連載小説
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その1

 ―人生という奴は時として一つの行動が雪だるま式に膨れ上がって、最初には予想もつかなかった結果を呼び起こす事がある。

 運のある人間はそれを時流と呼び、その流れに乗ることで権力への道を突き進むのだろう。意思のある人間ならば、その流れを自分でコントロールできるように抗うのかもしれない。力のある人間ならば、時流を無視して思い通りに進む事が可能だろう。…けれど、俺は一般的な人間の男で…その三つのどれでもなかった。

 「あ…そ、その…ちょっとは、恥ずかしいですね…」
 「あ、あぁ、そうですね…」

 そんな一般的な俺の目の前でベッドに腰掛けている女性が一人。長く伸ばされた水草色の髪は、彼女の穏やかな内面を示しているようで見ているだけで落ち着くような気分にさせる。しかし、彼女の髪はランタンの光が風も無いのに揺れるたびに光を反射し、様々な表情も見せてつい触ってみたくなる魅力も併せ持っていた。流石に無遠慮に触ったりしないものの、一本一本がとても細かくて、キラキラと光に反射するその髪はきっと手の中を落ちていくような極上の触り心地に違いない。
 瞳は髪とは違い、意思の苛烈さを表すようなはっきりとした原色の赤だ。滅多に見ない瞳の色に思わず身を硬くしてしまうが、その中に浮かぶ羞恥の色に目を離せなくなってしまいそうになる。全体として、ふっくらとした肉感を示す頬や、はっきりと意思を示す目立ち、すっきりした鼻筋、桃色で艶やかな唇など、とても整った顔をしていた。そんな彼女が…目だけでなく、頬を赤く染め、視線をあちらこちらに落ち着かせない姿はどうにも俺の心に入り込んできて、心を掴まれる様な錯覚を覚える。
 そして、それは彼女自身の今の格好も無関係ではないのだろう。俺の目の前に座る彼女はその豊満で肉感溢れる肢体をまるで隠そうとはせず、その奥の陶磁器のような純白の肌が透けて見えるほどの薄手のシャツを羽織り、むっちりとした太股を見せ付けるようなショートパンツという井出達だ。…正直、言えば、男として辛抱溜まらない、無防備過ぎる格好である。薄手のシャツは桃色のブラと共に、質感溢れる大きな胸を透かせていて、思わずその胸にむしゃぶりたくなってしまうし、ショートパンツとニーソックスという形なので完全に露出しているすべすべの太股は手だけでなく舌を這わせたくなるような妖しげな魅力を持っているのだから。あまりに魅力的過ぎて股間のムスコがギンギンになっている。例え、今すぐ立て、と言われてもそんな事なんて出来ないだろう。

 「あ…あの…貴方も緊張…しています…か…?」
 「そ、そりゃ…まぁ、初めてですし…」

 そんな格好で恥ずかしそうに言われれば、興奮を掻き立てられるのも仕方ない。口ごもるようにそう言って視線を外しながら、チラチラと彼女の胸や太股に目を向けてしまう。さっきまでは瞳に惹きつけられていたのに、今はセックスアピールしまくっている部位に目が行く現金さに心が痛むものの、俺は男の本能とやらをコントロールできるほど理知的な人間じゃない。彼女に悪いと思いつつも何度も何度も胸や太股にいやらしい視線を送ってしまう。

 ―…でも…ホント、綺麗な女性だよなぁ…。

 無防備に魅力的な肢体を晒すその姿も勿論だが、彼女が漂わせる穏和で優しい雰囲気が、彼女の美しさを助長する。その美しさは庶民染みた今の格好よりドレスの方がよっぽど似合うんじゃないかと思うくらいだ。少なくとも俺のような庶民をこうして部屋に招いて、同じベッドの縁に腰掛けるような人では決して無い。けれど、今、俺の手にはどんな幸運か、その権利があった。

 「わ、私も初めてなんです。そ、その…お、おそろいですね」

 初対面の人間と仲良くなる為には、共通項を見出すのが一番という話がある。お互いの壁を取り払い、警戒心を解くには共通の面を示して仲間である事を示すのが良いらしい。有史以来戦争ばっかりだった人間にとって、敵と味方を区別するのは本能で、そこで育った感覚なのだろう。…とりあえず何が言いたいかというと、そんな風に緊張しているのに、必死に仲良くなろうと共通項を見出してくれる彼女の姿に俺の緊張が解れ、胸の中に暖かいものが溢れていく。興奮とはまた違うそれは俺にはまだ理解できないものだった。

 ―俺としては…こうなる覚悟もあった訳だしなぁ…。

 最初の時点ではまるで想像さえしていなかった事だけれど、後々、事態が流転していく中でこうなる覚悟はしていた。…無論、覚悟はしているだけで本当はまったく違うのだろう。…しかし、そうなる事も考えていた俺が…多少はリードしてあげるべきなのかもしれない。

 「あ、あの…テスタロッサさん」
 「ひゃ、ひゃい!」

 彼女―テスタロッサさんの名前を呼ぶと彼女はびくりっと肩を大きく震わせて、身を硬くした。不安定な『首』も少しだけ揺れて、落ちるのでは…と不安になったけれど、彼女は器用にバランスをとって首が落ちるのを防ぐ。その姿に何処か感心するのもあれ…テスタロッサさんが『人間』ではないのを見せ付けられているようで、何処か複雑な気持ちが俺を支配した。

 ―そう。彼女は人間じゃない。デュラハンという種族だ。

 元は魔王軍の中でも強力な個体であり、人間側に強く恐れられた魔物では、その頃は今のように100人中100人が認める美女のような姿ではなく、首の無い騎士だったらしい。しかし、ある日、魔王が変わってからは今の姿に変わった…と言われている。今では一目では魔物だと判別できず、長く伸びた細長い耳と目を惹く美しい容姿でエルフなのか、と思いがちだ。しかし、昔の習性のような物は確かに受け継がれているのか、彼女らデュラハンは首がどうにも不安定で外れやすい。

 ―まぁ…神父様は教えてくれなかった事だけれど…。

 俺の生きてきた地域は教会の力が強く、教育といえば神父様が教えてくれるモノに限られる。自分でこう言うのは何だけれど、勉強熱心で、神父様の下へ足しげく通っていた俺でも…つい最近まで魔王の代代わりや魔物の変化なんて知らなかった。以前のデュラハンが現役だった昔の時代に生きていた訳ではないから、俺の今の知識が嘘なのかもしれないけれど、世界中を旅をする傭兵連中が口を揃えて言っていたから、きっと間違ってはいないだろう。何故、変わったのかまで下世話な話を交えてしっかり教えてくれた彼らも今は元気にしているのか定かではないが…それよりも今、重要なのは俺を取り巻くこの状況だ。

 ―とりあえず…お互いの緊張を解すのが第一だろう。

 「お互い…初めてなんだから、気楽にいきましょう。敬語とか要らないですし…」
 「い、いえ、そ、それはあの…癖みたいなものなので…敬語はその……。そ、それよりも貴方の方が敬語やめて欲しいなぁ…なんて…その思ったり思わなかったり…」

 ―…まぁ、その道は険しそうだけれどな。

 未だにガチガチのテスタロッサさんの様子に、改めて状況の異常さと道の険しさを思い知る。まぁ……時間は山ほどあるのだから、ゆっくりやっていけば良い。それに急いでお互いの壁を取り払う必要も無いと言えば無いのだ。彼女の緊張を解してあげたいのも結局のところ、テスタロッサさんと仲良くなりたい俺の我侭なのだから。

 ―それにしても…敬語を止めろ…なぁ……。…いや、それは無理だろ。色々と。

 テスタロッサさんの持つ貴族のお嬢様然とした穏やかでありながら高貴さを感じさせる雰囲気と、そして何より状況的に許されない。無論、俺だって慣れない敬語より、普段の話し言葉の方が楽だけれど…そういうわけにもいかないのが現実だった。

 「あ、あの…一つ聞いて良いですか…?」
 「何でしょう…?」

 心の中でそう頭を振るう俺に対してオズオズとテスタロッサさんは手を挙げて自己主張している。まるで幼い少女のような可愛らしい主張の仕方に口の端に小さく笑みが浮かぶのを止められないまま、俺は彼女の発言を待った。

 「ほ…捕虜の扱いってどうすれば良いんでしょう…?」
 「…それを捕虜の俺に聞かれても…」

 ―そう。俺は魔王軍に捕らわれた捕虜だ。

 事の起こりは三ヶ月ほど前に遡る。
 俺の生まれた村は良く言えば長閑、悪く言えば何も無いような田舎だった。前述の通り教会の力が強かったので、道徳的にはしっかりしていたが、それが逆に退屈の種でもあったのは否定は出来ない。殆どの若者は刺激や働き口を求めてどんどん都会へと出て行き、村に残っていた若者といえば俺と妹くらい。自然、村に居る子供の中での年長者として子供たちの面倒を見る俺と妹は年が近い所為か、それなりに仲が良く、一緒に遊ぶことも少なくは無かった。
 そんな妹が一年前のある日、突然倒れた。…原因は流行り病。神父様が言うには命に関わる事もある重病らしいが、既に治療法も確立されているので幾許かのお金を積めばすぐに治る。…そのハズだった。
 
 ―けれど…その年は記録的な流行り方をしていて…。
 
 何処に行ってもその病を治す薬が不足していて、それほど高くなかった値が、まるで目玉が飛び出そうなくらい釣りあがっていた。貴族や王族であれば問題無いかも知れないが、俺の生まれは自給自足が基本の村で両親の備蓄だって殆ど無い。自然、薬を買うことが出来ず、高熱に浮かされてはぁはぁと苦しそうに喘ぐ妹を見ながら、俺と両親は神に祈ることくらいしか出来なかった。
 
 ―そんな時に教会が傭兵を募集している、と言う噂が俺の村に届いた訳で…。
 
 噂では傭兵としての錬度は問わず、名前と年齢さえ言えればそれだけでお金が貰えるらしい。世間知らずの俺でも何かおかしい、と思わないでもなかったが、俺はその噂に一縷の望みを賭け、鞘だけは立派な木剣を削り出し、年季の入った動物の皮を継ぎ接ぎして作った皮鎧を着て噂の中心地へと向かった。
 
 ―結果として噂は本当で、俺は名前を登録するだけでそこそこの現金収入を得ることが出来た。
 
 そのお金を村へと送ったすぐ後、俺は教会の騎士団と共に魔界へと行軍を開始する事になる。元々、村の中で子供の相手をさせられていたので体力だけはしっかりあり、装備も見た目だけは立派な剣と年季の入ったっぽい皮鎧だけなので一日中歩くのはそれほど苦ではない。…けれど、時折、湧き上がる恐怖心が俺の脚を何度も震え上がらせていた。
 
 ―だって、そうだろう?俺は本当は傭兵なんかじゃなくて田舎に住む普通の男なんだから。
 
 特に神父様の話に出てくる魔物は…皆、強力で、恐ろしく、何より邪悪だったのだ。…無論、それは全て嘘であり、真実とは異なっているのだけれど、当時の俺にとっては神父様の話に出てくる化け物と戦わなければいけないと思うだけで失禁してしまいそうになっていたのを良く覚えている。それならそれで逃げ出せばいいのだけれど…変な所で義理堅い、と良く言われる俺はお金を貰っているのに逃げ出す気には決してなれなかったのだ。
 
 ―そんなこんなで恐怖で震えながら魔界に着いて…魔物娘と出会って…。
 
 俺は最初、「それ」が何なのか分からなかった。だって、皆が戦っているのは可愛い顔をした女の子だったのだから。無論、羽が生えていたり、足の代わりに尻尾が生えていたり、肌の色がちょっと普通とは違ったりするけれど、皆が皆、魅力的な女の子で決して人間に危害を加えるような邪なモノには見えなかった。実際、魔物娘は決して人の命を奪おうとせず、倒すときも気絶させたり、眠らせたりが殆どで傷一つつけようとはしていない。寧ろ、そんな女の子に向かって容赦無く、剣や槍を振り下ろす人間側の方が『悪魔』のように見えたのを…とても良く覚えている。
 
 ―そんな風に混乱し、呆然としている所を戦場を横断するデュラハンの一軍にあっさりと気絶させられて…
 
 目が覚めると石積みで作られた薄暗い牢屋の中で俺と同じように多くの男がその中に放り込まれていた。俺が放り込まれていた牢以外にも多くの牢があるようで、暴れる音や怒声なんかも聞こえて来る。そんな状況でこれからどうなるのかと身体を震わせて、「やっぱり逃げ出せばよかった」と思い始めた頃、俺の牢の前にテスタロッサさんが来た。
 
 ―その時の彼女は今ほどガチガチではなかったけれど、女性らしさを見せ付けるような可愛らしい手で朱に染まった顔を隠すようにしながら、チラチラと牢を覗いて、俺を指差した。
 
 「あ、あの人にします…」とまるで消えていくような声でそう告げた後、今までも赤かった顔をまるで完熟トマトのように真っ赤にしていたのが…つい一時間ほど前。そのまま彼女に連れられて…ガチガチな彼女と、これから何をされるのか――神父様の教えでは魔物は人間を食べると聞いたけれど、行軍の途中に聞いた傭兵たちの話では性的な意味で食べられる、と言っていたので…どっちか判別がつかなかった――と不安がる俺が適当に話を交わしながら、この部屋…テスタロッサさんの部屋についたのが50分ほど前。
 
 ―そしてこうしてベッドの淵に腰掛けて、まるで初体験直前の恋人のような会話を交わし始めて約30分…って所か。
 
 未だテスタロッサさんの身体はガチガチではあるものの、その間に俺の緊張は大分、解れてきた。最初は食べられるのではないだろうか、とびくびくしていたが、会話をしていく中でテスタロッサさんを始め、魔物娘達にはそんな趣味は無いと言う事は分かったし…何よりテスタロッサさんは本当に心奪われそうなくらい綺麗で…可憐な人である…と言うのは大きいだろう。
 
 ―まぁ、俺としても男な訳で…そりゃあ美人にゃ弱い。
 
 無論、教会の倫理観を強く与えられてきたので貞操と言うものはかなり重視しているつもりだ。だからこそ、俺は未だに女性一人抱いたことの無い童貞であるし、結婚する女性に童貞を捧げ、処女を貰うのが正しいことだと思ってきた。…けれど、神父様に、いや、教会に嘘を付かれていた、と言う不信感が、俺の中でどうしても拭えない。教え全てを否定する気持ちまでにはいかなくとも、以前ほど教会の教えに帰依する気持ちは薄くなり、テスタロッサさんほどの美人であれば童貞を奪ってもらうのも悪くない…と言う気持ちになってきた。
 
 ―だって…なぁ…。まるで…天使か何かみたいに美しい人だし…。
 
 チラリ、と横目でテスタロッサさんの事を伺うと、彼女は所在なさげに指をクルクルと回して視線を彷徨わせている。その姿は教会が言っていた人を食べる魔物にも、性的な意味で人を食べる魔物娘にも見えない。ラフな格好こそしているが、テスタロッサさんが持つ穏やかな雰囲気がまるで深窓の令嬢のようなイメージを与えてくる。そんな女性とこれから…その、いやらしい事をするかもしれない、と考えると俺のムスコが元気になるのを止められない。
 
 「あ、あの…アズさんは…ど、どうしたいですか…?」
 「ど、どうしたいって言われても……」
 
 ―個人的には貴女とイチャイチャしたいです…なんて言える筈も無い。
 
 それにそもそも俺は『捕虜』な訳だ。それをテスタロッサさんに引き取ってもらっている身の上な訳で…何かを要求できる立場では決して無い。魔物娘、と言う存在に対する恐怖感はもう俺の中から殆ど消えているが、それでも下手に刺激したらどうなるか分からない、と言う状況は以前、変わらないのだから。
 
 ―まぁ…テスタロッサさんは怒らせたからと言って暴力を振るったりするタイプには見えないけれど…。
 
 それでも、相手はまだ出会って一時間ほどの相手な上に、人間の力なんかじゃ決して抵抗できないような強い力を持つ魔物娘なのだ。顔を真っ赤にして可愛らしく「ポカポカ」されただけでも骨折しかねない、と考えると、どうしても及び腰になってしまう。
 
 「な、何でも良いですよっ!そ、その…紅茶を淹れろ、と言われるのでしたらすぐにでも淹れます!私、お茶を淹れるのは昔から得意ですからっ!」
 
 ぎゅっと握り拳を作りながら力説するテスタロッサさんにはさっきの緊張してガチガチになっていた姿は見えない。自分の趣味、と言う領域に話題を移せたからだろうか。それとも、初対面の男を目の前にして緊張が薄れるくらいお茶が好きなのかも知れない。どちらなのか、まだまだテスタロッサさんと付き合いの薄い俺には分からないが、この契機を逃がす理由は探したって出てこないだろう。

 「あ、で、では…美味しい紅茶を淹れてください」
 「はいっ♪頑張りますねっ♪」
 
 ―その瞬間、浮かんだ笑顔はまるで向日葵のようだった。
 
 テスタロッサさんの部屋は決して寒いわけではない。原理までは学の無い俺には分からないが、しっかりと室温が調節されているし、快適な温度に保たれている。
 けれど、一瞬だけテスタロッサさんが浮かべた笑みはそれらがまるで嘘のように感じるくらい暖かなものだった。パァ!と雲が晴れていき、太陽を覗かせたかのような暖かさは俺の心にしっかりと差し込んで体中に広がっていく。それだけでなく、一点の曇りも無い純粋な笑顔は見ている俺が恥ずかしくなるくらい喜んでいた。
 
 ―うわぁ…なんつぅか…うわぁ……。
 
 テスタロッサさんがそのままベッドから立ち上がり、備え付けてある簡素なキッチンに向かわなければ、俺の顔が真っ赤に染まっていく様を見られていただろう。まるで初恋を知った初心な子供のように真っ赤になった顔は少なくともテスタロッサさんには見せられない。
 
 ―やばい…なんだこれ…なんだこれ…!?
 
 無論、俺だって教会の価値観の元で育ってきたといっても男の子だ。実際の性交まではいっていないとは言え、恋の経験くらいはそこそこある。けれど、それらがまるでお遊びに感じてしまうくらいの熱と高鳴りが俺の身体の中を渦巻いていた。指先は何処か落ち着かずそわそわと蠢き、強い熱を帯びている。体中の血管も煩い位、ドクドク言っていてまるで耳鳴りのようにさえ感じるほどだ。特に顕著なのが、「特徴が無い」と良く言われる俺の顔で、熱い指先で触れて尚、そこが熱くなっているのが良く分かってしまう。
 
 ―…いや、笑顔一つでこれはねぇよ…!
 
 そりゃ…テスタロッサさんは美人だ。今まで俺が見てきた中でも抜群に美しいし、可憐な女性と言えるだろう。彼女に相手にしてもらえるのであれば今まで護ってきた貞操だって投げ捨てられる、と思ったのは嘘ではない。
 けれど、そういうのさえ飛び越えてストレートに俺の心に飛び込んできた彼女の笑顔は俺の中の邪な心を恥じさせてしまうほどの威力を持っていた。さらに俺の中の『オス』ではなく『男』の部分を刺激され、「この人を自分だけのものにしたい。護ってあげたい」とそんな不埒な考えさえ呼び起こされてしまう。
 
 ―い、いや、違うだろ。こ、これは恋なんかじゃないし。ちょっと不意打ちくらっただけだってばっ!
 
 それは俺の20数年来の経験から察するに…間違いなく恋独特の症状だった。それもただの恋ではなく…身を焦がすような強い衝動を伴った。
 けれど、相手はどれだけ美人とは言え、出会ってからまだ一時間ちょっとしか経ってない相手である。可憐で温和な雰囲気を持っているけれど、とても一生懸命で、捕虜にでも分け隔てなく接してくれるような心の広い女性なのは、この短い間でも分かっているが、俺の中に残った安っぽいプライドが、それを恋だとは決して認めなかった。
 
 ―い、いや、落ち着け。KOOLになるんだ俺よ。
 
 そう言い聞かせながら一度、二度と深呼吸して…俺はキッチンに立ちながら鼻歌を歌うテスタロッサさんの後姿を視界の端に捉えた。さっきまで軽くパニックになっていたので気づかなかったが、こうしてみて見ると立ち姿だけでも気品のようなものが漂っている。しっかりとした背筋に支えられている背は決して歪む事無い反面、女性特有の丸みを決して失ってはいない。鼻歌のリズムに乗ってふりふりと揺らすお尻はむっちりとした肉感を伴っているのがショートパンツ越しにも分かるほどだ。けれど、決して太っているわけではなく、要所要所にしっかりと肉が乗っている男好きするスタイルであるのが見て取れる。
 
 ―それ系統の趣味を持っている人間が見れば垂涎モノだろうなぁ…。
 
 後姿に何か特別な思い入れが無い俺にとってもその後姿は破壊力が高い。具体的に言うと機嫌よくしているテスタロッサさんの姿から目が離せなくなり、吸い寄せられるように見てしまう程だ。「こんなに血走った目で見ているとテスタロッサさんが気を悪くするかもしれない」と理性は何度も警告しているが、それでも尚、止められないほどの魅力を放っている。
 
 「あの…アズさん?」
 「ひゃ、ひゃいっ!!!」
 
 血走った目でじっと見つめられているのに気づいたのだろうか。唐突にテスタロッサさんは首だけをこちらへと向けて来た。まさか振り向かれるとは思っていなかったので裏返ってしまった声を心の中で後悔しながら俺は背筋をピンと伸ばして顔を上げる。そこには戸惑っていたり恥らっているような顔ではなく、先ほどと変わらない表情があった。
 
 「…?どうかしたんですか?」
 「い、いや、なんでもないですよ」
 
 その表情に疑問を混ぜながら聞いてきたテスタロッサさんに俺は内心の動揺を必死で覆い隠しながらそう答えた。しかし、俺はどうやら隠し事が得意ではないらしく、テスタロッサさんは振り向いた状態のまま小さく小首を傾げる。まるでリスが首を傾げる様な可愛らしい仕草だったが、今の俺にはそれを楽しむ余裕は無い。必死に視線を逸らしながら、なんでもないように表情を作り、背筋に冷や汗を浮かばせるだけだ。
 
 「そう…ですか」
 
 ―あっぶねええええええっ!!!!
 
 附に落ちないような表情をしながら、それでもテスタロッサさんはそう言ってくれた。その表情に騙している様な罪悪感を感じるが、本当の事を言う訳にもいかない。もし、言ってしまえば良くても部屋を追い出されるだろうし、最悪、命の危険さえあるのだから。結局、俺に出来るのは心の痛みを無視して、内心、胸を撫で下ろすくらいだ。
 
 「あぁ、そうです。アズさんは紅茶に砂糖はどれくらい入れますか?」
 
 元々の用件はそれだったのだろう。テスタロッサさんは附に落ちない表情から、元の表情に戻しながらそう聞いてくる。…けれど、俺はその言葉に答えられるような言葉を持っていない。
 
 ―だ、だって、俺みたいな庶民が紅茶を飲む経験なんて今まであるハズ無い訳で…。
 
 紅茶自体が高級嗜好品であるのに加えて、俺の住んでいた村は紅茶の産地から大きく離れている。飲み物と言えば水かミルクであったし、それで十分だったのだ。そう言う飲み物がある、と言う知識自体は神父様から借りた本に載っていたので知っているが、どれだけ砂糖を入れれば良いのか、なんて経験が無いから分からない。
 
 ―し、しかし、ここで「飲んだ経験が無いから分かりません」なんて言うのは格好悪くないか…!?
 
 テスタロッサさんがあまりにも普通に接してくれるので時折、忘れそうになるが、俺は魔王軍の捕虜である。けれど、それ以前に男でもあるのだ。やはり美人の前では格好つけたい、と言う心理がどうしても働いてしまう。
 
 ―落ち着け。俺なら推理出来るはずだ…っ!
 
 まず重要なのは紅茶に砂糖を入れるかどうか聞く、と言う事だ。つまり紅茶には砂糖を入れるという嗜好が確かに存在する、と言うヒントが俺には既に与えられている。けれど、俺にはどれくらいの量が適量なのかさっぱり分からない。貴族が好んで飲む、と言う話もあるくらいだから、砂糖が無いと飲めない、と言えるほど苦い訳ではないのだろう。となれば、一個か二個…その程度が味を損なわない限度であろうと推理出来る。
 
 「あの…アズさん?」
 
 ―だが、待て。もし、紅茶と言うのが比較的甘い飲み物だとしたら……?
 
 砂糖を入れるのは子供の嗜好だとしたら…それは俺の恥に繋がる。テスタロッサさんが子供っぽいからと人を馬鹿にしたり、見下すような女性ではない、と思うもののやはり男としては子供っぽいと思われるよりは男っぽいと思われたいのが心理であろう。
 
 「あ、あのぉ……」
 
 俺の推理は多分、間違っては居ない。間違っては居ないとは思うものの…どうしても一抹の不安が消えない。そもそも俺の推理には紅茶は「苦い」と言う前提があるからだ。もし、この前提が間違っていたら…全てが瓦解する。その時…俺に残るのは知ったかぶりをした見栄っ張りな男と言うレッテルだけだ。だが…ここで思い悩んでいても仕方が無いのもまた事実である。
 
 ―落ち着け俺よ…。自分を…自分を信じるんだ…っ!!
 
 「い、一個でお願いします……っ!!!!」
 「あ、一個ですね。分かりました」
 
 テスタロッサさんの顔に再び花咲くような笑顔を見るに…俺の答えはあながち的外れなものではなかったのだろう。それに胸を撫で下ろそうとした瞬間、テスタロッサさんから再び声が届いた。
 
 「じゃあ、ミルクはどうしますか?」
 
 ―ミルクだとおおおおおおおおおおっ!?
 
 再び去来した課題に俺は撫で下ろそうとした手で頭を抱えた。
 そもそもどうする…とは何をどうするのか俺にはまったく分からない。温めるのか、冷たくするのか、考えられるのはその二択だろう。俺は紅茶と言う飲み物を良く知らないが、こうして聞く、と言う事はそうしてどうこうしたミルクを入れるのが一般的だ、と考えられる。
 
 「えっと…あの…アズさん…?」
 
 そこで問題なのがさっきまでテスタロッサさんが何をやっていたか、と言う問題だ。キッチンで何かカチャカチャと作業していたのは知っているが、何をしていたのかまでは後姿に夢中でまるで見ていない。もし、何かを暖めていたのであればミルクは温めるのが正解であろう。しかし、もし、魔法の道具か何かで冷やしていれば…矢張りミルクは冷やすのが正解である、と考えられる。何故なら、生温い飲み物ほど不味いものは無いからだ。
 
 「あ、アズさーん…?」
 
 また俺の前で立ちふさがる二択…だが、今回は正解を選べる自信がある。何故ならば…この紅茶を嗜好する、と言うのが高級嗜好品であるが、上級商人にも愛飲されている、と言う知識があるからだ。飲み物を温めるのは庶民でも可能だが、冷やすのは難しい。季節にも寄るが、魔法の道具などが無ければ飲み物を冷やす方法はあまり無いだろう。その魔法の道具もとんでもない高価である事と上級階層の民衆にも飲まれていると言う事から、ミルクは温めるのが正解となる。
 
 「温めてください」
 「…え?」
 「温めてくださいっ」
 
 ―ふっ…決まった……。
 
 思わずキリッとした顔をしてしまうほど今回の俺の推理は完璧だ。まったく一部の隙も無い論理に俺自身で拍手喝采をしたい気分にさえなる。
 けれど、自信満々な俺とは裏腹にテスタロッサさんは首を傾げるだけだった。最初は心の中で「可愛いなぁ…頭撫で撫でしてあげたいなぁ…」と余裕ぶっていた俺も、そのままの姿勢で固まるテスタロッサさんに間違っていたのか、と不安になってくる。
 
 「あ、い、いやぁ、やっぱり冷やしてください。やっぱり紅茶には冷えたミルクが合いますもんね!!!」
 「…え???」
 
 思わず撤回した言葉もどうやら間違っていたらしく、テスタロッサさんからの反応は芳しくない。首を傾げたままの姿勢で固まり、必死で思考を回しているのが見て取れた。そのまま数秒、時間が経ち…結局、沈黙に耐えられなくなった俺はベッドから腰を上げて、ほぼ直角に頭を下げる。
 
 「知ったかして、すみませんでしたあああああああっ!!!!」
 
 叫ぶような俺の告白に戸惑ったのだろうか。頭は下げて今のテスタロッサさんの表情は窺えないものの「え…?」と小さな声が一瞬、耳に届いた。そのまま再び数秒、世界が止まったように沈黙の帳が落ちる。その間、俺の身体から体温が抜け落ちるような感覚を味わい続けていた。崩れ落ちそうになる足元を必死に叱咤しながら、体中が冷えて行く感覚はまさに生きた心地がしない、と言うにふさわしいだろう。
 
 「ふふっ…あははは…っ」
 
 今にも崩れそうな俺とは対照的に柔らかい笑い声が俺の耳に届いた。不審に思って顔を上げてみると…そこにはスラリとした形の良い指先を口元に当てて笑っているテスタロッサさんの姿がある。表情にはさっきまで残っていた若干の緊張も完全に消えていて、自然な笑顔が浮かんでいた。さっきのような惹きつけられるような華がある笑顔ではないけれど、自然に笑っているその姿を見るだけでどうしても胸が高鳴りそうになってしまう。
 
 「ご、ごめんなさい…。で、でも、あの…アズさんがあまりにも可愛くて…」
 
 ―いや、男として可愛いと言われるのはやっぱり若干傷つくんですぜ?
 
 拗ねるようにそう思うものの反抗する気は起こらない。捕虜で実力差のある身の上、と言うのも無関係ではないが、テスタロッサさんの自然な笑顔を見ることが出来ただけでも十分、お釣りが来る報酬である。その報酬だけで俺のプライドは毒気を抜かれて、怒りの声を上げる事もなかった。
 
 「でも、初めてなんでしたら言ってくだされば良かったのに」
 
 手を口元から外して振り返るテスタロッサさんの表情は、既に緊張の色が見えなかった。どうやらさっきのやり取りで完全に緊張を解してくれたらしい。…そう思うとさっきのやり取りも無駄ではなかったと思えて、何となく誇らしい気分になった。
 
 ―…まぁ、ただの偶然なんだけれど。
 
 しかし、こうして自然な表情のテスタロッサさんと話せるようになった、と言うだけでも世界中の男どもに自慢してやりたい。そんな気分になるのはどうしても止められなかった。テスタロッサさんの前でなければ、今すぐ踊りだしたくなるような喜びが俺の中を駆け巡っている。…俺にとって、テスタロッサさんの自然な笑顔、と言うのはそれだけの価値があるものだったのだろう。
 しかし、それでも知ったかぶりをして、テスタロッサさんを混乱させたことは謝らなければいけない。結果的にはお互いの緊張を解したイベントではあったものの、俺に非があるのは変わらないのだから。
 
 「そりゃ…まぁ…俺にもプライドと言うものがある訳ですね…その…すみません…」
 「あっいえ、責めているつもりはないんです!その、何と言うか…ですね」
 
 素直にもう一度、頭を下げた俺に向かって、テスタロッサさんはパタパタと両手を振って擁護してくれる。全身でリアクションを取ってくれるその可愛らしさに頬の辺りが緩みそうになるのを感じた瞬間、テスタロッサさんは顔を赤くしながら、目線を逸らした。
 
 「私こそ…こうして男性とお茶をするのは始めてで…舞い上がってしまって申し訳ありません…」
 
 ―ぐっはああああああっ!!…な、なんて可愛いんだよこの人は…!?
 
 頬を染める気恥ずかしそうな表情と言い、両手で恥らうように両頬を押さえる仕草と言い、全てが俺の心を揺さぶる槌となって振るわれているかのようだ。右目から、そして左目から入ってくる情報が俺の中の感情を揺さぶり、思わず手を伸ばして抱きしめたくなってしまう。
 
 ―ハッ!!!い、いけないいけない…。
 
 無意識に伸びていた手を必死に押しとどめて、俺もまたついっと視線を逸らした。このまま見ていたら今度こそ足を進めてキッチンに行って抱きしめそうなのもあったが、ふいに部屋に満ちた甘い雰囲気がどうしても気恥ずかしくて見てられなかったのが一番の理由だろう。けれど、目線を逸らしたと言っても雰囲気が霧散して無くなる訳ではない。寧ろお互いに相手の状態が気になって、チラチラと窺う時に一瞬、目線が合ってしまうのがまた甘い雰囲気になっているような気さえする。
 
 ―これは…拙い。
 
 何が拙いってこのまま雰囲気に流されそうなことだ。そりゃ…テスタロッサさんは何度も言うが、とても美しい人で性的なお相手であれば是非ともお願いしたい。けれど、それは俺が勝手に思っているだけのことだ。もし、テスタロッサさんにその気が無ければ…少なくともすぐさま牢へと戻される事になるだろう。命だって危ないかもしれない。…最低でも、二度と会えなくなるのは確定的と言えるだろう。
 
 ―まだ出会って一日も経っていないけれど…もう二度と会えないのは…やっぱり嫌だ…な。
 
 俺の中に微かに灯った様な感情はまだまだ淡く、俺はそれを決して恋とは認められない。しかし、それでも、もうテスタロッサさんに会えなくなってしまう、と言うのはどうにも胸が疼くのだ。まるで失恋を思うような甘く、残酷な痛みは俺をその場に押しとどめるのに十分すぎる威力を持っている。
 
 「あ、あはは…な、何だか気恥ずかしいですね…」
 「で、ですね…」
 
 テスタロッサさん自身が空気に耐えられなくなったのか、顔を赤く染めながら笑う。その声に同意しながら、俺は部屋に溢れそうなほど満ちていた甘い雰囲気がなくなっていくのが分かった。まだまだ初々しい恋人のような雰囲気ではあるものの、それでもさっきみたいな今すぐ抱きしめたくなるような強い衝動を伴ったものではなくなっている。それに内心安堵しながら、俺は彼女が銀の盆の上にティーセットを載せてこちらへと戻ってくるのを見た。
 
 ―すげぇ…一瞬だってブレてない…。
 
 長身ではないもののスラリと背筋を伸ばす姿には一切の隙が無い。それを象徴するかのように彼女の両手に乗せられているティーセットも微動だにしないのだ。物音一つ立てずにこちらへと向かってくる姿は一種、シュールでもあったが、それだけで俺を引き取ってくれた人もまた人間のレベルでは及びも着かない領域に居る女性であると教えてくれる。
 
 「お待たせしました。丁度、良い蒸し加減になってるはずですよ」
 「え?あ、あぁ…ありがとうございます」
 
 蒸し加減、と言う言葉の意味までは俺には分からないが、恐らく紅茶の事なのだろう。どうやら紅茶と言うものは蒸して飲む物らしい。ミルクや水のように温めれば終わり、となるようなものを想像していた俺にとって、それは何処か新鮮で唐突に不思議な飲み物に感じてくる。
 
 ―よくよく考えたらこれって貴族や商人しか飲めない飲み物なんだよな…。
 
 そんな風に考えると自分が唐突に凄まじい事をしているような気がしてくる。元々の気性が気弱な小市民、と言うのも無関係ではないだろうが、今日一日で世界観がガラリ、と変わった、と言うのも大きいだろう。
 
 ―だって…田舎で生まれ育った俺がこうして魔王城で捕虜になって、天使みたいな可憐な人と紅茶を飲むなんて…なぁ。
 
 もし、一年前の俺が、俺の話を聞いた所で嘘だと思うだろう。それくらいの変化が俺の元で劇的に起こっている。…そしてまた、それに引きずられるように価値観や世界観の変化も。
 
 「…?どうかしました?」
 「あ、いえ…なんでもないんです」
 
 俺に決定的な価値観の変化を齎した人にそう返しながら、俺は思考の世界から現実へと戻ってくる。俺が思い考えている間にテスタロッサさんは小さめのテーブルに銀のお盆を置いていた。そのままテーブルごとこちらへ近寄ってくる姿に手伝おうと一瞬、腰を浮かそうとするが、テスタロッサさんの笑顔に押し留められてしまう。
 
 「アズさんは座っていてくださいね」
 「で、ですが…」
 
 ―俺は捕虜で、テスタロッサさんはこのそんな俺を引き取った人物なのだ。既に普通と言えるような状況からはかけ離れてしまっているが、普通は男手である俺が行うべきだろう。
 
 「もうっ。アズさんは私のお客様ですから。手伝って貰ったら私が困っちゃいますよ」
 
 ―そ、その発想は無かったわ……。
 
 何かおかしいとは思ってはいたが、まさか「お客様」扱いであるとは思わなかった。確かに今までの待遇を考えれば「捕虜」よりも「お客様」扱いである方が納得できると言えば出来るんだが……。
 
 ―それは流石に無防備すぎやしないだろうか…。
 
 無論、俺ごときがどうこうできるような女性ではないのだが、そのあまりに無防備な解釈に不安になるのも仕方ないだろう。俺自身にそのつもりはまったく無いし無かったが、ついさっきまで殺し合いをしていた相手なのだ。それを普通に「お客様」と扱う当たり、テスタロッサさんの器の大きさを示しているのかもしれないが、その大きさを逆手に取られないか、と思ってしまう。
 
 ―例えば…そう。今、俺の前に晒されている無防備な背中からぎゅっと抱きしめて押し倒される…とか…。
 
 両手はテーブルで塞がっているので、幾らデュラハンであるテスタロッサさんとは言え、殆ど抵抗できないまま押し倒されてしまうだろう。その後は…こう唇を無理矢理奪って混乱してる間に服を脱がして、その豊満な膨らみを――。
 
 「ふっふふー♪ふっふふふふーん♪」
 
 ―…何を考えてたんだ俺は。
 
 何時の間にかテーブルを俺の手の届く距離に置いて、上機嫌に鼻歌を歌いながら銀のスプーンでティーポットを掻き混ぜるテスタロッサさんの姿に毒気が抜かれてしまう。…いや、そもそも何を考えていたのだか。そりゃ…テスタロッサさんは思わず襲いたくなるような美人ではあるが、嫌がる女性を無理矢理…なんて趣味は無い。無いはずだ。うん。
 
 「アズさん?」
 「ひゃいっ!!!」
 
 唐突に話しかけられたテスタロッサさんの言葉に反射的に身体を揺らしながら答えて、そちらへと視線を戻すとテスタロッサさんが白磁のティーポットを両手で持ちながらくるくると回している所だった。しっかりと筋の通っている背筋をピンと伸ばしているものだから、その何気ない仕草でも気品のようなものが溢れているように感じる。俺は本物を見たことが無く、本の中に登場するモノしか知らないが、本物の『メイド』と言うのはテスタロッサさんのような気品溢れる人なのかもしれない。
 
 「退屈させちゃってごめんなさい。もうすぐ出来ますから待っててくださいね」
 「あ、は、はいっ!お、俺の事なんかもう気にしないでいいですからっ!!!」
 
 どうやらさっき突然、話しかけられたのは会話が途切れたことに対するものだったらしい。自分の中の邪な感情を見抜かれたわけではないと言う事に安堵しながら、俺はそう返した。
 
 「もう。お客様を気にしないなんて出来ませんよぉ」
 
 少しばかり拗ねるように頬を膨らませながら言うテスタロッサさんは、さっきまでの気品溢れる佇まいとは違ってまるで子供のようだ。無論、しっかりと伸ばされた背筋や、俺と同じ成分で出来ているとは思えないくらい滑らかな指は変わっていない。けれど、少しばかり顔を膨らませて甘えるように小首を傾げるだけで、それまでの雰囲気を全て打ち消して思わず頭を撫でてあげたくなる小動物のようなものへと変わっている。
 そして、さっきまでまるで俺とは住む世界が違うと思わされてしまう気品溢れる人から手の届く子供っぽい女性へと変わったと言うギャップがまた強く俺の胸を打って鼓動を早くさせるのだ。
 
 ―あぁぁぁっ!もう…っ!可愛すぎるだろこの人……っ!!!!
 
 思わず胸を掻き毟りたくなるような衝動を必死に堪えている俺とは裏腹に、テスタロッサさんはゆっくりと配分が均等になるように、白磁のティーカップ二つに紅茶を注ぎいれて行く。俺には紅茶の知識なんて殆ど無いが、それでもテスタロッサさんがそうして紅茶を入れる仕草には一定の年月を繰り返し続けてきた熟練の技のようなものが見え隠れする…ような気がする。少なくとも俺であれば一滴も出なくなる程、ティーカップへ注ぎ続けるなんて出来ないだろう。
 
 「はい。出来上がりましたよ。まだちょっと熱いので気をつけてくださいね」
 
 そう言いながらテスタロッサさんが差し出してきたのは最後の一滴を注いだ方のカップだった。何か意味があるのだろうか?と首を傾げながら俺が受け取った瞬間、ティーカップとソーサーが擦れあってカチャリ、と音を立てる。そして音と同時に部屋の中にふわり、と良い香りが広がった。元々、部屋に入った瞬間からテスタロッサさんの体臭が染み付いているのか何処か甘い香りがしたけれど、それとはまた違う上品な匂い。ハーブを煎じて作るような薬草茶が今まで飲んできた中では一番近いかもしれない。けれど、薬草茶の苦さはまったく無く、鼻の奥までふんわりとした独特の上品な香りが広がっていく。
 
 「うぉぉ…」
 
 今まで経験したことの無い芳醇な香りに思わずそんな声を上げてしまう。無意識とは言え、あまりにも間抜けな声に思わず顔が赤くなるのを感じるが、テスタロッサさんは少し微笑んだだけで何も言わない。俺にとっては醜態以外の何者でもなかったさっきの声が悪いようには取られてはいない様子に、俺は安心しながら受け取ったティーカップに視線を落とす。
 俺が始めて見る紅茶はその名の通り赤かった。けれど、普通の赤とは少し違う。美しい白磁のカップの底まで透ける透明さを併せ持つ液体は、俺の手の振るえに身を揺らせる度に芳醇な香りを俺に届けてくる。
 
 「ふふふ…♪砂糖は一個がお勧めですよ」
 
 テスタロッサさんはティーセットから角砂糖を一つ取って、俺のソーサーに添えた。1cm程度の立方体に切りそろえられた角砂糖だけ見ても、三ヶ月前の俺の生活レベルを超越している。自給自足用の野菜とは別に現金収入を得る為に砂糖の原料となる植物も育てていたので良く分かるが、村レベルの拙い製法ではこんな風にさらさらとしたきめ細かい砂糖にはならない。もっとザラザラとしていて、形も歪な結晶が俺にとっての砂糖だった。
 
 ―こんな綺麗な砂糖なんてどうやって作るんだよ…。
 
 疑問には思ったもののそれを解決する答えなんてあるはずもなかった。結局のところ、俺の知識なんて田舎の教会に与えられたものが殆どで、その知識だって本当に正しいのか――例えば魔物娘の事みたいに――分からないのだ。俺の中の常識ではこんな砂糖なんてよっぽどの技術が無ければ作れない、と思うけれど、もしかしたら別の方法を使えばこんな風に綺麗な形に精製出来るのかもしれない。
 
 ―まぁ、こんな事考えたって仕方が無いな。
 
 それよりも今は紅茶の事だ。折角、熱いものを入れてくれたのだから、熱いうちに飲まないと失礼になるだろう。まして、テスタロッサさんは初めての俺に遠慮しているのか俺の隣に腰掛けてじぃっとこっちを見つめているのだ。テスタロッサさんがもし、俺が飲んでから、と考えているのであればこうして無駄な思考に時間を費やす訳にもいかない。
 そんな事を思いながら俺は受け取った角砂糖を一つ摘んで紅茶に浸す。流石、綺麗な砂糖と言うべきか、紅茶に触れた瞬間、さらさらと溶けて、見えなくなっていく。スプーンで掻き混ぜる事無く、紅いお茶に溶けきった砂糖に感嘆の気持ちさえ抱きながら、俺はソーサーをそっと口へと近づけた。
 
 「じゃあ…頂きますね」
 「はい。どうぞ♪」
 
 テスタロッサさんの言葉に後押しされるように俺はそっと始めての紅茶を口に含んだ。瞬間、俺の口の中に芳醇な香りが踊る。蒸らされていた影響か紅茶はまだ熱かったが、それが殆ど気にならない。無意識のうちにその香りをもっと味わおうと口と目を閉じて、味覚に没頭してしまうくらい…俺にとってそれは美味しいものだった。
 
 「ふふ…♪気に入って頂けたようで何よりです」
 
 いきなり目と口を閉じ始めた俺に微笑を向けながら、テスタロッサさんはそう言ってくれた。考えても見れば――いや、考える以前の問題かもしれないが――俺が今、やった事はかなりの奇行である。それを弁解するのに口を開こうにも俺の口腔内には未だ強い香りを残し、ほんのりと上品な甘さを伝える紅茶が残っているのだ。そして田舎で生まれ育ち、根が貧乏性な俺はまだ味も香りも残っている飲み物を嚥下する事は出来ない。結局、俺が口を開けるようになったのは、それら全てを味わい付くし、嚥下して一段落してからだった。
 
 「あ…いや、すみません。でも、本当…美味しいです。これ」
 「ふふ…♪謝らなくて結構ですよ。寧ろそれだけ味わって頂けて光栄です」
 
 俺の奇行にその一言で許しをくれるテスタロッサさんに感謝の気持ちを伝えようとしたが、何故か口が上手いこと回らない。言わなければいけないことがある、と自分自身を叱咤してもまるで徹夜をした後のように全身の反応が鈍くなっている。
 
 ―紅茶を飲んで緊張の糸でも解れ過ぎた…のかな…?
 
 今日だけを抜き取って考えてみても、戦場での殺し合いから価値観や世界観の破壊、そしてテスタロッサさんとこうして部屋でお茶を飲んでいる、とイベントが盛り沢山だ。ましてやそれ以前から慣れない行軍などを繰り返している。さっきまでは眠気など無かったものの俺の自覚しないうちに体中に疲れが溜まっていても不思議ではない。
 
 「本当は紅茶には焼き菓子なんかを一緒につけるんですけれど…今日は準備していなくて…その、ごめんなさい」
 
 テスタロッサさんの謝罪の言葉を聞きながら、俺は身体が左右に振れるのを感じた。どうやら身体的にも精神的にもそろそろ限界に近いらしい。言葉は返せなくとも、せめて見るからに高級そうなティーカップだけは死守しようとテーブルの上に乗せた瞬間、俺の視界がグラリ、と揺れ、何か柔らかいモノが背中に当たるのが分かった。
 
 「あっ………」
 
 恥ずかしそうな声と…そして紅茶とは比べ物にならないくらい甘くて胸の奥が疼いて掻き毟りたくなるような匂い。そして今まで触ったことが無いような柔らかくて、ずっと触っていたくなる不思議な感触がどんどんと鈍っていく俺の知覚でも理解できた。同時にその「柔らかいモノ」はどんどんと熱くなっていき、じんわりとした蕩けるような熱さから火傷しそうな熱さになっている。ここまでくれば鈍った俺の知覚でも今がどんな状況なのか大体、理解できる。
 
 ―お、俺…テスタロッサさん……に寄りかかって……。
 
 反射的に身体を起こそうとしたけれど、もう指先にも力が入らなくてそれは適わなかった。寧ろテスタロッサさんの柔らかい肢体を指で押し込む形になってしまい、より強い熱が俺の身体に伝わってくる。眠さの中で半ばパニックになった俺だったが、テスタロッサさんはそんな俺を落ち着かせるようにそっと頭を撫でてくれた。
 
 「大丈夫ですよ。今日は…色々ありましたものね」
 
 優しさに満ちたその一言と、母性に溢れた撫で方で、俺の身体はついに抵抗の力さえ失った。テスタロッサさんから離れようと言う意識さえ働かず、寧ろその優しい熱の中に何時までも埋もれていたい、とそんな事さえ思ってしまう。僅かにだけ残った理性がそれを必死で否定するが、一度二度と優しく頭を撫でられ、そっと背中を抱きしめてくれる手にどんどんとその声が小さくなっていった。
 
 「後の事は私が全部やりますから…安心しておやすみなさい」
 
 その言葉に導かれるように俺の目蓋がどんどんと落ちていく。それに比例するかのように体中の力から緊張が抜け、身体ごと意識の底に沈んでいくようだ。まるで眠るのではなく、堕ちるような感覚に一瞬、恐怖を感じたが、テスタロッサさんの両手がそれを解してくれる。この人の傍にいれば大丈夫。…何となくそんな安心感を持ちながら、俺は意識をそっと手放した。
 
 「…そう。気持ち良い事はぜぇんぶ…私がしてあげますねぇ…♪」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ―………おかしい。
 
 昼飯時も過ぎて人がまばらになってきた食堂の中で、俺は一人、心の中で呟いた。
 テスタロッサさんの部屋から程よく近いこの食堂は彼女が留守中の際、俺が主に食事をする場所である。普段、テスタロッサさんの部屋で半ばヒモ状態で生活している俺には殆ど現金収入などは無いが、ここでは安心して食事を取ることが出来るのが利点だ。さらにその分、味が悪いか、と言えばまったくそんなことは無く、俺が食べたことの無いような美味い料理――まぁ、それでもテスタロッサさんの手料理には敵わないのだけれど――ばかりである。
 
 ―まぁ、どうやって採算を取っているかって言うのも疑問だけど、それは主題じゃない。
 
 俺がおかしいと感じるのは最近の俺の生活だ。テスタロッサさんと初めて会ってからもう三ヶ月ほどの年月が過ぎているが、二人の関係には一切の進展が見えない。この食堂を見回してもすぐ分かるが、同じ頃に捕虜になった連中は大体、魔物娘に完全に身も心も捕まえられている。今も見覚えのある男が視界の端で魔物娘に口移しで食事を運び込まれているのだから。羨ましいが、死ぬほど羨ましいがっ、寧ろ羨ましいを通り越して妬ましいがっっっ!!!!その感情を抑えて色々聞いてみたところ、やっぱり捕虜になってすぐに魔物娘に襲われて、今の関係に落ち着いているらしい。
 
 ―だけど…俺はまだ一度だって襲われたことが無い訳で……。
 
 無論、三ヶ月も共同生活しているのだから、最初の頃のようなよそよそしさはもう殆ど残っていない。形だけのようにお互いに敬語だけは使っているけれど、俺自身もテスタロッサさんの部屋で生活することに大分慣れてきて一緒に料理を作る事だってあるのだ。
 
 ―けれど…未だに性的な関係にだけはどうしてもいかない。
 
 今では半ば忘れ去られているけれど、俺はやっぱり待遇的には捕虜なのだ。今更、テスタロッサさんが人の命を奪うとか、そんな事を考えているわけではないが…やはり俺からテスタロッサさんを襲う…なんて事は考えられない。彼女に嫌われるのが怖い…と言うのも大きいが、俺が彼女に相応しいのか…どうしてもそんな事を考えてしまうからだ。
 
 ―…今だって見事にヒモ生活してるしなぁ…。
 
 他の捕虜と同じように戦う力があれば話は別なのだろう。けれど、俺にはそんな力は一切無い。無理無茶無謀だけでここまでやってきてしまった分不相応な小市民なのだ。それはテスタロッサさんも承知していて、「戦え」なんて決して言わない。自然、生活費はテスタロッサさんから貰う分だけで…それがまた俺のプライドをグリグリと締め付ける。
 
 ―そして…テスタロッサさんも俺を襲わない…と。
 
 何時だってテスタロッサさんは温和で清楚なお嬢様然としていて、そんな雰囲気はまったく無い。この魔王城にやってきてから今まで…結構な数の魔物娘と出会ったが、テスタロッサさんはそのどれとも一線を画している。他の魔物娘は色気をむんむんと振りまいて、格好も露出度の高い――時折、ほぼ全裸の魔物娘も居るのは目のやりどころに困るのだけれど――のに対して、テスタロッサさんは露出度はかなり抑えた衣服しか着ない。
 
 ―まぁ…それもまたとても似合っていて可愛らしいんだけど。
 
 それはともかく。他の魔物娘は自分の捕虜として連れ帰った男をすぐさまモノにしているのに、俺は未だにテスタロッサさんに手の一つも出されていない、と言う事実にどうしても不安になってしまう。だって…それは男としての魅力が無い、と言う残酷な現実を何より無情に突きつけられているのだから。
 
 ―仕事の一つでもしようかなぁ……と言ってもこの城にどんな仕事があるのか分からないけれど…。
 
 魔王城の仕事がどうなっているのか俺には分からないけれど、俺のような何の特技の無い人間でも単純労働程度は手伝える。無論、人間などよりよほど強い力を持つ魔物娘が殆どだから効率は良くないだろうが…それでも何もしないよりマシなはずだ。…そうして働きつつ身体を鍛えれば、魅力も上がるかもしれないし…テスタロッサさんにも襲ってもらえるかもしれない。
 
 ―…いや、その…なんだ。別にそういう趣味を持っているわけじゃないんだが。
 
 別に被虐趣味を持っているつもりは無いけれど、テスタロッサさんに襲われるのであれば本望と言うか何と言うか…あの優しい声で言葉責めされると考えただけでも背筋に寒気が走りそうになるけれど、あの豊満な肢体を見せ付けるように上に跨って精液を一滴残らず搾り取られるとか考えただけでも蕩けそうになるけれど、決して俺はそういう趣味は持っていない。うん。そのはずだ。
 
 ―そう言えば…搾り取る…で思い出したけれど自慰してないなぁ…。
 
 無論、同じ部屋にアレだけ魅力的な姿をしている人が居るのだから、時折、そんな衝動は感じるものの、テスタロッサさんの優しい微笑み一つを見るだけですぐに萎んでいく。そんな生活が三ヶ月も続いているが…普段、生活している分では性衝動は一切、感じないのだ。年齢的にはヤりたい盛りであるはずなのに、自慰したいとも思わないと言う事は異常ではないだろうか。強い性衝動を感じた時にはしっかりと勃起するからインポテンツと言うわけではないと思うのだけれど……三ヶ月、と言う期間は流石にちょっと不安になってくる。
 
 ―不安と言えば紅茶の件もそうだよな。
 
 初めて飲んだあの日から、俺はあの香りの良い紅茶に嵌ってしまったのだが、飲む度にどうしても眠くなってしまうのだ。テスタロッサさんは「そう言う物ですから仕方ありませんよ」と微笑んで許してくれているけれど、俺としては最後の一滴まで紅茶を楽しめない、と言うのは何か自分の身体が悪いのではないか、と不安になってしまう。
 
 ―だって…紅茶って貴族や承認御用達な訳だしなぁ…。
 
 良くは知らないが、これだけ強い導眠効果のある飲み物を好んで、飲むものなのだろうか?…俺にはそうは思えない。考えられるのは俺の体質が紅茶の成分に弱い…と言う事だけど…俺は今まで大病を患ったことも無い健康体だ。しかし、自分がそう思い込んでいるだけで実際は違うと言う可能性もある。ましてや…三ヶ月前の出来事で俺の思う知識って奴が決して正しいとは限らない、と言う事を身をもって知ったばかりなのだから。
 
 ―今度、医者にでも行ってみるかなぁ…。
 
 これだけ人間が居る魔王城であれば人間を見る事のできる医者が居てもおかしくはない。まずは仕事を探すとしても、それが一段落着けば医者の事をテスタロッサさんに聞くのも良いだろう。
 
 ―まぁ…なんにせよまずは昼飯を済まさないとな。
 
 一つ溜息をついて俺は眼下の皿を見つめた。考え事をしている間に完全に冷え切ったパスタは既に湯気を絶っているものの、まだ微かに食欲を刺激する匂いを残している。その匂いに導かれるように俺はフォークをパスタの中へと突き刺した。
 
 ―…ん?
 
 その瞬間、食堂の中へと入り込んできた一人の男に目を奪われてしまう。
 2mを超えているように見える長身に、鍛え抜かれた筋肉をバランス良く身に着けている姿は実戦かそれに準じた形式で身につけたものであろうことが素人でもある俺にも分かる。まるで燃えているかのように様々な表情を見せる紅の髪は短く切り揃えられているものの、確かな存在感として男の魅力のアクセントとなっていた。肌は日焼けとは思えないほど黒い上、露出している四肢には幾何学的な白模様が入っていて一瞬、人間とは思えない。ここから食堂の入り口まで遠いのでかなり遠いのだが、目を惹く肌と模様、そして何より全身から溢れ出る存在感にそちらへと目を奪われてしまう。
 
 ―なんていうか…男って言うよりオスって感じの人だなぁ…。
 
 これだけ遠くに居てもはっきりと感じる存在感と、自分の実力にしっかりと裏打ちされている自信があふれているのが分かった。野性味溢れる肌と装飾はエキゾチックでミステリアスな魅力を男に与えている。訓練着なのか、四肢を露出している白い衣服から覗く筋肉は農作業の手伝い程度しかしていなかった俺とは比べ物にならない程だ。無造作に頭に結ぶバンダナもまた年季の入っているもので、男に歴戦の勇士、とも言えるような雰囲気を与えている。男が無意識に憧れる『英雄』をそのまま現実へと持っていくとこんな人物になるのではないだろうか?思わずそんな下らない考えを浮かべてしまうほど、その男は『オスの魅力』に溢れていた。
 
 ―テスタロッサさんもあぁいう男になったら喜んでくれるかなぁ…。
 
 別に自分が必要以上になよなよした男であるつもりは…ちょっとだけあるけれど。それでも目の前にこれだけ『男らしい男』が現れると、どうしても自分の現状と比較してしまう。…そして、その男と比べ物にならないくらい情け無い自分の現状を見て、どうしてもじくじくと嫌な痛みを胸に走らせるのだ。
 
 ―…って…あれ…?あの男もこっち見てる……?
 
 あまりにもじぃぃっと見過ぎていた所為だろうか。その男は明らかに視線をこちらへと向けていた。まるで見ていたのを咎められているような気分になって、俺は取り繕う為に視線をパスタへと戻す。そのまま「興味を失いましたよー」と全身で表現する為に、パスタをフォークで弄ぶが、それが伝わっていないかのように男がこっちへと近づいてくるのが分かった。
 
 ―ヒィィィィッ!俺が何したって言うんだよおおおおおっ!ちょっと見てただけじゃないかああああっ!!!
 
 内心、そんなパニックを起こすくらい男の存在感は強かった。既に男の姿は完全に視界の外へと置いているはずなのに、一歩一歩こちらへ近づいているのが分かるくらいなのだから。遠目では不機嫌そうには見えなかったが、もし、機嫌を損ねていたら俺なんか紙切れのように吹き飛ばされてしまうだろう。
 
 ―か、神様…っ!!!お願いですからあの男の目的は俺じゃありませんように……っ!!
 
 そんな俺の祈りを聞いてくれるほど神様と言うのは暇じゃなかったらしい。男が俺のテーブルが目的地と言うかのように脚を止めるのが視界の隅で見えた。
 
 「おい。お前」
 
 ―畜生…神様の奴覚えてろよ…。もう二度と信仰なんかしてやらねぇ…。
 
 元々、村に居た頃から――倫理観は別としても――熱心に主神を信仰してきた訳ではないけれど、これは酷すぎるのではないだろうか。そりゃ魔王城に住んで、テスタロッサさんの事をどんどん好きになっているのは認める。認めるけれどこれまでそれなりに信じてきた俺に対してこの仕打ちは無いだろう。畜生!ファッキン神様!お前とはもうこれまでだ!!!!
 
 「おい。さっき俺を見てたそこのお前だよ」
 「は、はい!!!!な、なんでしょう…?」
 
 現実逃避している俺に再びかけられた声に、血の気の引いた真っ青な顔をあげると…そこには予想通りさっき食堂へと入ってきた男の姿があった。けれど、その顔は俺が考えていたような機嫌の悪そうなものではなく、何か面白い玩具を見つけた子供のような純朴な笑顔である。
 
 ―あっるぇー…?
 
 てっきりじっと見つめていたことに対して怒っていると思っていた俺は良く分からない男の反応に内心、首を傾げる。そして男はそんな俺とは対照的に、その笑みを確信めいたものに変えて、勝手に俺の目の前の席に座った。
 
 ―え?えぇぇぇ!?
 
 「やっぱりな。お前、テッサの男だろ?」
 
 訳の分からない表情に訳の分からない状況、そして訳の分からない男の言葉、と見事に三拍子が揃った今、頭の処理能力が劣っている俺は固まるしかない。
 そもそも男は何者なのかとか、どうして俺の目の前に座っているのかとか、テッサって誰なんだ?とか、そんな疑問が解決せずに頭の中で流れて行き、完全にフリーズしてしまうのだ。
 
 「あぁ、テッサじゃなくてテスタロッサって言った方が分かりやすいか」
 
 ―テスタロッサ……ってテスタロッサさんの事か!?
 
 与えられた情報に、固まっていた思考が少しずつ流れていくようになる。
 テッサ、と言うのがテスタロッサさんの愛称であるならば、目の前の男が俺の事を知っているのも頷ける。愛称を使うほどテスタロッサさんと親しい間柄ならば、俺の事を聞いていてもおかしくはない。そして、その男がじぃぃっと見つめていたことに気づいて、こちらへと近づいてきたのだろう。
 
 ―…まぁ、問題は『どれほど』親しい間柄なのかって事なんだが…。
 
 テスタロッサさんは魔物娘なので物理的に兄弟がいるはずはない。なので、テッサなんていう愛称を使う辺りから察するに最低でもそれなりに親しい友人であることは間違いないだろう。そして…考えうる範囲では…恋人と言う可能性だって捨てきれはしない。
 
 ―恋人…か。有りうる話だよなぁ…。
 
 脳裏でそっと目の前の男とテスタロッサさんを並べてみるに…とてもお似合いのように思えた。温和なお嬢様然としたテスタロッサさんと、神話の英雄然としたこの男のペアは正直、とても絵になる。それこそ、俺のような男よりも遥かに。
 
 「ははっ聞いていた通り顔に出やすい奴だな。そんなに俺とテッサの関係が気になるか?」
 
 ―うっ……。
 
 完全に思考を読まれて、言葉に詰まるのも男にとっては予想通りだったらしい。にやついた笑みを顔に浮かべて、俺の様子を窺っている。普通、初対面の相手にこんな事をされたら不快になってもおかしくはないが、男の持つ何処か人懐っこい大型犬のような雰囲気がそれをまったく感じさせない。それもまた、俺と男の格の違いを見せ付けられているようで、俺の中の男のプライドのようなものが萎縮していくのを自覚した。
 
 「気になるなら教えてやるよ。…男と女の関係って言えば分かるよな?」
 「え………」
 
 まるで料理の注文をするかのように気安く告げられたそれに俺の頭の中は再び活動を停止した。しかし、今度の停止はさっきとは訳が違う。与えられた情報が多すぎる上に切迫した状況だったさっきとは違い、今回は告げられた一つの情報を認めたく無いが故の停止だ。
 
 ―予想はしてたけれど…こうはっきりと告げられると胸が痛いものがあるなぁ…。
 
 この三ヶ月暮らしてた中で男の影を感じたことはないし、テスタロッサさんの言動を思い出しても男と余り接したことが無いのは明白だった。…けれど、それは俺が知る『だけ』のテスタロッサさんで…もしかしたら、この男が知っている『テッサ』はもっと深く、根強く、身近な相手なのかもしれない。
 
 ―例えば…そう。麻色の訓練着の下からでもはっきりと分かる胸板に身体も心も預けていたりとか…。
 
 その想像は猛毒だった。思い浮かべた瞬間から、胸のうちに黒いモノが溢れて止まらない。嫉妬とも怒りとも違う…強いて言うなら純粋な絶望と言える様な黒い感情はどんどんと俺の胸を塗りつぶして行く。それを抑える為、さっきの想像を放棄しようとするが、一度、焼きついたそのそれは何度消そうとしても消えることは無かった。
 
 ―うわ…やべ…泣きそう…。
 
 自分自身でも制御出来ない感情の波が心から溢れて、目へと上がっていく。それを止めようにも俺はもう…感情だけでなく思考も一杯一杯でマトモに押しとどめる事なんて出来ないのだ。
 
 「ちょっおまっ!?」
 
 目の前でいきなり泣き始められた所為だろう。男は酷く焦った顔になって、ハンカチを俺に渡した。この反応一つとっても明らかに横恋慕していたと分かるであろう俺にまでこうして優しくしてくれる男の器量の大きさに感動しつつも、嫉妬の念を強くしてしまう。
 
 ―だって…こんな奴に…最初から勝てるはずが無い…。
 
 魅力があるだけじゃなく器量まであるだなんて…俺のような小市民が勝てるはずが無いのだ。ただの小市民ならばまだしも…俺は分不相応にもテスタロッサさんの部屋に呼ばれただけで浮かれて、何の努力もせずに…現状に甘えていたのだから。最初から大きく差が開いていたのに彼女に甘えるだけで自分を磨く気持ちも持たなかった俺が…こんな奴に…こんな凄い人に勝てるはずなんて最初から無い。…けれど、その差がまた敗者であり、持たざる者である俺にとって強く嫉妬の念を燃え上がらせる。
 
 「いや、あのな…。その…なんと言うか…落ち着いて聞いて欲しいんだが…」
 
 けれど、その凄い人は泣かせてしまった責任感からか凄く気まずそうにそう言葉を紡ぐ。そんな男の姿を見るだけで嫉妬するような情け無い男相手に、何の努力もしてこなかった愚かな敗者にも…そうした顔を見せる器にまた俺の中の胸が痛んだ。
 
 「その…嘘なんだわ」
 
 ―…え?
 
 「その…テッサと付き合ってるの嘘なんだ」
 
 
 
 
 
 
 
 「ざっけんなああああああああああああああああああああああああああああ」
 
 ―その声は俺の人生の中で最高の音量だったと思う。
 
 これだけ腹の底から声を上げ、肺を絞り上げるまで声を伸ばす経験なんて無かった。腹の底に溜まっていた暗い感情を丸ごとたたきつけるような大声に食堂中の魔物娘やその旦那がこっちへと向くのが分かったが、その程度で俺の感情は決して収まらない。寧ろ、一度、暗い感情を吐き出したことで新しく生まれた気持ちを表そうと、肺に空気を取り込むのもそこそこに第二声を放つ。
 
 「てめぇ!やって良い事と悪い事の区別もつかねぇのかっ!!!」
 「いやぁ…すまんすまん」
 「軽く謝ってるんじゃねぇえええええええっ!!!!」
 
 少なくとも今の俺の怒りは、右手を立てて気まずそうに身体を縮める程度じゃ収まらない。男との実力差なんて些細な事を明後日の方向へと投げ捨て、より激しく攻め立てようと息を吸い込んだ瞬間――
 
 「だってよぉ…話しかけても反応しても返事もねぇし…軽い悪戯のつもりだったんだよ」
 
 ―うっ…そ、それは……。
 
 意外なほど正論な男の言葉に声を詰めてしまう。
 …確かに冷静になって考えると、俺は目の前の男の存在感に気圧されて、まったく返事をしていなかった。それは…まぁ、間違いなく俺が悪い。だからといって、あんな悪趣味な嘘が許せるわけではないが…俺がまったく非が無い訳ではないのは男の言うとおりだ。
 
 「その…マジですまん」
 「…いや、良いよ。もう」
 
 ―こういう物は一度、冷静になったら終わりだ。
 
 少なくとも男の一言で冷静になってしまった俺はそれ以上、男に怒りを突きつける気持ちが萎えてしまっていた。…大体、最初に「テッサの男だろ?」なんて聞いてきた時点で、この男がテスタロッサさんの恋人と言う線は完全に消えているのだから。それに気づかず、冗談を本気に受け取った俺の方が非が多いのかも知れない。
 
 ―…とは言え、許すつもりにはなれないんだけどな。
 
 矛を収めたと言えど、食堂の中で泣いて大恥を掻かされた、と言う事実は変わらない。その事に怒りを感じるのは止められないし、まして悪趣味な嘘を許せる程、俺は聖人ではないのだから。
 
 「…で、何の用なんだ?」
 
 男が本気になれば俺なんか瞬殺されるという事実をぶん投げたまま、俺は不機嫌を声に山ほど詰め込んでそう訪ねた。それに一瞬、頬を引きつらせながら、最後にもう一度、「すまん」と小さく謝って、男は微笑む。普段はキリッとした堀の深い男の顔が、くしゃっと人懐っこい大型犬のように変わっていくのは悔しいくらいサマになっていた。
 
 「いや、テッサの惚れた相手がどんな奴なのか気になって」
 「…は?」
 
 ―惚れた?テスタロッサさんが?誰に???
 
 思わず首を傾げてしまう程、その言葉が俺には理解不能だった。だって、その言葉はまるで『俺』に向けられているようだったから。しかし、そんな事あるはずがない。だって、俺は一度だってテスタロッサさんに襲われたことが無い上に、そういう雰囲気になった事さえ無いのだから。初日から緊張をある程度、解してくれたテスタロッサさんは何時だって優しいお姉さんのように俺に接しているのを崩さず、友人としての好意は示してくれているけれど、それだけだ。それ以上の――例えば恋人のような――好意は一度だって見たことが無い。
 
 「おいおい…鈍感にも程があるだろ。そもそもなんとも思ってない男を部屋に招いた上に三ヶ月も同衾するか?」
 「それは……」
 
 今の状況事態があまりにも異質だったのでよくよく考えてこなかったが、言われてみれば確かにそうだ。何故か紅茶を飲む度にすぐさま倒れてしまうので一つしかないベッド――元々、テスタロッサさんだけの部屋なのだから当然なのだが――に彼女と一緒に眠っているのは普通であれば異常だろう。朝起きる度に、目の前にテスタロッサさんの可愛らしい寝顔があり、脳髄が痺れてしまいそうな危険な甘い体臭をたっぷり感じられるので役得としか考えていなかったが、確かに何とも思っていない相手にそんなことはしないのが普通だ。
 
 「でも…俺は何の特技も無くて…何かに秀でてる訳でもないし…」
 「じゃあ、聞くが、お前はテッサを好きな理由ってあいつが何か特技を持っているからか?」
 「いや…違う…けど……」
 
 ―…じゃあ、俺がテスタロッサさんが好きになった理由って…何なんだ…?
 
 そりゃ…勿論、色々だ。最初会ったときから綺麗な人だと思っていたし…正直に言えば性欲の対象にもしていた。コロコロ変わる表情や仕草に心惹かれて、護ってあげたいと馬鹿なことだって考えた事もある。そういう面で見れば確かに俺は最初からテスタロッサさんに惹かれていたのだろう。けれど…好きになった理由…と聞かれるとどうしても一つに絞ることが出来ない。一つ二つではどうしても決め手が弱く、説明不足感が否めないのだ。
 
 ―強いて言えば…全部…かな。
 
 これまでのテスタロッサさんと過ごした時間、思い出…それら全てをひっくるめて俺は何時の間にかテスタロッサさんを好きになっていた。きっとそう言う事なのだろう。そう考えるととてもしっくり来る気がする。
 
 ―しかし…俺が好きになった経緯が分かったとしても、テスタロッサさんの感情が分かるわけでは決して無い。
 
 「でも、俺がテスタロッサさんと会ったのは俺が捕虜になった時なんだぞ?」
 
 そう。俺とテスタロッサさんが同衾し始めたのは初日からだ。つまり目の前の男の論理で言えば、その時点で彼女は俺に惚れてた、と言う事になる。特別容姿に優れているわけでも、腕力に優れているわけでも、頭が優れているわけでもない、この俺を、だ。…そんな事あるはずがない。
 
 「じゃあ、一目惚れなんだろ」
 「そ、そんな簡単に…」
 「人を好きになる理由なんて存外、簡単なモンじゃねぇか。一目惚れと大差ねぇよ」
 
 ―なんつぅ乱暴な論理だ…。
 
 そうは思うものの、心の何処かで一理ある、と感じてしまう自分も居る。確かに…俺がテスタロッサさんを好きになった理由と言うのを思い返してみても…ある意味ではとても単純で簡単なモノだ。「好き」と言う感情のメーターが今まで積み重なってきたものが、じわりじわりと上がって、好きになった、と考えるならば、一目でそのゲージが振り切れる人だって居るだろう。もしかしたらテスタロッサさんがそういう人…であった、と言う可能性は確かに否定は出来ない。
 
 ―そもそも、大分、浮世離れしてる人だしなぁ…。
 
 最初はしっかりした年上お嬢様風の人だと思っていたが一緒に生活している中で実は結構抜けている人であることは骨身に染みて知っている。テスタロッサさんは料理も得意で、彼女が部屋に居るときは良く手料理を食べさせてもらうのだけれど、調味料を間違いかけたことは一度や二度ではない。俺が手伝っていなかったら、甘い料理が塩辛い味付けで出て来ていただろう。そういう所も可愛らしいのだけれど…まぁ、それはともかく。こういった天然気味なテスタロッサさんが一目惚れを決してしない…とは俺には言い切れない。
 
 「まぁ、良かったじゃねぇか。少なくとも一目惚れしてくれるくらいテッサはお前に魅力を見出したんだから」
 「そりゃ…それが事実なら嬉しい話だけど…」
 
 けれど、だからと言って、テスタロッサさんが俺に一目惚れをしていた、なんて都合の良いシチュエーションが本当にあるのか、俺には疑問だ。何度だって言うが、俺は普通の小市民で一般人なのだから。テスタロッサさんのような素敵な女性が惹かれる要素なんて俺には一つだって見当たらない。
 
 「そんなに物怖じするんだったら、一回、押し倒せば良いじゃねぇか」
 「ばっおま…っ!!!」
 
 唐突にその顔を好色そうな親父のようなモノに変えた男の一言に俺の身体は火がついたように熱くなるのが分かった。俺自身考えつつも、実行に移す前に何時も否定していた事を言い当てられたのが原因だろう。しかし、そうは理解していても俺の身体の熱は中々、ひいてはくれない。寧ろ意識すれば意識するほど、顔が赤くなっていくような気がする。
 
 「でも、そうだろ?押し倒していけそうなら、万事オッケーじゃねぇか」
 「まぁ…そりゃそうだけれど…でも、ダメだったらどうするんだよ?」
 
 俺の生活は完全にテスタロッサさんに依存している。生活資金的なものもそうだし、衣食住もそうだ。そのテスタロッサさんから見放されてしまえばこの魔王城の中で息絶えるしかないだろう。そう考えれば失敗したときのリスクが大きすぎる。
 
 「そん時はそん時だろ。迷わず行けよ。行けば分かるさ」
 「完全に人事だコイツ!?」
 「まぁ、俺はテッサがお前を拒絶するとはとても思えないし、拒絶したとしても恒常的に魔物娘が余ってるこの城ならその気になればすぐヒモになれるぜ?」
 「最初からヒモになるのを前提で計画立てるのもなんだかなぁ…」
 
 ―まぁ、今の状態も完全にヒモ男なんだが。
 
 とりあえず押し倒す押し倒さない以前に俺が自立しなければどうにもならないだろう。最低でも賃金を貰える様な仕事を手に入れて、部屋を持つ程度にはなっておきたい。そうして自分でもテスタロッサさんを支えられると言う自信をつけて初めて…テスタロッサさんに好意を示すことが出来るのだから。それまで押し倒すだの押し倒さないだのは考えないほうがいいだろう。
 
 ―まぁ、腹は決まった。問題はこれからどうするか…だが。
 
 「ついでなんで男でも働ける場所って知らないか?」
 「一番、簡単なのは軍なんだが…お前は無理そうだよな」
 「自慢じゃないが、今まで剣なんて持ったこともないぞ」
 
 何となく胸を張って言い放ってみると、男はその顔を子供のような楽しそうな笑顔に変えて、コツンとテーブルを叩いた。何気ない小さな動作だったはずなのに、がたがたとテーブルが揺れて、完全に冷め切った皿がカタカタと揺れる。分かってはいたつもりだったが、目の前の男の尋常ではない膂力を目の当たりにして一瞬、身体を硬くしてしまった。
 
 「あ、悪い」
 
 そんな俺に対して男は一瞬、気まずそうな…本当に気まずそうな顔色を見せた。俺が勝手に驚いただけなのに、どうしてそんな気まずそうな顔をするのか、俺がそう訪ねる前に男は仕切りなおすかのように人懐っこい笑みを再び顔に浮かべる。
 
 「それならこの食堂なんかどうだ?ピーク時には結構な人数が集まるから人手不足って話を聞いたこともあるしな」
 「食堂…かぁ」
 
 今、こうして俺たちが座っている状況を見てる限りではチラホラと人が座っているのしか見えないが、元々、この食堂はかなりの広さを誇る。正確な人数を聞いたことはないが、千人近くを収容できる大きさを最低でも持っているだろう。そして、このピーク時にはこの食堂が一杯になって尚、足りないほどの人数がこの食堂を訪れると聞く。食事を提供するために働いている人数がどれくらいかは分からないけれど、それだけの人数を捌くのに人手はあって困ることはないだろう。
 
 ―そして、俺だって多少は料理の経験はある。
 
 元々、住んでいた村で家事も手伝っていたのもあるが、ここ最近はテスタロッサさんの手伝いを兼ねて料理することも多いのだ。無論、調理場は戦場と言う話を聞いたことがあるから今の俺の実力で通用するとは思えないけれど、それでも何の経験がない分野に挑戦するよりはマシだろう。
 
 ―先の展望は決まったし…後は……。
 
 「…その、さ」
 「ん?」
 「…いや、ありがとう」
 
 この男に礼を言わなければいけないのは屈辱だ。別にさっきの出来事で嫌っているわけじゃない。アレはやっぱり俺も悪い点はあったと認められるし、男だけが悪い訳では決してないのは分かっている。けれど、やっぱり俺の何処かで苦手意識が残ってはいるのは否定出来ない。
 
 ―けれど、俺のそんな感謝の言葉でも、男は見ているこっちが気分が良くなる様な気の良い笑顔を浮かべた。
 
 「気にすんな。からかった事に対する罪滅ぼしみたいなもんだ」
 
 ―あぁ…くっそぉ…。気持ち良い奴だなぁ…ホント…。
 
 グダグダと考え込んでいる俺と比べて、劣等感を刺激されてしまうくらいの割り切り方は男として憧れるものでもある。けれど、それを正直に口を出してやるほど俺は素直ではない。代わりに俺はついっと目線を逸らして、すっかり冷め切ったパスタをフォークに絡ませ始めた。
 
 ―あ…と、そういえば…。
 
 「名前、聞いてなかったな」
 「あぁ…そういやそうだな」
 
 意外そうな表情を顔に浮かべる男の気持ちが俺には少しだけ分かる。出会いの最初こそアレだったものの、後半はまるで友人同士のように気安く会話を出来ていたのだから。…思い返すとこうしてまるで友人同士のような会話が出来たのは魔王城に来て初めてだったかもしれない。まだ蟠るモノが残っている俺でさえそう思うのだから、最初から俺を知っていて何ら含むところのない男の側からすれば、名乗っていないのが不思議な関係だろう。
 
 「ジェイクだ。ジェイク・バーキンス」
 「アズ・キンバート。知ってるかもしれないが…」
 
 そこまで言った所で男―ジェイクから差し出された右手に気づいた。まるで何かを求めるような…その手と、顔を見ながら…俺はつい顔を綻ばせて、自分の右手で彼の手を握った。
 
 「よろしく。ダチ公」
 「へぇ…お前はダチを泣かすのが趣味なのか?」
 「ばっか。罪滅ぼしだって言っただろ?もう時効だっての」
 
 そんな風に笑いあいながら同年代の男と握手するのは…もしかしたら初めてかも知れない。元々、俺の住んでいた村は同年代なんて数えるほどしかおらず、同い年なんて一人もいなかった。ある程度、大きくなるまで村の兄さんたちに遊んでもらって、大きくなった後は逆に子守をするのが村のルールみたいなものだったから。こんな遠い土地でふいに生まれた友情―のようなものに、認めたくはないものの心の中がそっと温かくなるのを感じた。
 
 「―イクー…ジェイクーっ!」
 「おっと…悪いな。お呼びだ」
 「なんだ。嫁が居たのかよ」
 
 悪戯っぽく笑うジェイクにそう悪戯っぽく返しながら、俺たちはしっかりと握っていた手を解いた。その瞬間、食堂に一人の女性が入ってくる。
 長く尖った耳に、透き通る月光のような蒼銀の髪。それだけ見てもテスタロッサさんと同族…つまりデュラハンであることが分かる。しかし、すっと切れ長の瞳や意志の強そうな口元と言い、温和な雰囲気を振りまくテスタロッサさんとはまるで違っていた。また着ているのもデュラハンの正式装備である不気味な鎧で、ついさっき戦場から帰ってきたかのように見える。
 
 ―でも、その割には返り血一つないのが気になるが…。
 
 まぁ、人間などよりもよっぽど鍛錬を繰り返して比べ物にならないくらい強いデュラハンであることは明白なのだから、返り血一つ着けない戦い方と言うものができても不思議じゃないだろう。そう思いながら、俺は今度こそパスタに口をつけようとスプーンを救い上げ口元へと運び――
 
 「じ、ジェイク!!!見つけたぞ!!!!」
 「よぉ。早かったなリリィ。お疲れさん」
 「い、良いから…良いから早く…これを…こ、この玩具を止めてくれ…ぇ!」
 
 ―思いっきり噴き出した。
 
 「うっわ汚ねぇ!!」
 「汚いのはお前だ阿呆!!!!」
 
 よくよく見ると入ってきたデュラハンはもじもじと内股を――何故か正式採用の不気味な鎧は太ももと胸元が大きく露出している――擦り合わせて、もじもじとしている。遠目で見る分には気づかなかったが、顔も真っ赤で、気の強そうな目元はトロンと蕩けているようにも見える。息はまるで熱に浮かされたように荒く、一呼吸ごとにどんどんと早く、熱くなっているようだ。
 
 ―そして極めつけは…この音。
 
 耳を澄ませば、ヴィンヴィンと独特の駆動音が鳴っているのが分かる。その音はこの魔王城で捕虜になってから俺に衝撃を与えた物の中で五指に入るモノが今、目の前のデュラハンの『中』に入っていると言う事の証左で……。
 
 「俺の事なんか良いから、とっとと嫁さんを助けてやれ!」
 「俺としてはもうちょっと焦らして、蕩けていくリリィの顔を楽しみたいんだが…」
 「お前の嗜好なんざ知ったことかあああああああ!!!!」
 
 流石に食堂中に大声でそう叫ぶとジェイクの馬鹿も腰を上げて、そっとデュラハンを――ジェイクの台詞が確かならばリリィという女性だろう。…何と言うか災難に――抱きかかえた。いきなり2mを超える長身に抱きかかえられた女性は「きゃっ♪」と見た目にそぐわない可愛らしい叫び声を挙げて、そっとジェイクのたくましい身体に抱きつく。衣装さえそれなりに整えれば、まるで囚われの姫とそれを助けに来た勇者…と言ったような神話めいた雰囲気がある二人だが、「ヴィーン」と響いてスカートを若干持ち上げる『何か』がそれを見事にぶち壊していた。
 
 ―つーか…リリィさんも何か言えよ。
 
 俺の常識では考えられない楽しみ方をしていた馬鹿を熱っぽく見上げているだけで、彼女もまた何も言わない。もう諦めてしまっているのか、それともそんな事はどうでも良い位ベタ惚れしているのか……まだ付き合いと言って良いほどのモノを持っていない俺には分からないが…快感や羞恥以外の感情が強く込められている熱っぽい視線を見るに両方な気がする。
 
 「あ、そうだ。忘れない内にコレをやるよ」
 「ん?…何だこれ?」
 
 ジェイクがリリィさんを抱き上げたまま器用に腰の皮袋から取り出したのは一粒の錠剤だった。純白に染め上げられた小指程度の大きさのそれがコロコロとテーブルの上で転がり、俺の手元へとやってくる。その錠剤を導かれたように手にとって見るけれど、薬の知識なんてまるで無い俺にはそれが何なのかまるで分からなかった。
 
 「お前の悩みを解決してくれるであろう素敵な薬さ。今日にでも飲んでみろよ。面白いものが見れるぜ」
 
 ニヤリ、と意地の悪い笑顔をしながら、ジェイクは大事そうにリリィさんを抱えなおした。あまりにも自然で何気ないその仕草は、なんだかんだと言ってもこの男がリリィと言う名のデュラハンをとても大事にしているのが伝わってくる。
 
 ―俺には理解できない関係だけれど…。
 
 けれど、お互いに何処か幸せそうな様子を見る限り、これがこの二人にとっての一番、『良い』関係なのだろう。それだけは俺にも良く理解できた。
 
 「じゃあ、リリィが我慢できないみたいだからちょっとヤってくるわ」
 「べ、別に我慢できない訳じゃなくてだな…。あっちょ…こらぁっ♪は、走ると揺れるっ♪『中』で揺れてぐりってぇ♪気持ち良い所にぃっ♪」
 
 まるで台風のように去っていった二人の後姿を見ながら俺は再びパスタの皿に視線を落とした。何度も何度も食べるのを中断させられたそれはもう冷めるのを通り過ぎて、冷たくなっている。流石に完全に冷めたパスタを食べる気にはなれず、さっき俺が噴出した分を両手でかき集めて皿へと盛り直した。そのまま立ち上がろうとした瞬間、大きく自己主張したムスコが俺を押し留めようとしているのに気づいてしまう。
 
 ―…勃ってるよ畜生……っ!!
 
 そりゃ俺だって男の子である。テスタロッサさんとはまた方向性が違ったとは言え、リリィさんもまたとんでもない美人だった。そして、そんな美人が『男根を模し、魔力で動く張り形』を敏感な部分に突っ込んで感じている姿を見せられればどうしても勃起してしまう。別にリリィさんの事を一目惚れした訳ではないが、男と言うのはそういうものだ。残念だけれどそういう生き物なのだから。
 
 「…アイツと友達になったの…もしかして間違いだったのかなぁ…」
 
 何となくそう一人ごちながら、俺は息子が大人しくなるまで座り続け、人生と言うテーマについて考えていた…。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 食堂でのちょっとした騒ぎの後、俺は中々、テスタロッサさんの部屋に戻る気分にもなれず魔王城の中を歩き回っていた。気を抜けばさっきのリリィさんの痴態が脳裏で再生され、ムスコが膨れ上がってしまうからである。今日もテスタロッサさんは戦場へと出かけていて部屋に居ないとは言え、流石に女性の部屋で自慰をする程、俺は勇者では無い。結局、色々なモノが落ち着くまで散歩でもして気を紛わせる事が俺に出来る最善の事だった。
 
 ―…けれど、いい加減そうやって魔王城の中を徘徊出来る時間でも無くなっている。
 
 暗めに落とされた照明から隠れるように恋人たちがお互いを睦み合っている姿が見られるようになってきた。廊下の窓から見える庭には明らかに数組のカップルがなにやらもぞもぞと蠢いている。俺も子供ではないので何をしているかは分かるが…分かるからこそあまりそんなカップルを見るわけにはいかない。下手に見てしまって、欲情してしまえば散歩していた意味もなくなってしまうのだから。
 
 ―まぁ…とっとと帰るのが無難だよな。
 
 幸いにして俺のいる場所はもうテスタロッサさんの部屋の近くだ。このままゆっくりと歩いても五分も掛からないだろう。その間に、どれだけ頭を冷やせるかが勝負の分かれ目となるが…別に今日はテスタロッサさんは居ないのだから、自慰さえしなければ負けではない。最悪、悶々としたまま朝を迎えても、自慰さえしなければドローへは持ち込める。
 
 ―…ってアレは…?
 
 そんな馬鹿なことを考えながら歩いていると目の前に人影が見えた。テスタロッサさんの部屋の前で扉を背にするように立ちすくみ、右と左を何度も見るその不審な人影はよくよく見れば…いや…良く見なくても……。
 
 「テスタロッサさん?」
 「あ、アズさん!」
 
 そう呼びかけるとその人影、いや、今日は戦場に居るはずのテスタロッサさんが俺の元へと駆け寄ってきた。鎧を脱いですぐ部屋へと帰ってきていたのか、黒いチェック柄のフレアスカートと、豊満な胸で持ち上げられている向日葵色のブラウスと言うラフな格好をしている。余りにもラフ過ぎて、その下にある魅力的な肢体を見せ付けられているかのような格好に相変わらず目が釘付けになりそうなのを感じながら、俺は胸の中で安堵の溜息をついた。
 
 ―良かった、今日もテスタロッサさんは無事だったんだな…。
 
 ヒモな俺とは違い、魔王軍の中核をなすデュラハンとして忙しい日々をすごしているテスタロッサさんが戦場へ出ていく度に無事でいて欲しいと祈っているが…少なくとも目に見える傷は無い。負傷で後方に下げられたのではなく、きっと早めに教会側を撃退できたからこそ、予定より早く帰ってくることができたのだろう。
 そんな事を思いながら一歩前へと踏み出すと…今まで見た事が無いくらい不機嫌そうな顔でテスタロッサさんがこっちへと向かっているのに気づいた。
 
 ―え?な、何で!?
 
 今までどんな事をしてもこんな風に怒った顔を見せなかったテスタロッサさんの突然の変化に俺は動揺し、足を止めてしまう。けれど、俺が足を止めたところでテスタロッサさんが歩みを止めるわけが無く、数秒もしない間に彼女は俺の前に立っていた。
 
 「もう…っ!何処行ってたんですか!心配したんですよ!!」
 
 ―…あ………。
 
 てっきり怒られるものだと思い込んでいた俺は可愛らしく頬を膨らませながら言ったテスタロッサさんの言葉に何も言えなくなってしまう。時刻を見ればもう大人が寝ていてもおかしくはないくらい遅い。そんな時間に生きるか死ぬかの戦場から文字通り必死になって帰ってきて…部屋の中に居る筈の人間がいなければそれは心配するだろう。だからこそ、こんなに夜遅くに扉の前に出て、俺の姿を探していたのだと…そこまでは推察がついた。
 
 「…ごめんなさい」
 
 そこまで推察出来て謝らない程、俺は子供ではない。無論、俺には俺なりの事情があってこんな夜中まで徘徊していた訳だけれど、それでも、テスタロッサさんに要らぬ心配をかけたのは事実だ。例えジェイクほどすっぱりと割り切った考え方は出来なくとも、自分に非がある面は謝るべきだろう。
 
 「……泥棒猫に拉致されたんじゃなかろうかと…気が気じゃなかったんですから…っ」
 
 ―…ん?
 
 テスタロッサさんの小さく呟いた言葉の中に…何か聞こえてはいけないような単語が聞こえた気がしたが、きっと気のせいだろう。夜中まで出歩いて久しぶりに疲れてしまった所為で聞き間違えたに違いない。
 
 ―やれやれ…大分、体力が落ちているな…。
 
 農作業を手伝っていた時期とは違い、今では殆ど仕事らしい仕事をしていないので体力的なものもかなり下がってきているのだろう。テスタロッサさんが居るから、と言い訳せずにこれからはちゃんと仕事をして自信と同じく、体力も取り戻していかなければいけない。
 
 ―まぁ、その為にもまずテスタロッサさんに機嫌を直して貰わないと…。
 
 「あの…ちょっと散歩したくなって…」
 「ここは危険ですから遠出しちゃいけませんよって以前も言ったじゃないですか…。私が居ないときは仕方ないですけれど…食堂にだって本当は頻繁に行って欲しくないんですから…」
 
 ―うぅ…なんか本気で拗ねてる…。
 
 ちょっと過剰に反応されてるような気がしないでもないけれど、きっとそれだけ心配されていたと言う事なんだろう。…ちょっと不謹慎ではあるけれどその感覚に顔がにやつきそうになってしまうのだ。そりゃ…心配をかけるのはいけないことではあるけれど、やっぱり好きな人に心配されていると言う感覚はそう悪いものじゃない。それを顔に出すわけにはいかないけれど、感情までも抑えることは俺には出来なかった。
 
 「ごめんなさい。…その、もうしませんから」
 「………」
 「テスタロッサさんが帰ってくるときは必ず部屋に居る事を約束しますから…あの…」
 「…ふぅ」
 
 そこまで言った所でテスタロッサさんが溜息をついて、俺は身体を思わず震わせてしまう。まさか嫌われたのか、とおずおずと顔色を窺うと…そこには気まずそうなテスタロッサさんの表情があった。
 
 「…ごめんなさい。私も大人げなかったですね。今日はそもそも帰ってくる日じゃなかった訳ですし…」
 「あ、いえ、そんな……」
 
 どうやらさっきの溜息は俺に対するものじゃなく、テスタロッサさん自身に対するものだったらしい。少なくとも嫌われてしまった訳は無いと安堵する反面、テスタロッサさんが要らぬ心配をかけてしまった俺ではなく自身を責めている、と言う状況に心に痛みが走った。けれど、俺が何を言おうとテスタロッサさんの自責の念を消せないだろう。…俺自身、そうして自分を責めることが多いので良く分かる。
 
 ―…でも……だからって、何もしないなんて選択肢はそれこそ無いだろう。
 
 「悪いのは俺ですよ。…こうやって今もテスタロッサさんにおんぶ抱っこで…要らぬ心配ばかりかけてるんですから」
 「そ、そんな事ありません!だ、だって、アズさんは…私の大切なお客様なんですから!全然、苦なんかじゃありません!」
 
 ―そんな風に言われると、その…なんだ。ちょっとこそばゆいんだけど。
 
 けれど、悪い気はしないのも事実だ。…好きな人にニュアンスは違えど、大切と言われたのだから仕方ないだろう。…でも、その好意に甘えられる期間がもう過ぎ去りかけていると言うのも…また事実なのだ。
 
 「ありがとうございます。…でも…いい加減、こんな生活してちゃお互いに良くないと思うんですよ」
 「…え……?」
 
 まるで明日、世界が終わると言われたかのようにテスタロッサさんの顔から表情がすっと抜け落ちた。さっきまでしっかりと焦点が合っていた目から光が消えて、何処を見ているのか分からなくなる。適切な気温に設定されているはずのこの魔王城でフルフルと身体を震わせている辺り、もしかしたら風邪を引いて、前線から戻ってきたのかもしれない。
 
 ―それなら…あんまり長い間、立ち話をする訳にはいかないだろう。
 
 寧ろ早い事この話を切り上げて、テスタロッサさんに眠ってもらったほうが良い。そう考えて俺は未だ信じられないかのようなテスタロッサさんを見ながら、言葉を続ける。
 
 「何時かは分かりませんけれど…ちゃんと働いて自分の部屋を手に入れますね。テスタロッサさんも俺が一緒じゃ寛げないでしょうし…」
 「そ、そんな事は…っ!」
 「それに…俺も…一応、男なんで…やっぱりあまり女性と同じ部屋と言うのはちょっと……」
 
 ―それは半分近く嘘だ。
 
 俺としては今のこの状況が一番、居心地が良い。確かに自慰こそ出来ないが、そもそも性衝動を感じる事は少ないので問題は無いのだ。好きな人が部屋にいる間は四六時中一緒にいることができて、旨い手料理だって振舞ってくれる。さらに、寝る前に一緒に美味しい紅茶を飲んで、温かいベッドで一緒に眠る生活に異議になんてあろうはずもない。…しかし、それではダメだ。俺の中のプライドが甘やかされる度に、テスタロッサさんへと依存する度に、どんどんと磨り減って、何時までたってもテスタロッサさんとの関係を前へと進めることが出来ない。
 
 ―だからこそ…どれだけ痛みを伴っても…俺はテスタロッサさんから自立しなきゃいけない…!!
 
 「…そう……ですか…」
 
 そう強い決意と意思を持って言う俺とは対照的にテスタロッサさんは今にも倒れそうなくらいふら付いていた。何時もはしっかりと身体を支えている筋がブレ、ふらふらと重心ごと揺れている。彼女は元々、白い肌だったものの、それが今や蒼白と言っても良い位になっていて、見ているだけで痛々しい気持ちになってしまうほどだ。ふるふると寒気に震えているのだろう指先は重力に引かれてそっと落ち、首もまた指に引きずられるように俯き加減になっていく。少し女性の平均より小柄なテスタロッサさんが俯むくと、そこそこの長身である俺からは顔色が見えなくなってしまうが、蒼白だった顔を思い出す限り彼女が今までに無いくらい弱っているのは確かだろう。
 
 ―やっぱり体調が悪かったんだ……。
 
 普段は決して見れないであろうテスタロッサさんの弱った姿をせめて支えようと反射的に腕が動くが、頭の何処かで静止がかかって彼女へと伸ばすことが出来ない。
 
 ―今の俺じゃ…テスタロッサさんを支える資格なんて…無い。
 
 無論、人を助けたりするのに、支えたりするのに必要な資格なんてあるはずもない。人を助けるのは同じ人の善意で、それは純然たるその人の意思だからだ。人を形作る多くの要素を作り、今も天使を遣わせて、この世界を見守っている神様とやらだって、それを捻じ曲げるのは決して出来やしない。
 
 ―けれど…手を伸ばそうとする俺を遮るのもまた俺の意思なのだ。
 
 「今の俺なんかが触れて良い人じゃない」…そんな声がどうしても俺の頭の中から離れない。それは錯覚だと、俺の自信の無さが聞かせる幻聴だと理解していても、俺の手はまるで空中に縛り上げられたかのように無様な格好のまま動かなかった。
 
 「…その…大丈夫ですか?かなり体調が悪そうですが…部屋に入ったほうが良いのでは…?」
 
 結局、後一歩の所でへタレてしまった俺はぎゅっと拳を握り締めた後、無難な言葉を掛けながら手を下ろした。関係を変えられる一歩になったかもしれない場面で、へタレてしまった事について胸の中では吐き出しそうなほどの自己嫌悪が渦巻いているが、それを顔に出すわけにもいかない。頬が引きつるのを自覚しながらも、テスタロッサさんに少しでも心配を掛けさせまいと自己嫌悪を押さえ込むのに必死になっていた。
 
 「大丈夫……?…えぇ。大丈夫ですよ…分かっていますから…」
 
 ―…?何が分かっているって言うのだろう…?
 
 そんな疑問を口に出す前に、テスタロッサさんは俯き加減になっていた顔をゆっくりと上げていく。さっきまで見えなかった顔色は……俺の予想とは異なり、普通だった。勿論、初雪のような白い肌をしているものの、それは元々である。血の気が失せて病的なまでになっていた蒼白はまったく鳴りを潜めていて、何時もとそれほど変わりが無いように見える。それでもまだ身体が辛いのか目の焦点はしっかりと合っては居ないが、さっきに比べれば瞳に大分、力が戻っていた。
 
 ―……ん…?
 
 どういう原理か分からないが、テスタロッサさんは多少、持ち直してくれたらしい。それでも、まだ身体の軸はフラフラと揺れて安定はしてはいないので、安心は出来ないだろう。しかし、今すぐにでも倒れてしまいそうな様子は消えていることに、俺は胸の中で安堵の溜息を漏らした。
 
 「そうですね…。お部屋に…二人のお部屋に入らないと…アズさんが風邪を引いてしまいますものね」
 
 ―…いや、あの…出て行くってさっき言ったんですが……。
 
 そうは思っても、それを口に出すのは無駄な時間を過ごすだけだ。きっと体調が悪くて聞き逃してしまったのだろうし、何度も繰り返しても意味は無い。何より、今、俺がここですべきなのは、自分の主張を押し通すことではなく、テスタロッサさんの身体を気遣うことだ。口を動かすよりも体調の悪そうな彼女の為に扉を開けて、早く寝る準備をしてあげないといけない。
 そう思いつつ俺はゆっくりとした足取りで部屋へと向かうテスタロッサさんの横に立ち、並んで歩き始めた。彼女の歩みはやっぱり体調が悪い所為かフラフラとしているもので、見ているだけで不安になってしまう。けれど、その手を握って支えようにも、どうしても感情が足踏みしてしまって、腕が動かない。
 
 「あ、そうだ…。お部屋に帰ったらまた紅茶を淹れてあげますね…。今日のは飛びっきり腕を振るっちゃいますから…」
 「いや、あの…紅茶より先に寝るべきじゃ…」
 
 少なくとも今のテスタロッサさんを台所に立たせて安心はできない。何しろ大分、顔色が良くなったとは言え、今も左右に揺れているのだから。普通に歩くだけでも不安になってしまうのに、台所で火を使う家事をさせて安心など出来る筈も無い。
 
 「寝るのはアズさんが紅茶を飲んでくれてからです…」
 「でも……」
 「飲んでくれるまで…私…寝ませんから…」
 
 ―けれど、テスタロッサさんはそうは思っていないようで…。
 
 横を歩く彼女の顔色をそっと窺うけれど、少し俯き加減になっている所為か表情までは見えない。どんな表情を浮かべているのか気になったものの、覗き込むわけにもいかず、俺はそっと胸の中で溜息をついた。
 
 ―まぁ…紅茶を淹れるくらいならば…すぐ済むだろうし、俺が横に立てば大きな事故になる事も無いだろう。
 
 今までにない程強いテスタロッサさんの自己主張なのだから、それくらい許容すべきだろう。確かに心配であるのは変わりが無いけれど、変な我侭を言われるよりは可愛らしい要求なのだから。早めに休んで欲しい気持ちは勿論あるけれど、始めてと言える位、激しい主張を叶えてあげたい気持ちが若干、勝った。
 
 「分かりました。だから、早く部屋に入って休んでください」
 「えぇ…分かってますよぉ…」
 
 言いながら何時ものように扉を引くと、素直にテスタロッサさんは部屋の中へと入ってくれた。とりあえず廊下で倒れて、大騒ぎになる危機を脱したと言う事に胸を撫で下ろしながらそっと扉を閉める。そのままテスタロッサさんの後を追いかけてキッチンへと入ると、彼女は既にそっとルーンに触れて火を起こし、お湯を沸かしている所だった。
 
 ―何時もならここから五分で紅茶を蒸せるんだが…。
 
 元々の火力も高い所為か、二人分のお湯を沸かすまでは本当にあっという間だ。そこから数分ティーポットに入れて蒸らす作業の方が工程としては長いくらいなのだから、どれだけの火力かすら想像がつかない。下手に触れれば、火傷じゃ済まないかもしれないと思うほどの火が今、ふらつくテスタロッサさんの前で燃えていると思うと、妙に背筋に寒気が走り、落ち着かない気分になってしまう。

 ―な、なんだこの感覚…。
 
 まるで全身が危機を感じ、今すぐここから逃げ出すよう叫んでいるみたいな感覚に俺は身体をぶるり、と振るわせた。背筋には何時の間にか冷や汗が珠のように浮き出ていて、適温に保たれているこの部屋が妙に肌寒い。腕もそうだが、特に足元が落ち着かず、むずむずとした感覚が気持ち悪くて何度も重心を入れ替えてしまう。
 最初にこの部屋に招かれた時だって、ここまで居心地の悪い思いはしたことが無い。テスタロッサさんが弱ってさえ居なければ何かしら理由をつけて逃げ出してもおかしくないくらいのプレッシャーが今、俺の上に圧し掛かっていた。
 
 ―でも…ここはテスタロッサさんの部屋なんだぞ?
 
 こう言っては何だが、この部屋は俺にとって魔王城の中で間違いなく一番、居心地の良い場所である。最初の頃は魔物と言うフィルターを通してこの部屋の主を見ていた上、見たことが無いくらいの美人、と言う意味でも緊張していたので居心地が良いとは言えなかったが、三ヶ月と言う二人で過ごした期間の中で、この部屋は俺にとってまるで「家」のように位置づけられているのだ。そんな場所が居心地が悪いなんて、ましてや命の危機さえ感じるなんてあり得るだろうか…?
 
 ―…無いな。きっと俺の考えすぎだろう。
 
 きっとテスタロッサさんのあんなに弱った姿を始めて見たから不安がっているのだろう。なんだかんだ言って、やっぱり俺は彼女に強く依存しているのだ。…少なくとも、今、こうして何の言葉も交わさないまま横に立って、居心地の悪い思いをするくらいには。
 
 ―ヒュウウウウウウウッ
 
 「あ」
 「………」
 
 考え事をしている間に、何時の間にかお湯が沸いていたらしい。反射的に火を止めようと動く俺よりも早く、テスタロッサさんは無言で火を消してティーポットへと沸騰したお湯を注いだ。黄金色の茶葉が熱い湯に揺らされ、白磁のポットの中でゆっくりと香りが熟成されていくのを感じられる。思わず目を閉じて、香りを楽しもうとした瞬間、そっと白いナプキンがポットの上から被せられ、匂いが完全に遮断されてしまう。
 弱っているとは思えないほどの早業に少しだけ残念な気持ちを覚えたものの、俺はもう少し我慢するだけでもっと芳醇で優しい香りが楽しめると知っている。自然とにやつきそうになる頬を精一杯堪えながら、俺は銀製の盆に蒸らされているティーポットと二つのティーカップを移し、それを両手で持ち上げた。
 
 「運びますよ。テスタロッサさんは座っててください」
 
 ―けれど、その俺の手を遮るようにそっとテスタロッサさんの手が触れた。
 
 瞬間、俺の手から心臓まで、まるで電流のような甘い痺れが走る。ビリビリと走った場所を甘い疼きを残すその痺れは…とても危険なモノだった。気を抜けば盆を落としてしまいそうなほどびっくりした、と言う事も勿論だが、それがあまりにも…驚くくらい甘美な感覚だったから、と言うのが一番大きい。
 今までの俺の生活は意図的にテスタロッサさんとの接触は避けられてきたもので、こうして直接触れ合ったことは…記憶にある分には一度も無いのだ。しかし…俺の記憶には無くとも、間違いなく俺の『本能』はこの感覚を、この指を確かに覚えている。そして…オスの本能がこの指を求めて止まず、俺の体に染み込んだ甘い『記録』を再生しているのが俺にも分かった。その記録が…俺の体の指先から足の爪までを駆け巡り、甘美な痺れとして暴れ狂っているのだろう。
 
 ―でも…どうして…!?
 
 しかし、俺はこうしてテスタロッサさんに触れられた記憶なんて一度も無い。そりゃ…初日に紅茶を飲んで寝た俺をベッドに運んだのはテスタロッサさんだし、それ以外にもそれほど大きくも無いベッドで同衾しているのだから、一度も接触したことが無い、と言う事は無いだろう。けれど、それらの接触はどれだけ偶然に恵まれたとしても、どれも一過性のものだ。少なくともこうして触れただけで本能が甘く痺れるくらいまで深く刻み込まれている程の接触にはなり得ない。まして、そこまでの接触があったのであれば、寝ていたとしても俺も起きるだろう。
 
 ―何が…どうなっているんだ…!?
 
 完全に記憶に無いはずの記録と痺れにパニックになる俺を見ながら、そっとテスタロッサさんは微笑んだ。弱っているはずの彼女が、まるで俺を安心させるかのように浮かべたソレは…今にも散ってしまいそうな花を連想させるほど儚く、そしてそれ故の倒錯的な美しさを伴っていて…そして、何より―
 
 「ダメですよ、アズさん…。まだとってもあまぁいお砂糖が残ってるんですから…」
 「あ、あぁ…そうですね。うっかりしてました」
 
 ―…おかしい…。いや…何がおかしいかは分からないけれど…それでもおかしい…!
 
 流石に鈍感な俺とは言えど、ここまで来ると普段と明らかにテスタロッサさんの様子も、自分の事さえ違うのが分かる。けれど、その理由まで分からない。まるで外枠だけ渡された絵画を見ているようで、中心の本当の大事な部分だけ見落としているような…そんな感覚だけが俺の心を押しつぶしそうになっている。その真ん中の部分を探そうにも、一寸先さえ見えないような薄ら寒い感覚が俺を包んでいて、凍りついたように思考も上手く働かない。
 
 ―ダメだ…考えろ…落ち着くんだ俺…!!!
 
 自分に言い聞かせるように心の中でそう唱えても、焦った思考は上手く纏まらないままだ。あっちへこっちへで断片的なピースばかりが浮かび上がるだけで、それらを繋ぐ糸口が思いつかない。そんな俺の持つ盆の上に、テスタロッサさんはそっとティーポットと同じ白磁の小瓶を置く。シルクのような純白を見せるこの小瓶の中には、紅茶の上品な匂いを惹きたて、程よい甘さを加えてくれる角砂糖が幾つか入っているはずだ。
 
 「さぁ…♪ベッドのほうへ行きましょうね……♪」
 
 そう言いながらテスタロッサさんが浮かべた笑みはさっきと同じく…儚いが故の美しさと…そして、まるで身を引き裂かれているかのような切なさが同居していた。見ているだけで胸が締め付けられるような表情をどうしてテスタロッサさんが浮かべているのかさえ分からず、俺はただ木偶の坊のように立ち尽している。
 本当は今すぐ「どうしてそんな表情をされているんですか?」と聞きたい。…そうすれば少しはこの状況を打開する材料になるかもしれないのだから。…けれど、触れれば崩れ落ちる砂糖菓子のようなテスタロッサさんの儚さが、それを押し留めていた。「聞きたい」と思う俺と「聞くべきではない」と言う引っ張り合いは、数秒の硬直の後、「聞くべきではない」に振り切れてしまう。
 
 「え…えぇ…」
 
 結局、そう無難な答えを選びつつも、俺は心の中で激しく鳴っている鼓動に気づいた。まるでここから先に進んではいけないと知らせる警鐘のようなそれに…本当は耳を貸すべきなのだろう。恥も外聞も無く逃げ出すのが、きっと正解なのだと…漠然とだけれど、感じられる。
 
 ―でも…俺はやっぱり……。
 
 それが正解だとしても…俺はやっぱりテスタロッサさんの事が気になってしまうのだ。こっちが切なくなってくるような表情と言い、何時もからは考えられないくらい弱った姿と言い…今の彼女は決して普通じゃない。…結局、俺がへタレてしまっている所為でその理由までは聞けてはいないものの…俺が原因であることは恐らく間違いはないだろう。思い返せば…この部屋の扉の前で出会ったときは普通だったのだから。
 
 ―そして…もし、テスタロッサさんの変調の理由が俺ならば…俺は責任を取らなければいけない。
 
 無論、俺に出来ることなんて殆ど無いに等しいだろう。寧ろ本当は俺が居たら邪魔なのかもしれない。…けれど、それでも俺は好きな人の前からは逃げたくないのだ。それは我侭かもしれないけれど…それでも、どんな結果になったとしても、受け入れるのが俺なりの責任の取り方だろう。
 
 ―…まぁ、そんな風に格好つけてもへタレが少し覚悟決めただけなんだけれど。
 
 それでも…この覚悟だけは変えたくない。そんな意思をこめて大きく息を吸い込み、一歩ベッドのほうへと踏み出す。普段であればすぐに着くはずのその寝具が…今では何故かとても遠い存在に見えるのは…きっと俺の心境を表しているからなのだろう。
 
 ―落ち着け…!例え何があっても…死ぬことだけは絶対にない…!!
 
 一歩踏み出す度に、まるで死刑台へ向かっているような錯覚を覚え、足を止めてしまいそうになるが、必死にそれを叱咤して足を進め続ける。プレッシャーで軸が揺れている所為か足を進める度に、ガチャガチャとティーセットが揺れて耳障りな音を立てるが、それを気にしている余裕すら俺には無い。たった十数秒の行軍を必死で終えた頃には背中だけではなく、額に脂汗まで滲んでいた。
 
 「あら…アズさん…大丈夫ですか…?」
 「え、えぇ…大丈夫です…」
 
 脂汗まで浮かべて、大丈夫と言っても説得力は無いだろうが…そこでテスタロッサさんは追及しないでくれた。その事に胸を撫で下ろす反面、最初にこの部屋へと来た日の事が脳裏に蘇る。
 
 ―そうだな…あの時もこんな風にして…ベッドの淵に並んで座って…。
 
 馬鹿なことをやって…追求しないでくれたテスタロッサさんに感謝して…たった三ヶ月前のその日が、今では何故かとても遠く思える。無論、村に住んで家族と暮らしていた頃に比べればまだまだ最近ではあるものの、まるで数年前にも思えるのだ。その間に色々あったのも無関係ではないだろうが…結局のところ、俺が今の生活にかなり馴染んでいる証左なのだろう。
 
 ―そんな生活を…取り戻さないとな。
 
 勿論、これから変わっていくこともあるだろう。こうして一緒の部屋で暮らせる時間も後少しかもしれない。もしかしたら酷い別れ方をして二度と顔を合わせない、と言う結末もありうる。…しかし、それでも俺は今の生活が…もっとはっきり言うならテスタロッサさんの近くに居る生活が好きだ。それもただ居るだけじゃない。穏やかな彼女とそっと笑い合える様な生活が大好きなのだ。
 
 ―けれど…今の状況はそれとはまるでかけ離れている。
 
 隣に居るのは普段の優しげな笑みを浮かべるテスタロッサさんではなく、まるで今にも消えてしまいそうな弱さと儚さを持つ人で…笑い合おうにも俺にも…彼女にも笑顔は無い。最初の頃とはまた違う気まずさがお互いの間に、深い溝として存在していて、近くに居るのに…酷く遠い気がする。
 
 ―しかも…この今の状況は多分…俺が齎している。
 
 何とかしたいと思うけれど、突破口どころかこんな事になった理由さえ俺には分からない。これが頭の良い人間ならば答えなんてすぐに出せるのだろう。ジェイクのようにすっぱりと割り切る奴はこうなる前に、突っ込んで聞いていたはずだ。俺がもし、人の心の機微に敏感な男であれば、そもそもこんな事にはなっていない。しかし、残念ながら、俺はその全てではなく、こうしてこの場に居る。…それなら、分からなくとも、自分なりに我武者羅にもがいて解決策を見つけ出すしか無いのだろう。
 
 ―…あぁ、解決策と言えば…。
 
 ふと思いついた単語から先ほどの食堂でのやり取りを思い出し、俺は腰に括り付けられた皮袋からそっと一粒の錠剤を取り出した。ジェイクから受け取ったまま、飲む気になれず、ずっと皮袋の中に放り込まれていたソレは相変わらずどんな効果があるのか素人の俺には窺い知ることは出来ない。
 
 ―…これが俺の悩みの解決策になる…ってジェイクは言ってたよな…。
 
 流石に死んだり、強烈な副作用を齎す薬ではないと思うが、それでも得体の知れない薬を飲むのは勇気が居る。ましてや相手はあのジェイクなのだ。出会ってからまだ時間は余り無いものの、食堂でのやり取りで子供のような悪戯を好む奴であると言う事は窺い知れる。そうした悪戯心がこうした薬にも現れていない、とは決して言い切ることが出来ない。
 
 ―…まぁ、どっち道、死ぬことはないだろ。
 
 結局のところ、俺自身は完全に手詰まりになっているのだ。それならば、ジェイクの良心に賭けて見るのも良いかもしれない。
 そんな事を思いながら、俺は口の中に白い錠剤を放り込み、思いっきり噛み砕いた。
 
 ―う、うぉぉぉぉっ…!な、なんつう不味さだっ…!!
 
 噛み砕いた瞬間、口の中に広がったのは鼻に突くような強烈な苦さだ。弾けるような苦さは口だけには収まりきらず、鼻の奥をまるで針で刺されているかのような痛みが走らせる。次に、舌からは「苦さ」としか形容できない味が広がり、今すぐにでも口の中を洗い流したい感情に駆られてしまうほどだ。けれど、俺の手元にはまだ紅茶が無く、この味を濯ぐことさえ出来ない。
 余りの苦さに涙さえ浮かび始めた頃には、痛みと味のピークが過ぎて慣れてきたものの、俺が口に入れたものの中で一番、苦い味は健在である。
 
 ―これで何の効果も無かったら…あの馬鹿をぶん殴ってやる…!!!
 
 無論、何も考えず噛み砕いた俺の自業自得なのだが、それで納得してくれるような物分りの良い感情を飼っていない。八つ当たりとは分かっていても、怒りにも似た感情を胸の中で渦巻かせ、思わず握り拳を作ってしまうのだ。
 
 「…あの…出来ました…けれど…大丈夫ですか…?」
 「あ、はい!!も、勿論ですとも!!」
 
 気遣うようにそっとこちらの顔色を窺ってくるテスタロッサさんにそう返しながら、俺は彼女が差し出してくれたソーサーを受け取った。その瞬間、始めて会ったその日から、まるで変わらないティーカップと紅茶の色が俺の目に入ってくる。ふと目を閉じて、思い出に浸りたくなるのを堪えて、俺はテスタロッサさんが添えてくれた角砂糖を紅茶へと浸した。
 
 ―相変わらずコイツもすげぇ溶けるなぁ…。
 
 あれから何度も見ているが、やはり掻き混ぜる事無く、消える砂糖には違和感が拭えない。一度、気になって外側を舐めてみたが、砂糖独特の甘さがするので本当に砂糖なのだろう。…その後、流石に「はしたないですよ」とテスタロッサさんに窘められたのも、今から思い返せば良い思い出だ。
 
 ―さぁて…まぁ、思い出に浸るのはここまでにするか。
 
 未だ俺の首筋に刃物が押し当てられているような感覚は拭えないし、何か俺の身に危機が迫っているのも確かだ。しかし、テスタロッサさんの体調が普通ではないのもまた事実なのである。そして…そのテスタロッサさんが今も、俺の顔をじっと窺って自分の紅茶に口をつけないのであれば…何時ものように俺から紅茶を飲み、テスタロッサさんを寝かしつける必要があるだろう。
 
 ―まぁ、俺は紅茶を飲むとすぐ寝る体質みたいだから寝かしつけられる側かもしれないが。
 
 そう自嘲しつつ、俺はそっと紅茶を口に含んだ。最初の頃と同じように芳醇な香りが口の中で踊り、上品な甘さが舌を伝って咽喉へと抜けていく。そして、それと比例するかのように俺の身体は急に重くなり…目蓋もどんとんと降りていく。そのまま完全な闇の中へと放り込まれる寸前…俺の目に今までに無いくらい嬉しそうな笑顔を…例えるならようやく欲しかった玩具を手に入れた子供のような純真な笑顔を浮かべるテスタロッサさんが見えて…。
 
 ―……あれ…?テスタロッサさん…どうしてそんなに…嬉しそうな笑顔を……。
 
 その言葉を脳裏に描いたのを最後に、俺の意識は今日も眠りの中へと降りていった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11/01/03 03:09更新 / デュラハンの婿
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