読切小説
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羊飼いと牧羊犬
 時計台の鐘が、夕刻の訪れを告げる。
 しんと澄んだ空気を揺らしながら、鐘の音は町を抜け、草原も越える。
 山沿いの放牧場でまどろんでいた若い羊飼いは、いくらか遅れて届いた鐘の音で目を覚まし、立ち上がった。

「……よし、帰るか」

 軽く伸びをして、見ながら呟く。視線の先には、好き勝手に放牧場で戯れる羊たち。
 それだけで、彼の隣で伏せていた犬が「わふ」と気合を入れるように吠えて、駆け出した。

 背中側が黒く腹側が白い、モノトーンで構成されたボーダーカラーの毛並みに、理知的な瞳。
 革の首輪に「クルル」と刻印されたドッグタグをぶら下げた牧羊犬は、数度、放牧場内で円を描くように駆け回る。
 クルルが一つ円を描くごとに羊たちの群れは小さく纏まり、やがて、群れはめぇめぇと鳴く一つの塊となった。
 その塊と共に、羊飼いと牧羊犬はのろのろと帰路を辿る。
 時折、我侭な羊が道端の草を食もうとして立ち止まるが、そのたびにクルルに吠え立てられては、群れへと戻されていた。

 しばらくそんな事が繰り返され、やがて群れは一つの小屋へとたどり着く。
 先んじて小屋の戸を開けて待っていた羊飼いは、牧羊犬クルルに追い立てられた羊の数を、いち、に、と口に出しながら数えていた。
 羊たちは、あくまでも預かり物である。未熟な自分を雇ってくれた所有者のためにも、どこかに一頭逃げてしまった、なんて事があってはならない。

「減ってない、増えてない。問題ない」

 慎重に、二度三度と繰り返して確かめ、羊飼いはようやく満足そうに頷いた。
 めぇめぇと鳴く羊たちは、犬に追い回されたことに文句を言っているようにも、まだ外に居たかったと不満を言っているようにも見えた。
 そんな羊たちに「また明日な」と答えて、小屋の扉を閉める。
 その間、クルルは小屋の外に座ったまま見張りをしていた。
 いつ、どこで、何をすればいいか、全て知っている。
 指示の必要もない。クルルは優秀な牧羊犬である。
 同時に、人とは疎遠にある羊飼いと心を通わせた、唯一の存在でもある。

「クルル」

 だから、主が優しい声で呼んでくれた時は、自分のためだけの時間が始まるとも知っている。
 狼が牧場の近くに来ていないか見回り、羊たちを追い立て、もう十二分に駆け回ったはずなのに、それでもなお、クルルはボロ布を丸めたボールを咥えて、羊飼いに「遊んでほしい」と無言で訴えた。

「暗くなる前には、終わりにするからな?」

 羊飼いも愛犬の元気さに苦笑しつつ、遊びに付き合うことにした。
 ボールを受け取り、おおきく振りかぶって、投げる。
 クルルがそれを追いかけ、時には空中で、時には地面すれすれで、器用にボールを口で捉える。
 そして、咥えたボールを羊飼いのもとへ。
 単純な繰り返しだが、クルルの尻尾はちぎれんばかりに振られていた。

 夕日が町の向こうに消え、投げたボールの行方が人の目には見えなくなった頃。
 羊飼いは羊小屋の方へ下手投げでボールを転がして「今日はおしまいだ」と告げた。クルルは転がるボールを反射的に目で追いはしたが、帰宅する主を引っ張ってまでわがままを通そうとはしなかった。

 ただいま、と呟いて羊飼いは小さな小屋の扉を開ける。
 そこは、羊小屋よりも小さい、最低限の家具しか置いていない安普請だったが、羊飼いは特に不満を覚えることはなかった。
 火を使った料理もできる。ベッドで寝られる。水場も近い。
 男一人と犬一匹が暮らしていくのに、そんな多くのものは必要ない。

 ただ、町に行って幸せな家庭を持つ人々を見るたびに、少しだけ羨ましく思うことはある。
 羊が生活の大半を占めるような暮らしに付き合ってくれる妻を探すのは、楽なことではない。

 食事を終え、パジャマがわりの古着に着替えてベッドへ入った羊飼いは、愛犬を見ながら冗談めかして呟いた。

「お前くらい付き合いが良ければ、嫁さんも迎えたいんだけどな」

 羊飼いの古着を集めたお気に入りの寝床でまどろんでいたクルルは、その小さな声に顔を上げた。
 呼ばれたと思ったのか、命令を待つ時の目つきでじっと羊飼いを見つめる。

「ほら、来い」

 何気なく、気まぐれで。羊飼いはベッドの場所を開けて、クルルを招く。
 緩やかに尻尾を振りながらベッドに飛び乗ったクルルは、しばらくぐるぐるとその場で回ってから、落ち着く場所を見つけて丸くなった。
 羊飼いの腹に顎を乗せるような姿勢で、満足そうにため息をつく。
 この地域は、標高が高いこともあって空気が冷たい。犬と一緒に寝ても、寝苦しくて起きるようなことはない。

「……おやすみ。ベッドから落ちるなよ」

 明日も、今日と同じように、羊たちの世話をする。
 朝起きて、クルルと一緒に羊を見張って、夜眠る。
 明日だけじゃない。明後日も、明々後日も、ずっとずっと、その繰り返しだ。
 きっと、それでいいんだ。
 そんな事を思いながら、羊飼いの意識はゆっくりと眠りへと落ちていった。


…………


 どんな変化にも、兆候がある。唐突に見えるのは、その兆候を見落としただけである。
 今の雇い主に自分を紹介してくれた、年老いた羊飼いに教わったことの一つだ。
 確かに、それは正しかった。今まであった大抵のことはよく観察していれば未然に防げたし、そうでなくとも被害を最小限に抑えることもできた。
 しかし、これはいったい何を観察していれば、予測できたのだろうか。
 ベッドに腰掛けた羊飼いは、受け入れがたい現実を前にして頭を抱えていた。

「あの、ご主人さま?」

 隣では、犬と人間の特徴を併せ持った、奇妙な姿の少女が首を傾げている。
 身を包む白黒の毛並みや、肉球のある手足、少し突き出したマズルは間違いなく犬のそれと同じである。
 しかし、両手を膝の上に揃えてベッドに座る姿や、長い黒髪、口にする言葉は、人間のものと変わりない。

「……待って、ちょっと、落ち着くまで待って」

 羊飼いは頭痛すら感じる混乱の中で、隣りに座るものを盗み見る。
 間違いない。それは、今まで見たことがない生き物である。だが同時に、それは今までずっと傍にいた生き物でもあるらしい。
 何故なら、それが身に着けている首輪はよく知ったものであり、「クルル」という刻印もそのままであったから。

 つまり、これはクルルである。
 犬が、どういうわけか半分ほど人間のような姿になったのである。

 ただそれだけである、と割り切るには、羊飼いは常識を投げ捨てられなかった。
 クルルは最高の相棒だった。言葉による意思疎通に限界はあっても、常にこちらの意図を汲んで、望んだことをしてくれた。一介の羊飼いでしかない自分には、いっそ過ぎたるものであるほどに、優秀な牧羊犬だった。
 そのクルルが、なぜ。

「ご主人さま……そろそろ、羊たちを外に出す時間ではありませんか?」

 異常事態を嘆いていた羊飼いは、クルルの――あるいは、クルルであるらしい何かの言葉に、はっと顔を上げた。
 そうだ。こんな事にはなってしまったが、だからといって羊の世話を放り出していい理由にはならない。

「そうだな。よし、羊だ。そうだ、羊だ」

 とにもかくにも羊のことだ。
 半ば現実逃避にも近い使命感が、羊飼いに冷静な思考を取り戻させた。
 いつもと同じ簡素な服に着替えて、いつもと同じ羊の面倒を見れば、きっといつもと同じ日々に戻れる。
 そう自分に言い聞かせている間に先に小屋を出ようとしていたクルルを、羊飼いは慌てて呼び止めた。

「いや待て。えっと……クルル?」
「はい?」

 今までは名を呼んでも振り返るだけだった相手に、返事までされるようになった。
 ドアを開けてもらうまで待っていたのに、自力でドアを開けて出ていこうとしていた。
 互いの視線が、並行になった。
 あらゆる違和感を一旦横に置いて、自分が着ようとしていた飾り気のないマントをクルルに投げ渡す。

「外に出る時は、一応それを着てくれ」

 今まではクルルに服を着せるなんて発想もなかったが、人に近い姿になってしまえば話は別だ。

「……でも、ご主人さまが凍えてしまいませんか?」
「僕のことはいいから。今日はそんなに寒くもないし」

 クルルには毛皮がある、と言うのは今も変わらない。耳も尻尾もそのまま。
 しかし、普通の犬の姿である時にはさほど意識していなかったが、今のクルルは、メス、もとい女の子である事を嫌でも感じさせる体つきをしていた。
 これは犬である。姿が変わっても犬である。そうは思っても、やはり女の子に裸のような格好をさせるのは気が引けてしまう。
 渋るクルルに半ば無理やり外套を纏わせた羊飼いは、帽子とパンを入れたバスケットを手に、何かから逃げるような足取りで羊小屋へと向かう。
 クルルは毛皮の上に布を重ねる違和感とふさふさとした尻尾のやり場所にしばらく困っていたようだったが、なんとか落ち着く位置を見つけると、「忘れてますよ」と言いながら、壁に立てかけたままになっていた羊飼いの杖を取り、二足歩行で羊飼いを追いかけた。

 いつもならば放牧場まであくびをしながら歩くような羊飼いも、今日ばかりは何度も振り返っては後方を確かめていた。
 姿の変わってしまった牧羊犬が自分の仕事をしっかりこなせているか、不安だったためである。あるいは、そんな姿になっても羊を追い立てるのには「わん」と吠えるのだな、と妙に感心したためである。
 靴を履いていないが、足は痛くないのだろうか。外套一枚で防寒は足りるのだろうか。
 いつもと変わらず羊たちの行進を見張るクルルを見ていると様々な心配事が浮かんだが、少なくとも、放牧場の頼りない柵の中へ羊たちを入れるまで、クルルの行動には何一つとして問題はなかった。

「それで、何があったんだ」

 いつも椅子代わりにしている手頃な岩に腰掛けるなり、羊飼いは単刀直入に尋ねた。
 クルルは、今までのように羊飼いの足元に伏せるのではなく、岩に背を預けてぺたんと人間らしい座り方をしたまま、耳を伏せて答えた。

「……分かりません」

 望んでいた答えではなかったが、羊飼いはそれで落胆することはなく、「まあそうだろうな」と納得していた。
 兆しすら無く朝起きたらこんな状態になっていたのに、二足で立って歩いて走って、人間の言葉だって当然のように扱えているのだから、もはや説明できるような何事かではないのだろう。
 当の本人にも分からないというのなら、理解をしようとする事自体を諦めた方が良いのかもしれない。
 それに、理由なんかよりもずっと大事な事はいくらでもある。

「体の調子が悪いとか、そういう事はないか?」
「はい、それは大丈夫です!むしろ、なんだか体中に力がみなぎっているみたいです!」

 憂いを帯びた表情から一転して、クルルは楽しげに立ち上がった。
 わたしは元気ですとでも言いたげにその場でくるりと回ると、マントの裾が大きく翻る。
 下にあるのは一応犬の体でしかないのだが、女性慣れしていない羊飼いは思わず目を逸らした。

「色んな匂いが今までよりも分かるようになってるんです!なんだか、目も良くなったみたいですし、他にも色々……」
「そうか。元気なら、それでいい」

 よく喋るクルルは、放っておけば今すぐにでも駆け回りだしそうだった。
 気に病んでいたのがいっそ馬鹿馬鹿しくなるほど快活な振る舞いに、羊飼いは自分が抱いていた愛犬へのイメージが崩れていくのを感じた。
 クルルはまだまだ若い犬だが、賢く優秀な牧羊犬としての姿から、どちらかと言えば落ち着いた性格だと思い込んでいた。
 しかし、こうして会話をしてみると、それはこちらの勝手な思い込みであったらしい。むしろ、容姿と中身から受ける印象は「背伸びした子ども」とでも言おうか、微笑ましさすら感じてしまう。

「ご主人さま?」
「うん?」
「いえ、なんだか、嬉しそうでしたので」

 クルルに言われて、羊飼いは少しだけ驚いた。
 嬉しい。そうだ、驚き困ったのも確かだが、それだけじゃない。

「……そうだな。クルルと話ができるのが、嬉しいんだろうな」

 単なる牧羊犬と羊飼いの関係だけではなく、ある種の絆のようなものをクルルには感じていた。
 家族。そして、相棒。
 他の何にも比べられない大事な相手と、こうして同じ言葉を使って話ができる。それが嬉しくないはずがない。
 もっと、話をしたい。そう思うのは、きっとおかしい事ではない。

「なあ、クルルは何が好きなんだ?」
「ご主人さまが好きです!」
「ありがとう。でもそうじゃなくて、食べ物とか、遊びとか……」

 無論、クルルの好きなものなど今更聞くまでもなく知っている。
 それでも、実際に彼女自身の口から聞くのは、やはり楽しかった。
 硬めの肉が好きなのは、歯ごたえが面白いから。古着の上で寝るのが好きなのは、安心するから。
 町は匂いと音が多くて、少し苦手。大きめの虫は、なんとなく怖くて苦手。
 求めれば、この牧羊犬はなんでも答えた。時には、求めた以上の事も。
 それでいて、時折訪れる沈黙すら、クルルは楽しんでいるようだった。
 微笑を浮かべて尻尾をぱたぱたと振っては、こらえきれなくなったように「んふふ」と笑い声を漏らす。
 犬の姿であった頃にもじっとこちらを見ていることはあったが、人に近い姿で同じことをされると、それはどこか気恥ずかしくなる振る舞いだった。

「……あっ」

 クルルの姿にも慣れはじめた羊飼いが、昼下がりのまどろみに片足を踏み入れはじめた頃。
 不意に、クルルが声を上げた。
 耳を立てて遠くを睨むその目は、外敵を狩る者の目だった。
 羊飼いも相棒の視線の先を追うが、放牧場の更に向こうの草原と、点在する岩があるだけで、何もおかしなものは見当たらない。

「何かあったのか?」
「狼の臭いがします。たぶん、あの岩陰に隠れてるんだと思います」

 クルルが指差した先には、確かに岩がある。しかし、それは人間の目には点にしか見えないほど離れている。
 風も無いというのに、分かるものだろうか。羊飼いは怪訝に思ったが、すぐさま首を横に振った。
 クルルは、嘘をつかない。

「……追い払うぞ」

 羊飼いが呟き、立ち上がる。
 一度でも羊狩りに成功した狼は、その味を覚えて繰り返し狙ってくるようになる。だから、そうなる前に「あの羊たちには近付くのは危険である」と理解させなければならない。杖は羊を小突くだけではなく、こういう時のためにも必要なのだ。
 だが、杖を順手に持ち替えている間に、クルルは既にマントを翻して駆け出していた。
 まるで今までもずっとそうしていたかのように、二本の足で地面を捉え、駆ける。
 了解です、という威勢の良い返事も置き去りにして、姿を変えた牧羊犬の背中があっという間に遠ざかっていく。

 はっきりと認める事はできなかったが、どうやら、クルルに驚いた何かは岩陰から飛び出したようだった。
 四足で逃げる小さな影をクルルは吠え立てながらしばらく追いかけ、ついには斜面の向こうへと消えていった。
 かと思えば、何かを追い回していた時よりもずっと速く走って帰ってくる。

「追い払ってきました!」

 そして、尻尾を振りながらいかにも「褒めてください」とばかりに言い放った。
 あまりにもあっさりと事が済んでしまい、羊飼いは気抜けしてしまった。
 この仕事で、狼との遭遇ほど怖いものはない。偵察に一匹だけ来ているだけで、もしかしたら群れが隠れているのかもしれないなどと怯えることもあった。
 しかし、今のクルルにかかれば狼を追い払うくらい、尻尾を振りながらこなせる程度のことなのだろう。

「……ああ、うん。よくやった、偉いぞ」

 頭を撫でてやると、くすぐったそうに少し身を捩りながら、「えへ」と可愛らしく笑った。
 しかし、引っかかることが一つ。

「その体でも、走り回って平気なのか?」

 自分で気づいているのか、いないのか。
 クルルの呼吸は、いつになく荒い。狼を追い回したからというのはあるだろうが、それを差し引いても、頭を撫でられている最中だと言うのに口を開けて「はっ、はっ」と短く息を切らせているのは珍しい。
 いつもならば、目を閉じてただ尻尾を振るだけなのである。たとえ駆け回った直後だろうと、頭を撫でてやれば口を閉じて満足そうに長く息を吐く。今回は、それが無い。

「はい!まだまだ、いくらでも駆け回れそうな気分です!」

 しかし、羊飼いの小さな不安は、愛犬の元気な声で簡単にかき消えた。
 単に興奮しているだけだろうか。姿が変わって、元気を持て余してしまってるのかもしれない。
 ただの勘違いだろう。
 そう思ってしまうくらいには、その後のクルルに不調の色が見えることはなかった。

 夕刻の鐘が鳴って羊たちと帰路を行く頃には、愛犬が自分と近いものになった事を歓迎する気持ちすら生まれていた。
 クルルが今の姿に変わったことで何か一つでも牧羊犬としての能力を失ったとすれば、素直に肯定はできなかっただろう。
 しかし、少なくとも今のところは、否定する理由など何一つ見つからない。
 それに、クルル自身も今の姿になったことを喜んでいる。
 「私もお料理手伝います!」と言い出した時には驚いたが、手順は完璧だった所を見るに、犬の姿であった頃にじっと見上げていたのは無駄ではなかったのだろう。

 もしかしたら、これは今まで真面目に働いていた自分とクルルに神様が与えてくださったご褒美なのかもしれない。
 今朝の困惑が嘘のように、羊飼いは落ち着いていた。
 もっと色んなことを、クルルに教えてやろう。今までとは少しだけ違う日々を、楽しめるように。

「ごしゅじんさま?」
「……いや、なんでもない」

 無意識の内にクルルを見つめていた羊飼いは、不思議そうに首を傾げる愛犬から目を逸らして夕食のスープを口に運ぶ。クルルもまた、主人に倣ってスプーンにスープを掬い、おぼつかない手つきで口まで運んでは、舐めるように味わう。
 クルルの食事は、今まで通りに犬のそれを、とは行かない。
 本人は「今までと同じで大丈夫です!」と言うが、見た目の悪い余り物を今のクルルが食べている様子は、主人である羊飼いとしては、あまり見たくはないものだった。
 この狭い小屋のあれこれも、少しずつクルルとの生活に合わせて行く必要がある。
 だが、すぐに何でもかんでも用意できるわけではない。
 目下の課題は、クルル用の服や食器、そして。

「……やっぱり、狭いな」

 二人で入るには窮屈すぎる寝床も、早々にどうにかしなければいけない。
 以前から大きめの犬であったクルルとならばと羊飼いは考えたが、寝相をはじめとして変わっている部分は想定以上であり、人間一人だけ受け入れる事を前提としたベッドに二人が収まるためには多少の無茶が必要となった。
 かと言って、どちらかがベッドを諦めるには夜の空気は冷たすぎる。

「その、ご主人さまは……暑くはないですか?平気ですか?」
「大丈夫。今日は特に寒いし」

 背後から聞こえるクルルの声に、羊飼いは壁を見つめたまま答える。
 ぴったりと密着するような状態で困るのは、毛皮を纏った愛犬の熱よりも、しなやかで柔らかい女性的体つき。
 悶々としたものを押し殺して、疲労が睡魔に変わるのをじっと待つ。

 風の音すら無い夜。
 静けさに耳を澄まして、愛犬の呼吸を子守唄代わりに。
 深く吸って、吐いて。
 徐々に眠りに落ちていく……はずのクルルの呼吸が、どんどん浅く早いものへと変わっていく。

「クルル?どうかしたのか?」
「へぁっ!?あっ、いえ、だいじょぶ、です!」

 首筋に感じる吐息は妙に熱く、返事をする声も完全に裏返っている。
 大丈夫とは到底思えない愛犬の様子に、羊飼いは寝返りを打ってクルルと向き合う。

「……やっぱり、調子が悪いんじゃないのか」

 愛犬の様子を確かめようとシーツを剥ぐと、妙に甘ったるく濃厚な匂いがした。
 匂いのもとは、クルルの足の間、秘部の周りが原因らしい。そのあたりだけが漏らしたかのように、しかし尿とは明らかに違う液体でぐっしょりと濡れていた。

「っ……ごめん、なさい……」

 このような状況は今までに無かったことだが、それでも、羊飼いはクルルの今にも泣き出しそうな声から、どういう事かを察した。
 つまるところ、発情したのだろう。
 本能的行動を押さえ込んで牧羊犬としての仕事を果たすだけの理性はあっても、体の方はどうしようもなかったらしい。
 だが、今はそんな時期ではないはず。

「その、ご主人さまの匂いが……いつもよりはっきり分かっちゃって……それで、どんどん体が熱くなって……」

 みっともなく発情した事への羞恥と、ベッドを汚した罪悪感からか、クルルは今にも泣き出しそうな声で、謝罪の言葉を繰り返すばかり。
 体調不良を誤魔化そうとしたことを叱ろうと思っていた羊飼いも、その姿にむしろ申し訳無さを感じてしまっていた。

「いいよ、これは、その、気づかなかった僕のせいでもあるわけだし」

 彼女たちの事は、飼い主が気付いてやるべきである。
 羊飼いはあくまでも犬を飼う者としての立場で、犬とは違うものになったクルルへの対応を試みる。

「えっと……何と言うか、つらい、のか?」
「……凄いどきどきして、止まらないんです……頭の中がぐちゃぐちゃになってる……ううん、ちがう……ご主人さまが……」

 ふわふわとして要領を得ない返事に、羊飼いは眉を八の字に曲げた。
 どうすればよいのだろうか。いや、すべき事は決まっている。
 一つ、簡単な、当然の義務がある。
 愛犬が体調に異変を来したら、飼い主が面倒をみてやるべきだという義務だ。

「……そのままには、しておけないから」

 呟いてから、抱き寄せる。

「あの……ごしゅじん、さま?」

 クルルは怪訝そうに首を傾げたが、間近で感じる主人の匂いに蕩けてしまい、それ以上は何も言えなかった。
 抵抗される気配がないことに安心して、羊飼いはクルルの頭を撫でながら考える。
 発情期に入った動物を落ち着かせるために人の手で処理をするというのは聞いたことがある。
 今からするのは、それと同じだ。
 クルルが苦しんでいるのだから、早めに処理して落ち着かせる。それだけだ。
 自分に言い聞かせながら、手をクルルの足の間に伸ばし、濡れそぼった秘部に指を添える。ただそれだけで、クルルは体を震わせて短く息を吐いた。

「……痛かったら、言うんだぞ。すぐにやめるから」

 何も考えられないような状態でも、クルルは自分の心と体が求めるままに頷いた。
 交尾の経験は無くとも、発情しきっている体は、抵抗も痛みも無く羊飼いの指を受け入れていく。
 羊飼いがそっと指を動かせば、愛液に濡れた襞が指に絡みついた。
 無心で、ただ、処理をするだけ。
 羊飼いは胸中で繰り返しながら、くちゅ、くちゅ、と小さく水音を立てて、クルルの中を掻き回す。

「大丈夫か?痛くないか?」
「は、い……だいじょぶ、だいじょぶです……」
「じゃあ、少し激しくするから」

 女性を抱いたことなどなかったが、クルルの反応から「なんとなくこうすれば良いのだろう」という検討を付けて、鈎状に曲げた指の先で、膣壁を軽く掻いた。

「ひっ……!?」

 ざらざらとした天井を擦り上げられたクルルが、悲鳴とともに体を仰け反らせて目を見開く。
 その反応を見て、羊飼いは安心させるように優しい声をかけた。

「……すぐ、済ませるからな」

 そうしないと、こちらまで変な気分になってしまいそうだから。
 そんな言葉は飲み込み、遠慮も容赦もなくクルルの弱点を責め立てる。
 ぬるぬるとしていて、それでいて襞の感触が感じられるそこを撫でるたびに愛液が溢れ出し、羊飼いの手を濡らす。

「ごしゅっ、ごしゅじんしゃまぁっ!だめです、それ、おかしく……っ!」

 まさに「性処理」と言うべき愛撫によって与えられる快感のあまりの激しさに、クルルは叫びをあげていやいやと首を振った。
 呼吸は乱れ、大きく開けた口からは舌が覗き、苦痛と紙一重の快楽から逃れようとする。だが、あえなく飼い主に抱き寄せられ、それが匂いに敏感な犬の体に、ともすれば愛撫以上の痺れるような悦びをもたらした。

「やだっ、やらぁっ……!ごしゅじんさまぁ、ごひゅじん、しゃまぁっ……!」

 繰り返し繰り返し主を呼びながら、クルルの体がびくんと一際大きく震えた。
 膣内で羊飼いの指を締め付け、自覚もないままに腰を揺すって、絶頂の中にある体でさらなる快感を求める。
 羊飼いもいつの間にか夢中になって窮屈な秘裂の中をかき回していたが、クルルが意味もない喘ぎ声を繰り返しながらぐったり脱力したのを見て我に返ると、ちゅぷ、と音を立てて指を引き抜いた。

 手首まで濡らした白く濁った愛液に、唾を飲む。
 浮かんだ邪な考えごと拭き取ろうと手近な布を探す。
 だが、クルルはそんな羊飼いの背中を見て、夢見心地に言った。

「ごしゅじんさまも、はつじょう……してるんですか……?」
「っ……」

 そんな事はない、と誤魔化すことはできなかった。
 ズボンの下ではペニスが痛いほどに勃起してしまっていて、触ってもいないのに先走りが滲んでいる。クルルの嗅覚で、それが分からないはずがない。
 クルルの甘えるような嬌声。雌のフェロモンとでも呼ぶべき匂い。秘部の感触。全てが雄の「発情」を促していた。
 それを自覚していながらも躊躇う羊飼いに、クルルはかつて羊飼いに叱られた時などにしていた、服従を表す格好を、無防備な仰向けの体を見せつける。

「じゃあ、ごしゅじんさまをはつじょうさせたわるいクルルに、おしおきを、してください……」

 それは、羊飼いの性処理を手伝いたいというのも、お仕置きを求めているのも、単に愛し合いたいというのも、全てがないまぜになった言葉だった。
 そして羊飼いにとっては、何よりも待ち望んだ言葉だった。

「……分かった。それじゃあ、これは、お仕置きだからな……」
「はい、はいっ……おしおきしてください、クルルを、しつけてくださいっ……!」

 ベッドに戻った羊飼いが、クルルを見下ろす。
 クルルは、微笑んでいた。

 仰向けになっているクルルの腰を羊飼いが掴み、挿入しやすいように少し持ち上げる。
 自身の体重で押さえつけられていた尻尾は、解放されるなり緊張と興奮にぴんと伸びた。

「挿れるぞ。痛かったら……」
「だいじょぶです、だいじょぶですから、はやくっ、はやくぅっ」

 お仕置きと言う大義名分を用意しておきながら、いざその瞬間になれば、クルルはやはり発情した雌犬に戻っていた。
 快感と種付けを期待するあまり、目は潤み、吐息には熱がこもる。
 理知的だったはずの愛犬のそんな姿も、今の羊飼いには興奮を煽る一要素でしか無かった。
 これ以上はとても我慢できないとでも言うように、一度イったばかりのクルルの膣口に、ペニスの先端をあてがう。
 そのまま、ゆっくりと、クルルを押さえつけるように腰を進める。

「うっ……く、ぅ……」

 刺激に不慣れなペニスにぬめった肉襞が絡みつき、ただ挿入するだけでも腰が抜けてしまいそうな快感が走る。
 あっという間にこみ上げてきた射精欲を耐えようと、羊飼いは無意識の内にクルルに覆いかぶさった。

「あぁ、あぁぁぁっ……入っちゃった、こうび、ご主人さまと交尾しちゃってるぅ……」

 だが、余裕のない主とは対照的に、クルルは待ちわびた交尾の感覚に尻尾を振って喜悦の声を上げた。
 牧羊犬として募り募った忠誠心と少女として積み重なった恋心に魔物の肉欲が混ざり合い、単純な快感以上の、心が満たされるような喜びがクルルの内に溢れる。
 ふわふわとした大きな手で羊飼いを抱きしめ、キスのかわりに首筋に何度も何度も舌を這わせて、それでもまだ足りないと、「ご主人さま、ご主人さま」とうわ言のように繰り返す。

「ごめんなさいぃ……おしおきなのに、ごしゅじんさまにこうびしてもらって、うれしくなっちゃってますぅ……」

 頭の中にピンク色の靄がかかってしまっていた羊飼いも、「交尾」という言葉に、ようやく自分が何をしようとしていたのかを思い出した。
 何よりも大事な愛犬、クルルは自分の物だと刻みつけるように、一度ずるずると引きずりだしたペニスを、ずん、と最奥に突き立てる。

「ひぐぅっ!?」

 一瞬視界が真っ白になるほどの衝撃に、クルルがうつろだった目を見開き、鈍い悲鳴を上げる。
 口から長い舌がだらりと垂れ、喉の奥から絞り出すような喘ぎ声を漏らす。
 だが、羊飼いは遠慮の欠片もなく、蕩けきったクルルの体を貪る。
 その姿はもはや、理知的な牧羊犬と優しい羊飼いではなく、けだもののつがいだった。

 一突きごとに羊飼いの肉棒はごちゅんと音を立ててクルルの子宮口を抉り、そのたびにクルルは失禁でもしたかのように愛液を漏らす。
 既にベッドはぐちゃぐちゃで、小さな小屋には酷く淫らな匂いが充満していたが、羊飼いは意に介することもなく、組み伏せた雌犬を犯す。
 クルルも、もはや仕置きなどという事を忘れ、与えられる交尾の悦びに溺れていた。
 とめどなく絶頂を繰り返し、せっかく手に入れたはずの人間の言葉を手放して、雄を煽るための鳴き声ばかりを繰り返す。

 そんな獣のまぐわいも、長くは続かなかった。
 小さく呻いた羊飼いが、ひときわ強くクルルの膣内を突き上げる。
 つがいの雌を孕ませるために放たれた、大量の精液。
 それは、クルルにとっては、思考を狂わせる毒にも等しい。

「い、ぅ……っ……!」

 のけぞったクルルから出たものは、強すぎる快感への悲鳴でしかなかった。
 意思とは無関係に魔物の体は愛しい人の愛情を求めるが、それを受け入れるにはクルルはまだ幼く、行き過ぎた幸福感と快感は許容量を越え、ついには気を失ってしまった。

 だが、羊飼いにも気絶したクルルを気遣う余裕は残っていなかった。
 文字通り精根尽き果てるような交尾の疲労に、愛おしい温かさ。
 柔らかなクルルの体に覆いかぶさったまま、羊飼いは当初の目的など忘れて、泥のような眠りへと落ちていった。


…………


 結局のところ、どれだけ劇的な変化にも、時が経てば慣れてしまうものなのだろう。
 先日毛刈りを終えたばかりの貧相な羊たちを見ながら、羊飼いはぼんやりと考える。
 あれだけ驚き、困惑したはずなのに、もう、クルルが普通の犬の姿をしていた頃の事を忘れ始めている。
 放牧場で羊を見守って、お弁当を食べたら眠くなって、うとうとしている内に夕刻の鐘が鳴って。
 繰り返す日常。
 そこに寄り添ってくれているクルルと愛し合えないなど、もう想像もできない。
 もしかしたら、今の姿こそ、クルルの本当の姿なのかもしれない。
 相変わらず無邪気に慕ってくれる愛犬を見るたびに、羊飼いはそう思わずにはいられない。
 それくらい、自分とクルルの関係は、完全なものだった。

 ただ、一つだけ。

「ボール遊び、しなくなったな」

 羊小屋のそばに転がるボールを見ながら、羊飼いはぼそりとこぼした。
 かつてのクルルは、羊たちを小屋に入れた後には待ってましたとばかりにボールを咥えて駆け寄ってきていた。
 今のクルルにボールを咥えられても困るが、日課のように繰り返していた遊びから離れたのは、やはり少し寂しいものを感じてしまう。

「……前のわたしがご主人さまに構ってもらうには、これくらいしかなかったんです」

 主の寂寥を嗅ぎ取ったクルルは、どこか懐かしむように言いながら、布を丸めたボールを手で拾った。
 そして、ボールを羊飼いに手渡すと、もふもふとした両手で主の手をボールごと包んだ。

「でも、今は……たくさん、構ってもらってますから」

 元々そんなに放っておいたつもりも無いのだが、と答えようとした羊飼いは、しかし、照れたように微笑むクルルを見て、目をそらした。
 姿を変えて日は浅いが、それでもずっと一緒にいる相棒である。今まで通り、考えていることなど手に取るように分かる。
 元気で頭の良いクルルが、目を潤ませて消え入りそうに喋る。それだけで十分だ。
 ふさふさの毛皮で分からないのは残念だが、人と同じ顔をしていればきっと頬を赤く染めていたに違いない。
 そして、自分では見られないが、きっと自分の顔も真っ赤になってしまっているに違いない。
 そんなことを思いながらも、ただの牧羊犬に、あるいは愛犬に抱くには少しばかり多すぎて複雑な気持ちを伝えようと、羊飼いは言葉を探す。

「うん。まあ、なんだ。その……これからも、構うというか、遊ぶというか……」

 しかし、あまりにも複雑で純粋な感情を伝えるに相応しい言葉など、羊飼いの頭の中には無かった。
 それが大事な気持ちだと分かっているからこそ綺麗に伝えたいのに、浮かぶ言葉はどうにも格好付かないものばかり。

 それでも、視界の隅で振られている尻尾が、全てを言葉には出来なくとも気持ちは伝わったのだと十二分に理解させてくれた。
 愛犬の察しの良さがありがたいようでもあり、「お互い隠し事はできないな」と、どこか的はずれな感想も抱く。

「さあ、帰りましょうご主人さま!今日は、わたしがとびっきりのご飯を作りますね!」

 照れ隠しのように、クルルは軽やかな足取りで駆け出し、羊飼いを急かす。
 そんなクルルの尻尾は、いつまでもいつまでも、楽しそうに揺れ続けていた。
17/07/31 00:21更新 / みなと

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