酸欠と花の香り
王族という存在は、俺のような一般庶民にはあまりにも遠い存在である。
実際にお目にかかった事は無く、俺の持つ彼らへの印象というのは所詮語られた寓話によって織り綴られたものでしかない。
例えば、荘厳華美な王宮の、一番大きな椅子に座り、臣下を跪かせる王であったり、色とりどりの宝石で身を飾った王女であったり。
実際にそんな王族が世に存在するのかも分からないが、王族たるお方達ならば、それなりの生活をしていてもらわなければ困る。
そう、王族たるもの、間違っても
「わあ…ここがローディ君のお家ですか…!」
こんな風に貧乏役人の狭い住処で目を輝かせながらはしゃいでいてもらっては困るのだ。
「あの、ターニアさん?やはり、間違っても女王様が寝泊まりするような場所ではないでしょう?
ですから、国の力で専用の居住地を決めてもらってですね…」
あの、あまりにも衝撃的な会議から早一か月。
いよいよターニアさんの移住が目前に迫り、直接ご本人が国へと訪れた。
無論、あくまでも妖精国の使者としての扱いである。
彼女が妖精国の女王である事は極秘中の極秘。
「あ、そんな事言っては駄目ですよローディ君!自分のお家は大事にしないといけません。
それに、素敵なお家じゃありませんか。」
そういって彼女が見渡すのは、古びた貸家である。
外観を見る時も、居間に迎えた時も、こうして椅子に座ってもらってからも、彼女ははしゃぎっぱなしである。
見てくれは比較的真っ当だがあちこちガタがきており、夏は暑く、冬は隙間風が身に染みるという典型的な庶民の住宅だ。
まだ若輩の役人には妥当な家であるとも言える。
実際、彼女が妖精の国でどんな暮らしをしていたかは分からないが、どう考えてもこの家は王族の暮らすような家ではない。
「ふふっ、本で読んだ通りの人間さんのお家です。
木の香りと…あ、少しローディ君の匂いもしますね。」
突然の発言に、思わず身じろぐ。
そんなに臭うだろうか。
こっそりと、自分の首筋の匂いを嗅いでしまう。
「あ、いえいえ、嫌な臭いじゃありませんよ。
なんだか、ほっとする匂いですから。素敵です。」
そう言って微笑む様は気品に満ちており、先ほどのはしゃいでいた様子とのギャップにクラクラとする。
少女のような表情も、落ち着いた大人の表情もやけに似合うのは一体何故なのだ。
「妖精の国はお花の香りで一杯ですから、こんな風に木の香りがするお家は珍しいんです。
この落ち着く香り、私は好きですよ。」
正直に言えば、俺としてはターニアさんから漂う花のような甘い香りが気になって仕方がない。
彼女の長い髪が揺れる度に辺りに芳香が広がり、妙に緊張してしまう。
「気に入って頂けたなら幸いです。それで、今後の予定なのですが…」
話を進めようと書類を取り出し、ターニアさんの顔を見やると、不服そうに頬を膨らましている。
さっきの気品はどこに行ってしまったのだ。
「ねえ、ローディ君?」
「は、はい?」
小さな机越しに話していたターニアさんが、ずいと身を乗り出す。
必然的に、彼女の端整極まる顔が近くに寄ってきて、思わず息を呑む。
花の香りも強くなって、頭が痺れるような感覚に陥る。
…しかし、妙に嫌な予感がするのはきっと気のせいではない。
「私は、ローディ君のお家に居候するんですよね?」
「え?ええ、その予定ですが…」
「むぅ、だったら、なんでそんなに畏まった言葉使いなんです?」
「…はい?いや、しかし、女王様にそんな…」
決して、間違った事は言っていないはずだ。
俺以外の人間だって、まともな常識があれば同じ対応をするだろう。
なんといっても相手は王族である。
「ローディ君。私は妖精さんの女王です。人間さん達の女王様ではありません。
ローディ君にとって私は、妖精の国から来た居候ですよ?」
「それはそうですが……」
「居候にそんな風に畏まらなくたっていいんです!
これから、長く一緒に生活するんですよ?
そんな風にしてたら息が詰まっちゃうじゃありませんか。
ね、ローディ君、お願いします。」
言うなり、ターニアさんは俺の手を取り両手で軽く握る。
こちらを見つめる瞳の深さに吸い込まれそうな錯覚。
手に感じる柔らかさが、俺の思考を揺らす。
「いや、ちょっと、ターニアさん…!?」
「いいよって言ってくれるまで諦めません!」
彼女の両手がギュッと握られ、更に顔が近くに寄ってくる。
なんだこれは!
どうすればいいのだ!?
「ちょっと、ち、近いですよターニアさん!?」
「ローディ君、お願いします。」
「わ、分かりました!分かりましたから!」
「口調が変わってないじゃないですか!?
『いいよ、よろしくねターニア』です!
はい!どうぞ!」
いつのまにか、更にハードルが上がっている!
ターニアさんとの距離を意識する度、凄まじい勢いで胸が脈打つ。
目の前の彼女に伝わってしまわないか心配なほどである。
「うわわ…!分かりました!じゃなかった、分かった!」
「あっ!惜しいです!
『いいよ、よろしくねターニア』ですよ。」
「ぐ、うぅ…!いいよ、よろしくねターニアさん…!」
ついに、折れてしまった。
「ターニア」ではなく「ターニアさん」なのが最後の砦である。
此処だけは死守せねばならぬという妙な意地。
「わぁ!嬉しい!さすがローディ君!」
不服そうだった彼女の顔が一転喜色に染まる。
異様に近かった顔の距離も離れ、ようやくホッと息を吐く。
何とか、難局を乗り切った。
と思ったのも束の間、更なる困難が俺を襲う事になる。
喜びが抑えきれなくなったのか、あろう事かターニアさんが俺の頭を引き寄せて抱きしめたのである。
机を挟んでいたので、自然と俺の頭はターニアさんの大胆に開いた胸元へと飛び込む。
「ふふっ、ローディ君、ありがとう…!」
顔面を包む柔らかな感触。
顔が見事に埋まりきって、満足に呼吸も出来ない。
酸素を求めて息を吸うと花の香りが頭に染み込んでくる。
しっとりとした肌の質感が頬で感じられる。
まるで吸い付いてくるようなキメの細かい質感。
ここが天国か。
脳の処理能力を容易く超える強烈な刺激。
まるで、子をあやす母のように、俺の後頭部をターニアさんの手が撫でる。
顔に血が集まる。
今すぐ身を離すべきなのに、全身の筋肉が緊張して言う事を聞かない。
身体が、離れるのを拒んでいるかのようだ。
「ふふっ…また仲良しになれましたねぇ。
妖精さんよりも大きいから、だっこするのも新鮮です。」
なにやらやけに感慨深げに呟くターニアさんだが、こちらとしてはそれどころではない。
これはマズイ。
あまりにも心地良過ぎる。
うっかりすると意識を手放しそうなほどの興奮。
いや、多分、単純に酸素不足なのだろうが、そんな事は大した問題ではない。
なんとか、自由の効く両手を振って、必死で訴えた。
「ん?どうしました、ローディ君?
そんなにじたばたして、私のだっこが嬉しいんですか?
もうっ!可愛いなぁっ!」
ターニアさんが感極まったように叫ぶと更に強く頭を抱え込まれる。
気持ちいい
柔らかい
いい匂い
やわらかい
いいにおい
「よしよし…♥
良い子ですね…♥」
その言葉を聞いた瞬間。
意識が甘く溶け落ちた。
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「…すみません、ローディ君。
何というか、感極まってしまってですね…」
数分後、シュンと縮こまって謝罪をするターニアさん。
未だに熱っぽい頬を掻き、思わず目を逸らした。
「い、いえ、大丈夫です…大丈夫…。」
頭の奥が痺れるような感覚はまだ残っており、奇妙な浮遊感に苛まれつつ何とか言葉を返す。
どうしよもなく照れくさく、ターニアさんの顔が直視できない。
目が合えば最後、あの感触と香りが想起されてマトモな思考が出来なくなりそうだ。
なんとか話を戻すため、大げさに咳ばらいをして、頭を切り替える。
「ええと、話を戻しますが…じゃなかった、戻すけど、今後の予定を確認しま、するね。」
どうしても敬語に引っ張られながら、おどおどと話す。
情けないが、仕方がない。
碌に頭も回らないのだ。
「この家には一人分の家具しかないから、ターニアさん用の家具は用意する必要がありま、あるんだ。
そちらで用意するという話を聞いたんだけど…。」
「あ、はい、それについては、リっちゃんが工面してくれるって言ってました!」
そう言いながら、ターニアさんは手紙を取り出す。
やけに派手な色合いの手紙に、思わず身が強張る。
このタイミングで取り出された手紙という事は、差出人はおそらく…
「はい、リっちゃんからローディ君へお手紙です。
…なんだか、ちょっとお二人が文通というのはモヤモヤしますけど!」
頬を少し膨らましたターニアさんが気になるが、苦笑いを返して手紙を開く。
『ハロー、ローディさん。お久しぶりね。
ターニアとの逢瀬、楽しんでいるかしら?もうおっぱい位は触った?
あの娘ったら、最近はずぅっとローディさんのお話してるのよ。
もう、聞いてる身にもなって欲しいわホントに。こちとら独り身なのにね。
という訳で、ちょっとした仕返しとして、今回のお手紙はラブレター仕様よ。
きっと目の前のターニアが頬を膨らましてるでしょう?
リリムからラブレターなんてそうそう受け取れないんだから。自慢してもいいわよ♥』
そうそう、本題だけど、ターニアの生活用品はこちらで用意するわ。
そこまでローディさんに負担させてしまう訳にはいかないもの。
移住が近くなったらそちらまでお届けするわ。
追伸
ベッドはダブルを用意しておくわね♥』
…どうやら、リリム様はどうしても俺の胃袋に穴を開けてしまいたいらしい。
この手紙によれば、どうやら生活に必要な物資は向こうが用意してくれるらしい。
ティターニアの生活に必要な用品は我々には分からないので非常に助かる。
ふと、ターニアさんを見やると、更に頬が膨らんでおり、恨みがましい視線が俺を貫いた。
本人は精一杯怒りを表現しているのだろうが、正直、可愛らしい印象しか受けない。
「むぅ…ローディ君、楽しそうですねー?」
「いや、そんな事は…」
「つーん…!」
頬をふくらませて顔をそむけるターニアさん。
話せば話すほど、彼女が一国の女王だという事が信じられなってしまう。
どう声をかけたものか悩んでいると、ふいに不安そうにしてターニアさんが俯いた。
「…その、ローディ君?
やっぱり、人間さんで好きな女の子とかいるんでしょうか…?」
「え…?」
「ちょっと前まではこの国には魔物さん達は居なかったんでしょう?
だったら、ローディ君も、好きな女の子が居て、私は邪魔をしているんじゃないかなーって…。」
伏した目は少し潤み、怖々とした様子で俺を見やる。
表情のコロコロ変わる人だが、こんな顔は初めて見た。
「突然押しかけて、迷惑をかけていない訳がない事は分かっているんです。
それでも、いろんな理由があってローディ君が許可を出してくれた事も分かっています。
だけど、その、ローディ君の個人的なお付き合いにまで迷惑をおかけするのは…」
それだけ言って、彼女は黙ってしまった。
良くも悪くも破天荒な女王様だと思っていたが、どうやら誤解であったらしい。
目の前で小さくなったターニアさんは、普通の女性にしか見えないのだ。
まあ、普通の女性と呼ぶにはあまりにも美しすぎるのだが。
「あー…えっと、そんなにお気を使わなくても良いんですよ。」
「え…?」
「自慢じゃありませんが、そういう関係の女性は居ませんし…
恥ずかしい事に個人的な付き合いなんてほとんどないも同然なんです。」
我ながら情けない話ではあるが、この年まで女性には縁がなかった。
そもそも、女性と仲睦まじい関係である事に大したあこがれも無かったのだ。
同僚からは男を捨てているなどと言われていたが、事実否定できなかった程。
美人だと認識する事はあっても、それ以上の感情を抱く事は無かった。
だからこそ、ターニアさんとの初対面での感情は、まさに異例の事だった。
言葉に詰まる程の感動を、一目見ただけの女性に感じるなど、それこそあり得ない事。
白い肌、整った顔立ち、細長い手足、女性らしいスタイル。
言葉で言うのは簡単だが、あの時抱いた感情は、言葉ではとても言い表せそうにないのだ。
沢山の魔物娘を写真越しに見てきたが、あんな感情に襲われることはなかった。
リリム様を見てすら、あれ程の感動はなかった事を鑑みれば、決してモテない男の強がりという訳ではないと思いたい。
流石に本人にこれを伝える度胸はないが。
「正直、ターニアさんの移住の準備は大変ですが…
こうなったら、しっかりとやり遂げますよ。
ターニアさんは安心して、移住をしていただければいいんです。
それが、俺にとっても一番うれしいですから。」
「ローディ君…」
「えーっと、すみません。
不慣れなものでして、こういう時にどうお言葉を掛ければいいのか…
そうだ、こうしましょう。
一緒に勉強しましょう。」
「勉強、ですか…?」
「はい。俺は、女性との関わりあいが絶望的に不慣れです。
なので、ターニアさんとの生活でそれを勉強します。
ターニアさんも、お好きな事を勉強します。
これで、お互いにお得です。」
早口に捲し立てる。
何故こんなにも必死になっているのかも分からない。
とはいえ、なんとなく、彼女がこのままの表情で居るのは嫌な気がした。
「…これで、どうでしょう。
その、ターニアさんがあまり落ち込んでいられるのは、少し、嫌と言いますか…。」
「…ローディ君、本当に優しいです。
ふふっ、私、ローディ君のお家に来られて良かったです…。」
ようやく、ターニアさんの顔に落ち付いた笑顔が戻ってきた。
最後にこちらに向けられた笑顔があまりにも眩しい。
「えへへ…どうしましょう。お胸がポカポカします。
なんででしょう。ふふふ…♥」
ターニアさんは少し顔を赤らめて、胸の辺りで手を組む。
異様な程色気を感じて、思わず身体が熱くなるほど。
「…えと、喜んでもらえたら、なによりです。」
急に恥ずかしくなってしまい、今度はこちらが目を逸らす。
何度でも言うが、女性にこんな風に向かい合って話す事などなかったのだ。
「ふふっ、ローディ君。まずは、その敬語を直さないといけませんねー?」
「あっ…」
必死で言葉を絞り出したせいか、無意識で敬語を使っていた事に今更気づく。
「…すみませ、じゃない、ごめん。」
正体不明の羞恥心はとどまる事を知らず、顔に血が集まる。
早速、女性に不慣れである事を露呈してしまっているようだ。
それが更に俺の羞恥を煽っていく。
「あー!もう、本当に可愛いっ!!」
赤く小さくなっていく俺を見て、ターニアさんが叫ぶ。
それと同時に、凄い勢いで頭が引き寄せられた。
強烈なデジャヴ。
「もがっ!」
俺が情けない声を上げると同時に、先ほどと同じ極楽の感触が頭を包む。
いや、先ほどよりも力は強く、埋まるのではないかという程に押し付けられている。
「ローディ君…♥ローディ君…♥」
うわ言のように言うターニアさんの声が、やけに遠く聞こえる。
柔らかい肉の壁に耳が塞がれているせいか、もしくは酸欠で意識が遠のいているせいか。
多分、両方である。
「もが…もぐ…」
「んっ…♥もー、あんまり暴れちゃめっですよ?」
本日二度目の暗転の間際に感じたのは、花の香りと優しげな声だった。
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「ぷっ!あはははっ!それで、彼を二回も締め落としちゃった訳?
くくっ…!ちょっと、面白すぎないかしらターニア…くふふふっ…!」
東の妖精の国の王宮にて、リリムが声を上げて笑う。
「もぉっ!リっちゃんったら笑い過ぎです!
仕方ないじゃないですか!なんだか、こう、堪らなくなっちゃったんですよ!」
彼女の向かいに座るターニアは、不服そうに頬を膨らませている。
魔界でもトップクラスの実力者二人であるが、その様子はお茶を楽しむ少女と大差ない。
「ふふふふっ…いや、ごめんなさいね?
おっぱい位触ったかと冗談で言ってたのに、まさかおっぱいで締め落とされてるとはねぇ。
ぷっ…ふふふ…あ、駄目、ツボに入っちゃった…ふふ…」
「リっちゃんがいじわるです…!」
恥ずかしいのか少し赤らんだターニアの頬がぷくりと膨らんだ。
「ごめんってば…ふふふ…
良かったじゃない。また仲良くなれたみたいだし。
彼がフリーな事も分かって、万々歳でしょ?」
「そ、それはそうですけどぉ…
もうちょっと、普通に仲良くなりたかったというか…」
もじもじと語るターニアを見ながら、リリムが優雅にお茶を口に運ぶ。
正直、リリムとしては彼女たちのやり取りが羨ましいのだ。
この位のいじわるは許してくれていいだろう。
「大丈夫だってば。ある意味、彼にとっては忘れられない日になったんじゃない?
ターニアも、楽しかったんでしょう?」
「それは、もちろんです!
やっぱり、ローディ君はとっても優しい人でした。」
はにかむターニアを見て、リリムも薄く微笑んだ。
友人が幸せそうにしているのは、やはり嬉しいものである。
「でしょう?なにも恥ずかしがることはないわよ。
移住の日が楽しみね?」
「はいっ!えへへ…♥」
とはいえ、やはり独り身としてはこうも惚気られると堪えるものである。
少し嗜虐心の湧いたリリムは、口元を釣り上げて、
「今度は、締め落とさないように抱きしめられるよう練習しないとね?
ぷっ…!くふふふふっ!」
「もおっ!いじわるっ!!」
ターニアが、可愛らしい声を上げるのを聞いて、満足そうにリリムは笑った。
15/11/20 20:16更新 / 小屋
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