読切小説
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檸檬
得体のしれない不吉な塊が、私の胸に始終絡み付いていた。
焦燥と言おうか、あるいは恐怖と言おうか。
酒を飲んだあとに二日酔いがくるように、自堕落な生活を毎日していると二日酔いに相当した時期がある。
それが来たのだ。
これはいけない。
正月休みが終わってしまったのがいけないのではない。
仕事初めなどとうに過ぎているのに未だ一歩も家から出ていないのがいけないわけではない。
いけないのはその不吉で美しく、狂気に満ちた黒い塊だ。
以前私を喜ばせたどんな美しい音楽も、どんな美しい詩の一節も、辛抱たまらないというか媒体ごと全て置き換わられてしまった。
家にあった古い蓄音機を聞いても、最初のニ、三小節に潜む、ステマの如く隠された彼女の睦言に、不意に股間が立ち上がってしまう。
部屋のすべてに隠れた何かが私を居堪らずさせるのだ。
それで私は始終、柑橘の香りに満ちた家を徘徊していた。



何故だが徘徊する私は、家中の物物に強く惹きつけられた。
価値だとか、大きさだとか、用途さえも関係ない。
家具や小物はおろか、何気なく踏みしめる床や淡い色の壁、天井までも。
ありとあらゆるものが、私に使われようと甘酸っぱい匂いを振り撒いて誘っているように思えた。
私はそんな家を歩きながら、ふと、ここが自分の家ではなくて、それどころか私を快楽に堕とさんとする卑猥な食虫植物と妄想した。
私は、口にするのもはばかれる自身の欲望を、出来る事なら誰にも知られずに満たされたいと思っていた。
自室に擬態した、狂気じみた奉仕欲に舌舐めずりする一室。
愛情と劣情で全身を隈なく包み込んでくれるベッド。
そこで何も思わず横になりたい。
私を毎夜苛ませるあの悪夢のように、願わくばここがそういう空間になっているのだったら。
錯覚がようやく成功し始めると、私はそれからそれに妄想の絵具を塗りつけていく。
なんてことはない、私の狂気と妄想との二重写しである。
そして私はその中に、現実の私自身を見失うのを楽しんだ。

毎夜の夢と同じように、私はまた誰かになぶられている。
服を全て剥ぎ取られ、自由を一切奪われ、上位者の意のまま、決して達せない弱い刺激を全身に受けている。
吹き出す汗、腰の奥から広がる掻痒感、鈍痛さえ感じるほど張り詰めた睾丸、終わりの見えない責め苦に許しを請いながら、耳元で愛の言葉を囁かれる。
そんなものが変に私の心を唆った。
それからまた、今度は延々と射精を強要される。
散々焦らされて敏感になった神経を掻き回され、もう数え切れぬほど出したというのに、一向に萎える気配の無い陰茎を余すとこなくしゃぶられながら、女の様に悲鳴を上げ続けた。
お望みした通りですよと、耳の中を嘗め回される音に脳髄すらも犯されて、やがて私という存在が一つに溶けていく感覚に背筋を震わすのだ。
あの時の、どうしようもない無力感ほど甘美なものがあるものか。
現実では起こりえぬと承知している故だろうか、思い出すだけで指先が痺れるほどの快楽が昇ってくる。
思うに、あの淫らと表すことすら生ぬるい夢に私は変えられてしまった。
あるいは私の奥底に隠れた願望を、私自身が見つけられていなかったのか。
とは言え混沌とした夢から醒めた私には、その下賤な欲望を満たせる何かで私自身を慰めるものが必要だった。
身近にあって、誰にも怪しまれず知られることのないもの。
無気力な私の触角にむしろ媚びてきて、この下半身の疼きを十分に満足させられるもの。
今や私の周りはそれらであふれているが、そういったものに自然と私は慰められるのだ。



悪夢に生活がまだ蝕まれていなかった以前、私は勤勉な労働者だった。
朝早くに家を出て出勤し、上司の顔色を伺い、売上を上げるべく残業する。
私はそんなものに一日の全てを費やしていた。
しかしここももうその頃の私にとっては重苦しい場所に過ぎない。
スーツ、社会人、決められた生活習慣、これらは皆社会を維持することしか念頭にない人間の妄執のように私には見えるのだった。
ある朝、その頃の私は自身を削りながら細々と暮らしていたのだが、空虚な空気の中にポツンと一人取り残される気を感じていた。
将来の展望もなく、人生を浪費する現実に漠然とした不安がある。
そういう昏い何かが私を追い立てる。
その度に私はまたそこから彷徨い出なければならなかった。
朝の支度を整え、電気を消し、死人のような目で玄関を施錠して、そこで偶然会った隣人の前で足を止めた。
ここでちょっとその隣人の紹介をしたいのだが、その隣人は最近出会う人々の中で最も好ましい人物であった。
はじめは朝の挨拶をする程度だったが、そのわずかな間だけでも女性をしての美しさを露骨に感じられた。
華やかに整った目鼻立ちに、色の薄い肌にはえる濡羽色の絹髪と深淵の如き闇色の瞳。
滅多に見掛けないほどの美貌でありながら楚々とした仕草と、月の様な微笑と共に淡い檸檬のような香りが私を強く惹きつけたのだと思う。
そして肢体も、やはり女性的な黄金比で完成されている。
実際意図していたわけではないだろうが、上衣の胸部は窮屈そうに押し上げられていた。
それから細く嫋やかな腕だとか、撫でてみたくなる腰の曲線だとか。

また隣人の美しさはその性根にもあった。
仕事で忙殺されていた私が帰宅することには、夜もとっくに更けた時間となっている。
それでもどうしたわけか、ある夜からお裾分けと称して作りすぎた夕食を差し入れてくれたのだ。
朝に軽く挨拶する程度だった私に、そこまでしてくれた理由は瞭然しない。
しかし彼女の底知れぬ優しさがなければ、私もあれほど魅了されるには至らなかったと思う。
当然最初は遠慮したのだが、彼女の手料理は口にすると、「おや、もうこれは他の料理は食べれんぞ」と思わせるほどなので、そのうち毎夜隣人と夕食を共にしていた。
料理だけでない、掃除洗濯といった家事全般すら彼女は完璧で、気づけば部屋の中に心地いい甘酸っぱい香りが常に漂うようになっていたのだ。
唯一帰りが遅い時は連絡が欲しいとだけ言われていたが、大した趣味も人付き合いもない私にとっては気にすることでもない。
独りでは行き届かない清潔な部屋と洋服の中で、嬉しそうに鼻歌を歌いながら台所に向かう彼女の後姿ほど、その時々の私を興がらせたものは稀だった。



ある日から私は仕事が終わると街の洋菓子店へ何度も足を運ぶようになった。
というのも私は日頃の感謝の気持ちとして、彼女にケーキをプレゼントにしようと決めていたのだ。
ケーキなどごくありふれている。
が恋人もいない私にとってその発想はこれ以上ない名案で、閉店時間までの僅かな合間に訪れてはショウウインドウを吟味し帰宅する。
そんな奇妙な来客を何度か演じるうち、私はとある檸檬のタルトに釘付けとなった。
いったい私は檸檬が好きだ。
レモンイエロウの絵の具をチューブから絞り出して固めたようなあの単純な色も、あの丈の詰まった紡錘形の格好も、なにより彼女を思い出すあの爽やかな香りも。
結局私はそのケーキを一つ買うことにした。
あの瑞々しい果実をのせた洋菓子が綺麗な包装に包まれるのを見届けながら、何かを察したのであろうやけにリアルな動物の耳の髪留めをした店員に笑顔で励まされ、私はようやく店を出た。


それからの私はどこへどう歩いたのだろう。
私はまだ見慣れた帰り道を歩いていた。
数時間前まで私の心を圧えつけていた仕事のストレスが、彼女の笑顔を想像するだけで弛んできたと見えて、私は非常に幸福だった。
最近帰りが遅いことを心配していた彼女も喜ぶに違いないと考えるうち、あんなに執拗かった憂鬱が、些細な夢想で紛らわされる。
あるいは不審なことが、逆説的な本当だった。
それにしても心というやつは何という不可思議な奴だろう。

私は道中、何度も何度もビニイル袋の取っ手を開けてはかすかに漏れ出るその香りを嗅いでみた。
甘い果実の匂いと共に一人の女性が想像に上ってくる。
漢文で習った「売柑者之言」の中に書いてあった「鼻を撲つ」という言葉が断れぎれに浮かんで来る。
そしてふかぶかと胸一杯に匂やかな空気を吸い込めば、久々に大きく膨らむ肺から血のほとぼりが上ってきて頭の中に彼女の姿がよら、鮮明に浮かんできた。
実際あんな単純な嗅覚が、ずっと昔からこればかり探していたのだと言いたくなったほど私にしっくりしたなんて私は不思議に思える。
私はもう往来を軽やかな興奮にはずんで、

つまりこの匂いなんだな

その匂いこそ常々尋ねあぐんできたもので、疑いもなくこの匂いは私にとって全ての善いもの全ての美しいものを配合した香りだとか、そんなことを考えてみたり。
何がさて私は幸福だったのだ。



どこをどう歩いたのだろう、私が最後に立ったのはアパートの玄関前だった。
平時あんなに疲れて帰るこの扉がその時の私には待ちどおしくに思えた。
しかしどうだろう、私の心を満たしていた感情はだんだんと逃げて行った。
その頃私は帰宅する度、まるでが分っていたように扉を開けて彼女が笑顔で私を迎えてくれることを習慣としていた。
精魂尽きた私にとってそれは冷え切った掌にじんと染みこむような温もりだが、おそらく彼女は今日はまだ来ていないのだろう。
事実扉を開けた室内の光は不在だった。
部屋中の色を黒で塗りつぶしたような暗闇の中で、足元だけが外灯に照らされている。
そのあまりの暗さに私は少々気後れした。
歩き回った疲労も出てきたのだろう。
我が家がめっきり見知らぬ異形に成り果てたような錯覚さえ抱くがこのまま立ち尽くすわけにも行かない。
私は部屋の中に上がり込むことにした。
ケーキを左手に持ちながら、私は暗闇に一歩進んだ。
慎重に進む私の手にようやく照明のスイッチを確かめて押すと、瞬時にして住み慣れた部屋が照らされてその中に俯く彼女の姿を見つけた。
きれいにそろえた膝に手を乗せて、物音も立てず、長い髪で顔を隠すように座る彼女に心底驚くがすぐに得心した。
おそらく部屋の中で寝てしまったのだろう。
そしてそのあと電気をつけないまま日が暮れてしまったのだろう。
しかし立ち上がった彼女は私に縋り付きながら譫言のように言うのだ。

どこへ行っていたのですか。
なにをされていたのですか。
だれと会っていたのですか。

落ち着きながらどこか狂おしい声が私の心にのしかかった。
まるで不貞を問いただされる夫の心境にありながらも私には一切の覚えがないのだ。
彼女の手が片腕をゆっくり這っていくと、丁度洋菓子店の店員と触れた箇所に止まった。
私は咄嗟の出来事に言葉を失っていた。
それと同じく背中に手を回す感触にも心を掻き乱される。
もう既に気がついているかもしれないが、夫婦のような生活を送りながらも私と彼女の間に肉体の接触はなかった。
あくまで隣人同士の付き合いだからと自分に言い聞かせていたが、それは言い訳である。
私は彼女を求める欲望を確かに持っていた。
だがそれ以上に、あの穏やかで幸せな時間を壊すことにひどく恐怖していた。
もし私の欲望が独りよがりなものであれば、あの時間は脆く崩れるに違いない
そんな仮定が頭をよぎる度に、私は無意識に無難な目先を選んでしまうのだ。
なのにいざ夢想していた柔らかな肢体が押し付けられると私の身体はまるで蛇に睨まれた蛙のように硬直してしまう。

お仕事から、寄り道されていたのですね。

ゆるゆると甘い抱擁を受けながら私は未だ左手に吊り下げるままケーキを目にやる。
この期に及んで私は彼女に似たこの甘酸っぱい洋菓子を秘密にしたいと考えていた。
それは悪戯する小さな子供のような、あるいは相手を喜ばせたい男のつまらない意地だったが、それがどう伝わったのか分からない。
ただ彼女は「ならご主人さまもお仕置きですね」と妖しく笑った。

そして獲物を襲う捕食者のように私の唇を奪ったのだ。
艶々とした弾力に満ちた彼女が私の唇を挟み、やわやわと心地よく愛撫する。
嗅ぎなれたあの甘酸っぱい香りを口先に感じながら私は反射で身を引こうとするも、彼女の手はすでに私の頭に回っている。
それ以上は堪らなくなって、私は思わず後ろに倒れてしまった。
床ではない柔らかい何かに背中を受け止められながら私は彼女の乱心が止むよう願った。

しかしそれはほんの一瞬のみで、私を床の間に挟むと再びあの柔らかい果実が唇を優しく吸う。
しかもわずかに開いた口内を、甘い蜜を纏った侵入者が存分に私の中を堪能するのだ。
舌、上歯、硬口蓋、下歯、口腔底、そして奥の歯茎に至るまで。
ぬめぬめと私の唾液を奪う代わりに送り込んでくるあの麻薬じみた濃い柑橘の粘液が心地いい。
もはや接吻とも言えぬあの口の交じり合いからしばらくして細長い、おそらく彼女の舌であろうそれが引き抜かれる、それでいて動こうとする気持ちは沸いてこない。
私は余韻と呼ぶには刺激的過ぎる感覚に漂いながら天井を見上げていた。
その大部分を彼女が占めている。
私に覆いかぶさりながら、あの深淵のごとき闇色の瞳で嬉しそうに私を見下ろしている。

私だけを見てくれるように、してあげますね

ご主人様、と呟いた彼女の向こうで天井がぐにゃりと形を変えた。
熱したチョコレイトのようにどろどろした液体が顔に垂れて、檸檬の香りが後に残る。
それだけでない。
私の身の回りのすべてが黒い粘液に代わっていた。
家具や小物はおろか、何気なく踏みしめる床や淡い色の壁までもが形を維持できずに垂れてきて、すぐに私は黒い海の中に囲まれてしまった。
その時浮かんだアイディアは私を発狂させた。
これらは粘液でなく、すべて彼女自身だ。
日頃見ていた彼女だけでなく、この部屋はすでに彼女自身に取り換えられていたのだ。
その証拠に粘液からは彼女と同じ匂いがするではないか。
形容しがたい恐怖に身を震わせた私を見かねてか、慈母のような表情で彼女が顔を寄せてくる。
私はそれに逆らえない。
逃れられぬ私の横顔を包んで、随分と優しい接吻がされると、黒い彼女たちも同時になだれ込んできた。
先程の昂奮が全身に帰ってきた。
接吻はもとより、私を手当たり次第に触り、舐り、甘噛みし、愛撫する。
引いては押して新しく範囲を広げながら、表面どころか体の内側まで侵されるたび、私の視界は限界を超えた快楽で色とりどりに点滅した。
何より恐ろしいのは快楽以外の感覚が私にはないことだった。
文字通り身体中の全てを壊れ物を扱うかの如く優しく執拗に愛しながら、ただ狂おしく叫んでいる。
私に奉仕させてくれ、私を見てくれ、私だけと一つになってくれと。
これまで想像し得なかった彼女の内なる狂気が、私への愛情という形でより純度の高いものに昇華していく。
口や鼻は言わずもがな、汗腺を始めとした穴すら彼女たちの入り口として敏感になるよう調節され、流れた涙さえも瞬時に嘗めとられ丁寧に涙腺をくすぐられる。
勃起した陰茎は歓喜の狂笑に向かい入れられ、極上の膣内で無数の舌と細指の愛撫を受けながら、尿道から侵入した彼女たちが睾丸を直接刺激し同じく前立腺の微振動も相まって射精の最中に次の射精の準備を整えられてしまう。
狂った快楽の円環に取り込まれ、もはやどこまでが私でどこからが彼女なのかもわからない。
延々と吹き出す精液を一滴も無駄にする事なく、粘液となった彼女は私の身体全てに奉仕しながら私を私とは違う何かに作り変えていった。



そうして私は彼女に捕らわれた。
あの狂わんばかりの混沌とした快楽の中で、私は実に様々な方法で奉仕させられた。
それは全身の神経を愛しながら気が触れるギリギリまで寸止めさせられたりだとか、あるいは愛の言葉を囁きながら絶頂を果てし無く強制されてみたりだとか。
その逆に私が彼女を責めただしたこともあった。
私を拒む態度が表面上なのかより深い処なのか、或いは既に私を受け入れているか。
どちらにせよ無理矢理押し倒して、どろどろに蕩けていた彼女自身に突き立てれば、嬌声と共に脚を絡めてもっともっとと雄の本能を煽るのだから関係などない。
そうして無数の彼女に溺れながらその狂気に触れたためか、それらは全て彼女の愛情表現なのだと私は確信していた。
献身の末まで奉仕したいと言う欲求と最愛の私と一つになりたい本能でもって、一つに混じりながら奉仕させるように私を快楽調教するという結論に至ったのだろう。
なるほど確かに合理的で効果的な考えである。
事実私はもはや彼女という存在無くして自分を保てないのだから。

しかし時折、私はあの充足した彼女の中から追い出された。
それが彼女なりの気遣いなのか、あるいは次の為の布石かは分からない。
これまでを曖昧な夢と見なしながら、しかし見慣れた部屋と懐かしい両足の感覚だけでは満たされない何かを得ようとまた徘徊するのだ。
私は私自身を追い立てながら、彼女から離れてもまた自ら彼女に溺れ続けていく。

そうしたなかで、ふと、白いビニイルを見つけた。
私は甘い部屋の中の空気が、そのビニイルの周辺だけ変に緊張しているような気がした。
それをしばらく眺めながら、私は変にくすぐったい気持ちがした。
彼女はまだこの秘密を知らない。
すでに一つに愛し合った彼女にこれを上げたらどんなに面白いか。
私はこの想像を熱心に追及した。

「そうすれば少しは私の気持ちも伝わるだろう」

そして私は綺麗なままの包装を開けていった。


22/01/27 10:54更新 / 迷える哺乳類

■作者メッセージ
魔物娘SSはやり過ぎるぐらいがちょうどいいってばっちゃがいってました。

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