読切小説
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鬼の淵
山に怪物が現れた。
そんな物騒な話は、すぐに山の麓にある小さな村中に知れ渡った。
何でもその怪物はとてつもなく凶暴で、そしてべらぼうに強いという。
腕に自信のある者が、その怪物を退治すると山に入っていった。
しかし、それっきりその者は戻ってこなかった。


又之助という若い男が、ある日川辺を通りかかると、一人の若い女に出会った。
その女はどうやらたいそう腹が減っているようで、又之助は自分の弁当を女に分けてやった。
弁当を食い終わると、その女が又之助にこう言った。

「私は旅の者なので何も差し上げられる物も無いが、剣の腕には自信がある」と

どうやら女は剣士であったようだ。
しかしながら、又之助にとってみればそんな大層な事をしたつもりもなかった。
なので礼は結構だと言ったのだが、女の方も簡単には引き下がらない。
しばらく押し問答を続けていると、又之助はある事を思い出した。

「そういえば、最近この近くの山に怪物が住み着いたらしい」

「ならば、私がその怪物を退治して来てやろう」

村の中には、その怪物に立ち向かうだけの力は無かった。
山に入る事が出来ず、日々の暮らしに難儀する又之助にとってみれば、願っても無い申し出であった。
それならば、よろしくお願いいたしますと、又之助はその女に化け物退治を頼んだのであった。








しかし、その女もまた、山の中に入ったきり待てども待てども戻ってくることは無かった。
又之助は、女もまたその化け物に取って食われてしまったのかと気が気ではなかった。
その場の勢いで、女に無理難題を押し付けてしまった。そして女を死なせてしまった。
強い自責の念にかられた又之助は、毎日村の外れの社に足を運び、女の無事を祈った。
一日、また一日と、一度も欠かさず女の無事を祈ったのだが、結局女が戻って来る事は無かった。

だが、変化も現れた。
どうした事か、山の怪物が居なくなった、と言う話が村に舞い込んできた。
村長の言い付けを破ってこっそり山の中に入った者達が、その様子をつぶさに報告した。
巨木が何本も叩き折られ、そこかしこに血が飛び散った後や、刀傷とおぼしき切り傷などが見つかったと言う。
それを聞いた又之助は確信した、ああ、あの女の剣士がやったのだろうと。
それから皆で様子を見ようと言うことになり、又之助もそれに参加する事にした。

山の奥へ足を踏み入れしばらく進むと、そこには異様な光景が広がっていた。
報告にあったように、木々が乱暴になぎ倒され、辺りには刀傷や大きな爪跡など激しく争った形跡が見られる。
又之助達は呆然とその光景を眺めていたが、どうやら本当に化け物が居なくなった旨を確認出来ると、皆黙って山を降りていった。

「あの人はどうなった…?」

又之助も必死であの女剣士の手がかりを探した、しかし、結局何も見つける事が出来なかった。
失意のうちに山を跡にする又之助であったが、ふと足元に目を落とすと。

「血の跡が…」

点々と、血の跡が山奥の方向へと続いている。
ひょっとすると、あの剣士のものだろうか、それとも、まさか化け物がまだ生きている?

「……」

しかし、又之助は…唯一と言っていい手掛かりから目を背け、皆と共に山を降りたのだった。
もし血の跡を辿れば、あの剣士に会えるかもしれない。
そんな一縷の望みよりも、又之助の心を支配したのは恐怖だった。
もし、もし跡を辿って見つけたのが例の化け物だとしたらどうする?
手負いの獣は、時として想像以上の力で立ち向かって来る。
それが化け物であったらどうだ。

「すまぬ…」

己に出来る事など、何も無いではないか。自分はただの農民だ。
またいつもと同じ日々が始まる。あの女剣士には悪いが、これ以上はどうする事も出来ない。
早く忘れた方がいい、と又之助は自分に言い聞かせていた。























それから、しばらくは不安な日々を過ごした村民達であったが、どうやら本当に化け物は居なくなったようだった。
もう山に入って仕事をしても良いだろうと許しも出たので、またいつもと同じような生活を取り戻す事が出来た。
又之助も、あれからあの女剣士の事を考えるのをやめて、毎日仕事に精を出していた。
むしろその事を考えないようにしているのかもしれない。何も語らず、一心不乱に働いていた。
ある日、木を切りに山に入った者が妙なものを拾ってきた。
それは、一本の刀であった。
刃毀れが酷く、全体に浴びた血のようなもののせいで錆付いており、最早本来の機能を果たせないであろうその刀。

「あの人のものだ…」

ひと目見ただけで、又之助はその持ち主が誰なのかわかった。
しかし、おかしな話である。その刀を拾った辺りは、前に皆で山に入った時に既に探しつくされていたのだ。

「生きている…のか…?」

きっとあの時の戦いで深手を負い、今も山の中を彷徨っているのだろうか。
だが又之助の心中に抱いた感情は、喜びでも安堵でも無くまたしても恐怖だった。

「怒っているに違いない…私のせいでこんな事になったのだ…」

仮に生きていたとしても、彼女を探す術を持たない又之助にはどうする事も出来なかった。
またしても、又之助は目を背けた。

そんな事があってからふた月程経ったある日の事だった。
又之助は気がつくと、あの川辺の前に立っていた。
連日降り続く大雨によって水位が上がり流れも激しくなり、非常に危険な様子になっていた。
普段ならば近寄る事すらしないだろうが、それでも、又之助は何かに呼ばれているような気がしたのだ。

「……」

何をするでも無く、呆然と荒れ狂う川の様子を又之助は眺めていた。
あの一件以来、村は平穏を取り戻し、人々もようやく化け物の影に怯える事は無くなった。
だが又之助だけは違った、仕事も手につかず、毎夜悪夢に魘される日々が続いたのだ。
やはり、これはあの女剣士の…あの女の怨念に違いない。
私の事を呪い殺すつもりなのだ。と又之助は思うようになっていた。

「……!?」

ふと、妙な違和感が又之助を襲った。
土砂混じりの茶色い川の色が、徐々に変わっていくではないか。
それも、まるで血の色のように赤黒く、である。

「ああ…あああ…」

それを見た又之助は、とうとうその場にへたりこんでしまった。
もう駄目だ、あの女から逃れる術はない、最早ここまでだ。
又之助は限界だった、ついに気が触れてしまった。
そして、おもむろにその場から立ち上がると…
その身を、赤く染まった川に自ら投げ入れた。






























ざぁぁ…ざぁぁ…と、近くで川の流れる音が聞こえる。
ああ、そういえば私は川に身を投げたのだった。
と言うことは、ここはどこだろう…もう三途の川は越えただろうか。
それにしても、何故だろうか。全身を優しく包み込むような、とても心地が良い気分だ。
既に極楽に居るのか、それならどれだけ幸せな事だろうか。
そんな事を思いつつ、又之助はゆっくり両の目を開いた。
しかし、見えたのはいつもと同じの、代わり映えのしない森の風景だった。

「なんだ…死に損なったのか…」

ふと、そんな事を呟いた又之助であったが。

「そのようだな」

「!?」

どこからともなく、返事が返ってきたのだ。
それに驚き、又之助は体を起こそうとしたのだが、どうにも体が動かない。
何かすさまじい力で抑え込まれている、これは一体どういう事か。

「騒ぐな、まだ体が冷えておるだろう」

またしても声である。どうやら女の声だ。

「ど、どこから…!?」

「此処だ、此処」

ぬうっと、此方を覗き込んでくる顔があった。
女の顔だ、さっきから喋っているのはこの女なのか。
又之助も女の顔をじっと見つめている。
はて?と又之助は首をかしげる。目の前にあるのは確かに女の、そう女には違いない。
こんな田舎に生まれ住んでは居るが、又之助とて女人がどのようなものかはちゃんと知っている。
しかし目の前にいる女はどうだ。何故この女の肌は緑色なのだろうか。
何故、牛のような耳が生えているのか。
何故…牛のような巨大な角が頭から生えているのか。
何故……下半身が巨大な蜘蛛のような構造になっているのだろうか。

「暴れるな、死に掛けておったのだぞ」

流石にここまで来れば又之助も理解した、これは人間では無く魑魅魍魎の類である。
その化け物が、又之助を抱きかかえるようにして此方を覗き込んでいたのだった。

「は…離せ!離してくれェ!」

腕の中で又之助は必死にもがいた、それでも体はピクリとも動かない。
大きな爪の、毛で覆われた二つの腕が又之助を掴んで離さない。

「おい、落ち着け」

「お、お助け!命だけは…命だけは助けて…」

「ははは、さっきまで死にたがって居た奴がそこまで言えたら上出来だ」

そう言って、女はケラケラと笑った。

「あ…あんた、まさか…」

女の顔をよく見ると、何故か又之助は懐かしい気持ちになった。
懐かしいと感じるほど女と関わりを持った事のない又之助は気付いた。

「あの…剣士さんかい…?」

「他に誰が居る」

随分と、姿が変わった。それでも、おかしなことに又之助はそれが恐ろしいと思わなかった。































「ウシオニ?」

「確かにアレはそう言うた」

そしてその血を浴びた己も、その眷属に成り果ててしまったと言う。
そのウシオニに、又之助は命を救われたのだった。

「斬っても斬っても、すぐに傷が塞いで行く」

その時の戦いの様子を、剣士であったウシオニは語る。

「あれは恐ろしい、まさに化け物だ…今は私もだがな」

そう言ってウシオニは寂しそうに嗤う。又之助には掛ける言葉が見つからなかった。

「馬鹿だな、私は…いや大馬鹿者の大うつけだ。力の差にも気付かずに戦いを挑んだのだから」

「どうして…どうしてそこまで出来るんだ」

「うん?」

「たかだが弁当を分けたくらいで…アンタはっ…こんな姿になって…!」

又之助には理解出来なかった、特に親しい間柄と言うわけでもない、その日お互い初めて出会った。
たまたま、持ち合わせていた弁当を分け与えただけ、本当にただそれだけの事だ。

「何故お前が怒る?」

「何故って…そりゃあ…」

又之助には、彼女がこうなったのは己のせいだと言う負い目があった。
だからこそ、化け物になってまで自分を助けたウシオニの気持ちがわからなかった。

「お前は恩人だ、怨むはずがない」

「あれっぽっちで」

「そんな事はない、私にすればまさに地獄に仏、蜘蛛の糸のように有難い事だった」

ウシオニがゆっくりと語り始めた。
元々はそこそこ高貴な家の生まれであったらしいが、戦乱の世である。すぐに落ちぶれた。
剣の腕には少々覚えがあったので、今まで何とか生きて来れた、と。

「施しを受けたのは…初めてだったのだ」

「……」

「美味かったぞ、お前の弁当は」

そう言ってウシオニが優しく微笑む。

「本当に、本当に怨んでいないのか?」

「くどい」

又之助とて、ここまで人に感謝されたのは初めてであった。
どう答えていいのかわからず、ただただ呆然としているだけの己がもどかしい。
そんな事を考えていると、不意にウシオニの腕が離れた。
咄嗟の事で又之助はその場に尻餅をついて転んでしまった。

「どうした?」

ウシオニの様子がおかしかった、先ほどとは打って変わってなにやらわき腹を手で押さえて苦しんでいるではないか。

「その傷は!?」

わき腹からは、大量の血が流れ出ていた。それが川の水に混ざると瞬く間に川の色が赤く変わる。

「傷はすぐに治るんじゃなかったのか?」

「わからん…他の傷はすぐ治ったのだが…っ!この傷だけはまだ治らんのだ…」

ウシオニの更に息が荒くなる。

「今まで我慢してたのか…!」

何とか傷を治せないものか、又之助は必死に考える。

「い…医者を呼んで…」

「阿呆っ…化け物を治す医者がどこ…っに居る…」

落ち着けと、逆に諭されてしまう始末である。

「それにな…んっ…これは違う…」

「何が!?」

「傷が…っ治ってきているんだっ!」

「えっ?」

「あのウシオニが言っていた…」

どうやら、彼女はまだ完全にウシオニにはなりきっていなかったようだ。
しかし、それも時間の問題であり、何れは完全にウシオニとなる。
そうなれば、ただ己の欲望にまみれる凶暴な怪物になり果ててしまう。
そして、ただ只管に男を求めるようになると言う。

「せめて…っあれだけでも討ち取っておけばッ…」

ウシオニが苦虫を噛み潰したような顔する。

「ま、まさか…まだ化け物は…」

「すまんな…ウシオニがっ…増えてしまったようだ…」

まだ生きている。一気に地獄へと叩き落されたような気分であった。
そして更にもう一匹、化け物が誕生しようとしている。

「逃げろッ…今すぐ!」

「なんだ…?」

「お前を…襲いたくは無いッ…」

襲いたくは無い、とウシオニは言う。
しかし裏を返せばこれは、襲いたいと言うことではないか。

「ずっと見ていた…お前をッ…襲いたくてたまらないッ…でも!」

それだけは決して出来ない。
必死で今まで理性を保っていた、しかし、それももう限界らしい。

「あの家には戻るんじゃないぞ!…戻れば…私は…!」

必ず、お前を襲いに行くだろう。だから逃げろ。

「はは…っははは…!」

やはり、ここは地獄だ。
又之助は脱兎のごとく駆け出した。最早安堵できる場所などどこにもない。
叫び声をあげながら、村の方向へと駆けた。
決して後ろは振り返らずに、一心不乱にウシオニから逃げ出したのだった。



「そうだ…っ逃げろ…遠くへ逃げろ…」

その様子を、ウシオニはただ眺めているだけだった。

「逃げた方が…」

ウシオニの口元が大きく歪む。

「襲い甲斐がある…」

傷は、もう完全に塞がっていた。































又之助は逃げた、言われた通り家には戻らずに、村長の家までひたすら走った。
何度も転び、履物も脱げ、体中擦り傷だらけになりながらも、又之助は只管走った。
そうしてようやっと村長の家に転がり込むと、又之助は今まで見てきた事を包み隠さず、総て村長に話した。
ある女の剣士の話、化け物退治を依頼した事、そしてその女剣士が、今度は化け物となってしまった事を。
最初は気でも狂ったかと言うような表情で又之助の話を聞いていた村長であったが、「オニ」と言う言葉を聞いてその表情が一変した。

「そうか、ウシオニか」

「もう…何をどうすればいいのかわからんのです…」

又之助は心身ともに疲れ果てていた。最早どうしていいのかわからず、藁をも掴む思いで村長の所へと転がり込んだのだ。

「ちょっと待っとれ…」

そう言うと、村長は立ち上がり、家の隣の納屋へと入っていった。
しばらくして戻ってきた村長の手には、ある物が握られていた。

「こいつを使え」

そう言って、二本あるうちの一本を又之助に投げて寄越した。

「これは何ぞ…」

又之助は、それを手に取りまじまじと眺める。
柄の部分と、麻で出来た鞘のようなものに包み込まれている刃の部分。
これはきっと鋸だろう、又之助とて山に入り仕事をする事もある、見慣れた道具だ。

「しかしこれは…」

鋸くらいならば、又之助が住む家にもあった。今更こんなものが一本増えた程度で化け物に対抗出来るはずがない。

「ええか、もし今晩ウシオニが来たらこう言うんじゃ」

村長が言うには、この鋸の、三十二枚目の刃は鬼刃と言い、鬼をひき殺す事が出来ると言う。
ウシオニが来れば、その旨を伝えてやれと。そうすれば恐らく向こうも手を出せないだろうと。

「も、もし襲ってきたら…?」

「そん時はそん時じゃ」

「そ、そんな…」

もし脅しにも怯まずにウシオニが襲ってくれば、本当にその鋸を使いひき殺してやればいい。と村長は言った。
そんな事が出来るはずが無い。と又之助は必死に抗議した、しかし。

「逃げるな、又之助」

「無理だ…そんな事が出来るわけが無い!」

「元を正せば、これはお前さんとウシオニの問題だ、わしらは関係ねぇ」

これ以上は、何もしてやる義理も無いと言う事か、言われてみればその通りだ。
この一件の責任は又之助にあると言っても良い。
村長とて、唯一鬼に対抗出来るであろう鋸を一本貸し与えてくれたのだ。
むしろ感謝すべきだろうと、又之助は思った。
そして。

「…わかりました村長、私がやります。全部…私が何としてみせます」

ここに至って、又之助もついに決心を固めたようだ。

「なぁ、又之助や」

「はい」

「人と物の怪が交わる事は出来んのじゃ…仮に出来たとしても、必ず悲劇が訪れる」

「村長…?」

「相手と同じように、人では無い何かになって共に生きるか…それが出来んのであればだ…」

いっそお前さんの手で楽にしてやれ、と村長は最後にそう付け加えた。


















「共に生きるか…」

その夜、又之助はウシオニの忠告を聞かず、再び己の家に戻って来ていた。
片手には村長から借り受けた鋸が握られている。
今宵、全てを終わらせる、又之助はそう決心した。
しかし、又之助の脳裏には村長が最後に言った言葉が浮かび上がり消えることは無かった。
このままでは決心が鈍る、と気持ちを無理やり奮い立たせて只管待った。
もうすぐ丑の刻だろうか。待てども待てどもあのウシオニが現れる気配すらない。
ひょっとすると、もう諦めたのか。忠告を聞き入れたと思い、この辺りから立ち去ったのか。
それが事実だとすれば、どれだけ良かっただろうか。
人間追い詰められると、己に都合の良い様な事ばかり考えるものである、今の又之助はまさにそれだった。
しかし…

とん…とん…

「…ひぃっ!?」

突然、戸を叩く音が聞こえて又之助は縮み上がった。
そして、戸が一寸ばかり開かれると、暗闇から声のような物が聞こえてきた。

「来た…!」

「愚かな…」

女の顔半分が、戸の隙間から見えた。
見紛う事無きウシオニの、その顔であった。

「逃げろと言うたのに…」

静かに戸を開くと、ウシオニの巨体が家の中に侵入してきた。
又之助も、鋸を突き出してしてそれに応える。

「こ…これは鬼刃と言う物だ」

「鬼刃とな」

「これを使えば…いかにウシオニとて無事ではすまんぞ。ひき殺されたくなければ失せろ!」

震える声を必死で張り上げて、又之助は精一杯威嚇する。
これで逃げてくれ、早くここから立ち去ってくれ。と又之助は心の中で祈った。
しかし…

「面白い…ならばやってみるがいい」

「何!?」

「さあ、その鬼刃とやらで私を見事ひき殺して見せろ」

怯むどころか、逆にその身を近づけてきたのである。
これには又之助の方が怯んでしまった。

「やらんのなら、此方から行くぞ」

ウシオニが更に身を乗り出して近づいてくる。
後ろに下がる又之助だが、そうそう自由に動き回れる程広い家ではない。
こんな狭いボロ小屋でも、大切な家なのだ。しかし今回ばかりはその狭さを呪った。

「もう諦めるのか?」

ウシオニの巨大な腕が、又之助の肩を掴んだ。

「うわああああああああッ!?」

咄嗟に、又之助は振り翳していた鋸を力任せにウシオニに叩きつける。
鋸の刃が、ウシオニの首の根元に深々と突き刺さる。

「ぬぅッ!?」

先ほどまで恐ろしい笑みを浮かべていたウシオニの表情が曇った。

「楽に…楽にしてやる!」

そして又之助は、鋸を力一杯に引き抜いた。
がりがりと、柔らかいものに混じって何か硬いものを斬る感触が伝わってきた。
流石に鬼刃と言うだけの事はある。鋸を引き抜くと、ウシオニは傷口を押さえその場に蹲った。

「ぐッ…あがあああ!!」

ウシオニの呻き声が家の中に響く。
鬼刃の効果は絶大なようで、部屋中に血を撒き散らしながら、ウシオニは悶え苦しんでいる。

「もういい…もういいんだ…」

いかに相手が怪物、化け物の類であろうと、のた打ち回る姿を見るのは忍びない。
ウシオニの血を頭から浴びながら、又之助は再び鋸を大きく振り被った。

「これで終わり、全部終わる…」

柄を持つ両手に力を籠める。そしてそれを振り下ろそうとしたまさにその時だった。

「ふふふ…はは…はははははは!!」

「…!?」

ウシオニが、嗤った。
次の瞬間、又之助の視界が揺れる。
そして気付いた時には、又之助はウシオニに組み敷かれてしまっていた。





















「上手くやれたじゃろうか…」

夜になっても村長は眠らなかった。ああ言って突き放したものの、又之助の事が心配で仕方が無いのだ。
囲炉裏の火を消さぬように番をしながら、村長は静かに朝が来るのをまった。
ひょっとすると、又之助が逃げ込んでくるかもしれない、そんな時は匿ってやろうとも思っていた。
そんな事を考えながら、パチパチと爆ぜる炭を見つめていると、戸を叩く音が聞こえた。

「…又之助か!?」

もう丑刻も過ぎようとか言うこんな時間に来客があるとは思えない。
急いで戸を開け放った村長であったが、そこに居たのは又之助ではなかった。

「あんたぁ…一体どうした?」

家の前に立っていたのは、隣の村に住んでいるはずの鍛冶屋であった。

「悪いねぇ…こんな時間になっちまって…」

「ああ、そう言えば…前に頼んどったな」

歳を取ると記憶力も曖昧になってくる。
この鍛冶屋を呼んだのは、他の誰でもない二ヶ月前に村長自身が頼んだのだった。
何分多忙なので、今日まで暇が無かったと鍛冶屋は言う。
とにかく鍛冶屋を家に上げると、村長はさっそく用事を頼む事にした。
実を言うと昼間に又之助に貸し与えた鋸は二本あったのだが、そのうちの一本の刃が欠けていたのだ。
それも大事な三十二枚目の刃である。
納屋から再び鋸を取り出して、鍛冶屋にそれを渡す。

「どれ、ちょっと拝見させて貰うかね」

そう言って鍛冶屋は刃の部分を覆う麻を外し始めた。

「…」

例の化け物に対抗するためにも、刃を修理するのは急務であった。
しかし、鋸を眺めていた鍛冶屋が予想外の事を口にした。

「村長よぉ…あんたも相当耄碌したようじゃのう」

「なんじゃと…?」

「だってよう…この鋸よ…」

そう言って、鋸を掲げて見せる。

「どこも刃が欠けてねえぞ?」






















「はぁ…っはぁっ…!」

「無駄だ、逃げられんよ」

ウシオニは又之助を組み敷くと、嬉しそうに顔を近づけてそう言い放つ。
何とかこの状態から逃げられないものか、又之助は必死に足掻いた。
しかし、それさえウシオニの嗜虐心を更に煽るだけだった。

「いいぞいいぞ、もっと足掻け、叫べ、畏れろ!」

このまま足掻いても逆効果になってしまう。

「何で…何で鬼刃が効かない!?」

さっき鬼刃をひき抜いた首元の傷は既に塞がっていた。
骨まで断ち切っただろうに、もう痛みさえ感じないのだろう。

「ウシオニに中途半端な攻撃はいかんぞ…実に不味い」

「不味いとは…?」

恐る恐る、又之助はウシオニに尋ねる。

「お前を、もっと滅茶苦茶に蹂躙したくなってくるだろう」

ニタァ…とウシオニの口元が歪む。
理性などとうに消え失せ、ただ己の欲望のみを求める、生き物。
最初に出会った頃の面影はもう無かった。目の前に居るこれはただの怪物だ。

「では、頂くとするか…」

ウシオニが、その蜘蛛のような巨体を降ろして来た。
足掻けば逆効果とは言うが、無抵抗ではもっと危険では無かろうか。
既に又之助はまともに考えることすら出来なくなっていた。
頭がぼーっとする、体の奥から、燃える様に熱い何かが湧き上がってくる、そんな感覚。
ウシオニが、大きな爪で器用に又之助の着ている衣服を切り裂いた。

「ああ…!」

「ほう…これはこれは…」

晒された又之助の一物は、既にはち切れんばかりに膨張していた。
それを見たウシオニはクスリと笑みをこぼした。

「み…見るな…」

又之助は今にも舌を噛み切って死にたくなるような羞恥心に襲われた。
まだ己以外の誰にもその姿を晒したことなどなかった、それなのに…
よりにもよってこんな化け物が初めてだと、しかも笑われる始末である。

「まさか…好いた男がこのような状況でもいきり立つ変態だとは…」

「…クッ…」

恥ずかしさに耐えきれずに、又之助は顔を背けた。
しかしそんな事はお構いなしと言った具合に、ウシオニがゆっくりと腰を落としてきた。

「な…何をする気だ!?」

「食うんだ」

又之助は、未だに状況をきちんと認識出来ていなかった。
ウシオニが一体何をしようとしているのか、わからないが故に恐ろしかった。

「んっ…はぁっ…」

毛で覆われた、巨大な八本の足を持つ異形の姿。
その毛の奥からチラリと覗く、薄い石竹色のようなものが見えた。そこに又之助の一物を、馴染ませるように擦り付ける。
その微妙な刺激だけで、又之助は声を漏らしてしまう。

「行くぞ…」

「ひぃ…はぁっ…?」

ウシオニが、勢い良く腰を打ち下ろして来た。

「ぎゃッ!?」

先ほどの微妙な刺激とは打って変わって、とてつもない刺激が又之助の全身を駆け巡った。
そんな又之助に構う事無く、ウシオニは一心不乱に腰を打ち付け始める。

「ひぎぃぃぃぃ…」

歯を食いしばり、又之助は必死に耐えた。全てが初めての経験であったが、それでも必死に耐える。
だがそんな頑張りも虚しく、又之助は早々に一度目の絶頂を迎えた。
しかし、本当の地獄はここからであった。
ウシオニの腰の動きが、収まるどころか更に激しさを増すのである。
最初のうちこそ、初めて体験する快楽に身をよがらせていた又之助であったが、すぐにまた地獄へと叩き落された。

「と…止めて…止めてくれぇ!!」

又之助の懇願も虚しく、その様子を見たウシオニは嬉しそうな顔を見せると更に勢い良く腰を動かしてきた。
血走った目で、こちらを凝視しながら、たまに喘ぎ声に混じって小さく嬌声を上げる程度である。
又之助の意思など関係ない。一方的に弄られるだけだ。
交尾などではなく、捕食だ。さしずめ己は蜘蛛の巣に捕まった羽虫のごとく、抵抗しようが結果は変わらない。
既に又之助には、抗う力さえ残されていなかった。
か細い声で許しを請う以外、反応を示さなくなってきていた。



最早何度目かわからない絶頂を迎えた頃、又之助は自身の違和感に気付きつつあった。
幾度と無くウシオニの中に精を放っても、その一物は未だに萎える事は無く、むしろ最初の頃より心なしか大きくなったような。
そんな気さえしてきた。そして又之助は気付いてしまった。
ウシオニの血を浴びれば、女はウシオニへと変わってしまう。
では男ならどうか?又之助も、先ほど鬼刃でウシオニの血を頭から浴びてしまった。
同じように、人ならざる者へと変わりつつあるのだろうか。

「また…こうなるのか…」

思えば、今までの行動の総てが裏目に出ている気がする。
いい加減楽になってもいい頃ではないか、更に抗おうとしてもどうせ無駄になる。
仮にここから逃れられたとしても、人では無くなった自分はどこに行けばいい。
ならば、又之助の選ぶ道は一つしかない。
村長の言葉を、又之助は思い出す。

『相手と同じように、人では無い何かになって共に生きる』

結局それしかなかった。初めから、この末路は決まっていた気さえしてくる。
憑き物が取れたように、又之助が優しくウシオニに微笑んだ。
ウシオニもまた、それに応えるように、又之助に笑いかける。

二体の人ならざる者達の交わりは、夜通し続いたと言う。

















夜が明けて、村長が村人達を連れて又之助の家の前までやってきた。
その手には、もう一本の鬼刃が握られている。

「遅かったか…」

家の中には、又之助の姿は無かった。
その代わりに、家の中は血で染まり、異様な雰囲気を醸し出していたと言う。

「やはり…」

そんな中に足を踏み入れた村長は、床に転がってある鋸を見つけてそれを拾う。
刃の数を一枚一枚数えてみると、予想通り最後の三十二枚目の刃が、欠けていた。

「すまん…又之助…」

村長が修理に出すはずだった刃の欠けた鋸を、間違えて又之助に渡してしまった。
これでは、ウシオニは倒せない。

「食われたか…」

又之助のものらしい切り裂かれた衣服が発見されると、誰もが同じ事を思った。
もう又之助は化け物に食われてしまった、今更探そうと見つかるはずがない、と。

「村長!てえへんだ!」

「どうした?」

「小川が、小川が!」

近くの小川が、まるで血のように赤く染まっていた。
その様子を、村長や村人達は呆然とみつめていた。











それから、また村には平穏が戻った。
結局又之助は帰ってくる事が無かった。
しばらくすると、村に妙なうわさが流れた。
あの小川は、海にまで通じており、淵の水が濁れば、ウシオニがやってきて村を襲うと。
いつの頃からか、その小川はウシオニ淵と呼ばれるようになったそうな。



なあ、お前さん、知っているか?
この辺りは、他所よりウシオニの数が多いのだとか。
何故かって?それはわからねぇが、お前さんも山に入るときは気をつけな。
もし小川が濁っていればきっとウシオニが現れるだろう。
狙われたら決して逃げられねえ、他の妖怪の類とは違う、あれは本物の怪物だ。
せいぜい、用心するんだな。















めでたしめでたし。




11/05/28 15:56更新 / 白出汁

■作者メッセージ
この後、村長は鬼刃を片手に迫り来る無数のウシオニをちぎっては投げちぎっては投げ
ワイヤーアクションさながらの大立ち回りを演じてウシオニを殲滅
その元凶である第六天魔王を討ち果たすべく単身京の都へと向かう
白い鳩だって飛びます、何かスローで戦ったりもします
しかし多勢に無勢、圧倒的な物量差に流石の村長も追い詰められます
窮地に陥った村長を救うため全国から腕に覚えのある村長300人がかの悪名高き魔王軍10万と正面から戦います
うそですすいません

ウシオニさん、実は私の故郷、それも地元の伝承に出てくる妖怪さんです
何でかしりませんが、地元の地域に何個もウシオニさんの話があるんですよね
あるウシオニは凶暴で人を襲う、あるウシオニは人を助けるという珍しいお話
地元がウシオニ天国です、実家の裏の竹薮の中にもウシオニさんが居るかもしれません
今度探してみたいと思います。夢がありますね。

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まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33