読切小説
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Fallen From Flying Foundation -Teaser-
魔物が見えた。
両腕を翼にしたハーピィが見えた。
腰から下を魚にしたマーメイドが見えた。
背中に蝙蝠のような翼を広げ、扇情的な衣装に身を包んだサキュバスが見えた。
かろうじて人の形を保ちながらも溶け崩れつつある、透き通ったブルーの体のスライムが見えた。
皆笑っている。歪な、およそ善意や好意の感情が作り出すような笑顔ではなかったが。
そこまで認めたところで、俺は目をしっかりと見開いた。同時に、俺がいつの間にか眠っていたことに気が付いた。
微かに痛む頭を擦りながら身を起こすと、目の前には一枚のポスターが貼られていた。
まどろみの間に見た魔物娘が邪悪な笑みを浮かべながら、丘のように盛り上がる地図の上に立つ僧侶たちを取り囲み、いま正に飛びかからんとしているポスターだ。
僧侶の中には、まだ子供と言っていいほど幼い者も混ざっている。だが魔物娘たちは容赦なく子供も襲うのだろう。
そして僧侶たちの上方に、文字の描かれたリボンが踊っていた。
『われらの国が、人が狙われている!』
並ぶ文字は絵と相まって、魔物娘の危険性を煽ろうとしている様だった。
俺は顔を左右に向けるが、俺が倒れていたのは建物の間の、路地裏と言うにも細すぎる小道だった。おそらくほぼ人通りが無いのだろう。
こんな場所に貼られていても、誰も見やしないだろうに。いや、誰からも見られてないから今も貼られているのだろうか?
それよりここはどこだ?
俺の脳に、ようやくまともな思考が浮かび上がった。
とりあえず左右を見る。右手に見えるのは建物によって切り取られた細長い青空で、左側にはゴミ箱と薄暗い曲がり角があった。
左は行き止まりだ。右に進もう。
俺は石畳の上に立ち上がると、ポスターの前から離れて僅かに見える青空に向けて歩いて行った。
風が木を揺すり、葉を擦らせる音が聞こえる。
程なくして俺は建物の間を抜けた。心地の良い風が頬を撫でて行き、眩い日の光が降り注いだ。
薄暗い路地に慣れていた目が眩さに痛むが、じきに辺りの様子が見えてくる。
そこは、商店の並ぶ大通りだった。石畳敷きの道路に、一段上がった歩道。そして通りに面して何軒も商店が並んでいた。しかし、商店はいずれも閉店中らしく、通りにも人はいなかった。
完全に無人なのか?
困惑する俺の耳に、鐘の音が届く。結婚式の際に鳴らされるような、慌ただしい早鐘だ。強い風にあおられて鐘が鳴り響くことはあるが、これは風ぐらいで起こる音ではない。
誰かいるのだ。
鐘の音に誘われるように、俺は通りを進んでいく。色あせ、中途半端に破れた、『…ルを使…暮らしを便…』と文字の並ぶ張り紙の掲げられた店舗の前を過ぎる。
すると通りは広場のような場所に続いていた。
広場には木が植えてあり、その向こうに教会がある。教会の屋根から突きだした鐘楼で、鐘が日の光を反射しながら揺れているのが見えた。
教会に人がいるのだ。
無意識のうちに足が進みそうになったが、俺ははたと足を止めた。目に見えている教会が揺れたのだ。
そんなはずはない。俺の足はしっかりと地面を踏みしめており、振動一つ感じられない。だが、俺の目には教会の鐘楼がゆらゆらと揺れているように見えた。
一体なぜ?
疑問が胸中に起こるが、直後氷解した。広場に植えられた木の梢から、教会がその姿を全てあらわしたのだ。
鐘楼から屋根、入り口の上に設けられたステンドグラスの装飾。それどころか入り口までが木の向こうから浮かび上がってきたのだ。
教会が浮いている。
俺がその事実を麻痺した思考で受け入れている間にも教会の浮上は続き、基礎さえもが見えた。本来ならば地面に埋まっているべき部分には、いくらかの材木や金属、石材で補強された基礎と、パンパンに膨れた革袋が取り付けてあった。革袋は教会の基礎の前後左右四方向に取り付けられており、革袋の下では火が燃えていた。
そして、火の一つが大きく燃え上がり、革袋が大きく膨れ上がった。すると革袋が浮かび上がっていく。
だが、教会の下部に取り付けられた他の三つはもとの大きさのままだ。結果、教会はバランスを崩し、横転した。
鐘が鳴り響き、ステンドグラスが日の光を反射し、教会全体が真横に傾く。
パンパンに膨れていた革袋が燃え上がり、穴が空き、内側にとどめておいた熱い空気が抜けて縮む。
そして、鐘の音だけを残して、教会は広場に植えられた木々の向こうに消えて行った。
教会の浮上と横転と消失。俺は意識を硬直させたまま、誘われるように足を進めて広場の木々を迂回し、その向こうを覗いた。
木々の向こうには、何もなかった。
正確に言えば、手すりの向こうに地面が無かったのだ。
見えるのはただの青空ばかりで、少し下に革袋が覗いている。そして青空には、今しがた消えて行った教会と同じように建物がいくつも浮いていた。
俺の立っている地面が浮いており、いつさっきの教会のようにひっくり返るか分からない。想像を超えた現実に、俺はいまいち恐怖や危機感を覚えきれなかった。
「とりあえず…下に降りる方法を見つけないとな…」
ふわふわ浮いている地面より、しっかりと地に足がついた方がいい。
俺の意識がどうにか導き出したのは、そんな考えだった。
一面の青空に背を向けて広場をぐるりと見回すと、俺が入ってきたのとは別の通りが目に入った。
あっちに進んでみよう。
特に確証はなかったが、広場でぼんやりしているよりかはましなはず。
相変わらず休業中の店舗の間を進んでいく。
『聞きたまえ諸君!今、ここナムーフに危機が訪れている!』
声が俺の耳を打った。
『諸君!辺りを見給え!何がいる!?人と動物と、そして魔物だ!魔物がナムーフにはびこっている!』
どうやら辻説法のようだ。内容は過激ではあるが、ようやく感じられた人の気配に俺は建物の合間を急いで進んでいく。
『ここナムーフでは、人と魔物の共生を掲げている!しかし全くの欺瞞である!魔物どもはナムーフに雨垂れのごとく染み入り、浸透し、内側から我らの街を腐食せしめんとしているのだ!』
通りを抜けると、先ほどの物よりやや小さな広場に出た。
広場の中央には木造のステージが設けられ、青空を背にするように客席代わりのベンチが並んでいた。
しかしベンチにはあおむけに横たわる一人の男の他、誰もいなかった。
『諸君!魔物どもに目を光らせるのだ!諸君らの目を盗んで、魔物が何をしているのかを知るのだ!』
ステージ上の男は俺に目もくれず、拳を握りしめ唾を飛ばしながら、誰もいないベンチに向かって弁舌をふるっていた。
人恋しさのあまりここまで来てしまったが、正直関わり合いになりたくない。
広場を見回すと、ちょうどステージの向こう側に別の通りの入り口が見えた。幸い辻説法中の男も、こちらに背を向けている。こっそりと彼の背後を通り抜けてしまおう。
『魔物との共存など考えてはならない!人間と魔物の共生を目指さなければならないのである!』
俺は足音を可能な限り抑え込みながら、ゆっくりとステージの裏、男の背後を通り抜けようとした。しかし、俺の足が木板を踏んだ瞬間、みしりと音がした。
『誰だ!?』
妙に響きのよい声で、男が振り返る。
『貴様、浸食主義者だな!?見れば分かるぞ!』
「いや、俺は…」
『チャールズ!チャアアアアルズッ!この浸食主義者を始末しろ!』
俺の弁解を聞く代わりに、男はベンチの方に向けて声を上げた。
すると、ベンチに寝転がっていた男が、むくりと身体を起こした。敵意もあらわに唾を飛ばしていた辻説法の男とは裏腹に、チャールズと呼ばれた男には何の感情も宿っていなかった。
ただ、俺の方に向けて両手をかざした。それだけだった。
だが直後、俺の体は何かに突き飛ばされたかのように後方に吹き飛んだ。
「っ!?」
背中を建物に叩き付けられ、肺から息が搾り出される。俺は石畳の上に転げ落ち、咳き込んだ。
『チャールズ!その調子だ!チャールズ!』
辻説法の男が声を上げ、チャールズが倒れ込む俺に手を向ける。
もう一度あの衝撃が来る。俺は身体の痛みを堪えつつ、這うような姿勢から無様に転げた。
直後、俺の板場所を何かが叩き、石畳の間に転がっていた石材の破片が飛び散る。
衝撃の発射と、俺の移動が繰り返され、俺はどうにか建物の角に転げ込んだ。
「はぁ、はぁ…」
衝撃で詰まった呼吸を無理やり再開させ、俺は息を整えようとした。
『チャールズ!浸食主義者が隠れた!だが拙速に追うな!確実に追い詰めるんだ!』
どうやら、あの衝撃は建物を貫通するほどの威力や、建物を回り込むほどの機動力は無いらしい。
だが一体なんなんだあれは。魔法か?
「違うわねえ」
「!?」
俺の考えを読んだような言葉に、俺は身体を跳ねさせながら声の方に向き直った。
するとそこには、いつの間にか女が立っていた。ただし、髪の間から角を生やし、腰の辺りから翼を広げた銀髪の女だ。
「あら、びっくりさせてごめんなさいね。私はただのジル屋さんよ」
「じるや?」
片手にバスケットを提げた彼女の言葉に、俺は聞きしれぬ単語を繰り返した。
「あら、あなたジルを知らないの?」
予想もしていなかったのか、俺の反応に彼女は目を丸くする。
「『ジルを使って暮らしを便利に』って知らない?」
「…知らない」
「あらそー。だったらお姉さん、ジル初心者のあなたにサービスしちゃうわ」
彼女は手に下げたバスケットから、瓶を一本取り出した。瓶の口には、両腕を翼と化した女性の装飾が施されていた。
「はい、どうぞ」
差し出された瓶を俺は受け取り、ラベルに目を向けた。
「『ハーピィ』?」
「『羽を飛ばして、あの人に転倒イベントを!翼を広げれば、ナムーフの島から島へと移れます!』って効能よ」
『ハーピィ』というラベルの下部に、彼女の文言が並んでいた。
一体これはなんだろう。
「これはいったい…」
俺はラベルから視線を上げるが、そこに銀髪の女はいなかった。
ただ、俺の手の中の瓶だけが残っていた。
「あれ…?」
『チャールズ!早すぎる!もう少しゆっくり迫るのだチャールズ!』
辻説法の男の声に、俺は今何をしているのかを思い出した。
そうだ、チャールズから逃れないと。
しかし、すでに建物の影のすぐそこまで、チャールズの気配は迫っている。
いくらか呼吸は整えたが、ここから先は身を隠す場所の無い通りだ。またあの衝撃を受けたらと考えるとぞっとしない。
「仕方ない…試してみるか…」
俺は瓶の口を覆うハーピィの装飾を掴むと、栓を引き抜いた。
キュポンと小気味いい音とともに栓が外れ、数種類の香草の香りが溢れる。
俺は瓶の口に唇を付けると、中身を一気に煽った。
「…ごほっ…!?」
強い酒のように喉を焼く熱に、俺は咳き込む。そして、俺の心臓が一つ大きく鳴った。
同時に目が眩み、耳が轟々と鳴り響き、全身が熱を帯びる。
「か…は…!」
熱いにもかかわらず震えだした身体を抑え込もうと腕を上げると、俺の両腕は翼になっていた。
羽の生えそろった、人ひとり楽に運べそうなほど立派な翼だ。
直後、俺の目の眩みと熱、そして全身の震えが始まった時と同じぐらい唐突に収まった。後にはいつもと変わりのない、俺の腕だけが残った。
だが、俺には何となくわかっていた。今ので、何かが俺の中に入ったのだ。
チャールズをどうにかできるような、何かが。
「…」
俺は根拠のない謎の自信に突き動かされるように、建物の影から飛び出していた。
「っ!?」
意外とすぐ近くに立っていたチャールズが、少しだけ驚いたように目を見開く。その瞬間、隙が生まれた。俺はその一瞬を利用し、彼に向けて左手をかざした。
直後、俺の腕からチャールズに向けて、無数の羽が飛んで行った。
「うぉ!」
チャールズが初めて声を漏らし、纏わりつく無数の羽を払おうと身悶えした。だが羽は払えども払えども彼の体に纏わりつき、へばりついて行く。
「うぉ…お…おお…!?」
羽根から逃れようと、彼が退く。しかし羽は一層彼の顔や体にへばりついて行く。やがて、徐々に広場の縁へと退いて行く。そして、手すりに尻が当たって彼はバランスを崩した。
「あぁぁぁっ!?」
チャールズが声を上げながら手すりの向こうへと落ちて行った。
『チャールズ!?チャアアアアルズッ!?』
辻説法の男が声を上げ、広場の縁に駆け寄り手すりの外を覗き込んだ。
『…ふむ、ストリームに乗ったか…』
辻説法の男は打って変わって穏やかな口調になると、何かに納得したように頷いた。だが、そのまま怒りの矛を収めるわけでもなく、彼はきっと俺の方を睨み付けた。
『浸食主義者よ!我らは貴様などに敗れはしないぞ!』
そう辻説法の男は言うと、手すりに足を掛け、乗り越えた。
「あ…!」
突然の投身に俺は思わず声を上げ、広場の縁に駆け寄った。そして手すりを掴み、下方を覗く。
しかし、俺の目がとらえたのは落下していく男ではなく、両手を広げて空を舞う姿だった。
「飛んでる…?」
「ストリームよ。彼はストリームに乗ってるの」
聞き覚えのある横からの声に、俺は顔を向けた。
するとそこには、ついさっき突然姿を消した銀髪の女が、消えた時と同じくいつの間にか現れていた。
「ほら、よく見て。彼の通った後」
「…?」
彼女の言うまま目を凝らしてみると、彼の通った後に透明な何かが見える。
「あれがストリーム。ナムーフの島と島を繋ぐ風の通り道よ。しかるべきジルや道具を持っていれば、風の流れに乗って移動できるわ。さっきの二人はシルフを持ってたようね」
つまり、最初に落ちて行ったチャールズも、上手いことストリームとやらに乗れて無事と言うことだろうか。
「ほら、あなたもストリームに乗りなさい」
「いや、しかし逃げて行ったんだから追いかける必要は…」
「逃げた?彼は移動しただけよ。それに…」
『チャールズ!装填したか!?砲身を向けるのだチャアアアルズッ!』
銀髪の彼女の言葉を遮るように、辻説法の男の声が響いた。どこからだ?
俺は青空に浮かぶ島に顔を向け、声の源を探した。
「正面。少し下の方の島よ」
彼女の言葉に目を向けると、確かにその場所の島で小さな人影が二つ動いている。島の縁に置かれた何かを動かしているようだ。
『3!2!1!発射!』
その一声とともに、何かが一瞬光った。半秒ほど遅れて轟音が響き、俺の頭上を何かが通り過ぎる。
直後、建物が轟音と共に炎を吹上げ、壁に大穴があいた。大砲だ。大砲を撃ってきたのだ。
『チャールズ!もう少し下だ!チャアアアルズッ!』
「狙ってるわね」
自身も狙われているというのに、女は気軽にそう言った。
「ど、どうすりゃ…」
「ストリームよ。さっきのハーピィのジルならストリームに乗れるわ」
『チャールズ!装填だ、装填するんだ!チャアアアアルズッ!』
辻説法の男は、既に二発目の準備を命じていた。
俺は手すりから身を乗り出して下を見る。すると下方に透明な風の流れが見えた。あれに乗ることができれば…。
『3!』
カウントが始まった。
『2!』
次こそこの場所を狙ってくるはず。
『1!』
俺は覚悟を決めると、手すりに足を掛けた。
『発射!』
力を込めた直後、俺の全身を浮遊感が襲う。落下が全身の寒気を呼び起こし、俺の脳の一角が後悔を覚えた。
しかし数秒にも満たない浮遊感を挟んで、俺の体が何かに受け止められた。風のクッションだ。ストリームに入ったんだ。
「おっ、おぉぉっ!?おっ!?」
両腕を広げ、必死にバランスを取ろうともがく間に俺の頭上を砲弾が通り過ぎ、つい先ほどまでいた島に直撃する。
石材が飛び散り、爆風が広がる。だが、俺はすでにストリームに乗って被害の及ばぬ場所へと移動していた。
風が轟々と頬を撫で、広げた両腕が翼のように空気を切る。
目に見えない風の流れの中を俺は突き進み、辻説法の男達がいる島へと達した。
「っはぁっ!」
不意に風の勢いが弱まり、俺は石畳の上に投げ出された。
『チャールズ!こっちだ!砲身をこっちに向けるんだチャアアアアルズッ!』
辻説法の男が声を上げ、下手すればちょっとした家ほどはありそうな砲台がゴリゴリと音を立てながら旋回する。
島を破壊してしまうかも、などと言う躊躇いが感じられない。
俺は転げるようにその場に立ち上がりつつ、石畳の上を駆けだした。
建物と建物の間に飛び込み、細い路地を突き進む。
すると門戸を閉ざす家や商店の合間に、一軒だけ開いている酒場があった。辻説法の男が追ってくる気配はないが、ここで人ごみに紛れよう。俺は酒場に飛び込んだ。
酒場には数人の人影があり、皆テーブルを囲んだりカウンターに向かったりしている。
「はぁはぁ…」
呼吸を強引に整えながら、俺はごく自然を装いつつカウンターの席に着いた。
「いらっしゃい」
「あぁ飲み物は何か…」
注文しようとしたところで、俺はカウンターの向こうに立つ人物に気が付いた。
銀髪の女だ。角や翼こそないが、その顔に見覚えがあった。
俺にジルを与え、ストリームの存在を教えた彼女だった。俺の方が先にさっきの場所を飛び下り、まっすぐにここを目指したはずなのに。
「あら?私に何か?」
「い、いや、すまない…知り合いに似ていて…」
俺は思わず凝視してしまったことを謝罪し、そう言い訳した。
「いいのよ。ところでストリームからの着地は上手くいったかしら?」
俺のストリーム使用を知っている。つまり、角こそないが彼女はさっきの女と同一人物なのだ。
「何で俺の行く先に…」
「あなたが私のいる場所に来てるのよ」
グラスを出しながら、彼女はそう言う。
「そんなことが…」
「冗談よ」
女は微笑んだ。
「それより、あなたはどうしたいの?ここから出て行きたい?ナムーフに留まりたい?ナムーフを破壊したい?」
「俺は…」
彼女の問いかけに応じようとして、俺は返答に詰まった。
俺は、何をしたいのだ。そもそもなぜこんなナムーフなどと言う見知らぬ都市に?
改めて疑問が芽生える。
「特に目的が無いのなら、この街から男の子を一人連れて降りて欲しいのよ」
女は俺に向けてそう言った。
「男の子?」
「そう。ちょっぴりかわいそうな男の子。彼を助けて一緒に脱出してね」
「でも、こんな高所からどうやって…」
「方法は後で私が用意してあげるわ。今は、男の子を見つけて連れ出すことを考えて」
彼女は一度言葉を切ると、カウンターの向こうに一度屈んでから、再び立ち上がった。
「はい。これは脱出までの前金代わりだと思って」
そう言って彼女が差し出したのは、酒瓶のような何かだった。
瓶の首を覆うのは、翼を広げる魔物娘の装飾だった。一見すると『ハーピィ』と同じ形をしているが、髪形がやや尖り気味であるなどいくつか相違があった。何より最大の違いは、ラベルに『サンダーバード』と記されている点だろう。
「『サンダーバード』?」
「あの子ならそれの力を最大に引き出せるだろうから、協力してもらってね」
俺はラベルに目を落とし、説明文に目を走らせた。
『指先から迸る稲妻で、あの人を痺れさせちゃいましょう!お風呂で使えば二人一緒にビリビリ!』
「いったいどういう…」
少年に協力してもらうとは何のことなのか。問い質そうと顔を上げるが、当たり前のように銀髪の女は姿を消していた。
「……」
さて、どうしたものか。俺は無言で溜息をついた。
「おい…あそこ、カウンターのアイツ…」
背後からざわざわと声が響く
「アイツ、ジル持ってねえか?」
「ジルだ。おい、ジル持ってやがるぞ…!」
徐々に酒場に動揺と声が広がる。振り返ると、酒場にいた客のほぼすべてが俺の方を見ており、席から立ち上がっている者もいた。
一体何が気になるのだろう。俺は戸惑った。
「ジルを使うつもりか?」
「アイツ、浸食主義者だぞ!」
「ジルを使わせるな!」
「やっつけろ!」
客たちの興奮は自動的に煽られていき、ついに俺に向かってくるという形で爆発した。
「ちょ、ちょっと待て…!俺はそのナントカ主義者じゃ」
「ジルを奪い取れ!」
「叩きのめすんだ!」
弁解の余地もなく、男たちが駆け寄ってきた。
もう踵を返して逃げる暇も無い。俺は恐怖に胸を塗りつぶされながら左手を反射的に突き出した。無数の鳥の羽が、押しかける男たちに襲い掛かる。
「うわああああっ!」
「こいつ、ジルをもってやがる!」
「もう駄目だ!叩きのめして街から放り出せ!」
羽根を浴びる男たちの後ろで、被害を受けなかった者が言葉を交わす。そしてそれぞれ手近にあった酒瓶や棒を手に、身悶えする男たちを押しのけて飛び出してきた。
もう一発。足止めのために羽を放ち、俺はカウンターを離れる。そして男たちの間を通り抜け、店の外を目指した。
「に、逃げ…うああ!」
「くそ…逃がすな…!」
皆、俺の移動に気が付いているようだが、纏わりつく羽根のせいで満足に身動きが取れない。
このまま少し距離を置いて、どこかに身を隠そうか?それとも、新しいジルを試してみるか?
店を出て走りながら、俺は手渡された『サンダーバード』のジルに視線を落とし、翼を広げたサンダーバードの装飾に手を駆けた。力を込めて栓を引き抜き、青みがかった液体を一気に飲む。
「ごほっ!?」
『ハーピィ』のジルの時と同じく、強烈な熱が喉を滑り降り、全身の血流が加速した。
目の前が暗くなり、足がもつれる。そして手のひらに痛みが生じた。
目を手に向けると、皮膚が今まさに内側から裂けた所だった。しかし傷口から溢れるのは血液ではなく、青白い稲光だった。
バチバチと音を立てながら皮膚の上を稲光が蛇行し、突然裂けたのと同じように傷口が閉じた。
喉の熱も、眩暈も、足の縺れさえもが不意に消え去る。
しかし俺の内側に、確かに『サンダーバード』のジルが息づいているのが分かった。
「はぁ、はぁ…!」
「いたぞ!すぐそこだ!」
背後からの声に顔を向けると、衣服に鳥の羽を突き刺した男たちが俺を指さしていた。
やはり『ハーピィ』ではかく乱程度の事しかできなかったらしい。
一度邪魔されたことで頭に来ているのか、皆表情に怒りを滲ませている。
早速『サンダーバード』を試すチャンスだ。俺は左手をかざし、ジルを放った。
瞬間、俺の指先の皮膚が浅く裂けて、雷が迸った。雷はほぼ直線に進み、戦闘の男に命中する。
「へぐぁ!?」
彼はそう喉に詰まるような声で叫ぶと、その場に転倒した。すると彼の体に足を引っかけ、後続の男たちも巻き込まれて転倒していく。
俺は男たちの悲鳴を背に浴びながら、まっすぐに通りを駆けだした。
このままいけば逃げ切れるかもしれない。そんな考えが胸に浮かぶが、続いて響いた声がその希望を打ち砕いた。
『諸君!浸食主義者だ!浸食主義者がナムーフに紛れ込んだのだ!』
辻説法の男の声が、朗々と建物の合間に響き渡る。
『皆外に出るのだ!武器を取るのだ!浸食主義者と魔物から、我らの街を守るのだ!』
遅れて通りに面する建物の窓が開き、人々が顔を覗かせた。
「いたぞ!」
「あいつだ!」
「浸食主義者よ!ナムーフを魔物で溢れさせるつもりよ!」
男に女、若者から老人までが俺を指さし、口々に声を上げる。
最低でもこの島の住民が敵に回ったわけだ。もはや逃げ場所など無いのか?
建物や路地から飛び出してくる住民に向け、俺は『サンダーバード』のジルを放つ。
稲光が住民に絡み付き、その動きを止めるが、一人止めたところで新たな三人が飛び出してくる。
ストリームで別の島に逃れようにも、今いるのは島の中心部。
自身が詰みに追い込まれていくのを、俺は感じ取っていた。
そして、ついに並ぶ建物の一つから俺の目の前に人影が飛び出した。
「わっ!?」
ぶつかりそうになり、慌てて身をかわす。すると相手はバランスを崩し、石畳の上に倒れ込んだ。
相手は子供だった。十代前半ほどの少年だ。
『男の子を連れて降りて欲しいのよ』
銀髪の女の言葉が、不意に脳裏に浮かぶ。だが、連れ出してほしいという少年がこんなところにいるはずがない。
彼はただの少年だ。
そう思って駆けぬけようとしたところで、彼は俺の衣服の裾を掴んだ。
「ま、待って!『サンダーバード』と『ハーピィ』持ってる人!?」
「なっ!?」
その二つを持っているのは事実だが、なぜ彼が知っているのか。
酒場で使ったジルの話が、ここまで広まっているのか?
しかし少年の口から紡がれたのは、俺の予想に反したものだった。
「お願い!僕を下に連れて行って!僕も手伝うから!」
銀髪の女が言っていた男の子とは、少年の事だったようだ。
「待て!」
「おい、子供だ!」
「浸食主義者め!子供を人質にしやがって!」
追いついてきた連中が、俺と子供の姿に声を上げた。
「っ!『サンダーバード』!『サンダーバード』の準備を!」
「ああ、でもあれは一度に一人…」
「僕が下準備するから!」
少年はそう言うと、迫る群衆に向き直って両手を掲げた。
すると、雲一つない青空ににわかに灰色の雲が生じ始めた。正確に言うと、青空に蜘蛛が発生したのではない。群衆の頭上、周囲の建物よりも低い位置に雲が現れたのだ。
濃灰色の雲の中で稲光が明滅し、群衆に向けて雨が降り始める。
「なんだ!?」
「雨だ!構うな!」
「浸食主義者を叩きのめせ!」
一瞬連中は驚いたようだったが、足止めにはならなかった。
「…できた!」
少年が俺に向かって声を上げる。
「雲にジルを!」
雲、雨、群衆。ずぶ濡れの群衆に、『サンダーバード』を放つ。
俺の脳裏で、一瞬のうちにすべてがつながった。
「はっ!」
迷う間もなく、俺の指先から雲に向けて稲光が走る。
すると雲の内側で明滅していた光が一瞬のうちに膨れ上がり、落雷となって降り注いだ。
その下にいるのはずぶ濡れの群衆だった。
人々の間を青白い稲光が駆け抜け、全員が一様に背筋を反らして身を痙攣させ、バタバタと倒れ込んでいった。
やがて、ジルのもたらした落雷が収まったところで、雨雲も最初からなかったかのように掻き消えた。
「ふう…」
「おい、一体なんなんだ!?」
一息つく少年の肩を掴み、俺は問いかけた。
「い、今の雨雲は僕が作って…」
「それだけじゃない!何で雲を作れるのかとか、何で俺が追い回されるのとか…それに、ジルとかこの街とか、一体なんなんだ!?」
追いかけてくる群衆を片付けたことで一気に噴出してきた疑問を、俺は逃走時の興奮そのままに少年に叩き付けていた。
「あ、あぁ…」
「…すまない。少し興奮してた」
俺は少年の目に浮かんでいた怯えに気が付き、意識して語調を弱めた。
「ただ、一つだけ教えて欲しい…この街はなんなんだ?」
「ナムーフは…」
少年が俺の問いに応えようとしたところで、不意に音が響いた。
低く鳴り響く、巨大な管楽器の立てるような音。
「っ!?」
少年が返答を断ち切り、何かに怯えるように空を仰いだ。瞬間、建物と建物の合間から覗く青空を、何か巨大な影が通り過ぎて行った。
「大丈夫だ。ほらこっちへ」
何が通り過ぎたのか、気になるところではあったが俺は少年を抱き寄せ、身を隠すように壁際に寄った。
『浸食主義者よ!』
建物に反響した、辻説法の男の声が辺りに響いた。
『貴様がどこに隠れようとも無駄だ!ナムーフの街が、貴様を見つけ出す!この街を魔物の毒が浸すよりも先にだ!無様に逃げ回るがいい!』
そう言い残して、辻説法の男の声が途切れた。
「今のは…」
「共生主義者の…その前に、放してください、お姉さん…!」
「お、悪い悪い」
居心地悪そうに身をくねらせる少年を、俺は腕の中から解放した。
いつの間にか抱きしめる形になっていたせいか、俺の胸に顔を埋めて息苦しかったらく、彼の顔はいくらか赤かった。
「それで、この街やジルについて聞きたいところだが…後にしよう」
この辺りの連中は一掃したが、造園がやってくるかもしれない。その前にこの島、最低でもこの区画から離れておきたい。
「とりあえず、移動しよう」
「はい」
俺の提案に少年は頷く。
「そう言えば、自己紹介がまだだったな。俺はジェイン・ファウンド」
足早に通りを進みながら、俺は名乗った。
「女だけど俺って言うのは…まあ癖だと思ってくれ。よろしく」
「はい、よろしくお願いします」
少年は丁寧にそう返した。
「で、お前は?」
「ああ、僕の名前は…」

To be continued for " "
13/05/19 23:10更新 / 十二屋月蝕

■作者メッセージ
ナムーフ:
空中都市。熱せられた空気が上昇する原理を利用し、無数の浮遊基礎の上に築かれた街。
街の支配者は「魔物との共生」を掲げる。だがその一方で住民の半数ほどは街に魔物が増えることをよしとしていない。

ストリーム:
無数の浮遊基礎から成るナムーフを一つの都市として結びつける風の流れ。
丈夫なマントを羽織るなどして風の中に飛び込めば、ストリームに沿って別の島への移動が可能である。
なお、物流用の大型のストリームも存在するらしい。

浸食主義:
ナムーフにおける考え方の一つ。魔物の数を必要以上に増やし、人間社会に浸透させようというもの。
ナムーフにおける魔物との共生と、地上で広く行われている魔物との共存は別の物らしく、後者は浸食主義として忌み嫌われている。
なお、直接的に主張をせずともその仲間と取られるような行動をするだけでも、ナムーフでは敵意の的になりかねない。

ジル:
経口摂取することで様々な能力を獲得することができる液体。
その多くが魔物に由来する能力のため、魔物の種族名を冠している。
例としては、
・無数の羽を相手に吹きつけたり、翼を展開させることができる『ハーピィ』
・指先から稲妻を生み出す『サンダーバード』
・声の響きを大きくしたり、衝撃波のような突風を生じさせる『シルフ』
・冷気を生じさせ相手を凍らせたり動きを鈍くする『ゆきおんな』
・相手の身も心も情欲の炎で焦がす『イグニス』
などがある。
製造法は企業秘密のため不明だが、魔物が関わっていることは確実である。
なお、ジルと言う名前の由来は魔物娘汁から来ている。

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まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33