連載小説
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0.事のはじまり
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ!」
 ガサガサと茂みを掻き分け少女が走る。息も絶え絶え、顔も手も太股も、露出した肌は枝で引っかかれ細かな切り傷が浮かんでいた。痛ましい姿だがそれでも止まらず必死に駆ける。悲壮感の浮かぶその顔は、何かから逃げるそれだった。
 時刻は22時。静まり返った夜闇を白い明かりがぼうと照らしていた。
「ハァッ……!」
 やがて茂みを抜ける。
 眼前に広がるのは広々としたグラウンド。その先にはすっかり明かりの落ちた、高校の校舎が見えた。学校の校庭、その端にある林から走り出てきたのである。
 活発そうな茶髪のミドルヘア、夏服の半袖ブラウスはリボンを取っ払い、首のボタンも開けてラフに着崩している。装飾こそないものの、スカートはちゃっかり折った膝下15センチ。真面目とは言えないがギャルというほど垢抜けてはいない、絶妙な格好であった。
 少女はングッと唾を呑み込み、再び駆け出す。夜空にじんわりと輪郭を溶け込ませた校舎に向けて一目散に。建物の輪郭が徐々にはっきりとしていく、距離にしておよそ500メートル、校庭の中心に差し掛かったところで、

 ズダンッ

 背後からひと際大きな音が鳴った。地面に何かが落ちたような鈍い音だ。少女は首だけで振り返る。しかし目が林を映すよりも先に、その視界は反転した。
「うあっ!?」
 勢いよく転んだかに思えたが、足をもつれさせたのではない。無理やりに転ばされたのである。校庭に背をつけた少女にのしかかった存在もまた、少女だった。
「捕らえたぞ」
 口を開く。
 褐色肌の少女。その背格好は少女と同じ……この高校の制服であった。白いブラウスにキッチリとリボンを結び、チェックのスカートは折らずに穿いている。長い黒髪を結い上げたポニーテールが、勢いに煽られて大きく揺れていた。
「久野紅羽(クノ クレハ)。お前を逮捕する」
 紅羽、と呼ばれた少女は圧し掛かられて息も絶え絶えだ。汗で髪が頬に張り付き、今にも泣きそうな表情を浮かべていた。震える唇を開き、苦し気に声を吐きだす。
「なん、なの……? どうして、」
 こんな、と言い切る前に、グっと息を呑んだ。呑まざるを得なかった。紅羽の喉を、ポニテ少女が手で掴んできたからである。
「茶番は要らん。お前が木に種を仕込んだのは見ていた」
 首に回した手を緩めず、ポニテ少女は続ける。
「おとといの昼休みに下見、今日になって決行した。そうだな?」
 有無を言わせない断定口調で、淡々と言葉を紡ぐ。問われる紅羽だが、喉にかかった手のせいでろくな言葉にならない。はじめから答えを聞く気などないのだろう。
「もう少し寝かせるかと予想したが……余裕のなさが表れているな」
 圧し掛かった姿勢で左手を紅羽の首に添えたまま、右手で懐を探る。取り出したのはスマートフォンだ。
「抵抗は無意味だ。連行する」
 片手で画面すら見ずに操作する手慣れた仕草、こうなるのは当然という不遜な態度。
 あまりの冷徹さに怯えきっていた紅羽の目が、次の瞬間、ふっと緩んだ。恐怖に濁った黒い瞳が、鮮血のように紅い色へと変わる。
「そう。ここにはアナタしかいないのね」
 突然、紅羽の身体が勢いよく跳ねた。2人分の体重をまるで無視した強烈な跳ね方。その高さはゆうに1メートルを越える。
「ぐっ!」
 勢いに負けてポニテ少女が姿勢を崩す。その隙に紅羽はバレエのように横回転、首に回された手をものともせず、ポニテ少女を振り払った。
 弾き出されたポニテ少女はグラウンドを転がるが、受け身はとっていたようですぐに立ち上がる。視線の先には中空に浮かんだままの紅羽の姿があった。人間ではありえない。だがポニテ少女の驚きはそこではなかった。
「魔力は出し切ったと思ったが……ぬかったか」
「感知が甘いわねぇ。あっちから離れすぎて鈍ったんじゃない?」
 レェ、と突き出した紅羽の赤い舌には、スイカの種のような黒い豆が3粒のっていた。視認すればハッキリと分かる、それは魔力の塊だった。
 紅羽は見せびらかすようにチロチロと舌を躍らせ、ことさらいやらしい口つきで、チュパリと飲み込んだ。
「埋めたのは1個だけ。こそこそ嗅ぎまわってる子の気配があったからブラフを撒いたの。せっかく誘い込んだのに……あなたひとりは舐めすぎじゃない?」
「ふん……」
 弾かれた勢いで、ポニテ少女のスマホは手から投げられてしまった。拾いに行こうにも、既に紅羽は臨戦態勢に入っている。視線を離し過ぎるのは悪手だ。
 やむを得まいとポニテ少女は身構えた。仏頂面を崩さないポニテ少女に、紅羽はくすりと笑みをこぼす。
「たしか……桜羅(ロウラ)ちゃん、だったかしら。あなたは"そっち側"だったのねぇ」
「その名で呼ぶな」
「アハっ! 怒らせちゃった〜♪」
 ちゃらけた口調で返し、でもねぇ、と口元を歪ませる。
「助けは呼べたみたいだし、時間稼ぎに付き合ってあげてもいいのよ?」
「ちっ」
 バレている。スマホは既にコール済み、あと数秒で応援が駆けつける算段だった。気にする素振りだけ見せたが、無意味だったようだ。
 桜羅、と呼ばれたポニテ少女は頭を振り、構えを深くする。
「大人しく捕まればいいものを。……後悔するぞ」
「あらこわい。でも……あなた、ほぼ素でその身体でしょう、持て余してるんじゃないの?」
 その身体、と紅羽が指さした桜羅の肢体。
 180センチに届こうかという女性にしてはかなりの長身に、その体躯に見合うバルンと突き出た胸部は、ブラウスのボタンをきちんと留めているにも関わらず左右に押し広げられて隙間ができてしまうほど。ワンサイズ上のを着ようにも肩幅が細いので合わないのだ。巻いたスカートから推し量れるウェストは驚きの細さを見せつけ、腰に手をあてちょっと体を傾けようものなら、見事な"く"の字が出来上がるだろう。モデルかと見まごうくびれを支える下半身は、布越しでもしっかり主張するヒップと太股から想像できる逞しさを誇る。モデル体型と呼ぶにはセックスアピールが凶悪な、暴力的なS字カーブを描いていた。
「駄目よ、そんな身体で学校をうろついちゃ。この時期の男の子は大変なんだから」
「知ったことではない。ひと目を気にするなど論外だ」
「んふ。自信があるのはいいことね。……でも分からないわ。アナタ、そんな調子でどうして"そっち側"にいるの? お相手はまだいないでしょ?」
「私は"こちら側"で生まれた。人ならざる身でもヒトとしての領分はわきまえているつもりだ。それを犯そうとするお前らが気に食わん」
「嘘ばっかり。こんな狭い場所で男に囲まれてるのに、何も感じないの? 胸の底から湧き上がる情動を!」
 バッ、と腕を広げ、大仰な仕草で紅羽は宙を舞う。背景に校舎を映しこみ、両腕で身体を抱きしめた。
「精通を終えた男たちと! 子を孕める女たちが! こんな狭い場所で何度も関わり合うだなんて! セックスしろと言われてるようなものだわ! しろと言われてるのにしない方がおかしいのよ! だから私が解放してあげるの!」
「浅ましいな。盛りのついた獣でもまだ理性的だ」
 恍惚とした声で語る紅羽を、桜羅は小馬鹿にして返す。紅羽は怪訝な顔を浮かべた。
「浅ましいですって? おかしなことを言うのね。私たちはそうやって人間と関わって生きてきたのに。セックスは最も尊き行いよ。性は全てに優先するわ。あなただって頭では分かってるでしょう?」
 当たり前だという口調。そこに疑問など欠片もなかった。
 桜羅は心の底から、目の前の生き物とは分かり合えないと悟る。ため息を吐く気も失せた。
「お前たちの考えは理解できないし、する気もない。私は私のすべきことをする」
「いいえ分かるはずよ。男に傅き、男を侍らす。私たちは男の為に生きているし、男は私たちの為に生きるべきなの。それが世界の摂理、私たちの真理よ。分からないなら……分からせてあげる」 
 瞬間、紅羽の身体が黒い水に覆われる。粘性をもったそれは頭上から湧き出し、ねっとりとボディラインをなぞって滴り落ちた。水面の向こうを透過しない、ドロっとした黒水は夜空よりも暗い。地面に落ちる寸前にそれは掻き消え、流れ落ちた後には、姿を一変させた紅羽がいた。
 コウモリのような黒い羽を携えた、紅い目と青肌の美女。ミドルヘアーの茶髪は濃い色の暗紫色に変わっていた。
 種族名デーモン。悪意によって産み落とされた、人にあだなす悪魔である。
 本性を現した紅羽を前に、桜羅は呆れた声で呟いた。
「……恥知らずな恰好だな」
「いやん、結構気に入ってるのに。ちょっと小さいけどね?」
 ちょっとどころではない。着崩していた夏服のブラウスはパツパツに張り詰め、丈が足らずにヘソは丸だし。胸は半分以上が露出しており、下半身のスカートもほぼ意味を為さず、大きな尻を締めあげる黒パンツがチラ見えていた。背格好が、女子高生のそれではなく成人女性のものになっているのである。それも長身の超絶モデル体型だ。
 ぐぐっと伸びをすると、ぎちぎちと胸元のボタンが悲鳴を上げた。
「態度も外面も目立たないようにしてたから、結構ストレスだったのよ。下着は可愛いけどサイズは合わないし過激なのはアウトだし、散々だわ」
 ぷるん、と胸と尻を揺らして体をほぐす紅羽は、ふふんと微笑んだ。
「アナタも我慢してるんじゃない? 私と同じくらいのセックスボディ、見せつけたくてたまらないんじゃないの?」
「興味がない」
「我慢ばっかりして。そんなんじゃ、」

 ダンッ

 紅羽が言い切る前に、桜羅は地面を蹴った。その音は広い校庭の端まで響くほどに大きい。人間離れした脚力で蹴り出された身体は、一瞬のうちに両者の距離を詰めた。続けて振り被った腕を繰り出す、が。
「モテないわよ?」
 余裕の表情で、紅羽は身を翻して躱す。不意打ちの一撃は空を切った。
「ふっ!」
 しかし桜羅は止まらない。大振りに振った腕の勢いのまま身を捻り、回転。続けざまに二回目の大振りを決める。その奇襲に対応しきれず、紅羽は防ごうとした腕ごと弾き飛ばされた。
「んあっ!」
 空中で勢いを殺せず、地面にワタワタと下りたつ紅羽。決死の抵抗をしていたブラウスのボタンは無残にはじけ飛び、勢いに負けたブラジャーからは乳房がまろび出て、引っ掛かりを失ったブラはそのままズレ落ちた。サイズがまるであっていないのだから当然の結果である。
「……」
「あらやだ♥」
 桜羅の無言の抗議に流石に羞恥を覚えたのか、紅羽はいそいそと魔法で胸元を正した。といっても、デーモン本来のビキニ衣装で覆っただけ、乳輪から下半分をギリギリ隠した程度の卑猥さだ。一応デーモンの正装ではあるが、ブラウスを羽織っただけの恰好はひどく煽情的だ。
「っし!」
 それでも桜羅はペースを乱さなかった。滑るような足取りで肉薄すると、右、左、右と休みなく掌底を繰り出す。先ほどの初撃を見切ってみせた紅羽は難なく対処するかに思えたが、
「はあっ!!」
「ちょっ!?」
 間断なく次々と放たれる連撃を凌ぎ切れていないのは明らかだった。
 流れるように攻撃動作を繋げて動く桜羅に対し、紅羽は反射神経と運動性能で躱すのが精一杯。距離をとろうと下がっては詰められ、何とか反撃をしても最小の動作でいなされる。
 そして焦りはミスを生んだ。紅羽の伸びきった右腕が掴まれ、一気に桜羅の身体へ引き寄せられる。桜羅は背中で紅羽を持ち上げようとしていた。背負い投げの構えだ。
(まずっ!?)
 地面に叩き付けられるくらいなら問題ないが、仰向けになったが最後、組みつかれて寝技にもっていかれる。そうなれば敗北は必至だ。
 紅羽はやむを得ず、溜めていた魔力の一部を解き放ち、全身から衝撃波を放った。
 至近距離で衝撃を受け、桜羅の大きな体躯が紙のように吹き飛ぶ……が、読んでいたのか、身体を捻って体勢を直し、スタリと地面に着地。何事も無かったかのように立ち上がる。
 ふーっと息を吐き、桜羅は構えを取り直した。戦闘における実力差は歴然。紅羽が魔力を出し切っていなかったのは誤算だが、問題なく捕らえられると冷静に判断を下す。
 桜羅の実力を見誤ったことを理解し、紅羽は内心で冷や汗を流した。
「ものすごく強いのね。分からせられるのはこっちかも」
「投降するなら悪いようにはしない」
「い・や・よ」
「そうか」
 わかっているとばかりに、桜羅は最短距離を駆け出す。人の目であれば捉えるのも精一杯な高速移動。紅羽はプレッシャーに気圧されながら、黒い羽をはばたかせて後ろに下がる。あからさまな逃げの構えだ。
「逃げ切れると思うのか」
「やってみなきゃわからないでしょ!」
 口ではそう返すものの、速度は明らかに桜羅の方が早かった。羽で扇ぐ力をもってしても、桜羅の脚力は規格外の速度を生んでいる。いずれ追いつかれるのは明白だった。しかも進行方向には学校の校舎がある。避けようと左右へ曲がればそこを詰められて終わり。
 しかしそれは曲がればの話だ。
「ょぃ、しょおっ!」

 バサッ

 紅羽は思い切り屈むと、全身のバネを使って宙へと飛翔した。
(今の魔力じゃ長時間は飛べない! でも建物を挟めば時間は稼げる!)
 屋上からであれば、飛行は難しくとも滑空はできる。闇夜に姿をくらませればこっちのものだ。
 だが。
「はぁぁぁぁっ!!」

 ズダダダッ

 異音にぎょっとして見下ろすと、そこには、校舎の壁を疾駆する桜羅の姿があった。校舎の直前まで来てしまったのは致命的なミス。空中へ飛ぶための滑走路を与えてしまったのである。
「うそでしょお!?」
 慌てて軌道を変えようとしたが間に合わない。壁を蹴って宙へと身を躍らせた桜羅は、両腕で紅羽にしがみついた。2人分の重量を支えられず、紅羽と桜羅は地上へ落ちていく。
「人体の性能を甘く見たな。魔物の身体にかまけるからそうなる」
「バカ言わないで……そっちがおかしいだけ」
 諦めたように呟く。だが。
「あなたこそ、私を見くびり過ぎよ。こんなのに引っかかるなんてね」
「なに?」
 地上へ降り立ったその瞬間。
 紅羽の身体はぐらりと輪郭を崩し、そのまま黒い煙になって掻き消えてしまった。
「っ!?」
 魔力で作った分身体だったのだ。桜羅はすぐに周囲の魔力を探る。校舎の中にひとつ、微弱な魔力が流れ込んでいた。視界に意識を割きすぎて、校舎の中に逃げ込んだ本体に気付かなかった。
「おのれっ!」
 しかも最悪なことに。
(もうひとり、男がいる……!)
 ここまで近づかないと分からないとは、不覚。
 桜羅は舌打ちし、校舎に向けて走り出した


 ○


「おーあったあった」
 ロッカーの鍵を開け、目的のブツを手に取る。
「案外いけるもんだな」
 空人龍馬(ソラト リュウマ)は夜の学校で独りごちた。
 彼がロッカーから取り出したのは、休日の課題として提示された数学の参考書だ。うっかり学校のロッカーに忘れてしまい、夕食後になっていざ課題に取り組もうと机に座った矢先で気勢を削がれてしまった。別に明日の朝にでも来れば良かったのだが、やり場のないやる気と部室棟1Fのとある窓が閉め忘れがちだという情報が、彼をちょっとした冒険へと誘った。
 学校まではすぐ来れるし、無理ならコンビニに寄って帰ろうと軽い気持ちで家を出てきたのが30分前。裏手の校門を飛び越え、部室棟から校内へと侵入を果たし、あれよあれよと教室まで来れてしまった。
 このご時世、廊下に赤外線センサーのひとつでもあれば詰んでいたのだが……流石に不用心である。学校も自分も。見つかったら怒られるだけに済まないだろうと、調子に乗ってる自覚はあった。深夜のテンションは恐ろしい。
(鍵の件は早めに伝えないとな)
 とりあえずアイスでも買って帰ろ、と踵を返した。その時。
「こーんばーんわ♪」
「うわっ!?」
 視線の先に人影。月明かりに照らされた廊下の影に誰かが立っていた。宿直の先生ではない。あまりに若く、気安い声だ。
「だ、誰っすか?」
「ひどい。空人くんったら、同級生の顔も覚えてないの?」
 そうは言うものの、ぬうっと影から姿を現したのはどう見ても知り合いの顔ではなかった。どころか。
「は、えっ!?」
 人間ですらなかった。頭に角、背中に羽、胸におっぱいである。いや胸におっぱいは間違っていないのだが。際どいところまで丸見えなのが衝撃的かつ魅惑的すぎ、無視できない存在感を放っていた。
「あら、たまらない目ね♥」
 たゆん、と片腕で持ち上げて見せる仕草に、情けなくも釘付けになる。それでも確かな違和感は覚えていた。
 月明かりではっきりとは分からないが、肌の色が違う。夜の光を吸い込む青肌だ。
 脳裏に浮かぶのは「悪魔」の二文字。
 でもそんなのは些細なことだった。
 美人すぎる美人が見つめてきている。これだけで男は釘付けになるし、色っぽく微笑まれようものなら、あらゆる反応にも鈍くなる。
「ぁ、」
 フリーズした思考に合わせて身体も硬直する。悪魔はニコニコと微笑むまま、こちらに向けて歩き出した。
「ごめんなさいね。ムードは大事にしたいんだけど、今はそうも言ってられなくて」
 レロォと唇を舌で舐める悪魔。青肌でも舌は赤いんだな、とぼんやり考える。
「怯えなくて大丈夫、全部私に任せて♥」
 紅潮した顔が目前に迫る、その時だった。

 バリンッ

 窓の割れる音が廊下に鳴り響く。
 びくりと、硬直から解き放たれた視線が、悪魔の細い肩越しに、小さな人影を捉えた。


 ○


(間に合わんっ!)
 紅羽を見失ってから十数秒。
 桜羅は再び校舎を駆け上がり、驚くべき速度で接近、視認に至った。
 しかし彼我の距離はまだ遠く、今にも男子学生が捕えられようとしている。粘膜接触だろうが体液摂取だろうが、雌雄が交わった時点で桜羅の敗北は必至だ。伴侶を得た魔物の力は、技量で凌げる限界を容易く越えるだろう。
(ここは……!)
 イチかバチか。獲物を目の前にして油断しているであろう悪魔に、ありったけをぶつける他にない。
 即断即決。
 桜羅は左手を前に、右手を後ろに回し、自分の黒髪の中に指を通した。
「夜の担い手よ。黒曜の輝きをもって我が声に応えたまえ」
 慣れない詠唱だが不思議と予感だけはあった。上手くいく、見えざるものが背中を押してくれていると。
 強くイメージを呼び起こし、右手へ意識を集中する。
 すると、桜羅の右手にズシリとした重みが加わった。しっかりと握ると、それが己の武器だと確信する。吸いつくような握り心地は手に馴染んだものだ。
 黒い石の刃がついた木剣。桜羅の種族に広く浸透している伝統的な武器である。細身の木剣に、さながら両刃ノコギリ、あるいはトゲ付き棍棒のように黒い石が埋め込まれたもので、威圧的な外見に見合った破壊力を持っている。ただその黒い石は特別製で、人体に外傷を与えることはない。代わりに、触れた者の魔力に傷をつける効果がある。対象の無力化には最適だ。
(……っ)
 武器の召喚は成功したものの、眩暈がした。魔力を使うのは不慣れな上、空間から武器を取り出すなど初めてのことだ。しかし今倒れるわけにはいかない。
 そのまま投擲の構えをとった。心臓から全身、そして右腕へと魔力の流れを作り、手の中の武器に収束させる。
 時間にして1秒未満。桜羅の右手に握られた木剣の黒石が鈍く光った。
「っだあ!!」
 右手を振り被り、投擲する。黒い石の内側から滲んだ光が回転によって交わり、フリスビーのような円盤状になった。ビュンビュンと風を切り裂く恐ろしいまでの速度で紅羽に迫る。
「――っ」
 紅羽の反応は一拍遅れた。窓ガラスの割れる音で背後へ向き直ったので、桜羅が何かを仕掛けようとしているのは分かっていた。しかし、純粋なまでの純然たる闘争心を前にして、身体が竦むのだけはどうしようもない。無論、死に至るものではないと頭では分かっているが、知性を備える以上、いや備えてるからこそ、痛みへの恐怖は抑えがたいものだった。
 だが。
 掲げた矜持が、逃げることを許さなかった。
 あの頭の凝り固まった小娘に、素晴らしい世界を見せてやらないことには。そのために自分はここにいたのだ。当初の計画は頓挫したが、まだ負けてない。まだ終われない。千載一遇のチャンスを逃してたまるか。
 ここが、私の魅せどころ。
 紅羽は身体を横に倒しつつ、両腕を上下に差し伸ばした。上半身で「コ」の字を作り、飛来物がその間を通るようにする。回転しているため、全てを覆う必要はないと判断。回避は最小限、ありったけの魔力をのせて。

「まとえっ!!」

 短縮詠唱を叫ぶ。伸ばした手の間に薄紫の膜が張られた。そこに飛び込んだ回転武器は、ふにょんと膜に沈み込み……パチンと破れる。まとわりついた膜はそのままに、勢いはまったく衰えず、飛来物はそのまま直線上を進み、
「へっ?」
 後ろに立っていた男子学生を、ものの見事に両断した。


 ○


 ドサリと、男子学生の身体が倒れるのと、紅羽が倒れたのは同時だった。廊下の奥でカランカランと木剣が転がる。
 魔力を出し切り、息も絶え絶えなまま、紅羽は男子学生の方を見た。
 外傷は一切なし。
 勢いがあり過ぎて不安だったが、どうやら人体を透過したらしい。特別製の魔界武器に感謝である。
 ただ、流石に無傷とはいかない。人体だけを綺麗に通り抜けたせいであろう、男子学生の着ていた服は見るも無残に真っ二つであった。胸の辺りからバッサリと切り取られ、素肌がすっかり露出している。
「なにをした?」
 いつの間にか近づいていた桜羅が紅羽を見下ろして言う。押さえつけてくるかと思ったが、特に何をするでもない。紅羽の限界を見切っているのだろう。どうにも桜羅はまだ余力を残していそうで、投擲した後のことも考えていたらしい。
(まったく、憎らしいくらいのバトル脳……)
 いずれにしても、紅羽は魔力の全てを出し切っていた。結果はもう変わらない。廊下に仰向けになったまま、桜羅を見つめ返す。
「なにをしたと思う?」
「……」
「睨まないでよ、怖いから」
 わりと本気で怖かった。今はとにかく無防備なのだ。
「自分でも薄々分かってるんじゃない?」
「勿体ぶるな。さっさと言え」
 つっけどんな態度に苦笑しつつ、そういうところよ、と紅羽は呟いた。
 それで良いのだ。それだから、全力を賭す価値がある。
 紅羽は気だるげに腕を上げ、桜羅を指差した。
「呪いよ」
「呪い?」
「ええ。素直になっちゃう呪い。あなたが自分に正直でいられるように」
「どういうことだ」
「すぐに分かるわ。……あー、むり、限界」
 すぅっと紅羽の瞼が落ちる。持ち上がっていた腕がどてりと落ちる勢いはただ事ではない。
「おい」
 返事がない。
 桜羅は紅羽の傍に屈み、脈をとった。息はある。魔力を出し過ぎたことで一時的な気絶状態になったようだ。話に聞いたことはあるが、実際に目にするのは初めてだった。
「何をそこまで……」
 最後に放った魔力は、桜羅の投擲を凌ぐ程度の出力はあるように思えた。しかし紅羽は不安定な体勢でぎりぎりを躱した上で、全てのリソースを吐き出したのだ。その"呪い"とやらに。
 紅羽の身体を横たえ、桜羅は倒れ伏した男子高校生を見る。己の武器は人体に傷をつけないことは分かっていたので、特に注意を払うことはなかった。紅羽に近づけてはまずい障害物程度の認識。
 桜羅としては、投擲によって2人を分断、注意を引いた上で紅羽を無力化するつもりだった。だから回避されることは折り込み済み。最悪は、2人が一緒に逃げ、そのまま交わられること。むしろその可能性の方が高いと踏んでいたのだが。
「噛み合わなかった……いや、違うな」
 紅羽は気づいていただろうか。飛来物に気付いた男子学生が、へっぴり腰のまま彼女を逃がそうとしていたのを。人間の性能なら自分が逃げるので精一杯だろうに、分不相応に庇おうとした結果、逃げ遅れたのだ。示し合わせた動きではあるまい。
「余計なことを」
 勝算のない勝負に挑むことを勇気とは呼ばない。ましてや蛮勇ですらない。無謀、軽薄、浅慮。言葉にならない愚かさだ。すなわち唾棄すべきものだ。許しがたいものだ。これだから人間は野放しにできない。徹底的にいたぶり、なぶり、しゃぶり尽くし、己がどれほど矮小な立場かをその身体に刻み込んで、

 ゴクッ

「――っ!?」

 自分の喉音で我に返る。
 気がつけば桜羅は両手を地につけ、男子学生に覆いかぶさろうとしていた。
 離れようにも、相当な意思を乗せなければ腕が動かなかった。身体が妙に重い。疲労だろうか。ここで急に? いや、慣れない魔法を武器召喚、エンチャントと2回も使ったのだ。いつ調子が崩れてもおかしくはない。
「ちっ」
 舌打ちし、男子学生からは距離をとる。
 ひとまず応援を待つべきだと、用意しておいた縄で紅羽を縛っておいた。魔物の力でも簡単には千切れないものだ。
 男子学生の方は放っておく。そのうち目を覚ますだろうが、記憶と証拠の隠滅は得意なものに任せるべきだ。自分が下手に動くべきではない。数時間後にはすべて元通り。そのはずだ。
(……胸騒ぎがする)
 懸念すべきは、紅羽が放ったという呪い。今のところ異常はないが、かえって不気味だ。紅羽が目を覚ましたら改めて問いただす必要があるだろう。それまでは下手に動くべきではない。
 そのうち桜羅の仲間が駆けつけ、事態は収束を迎えた。
 
 過激派魔物勢力の一員「久野 紅羽」――本名「クリム・ローゼ」による倫理破壊工作を未然に阻止。その朗報は人魔共存派の間にあまねく届いた。
 手柄はひとりの高校生エージェント「尾瀬 桜羅(オゼ ロウラ)」によるものと噂されたが、詳細は伏せられた。彼女にとって名声は報酬にならないからだ。
 くわえて。
 突き立てられた爪跡は、今この時から着実に、彼女を蝕んでいたのである。
19/06/21 16:44更新 / カイワレ大根
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