読切小説
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ゴーン・ボーイ
 グリフ・ストランドの両親は、共に主神教団に属していた。父はその町に在籍する主神教団直属の騎士団の長であり、母は町にある主神教団の教会で修道女として働いていた。グリフの両親は身も心も教団に捧げており、狂信とまではいかないものの、その敬虔さは他の追随を許さぬほどであった。
 
「グリフよ。お前も大きくなったら、主神様に忠誠を誓うんだぞ」
「そうよグリフ。この世で唯一正しいのは主神様なの。悪魔の誘惑に耳を貸しちゃ駄目よ?」
 
 それ故に、この両親の教育方針もまた、主神教団の理念に則ったものであった。主神教団こそが正義であり、魔物は押しなべて悪であると、彼らはグリフが幼いころからみっちりと教え込んでいたのだ。
 おまけに彼らの暮らしていた町は、主神教団が幅を利かせる典型的な反魔物領の町であった。そのためグリフは家族と外食に出かけたり、母の頼みでおつかいに向かったりするたびに、あちこちで行われている教団員の説法を無意識のうちに脳味噌の中に刻み込んでいったのだった。
 
「この世界は今、危機に瀕しています! 女の姿をした邪悪な存在が、我々の命を虎視眈々と狙っているのです! 今こそ、我々は神の元に団結し、協力して悪魔と戦わねばならぬのです! 男だけはありません。女性も子供も、全ての人間が神と共に戦うべき時なのです! 世界を穢す魔物に鉄槌を下し、この世界に再び善と光をもたらさねばならぬのです!」
 
 教団が正義だ。魔物は悪だ。町の中ではそんな説法が、あちらこちらでひっきりなしに轟いていた。そんな似たような文言を何回も聞いているうちに、グリフはそれがこの世界の一般的な価値観であると認識するようになったのだ。両親がグリフに外の世界の知識を得ることを固く禁じたのも、彼の価値観の硬直化に拍車をかけていた。
 そうした徹底的な英才教育の結果、グリフは十二歳になる頃には、すっかり主神教団の思考に染まり切っていた。将来の夢は父と同じ騎士団に入り、そこで邪悪な悪魔を退治することである。町の学校で行われた「将来の夢の発表会」という場において、恥ずかしげもなくそう言ってのける程であった。
 
「おお、よく言えたな! それでこそ我が息子だ! 私も鼻が高いぞ!」
「その調子よグリフ! これからも私達と一緒に、主神様と教団に仕えていきましょうね!」
「はい! 僕も父さんや母さんと同じように、主神様に忠誠を誓います!」

 グリフの目は輝いていた。主神教団に仕えることを喜びと感じる者の目をしていた。殉教者の目だった。
 そしてそんな息子を、両親はとても誇りに思っていた。この子が大きくなって騎士団に入ったら、一緒に悪魔を抹殺しよう。父はグリフにそう約束し、グリフもまた笑顔でその約束を受け入れた。
 
「任せてください! 僕も父さんに負けないくらい、一匹でも多く悪魔を倒してみせます!」

 グリフの宣言に、父と母は揃って笑顔を浮かべた。そして三人は互いをひしと抱き合い、今日もまた主神の加護の元、一日を健やかに暮らせたことを感謝するのであった。
 三人一家は、とても幸せであった。
 
 
 
 
 そんなグリフの両親は、一週間に一度、あることを行っていた。それは町の外に出て、違う町に遠出してそこで布教活動を行うというものであった。これは教団の教えを広め、より多くの人間の目を覚まさせるためにこの町が独自に行っていることであった。そして特別信仰心の篤いグリフの両親は、そんな町の考えに同調し、自ら進んでこの活動に従事していたのである。
 
「じゃあグリフ。私達は行ってくるから、ちゃんと留守番しているんだぞ」
「頼んだわよ、グリフ。お土産買ってきてあげるからね」

 そしてこの時、両親は決まってグリフに家の留守を任せていた。彼ら曰く、外は危険なのでまだ幼いグリフを連れていくわけにはいかない、とのことである。そしてグリフもまた、そんな彼らの言い分に素直に従い、家の中でじっとしていたのであった。
 
「はい! 父さんも母さんも気を付けて! いってらっしゃいませ!」

 玄関前でグリフが両親を見送る。父と母はそんなグリフの言葉を笑顔で受け、そして仲良く肩を並べながら彼に背を向け外へと歩き出す。
 やがて両親の姿が視界から消えてなくなる。そこまで見送ったグリフは笑顔を消し、そっと家のドアを閉めた。その後彼はいつもの足取りでリビングまで戻り、そこの隅に置かれていた花瓶へとまっすぐ向かった。
 花瓶の中には、それぞれ色や形の違う四つの花が活けられていた。その花の一つを、グリフは指で四回つついて揺らした。
 呼び出しの合図である。
 
「やっほー♪」

 そうして彼が花を揺らした次の瞬間、リビングの壁の一部が縦に裂け、そこに大きな穴が開けられた。穴の中は漆黒の闇に包まれており、そしてその暗黒の中から、一人の少女がにゅうっと姿を現した。
 グリフと同じくらいの背丈の、青い肌を持った少女だった。水着にしか見えない露出の激しい服を身に着け、頭からは小振りの角を生やしていた。
 
「グリフ、今日も会いに来たよ。嬉しいよね? ね?」
「うん。僕も会えて嬉しいよ、スピカ」

 穴が閉じて壁が元通りになると同時に床に降り立った少女が、笑顔でグリフに声をかける。そしてグリフもまた、自分の名を呼んだ青い肌の悪魔の名前を気さくな態度で呼び返した。
 
「一週間ぶりだね、スピカ。元気にしてた?」
「もちろん。デビルが風邪なんかひくわけ無いじゃん! そっちはどう? 元気してる?」
「いつも通りさ。毎日毎日、主神主神。嫌になってくるよ」
 
 デビルのスピカからの問いかけに、グリフが肩を竦めて答える。その顔には心の底からうんざりしたような、倦怠感と嫌悪感が露わになっていた。両親の前では絶対に見せない、素の表情だった。そしてそれを聞いたスピカもまた、「そっちも大変みたいね」と苦笑をこぼしながら同情するように言った。
 
「本当、嫌になるよ。それしか言えないのかって感じ」
「仕方ないわよ。それ以外に縋るものが無いんですもの」
「可哀想だね」
「ええ、本当にね」
 
 二人の間に敵愾心は欠片も無かった。教団員の息子と過激派の魔物娘は、旧年来の友人のように和やかな雰囲気の元にいた。
 
 
 
 
 グリフとスピカが出会ったのは、今から半年前のことだった。その日の真夜中、あまりにも寝付けず、外の空気に当たろうと家の裏口から裏庭に出たグリフは、そこで全く唐突に彼女と遭遇したのだ。
 
「あ、悪魔?」
「あら、男の子。ごめんなさい、ちょっと邪魔してるわね」

 スピカはこの時、地べたに腰を下ろしてアイスを食べていた。その姿は非常にリラックスしたものであり、グリフを前にしてもその態度を崩すことは無かった。
 腰を抜かしたのはグリフの方だった。
 
「あ、あ、悪魔……なんで悪魔がここに……?」

 恐怖で体から力が抜け落ち、その場に尻餅をつく。両親に報告しなければいけないと理性は訴えていたが、体は一向に言うことを聞かない。両親や周りの人間がグリフを立派な教団の人間にしようと「魔物は人を食い殺す邪悪な存在である」と常々吹聴していった結果、却って彼の心に悪魔への恐怖心が植え付けられたのである。
 加減を知らない連中であった。

「大丈夫よ。別に取って食ったりはしないわ」

 そうして心の底から怯えるグリフを見て、スピカはそんな彼をなだめるように優しく微笑んだ。その姿は、グリフの教わった悪魔の姿とは真逆のものであった。
 
「あ、そうだ。アイス食べる? ここで買ったものだから、別に毒とは入ってないわよ」

 そこに悪魔が追い打ちをかける。スピカはそう言いながら立ち上がってグリフに近づき、彼の隣に腰を下ろして手に持っていたアイスを渡してきた。グリフは一瞬戸惑ったが、結局心の整理が出来ないまま、流れのままにアイス入りのカップを受け取った。
 
「はいこれ」
「あ、うん。ありがと……」
 
 アイスの入ったカップは冷たかったが、彼の心臓の高鳴りを鎮めることは出来なかった。
 なぜだろう。どうしてこの子が近づくと、心臓がドキドキするんだろう? 初心なグリフはそれを理解できなかった。
 
「それあげるから、私がここにいたことは内緒にしてね。お願いよ?」

 そうグリフが内心で悩む一方、彼がアイスを受け取ったのを見たスピカは、そう言ってすっくと立ちあがった。それからグリフの反応も待たず、さっさと宙に浮きあがっていった。
 その時だった。空へ飛んで行く悪魔の背中を見たグリフが、咄嗟に彼女に声をかけた。
 
「あ、あの、君は――」
「私はスピカっていうの。またここに来てもいいかな?」

 しかしまたしても魔物に機先を制される。押しに弱いグリフは、またも流されるまま「あ、うん」と頷いてしまった。そしてそれを見たスピカは、相手の言質を貰えて嬉しそうににっこり微笑んだ。
 
「じゃあ、また明日。バイバイ!」

 それだけ言って、スピカは空の彼方へ飛び去った。グリフはアイスカップを持ったまま、暫しその場で呆然と座り込んでいた。口に入れたアイスは冷たかったが、まったく味がしなかった。
 そして次の日、約束通りスピカがやって来た。彼女は真夜中、窓を開けてグリフの部屋に直接入ってきたのだ。
 
「やっほ。来ちゃった♪」
「本当に来ちゃった……」

 喜色満面の笑みを浮かべて侵入してきたスピカを見て、グリフが顔を青ざめる。二人の吐いた台詞はほぼ同じだったが、そこに含まれた意味には天地の開きがあった。
 
「へえ、ここが君の部屋か。結構片付いてるんだね」

 そんな血の気を無くしていくグリフを無視して、スピカが室内の様子をまじまじ観察していく。両親の厳格な教育の成果によって、彼の部屋には必要最低限のものしか置かれていなかった。玩具や漫画といったものは一つもなく、あるのは訓練用の模造剣と勉強に使う参考書、そして主神教団に関する書物ばかりであった。
 
「うげ、こんなものばっか読まされてるんだ。やっぱりここも反魔物領なのね」

 そんな本棚に納められていた教団関係の本の一つを手に取り、中身を読み進めながらスピカが苦言を呈する。主神は清く、賢明な存在であり、魔物は愚かで邪悪な存在だ。彼女が手に取った本の内容は、言ってしまえばそのようなものであった。そして他の書物も全て同じ内容で、とにかく魔物を一方的に貶めるようなものばかりだった。根も葉もないバッシングの数々に、スピカはげんなりした。
 そうして室内を物色していく魔物の姿を見たグリフは、無意識のうちに彼女に声をかけた。
 
「ど、どうして、また来たの?」
「うーん? 君が可愛いからかな」

 本を本棚にしまいながら、スピカが淡々と言ってのける。グリフは顔を真っ赤にして息をのみ、そんなグリフに向き直ってからスピカが言葉を続ける。
 
「それにあなた、優しいし」
「なんでそう言い切れるのさ」
「だって私のこと、密告してくれなかったでしょ」
「どうしてわかるの?」

 驚くグリフに、スピカが笑って答える。
 
「町の様子を見てれば一発でわかるわよ。もし町の中に魔物が入り込んだなんて知れたら、今頃町中厳戒態勢よ。私なんかが入り込めないくらいにね。ここが反魔物領なら、なおさら厳重になるでしょうね」
「な、なるほど」

 スピカの観察眼にグリフが舌を巻く。本物の魔物は、皆が言うほど愚かではないのかもしれない。自分に親しく接してくるこの魔物は、言われているほど邪悪な存在ではないのかもしれない。グリフの中に危険な好奇心が芽生え始める。
 しかし一度育ったその感情は、止まることなく心の中で肥大化していった。それまで一方的に押し付けられてきたイメージと現実とのギャップが、それを一層助長した。
 
「ねえ、君は……スピカは、そもそもなんでこの町に来ようと思ったの?」

 自分から魔の領域に足を踏み入れる。それを感知したスピカが不敵に笑う。
 
「知りたい?」

 嗤う悪魔が問う。禁断の領域を前に、グリフの心臓が激しく高鳴る。しかしこの時、彼の中では既に決心がついていた。
 みんな罪を犯してるんだ。みんな神に嘘をついてるんだ。だから僕がここで不敬を働いたからって、なんの問題も無いはずだ。
 
「うん。僕は本当のことが知りたい」

 感情のままにグリフが答える。スピカは頷き返し、ゆっくりと本棚の横に置かれていた椅子に腰かける。
 
「じゃあ、全部教えてあげる。この世界の真実をね。今日はもう遅いから、また日を改めて会いましょう」
「いつ会えるかな?」
「あなたが希望した日でいいわ。いつならいいかしら?」
「それじゃあ……」




 それから、グリフとスピカの「勉強会」が始まった。場所はグリフの家。時間は両親が外出する日の昼から夕方にかけて。そこでグリフはスピカの振舞う手料理を食べながら、世界のことについて彼女の口から聞き出していったのだった。なお料理に関しては、スピカがいつも何処かから持ってくる食材を使って作られた。故に両親がそれに気づくことは無かった。
 そしてそこでスピカが語る「真実」は、教団の騙る「嘘」を次々と撃ち砕いていった。
 
「そんな……そんなことって……」
「完全に教団の思想に染まってたみたいね。でもこれが真実なの。教団の嘘八百に騙されちゃ駄目よ」
 
 スピカの話は、グリフにとってどれも衝撃的なものだった。魔王の代替わり。魔物の歴史。魔物娘の生態。教団の在り方。その全てが、今まで聞いてきたものとはまるでかけ離れたものだった。
 特にレスカティエが陥落したことは、グリフの心に特に強いショックを与えた。彼がその話を聞いたのは、スピカとの勉強会が始まって三ヶ月経った後のことだった。それまでは今までの魔物の辿ってきた歴史や、魔物それぞれの生態に関する話ばかりであり、近況の話題を出すのはこれが初めてであったのだ。
 そこに属する「勇者」の存在は、彼にとって憧れであった。そんな憧れの勇者が多く存在する大都市が沈んだ。それを聞いたグリフは言葉を失った。
 
「で、でも、ちょっと待って。僕そんな話聞いてないよ」
「えっ、知らないの? もう知ってるものだと思って、これは簡単に流そうと思ってたんだけど」
「全然知らないよ。初めて聞いたよ、そんな話。本当にレスカティエは落ちたの?」
「……なるほどね」

 しかもグリフにとってさらにショックだったのは、そのニュースを今ここで初めて耳にしたことであった。レスカティエ陥落はもう何年も前の話であるとスピカは話したが、グリフはそれすらも初耳であった。
 
「町ぐるみで情報統制か。教団も必死みたいね」

 彼からそれを聞いたスピカは、あどけない顔を嫌悪に歪めてため息をついた。その姿を見たグリフは愕然とした。

「みんなして、僕に嘘ついてたってこと?」
「そういうことになるわね」
「でも、主神教団の人達がそんなこと……」
「実際してるじゃない。あそこの人達は、基本的に大ウソつきなのよ」
「そうだったんだ……」
 
 グリフはまた一つ、教団の嘘に直面する羽目になった。しかし彼にとってそれは、あまり大きなダメージとはならなかった。
 ショックではあったが、それだけで一気に教団不信に陥るほどではない。グリフは疲れた顔でぽつりと呟いた。
 
「やっぱり、教団ってそういう所なのかな」

 凄まじく重々しい口調だった。突発的に出たものではない、何年もかけて少しずつ溜め込んできた諦念と失望が、その台詞からありありと滲み出ていた。
 それを聞いたスピカが、今度はグリフに疑問をぶつけた。
 
「さっきの言葉、どういう意味? あなた何を知ってるの?」
「……教団の人達はみんな嘘つきってことだよ」

 そう答えながら、グリフが背もたれに寄りかかる。それからグリフはリビングの一角に目をやり、そこにある棚の上に置かれていた写真立てを見つめた。
 そこにはグリフとその両親が、仲良く並んで映る写真が飾られていた。三人とも、眩しい笑顔を浮かべていた。
 
「僕の母親ね、浮気してるんだ」

 素っ気ない口調でグリフが言い放つ。今度はスピカが目を丸くする番だった。
 
「本当なの?」
「うん。父さんの前では何も言わないけど、僕の前では時々ぽろっと漏らすんだ。父さん以外の男の人の名前を出して、あの人の方が父さんよりずっと素敵だ、あの人が夫だったらずっと良かったのに、って」
「自分の子供の前でそんなこと言うの?」
「うん。僕が七歳の頃から、思い出したように言ってるよ」

 スピカは唖然とした。グリフは写真から目を逸らして口を開いた。
 
「僕が子供だから、そんなこと言っても問題ないだろうって思ってるんだよ。もし僕が父さんに告げ口しても、何の問題もないって思ってるんだ」
「そんなことって」
「本当のことだよ。だって実際、僕父さんに言ったことあるんだ。母さんがそんなこと言ってるって」
「……それでどうなったの?」

 スピカが問いかける。グリフは黙って服をまくり上げ、スピカに自分の背中を見せる。
 
「――ッ」

 デビルは息をのんだ。そこには痛ましい痣の跡がいくつも刻まれていた。
 鞭で叩かれた跡だ。
 
「父さんは僕の言う事を信じてくれなかった。お前を嘘つきに育てた覚えはない。もっと教壇にふさわしい男になれ。そう言って僕を何度も叩いたんだ。鞭で、自分の部下を叩くみたいに」

 またしても不穏な言葉が飛び出す。スピカはまたも好奇心のままにグリフに尋ねる。
 
「部下を鞭で? それはどこから聞いたの?」
「父さんから。お酒で酔っ払った時、僕の前でだけ漏らすんだ。今日は誰々を打ちのめした。明日はあいつをぶってやろうって」
「……」
「これは愛の鞭だって、父さん笑ってた。神の祝福の鞭だって、笑いながら言ってた。そしたら父さんが僕にするのも愛の鞭だから、もっと感謝しなさいって、母さんも笑って言った。みんなで笑ってたんだ」

 スピカはもう言葉も出なかった。顔から感情が消え失せ、目と口をだらしなく開けて呆然とした。
 
「時々、僕の事も地下室でぶつんだ。怒りながら帰ってきた日は、イライラしながら僕の背中を鞭で打つんだよ。その日にあった嫌なことを叫びながらね。それで終わった後、これはお前を鍛えるための訓練だから気にするなって言って、すっきりした顔で出ていくんだ」
 
 理解できない。したくもない。無言で服を元に戻すグリフの背中を、ただじっと見つめていた。
 
「そうすれば僕は騙せる、教団を理由に使えば納得させられるって、思ってたみたいなんだ」
 
 いくつも刻まれた鞭の跡だけが、鮮明に頭にこびりついた。
 前に向き直ったグリフが言葉を紡ぐ。
 
「その時の僕は、ただ我慢してた。痛かったけど、これも立派な信徒になるために必要なことだからって、自分を納得させてたんだ。僕もいつか、父さんみたいに一人前の教団員になれるかもって信じてたから」

 スピカの前で力なく項垂れる。
 
「……本当は、全部わかってた。ただのストレス発散だってわかってた。僕に嘘をついてるってわかってた。僕はそこまで馬鹿じゃない」

 スピカが無言で立ち上がる。それに気づかぬままグリフが言葉を続ける。
 
「でも本当のことを言ったら、みんな怒った。父さんも母さんも、馬鹿な僕が欲しかったんだ。だから僕は、全部我慢することにした。何も言わないで、教団に……みんなに従っていることにした。従順になっていれば、誰も僕を邪険に扱わないから」

 馬鹿になって、嘘を信じる子供を演じた。彼らにとって都合のいい「優等生」を必死に演じた。
 そこまで言ったグリフの背後から、スピカが背もたれごとその体を抱きしめた。両手を首に回し、グリフの肩に顎を載せる。
 前に回されたスピカの腕をグリフが掴む。縋るように、その青い腕をぎゅっと握りしめながら、グリフがぽつりと呟く。
 
「……僕、もう疲れちゃった」

 スピカが無言で腕に力を込める。首と背筋に暖かな感触が広がっていくのを感じながら、グリフが続けて言葉を吐く。
 
「みんなの嘘につき合うの、もう疲れちゃったよ……」

 グリフの顔は、疲れきっていた。涙すら流せない程に疲れていた。
 スピカはそんなグリフを、ただ無言で抱きしめるだけだった。
 
 
 
 
 その日から、二人の「勉強会」は少し形を変えた。ただ二人きりで本当の歴史や世界を学ぶだけではなく、二人で「楽しく遊んで」日々のストレスを発散しようということになったのだ。これはスピカの提案であり、グリフもその意見に賛成した。
 それはグリフにとって、非常に良い結果をもたらした。スピカはデビルとしての性質を遺憾なく発揮し、徹底的にグリフを甘やかした。そしてグリフもまた、そんなスピカに全力で甘えていった。おかげで彼の負担は大きく減り、以前よりも毎日を楽しく過ごすことが出来るようになっていった。スピカの存在を悟られまいとするあまり、馬鹿な子供を演じるのにも自然と熱が入っていった。
 グリフはますます、スピカに依存するようになっていった。
 
「はいグリフ。膝に頭乗せて。今から耳掃除してあげるからね」
「うん、お願い。――こんな感じでいいかな?」
「そうそう、それでいいわ。じっとしててね」
「うん……スピカ、気持ちいいよ……」
「よしよし、いい子いい子♪ そんなに気持ちいいなら寝ちゃってもいいわよ? 終わったら起こしてあげるから」
 
 最初の頃は耳かきや膝枕、二人で風呂に入るといった、軽いスキンシップ程度のものだった。しかしそれがより刺激的な行為に発展するのに、大して時間はかからなかった。
 
「グリフ、私に任せて……ん、ちゅ、くちゅっ……」
「スピカ、ちゅっ……ん、あむ……気持ちいいよ、スピカ……っ」

 ファーストキスは誰もいないリビングの中で行われた。昼食を済ませた直後、どちらからともなく迫ってきた結果であった。
 初めてのそれはミートソースの味がした。
 
「ほ、本当に、本当に……入っちゃった……」
「ああン♪ あなたの、太くて固い……ステキ……♪」
「ああ、柔らかい……スピカのおまんこ……柔らかくてニュルニュルして、気持ちいいよ……」

 童貞卒業は風呂場でやった。後片付けが楽だったからだ。最初の挿入で、グリフは完全にスピカの虜になった。恋を知った二人は、その日猿のように腰を打ちつけあった。
 それ以来、セックスは勉強会のメインコンテンツとなった。反魔物領の中で堂々と、デビルと人間はまぐわい続けた。
 誰もそれに気付かなかった。馬鹿な大人に隠れて愛の行為に溺れていく。その背徳感は、グリフの心をより深みへと堕落させていった。彼は自分がインキュバスへと変異することに何の躊躇も抱かないまま、スピカとの愛に溺れていった。
 そしてスピカの方も、グリフをインキュバスへ変えることに全く躊躇しなかった。むしろ好都合とさえ思っていた。もし彼が完全に魔物の側に堕ちたとしても、その直後に攻撃を仕掛けてしまえばいいだけだからだ。
 
「私ね、本当はここに偵察に来てたんだ。この町を陥落させるための下準備としてね」

 そして二人がセックスの味を覚えてしばらく経った後、スピカは思い出したように自分がここに来た本当の理由を話して聞かせた。そしてこの時、ようやく過激派の準備が完了し、後は斥候役である自分がゴーサインを出すだけだということも告げた。
 
「この町は、もう隅々まで調べ尽くした。兵士の詰め所や警報装置の場所、幹部専用の逃走経路、全て把握してる。今の私達が本気を出せば、一瞬でこの町は堕落の底に沈むわ。もう人間達に勝ち目はない」

 二人揃って湯船に浸かり、そこでセックスの余韻に浸りながら、スピカが絶望的な言葉を淡々と述べていく。しかしグリフは、それを聞いても何も感じなかった。それどころか、やるなら徹底的にやってほしいとすら感じていた。
 魔物娘の心地良さを覚えた彼は、もう教団や人間に対して何の愛着も抱いていなかった。
 
「それはいつ始めるの? 教えてよ」
「そうね。もうそろそろ潮時かな、とは思ってるわね。あなたの変異も順調に進んでるみたいだし。それにこれ以上、あなたが傷つくのは見たくないし」

 そう言って、スピカは後ろから自分に抱きつくグリフの腕をそっと触った。そこにはつい最近つけられた赤い痣が、痛々しく残されていた。
 グリフへの「愛の鞭」は今も続いていた。しかし今のグリフがそれを我慢できていたのは、それが教団からの愛だと認識していたからではない。
 ひとえにスピカへの愛が、演技を続ける彼を支えていた。
 
「一週間後でいいかしらね」

 スピカが唐突に口を開く。グリフの腕に指を這わせながら、スピカが彼に告げる。
 
「あと一週間、我慢してくれるかしら。一週間後に総攻撃を仕掛けるから。その時はよろしくね」
「わかった。一週間後だね」
「ちゃんと演技するのよ? ご両親に疑われないようにね?」
「大丈夫だよ。僕に任せて。あいつら騙すのなんて、息をするより簡単なんだから」

 母親のように口をすっぱくして注意するスピカに、グリフが苦笑交じりに答える。
 もう親を親とすら思っていなかった。
 
 
 
 
 そして一週間後、いつものようにスピカはグリフの家にお邪魔していた。案の定、両親はいつものように遠出していた。
 
「今日はせっかくだから、豪勢な料理にしましょう」

 スピカはそう言って、テーブルの上に巨大な肉の塊を置いた。そしてそれに驚くグリフに、スピカが自前のエプロンを身に着けながら笑顔で言ってのける。
 
「今日のお昼はステーキよ。腕によりをかけて作るから、ちょっと待っててね」
「お昼からステーキ? なんか贅沢だね」
「言ったでしょ。今日は豪勢だって。何せ今日は、記念日だからね」

 記念日。確かにその通りだ。グリフの顔が喜悦にほころぶ。スピカも彼と同じように笑い、慣れた足取りで肉を抱えてキッチンに向かった。
 三十分後、二人は完成したステーキに舌鼓を打った。隣合って座り、仲良く肩を並べて昼食を堪能する。
 
「はい、グリフ。あーん♪」
「あーん♪」

 ハートマークを飛ばすことも忘れない。そうして愛情たっぷりな食事を楽しんでいると、不意に外から鐘の音が響いてきた。
 町にある大教会の鐘の音だ。続けて細々と、何処からか悲鳴が聞こえてくる。
 
「始まったみたいね」

 ぽつりとスピカが呟く。意味を察したグリフが頷いて言う。
 
「これで終わりか」
「始まりよ。幸せな人生のリスタートよ」

 スピカが笑って言い返す。グリフもそれに同意するように「そうだね」と言い返し、何事もなかったように自分のステーキを切り分ける。
 翼のはためく音があちこちで聞こえる。悲鳴がどんどん大きく、重なり合うように響いていき、爆発音すら混じり始める。泣き叫ぶ声、怒号、嘲笑う女の声。人間と魔物の声がひっきりなしに轟き、金属同士がぶつかり合う甲高い音がそこに混じる。
 やがて窓の隙間から紫色の煙が外から侵入し、リビングの床を漂い始める。悲鳴と金属音がだんだん鳴りを潜めていき、やがて艶っぽい、色めいた声が少しずつ響き始める。
 
「このお肉美味しいね」
「魔界でも特別高級なものを持ってきたからね。ちゃんと味わって食べないと駄目よ?」
「はーい」
 
 そんな狂乱の騒ぎの中で、二人は豪華な食事を楽しんだ。仲良くステーキを頬張り、そのとろける触感を受けて幸せそうに笑みを浮かべる。
 
「んー、おいしい♪」
「本当おいしいね。こんな美味しいの食べたことないよ」
「おかわりもあるから、遠慮しないでじゃんじゃん食べてね♪」
「やった! じゃあもっと食べちゃおうかな」
「何をしているんだお前」

 そんな時、不意に玄関の方から場違いな声が聞こえてくる。グリフとスピカが肩越しに背後に目をやると、そこには全身汗だくになったグリフの父が呆然と立ち尽くしていた。
 
「なんだそれは。一体何を……」

 目の前の光景が、彼からまともな思考を奪い去っていた。そして力なく崩れ落ちる父を見た後、二人は何事もなかったかのように正面に向き直り、そのまま何事もなかったように食事を再開した。
 
「今度一緒に魔界に行かない? 面白い所、いっぱい知ってるんだ」
「面白そうだね。じゃあ今度行こうよ」
「約束だからね。破ったら承知しないわよ?」
「大丈夫。僕は嘘つかないから。誰かと違ってね」

 淫らな喘ぎ声の満ちる中、二人が和気藹々とした雰囲気でステーキを食べ進めていく。父は何がどうなっているのかもわからないまま、ただ呆然とその場にへたり込むだけだった。そしてそんな男のことなど最初から眼中になかったかのように、スピカとグリフはそれぞれ切り分けた肉を互いの口に運んでいった。
 
「はいグリフ、あーんして♪」
「あーん♪ ……うん、最高♪ 次はスピカの番だよ♪」
「あーん♪ ――うぅん、たまらないわ♪ やっぱりあなたと食べるご飯って、最高に美味しいわね♪」
「僕も最高だよ。スピカに会えて、本当に幸せだ」
「私も、グリフに会えてとっても幸せ♪ これからも、仲良くしていきましょうね♪」
「もちろん。よろしくね、スピカ」
「うん、グリフ♪」
 
 
 
 
 今日は記念日。
 一つの町が地図から消えた、記念すべき日であった。
16/11/14 00:48更新 / 黒尻尾

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