連載小説
[TOP][目次]
仔猫の心臓
 ウチはその時、少し早い昼ご飯を追いかけ回していた。
 丸々太った山鼠(やまね)で、茱萸(ぐみ)の木にぶら下がって赤い実を一心不乱に囓っていた。ウチはその実を食べたことはあったけど、甘くて少し渋い。美味いとも思うが、種が大きくて果肉が少ない。そしてそれよりも肉の方が好きなのだ。だから、枝からそいつをはたき落とし――正直に言うと捕らえるのにしくじり、こうして追いかけっこをしているのだ。
 木の根を乗り越え、草むらを掻き分け、ひょろんと細い尻尾に手が届く、その時だった。

 ウチはピタリと止まった。
 山鼠は全速力で逃げていくが、もうどうでもいい。
(なんで?)
 それに気付いてから、ウチの胸はどきどきしてる。走った時よりたくさんだ。

 だって、あの子の匂いがするのだから。

 どうして? ウチは思う。
 だってあの子は、毎日休まず山の前を通る訳じゃないから。お日様が五回昇り下りしたら、次の二回はお休みするのだから。

 ウチはちゃあんと知っているのだ。

 だって、毎日あの子が通る橋を見に行くのだから。
 あの子が来ないと分かっていても、念のために見に行くのだから。
 わざわざ見に行かなくたって、風があの子の匂いを運んでくるから、橋を通れば判るのに。
 そして、風が匂いを運んできたのだ、あの子の!

 何十本もある足をわさわさと動かして、急いで山を下りる。
 木々の間を蛇のように縫って這い、さっきの山鼠以上に一心不乱に駆け下り、滑り下りる。
 今なら、蝉だろうが鼠だろうが、猪が通り過ぎたってどうでもいい。
 ただ、あの子が近くにいるのが嬉しい。
 ただ、あの子を見られるのが嬉しい。
 話せなくても。ウチのこと、知らなくても……。

(おった)

 あの子がいた。
 しかも、人の通る道じゃなく、山の中に入ってきているではないか。まだほんの入り口で、まばらに生えた雑木林は道から透かし見える距離だけど。だけどそこは、立派な山の中だ。ウチの庭同然だ。

 ウチの庭に、あの子が入ってきてる。

 向こうから来てくれるだなんて。
 ウチに会いに来てくれた訳じゃないってことくらい、重々解ってる。
 でも、嬉しいものは嬉しいのだから仕方がない。

 ウチは忍び足でそっと近寄り、草木に潜みながら向こうを窺い見た。
 あの子は、木の根元に座っていた。いつもの服じゃない。最初見た頃の全身黒ずくめではなく、近頃見る白と黒の上下でもない。空色で模様の入ったのを着て、深い森みたいな色のを穿いていた。
 山の稜線みたいだなと、ぼぅっと思う。そう思うと、また訳もなく嬉しく思えた。山を住処にするウチと、なんだかお揃いな気がして。
 もっともっとよく見ようと、ウチは身を乗り出し、触角を限界まで伸ばす。
 何をしているの?
 膝を抱えるように座るその側には箱があった。その箱の中に、生き物がいる。

 仔猫だ。

 匂いで判る。
 あの子は時折、その仔猫にそろそろと手を伸ばし、撫でているようだった。
 それを見たウチは、美味しそうと思うよりも先に……胸がモヤモヤした。
 鼠を食べ損ねたから、腹の具合が良くないのだろうか? 空腹が上まであがってきたのだろうか?
 訳が解らない。解らないから、無視することにした。
 それよりもあの子だ。
 あの子は、座り込んだまま動こうとしない。

 もしかしたらだが……ひょっとすると、このままあの木の根元辺り住む気だろうか?

 ウチは、自分の考えに心臓が飛び出そうになった。
 そんなことになれば、嬉しさのあまりウチは死ぬかもしれない。胸は弾け飛び、足腰がバラバラになりそうだ。
 知らずにうねうねし出した触角は、うねうねからビュンビュンに変わりそうだったので、手で掴んで押さえ付けた。音など鳴らしてあの子に気付かれたら、大変だ。

 そう、気付かれたら大変なのだ。

 人に近い姿になったとは言え、百足は百足。きっと人間は怖がるに違いない。あの子は優しいから逃げないかもしれないが、それでも怖がるには違いない。
 だからウチも、ここでこうして潜んでいよう。隠れてあの子を見守ろう。
 幸い、ここには食べ物がたくさんある。蝉も、ゴキブリも、鼠も。夏だから寒くもない。少しくらい寒かろうが、お月様から貰った黒い着物がある。
 だから。あの子があそこにいる間、ウチもここにずっといよう。
 あの子が飽きるまで。
 ウチが死ぬまで。

 物陰からじっと見ている。
 しかし、何かおかしい。
 自分の考えばかりに気が回っていたが、こうしてよくよく見てみると、どこかがおかしかった。
 ウチは、鼻に比べて目は良くない。以前と比べればこの世が別世界のように見違えて見えるが、ずっと遠くまで見通せる訳じゃない。その目でじぃっと見つめれば、鼻や耳では捉えられないことが解った。

 あの子の目が赤いのだ。

 さっき見た茱萸の実よりも、ウチの足よりも赤い。まるで……そう、まるでお月様の目みたいに赤い。しかも、黒目の部分じゃなくって、白目のところが赤い。もう真っ赤っかで、血のように真っ赤で。
「大丈夫や?」
 何とウチは、声をかけてしまっていた――。






 今朝起きてみれば、磯矢晨の身に異変が起こっていた。
 目が真っ赤に充血し、何も見えなくなっていたのだ。
 これまでにも、こうしたことは何度かあった。
 庭に面した自室から手すりを伝って居間に行けば、唯一の家族である父親は土曜日だというのにすでに仕事に出かけた後だった。朝食と弁当は昨晩のうちに用意しておいたので、大丈夫だろうと晨は判断した。
 それよりも自分の方だ。
 家の間取りと物の配置ならだいたい把握している。普段からもしもに備え、目を瞑ってウロウロしたり雑事をこなしたりしているのだが、それは実を結んでいた。

 カレーの入った鍋を流しに置き、深皿に装う。これなら零してしまっても床が汚れない。それを、火は使わず電子レンジで温める。その中に、炊飯器から玄米を注ぐ。
 白米でない理由は、晨の病気に原因があった。

 特定疾患に分類される国指定の難病で、自己免疫疾患の一種だ。本来体を守るはずの免疫が狂い、健全な細胞まで攻撃してしまう病気である。
 ひとたび症状が出れば、目が充血して一時的に視力が低下したり、手足に炎症が起こって動くのが困難になるくらい腫れたり、高熱を出して寝込んだりする。
 今回出たのは目だけだが、その炎症が酷いようで、全く何も見えない。
 そして、担当医が言うには、『医学的根拠は一切なく、あくまでも統計学上のデータですが』という前置きの元に、『白い物、精白した物はあまり食べない方が良い』とのことだったのだ。

 晨の父親はなかなかの子煩悩だった。男手一つで息子を育て、仕事に励み、子供を苦労させないようにと身を粉にして働いている。
 晨の病気が発覚した時も、『原因不明の不治の病なら、薬以外で治してやる』と、水と空気が綺麗なこの土地への引っ越しを迷わず決めた。病気を診られる医者がいたのも大きな理由の一つだ。つぶしの利く職種だったのが幸いした。
 視力低下を考えて手すり付きの家を購入し、『この薬が効く』と聞けば民間療法レベルのものでも試し、先の話のように米は玄米に総入れ替えしたり……。

 晨は、こんな厄介な病気になってしまったが、それでも自分は幸せだと思っていた。父に深く感謝し、大きな愛情を嬉しく思った。

 だが、どうしようもなく寂しかったのも、また事実だった。
 名医に診て貰えなくとも、良薬が飲めずとも、家族と一緒にいたかったのだ。たった一人の家族なのだから。

「ご馳走さまでした」
 侘びしい朝食を終え、免疫抑制剤を飲む。これを飲むと体がだるくなってしまうし、そもそも治す薬ではない。が、飲まないと病気は速く進行する。平日は登校しなければいけないのと同じ感覚で、必要なそれを水で飲み下す。

 そして……暇になった。

 普段なら本でも読むところだが、今は読めない。同様に、テレビを付けても音しか聞こえない。音楽でも聴こうとして……やめた。なにか、家にいること自体が耐えられそうにない。
「散歩にでも行こうかな」
 通い慣れた道ならば、杖さえあればなんとかなる。
 折り畳み式の白杖を手に取ると、誰も居ない家に『行ってきます』を告げ、外へと出たのだった。



 みゃあ……。

 それが晨の耳に届いたのは、通学路の途中にある石橋の手前に来た時だった。
「猫?」
 耳を澄ます。
 帽子を被ってくれば良かったと後悔しながらも、汗をかきつつしばらく待つ。すると、耳を刺すニイニイゼミの鳴き声と腹に響く川の音に混じり、また「みゃあ」と聞こえた。心持ち先程よりも声が小さい。だが、意識を向けた分ハッキリと聞き取ることができた。
「こっち……だよね」

 白杖を突き、足下を確かめながらゆっくり進む。
 アスファルトが土の軟らかさに変わり、そこに緩やかな勾配が加わり、顔に届く草いきれの熱気と足にまとわりつく草むらを乗り越えると……途端に涼しくなった。
 雑木林に入り、日陰になったからだ。風もそれなりに通る。
 晨は慎重に歩を進める。恐れはあったが、それ以上に放ってはおけなかった。
 耳を澄ませても鳴き声はしない。人の気配に警戒したのか。
 今まで以上に注意を払い、時間をかけて進む。傾斜が低いとは言え、滑って怪我でもすれば父親が心配する。心配は、かけたくなかった。

 と、足下ばかりを警戒していた晨は、顔の位置に張り出した枝へぶつかり、驚いて飛び退った。そして運悪く木の根に足を取られ、派手に転んでしまう。
「っ!?」
 ごろりと転がり一回転。
 それで、杖はどこかへ放り出され、方向も見失った。
 だが。
「みゃあ」
 目当てのものは見付けることができたのだった。

 そうして猫の側に座り込み、さてこれからどうしたものかと思案しているところへ、大百足の不知火がやって来て、とうとう声をかけた――という訳だ。

「大丈夫や?」

 その声に晨はギョッとした。
 彼の目算では、ここは雑木林の中のはずだった。人など通るような場所ではない。しかも、その声がとにかく美しかったのだ。儚げで、どこか陰があるが、不純物の感じられない透き通った声だった。
 そう、まるで“人間ではない”かのような。
 夏に怪談話はつきものだがと、少年は自分の考えを可笑しく思いながら、声の方に返答した。
「はい。転んでしまったのですが、怪我はありません」
 何か、無性に胸を満たすその声へと、無事を伝える。
 だが、晨の言葉に対し、不知火の返答はなかった。彼女は……木陰でパニックを起こしている最中だったのだから。

 せっかく人間の言葉が話せるようになったにもかかわらず、不知火は心の中で『話すことも、顔を合わせることも一生ないだろう』と諦めていた。
 それがどうだ。
 思わぬ機会が巡ってきて、少年の赤い目が気になるあまり、暴挙に及んでしまっていた。
 どうしよう、と胸中で繰り返していると、再び晨が口を開いた。
「ただ、その……僕は目が全く見えないのですが、転んだ際に杖をなくしてしまって。もし――」
 もし宜しければ探して頂けませんか? と続くはずだった。
 が、

「目、見えんと!? 大丈夫ね? 枝で刺したと? それともまさか、蛇か蛙の毒が目に入って……」

 驚くべき速さで這い寄った不知火は、大胆にも少年の両肩を掴んでいた。
 彼女の頭の中では、晨の返答次第では山中の蛇と蛙を喰い尽くしてやるぞという決意の炎が燃え盛っていた。
「え? いえ、蛇も蛙も関係ありません。僕はこういう病気なんです」
 ズルズルだとか、ガサガサだとか、どうにも聞き慣れない――何か重い物が高速で引きずられたような音を気にしながらも、晨は答える。
 二人の距離は、とても近かった。
 そして、今まで交わされることのなかった視線は――こんなに近くても、やはり交わらない。
 不知火の、殻と同色の黎(あおぐろ)い瞳が、晨の、鮮血色に覆われた黒い瞳を恐る恐る覗き込む。焦点が結ばれず、遙か遠くを見ているような、少年の目を。

「病気……」

 不知火の声は深く沈んでいた。
 少年のことが心配だった。心配で心配で、身を切られる思いがする。できることなら代わってやりたいと思うし、目玉を交換すれば治るというなら、喜んでくり抜いただろう。だが、芽生えた知恵が、そんなことは無理だと教えてくれていた。
 それに……不知火は、どこかホッとしてもいた。
 目が見えないというのなら、自分の姿も見られる心配はないということだ。百足の下半身を。体から突き出た、毒のある顎肢を。
 だから不知火は、そんな風に考えてしまった自分を恥じた。恩人である少年の病を、一瞬でも『都合が良い』と思ってしまった浅まし我が身を、この上なく憎んだ。

「大丈夫ですよ」
 そんな不知火に、その沈んだ声を慮って晨は告げた。
「一時的なものですし、炎症が引けばまた見えるようになりますから」
 見ず知らずの自分をこうまで心配してくれる女性を、安心させてやりたかった。同情でも良かった。同情して貰えるということを、有り難いことだと考えていた。

「また、見えるように」
 少年の言葉を聞いた不知火は、安堵の息をつく。それから、掴んだままだった肩から、慌てて手を離した。
 手の収め所が解らず、あたふたと無意味に振り回し、髪を弄ったり触角をなでつけたりする。
 そんな光景など見えやしない晨は、一度口にしかけたことを再度言葉にする。
「申し訳ありません、厚かましいお願いだとは思いますが、転んだ拍子に杖をなくしてしまいました。近くにあると思うので、探して頂けませんか?」
 それを聞いた不知火は馬鹿みたいに何度も頷くと、すぐさま目当ての物を拾ってきた。警察犬も恐れ入る素早さで、巻き起こった風が晨の前髪を揺らす。
 だが、そこからがどうにも手際が悪い。
 白杖を拾ってきたはいいが、手渡すのが恥ずかしいのだ。握った物を持てあまし、何となく匂いを嗅いでみたり、自分の行動にハッとなり、赤面したり。
「あの……?」
「ひゃい!?」
 不審に思った少年が問えば、大百足は立ち木みたいにピーンと身を強ばらせ、わたわたと慌てふためき、そして――たおやかな手は少年の手をそっと握り、その手に杖を取らせた。

 その白い杖は、川で溺れた不知火をすくい上げてくれた、忘れることのできない杖だった。

「有り難うございます」
 ぺこりと頭を下げる晨に、不知火も頭を下げて返す。
「ウチこそ、ありがとう」
 触れ合った手を胸に抱き込む。
 お月様から貰った手を。人間そっくりの手を。
 女性の返答を妙に思いながらも、晨は何も言わなかった。

 それから言葉が続かず。しばらく、蝉の鳴き声だけが辺りを包んだ。

 ややあって。
「あの、道に戻るにはどちらの方向へ進めば良いですか?」
 発された晨の問いに、不知火はしょげかえった。そして、とっさに問い返す。
「帰ると?」
 その、いかにも落ち込んだ声に、晨は驚いてしまう。
「え? あ、そう……ですね」
 何故こうも意気消沈させてしまったのか晨には解らない。が、ここにずっとこうしている訳にもいかない。と同時に、ここを去りがたい理由もある。

 仔猫だ。

 段ボール箱に入れられた、掌に乗りそうな小さな猫。こんなに小さくては、自分だけでは生きていけないだろう。かといって、晨の家ではとても飼えない。さりとて、頼めそうな友人などいない。
 考えあぐねる晨に、か細い声で不知火は告げる。
「あっち……」
 そのほっそりした指は雑木林の外を指しているが、今の晨には見えない。
「すみません、お手数ですが僕の手を取って指し示して貰えますか?」
 遠慮がちに問えば、不知火は怖ず怖ずと、だが明らかに嬉しそうにその手を取り、道路側を示してやった。
「有り難うございます」
 さあこれでいよいよお別れかと不知火が覚悟していると、少年は立ち上がる気配を見せない。
 そして、足下に手を伸ばし、仔猫の背を撫でた。
 それで不知火は合点がいった。

「その猫、持てあましとると?」
 確かにその通りなのだが、かといって困っているのかと言えば、そうでもない。晨は何と答えれば良いのやら判らず、
「う、ん……」
 と、言葉を濁した。
 いっぽう、これは役に立てるぞと勢い込んだ不知火は、言葉を重ねる。
「あとしまつ、考えとるとやろ?」
「後始末というか、そうですね……どうしようか悩んでます」
「ウチがしまつする」
「え? 飼うんですか?」
 始末という言葉に一抹の不安は覚えたが、この優しそうな女性に何か間違いなどあるはずがないと、晨は都合の良い方向に解釈し、問い返す。
 すると、
「いや、昼飯にする」
「食べるの!?」
 返ってきた言葉に仰天し、普段の彼にはありえない程の大声を出してしまった。
「うん」
「冗談は止めて下さい!」
 慎ましやかな胸を張った不知火に、さすがの晨も声を荒げる。が、すぐに己の行動を悔いた。女性を怒鳴りつけるなんて、男のすることではない、と。
「す、すみません! つい」
 いっぽう不知火の方は晨の剣幕に縮み上がり、大きな体を一塊に丸めぶるぶる震えている。
「ごめんなさい、ウチ、役に立ちたかったと……、ごめんなさい、ウチ、ウチ……」
 その可哀想なほどの萎縮ぶりに、晨の胸に罪悪感が募る。
「いえ、僕の方こそすみません。その……この仔猫はさっき会ったばかりなんですが、どうにも気になってしまって……。僕が独りぼっちだから、親近感が湧いたんでしょうね」
 ハハ、と自嘲気味に笑う少年が無性に心配になり、不知火は再び身を寄せる。
「昨日はだいじょうぶやったと?」
「昨日……ですか?」
「あん石橋の上で、意地悪されとったろ?」
「見られてたんですか……」
 あんな情けないシーンを他人に見られていたなんてと、晨の頬は羞恥に染まる。同時に、この女性はここらに住んでる人なんだろうかと、ふと思った。
「ウチ心配やったけん、無か知恵しぼって花とか虫とか川に流したとばってん」
 晨の脳裏に、昨日の出来事が甦る。色鮮やかに川面を飾った、山紫陽花の幻想的な流れを。
「あれ、お姉さんだったんですか? あの時は凄く助かりました。本当に有り難うございます。あの、僕、晨って言います。磯矢晨です。こんなに話をしてるのに、自己紹介が遅れてしまって……」
「シン……、イソヤシン」
 シン、シン……と、大百足は何度も繰り返す。あんまり繰り返すから、眼前の少年が頬を染めてしまうくらいに。
 だがもう、そんなことは気にしていられない。恩人の名前が判ったのだから。

 そんな彼女を、更に逆上せ上がらせる事態が起こった。

「あの、よければお姉さんの名前を教えて下さい。助けて貰った人の名前くらい、知っておきたいんです」
 名前を聞かれたのだ。不知火が、晨から。
「ウチなっ、ウチ、不知火って言うと! お月様がつけてくれたと!」
 小さな子供がとっておきの秘密を打ち明けるみたいに、不知火は興奮を抑えきれずに語った。あんまり興奮しすぎて、顔は真っ赤で、頭上の触角はビュンビュン荒れ狂っているが、そんなことにも気付かない。
 晨はその音を『虫でも飛んでいるのか?』といぶかりながら、自分より年上だろう女性の、なんとも可愛らしい上擦り声に可笑しくなり、頬が緩んでしまう。
「あ、笑った!」
 そんな少年の笑顔がこの上なく嬉しくて、不知火は躍り上がりそうになるくらいはしゃいだ声をあげる。
「ご、ごめんなさい! 別に馬鹿にした訳じゃないんです」
 慌てて弁明する晨に、
「うんにゃ、シンになら馬鹿にされても良かよ。シンが笑ってくれるなら、ウチ、なんでもするけん。ウチ、シンの笑った顔も、声も、匂いも、全部が好きやっけん。シンがして欲しかことのあったら、なんでもしてやるけん」
 ずいっと大胆に身を寄せて、不知火の顔が晨の顔に接近した。その気配と、何となく伝わる人肌の温もりと、仄かに香る不知火自身の匂い。そして『なんでもしてやる』という先の言葉もあり、年頃の男の子は頭に血が上ってしまった。
 だからだろう。普段の少年ではあり得ないくらい、口が軽くなったのは。
「あの、えと、そんな風に言われると照れます。僕、優しくされ慣れてないんです。いえ、うちの父さんは優しいんですが、母親がいたらこんな風にしてくれたんでしょうか? あ、いや、不知火さんはとても若そうだし、お姉さんですよね、ってなに言ってんだ僕……」

 誤魔化すように笑う晨を、不知火は――そっと抱きしめた。

 勢いよく抱きつきたい衝動をグッと堪え、化け物の力で少年を壊してしまわぬよう細心の注意を払いながら、優しく抱きしめた。
 雌の百足は母性本能の塊だ。
 産んだ卵は体に背負い、汚れたりカビが生えないよう大事に大事に抱きかかえて運ぶ。清潔を保つために、卵を絶えず舐めてやる。孵化した後も、一人前に餌が獲れるようになるまで、親が狩りをしてせっせと餌を与える。その間、親百足が絶食するなんてことはザラにある。
 不知火は、今まさに雌百足としての母性本能のスイッチが入ったのだった。
 晨が可愛くてたまらなかった。
 晨が不憫で仕方がなかった。
 母にでも姉にでもなってやりたかった。
 今すぐ住処の洞窟に連れ帰りたい衝動だけは、ギリギリのラインで堪えていた。

「あ、の……?」
 いっぽう晨は、突然の事態に理解が追い付かない。
 抱きしめられているのは何となく解った。だが、頬に当たる柔らかな感触に戸惑う。まるで人肌のように温かで、しっとりしたそれに。いや、人間の素肌がこれほど心地良いだろうかとも思う。何か絹のような上質の織物みたいで、その上やたらと良い香りがするのだ。素肌であるはずがない。というか、素肌だったら困るのだ。
 帯を締めず、前をはだけさせた不知火に抱きすくめられながら、晨は混乱の最中に思った。

 蝉は、いつの間にか鳴き止んでいる。

 不知火の心音に、晨は――深い安らぎを覚えた。
 目が見えていたら、二つの意味で冷静ではいられなかっただろうが。
 晨の父は優しかったが、男親ゆえか、スキンシップは少なかった。最後に抱きしめてくれたのは何年前だったかなと、少年は父のことを思う。

「僕、関東からこっちに引っ越してきたんです」

 自分でも驚きながら、晨の口は自然に開いていた。
 それに対し返事をするでもなく、不知火は懐中の頭を撫で始めた。
「どうにも要領が悪くて、クラスに馴染めなくて。言葉遣いや、あと病気のことでちょっとだけ浮いてしまって。たぶん、今の僕って目が真っ赤に充血してると思うんですが、以前この状態を見られたことがあって。それから『ウサギ』ってあだ名がつきました。飼育小屋とかでよく飼われてるジャパニーズホワイトって白兎がいるでしょう? あれも目が赤いから、掛けてるんでしょうね」
 クスクス笑う晨の吐息を胸で受けながら、不知火はやはり何も答えない。自分に言えることなんて何も無いと思っていた。だから、ただ黙って黒髪を撫で続けた。

 やがて。

「ありがとうございます。もう、だいじょうぶです」
 特に何かあった訳でもなく。『だいじょうぶ』という言葉は奇妙ではあったが、晨はそう伝えた。
 不知火もそれをおかしいとは思わず、そっと身を離した。
 だが、二人の距離は最初と比べ、随分と近いところにあった。身を寄せ合うように、木の根元に腰かけている。

 そんな、不思議と穏やかな空気が二人の間に流れ出したとき。

 ぶるる。

 段ボール箱の仔猫が僅かに身を震わせる音が、二人の耳に届いた。
「どうしたのかな? この気温なら、寒いなんてことはないと思うけど」
 晨の疑問に、仔猫に鼻を近付けた不知火が、特に動じた風も無くこう言った。
「こん仔猫、死にかけとる」
「……え?」
 告げられた意味が解らず、晨は間抜けな声を漏らす。やがて、言われたことを理解し始めた頭が、拒絶の言葉を口から零させた。
「う、嘘です。さっきまで鳴いてましたし、撫でたら頭を擦り付けてきましたし、それに、こんなに温かい」
 恐る恐る仔猫に触れてみれば、毛並みは柔らかく、小さな体は温かい。
「不知火さん、また冗談なんてよして下さい。僕、いくらなんでも本気で怒りますからね?」
 不知火の体温を感じる辺りを向きながら、晨は語気を強めて言う。
 だが、今度は臆することなく、不知火は言った。
「うんにゃ、衰弱しきっとる。もう……」
 そこまで言って、仔猫をじぃっと見てから、ぽつりと告げた。
「いま、心臓が止まった」
 その言葉に、晨の頭に血が上った。カッとなった勢いそのままに、仔猫を掌に抱き上げる。
「嘘です! ほらっ、こんなに温かいし、柔らかい、死後硬直だってしてません!」
 必死に抗弁する少年を痛々しく思いながら、不知火は言う。
「心臓が止まっても、生き物ってしばらくは生きとると。でも、息はもうしとらんよ? 口ば耳許に近付けてみてん?」
 ムキになった晨が言われた通りにしてみれば……実際、呼吸音は全く聞こえなかった。
 少年の心に、『死』というものがじわじわと染み込んでいく。
 やがて。
「うっ……」
 堪えようとした嗚咽は、晨の努力に反して口から出てしまい、もう……みっともないくらい大声を上げて泣き始めた。

「し、シン!?」

 驚いたのは不知火だ。
 まさか泣き出すとは思っていなかったのだ。
 あの晨が。
 自分が意地悪されても挫けなかった晨が。
 突然目が見えなくなっても取り乱さない晨が。
 たかが仔猫が死んだくらいで、わんわん声を上げて泣いている。
 小さな生き物を頬に当て、流れる涙で濡らしている。
 それを不知火は――羨ましいと思った。
 はたしてこの少年は、自分が死んだ時には泣いてくれるのだろうか、と。

 どうしてよいやら判らず不知火が動けないでいると、近付いてくる人の匂いを感じ取った。
 それで彼女はとっさに木陰に隠れる。相手次第では晨を守る為に戦うつもりだが、むしろ化け物の自分がいるせいで、大事な少年に迷惑を掛けるかもしれない。
 息を潜めて見守っていると、
「おーい、誰かおるとか?」
 畑仕事の帰りか、鍬を担いだ老人が雑木林の中に踏み入ってきた。そして、木の根元で泣く少年と、側に転がる白杖を見て、慌てて駆け寄ってくる。
「おい、お前、目ぇの見えんとやろ? 迷い込んだつか? そん猫は……死んどるな……。どら、俺が埋めてやる。墓ば作ってやろーだ、な?」
 優しく、諭すように言う老人に、ぼろぼろと泣きながらも、晨は頷いた。



 仔猫の墓を作り、晨の手を引いて雑木林から出ていく二人を見送りながら、不知火は悲しくなった。
 結局自分は虫なんだな、と。
 人の様な姿と、ある程度の知恵を身に付けたところで、人の心が解らない。晨の気持ちが解らない。
「シン……シン……」
 まるで鳴き声のように少年の名を繰り返す。一匹の哀れな大百足は、雑木林に立ち尽くしていた――。
16/06/06 20:04更新 / 赤いツバメと、緑の淑女。
戻る 次へ

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33