連載小説
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3.2人の距離
 風呂場の後始末はやはりというか、想像した通りの重労働だった。吐き出したものは固まる前に洗い流すしかないのだが、精液ってのは水分と交じり合うとゼリー状になるわけで、これがまたしつこい。ぬめるような感触が延々と続き、いくらこすっても落ちない落ちない。手についたのを落とすのにも苦労する。素手なのも相まって結構な時間を食った。こいつに掃除用具を使うのはさすがに躊躇われるし。
(うっかりお湯使うと白く固まって余計に落ちなくなるんだよな……)
 自宅でやらかした経験がここで生きるとは。人間、何が役立つか分からないものである。
(ってか出しすぎだろ。魔力?のせいなんかな)
 こびりついたヤツを爪でこそぎ落としながら、少し落ち着いた頭で考える。
 魔力に魔物。眉唾な話だけど、牛乳でもぶちまけたんかってくらいの射精量は普通にあり得ないし、因果関係は置いといて常識を超えた何かに巻き込まれていることは間違いないだろう。俺の中に魔力がたまって、そいつを吐き出すには彼女の協力がなければいけない、という流れだったはずだ。
(ゲームのMPみたいなもんとは違うんかな。や、呼称が重要な訳じゃないけど)
 関係はあるのかもしれないが、知るすべはない。いろいろ知ってそうな彼女からは、親切する気は一切ないという宣言をいただいたばかりだ。
(……思い出したら、なんか)
 噛み千切ってやる、と耳元で囁かれた言葉。やり兼ねない凄味をヒシヒシと感じた。だがその苛烈な口調とは裏腹に俺の反応は。
(ムラムラしてきた……!)
 めちゃくちゃ興奮していた。ハスキー入った低音ボイスに暴れる男の身体を押さえ付ける膂力、柔肌の内側に潜んだ強靭な筋肉の感触は、女体の逞しさをこれ以上なく俺に伝えてきた。細すぎず、ごつすぎず、しなやかさと美しさを両立した奇跡のバランス。
 ――それを大きく崩す、巨大な乳と尻。あれは反則の域だ。
 組み敷きたいし、組み敷かれたい。こんなチャンス逃してたまるか。
(お近づきになりてえ。絶対)
 まあ、手コキされた関係の先とか想像もつかないけど。行為の先ってんじゃなく、次の段階への進み方が。普通の関係ならデートに誘うとかできるんだけどね。
(そういうお店みたいな態度だしなぁ。知らんけど)
 風俗なんて空想の世界でしか分からん。分からんが、ああいうのは互いに確かな利益があるから商売として成り立っているのだ。
 では俺と彼女の場合はどうか。俺にとっては言わずもがな、彼女にとっての利益が分からない。理由は言ってた気がするけど。
(失敗の挽回か。俺のこの状況が彼女にとってそうなら、俺ができるのは……協力するくらいか)
 邪魔をせず、従順にチンコを差し出す。想像して頭が痛くなった。なんという情けなさ。せめて彼女に気持ちよくなってもらうとかないのか。
(それこそ童貞が何言ってんだって感じだな)
 とにもかくにも。
 つらつらと考えを巡らせているうちに、後始末は終わった。ひと通りを撫でまわし、ぬめった感触がないことを確認する。
 手をしっかりと洗い、引き戸をくぐって脱衣所に出た。洗面台と脱衣カゴがあり、カゴの中には無造作にジーンズが入れられている。
 そういえば、俺はパンツ一丁だった。掃除ついでに股間は洗ったが、履いてたパンツを履きなおすという違和感は凄まじい。
(服とか借りられないかな……いや、いったん家に戻るとか)
 その手の話をしていいものかと思いつつ脱衣所を出る。
 そこは脱出の時に通った廊下だ。俺が寝ていた部屋への扉は右側で、左側には玄関口がある。正面の扉は開け放たれていた。
 その先には、冷蔵庫を開け放ち、ぐいっと牛乳パックを煽った彼女の背が見えた。健康的に焼けた肌と、隆起した肩甲骨が露になった……下着姿で。
(うぉおおおおおおおお!!)
 下着は黒のスポーツもの。めちゃくちゃに似合っているし、色気を損なうであろう無機質なデザインなど関係ないといわんばかりに、背中越しでも主張する爆乳と布地の食い込んだ臀部が強烈なセックスアピールをかましていた。
 ぐぐっとまたもや股間がせり上がる。こんな精力旺盛だった覚えはない、これも魔力とやらのせいだろうか。っていうか、さっきのジーンズは彼女のやつか。部屋着は下着派なんです? ありがとうございます!
 脳内ガッツポーズで固まる俺をよそに、視線に気づいた彼女が首だけで振り返る。
「掃除は」
 淡々とした口調。俺はどもりながら答えた。
「お、終わりました」
「よし。飯にするか」
 そう言って冷蔵庫の中に手を突っ込む。これはまさか、手料理展開とかそういう、
「ほら」
 放って投げられたのは、ひんやりと冷えたゼリー飲料だった。10秒チャージで有名なアレである。
「……え?」
「足りんか? まだあるぞ、好きにとれ」
 ガバっと開け放たれた冷蔵庫には、上段中段下段までびっしりとゼリー飲料が詰め込まれていた。
「ヒエッ」
「夜は外で食う。それまでは好きにしていろ」
 ヂュゴゴ、と3秒で1本を吸いつくし、彼女は静止した俺の横を通ってリビングへと向かった。
(うそ……だろ……?)
 開け放しな冷蔵庫は見過ごせず、とりあえず閉めようと扉に手をかけるが、眼前に広がる絶望を直視できない。野菜の切れ端も見えず、調味料の1本もない、唯一あるのはゼリー飲料とプロテインと直飲みされた牛乳パック。
(女の昼飯がウィ○ー1本? こんなことがあって良いのか?)
 否。あってはならない。
 俺は断固たる決意で扉を閉め、彼女の後を追ってリビングへ向かう。
 彼女は床に片膝をついた姿勢で、ネットサーフィンに興じていた。
「あの!」
「なんだ」
 彼女は不快そうな顔を隠そうともせずに見返してきたが、今ばかりは引き下がるわけにはいかない。
 土下座も辞さない覚悟で、俺は宣言した。
「俺に飯を作らせてください!」


 ○


「うまい」
 結論から言って俺の判断は大成功だった。
 好きにしろ、と投げやりに金だけ渡された俺はキッチン装備を即チェック。ろくな調理道具もないことを確かめ、すぐさま近場のスーパーへ走り、必要な道具と食材を買い込んだ。
 ちなみに洋服は、既に彼女が買っていてくれた。階段で鉢合わせた時にもっていた買い物袋は、俺の着る服だったようだ。
「1時間で帰らないなら締め出す」
 という脅し気味な提案をどうにか回避し、まっさら過ぎたキッチンにそれらしい装備を整える。
 造ったのは特製ミートソーススパゲティ。市販のルーに刻み野菜を継ぎ足す程度のやつだが、外れないしボリュームも出せる。
 調理してる最中はまるで興味を見せなかった彼女だが、皿に盛ったパスタを差し出すと、パクパクと食べ始めてくれた。
 そして冒頭のひと言に至る。
「良かったです」
 ひと安心して俺も食べる。緊張はしたが手に馴染んだレシピ、そこそこの出来だ。
 うちは両親が共働きなので、2人に余裕のないときは俺が夕飯の用意をしていた。他人に振舞うのは初めてだが、フォークを止めない彼女の様子を見るに好評のようである。少し自信が湧いた。
 無論、下心もある。彼女に気に入られたいし、威圧的な雰囲気を緩ませることが出来ればと思っていた。現状把握は死活問題だ。
 スパゲティを口にして微笑んだ彼女の顔をみて、俺は判断する。
(……今なら切り出せるかな)
 スーパーのチラシを確保し、大まかな地理は掴んだ。
 このマンションは、俺の家から学校を挟んだくらいの位置にある。学校まで歩けば10分。俺の家はそこから20分。およそ30分で帰宅は出来る。想像以上に近場であった。
 ぶっちゃけて言うと、今の時点で帰る気はさらさらない。こんな褐色美人とお近づきになるチャンスを棒に振るなどあり得ん。こちとら手コキまでしていただけたんだぞ、先を目指すのが男ってもんだろ。活かせるチャンスは全部掴むぞ。
 ただそれはそれ、これはこれである。スーパーの放送で今日が土曜なのは確定しているが、俺の家族はどうしているだろう。帰宅せず、女の家で一夜を過ごしている俺を。不思議パワーで何か良い感じにしてるのかも知れないが、そんなのは俺の想像でしかない。
 どこから聞くべきかを逡巡していると、彼女が口火を切った。
「物欲しげな顔をしているぞ」
 ぐいっと牛乳パックを煽った彼女が、口元を拭いながら言う。どうでもいいが、直にグイ飲みするの滅茶苦茶似合ってますね。
「そうですか?」
「とぼけるな。……まあいい。妙なことを言い出すから逃げるのかと思ったが、本当にやり遂げるとは。存外に面白いやつだ」
「いやまあ、流石にアレはどうかと思ったんで」
 冷蔵庫いっぱいの即席物を思い返す。食材が入らないので幾つかは棚の中に移した。あれはどう処理すべきだろうか。
「私は人間とは作りが違うから必要なカロリーさえ確保できればどうにかなる。しかし、摂取するものが変われば調子も変わるものだな」
 ぐっぱーと左手を握って放す。彼女は食べた物での反応の違いを実感しているらしかった。といっても、即席料理に継ぎ足しただけなのだが。味気ないゼリーと比べればそりゃ違うだろうけど。
「お前の手料理、という点が大きいのだろう。母の手料理はあっちの食材が含まれていたから、それのせいだと勘違いしていた。想いが込められた料理は美味いのだな」
「へ?」
「理屈は聞くな。そうだ、という感覚だけがある。私にも分からん」
 彼女はそこで切り上げて再びパスタを頬張った。心なしか顔が赤いような気がしないでもないが平常ですねこれは。むしろ真顔で嬉しいこと言われた俺が赤面してる。
 とんだイケメンだわ……と戦慄しつつ、この雰囲気ならいけるだろうと会話を続けた。
「あの、俺の家族とか大丈夫ですかね。俺、失踪扱いにされてるとか」
「心配はいらん。お前は"居る"ものとして家族に認識されている。呼びかけにも答えるし、飯も食っていることになっている」
「分身がいる、とかですか?」
「実体はない。『空人龍馬』という人間がそこにいるものとして扱われるよう結界が張られているのだ。肉体的接触が多い身近な異性がいれば効力が薄れるが、そうではないだろう?」
「……彼女いないだろって言われてます?」
「そう言ったつもりだ」
 ズバっと切り捨てられて胸が痛い。
「いや、妹がいますんで。しょっちゅう蹴られてますよ」
「お前の反応が一定なら問題ない。お前から妹に対して要求することは多いのか?」
 言われて思い返す。飯作ってだの風呂沸かしてだの買い物付き合ってだの言われるが、俺から妹にお願いすることは少ない。
「まあ、引き伸ばすほどリスクは上がる。土日で済ませるに越したことはないだろう」
「そう、なんすね」
 いまいち呑み込めてないが、確かなバックボーンがあるらしい彼女がドンと構えているのなら、俺があれこれ気を回すのは余計だろう。家族への心配はとりあえず置いておく。
 彼女との交流はこの土日に限る、ということで。
 そこでふと思い出した。
「あの、俺の名前……」
「空人龍馬。相手を調べずに拉致はできん。組織任せだったがな」
 拉致という扱いは合ってるらしい。にしては雑というか、起きてすぐに逃げ出せそうだったのはいいのだろうか。
「閉じ込めては余計に錯乱させるだろうし、いつ起きるとも知れんからな。上手い方法ではなかったが……私も初めてのことだ、多めに見ろ」
「なんすかそれ」
 思わず吹き出しそうになった。拉致った相手にこのセリフ、想像より愉快な人かも知れない。
「えっとじゃあ、」
「おい」
 カラン、と彼女がフォークを置くのと同時。
 もう一口で食べ終えるかというところで、彼女はこちらを睨みつけた。その声音は、浮ついていた俺を地に落とすように低い。
「調子に乗っているようだから言っておく。美味い料理の礼と答えているがな。私はお前と最低限の接触しかする気はない。日に3度の接触、計6度の搾精行為で私とお前の関係は終わりだ。あと5回でお前は正常に戻る。その後は、この休みのことなど思い出せないようにする」
 グイっと前のめりに顔を近づけてくる。今更ながら、下着なままの暴力的な胸が深い谷間を作るが、鼻の下を伸ばす余裕は無かった。
 油断していた、完全に。
 彼女は何も気を許してはいない。背筋がすうっと冷たくなった。
「お前の疑問に答えるのはあと1つだ。それきり、私に何かを問うことは許さん。ありがたく思え」
 ぐっと唾を呑み込む。聞きたいことは山ほどあるというのに。
 ひとつだけ? ひとつだけで終わりなのか。
 許しを請うように目で訴えるが、彼女は微動だにしない。取るに足らない、と思われているのだ。俺のことなど、本当にどうでもいいのかも知れない。
 それは、悔しかった。

「あなたの名前を教えてください」
「尾瀬 桜羅だ。明後日には忘れるだろうがな」

 忘れません。あなたにも、俺のことを覚えてもらいます。

 その覚悟を口にするのは、もう少し後のことになる。
19/06/25 17:54更新 / カイワレ大根
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