読切小説
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大社の稲荷との掟



 今年も射狩神事が行われ、大社の大広間には頭を垂れた多数の人間が跪き、そして熊や猪を初めとした様々な供物が、御神――この社にお住まいになられる豊穣を司る稲荷神へと捧げられていた。
 件の御神は一段高い社の中から、捧げられた全ての供物を見下げていた。
 御神は金と栗色との間の色の御髪を生やし、神官服と巫女服を混ぜたような奇妙な服に包まれた御身は未だ幼子のように小さいものの、立派にお生やしになられた三本の尾を高々と誇示していた。
 しかしながら、大きくつぶらなその目に浮かぶのは落胆の色。
 捧げられた供物は一級品もあれど、熊は洗われていたものの犬の唾液の匂いが染み付き、猪の足には巧妙に隠された罠の跡。
 すなわち、れっきとした掟破り。
 したり顔でこれらを捧げた馬鹿どもは、ばれはしまいと高をくくっているようだが、それを見抜けないような稲荷ではない。
 それに掟を守っている物もあるにはあるが、素人狩で捕まえた小動物はどれも何本もの矢で命が尽きるまで射掛けられ、ボロ布の様な有様。
 さらに言い募るのならば、これらの供物を捧げる者達にも問題がある。
 神の御前ということで身を清め身なりを整えてはいるが、その口から出てくる吐息に混じるのは狐の嫌う煙管の匂い。
 そんな者達が十数人も境内にいれば、鼻の良い稲荷には苦痛でしかなく、思わず香の匂いを移した扇子で顔を覆う。
「では今年の供物はそれにしよう」
 さっさとこんな場所からは立ち去りたいという思いを隠しながら、稲荷は一つの獲物を選ぶ。それは巨大な熊でも肥え太った猪でもなく、供物の中でまだ見れる程度のボロ雑巾と化した一羽の痩せた雉だった。
「ご苦労であった。残りは皆で食すが良い」
 そう告げた稲荷は早々と皆に背を向けると、そのまま社の奥へと引っ込んでいってしまう。
 しかして稲荷が社の奥へと消えた後、人々は神に捧げられていた物を御下がりとして、集落で分け与えて食べるのがここでの風習であった。




 人々が境内から消えた後、稲荷神は薄らと煙管の匂いが染み付いてしまった身に纏っている服を脱ぎ捨てると、まっさらな着物へと着替えてあの嫌な匂いを忘れようと香木を焚き始めた。
 そして稲荷は苛々とした気分であのぼろ布化した雉を掴むと、それを空中へと投げてしまう。
 しかし雉は床板に落ちる前に、顔に一枚の紙で面をし中性的な面持ちの黒い女性物の着物を身に着けた人形(ひとかた)――陰陽術で言うところの稲荷に生み出された『式』によって受け止められた。
「とりあえずそれで鍋でも作れ」
 ぞんざいに告げた稲荷に静々に深々と頭を下げた人形は、それを持って主人の命令を執行するために土間へと向かい調理を始めた。
 しかし土間から味噌で野菜と一緒に煮込まれた雉の良い匂いがしても、稲荷の心のうちは晴れることはない。
 そもそもこの稲荷にしてみれば、毎年のように人が掟を破った供物を捧げるのだから、約定通りにこの近辺の集落に掛けた豊穣の加護を打ち切ってやる筋を、先代の稲荷の意向で苦々しく思いながらもそれを曲げて大人しく供物を受け入れ、嫌々ながらに豊穣の加護を続けて来たのだ。
 次の年こそは、その次の年こそはと期待してみたものの、集落の者達の態度は改善される様子は無く、今年が駄目ならばもう厳しい態度で接すると決意した今日も、この稲荷を無知な存在であると蔑み笑うかのように掟を破ってきた。
 もうこうなれば約定など知ったことではないと、稲荷にはもう人々を加護してやる気はなくなっていた。
「そもそもこの神事の元は、働き手である男(おのこ)を稲荷に連れて行かれては困窮するからと泣いて縋るので、先代が憐れに思って始まったものだぞ。それをやつらは……」
 思わずギリギリと歯を噛み締めた音が、稲荷の小さい唇の奥から漏れてしまう。
 そんな様子を見た稲荷の人形は雉鍋を怖々と鍋を持ちながら、稲荷の居る囲炉裏に持っていこうかどうしようかと狼狽している。
「邪魔するよ」
 しかしそんな稲荷の様子などお構いなしに、唐突に一人の人間がこの場所へ窓から上がりこんできた。
「なんぞ様か小汚い猿(ましら)よ」
 稲荷がその人間にその様に言葉を掛けるのは無理もない。
 齢が十二・三の幼い顔つきをした背もあまり高くない一人の童は、顔と手足に加えて衣服にすら泥をつけ、体からは汗と土の匂いが立ち上らせながら、窓枠に足を掛けて座っている。
 そんな童を思わず猿と称してしまうのは、人間が嫌いになりつつある稲荷でなくても無理が無いことだった。
「爺ちゃが、神さんが不味い飯貰ってヘソ曲げてるだろうから、山で鳥でも狩って持ってけって」
 ほらっと童が腰に下げた物を稲荷に見せると、そこには石で仕留めたのか、矢傷のない美しく立派に肥え太った雉が二羽あった。
 たしかに今日稲荷が手に入れたあのぼろ布の雉とは比べ物にならないものだったが、二羽という所が稲荷は気になった。
「おい猿よ。掟を知らんのか?」
「おきてって?」
 本当の猿のように窓枠に足を掛けたまま首を傾げてみせる童。
「捧げ物は一人一つのみ。知らぬわけではあるまい」
「??一つだろ??」
 何を稲荷が言っているのか判らないのか、童は稲荷の顔と手に持った雉をきょろきょろと見比べていた。
「二羽その手に持っているだろうに」
「一羽はあんたの、一羽はオイラのだよ?」
 なにを当たり前のことをいっているのかと、童はしたり顔で稲荷に言い放った。
「なんぞ猿よ、ここで飯を食べる気か?」
「いいだろ、そんぐらい。こっちゃ鳥やんだから。鍋持った姉ちゃ、この雉さばいて鍋の中へ入れてくれ」
 ずかずかと土まみれの素足で部屋の中に入ってきた童は、囲炉裏に鍋を掛けていた人形に雉を押し付けた。
 急に話を振られて慌てているのか、人形は縋るような様子を稲荷に見せていた。
「ふふ、面白い猿よ。今日は特別に食事を共にするのを許す。だがその前に」
 二枚の符を空中に放つと、囲炉裏横で雉を捌いている人形とは体格が一回り大きい女性型の人形を二体呼び出すと、それらに童を捕まえさせた。
「そんな小汚いなりの猿が前に居たのでは、せっかくの雉鍋の味が悪くなる。なので湯殿で全部洗い流してこい」
 あわあわ言いながら二体の人形に連れて行かれる童が面白いのか、扇子を開いて口元を隠しながら、声を押し殺すようにして笑う稲荷。
「くっくっく。こんな楽しい夕餉は久方ぶりよな」
 そんな楽しそうな稲荷の様子を、雉を捌きつつあきれた様子で残った人形は見つめていた。



 風呂で全身を洗い流され、着た事のない仕立ての良い着物を着せられた童は、着物の裾を緩めたり腰帯に指を入れて具合を直したりと落ち着かない様子だった。
「どうした猿よ。早く食べねば、鍋の中身全部食ろうてしまうぞ?」
「待て、オイラが狩った雉だぞ、全部食うな!」
 童は慌てて椀の中へと、良い具合に煮えた雉肉をひょいひょいと見事な箸使いで入れていく。
「猿にしては素晴らしい箸使いよな」
「そら爺ちゃに叩き込まれた狩りと箸は、人より上手いさ」
 その爺ちゃというのが童はとても好きなのだろう、その人に教えられた箸使いを褒められて童はとても嬉しそうな顔になった。
「さっきらその爺の話ばかりよの。猿に親はないのか?」
「居る。けど『知恵なし』とか言って爺ちゃにオイラを押し付けた。でも爺ちゃがオイラの『知恵なし』は『俺の血が濃いせい』とかいってた。オイラはさっぱり意味わかんねけどな」
 あっけらかんと雉肉を口の中へと放りこみながらの童の言葉に、稲荷は気分を害したのか眉根を寄せていた。
「自分を捨てた親を憎いと思ったことは無いか?」
「たまに聞かれっけど、オイラは憎いってのがなんだかよくわかんね。でもオイラは爺ちゃと一緒に暮らせるのが楽しいな」
 ニコニコと雉鍋に舌鼓を打ちながらそう言う童に、稲荷は少し感心したようだった。
 童は深い意味で言ったのではないと思うが、たしかに過去の嫌な出来事を蒸し返すより、現在の幸せをじっくりと噛み締める方が確かに建設的である。
 評するならば一つの汚点で全てを憎むのではなく、一つの美点で全てを褒め称えるのがこの童の本能的な生き方だと云えた。
 そしてその事を今日の射狩神事に当てはめて考えてみれば、実に稲荷が大人気なかったのかが判る。
 たしかに掟を破った輩は処罰されてしかるべきだろう。その点は問題はない。
 しかし問題なのは小動物を捧げた人々のことだ。
 日頃狩などした事はない彼らは、射掛けた矢が鳥や兎の急所を外して逃がしかけても、逃がすまいと何本も矢を射つなど苦労して捕まえたのだ。稲荷に喜んでもらい集落に豊作をもたらしてもらおうと。
 純粋に集落のために神事を行ってくれた彼らに対し、稲荷は見た目が悪いと差し出された獲物を蔑すんでろくすっぽ吟味もせず、さらには掟には無い煙管の事なども持ち出して全ての人間を嫌いになろうとするとは、神と崇め奉られる身としては些か狭量に過ぎるのではないだろうか。
「おい、神さん。オイラがみな食っちまっていいのんか?」
 難しい顔で椀の中身を睨みつけていた稲荷に、童は顔を覗き込むようにしながらそう訪ねる。
「今考えても詮無き事か。さっさと鍋を食ろうてしまおう」
「ああ!その肉、狙ってたんだぞ!」
 ニヤリと口を歪ませてから、ガツガツと音が出るような勢いで食べ始めた稲荷に、こちらも負けまじと勢いをつけて食べ始めた童。
 二人の勢いに鍋の中身が保つ分けも無く、あっという間に空にしてしまった。
「うむっ、ちと食べ過ぎた」
 だらしなく足を崩して後ろ手で上体を支えていた稲荷は、片手を持ち上げて着物越しにお腹を擦っていた。
 童はもっと大胆に、両手両足を広げてその場に寝転がってしまっていた。
「こっちも腹いっぱい……爺ちゃに言われて野鼠も狩ったけど、いらんかったー」
「野鼠?そんなもので何をするのだ?」
「爺ちゃがこれの天麩羅が狐の好物だって言ってた。そうじゃないのんか?」
 童は起き上がると風呂に入る時に腰から外された布袋を掴み、逆さにして大小三匹の鼠を床板の上に出した。
 狐の妖怪である妖狐も稲荷も確かに揚げ物が好きな一族ではあるが、油揚げならまだしも鼠の天麩羅など誰も食べているところを見たことは無かった。
「食うたことはないの」
「じゃあ捨てるなり、食うなり好きにしろぃ」
 どかりと再度体を横たえた童は、そのまま天井を見上げて、腹の中身がこなれるのを待つようだった。
 そんな童の恐れを知らぬその態度に、少し稲荷の食指が動いた。
「なあ猿よ……」
「なんだ?神さん用か?」
「いやそのまま寝転がっておれ」
 稲荷の手が童の頭に乗せられると、童はすーっと眠ってしまった。
「これで朝までは起きぬな……」
 稲荷は童の様子を確認したのち、ゴソゴソと童の前を肌蹴させると、童の着けていた褌を取り払ってしまう。
「やはりここはまだ子供よな」
 稲荷の小指ほどの長さで親指位太い童の皮の被った力無い男根を掌に乗せると、感触を確かめるようにもう片方の手で包みこんでしまう。
 そのままの状態でゆっくりと手を動かして、童の陰茎をご立派様にしようとする稲荷。
「小さきとはいえ、身に付いた土の香りの中からでも判るぐらいに、雄の匂いは確りしておる」
 肌蹴た胸元へ顔をつけて匂いを堪能しながら、両手でやさしく男根を愛撫する稲荷と、それを寝て受け入れている童の姿は、傍目から見れば幼い二人が夜に見た両親の睦み合いを真似ている様にも見える。
 しかし稲荷の手管は幼女のモノとは違い、明らかに熟達した妖艶なる妖怪のものだった。
 やがてその手管に反応した童の陰茎は力を入れ始め、やがて稲荷の中指ほどにまで大きくなった。
「さてでは頂くとしようかの」
 大口を開けたあと、ぱくりと未だ誰にも制覇されてはいない無垢な一物を口に含んだ稲荷は、舌先で皮から若干露になった亀頭を舐め始めた。
 ちろちろと鈴口の辺りを舐めてやり、その周りもぐるりと舌を動かして舐め、それが亀頭にくっ付いていた皮の内へと潜り込み、唾液でふやかしたあとで舐め剥がして行く。
 ゆっくりと痛みを与えないように時間を掛けてくびれの段差まで剥がすと、唇を使って童の陰茎の皮をずり下ろす。
 すると舌に艶々とした丸い感触を感じ、試に稲荷が口を童の陰茎から離してみると、生まれ出でた赤ん坊のようにつるつるとして、紅玉のように赤々と照り返す亀頭がそこにあった。
「猿の亀はほんにかわゆいの」
 うっとりとしながら、稲荷は再度それを口に含む。
 生まれて初めて皮を剥かれた亀頭は余りにも敏感に過ぎ、稲荷のざらざらとした舌が巻きついて二・三度擦っただけで果ててしまい、しかも童の射精は情けないことにぴゅるっと一回躍動しただけで終わってしまう。
 しかし稲荷は童の年齢では仕方ないかと納得し、強く尿道を一吸いしたあとで童の陰茎を解放した。
 少量だけ出た精液を舌の上で味わい転がしていた稲荷だったが、ふと目を童の下半身に向けるといまだに陰茎の力が抜けていないことを知る。
 確かめるように陰嚢を掌で持ち上げてみると、無くなった精を増産しようと睾丸が働いている様子が手に伝わってきた。
「ふふっ、性の無い男子よの」
 その後稲荷は、夜半過ぎて童の陰茎が立たなくなるまで口で精液を搾り取ってやった。
 翌日にふらふらと起きた童を社から送り出した後、その日の昼に試しにと食べた野鼠の天麩羅は、飛び上がるほど美味かったそうだ。



 さてこれで終われば悪戯稲荷と悪戯された童の物語。
 しかしながらこの二人の物語は、云わば織姫と彦星の類のもの。
 社の中で稲荷が待てど暮らせど、常の日には童は訪れることは無い。
 二人が出会えるのは一年に一度の射狩神事の時のみ。
 捧げられた供物を一言掛けて受け取った稲荷が社の中へ入ると、最初に出会ったときのように窓枠に足を掛けて挨拶する童。
 そして始まる童の持ち寄った獲物での宴会と、稲荷の童には内緒の口遊び。
 この間柄は二人の秘密であるとし、稲荷はともかく、童は約束を守り大好きな祖父にすら秘密を貫き通した。
 そんな関係が一年二年と積み重なり、三年四年と繰り返せば、二人にも変化はある。
 童は体格を一年ごとに大きくし、もう見た目も童ではなくなり、純真から来る幼さは残しつつも確りとした逞しい青年へと成長した。
 彼が持ってくる獲物も石で仕留める鳥やウサギではなくなり、弓矢で仕留めた鹿や猪豚へと変わった。
 しかしお土産に野鼠を三・四匹持ってくるのだけは変わる事は無かった。
 一方の稲荷にも変化はといえば。
 件の男の精を貰い受けたからか、二人が出会った日より背丈も順当に大きくなり、それに釣られるように胸や尻も育った。
 稲荷の見目を表すとすると、茶と金の間の色の御髪は腰辺りまでまっすぐに伸び、その毛一本一本が絹糸のように細くしなやかで陽光を跳ね返し、見たものが思わず手に触れてしまいたくなる様な艶やかさを含み、胸は醜くならない程度に大きく端整だが、腰周りが細いのか帯の上から大きくはみ出しており、その尾っぽが生えたお尻は着物の上からでもわかるような安産型に。
 顔の形も他者と比較することが出来ないほどに美しく、その美貌にはたまさか社の境内を整えていた里の衆に彼女が笑いかけると、妻子持ち問わず全てが思わず稲荷に見惚れてしまうほどである。
 尾っぽの数もこの四年で三つから四つへと増え、豊穣の力も近隣の人里だけではなく、周りの山々へと微々たる物ではあれど配れるほどに強くなっていたのだが、しかし四という数はあまり里の衆から好かれるものではないため、常は三つに見せかけて暮らし、それを誇るのは男が来たときのみにしていた。
 そして今日は、童と出会って五年目の射狩神事。
 今日は何を持ってきてくれるのか、一年でどれほど男が成長したのかとわくわくしていると、空から一羽の白いカラスが窓から入り込み、稲荷の足元へと降り立った。
「カーーー!」
 一鳴きして稲荷に存在を教えたカラスは、ばさりと形を崩して紙束となる。
「手紙か。誰からかの?」
 拾い上げてみると、そこには稲荷には余り見たくの無い押印と名前が書かれてあった。



 夜になり童から青年へと成長した男が、腕で絞め殺した肥えた雌鹿を抱え、腰に四匹の野鼠を下げて今年は社の土間へと入っていった。
 一年前、猪豚を仕留めた男が窓枠から入ろうとして、危うく猪豚の巨体で窓を壊しそうになったため、今年からは土間から来いと言われていたからだった。
 しかし常にあった稲荷の人形による歓迎はなく、社の中もひっそりとしている。
 首を傾げつつも男は鹿を土間に置くと、我が家であるかのように社の奥へと入っていく。
 程なくして憮然とした表情で囲炉裏の脇に座り、珍しく手酌で酒を飲んでいる稲荷が見えると、男は頬を緩ませた。
「神さん、いるじゃなぃか。どうしたんだ暗い顔して?」
「……猿か」
 この二人、出会って五年も経とうというのにお互いの名を知らない。稲荷が男を『猿』と呼び、男は稲荷を『神さん』と呼ぶために、必要を感じなかったのだ。
「今日のはな、すんげー良い鹿だぞ」
「……獲物を持って返るがよい」
 嬉しそうにそう報告する男を斬って捨てるかのように冷たく言い放った稲荷。
 いつに無く機嫌の悪そうな稲荷を見た男は、すんすんと鼻を鳴らして稲荷の匂いを嗅いだあと、小首を傾げて見せた。
「月のにしては血の匂いはしないけんど?」
「ぶっ! なにを行き成り言い放つ!?」
 酒を噴出した稲荷は、そこで初めて男に視線を向けた。
「いや爺ちゃが女性が月の物で機嫌が悪い時は、何しても無駄だから放って置けって」
「もしや猿、娶ったのか?」
 女っ気どころか女性にすら関心のなさそうな男の口から、女性を気遣うような台詞を聞いた稲荷はその顔に驚愕の表情を貼り付けた。しかしその顔が男にとっては面白かったのか、けらけらと笑い始めた。
「あははは、そんな訳無い無い。娶ったのは近所の商家の兄ちゃよ。うんで居ないよっかはマシって、生まれた子の守を時折させられるんさ」
「そう、なのか……」
 ほっと息を吐いた稲荷は、自分から生まれ出でた感情を男にごまかすように酒に口をつけた。
「そんで、なにで鹿持ってかえらねばならんの?」
「……上からの命で来年は里を凶作にしなければならん」
「ふーん。で、どうして鹿食わん?」
「猿は相変わらずに鈍いのー。受け取ってしもうたら、約定に従って豊作にせねばならぬだろうに」
 だから今日は罠や犬で取った獲物に難癖付けて貢物も貰わなかったと、稲荷は男に付け加えて言い放った。
 ふむと考えるように首をひねらせた男は、ぽんと手を打つと口を開いた。
「ならよ、オイラがここで勝手に鍋食うから、神さんが使用代として鍋半分食えばいいんでない?それなら約束に反しねーだろ?」
「……お前、本当に猿かえ?」
「件の商人の兄ちゃから知恵を学んだのよ。誰も不幸にならないように知恵使えってな」
 してやったりと笑う男。そしてその男の見た目とは違う部分での急成長振りに、思わず目を丸くする稲荷。
「つーわけで、こっちゃ鹿の半身渡すんだから、鍋の姉ちゃ出して調理してくれ」
「……本当にお主は猿なのかえ?」
 丸め込まれた稲荷はしぶしぶと人形を呼び出すと、土間へ向かわせて鹿を捌くようにと命を出した。
「つーかよ、そんなに嫌なら豊作にすればいいさよ?」
「そう出来たら、どれほど良いかの……」
 鹿鍋が出来るまで、差し向かいで酒を飲み交わし始める二人。この場には男の年齢がどうのと野暮を言う人は存在しない。
「今年の終わりから翌年の明けに掛けて地脈が休む年。そうなれば何処も彼処も、山も里も不作になりおる。その中で豊穣を司る稲荷の加護する場所だけが富むと、その時は良いが延いては周りの土地から略奪者が来て里に迷惑になってしまいよるからな、余の力を使った特別扱いはできぬのさ」
「うーん、つまりはみんなひもじい思いをする年って事だな」
「ようやくと、お主が猿だと実感できたわ」
 呆れたような安心したような呟きのあとで、稲荷は真っ赤な杯に注がれた酒を飲む。
 そして男もそれに応えるかの様に、猪口に入った酒をくぃっと全部飲み干す。
「しっかしこの酒美味い。オイラが作る猿酒とは全然ちげーな」
 猿酒とは本来この男が作った酒という意味ではなく、果物などが発酵しそれを保存していた木の洞や樽に雨水が入った事で出来た、自然の酒のことである。
「猿の作るものと比べられては困る。こっちは神が造ったものだぞ」
「違いねぇ!」
 けらけらと嬉しそうに笑うその男の姿は、成長しても出会ったときの童のものだった。
 やがて人形が持ってきた鹿鍋が囲炉裏の炭火で煮られだすと、喋りあいは止めずにかつかつと二人は食べ始めた。
 本当に男の狩った鹿は良いもので、脂はしっとり甘く、肉は確りとした歯ごたえがあり、身から出てくる出汁も一緒に煮られる野菜に一層の旨味を与えていた。
「しかしこれは二人で食べるには多いと思わぬか?」
 内臓は山に返して獣の餌になるとしても、肉だけで大皿三枚に山に積んだ分量があるため、そう稲荷がつぶやいてしまうのは致し方が無い。
「こんだけの量を食えないって、神さんは食が細くなったな」
「馬鹿を言え、猿の食が太すぎるのだ。猿の爺も猿のようには食えぬだろうに」
「あーそーいえば、飯を食ってたらもっと手加減してくれって言われたっけ」
「くっくっく、であろうな」
 そんな楽しい食事が終わりごろまで進むと、最終的には稲荷は大皿一枚分と大半の野菜を食べ、男は少量の野菜と大皿二枚分の肉をぺろりと食べ切り、ついでに汁で干し飯を使った雑炊まで拵えて食べてしまった。
「少々食べ過ぎた……」
「なら鼠の天麩羅はいらんのん?」
 少し胃の腑に血液を持っていかれて青い顔になった稲荷に、男はまだまだ入ると言いたげに、土産に持ってきた野鼠数匹を捧げ見せる。
「食いたいが、入りはしまいな」
「じゃあ……鍋の姉ちゃ、一匹だけ揚げてくんな」
 一束になった野鼠を稲荷の人形に渡すと、その人形は稲荷の命令を待たずに男の言葉に従うと、鼠を持ち土間へ向かって歩き出した。
「じゃから食えぬと」
「いんや、オイラが食うんさ」
「……猿よ、いつからお主は狐になった?」
「いやさ、神さんが毎回余りに美味そうに食うんで、ちょっち味見してみんたくなって」
 にっかりと笑った男は、まだかまだかなと落ち着かない様子で土間の方へと視線を向けていた。
 男の視線が外れたのが気に食わないのか、稲荷は少しだけ唇を尖らせて頬をほんのりと膨らませる。しかし食に関心を向けている男はそんな稲荷の様子には気が付かない。
 やがてむくれている事に自身で気が付いた稲荷は、表情を揉み解して元に戻そうとすると、程なくして土間のほうからぱちりぱちりと油の弾ける音と、香ばしい匂いが立ち込めてくる。
 やがてその弾け音が消えると、土間から人形が一匹の鼠を揚げた天麩羅を皿に盛って部屋へと入ってきた。
「お、来た来た」
 待ってましたと男が人形から皿を受け取ると、その揚げたての天麩羅を手に持った。
「わっちゃちゃ!熱っちゃ!」
 わたわたと手の中でお手玉した後に、男は二・三度それに息を吹きかけ冷ましてから、鼠の頭から胴の半ばまでがぶりと噛み付いた。
 男が味わうようにもぐもぐと顎を上下に動かすと、程よく揚げられた鼠の骨が音を立てて砕け髄があふれ出で、口の中に野性味あふれる旨味が染み出してくる。
 それを衣や肉と脂とを混ぜ合わせてみると、魚の骨のより髄は美味いが鳥ほどではなく、鳥よりも肉に獣の旨味があるが兎ほどではなし、兎よりも脂は良いものの豚ほどに美味くはないという、少し独特な風味が感じられた。
 しかしながら肉は少なく脂も少ない骨ばかりの鼠の天麩羅は、人間であり育ち盛りでもある男にとっては少々物足りないのか、顎を動かす度に微妙な顔つきになっていった。
「まあ美味というよか珍味だ」
 残りの半身を食べようとした男の手から、何者かがそれを掠め取り、部屋の中空へと舞い上がっていった。
 天麩羅を取った盗人――それは紙で出来た鳥のようなもので、男の手からそれを奪い取ると部屋をぐるりと一周し、最終的には稲荷の手元に納まってしまう。どうやらこれは稲荷の人形――鳥の見た目で言い換えるならば、鳥形だろうか。
 まあそんなことはどうでもよく、稲荷は紙の鳥から天麩羅を受け取ると、それを口の中に放り込んで食べてしまった。
「ちょ、食べれんっち言ってたさ」
「一の好物を目の前で食われては、満腹であろうと我慢なぞ出来る訳があるまいよ」
 そう嬉しそうに美味しそうに口にある天麩羅を食す稲荷に男は何もいえなくなり、まあ大して美味しいものではなかったから良いかと執着心を投げ捨ててしまった。
 そんな男に向かって、ちょいちょいっと稲荷が口を動かしながら手招きする。
 いぶかしんだ男が稲荷に近寄ると、稲荷は男の胸元に手を当ててしな垂れかかり、男の肩に甘えるかのように頭を預けた。
「これが欲しのならば、口で移してもよいぞ?」
「なッ!?」
「冗談だ、狼狽するでない猿よ」
 そう耳元で稲荷が呟くと、胸に当てていた手から眠りの妖術を男に掛け、すると男はすとんと眠りに落ちてしまい、その場に寝転がってしまった。
「ふふっ、猿でも一応は男よの。口づけすると言うたら、慌てておった」
 ころころと笑う稲荷だったが、段々と笑い声が吐息に変わり、その吐息もやがて熱を帯び始める。
「ほんに、猿は良い男になったものよ」
 するりと男の胸元に手を入れた稲荷は、ゆっくりと服を肌蹴させ、その露になった胸元に顔を近づけて匂いを嗅ぎだす。そこには数年前は土の香りに隠れる程度だったオスの匂いが、いまでは土の匂いを押しのけて前面に押し出されていた。
「はぁ……はぁ……」
 その匂いを嗅ぎながら荒い息を吐くと、稲荷は男の胸に舌を這わせていく。
 筋肉の良く付いた胸の谷間にうっすらと浮かんだ汗の珠を舌で転がし味わうと、次は男の乳首を飴玉であるかのように口に含んで舐めていく。
 最初はただの平面だった乳首を稲荷が絶妙のさじ加減で愛撫し続けると、男の乳首は女のそれであるかのようにぷっくりと膨れ上がり、もっと舐めてくれと稲荷に訴える。
 その訴えを聞き届けながらも、稲荷の手は男の下腹部へと伸びていき、目当てのものを手探りで見つけ出そうと動くと、やがてその感触が手に触れた。
「なんぞ猿よ、乳首を舐められただけで勃起ってしまったのかえ?」
 稲荷の手の内に感じるそれは、褌から飛び出ようとするかのように力強く起立し、その手に存在を教えるかのように熱い血潮で脈動していた。
「ほんに可愛ゆい男よな。では、邪魔な褌など取り払ってしまおうな」
 幼子に母親が語りかけるかのような柔らかい口調で稲荷が告げると、褌が生き物であるかのように独りでに動き出し、するすると男の股間から逃げだすように解けてしまった。そして残ったのは天を突き刺さんばかりに隆起した男の一物。
 肥大した陰茎は皮の鎧を脱ぎ捨てて亀頭を露にし、竿にはくっきりと静脈が浮き彫りにされ、男の鼓動が打つ度にびくびくと震えるその姿は、初めて二人が出会った頃よりも雄雄しくも禍々しく変貌していた。
 それを目にした稲荷はことさらに息を荒くすると、その男根に顔を寄せた。
「す〜〜……はぁ〜〜……」
 肺の中を男の匂いで満杯にしようと陰茎を顔に擦り付けて深呼吸を繰り返していたが、まだ匂いが薄いと感じたのか、稲荷はゆっくりと手を巻きつかせ上下に扱いてその匂いを強く濃くさせようとする。
 だがその濃縮の工程が待てないのか、稲荷は男の玉袋に鼻先を埋めると、そこの匂いを胸いっぱいに吸い込み、そこでようやくうっとりとした表情になった。
「たまらぬなぁ、猿の玉の匂いは。味もみておくとするか」
 ちゅぽんと音を立てて男の左の睾丸を口に含んだ稲荷は舌先で転がし始め、右の睾丸を左手の親指と人差し指とで丁寧に揉み解していく。
 鼻には陰茎から発する匂いを感じ、口には種袋に染み付いた精の味。右手には男根の硬い感触に、左手には精の詰まったぷりぷりとした玉の触感。それら全てが憎からず思っている相手のモノだと実感するたびに、稲荷の股間から透明な液が染み出して服を濡らしていく。
「ちゅぱ……ちゅぱ……」
 玉袋に入った睾丸を口の中に吸い込んで舌でねっとりと弄繰り回したあと、余り快楽を与え好きないようにするかのように口の中から追い出し唇で揉み、やがてまた口の中に戻すを繰り返してゆく。
 もう一方の玉もこりこりと指で刺激を与えつつも、壊れ物を扱うような丁寧な指使いで副睾丸へと精を詰めて行く。
 敏感な陰茎のくびれに指を這わせて性感を高め、鈴口から染み出した液体で亀頭を愛撫してそれを煮詰めるが、煮詰め切る前に陰茎の皮で覆われた部分を掴みなおして、ゆっくりとより高い段階へ導く。
「はぁ、はぁ……もう、十二分よな」
 口と手を男根から離した稲荷は、出来合い具合を確かめるかのように、一つ匂いを嗅いでみた。
 発せらているその匂いは稲荷の鼻から直接脳内を揺り動かして理性を吹き飛ばしかけると、彼女の体をぐらりと揺らした。
 危うく自身が育てた匂いで気絶しかけた稲荷は、頭を振って意識をはっきりさせたが、もうその目には獣欲と淫欲の混ざり合った色しか残ってはいなかった。
「猿が、猿が悪い。こんなに美味そうな匂いをさせる等……」
 うわ言のようにそう呟いた稲荷は、もう堪らないとばかりに男根を口の中に納めてしまった。
「うッん……ちゅぷ……ぬちゅぅ〜……」
 ゆっくりと舌で味わいながらも唇を窄めて愛撫し、尿道の内にある精の匂いのする透明な液体を吸引する。
 しかし鈴口から漏れ出るその液体は止まる事を知らず、次々とあふれ出る湧き水のように稲荷の口を溢れさせようとする。
「こきゅ……ちゅぷ……ちゅぅ〜……」
 稲荷はそれが満杯になる前に喉を可愛らしく鳴らして嚥下すると愛撫を再開し、やがてそれが溢れ出そうになるとまた喉を鳴らすということを繰り返し、段々と男の下半身に性感を与えて高めていく。
 やがて暇になっていた稲荷の両手も男の睾丸へと伸びると、今度は愛撫ではなく高め果てさせようとする指の動きで愛撫を開始した。
 そんな淫獣と化した稲荷の奉仕に、寝てるとは言えどもただの人である男が長々と耐えられるわけも無く、程なくして副睾丸から精が上り始めて前立腺へある程度溜まると、尿道の中を全て押し流すほどの勢いで外へと流れ出てゆく。
「ふむぅふぅ!!」
 ごぼりと陰茎から吐き出された男の精液は、稲荷が必要以上に愛撫で高めていたためか、もはや流動体ではなく粘土に近い固形のものと化し、稲荷の舌の上にずっしりとした質感を与えていた。
 そんなモノが男の陰茎がビクつく度に出されるものだから、稲荷は余りの粘度に飲み込むことも出来ず、ただただ大きくも無いその口に溜めることしか出来ない。
 稲荷の口に含んでいた陰茎の度合いが根元から中ほどへと変わり、それが亀頭部分から鈴口に唇を触れるだけにして容量を確保しても、稲荷の頬はだんだんと膨らみリスのようなものへと化しても足りず、その口の端からぼどぼどと男の精が漏れ出し、男の股間を白く染め上げてゆく。
 そしてようやく男の射精が終わった頃には、男の股間は白い粘液で覆われ、稲荷は口を押さえて吐き出さないように堪えていた。
 しかし稲荷は何度喉を鳴らそうと試みても、どうやっても飲み込めないと理解したのか、両手でお椀の形を作るとそこに口に入っていたもの全てを吐き出した。
「……こんなに、濃く、硬いものを、だし、おって」
 その手のお椀には並々と男の黄身がかかった白濁液があり、それは飲みこめる程度を逸脱した粘度の所為で稲荷の手の隙間から零れ落ちる事はなかった。
「ごくっ……綺麗にせねばいかぬよな」
 喉を一鳴らしした稲荷は、手のお椀に口をつけると少量ずつ食べるかのように口を動かし、唾液と混ぜ合わせながら飲み干してゆく。
「……すぅ……すぅ……」
 そんな稲荷の隣にあっても、流石に稲荷が掛けた眠りの呪だけあって、男は稲荷に与えられた性感や射精感で起きることはなく、股間を吐き出した精液で濡らしながら、静かに寝息を立てていた。
「……ごくぅ。ぷはっ、はぁぅ……」
 全ての精液を飲み終わり、荒い息を吐きながらもどこか満足げな稲荷だったが、自分の不始末で男の股間が精液濡れになっている事に気が付くと、今度はそこを舐めて綺麗にし始める。
 しかし隆起したままの男根に邪魔をされて男の陰毛に絡みついた精液を舐め取ることが難しく、やっとの思いで舐め取って綺麗にしてみれば、もう男の鈴口からは新しい精液を出す準備を終えたことを知らせる透明な液体が溢れ出ていた。
 しょうがないという思いを半分、また精を貰えるという思いを半分抱いた稲荷は、今度は初っ端から扱き出させる手つきで男の陰茎を弄び始める。
「……なぁ猿。お前は余のことをどう思っておるのだ?」
 眠っている男の腕枕で添い寝しつつも手を上下させながら、稲荷は自身の心の内を吐露するかのように、その横顔に問いかける。
「余はお前にとってこの社の神か、それとも人として見てくれておるのか、それとも好いた女子として接してくれておるのか……」
 言葉を積むたびに動かす手は早くなる。そうでもしないと心の澱に押しつぶされてしまうかのように。
「なぁ猿。余はお前のことをこんなにも好いておるのだぞ……」
 その返答は眠っている男の口から出るわけも無く。代わりに出てきたのは、陰茎から放たれた精液だけだった。
 




 何時もの通りに夜半過ぎまで精を貰った稲荷と男は翌日の朝に別れ、また一年の間が開く。
 しかしこの一年は稲荷が申した通りに厄介な年となった。
 まず大半の種籾から稲が育たたずに腐ってしまった。
 次に稲になったものも病気と日照りでどんどんと駄目になり、このままでは税を納めると里の者が食うのが無くなってしまうという状況になる。
 せめて山で食い物を取ろうとするものの、その山の実りも野生の動物や魔物娘が腹を空かせてしまう程に乏しく、さらには山に入った人を獣は肉を目当てに、魔物娘は精を目当てに襲いかかってくる始末。
 こんな状況に直面した大社の周りにあるいくつかの里の連中は、これは社の稲荷の祟りだと言いだし、前年に罠や犬を使って狩った贄を差し出した者達を糾弾しはじめた。糾弾された側は他の場所も凶作な事を引き合いにだし、これは唯単に運が悪いだけだと言い返す。
 それでもこの一年は、前年が豊作だった為に蓄えもあり乗り切ることが出来、姥捨てや子を捨てることをせずにすみ、税で取れた大半の作物を持ってはいかれたものの、次の年へ繋げることの出来る程度の実りは確保できた。
 そんな辛い時期を乗り越え、次の年の豊作を祈願する射狩神事の期間となった。
 里の者たちの入れ込みようは前年の比ではなく、前年にあった不正を誰も許そうとはせず、犬を連れたり罠を仕掛けている様子のある者は里長から厳しく叱責された。
 しかし狩りの期間の中で出会う獲物は鳥や兎でさえ稀でしかなく、見かけても此方が狙いをつける前にさっと逃げてしまう。
 そんな山の有様では肉食の獣も魔物娘も腹を空かしており、双方ともに遠巻きに人間が独りになるのを狙っていた。
 いつに無く危険な匂いを孕んだ今年の神事に、使用は禁じられているとしても、護身用として鉄砲を肩に掛けてしまうのは人の身としてはいたし方のないことだった。
 最終日になっても獲物は見つからず、もう犬を嗾ける以外に方法は無いのではないかと里長同士が相談しあっている時、山の中で轟音が発せられた。それは狩りに使用を禁じられた鉄砲の音だった。
 慌てて里長がその場に訪れると、やせ細った熊が一頭胸を打ちぬかれて息絶えていた。
 それを撃った者曰く、突然襲い掛かってきて両腕を振り上げて来たために、咄嗟に背にあった鉄砲で打ってしまったと。
 身を守るためにしょうがなく撃ったとしてその者はお咎めは無かったが、問題は狩りの成果がこの痩せ熊一匹だけな事だった。
 大社に奉納するまで喧々諤々と里長達が話し合い、最終的には何もお供えしないより、掟を破ってはいてもお供えをした方が良いかもしれないと言う意見で大まかに合意し、なるべくその熊の鉄砲傷を隠す様にして奉納してしまった。
「なんだこれは……」
 しかしその里長の考えは甘かったことは、大社の稲荷神の顔つきを一目――否、目の端に入れただけで判った。
 熊を目にした稲荷神の表情は冷たく硬く恐ろしい。それこそ前年まで罠や犬を使って得た獲物を奉納し、稲荷神を酒の席でせせら笑っていた連中が、この場では土壇場の罪人であるかのような青白い顔に変わるほどに。
「なんぞ理由があれば述べよ。さもなくば……」
 異様な稲荷神の様子に、一番年嵩のある里長の一人が恐る恐る言の葉を紡ぎだした。里の者が護衛で熊を撃った事、取れた獲物がこれしかなかったこと、そして里長同士の協議の末にこの場に奉納したことを震える声で稲荷神へと。
「……里長の言は理解した。本来ならば凶作にしてしかるべきだが、心情を酌んで並にしてやる。まかり間違えても豊作は期待するでないぞ」
 熊は皆で食せと仰せになった稲荷神は、そのまま社の奥へと引っ込んでしまった。
 そんな怒り心頭な様子の稲荷神が告げた、今年の収穫を並にするというその言葉を信じられた者は、悪いことにこの場には一人もいなかった。





 奉納の場から稲荷は足音を立てずに走って奥の間へと向かい、慌ててその襖を開け放ち中に入ると、後ろ手にその襖を閉めて急いで防音の呪を無言で紡いだ。
 そこまでやって安心したのか、稲荷は唐突に鼻をむずむずさせながら顔を段々と上へ持ち上げる。
「ひゃくちょッ!」
 そして可愛らしい声でくしゃみを放った。
「危ない危ない……まったく、黒薬(火薬)など使いおって」
 稲荷は呟いて里の者たちへ文句を口から述べる。
 そう、稲荷は奉納の儀式で差し出された熊から発せられる火薬の匂いを嗅いだ所為で、唐突に出そうになったくしゃみを我慢していたために、硬い表情になってしまっていただけであり、里の者たちが怒っていると感じたのは勘違いであった。
 そもそも掟の中で火薬が禁止されているのは、火薬が孕んだ『火の卦』が『金の卦』を多く含む稲荷神の体調を崩す原因になるため。
 稲荷神が鼠の天麩羅やその代用品である油揚げが好きなのは、無論それらが稲荷神の舌に合って美味しいというのもそうだが、元はそれらが揚げられた事でこんがりと狐色に色づき、そこから放たれる『金の卦』が体調を整えると稲荷神の中で信じられているからである。
 閑話休題(それはさておき)。
「せめて鼠の一匹でも奉納してくれれば、来年は豊作にしてやったものを。ほんに運の悪い奴らよ……」
 そう残念そうに呟いた稲荷の顔には、渋面が作られていた。
 そもそもこの稲荷はこの一年の間、人知れず凶作に悩む里の衆に対して心を痛めていたのだ。だからどんな獲物を奉納しても、それが掟に反しない限り、来年は豊作にしてやろうと思っていたのだ。
 それ故に、今年は火薬を使用した獲物しか得られなかった里の者たちが不憫でならなかった。
 しかし約定に従わなければならない稲荷神の身としては、ただ不憫だからと掟を曲げて助けてやることは出来ない。
「ええい、止め止め。来年は並――よりちょっとだけ色をつけてやる事で決定したのだ、何時までもうじうじとするのは余には合っておらぬ」
 昔の稲荷では考えられないほどに、今の稲荷は丸くなった。
「しかし猿のやつ、遅いのぅ」
 その稲荷の変化をもたらしたあの男は、通年ではいつも現れる時間になっても現れず、やがて現れぬままに夜半が過ぎ空が明け白くなってきた。
 まだかまだかとその間待っていた稲荷だったが、白くなってきた夜空を見つめていた時にふと、もしかしたらあの男は凶作の影響で死んだのかと不安がよぎり、さらにはそれが現実の事のように感じられてしまい、慌ててその不安を押し流すかのように酒を喉の奥へと押し込んだ。
 鬼がそうするように酒をごくごくと水であるかのように飲み干した稲荷だったが、何も入れてない胃の腑に酒が直撃し、頭に酒気が回りぐらりと体が傾いでしまった。
 慌てて体を手で支えて頭を振って酒気を追い出そうとするものの、それが裏目に出たのか支えている手が外れてその場に横になってしまう。
 ぐらぐらと揺れる視線を目を瞑ってやり過ごすと、神通力を使用した深呼吸して酒気を散らしてゆく。
 段々と体の中で暴れていた酒気が治まり、頭の中も幾分すっきりした稲荷は目を開けた。
「よっ。神さん」
 倒れていた稲荷の視線の先にある窓枠に、あの男が二人が出会った時のように座り込んでいた。
「ま、猿!今まで何を、いや、ど、どうしたのだその血は!!」
 勢い良く上体を起こした稲荷は、男の様子にど肝を抜かれたようだった。
 そう男は稲荷が言った様に、頭の天辺から足先まで血塗れであり、さながら幽鬼の類のような姿だった。
「いやさ、山ん中で腹空かせた熊に出会っちまって、こっちは逃げようとすんのに向こうは追いかけてくんのさ。さらには弓矢は利かんは飛礫は駄目だわで、もう腹括って山鉈握り締めて突進したら……こうなっちまったんよ」
 けらけらと笑いながら男が話した内容に稲荷はぞっとして慌てて男に駆け寄ると、神通力で熊に受けたであろう怪我を治療してやろうと、ぺたぺたと男の体を触って傷を手探しし始める。
「ちょ、神さん、くすぐったいって」
 さらにけらけらと笑い出した男を押しとどめながら手で触っていた稲荷だったが、一通り触っても何処にも怪我は無い。
「おい猿よ、怪我してるのではないのか?」
「怪我なんぞ、オイラはしてなーよ」
「熊に襲われたのだろう?」
 そこで稲荷が勘違いしていると判ったのか、男は一頻りけらけらと笑うと、稲荷に向かって窓の外を指し示した。
 いぶかしんだ稲荷が窓の外を見ると、男よりも二周り以上はある熊が胸から鉈を生やし、そこから血を流して死んでいた。
「これはオイラの血じゃにゃーて、あの熊の血さ」
 その男の言葉に思わずあんぐりとしてしまった稲荷の顔が面白いのか、もう男の笑う度合いは爆笑と言って差し支えない程だった。
「……おいこら猿。余は心配してやったのだぞ」
「うひゃひゃ、悪い、悪かったて、うくくっ、だから怒らんとって」
 どうやらツボにはまってしまったらしい男の笑いは止まらず、そしてその笑い声が続くたびに稲荷の怒りの度合いが濃くなってゆく。
 そしてその濃さが臨界を越えたとき、稲荷の拳が常人では見えない速度で男の腹に突き刺さった。
「どうか、笑いは治まったであろう?」
「ぐふぅ……うん、治った」
 しかしその打撃は効いていたのかいないのか、ケロリとした様子の男だったが笑いだけはぴたりと止めた。
「そんでよ神さん、なんか今日催しでもあるんかい?」
「?? そんなものはないはずだが?」
「そうなん?でもさオイラ、里の若衆が狩道具手に持って、此処への道を歩いているの見かけたんだけどな」
 男のその言葉に嫌なものを感じ取った稲荷は紙を鳥に変じさせると、それを男が言っていた場所へと飛んで向かわせた。
 稲荷が鳥の目を通して見た光景には、確かに若い男たちが手に弓矢や鉄砲などを持ち、猟犬を携えているものも居た。
 何事かと稲荷がその鳥の口を介してその者達に問いかけてみれば、稲荷の我侭に付き合うのは嫌だと、来年は無理にでも豊作にしてもらうと告げて、その鳥を鉄砲で撃ち貫いてしまった。
「チッ、うつけどもが。余をこの場から追い出したら、元の荒地に戻るだけだと知らぬのか……」
「大変だそうだな、神さん」
 男はのほほんと相変わらずな様子で、稲荷の焦りなど感じもしていない様子だった。
「余が猿と此処で奴らと鉢合わせになれば、猿も猿の爺も里に対して不味かろう。早く此処から離れた方がよいぞ」
「うんにゃ、全然オイラは構わねーし、爺ちゃも気にしねーさ」
 男はそう稲荷に呟くと、熊に刺さったままになっていた山鉈を抜く。するとまだ体内に残っていた血が男の体をより赤く染め、より血生臭い腐臭を男に与えた。
「猿、何をしておるのだ?」
「爺ちゃが言うにはさ、神さんが良い事ばっかすると、人は神さんがありがたい存在だって忘れるんだと。うんで、忘れてしまったら人たちを懲らしめて思い出させるのが、神のもう一つのお仕事だって」
 男は言葉を紡ぎながらも、山鉈で器用に素早く熊の皮を剥いでいき、あっという間に熊の毛皮を拵えてしまった。
 それを手に持ち、腰にある鞘に山鉈を収めた男は、顔の全体に指で熊の血を塗りたくり、頬や喉にも血で異様な紋様を施していく。
「でもさ、オイラはやっぱり神さんは優しい人で居て欲しいんよ。懲らしめるために意地悪して、そんで人に嫌われたりすんの見たくねーのさ。だからさ、懲らしめるのはオイラのお仕事にさせてくんね?」
「どうして猿が余の手伝いをするのだ……」
「どうしてって、そりゃぁ、オイラ神さんのこと好きだかんな。好きな女が嫌われんの、黙って見てらんねーさ」
 唐突に出てきた男の心情の吐露に、稲荷は咄嗟には把握することができず、二呼吸の後でようやく理解して顔を羞恥で真っ赤に染めた。
 しかし男はそんな稲荷の様子に気が付いていないのか、しゃがみ込んで腰の袋に境内の玉砂利をいくつか詰めていた。
「それにさ……」
 そして手に持った血濡れの熊の毛皮を頭からすっぽりと羽織ると、そこで男の雰囲気が何時ものとはがらりと変わる。今までの感情を表に出して童のような印象を回りに抱かせるものから、周りの者を射竦めるような刃の先のようなものへと。
「祟り神と人との間に出来た忌み子の子孫なオイラが、こういうのは適任じゃないかな?」
 熊の毛皮の奥で笑った血濡れの男の唇で作った笑みは、見たものをゾッとさせるほどに禍々しいものが張り付いていた。





 さてこの後この日に起きたことは、時がたち当事者の誰も彼もが天に召されたとしても、里の者の誰も詳しくは語ろうとはしない。
 しかし一つの言い伝えがこの日に生まれた事は、この近辺の里の者たちにはよく知られていた。

『稲荷神に弓引くことなかれ。鉄の筒を向けることなかれ。犬を嗾けることなかれ。
 もしこの禁を破る事あれば、山に住まい稲荷神を守護する化生が現れ出で、
 稲荷神に仇なす者たちに仇を返す。
 かの化生、熊の皮を被った血濡れの猿の様な姿なれど侮るなかれ。
 体は猿より大きいが、身のこなしは猿より素早く、鉄の筒の弾ですら掠りはしない。
 力自慢の男が押さえようとも、熊のような力強さで跳ね除けてしまい、捕まえることかなわず。
 化生に牙は無くとも、その手から放たれる飛礫は、目を潰し、耳を吹き飛ばし、頬肉を抉る。
 化生に爪は無くとも、その手に握られた大鉈は、手を飛ばし、腕を潰し、足を両断す。
 いくら鳴いて縋ろうとも、仇なす全ての者の体の一部を奪うまで、
 首謀せし者の四肢を千切るまで止まりはしない。

 ゆめゆめ、この化生の事を忘れるべからず。恐ろしさを子々孫々まで語り継ぐべし。 』

 この化生は魔物娘であり、それの悪戯ではないかといぶかしんだとある子供が、事の真相を知ろうとしたものの、その真相を知るものはもう少ない。
 唯一、まだ天に召されていない当時を知る人――弓を引いたために目を潰されたと云われている老人に尋ねたことがあった。
 その老人は震える口で子に聞かせた。
 あれは魔物娘などではない。体中から血を垂らし、腐臭を周りに撒き散らし、恐ろしい笑みと暗い瞳をもったあの化け物が、魔物娘であるはずが無いと。
 それっきり老人はいくら子供がせがもうとも口を開くことは無く、終いにはしつこいその子供を追い払ってしまう始末。
 これでは残るは、当の大社に住まう稲荷神と神主でありその夫である男に聞くほかはないとその子供は意気込むものの、親がそんなことをしたらどんな罰が当たるかもしれないとの大反対もあり、それはかなわなかった。
 もうこの言い伝えの真実を知り語れるものは居ない。
 そしてその子供は、諦めて外へ友人と遊びに行ってしまい、それから帰るとすっかりこの言い伝えのことなど忘れてしまっていた。


11/09/11 18:24更新 / 中文字

■作者メッセージ
というわけで稲荷神のお話でした。

長いな、うん、長い。
好きな魔物娘なので、丁寧に書こうとしたら、どうしても長くなってしまう。

しかも二人の結末を出さず仕舞いで、二人のネチョネチョも出さず仕舞いの有様ですよ。

というわけで、二人の絡みは読者様がお好きに想像して下さいませませ。

ではまた次回のお話で会いましょう。中文字でした。

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