった。剣の腕も立ち、家事も私なんかよりずっと手際よくこなしていた。もちろんそこにも憧れていた。でも一番羨ましかったのは、母上が父上に心から甘えていたことだった」

 エリザが目を閉じる。一拍置いて、心の底から感情を吐き出すように言葉を紡ぐ。
 
「素敵だった。私もいつか、母上みたいに愛する男に甘えてみたかった。だから私は、家を出てここに住み着いた」
「男を探すために?」
「そうだ。でも見つからなかった。確かに私は母上のように甘えてみたかったが、それでも私は、自分より弱い男にデレデレしたくは無かったのだ」

 エリザがしみじみと呟く。その後彼女は、自分の父も母を負かし、その後改めて母に告白したのだと明かした。だから母は遠慮なく父に甘え、父もまたそんな母を躊躇なく受け入れられると。
 それはリザードマンとしての性であった。そしてエリザもまた母と同じように、そのリザードマンの性を受け継いでいた。
 
「でも、それを言うなら俺だって、お前に負けたぞ。俺はお前より弱いってことになる」

 そこでガルディンが指摘する。それに対し、エリザは首を横に振った。
 
「あの時言っただろう? あの時勝てたのはまぐれでしかないと。それにあの時、私はお前の剣の中に確かな強さを感じた。私はそれに惚れたんだ」
「惚れたって……」
「嘘じゃない。本当だ。服屋であのサキュバスに言われて吹っ切れたよ。私はもう、自分を誤魔化すことはしたくない」

 そう言い返すエリザの顔は、どこまでも凛々しかった。威風堂々、迷いのない表情であり、とても美しかった。
 それを見たガルディンは思わず息をのんだ。そして自分の心臓が飛び跳ねたのを感じて、彼もまた自分の本心を悟った。
 
「その様子からすると、お前も私に惚れたクチか?」

 そんなガルディンの心中を察したかのように、エリザがこちらを見上げつつニヤリと笑って問いかける。ガルディンは一瞬虚を突かれたように呆けた顔を浮かべたが、すぐに観念したように息を吐き、彼女を見返しながら言葉を返す。
 
「俺の心がわかるのか」
「わかるさ。私は読心術は使えないが、お前の心はわかるんだ」
「どうしてだろうな」
「多分、お前のことが好きになったからだろうな」

 エリザが澄まし顔で答える。口調こそいつものままだったが、顔は茹蛸のように真っ赤だった。
 ガルディンも同じだった。彼の心臓もバクバクと早打ち、全身の血液が沸騰したように熱くなっていく。
 そして二人は、そんな互いの胸中を読み取ることが出来た。相手が真に自分の事を好いているのだと察することが出来た。それだけ彼らは心を通わせていたのだ。
 
「……」
 
 ガルディンが頭を撫でる手を降ろし、それをエリザの手の甲にそっと添える。エリザもまたそれに応え、彼のごつごつした手を優しく握り返す。
 それだけで相手の気持ちが手に取るようにわかった。言葉はもういらない。
 彼らはもはや「好敵手」でも「戦友」でも無かった。
 
「告白は」

 やがてガルディンが口を開く。それでも彼はけじめをつけておきたかった。
 
「俺が勝った時に、俺の方からさせてほしい。結婚とか、後のことは、全部その後でしたい」
「……」
「それまで、色々お預けってことで、いいか?」
「……ああ」

 男のわがままを、エリザは許容した。
 
「いつまでも待ってる。お前が私を倒して、私に告白してくれるのを……私と結婚してくれるのを」
「ごめん」
「謝るなよ。その代わり、私も本気で行かせてもらうからな」
「わかってる。全力で戦わないと意味がないからな」
「そうだ。それでこそ戦士というものだ。……でも今は」

 エリザが頭を動かす。肩からこめかみを離し、倒れ込むようにガルディンの膝の上に頭を載せる。
 
「今はこうして、あなたに甘えていたい。だめか?」
「……わがままだな、お前も」
「あなたよりはマシなはずだ。それで、どうだ? 嫌じゃないか?」
「駄目なわけないだろ」

 ガルディンが即答する。エリザから手を離し、改めて頭を撫でる。
 
「好きなだけ甘えなさい。今日はそういう約束だからな」
「……ありがと、お父さん」

 エリザが目を細めて微かに笑う。ガルディンもそれを見て微笑をこぼし、体の芯から暖かくなっていくのを感じながら、リザードマンの頭を撫で続けた。
 それだけで十分だった。今の自分達にはそれだけで十分だと、どちらもが考えていた。
 生真面目な二人の夜は、こうしてゆったりと過ぎていった。
 
 
 
 
 ガルディンが再戦を望んだのは、その次の日だった。早朝、一緒に作った朝食を食べる中で宣戦布告されたエリザは、喜んでその申し出を受け入れた。
 
「いいとも。では今日の正午、最初に戦ったのと同じ場所で始めるとしよう」
「準備はそれまでの間に済ませておけってことか」
「そういうことだ。私も色々用意があるからな。それでいいか?」
「もちろん」

 二人の話はすぐにまとまった。それから彼らは昼までに準備を済ませ、足並み揃えて約束の場所に赴いた。
 
「……」

 寒風の吹く中、剣士二人が無言で向かい合う。やがてガルディンが剣を構え、エリザもそれに応えるように剣を構える。
 一際強い突風が二人の頬を叩く。次の瞬間、エリザが雄叫びを上げて突撃する。
 それが開戦の合図となった。それから二人はたっぷり一時間、思うがままに剣をぶつけあった。
 刃がぶつかり、火花が散る。汗を振りまき戦う二人は、まるで仲良く踊っているようにも見えた。
 実際、戦う二人は笑っていた。血沸き肉躍る死の舞踏を、二人は心の底から楽しんでいた。
 しかしそんな舞踊も、ついに終わりを迎えた。何百何千もの剣戟を交えた後、ガルディンの剣が天高く宙を舞った。
 
「しまった!」
「遅い!」

 エリザの蹴りがガルディンの腹を叩く。一瞬の虚を突かれたガルディンは思わず尻餅をつき、そうして倒れ込んだガルディンの鼻先に剣の切っ先が突き付けられる。
 
「今日も私の勝ちだな」

 淡々とエリザが告げる。追い打ちをかけるように、落ちてきた彼の剣が彼の真横の地面に突き刺さる。
 そこでガルディンもまた、観念したように肩の力を抜いた。
 
「負けたな」
「あと一歩届かなかったな。今日もいい勝負だった」

 エリザが剣を納め、いつぞやと同じように手を差し出す。ガルディンも快くそれを握り、彼女に引っ張り上げられる形で立ち上がる。
 
「告白は今日もお預けか」
「そのようだな」

 負けたにしてはやけに晴れやかな表情でガルディンが呟き、エリザもまたにこやかに受け答えする。そしてすぐにエリザは表情を引き締め、ガルディンを見つめながら口を開いた。
 
「告白はお預けだが、その代わり私の言う事を聞いてもらうぞ」
「そう来たか。まあ別にいいぞ。それで、今日は何をしてほしいんだ?」
「昨日と同じだ。お父さんになってくれ」
「またそれか。お前も飽きないな」
「別にいいだろ。お前に甘えていると、とても安心できるんだ」

 勝ったはずのエリザが、顔を真っ赤にしてガルディンに食って掛かる。ガルディンはケラケラ笑ってそれをなだめつつ、そんな彼女の要求を快く受け入れた。
 
「怒るなって。別に嫌って訳じゃないんだから」
「そうか? 本当に嫌がってる訳じゃないんだな?」
「当たり前だろ」

 それが不器用な彼女なりに思いついた甘え方なのだと、ガルディンは理解していた。そしてそれを無碍にするほど、彼は愚物ではなかった。

「お前がそれを望むんなら、なんでもやってやるよ。遠慮しないで甘えてきなさい」
「そうか。ではなってくれるか」
「もちろん」

 そんなガルディンの返答を聞いたエリザは、子供のように目と口を大きく見開き、明るく輝いた表情を作ってみせた。まったく、こんな顔されて断れるわけないだろうが。実の娘のように甘えてくるエリザと接する中で、ガルディンの胸の内には確実に父性が芽生え始めていた。
 そうしてほっこりした気分になりながら、ガルディンが続けてエリザに問いかけた。

「それで今日はどうする? まずは朝みたいに、昼も一緒に作るか?」
「それなんだが、今日は少し趣向を変えてみたいんだ。ちょっと待ってくれ」

 しかしエリザは、ガルディンの予想通りに動くことはしなかった。彼女はそう言うと、前もって持ってきていたバッグの元まで一目散に走り、それを開けて中身を物色し始めた。何をする気だとガルディンが訝しんでいると、やがて準備を済ませたのか、エリザが踵を返してガルディンの元まで走ってきた。
 
「お前にもっと甘えてみたいから、今日はこれを使いたいのだ。見てくれ」

 そう言ってエリザが、自分の両手に持っていたものをガルディンに見せつけた。両の手にはそれぞれ、空の哺乳瓶とガラガラが握られていた。
 ついでに言うと、彼女の首には毛糸の紐がかけられ、その紐にはおしゃぶりが括りつけられていた。
 
「は?」

 嫌な予感がしてきた。心の中に暗雲を漂わせ始めたガルディンに向かって、エリザが声を発した。
 
「お前がパパになるんでちよ!」

 その声に迷いはなく、その目はキラキラと輝いていた。
 
 
 

 ああ、これは早く勝った方がよさそうだ。
 まんざらでもない気分になりながら、それでもガルディンはそう思わずにはいられなかった。
16/12/14 19:57更新 / 黒尻尾

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