連載小説
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第四幕 正義と審判:前編
 『正義と審判 〜あるいは書記官と裁判官のお話〜』










 アルカーヌム連合王国、そこは平原を治める諸侯が寄り集まって出来た複数の州から成る国家である。代々続く王家によって統治され、極力他国との間に問題を起こさない政治的スタンスと穏やかな国民性が相まって、大陸の国々の中で最もとっつきやすいと評判でもある。

 様々な国と国交を結び多くの外交官や大使が派遣されてくるが、王国の土を踏む者は国家の任を背負っている者ばかりとは限らない。中には見聞を広めるのを目的として留学を望む者も少なからず存在する。単純な勉学だけでなく技術や文化などを学び、得た知識を本国で活かそうと精力的に学び舎の門を叩く者もいるのだ。

 彼女もまた、そうした目的を持ってこの国を訪れた一人だ。

 「ここか」

 こざっぱりした手荷物を持って道の真ん中に立つのは、黒い獣耳と尻尾、ジャッカルを思わせる四肢を持った魔物娘、アヌビスだ。

 彼女の名はメティト。西方の王、ネフェルキフィが治める帝国より来訪した外国人だ。紙に記された略地図に導かれて、その足は宿屋を改装して造られた集合住宅へとやって来ていた。ここの一室が今日から彼女の部屋になる。

 「すこし見窄らしい気もするが、住めば何とやらか」

 メティトはつい数日前までホルアクティ朝の重臣だった。王に直接仕え、その政務を支える栄誉ある仕事をしていた。それ以前にも玉体が復活するまでの間ずっと地下帝国を切り盛りしており、帝国の事実上の前代統治者だった女だ。本来なら隣国に渡ってアパート暮らしをするような人物ではない。

 今日彼女がこの国を訪れたのには理由がある。多くの前途ある若者や学人と同じように、彼女もまたひとつの目的を持ってこの国を訪れた。

 帝国は新たに生まれ変わったが、何もかもが五千年前と同じようには行かない。人も、歴史も、文化も、かつて王が支配していた時代とは何もかもが違いすぎている。その相違や矛盾点を抱えたままでは国が立ち行かない事を早くに予見した女王は、優秀な臣下であるメティトと共に新たな国の支配体制を根付かせるきっかけを作る事に取り組んだ。

 そうして明らかになった帝国と他国の重要な相違点。

 それは、帝国には法律が無いという事だった。

 法はある。盗みを働けば罰せられ、殺しをすれば刑に処される。だがそれはあくまで法やモラルがどうというレベルではなく、一般常識の延長として存在する信賞必罰の具現に過ぎない。それまで帝国は国家の機能全てが王権に委ねられていた。政治も司法も王の手を離れたことは無く、帝国にあって法とは王の命令、あらゆる事が王命によって機能する社会が作られていた。つまり、わざわざ文字に起こして書き記すまでもなく絶対者の法が確かに存在していたのだ。

 しかし、国という国を併呑していた昔ならともかく、他国と親密な関係を築くことを重視する今の時代、双方にとって重要な意味を持つ法律が文字通りの不文律では何かと不都合が生じる恐れがある。法は正義と秩序の顕れであると同時に、信用の証としても無視できないツールなのだ。だが帝国はこれまでに明確な法典を定めた経験がなく、法制定は草案作りの時点で難航が目に見えている状況だった。

 そこで白羽の矢が立ったのが、王不在の間に国を取り仕切っていた王権代行者のメティトだった。元々書記官という職に就いていた彼女はその方面の知識に明るく、制約や規律を重んじるアヌビスの性格からも、そう言った事細かいルール作りには打って付けの人材だった。彼女自身も自らのスキルを自覚し、それを活かす手段として今回の王国留学を申し出たのである。王国の歴史と文化を学び、その法整備についてのノウハウを得て本国に帰還すると言うのが任務の内容だ。

 もちろんこれは王国側も承知しており、対外的には留学生だが実態は外交官として扱われている。現状唯一の同盟国である王国としても、法の上でも共有できる部分があれば将来的な国交が更に円滑なものとして機能する事を見越しての承諾だった。

 そんな外交官身分のメティトが、何故街中のアパートメントなどに足を運ぶのか……。

 「まさか、法学を学ぶのに学び舎ではなく現役判事の助手に抜擢されるとはな。己がよほど買い被られているのか、それともその判事がそれだけ優秀なのか……」

 それはこれから分かることだ。

 聞けばその判事はここで暮らしているという。紹介してくれた王国の計らいで同じ場所で暮らすことを許可され、こうしてこのアパートメントの空き部屋へとやって来たのだ。

 それにしても判事と言えば裁判所の長だ、そんな社会的に身分の高い人物がこんな下町に近い場所に居を構えているとは、意外というかイメージが合わないと言うべきか。

 「己には関係のないことだ」

 淡白かつ冷淡に胸の内の疑問を捨て、少し崩れが目立つ古い木戸に手を掛けてドアを開き────、



 彼女の脇に人が降ってきた。



 高所から人体が落着した音は肉体の柔らかさとは裏腹に、かなり硬い音がする。「グシャ」ではなく、「ダァン」という発砲音にも似た音が周囲に轟き、衝撃で背骨は折れ手足は捻じ曲がり、果肉の如く砕けた頭蓋の奥からは乳白色の神経塊がブチ撒けられる。頭から落ちればどうあっても即死は免れない。

 「……まさか」

 捻れた紐の塊みたいになった死体を呆然と見つめながら、メティトは鉄面皮の表情を崩さずに、とんでもない事態になったと心の中で頭を抱えた。

 落下した人物は即死していた。





 昼間の下町で起きた突然の転落死。これが古典な推理小説なら、事件現場は完全な密室で、被害者に対しわだかまりを抱えた人物が複数いて、パイプを吹かしたカイゼル髭の探偵が登場する所なのだが……幸か不幸か、事実が小説より奇という具体例はそんなに多くない。

 犯人はすぐ見つかった。何の捜査も推理劇も起こらずあっさりと。被害者は集合住宅の二階に住む男性で、犯人はその妻。室内で夫との口論の末に揉み合いとなり、抵抗して押した際に窓から身を投げ出す形になってしまったとのことだった。

 現場に居合わせたメティトは目撃者として、そして何より事件そのものの証人として裁判への出廷を命じられることになった。

 法廷には被告人と弁護人、証言者のメティト、正面に公判を記録する書記が一人、そして一段高く設けられた席には三人の判事が彼女らを見下ろしていた。真昼の下町で起きた殺人に興味があるのか、後ろの傍聴席は半分以上が埋まっていた。

 「では証人は証言台へ。あなたは自身が見聞きした事について、良心に従い嘘偽りなく真実を述べることを誓いますか?」

 「誓おう」

 「よろしい。では証人、早速ですがあなたは何故あの場に居合わせたのですか?」

 「己はホルアクティより留学した者だ。あの住処を紹介されて生活するところだった」

 「確認しました。確かにあなたはその日たまたま現場に居合わせただけだったようです。では次の質問。あなたは被害者が二階から落下する瞬間を目撃しましたか?」

 「扉を開けて中に入るところだったから、視界の隅程度には」

 「では次です。少し奇妙な質問になりますが、落下してきた被害者の顔、より正確には体の正面ですが、それはどの方向に向いていたか覚えていますか? 薄らでも良いのです、記憶にあればお答え願います」

 「……通りだ。逆さまに落ちてきた男の顔は、家の壁ではなく通りを向いていた」

 「確かですか?」

 「断言はできないが」

 「結構です。弁護側の証言は以上です」

 顔の向きに何故こだわるのか。それは被害者がどんな形で落下したのかを知る重要な手がかりになるからだ。

 窓際から身を乗り出す形で落下した時、体は重たい頭につられて上下逆さまになる。その時に当然の帰結として顔の向きも前後に反転する。室内を向いていれば外側に、外側を向いていた顔は内側を向く。

 「落下時に通りを向いていたなら、二階の室内にいた時の被害者は窓を背に室内を向いていた可能性が高い。これはつまり、落下直前に被害者が被告人と向かい合っていた事を示します。これは被告人の主張した事実と符合します」

 主張、つまり口論の末にもみ合いになり、抵抗の拍子に窓に押し出してしまったという部分。弁護側は事件当時の状況から被告人の正当性と罪の減軽を狙っていた。

 「被害者は大の男、それに対し被告は女性。背を向けているところを狙ったのならともかく、膂力で劣る彼女が故意でこの事態を引き起こせる力があったでしょうか?」

 だが現状だけ見れば夫は確かに妻が押したせいで転落している、それだけは事実だ。だからこそその穴を埋める証拠もある。

 「被害者は昼間から酒を飲み、おぼつかない足取りで通りを歩いている姿を近隣住民が何度も目撃しています。事件当時も遺品などから事件発生直前まで酒を飲んでいたことが明らかになっており、泥酔一歩手前の状態なら女性の張り手でも容易にバランスを崩します」

 そしてここから締めくくり。

 「加えて、被害者は常日頃から被告に対し不当な暴力を振るっていました。被告の背中にはひどく打たれた傷もあり、何年も前から執拗な暴力を受けたものと推察されます。この事から被告には抵抗を試みる心理があり、今回の事件はそれが発露した結果による不幸な事故だと弁護側は考えます」

 「つまり、弁護側は?」

 「被告の正当防衛による致し方ない過失。殺人罪ではなく過失致死罪を主張するものであります」

 過失による殺人なら通常の殺人罪よりかなりの減軽が期待できる。しかも被告は普段から暴力に耐えていたことから心理的に追い詰められており、情状酌量の余地もある。結果的には加害者となってしまったが、この事件の真の被害者はむしろ彼女の方だろう。

 恐らくは執行猶予がつくだろう……メティトはこの裁判の判決がどの様なものか予見していた。

 だが────、



 「判決。被告人に死刑を言い渡す」



 現実は誰も想像していない展開を見せた。

 「は、判事!? こちらの弁護を聞いていなかったのですか!!」

 「静粛に。ここは法廷だ」

 弁護人の慌てふためく姿とは対照的に、壇上から判決を下した判事は至極冷静だった。何ものにも染まらぬ漆黒の法衣は言外にこの判決に異議を挟むことを許さず、氷のように冷たく鋼のように鋭い視線が神が振り下ろす断罪の刃を思わせ、思わず身震いを抑えられない。

 「判事!! 理由を、判決理由をお聞かせください!!」

 「弁護側の主張は被告の殺意を否定し得ないと判断した。以上だ」

 あくまで淡々と、そして取り付く島も無いほどに素っ気なく、判事の言葉は被告と弁護人の主張全てを一刀の下に切り伏せた。まるでそんな弁護は初めから無意味だと言わんばかりに。

 「で、ですが、死刑とはあまりにも……!」

 「弁護人は何がそこまで納得できないのか、私が理解に苦しむ。経緯がどうあれ、被告は間違いなく人間を、人ひとり殺すという社会にあるまじき悪行を犯している。悪には裁きを、罪には罰を、それは全ての法が共有する基本概念だ」

 「ですから、彼女には正当な……!」

 「殺人に正当な理由など存在しない。よって、本法廷が下した結論は変わらない……判決は、死刑だ。人を殺すという悪行に相応しく極刑に処す、ただそれだけのこと。以上だ」

 もはや法廷はそこだけ氷河期に逆戻りしたような冷たい沈黙に支配されていた。正面で判決を突きつけられた被告の女性に至っては、顔面蒼白になり足の力が抜けて今にも倒れそうな程のショックを受けていた。

 だが閉廷の言葉と共に法定を去ろうとする判事を見た瞬間……。

 「判事さまぁぁぁ!! 慈悲をっ、どうか、お慈悲をぉぉぉおおおおおおおーーー!!!」

 髪を振り乱し、証言台を飛び越えると恐ろしい速さで判事の元に駆け寄ってその足にすがり付いた。他の者らが二人がかりで引き離そうとするが、細腕のどこにそんな力があるのか、あるいは死の宣告でタガが外れたのかテコでも離れようとしなかった。

 「判事さまぁ、わたしは、嘘偽りなく誠実に生きてきました! 夫のことも愛しておりました、愛していたからこそ、わたしに対する仕打ちにも耐えてこられたのです! それがなぜ……たった一度、ささやかな抵抗をしただけのわたしが、夫を殺す意思があったと言うのです!!?」

 この女は嘘は言っていない。獣人系魔物娘としての目が、鼻が、耳が、女の言葉全てが偽りのない真実だと告げている。彼女は本当に夫を愛していた、ろくに仕事もせず酒に溺れて暴力まで振るう最低な男、それでもなお夫を愛していたからこそ彼女は共に生活を送っていたのだろう。彼女が今日まで妻足りえたのは、ひとえにその献身的な愛があったればこそだと誰もが理解した。

 唯一、この判事を除いては……。

 「わざとじゃない、魔が差して、殺すつもりは無かった……罪を犯した連中はみんな決まって同じセリフを吐く。食傷気味だ、聞き飽きているんだ」

 「わたしは!!!」

 「ああ、もういい。今更何をどう取り繕ったところで、殺人を犯した事実に変わりはない。経緯? 理由? 背景? 知らんな、そんな下らない理屈は犬にでも食わせてやるといい。私が判決を下す上で注目するのは唯一つ、結果だけだ。罪を犯した、だから私が裁く……この上なく単純明快な理屈を、どうして理解しない」

 足を軽く振って手を払うと、それまでの力が嘘のように女は手を離した。その瞬間に引っ立てられ引き摺られながら出口へと連行される。もはや精も根も尽き果てて抜け落ちたようであった。

 「そうだ、一つ言い忘れていた」

 思い出したように判事の言葉が女を呼び止める。樫を削った仮面のように表情は眉一つ動かず、よく通る声が唇を殆ど動かさずにこう告げた。

 「キサマの処刑は『ジャック』に任せる。その恐怖の叫びがせめて街の抑止力にならんことを祈る」

 閉じられた扉の向こうで女の泣き叫ぶ声が法廷にまで届き、そして次第に遠ざかり聞こえなくなった。

 「『両断判事』め……!」

 「あの男……」

 憎らしげに呟く弁護人の言葉を耳で拾いながら、メティトの視線はキビキビと去って行く若き判事に注がれていた。

 こうして王国へ来た最初を数日を波乱に満ちた時間で過ごし、今この法廷よりメティトの全てが始まろうとしていた。





 アルカーヌムには、平穏無事に暮らす上で決して関わってはならないとされる人間が二人いる。

 一人は『ぶつ切りジャック』こと、ジャック・ザ・エクセ。公然と人殺しを生業とする穢れた一族の当主。家督を継承してから数年で六十人以上もの犯罪者を屠殺せしめた、王都の首切り役人。

 そしてもう一人が、法と秩序の名の下にあらゆる不義悪徳を叩き潰す『両断判事』、最年少で王立高等法院を卒業し同じく最年少で判事にまで上り詰めた、ローランだ。

 裁判官が検事を兼ねたこの時代、裁判官の下す判決は時に救いになり、そして時には文字通りの死刑宣告となった。ローランが恐れられるのは、彼が下す判決が明らかに後者に傾いているからだ。

 担当した公判では九割九分九厘の割合で有罪判決を下し、控訴や上告も問答無用で棄却、徹底して被告人を投獄することに心血を注いでいる節さえあると言われている。王都の犯罪数は年々増加しているという知識人もいるが、それがもし公判での有罪率の高さを言っているのなら、その原因はローラン唯一人をおいて他にはいない。

 彼の公判は悪辣という言葉に尽きる。疑わしきは罰する。そして最もタチの悪いことに、彼の目は常に「結果」しか見ていない。

 例えば、他人の所有物を盗んだ者がいるとしよう。単純に窃盗や強盗なら罰せられて当然の罪だが、それがもし今にも飢え死にしそうな子に食料を与えるためだったなら?

 あるいは親を殺した子供がいるとして、その親が日常的に生命に関わる暴力を振るっていたり、倒錯した性の対象として弄ばれた末の凶行だとしたら?

 「関係ない。判決を言い渡す、実刑だ」

 子供の為に食べ物を盗んだ親を牢にぶち込み、生きるために親を殺した子供を刑場に送った。ローランの法律に「情状酌量」という言葉は欠片も存在していない。罪は罪、悪事を働けばそれを罰するのは当然の事で、そこに事情や経緯などは一切考慮しない。

 何度か判決を不当なものと主張し、それを覆すための署名活動が行われたりもした。だが署名に法的拘束力が発生しないのを見越してそれを放置し、裁判所に届けられたそれらを暖炉にくべ、何事も無かったように実刑を言い渡したりもした。

 何の疑いも良心の呵責も無く、全ての裁きを「悪ありき」の前提の元に切って捨てる……そうして付いたあだ名が『両断判事』。

 「理由……事情……背景……経緯。まとめて引っ括めて至極どうでもいい。悪は悪だ、そこに男も女も、老いも若いも関係ない。奴らは罪を犯した……それが真実であり全て、故に私が裁くというだけの話だ」

 言い訳など聞かない、釈明など無意味、正義の名において悪逆の烙印を押し、断罪の刃を振り下ろす。

 彼の判断基準に白は無い。全てが黒だ。





 「王国に来て早々に災難だったな。同情する」

 「いえ、お気遣いなく」

 来訪数日目にしてようやく本来の住処に腰を下ろせたメティト。同居人が出した紅茶に口を付け、本場の貴族も顔負けの作法でそれを飲んだ。

 部屋の中にあるのはベッドと机と本棚だけ。クローゼットは無く、服はカーテンレールやベッド脇に無造作に掛けられ、余計な物が何一つ持ち込まれていない室内はそこに住む住人の心象を表しているようでもあった。

 「王国の紅茶の味はどうだ?」

 「美味だ。己の国は何かにつけ酒を嗜む。大抵の者はアルコールなど水のように飲み干すが、これもなかなかに良い」

 「質問が分からなかったか? 私は『紅茶の味はどうだ』と聞いたんだ。キミの国がどうだとか、そんな余計な情報は聞いていない」

 「…………」

 今このやりとりでメティトは確信した。自分とこいつは「合わない」、生理的にとか言動がではなく、もっと根源の部分……精神が根ざす魂の部分で歯車が致命的に噛み合わない。

 いや、予感それ自体は最初からあった。初めてその顔を見た瞬間から。

 「まさか、貴殿が己の教鞭を執るお相手だったとは……ローラン判事」

 「初めて会う場所が法廷とは、キミは裁きの神アストライアに愛されているらしい」

 黒の法衣を脱ぎ椅子に足を組んで掛けるのは、つい二時間ほど前に一人の「罪人」を法定で容赦なく裁いた『両断判事』こと、ローラン。

 何を隠そう、彼こそがメティトを助手として抱える手筈になっていた若手のホープ、史上最年少判事のローランその人なのだ。

 「キミの事は陛下の使いを通じてある程度聞かされている。黄金帝国のNo.2……ほんの十年前までは事実上のトップだったとか」

 「昔のことだ。今の己は国を代表して知識を学ぶ学人に過ぎない。どうか鞭撻のほどをよろしくお願いする」

 「いい心がけだ。では早速だが……」

 デスクの引き出しを開けて中から紙の束を取り出す。よく見れば複数に分けられており、それぞれに何やら達筆な人相書きがあった。

 「来週、私が抱える公判ある。キミにはその法廷に陪審員として同席してもらう」

 「陪審員?」

 「昨今、我が国の司法が取り入れた新たな制度だ。通常、司法に則り裁判官が判決を下すところを、一般国民から無作為に選出して意見を募る。有罪か無罪か、量刑は適切か否か、法がきちんと機能しているかどうかを国民が目の当たりにすることが出来るという……滑稽かつ、馬鹿馬鹿しい制度だ」

 ニヒルな笑みを浮かべ鼻息を鳴らす。法の裁きを司る裁判官とは思えない慇懃無礼さに、メティトの眉間にも思わずシワが寄る。

 だがこれは好機でもある。来訪一日目にして法廷の空気を感じられたばかりでなく、直接その場で法の概念を学ぶ機会まで与えられるとなれば実地での経験を積めて損はない。

 「本来、外来人であるキミを同席させることは出来ないが、これは特別な措置ということを念頭において……」

 「ひとつ、質問してもいいだろうか?」

 「何か?」

 「今回の裁判、あれも何か特別な措置が?」

 「何が言いたい?」

 「裁判とは公正公平に行われるもの、そこに一切の私情を持ち込んではならず、法と良心のみに従うと聞く。ならば、今回の裁判はその前提から覆る、いや覆らなければおかしい」

 「どうしてそう考える?」

 「貴殿はこのアパート住まい、貴殿が裁いた被告と被害者である夫も、同じくここの住まい……これはどういうことだ?」

 裁判とは、弁護人と裁判官、そして無作為に召集された陪審員を含めて全員が当事者とは赤の他人、完全な第三者でなければならない。個人的な繋がりがある者ではいい意味でも悪い意味でも公正な判断が出来ない恐れがあるからだ。

 だがこの判事は自分と同じ集合住宅に住む者二人を堂々と裁いた。恐らくは顔見知りだったのだろう、普段からある程度の親交があったからこそ被告の彼女はローランの慈悲に縋ったのだろうが……。

 「それが何か? 逆にこうは考えられないか、私にはありとあらゆる人間を一切の私情を抱かず裁けるだけの能力があると。鼻にかけるつもりはないが、伊達や酔狂で最年少の肩書きを持ってはいない。それはつまり、法廷における私の技能はもはや熟練の域に達している証左だ。私情の一切を挟む余地なく、私は常に白黒を切り分ける」

 「白黒分ける? それは、誰彼構わず有罪を突きつけることを言うのか?」

 「どうやらキミには酷い誤解があるようだ。私は私なりに法の解釈に基づいた判決を下しているに過ぎない。おおかた、私の不名誉なあだ名についてある事ないこと吹聴されたのだろうが……」

 足を組み直し肘掛に頬杖をつく、その姿はまるで裁判官というよりは高みに座す支配者、神の如き尊大さを体現した視線は彼自身にとって頓珍漢な質問をしたメティトを嘲弄しているようでもあった。

 「そもそも、法に絶対などない。同じ事件でも担当した判事や同席した陪審員、被告を弁護する者によって罪状は常に変化する。同じ事件を担当しても裁判官によって有罪無罪が逆転するなど日常茶飯事だ。私は私の『良識』と『良心』に従って判決を下した、それ以上でも以下でも、ましてや以外でもない」

 それに、と言葉を続けながら空になったカップを下げる。

 「理由がどうあれ悪事は悪事、犯罪者に裁きの鉄槌を下すことの何がいけない。私に後ろ指を差す者がいれば、それはそいつ自身に何かやましい事があるからだ。清廉潔白、品行方正に生きてさえいればそもそも被告人として立つことなど無いのだからな。今回もそうだ。彼女は確かに被害者だろう、私自身も何度か彼女が夫に暴力を振るわれているところを見聞きしていたし、彼女が心身共に切迫した状況に追い詰められていたことはこの近辺の皆が知っている」

 「そこまで知っていたのなら、なぜ酌量を……」

 「やっぱりキミは盛大に勘違いしているようだな。酌量もなにも、彼女が人殺しを働いたのは厳然たる覆しようのない事実だ。同情で罪を減軽するなど、それこそ万人平等の法の理念に反している」

 「だがそれは正当防衛の末に起きた……!」

 「不幸な事故、だとでも? だとしても結果は結果だ。悪だ、悪だろう、悪なんだよ。物を盗むってことは、誰かを騙すってことは、人を殺すってことは……それだけで掛け値なしに悪だ。裁かれて、罰せられて当然なんだよ」

 どんな物事にも等しく原因があり過程を経て結果に至る。それら全てを吟味し全ての事柄に対し十全な理解をした上でようやく、人は人を裁く権利を得られる。罪を犯すのは悪人ばかりではない、むしろ人一倍に義侠心が強いからこそ道を踏み外すという悲しい事例も少なくはない。そうした背景にも気を配り、そこに至った経緯を知り、何故そうしたのか理由を追及するのが、裁くという以前に全ての裁判官に与えられた責務である。

 だが、このローランに限ってそれは無い。彼にとって原因や過程などただの塵芥、事の発端が何でどうしてそうなったかなどまるで眼中に無い。彼にあるのはただ裁く事、目の前の「悪人」に青天井にも等しい罪状を叩きつけることだけが彼の正義なのだ。

 「理由のある無しで罪が増減するのなら、そもそも法が存在する意味がない。キミもそうは思わないか、メティト君」

 盲目的なまでの悪に対する敵愾心と正義への忠誠心、それがこの男を突き動かし最年少で判事にまで上り詰めさせた原動力なのだろう。同じ「正義」の名を冠したメティトとしてはその姿勢に憧れ敬服を覚える部分もあるが、それ以上に危うい部分を感じさせる男でもあった。

 「今日はもう遅い。私は一足先にお休みさせてもらおう。ああ、他の法廷も傍聴したければ自由にしてくれ。キミの分の席も用意させよう」

 「勉強させてもらおう」

 かくして、帝国の書記官と王国の若き判事の共同生活が始まった。





 公判があるまでの一週間、メティトは街を見物するでもなく日がな一日を部屋で過ごした。もちろん、ぐうたらに暮らしてなどいない。王国の法律、その中でも基本となるものをローランから付きっきりで教えてもらっていた。

 「基本的人権というものは万民がこれを等しく享受するものである。ただし罪を犯した者、並びにその犯罪に対する実刑を受けた者はこの限りではない。ここまでは良いか? では次に我が国が定めるところの人権の定義だが……」

 ローランの教えは懇切丁寧で、法廷でガベルを振り下ろす時の容赦なさは欠片も無かった。分厚い法律書も事前に自分で翻訳した物を用意してくれ、分からない部分や難解なところはその都度に適切な事例を挙げて解説してくれた。今まで明文化された律法に触れた事のなかったメティトにとって、これらの知識はどれも新鮮で驚きに満ち溢れたものだった。

 「少し休憩にしよう。集中力は長くはもたない、息抜きも必要だ」

 「以前にも教えていたことが? 慣れているようにも見える」

 「いや、教鞭を振るうのはキミが初めてだ。慣れているように見えるのも、単に肝が太いだけのこと。そうでもないと裁判官など務まらないからな」

 「意外だ、貴殿ほどの方が緊張したと?」

 「するさ。私は冷徹という自負はあるが、心動かされない訳じゃない。初めての公判で判決を下す時など、ガベルを持つ手の震えを止めるので精一杯だった。裁判官は常に人を裁くという行為の重要性を理解し、その上で断固たる決意の下にそれを実行せねばならない。私はそれを可能とした」

 ローランはその前評判から勘違いされ易いが、裁判官としての職務には非常に忠実だ。教材にはかつて彼が担当した公判記録なども含まれており、彼が徹底した審議の結果に判決を下したことが克明に記録されている。

 例えば、二年前に街中で発生したとある暴行事件。往来で突然暴力を振るわれたとして訴えを起こした者があり、被告に対し暴行と傷害の容疑で裁くよう求められた事がある。

 しかし訴えを起こした原告の供述から矛盾点を見つけたローランは、その男がかつてスリの常習犯だった事を突き止めた。そして案の定その男はその時に盗みを働いており、それを見咎めた被告と争いに発展したのが事の有り様だった。

 ローランは被告に対し二週間の社会奉仕義務を言い渡し、逆に原告の男を窃盗の容疑で捕らえさせたのである。

 「私はあらゆる事柄を両断し白黒分ける男だ。クロはクロとして裁き、灰色もクロにするが、決してシロをクロにはしない」

 「だがそれは、『疑わしきは被告人の利益に』の理念に反している」

 「権利とはいつ如何なる時と場合にあっても完全にそれを保証する術はない。何だかんだと言いながら、やってしまった奴が悪いんだ。罪を犯さなければ白も黒もないからな」

 そう、結局は必ずそこに行き着く。結果論という絶対にして究極の論理、原因や過程など問わないし意味を持たせない、そんな免罪符は破り捨てるという決意表明だ。

 だがその精神は決して被告を攻める時だけに発揮されるばかりではない。

 ローランが担当した中には、既に過去の公判で判決が下されたものもある。判決そのものに疑義があるとして裁判のやり直しを請求し、自らが判事としてそれを担当、新たに発見された証拠を元に見事逆転有罪をもぎ取った。もちろん、証拠はどれも確かな物証であり、決して有罪ありきの考えで判決を覆したわけではない。

 彼は自分が納得できない判決は隅々まで洗い出し、それにより逆転判決を決める。相手が有力貴族だろうが公権力と癒着していようが知ったことではない。その為、かつて公判を行った裁判官からは総じて疎まれている部分もあるが、彼の手によって真実が明るみになった事を喜ぶ国民も少なからず存在し、両断判事と恐れられながらも一線で活躍できるのは国民から一定以上の支持を受けているからでもある。

 「よく裁判官は真実を明らかにする仕事とも言われるが、私はそうは思わない。どれだけ言葉を繰ろうとも、詰まるところの結論は『裁く』こと。悪に罪という烙印を押し、それを両断することにこそ重きがあるのだ」

 「何故、貴殿はそこまで裁くことにこだわる?」

 「職務に対する忠誠心の表れと受け取ってほしいな」

 「本当にそれだけなのか……」

 「そうだとも。私がこの若さでここまでの地位を築いたのは、それだけ私が努力したからだ。血ヘドを吐き泥を啜り、時間も労力も惜しまなかったからこそ、ここまでやって来られた。私の力だ……私のな」

 「ローラン……?」

 「……いや、何でもない。少し……昔を思い出しただけだ」

 尊大さを隠しもしない言動が初めて陰りを見せた瞬間を、メティトは見逃さなかった。冷徹を絵に描いたようなこの男にも過去に思いを馳せることがあるのだと目の当たりにし、少し意外に思うと当時に人間味ある部分に安心を覚える。

 (何を馬鹿なことを。だらしがないぞ、メティトよ)

 自分はここに慰安旅行に来たわけではない。国家の法を制定するその下地作り、文字通り国の行く末を背負っているのだ。目の前の男一人が少し陰を見せたところで、それを気にしてどうなる。

 ローランはローランの正義を体現している、それでいいではないか。

 「では、そろそろ再開……いや、誰か来たようだ」

 部屋の外の人の気配を察したローランが先んじてドアを開けると、そこには一人の男がいた。

 「ローランさんのご自宅はこちらで?」

 「私だ」

 「そいじゃ、お手紙です。失礼しまっさ」

 手紙を届けに来た男は小さな封筒を手渡し、すぐさま去っていった。引きつった営業スマイルを見るに、両断判事の悪名は下働きの労働者にも知れ渡っているようだ。

 「知り合いか?」

 「自慢にならないが、私に友人や知己の類はいない」

 全面的に同意できる物言いに異論を挟む余地もなく納得する。尊大で不遜で慇懃無礼、こんな難物と付き合える人間はよほどの馬鹿か同レベルの皮肉屋か、でなければ聖人君子だろう。

 受け取った手紙の封を切り、その中身に目を通す。手紙は短く、書かれている内容もそんなに多くはなさそうだが……。

 「…………」

 「どうした?」

 「…………何でもない」

 「?」

 何かおかしい。勘の鋭い獣人系の例に漏れず、またもメティトの野性はローランの機微の変化を見抜く。

 最初は見逃すつもりだった。だが二度も続けば赤の他人でも思うところがあるのが人情だ。まだ二、三日ほどしか過ごしていないが、その変化を見て見ぬふりをするほど彼の事を嫌っている訳ではない。

 だがそんなメティトの心中を知ってか知らずか、ローランは上着を羽織り出かける準備を始めた。

 「野暮用ができた。少し出るが、キミはここで自習していてくれ」

 「教える者がいないのに己だけいてどうする。己もついて行こう、この街の地理も知っておきたい」

 「別に良いが……一緒に来ても面白いものではないが」

 「構わない」

 特にあえたり揉んだりをする事もなく、五分後に二人はアパートを出て街に繰り出した。馬車を寄越すでもなく歩き始めたローランの後ろ、僅か三歩ばかりをメティトが追従する。

 法廷では一段高い場所から見下ろすローランだが、その背は思っていたより小さく見えた。





 「ここは……」

 喧騒を離れて歩くこと数十分、街から離れて街道だけが伸びている風景に突如現れた巨大な壁を見上げる。窓がないところを見るに恐らくは建物の外部を囲む土壁なのだろうが、貴族の屋敷に見られる煌びやかさは欠片もない。それどころか……。

 「連絡を受けたローランだ」

 「中へどうぞ」

 出入り口には槍を携えた衛兵が数名配置されており、非常に物々しい雰囲気に包まれていた。そして壁の内側に入った時にようやくここが何の場所なのか分かった。

 「ここは監獄だ。罪人たちが行き着く場所、社会のゴミ捨て場だ」

 石と煉瓦を組んで造られた難攻不落の要塞の正体は、社会の爪弾き者たちを押し込めておく牢獄。軽いものは窃盗から、重いものは肉親殺しまで、ここにはありとあらゆる罪を犯せし者共がひしめき合う魔の巣窟だ。

 「さぞや恨まれているのだろう」

 「当然だ。ここにいる連中の一割は私がぶち込んだ。更にその内の一割は刑の執行待ちだ。ついこの間の被告ももうすぐ仲間入りをするだろう」

 「そんな所に何の用で……」

 「言ったはずだ、野暮用だと」

 ついて来れば分かるとばかりに会話を切り上げ、そこからは無言で施設内を歩いた。しばらくして通された部屋は応接室ではなく、地下に設けられた薄暗い部屋、そこで待ち構えていたのは……。

 「ご確認ください」

 「ああ」

 部屋の中央に安置された黒く長い木箱。

 人が最期を迎えて眠りに入る為のゆりかご、棺桶だった。

 「フン、やっとくたばったか」

 「判事様、故人に対しそのような口は。第一この方は……」

 「私は確認に来いと言われたからここまで来ただけのこと。今更こんなモノを見せてどうしろと?」

 「できれば、お引き取りになられて……」

 「断る。共同墓地の隅にでも埋め立てておいてくれ。私とこいつはもう、縁が切れている間柄だ」

 そう言ってそばに置いてあった蓋を取り、無造作に棺桶を封じた。その振る舞いはとても遺体に対する礼儀とは思えず、遥か昔に祖先がミイラ作りをしていたメティトからすれば死者を冒涜しているに等しい行為だった。

 「ローラン殿、如何に貴殿が法の裁定者とは言え、そんな無礼が許されるとでも!」

 「キミには関係のないことだ。それとも、家族の問題に首を突っ込める権限がキミにはあると?」

 「だとしても…………今、なんと?」

 「ちょうどいい、キミにも紹介しておこう。恥ずかしながら、私の父だ」

 蓋の隙間から覗く死に顔はどこかローランと同じ特徴を持ち、やせ細った腕が何らかの病で倒れた事を暗に示していた。

 「私はこんな父を持って恥ずかしく思っている。キミもここに勤めているのなら、遺族のそういう気持ちを察してほしいものだな」

 「だとしても、父だ……貴殿との間に何があり、どんな罪を犯したかは知らないが、それでも子として親の冥福を祈ることぐらいは……」

 「それが、何ら親としての責務も果たさなかったとしてもか? 私とこれの間にあるのは血の繋がりでも、親子の情でも何でもない……ただの持ち主と道具の関係だ」

 それだけ吐き捨てるように呟いた後、メティトの制止も聞かずにローランは部屋を後にしようとした。

 時間を無駄にした、そう言って扉を開け……。

 「失礼する」

 「っ、あんたは……!!」

 扉の前には別の来客があった。上質な生地を使った服を身にまとい、両手の指には貴金属や宝石を加工した指輪を嵌め、右手には銘木と象牙を使って作られたステッキを携えていた。

 見るからに金持ち、それも大富豪というレベルではない。頭の天辺から足の爪先まで染み付いた、金銭や調度品、金銀財宝の匂い、己が国家級の資産を持つ事を隠しもしない立ち居振る舞いは自然体なまま他者を圧倒するものがあった。

 だが同じ驚きでも、メティトは別の部分を見ていた。

 (インキュバス……。それもかなり長く生きている)

 男の全身から匂ってくるのは、濃厚なまでの精と魔力の香り。鼻を突く臭気から推察するに恐らく伴侶は自分と同じ獣人系だ。

 「大陸一の規模を誇る商会の会長兼ギルド理事長様が、わざわざ罪人一人の死に目をご覧になりたいと?」

 「ああ、その男は目をかけていたし、世話にもなった。弔いをと思ってな」

 「どうぞ、ご自由に」

 素っ気ないローランの態度を咎めることもなく、商会会長と呼ばれた男は棺桶の前で簡素な祈りを捧げた。最年少とは言え一介の判事とその父、そんな親子とこの男にどんな繋がりがあるのか……。

 やがて祈りを捧げ終えると、三人は揃って霊安室を出た。遺体をどうするかで監獄所長とローランが揉めそうになったが、会長の鶴の一声でそれは収まった。

 「では俺が責任を持って預ろう。別途費用が掛かるなら私宛に領収書を寄越すといい。良いな?」

 「わざわざ私に了承など取らなくてもいい。喪主も全てやってくれるのなら文句はない」

 「ならそうさせてもらおう。馬車で来ている。途中までで良ければ送ってやろう」

 かくして、ローランの父は商会長の手によって葬送が行われることになった。

 だが……。

 「本当にそれでいいのか、貴殿は」

 メティトは納得できなかった。父の亡骸を、生前親しかったとは言え他人の手に委ねるというその意味、それをローランが真に理解しているとは思えなかった。

 「私は父を一度も誇りに思ったことなどない。父も私を息子だと思って育てたことはない。例え血の繋がりがどうであれ、私とあれの間にあるのは親子の情などではない」

 「何故、そこまで実の父を邪険にするのだ」

 「キミには関係ないと言ったはずだ」

 取り付く島もないまま、ローランは馬車に乗り込んだ。どうあっても話すつもりはないらしい。

 「気を悪くするな、あれもあれで思う所があるんだ」

 知己の息子が荒れている様子を見て、会長は遠い目で語り始めた。

 「我が社の活動の一環で、孤児を対象とした人材発掘と育成をしていた時、あれの父と出会った。孤児院出身の鼻つまみ者として埋もれさせるには惜しいほど、その才能は素晴らしいものだった」

 「登用されたのか?」

 「ああ。と言っても、社員ではないがな。我が社はそれなりの規模ゆえに、抱える法的トラブルも多い。奴には顧問弁護士としてその辺りの問題を解決してもらっていた」

 「そんな方がどうして罪を。そもそも何の罪科で」

 「何の事はない、ただの贈収賄だ。我が社と対立関係にある勢力との調停の際、先方の有利な条件を呑む代わりにと袖の下を受け取ったに過ぎん。見咎めた俺は社に与えた損害を理由に、奴を更迭、その後に起訴した。奴をムショにぶち込んだのは俺だ」

 にわかには信じられないというか、むしろ意外に思う。ヒトは死に顔に人生の全てが表れると言うが、棺桶の彼の顔には一切の汚れがなかった。どれだけ小さくても悪事を働く輩には思えなかった。

 「阿呆な奴だったよ。歳を取ってからやっと出来た息子を、あれほど可愛がっていたというのに……」

 「可愛がっていた?」

 「不穏な意味はない、言葉そのままだ。四十過ぎて出来た子供でな、目に入れても痛くないとはよく言ったものだよ。細君が先立ってからはそれに拍車が掛かり、傍目には孫を甘やかすようだった」

 それが何故息子にあれほど毛嫌いされることになったのか……。

 「変化はいきなりだった。突然、息子に自分の跡を継がせると言い始めた。法院を卒業するに足る基礎作りと称して、それまで蝶よ花よと可愛がっていた息子相手に鞭を持ち出す始末だった。食事もそこそこに寝る間さえ惜しみ、まだ遊びたい盛りのあれを机に縛り付け、全ての時間を勉学に費やした。その結果は見ての通りだ」

 ローランは史上最年少という肩書きを二つも手に入れることになった。

 「そろそろ行こうか。俺もこの後に商談やら何やらを抱えている身だからな」

 「手間を取らせて済まない」

 「いや、ローランは俺にとっては孫のようなものだ。これからも、あれを気に掛けてやってほしい」

 「いえ、あの、己と彼はそのような関係では……」

 「違うのか? 俺も随分鈍くなったものだ、昔は三桁ぐらいの数の商売敵を毟り取ってやったのだが……勘が衰えたか」

 何やら恐ろしい昔の思い出を語り始めた会長を尻目に、メティトはローランが待つ馬車へと乗り込んだ。車窓から外の風景を観ているように見えたローランの視線は、己の父が没した監獄に向けられていた。

 (貴殿は何を思う。その胸に、どんな闇を抱えているのだ)

 若き判事は何も語ろうとはしない。その二つ名そのままに、彼は己の過去さえ両断したのだろうか。





 図らずもローランの家族に会うという展開を迎えたメティトであったが、その後は何のアクシデントも無いまま、滞在から一週間が経過した。

 メティトの来訪から一週間後、それはつまり彼女が再びローランの法廷に席を同じくするということ。しかも今度は傍聴でも証言でもなく、一個人という形での参席、陪審員という曲がりなりにも人を裁く立場になったのだ。

 しかし……。

 「どういうことだ、これは!!!」

 法廷に轟く怒声。それは被告でも弁護人でも、ましてやローランの口から出たものでもない。

 「納得がいかない! しかと説明しろ、判事!!」

 「陪審員、私語を慎め。そちらの言動は厳正な法の場に相応しいものではない」

 「厳正!? これのどこが厳正だ、聞いて呆れる!!!」

 集められた総勢十二名の陪審員の中に一人だけ声高に判事を批難するのは、遠く砂の国より来訪せしアヌビス。

 やがてローランの手に握られたガベルが振るわれ、あらゆる抗弁を叩き潰した。

 「退廷せよ、陪審員。もはや判決は下された、これは覆しようのない厳然たる事実である」

 「貴殿は……そこまでして裁きたいのか!! まだ取り返しがつく、黒に染まってはいないその魂を、心を……塗り潰す権利が貴殿にはあるとでも言うのかぁぁぁああああーーーッ!!!!」

 衛兵に引き摺られながら法廷を去るメティトの姿を、直視する者は誰もいなかった。

 彼女を除く全員がこの事態を予測していた。彼らは分かっていたのだ……自分たちがどれだけ言葉を繰ろうとも、この判事が振り下ろす断罪の刃を止める術など無いことを。

 取り扱う事件は傷害。街中で男二人が口論の末にケンカになり、先に手を出した男が自分の方が重傷だったことを理由に起訴、対する被告は正当なる防衛だったと言い、当然無罪を主張していた。

 陪審員たちはメティトを含めて無罪を支持していた。この一件、被告に非はないと判断しての結論だった。

 しかし……。

 「判決、有罪。被告を十五年の懲役刑に処す」

 ローランはそれを全面的に退け、最も重い判決を叩きつけた。原因となった事柄には一切触れず、ただ被告が暴力に訴えたという部分だけを取り上げたのだ。

 彼はこの裁判が陪審制であるか否かに関わらず、自らの判断のみを絶対の基準として動くことしか考えていなかった。

 そしてメティトも確信した。

 ローランは正義を重んじているのでも、裁判官という職務に忠実なのでもない。彼は自らの行いに対し誇りも誠心も、自らが語って聞かせた裁くことへの理解すら、およそ何一つとして持ち合わせてはいないのだ。

 「奴はただ、『裁きたい』だけなんだ……! 目の前の人物が何であるかなど関わりなく、貴殿はただ相手を絶対悪としか見ていないのか!!」

 ガベルを振り下ろす瞬間、彼は哂っていた。

 どうだ見たか、これが正義だ、貴様は悪だ、悪を裁く私は正義なのだ……そう嘲笑っていた。

 正義という立場に立ち、下位に甘んじる全てを悪と断じて一方的に裁く、彼の中の行動原理は真実それ一つだけだったのだ。

 「認めない……認めてなるものか、そんな捻じ曲がった傲慢の下に振り下ろされる裁きが、正義であるはずがない!!!」

 ローランの本質は『善(自分)』が『悪(他人)』を裁くことに義務と愉悦を覚える、悪質なサディストの類でしかない。だがその言動が法により容認された瞬間から、彼はあらゆる良識もモラルも持ち合わせない法の下に恣意的断罪を執行する“正義の怪物”と成り果てたのだ。

 その行為が正義であると認められる限り、誰もその両断を止める術を持たない。正義という名の地上で最も悪辣なる権力を執行する者、それがローランという男だ。

 「認めない、認められない……!」

 メティトは失望に打ちひしがれていた。

 ヒトは同じヒトを律し、裁き、罰する為に法を作ったはずだった。あらゆるヒトの知恵の中でも最たる発明、より多くの利益を分け与えると同時にそれを効率よく管理する為のツール、それが法律というものではなかったのか。

 思い描いていた理想と、直面した現実とのギャップにメティトの心は沈んでいた。もう何が正しい事で何が間違っているのか、善悪の概念が打ち砕かれ粉微塵になろうとしていた。

 やがて裁判が終わり、法廷からぞろぞろと関係者たちが退廷してくる。十一人の陪審員たちは厄介事が終わったと一様に安堵の笑みを浮かべていた。

 そして最後に出てきたローランもやはり……。

 「…………違う」

 笑ってはいた。口元を僅かに吊り上げる程度にだが、確かにその表情は笑っているものだった。

 だがその表情は倒錯した加虐的な笑みではなく、他の者たちと同じような一仕事終えた後の達成感を味わうような、とても爽やかな微笑みだった。少なくとも法廷に立っていた時のような邪悪さすら感じさせるものでは決してなかった。

 歪んだ自分の愉悦だけを求めるような者が、思わず一瞬見惚れるほど綺麗な笑顔を見せるだろうか?

 自分は何か思い違いをしている部分があるのではと、沈んでいたメティトの心が浮上する。ローランの異常なまでに悪の裁定への固執、それには根本となる何かがあるのではと思考する。

 だが決定的なピースが欠けた今のままでは何の判断も結論も出せない。

 「何かあるのか、貴殿の心を駆り立てる何か……正義でも悪でもない、裁きそのものに執着する理由が」

 人は決して正しいばかりでは生きられない。ただの人間でしかなかった彼が“正義の怪物”と成り果てたその真相、それを明らかにすれば……。

 「我が名はメティト……『正しきもの』、メティト。我が正義とは、真実を明らかにし歪みを正すこと」

 これよりこの身は、正道にありながら魔道に落ちた怪物を討つ。

 その魂が、完全に黒に染まり切る前に……。
15/11/28 17:28更新 / 毒素N
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■作者メッセージ
 ローランの天敵は前作六話の主人公。理由は、「悪意があるのは確かだがそれを立証する手段が無い」から。能力的にも性格的にも相性最悪。

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