読切小説
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ふたりでお茶会
 ここは、どこだろう。
 元々小さな身を更に縮めて、少年はきょろきょろとあたりを見回しました。
 地面はベッドみたいに柔らかくて、道はひどく曲がりくねっています。通りの両側には自分の背丈よりもずっと大きなキノコや、少年を包めそうなほどの葉っぱを茂らせた木々が立ち並んでいました。
 どこからかひそひそ話が聞こえて、人がいるのかと探してみましたが、どうやらその声は木やキノコから聞こえてきているようです。
 上を向けば、空の色は赤いような、青いような、変な色をしていて、流れる雲も絵の具のように色とりどり。
 そこは、見たことのあるものが一つも無い、変な場所でした。
 いくら好奇心旺盛な少年でも、そんな場所でひとりぼっちなのは、怖くて仕方ありません。お父さんと森へ行ったり、お母さんと街へ行くことはありましたが、知らない場所に一人で来るなんて、初めての事なのですから。

 さて、少年がこんな所に来てしまった理由は、驚くほど簡単です。
 お家の庭で木のうろを覗き込んだら、そのうろの中に落っこちてしまったのです。
 もちろん、うろは少年が入れるほど大きいものではありませんでした。それなのに、どういうわけか少年の体は吸い込まれるように木の中へと入ってしまい、地面にもぶつからず、真っ逆さまに落ちて落ちて落ち続けて、気付けばこんな場所で尻もちを付いていました。

 前に行けばいいのか、後ろに行けばいいのか。道の真ん中に落っこちた少年には、それすら分かりません。「いや、もしかしたら道から外れた方がいいのかもしれない」とも思いましたが、やっぱりそれはやめておこうとすぐさま考え直しました。だって、喋る木や草を踏み分けたら、何に怒られるか分かったものではありませんから。
 でも、座っていてもどうにもなりません。とにかく、家に帰るにはどこかに向かわないと。
 ちょっと悩んでから、少年は大きく息を吸い込んで、道端の木で一番大きなものに向かって呼びかけました。

「あの、すみません!お家に帰るには、どっちに行けばいいんでしょうか!」

 しかし、木はがさがさと枝葉を揺らして驚いただけで、それっきり黙り込んでしまいました。他の木も同じように少年の声にびっくりして、少年がどれだけ呼んでも、誰も答えてくれません。
 さあ、誰も教えてくれないとなると、どっちに行けばいいのか自分で考えるしかありません。
 前の方は、少し行ったところで道が右に曲がっていて、その先は見えません。
 後ろの方は、道の真ん中にとても大きな木が立っていて、どれだけ見上げてもその木のてっぺんは見えそうにありません。もちろん、その後ろに道が続いているのかどうかも、見えません。
 でも、少年はとりあえず大きな木へと行ってみることにしました。
 木に入ってこんな所に来たのですから、同じように木に入れば帰れるかもしれないと思ったからです。
 もし、あの木も喋る木だったら、その時はあらためて道を尋ねる事もできます。大きな木はお年寄りの木だと、少年は知っていたのです。

 道端に落ちていた瓶詰めの飲み薬やピンク色の水たまりなどを避けてしばらく歩くと、木は少年の想像よりもずっと大きかったことが分かってきました。
 幹の太さを測るのにどれだけの長さの紐がいるのか、想像もつきません。周りをぐるりと歩いて後ろに回り込むのだって一苦労です。
 その喋らない大きな木の向こうには、残念ながら道はありませんでした。たくさんのキノコで、行き止まりになっています。
 でも、その行き止まりに、真っ白な布のかけられた長いテーブルが出ていました。
 ゆうに十数人は囲めそうなテーブルですが、椅子は端っこに三脚だけ。一つは肘掛け付きでふかふかの椅子。あとの二つは、適当に組んだような木の椅子です。
 テーブルの上には、様々なお菓子とティーポット、それに、空っぽのティーカップがたくさん。
 少年も、お母さんがお茶会を開いたところは何度か見ましたが、こんなにいっぱいティーセットが並んでいるところは見たことがありません。「このお茶会を開いている人には、たくさんのお友達がいるんだな」と、少年は感心してしまいました。
 しかし、テーブルに並んでいるクッキーやパイは焼き立てのいい香りがしているのに、周りには人一人見当たりません。たくさんのお友達が居るはずなのに椅子が三脚しか無いのも、よく考えればおかしな話です。

「なんだなんだ、キノコたちが随分怖がっていたからどんな怪物かと思ったら、普通の男の子じゃないか」

 かと思えば、突然、テーブルの下から声がしてきました。
 垂れ下がったテーブルクロスのせいで、今までそこに誰かがいることに少年は気付かなかったのです。
 少年が驚いて立ち尽くしていると、白いクロスを手でかき上げながら、つばの広い帽子を被った綺麗な人が身をかがめてテーブルの下から出てきました。

「困ったものだ。あのキノコたちが適当な事を言うのは、いつまで経っても治らないな」

 そして、ため息をついて、肘掛け付きの立派な椅子に腰掛けました。

 その人は、お洒落なパーティにいる男の人みたいな格好をしていました。エメラルド色のジャケットには所々にキノコの意匠が散りばめられているようにも見えますが、よく見ればそれは作り物ではなく、本物のキノコがくっついているようです。
 長い髪は根元の方は青いのですが、先の方に行くにつれて赤へと変わる、不思議な色をしていました。
 スカートやエプロンを着けていなくても、奇妙な格好をしていても、この人は女の人だと、少年にはすぐに分かりました。服装に反して体つきがとても女性らしいというのもありますが、もっと単純に、「一目惚れ」にも似たドキドキを感じたのです。
 もっとも、少年はまだ女の子と男の子の違いなんて良く分かっていませんし、恋なんてしたこともないのですが。

「ほら、座りなよ。ああ、大丈夫。みんな慌ててどこかに逃げただけで、そのうち戻ってくるさ。ここでお茶会をやっているのは、知っているんだからね」

 少年は女の人に勧められるまま、ちょっとガタガタしている木の椅子に座りました。
 本当はお茶会なんてしていないで、「どこに行けばお家に帰れますか」と聞きたかったのに、女の人の言葉にはなんとなく逆らいづらくて、聞きそびれてしまいました。
 でも、ちょっとだけ、わくわくもしました。一人でお茶会に参加するなんて、大人みたいだと思ったからです。

「それで……いや、分かったぞ。キミは、どこかからやってきて、どこかに行こうとしているんだな?でも、ここでは右も左も分からない。つまり、迷子だ」

 自分のティーカップ、それから少年の前にあるティーカップに紅茶を注ぎながら、女の人は何故か自慢げに言いました。
 少年は「右と左くらいは分かるのだけれど」と思いましたが、黙っていることにしました。そんな事よりも、紅茶に満たされたティーカップが「熱い!」と言うのではないかと不安で仕方なかったのです。木やキノコが喋ったのです。ティーカップも喋らないとは限りません。
 そんな少年の不安も知らず、女の人は首を横に振って、「まったく」と忌々しげに言いました。

「チェシャ猫はいったい何をやっているんだ。こんな可愛いお客さんを放っておいて」

 女の人の言葉に、少年は首を傾げました。

「チェシャ猫?」
「ああ。チェシャ猫だよ。この不思議の国の案内人、いや、案内猫さ。キミのような迷子を相応しいところまで案内するのがお仕事なんだけれど……さては、また誰かをからかって遊んでいるんだな」

 少年には、女の人の言っていることはよく分かりませんでした。
 でも、自分が迷子になったのはその「チェシャ猫」のせいなのかもしれない。じゃあ、猫を探せば家に帰れるのかな、とは思いました。
 「チェシャ猫って、どんな猫なんだろう」と思いながら目の前のティーカップに視線を落とすと、琥珀色の水面には、どことなく不安そうな男の子の顔が映っています。
 どうしてそんな顔をしているのかというと、迷子だからというのはもちろんですが、少年はあまり紅茶が好きではないのです。お茶会でのマナーなんてものも、まだ教わっていません。苦手なものを前にして上手に断る方法なんて、当然知りません。

 さて、そんな少年の振る舞いは自分を怖がっているためだと思った女の人は、カップを右手で持ったまま首を横に振り、明るい声色で言いました。

「いや失礼。私もあの猫にはつくづく困らされているものだから、つい責めるような事を言ってしまった。気のいい奴ではあるんだよ。お茶会にもお客さんを連れてきてくれるしね。まあ、チェシャ猫自身はあまり紅茶が好きではないようだけれど……」
「……猫が紅茶を飲むんですか?」
「そりゃあ飲むさ。ここはお茶会だからね」

 これもまた、少年にはよく分からないお話でした。
 少年の知っている猫は、人がたくさんいたら大抵は物置にでも逃げてしまうものです。逃げるどころか、わざわざお茶会の席に自分から着くなんて!その上、ミルクではなく紅茶を舐めるというのだから、もう何がなにやら。
 左右に首を傾げ、それから少年は「いや、もしかしたらこんな不思議な場所ならば、猫も座ってカップを持ったりするのかな」とも思いました。
 そもそも、不思議の国のチェシャ猫は、少年の考えている猫とはまるっきり違う姿をしているのですが、幸か不幸か、ここに来てから出会ったのは、この帽子を被った女の人だけ。後は、ひそひそ話をする木とキノコだけです。猫どころか、ウサギやネズミまで自分の知らない姿をしているなんて思うはずもありません。
 そして、(少年の知っている姿の、ですが)ネズミや猫でも飲めるのだと知ると、途端に紅茶に口をつけてみる勇気が出てきました。
 手に持ってみると、そのティーカップは普通のものとなんら変わりはありません。トランプのマークが赤と黒で描かれているだけの、少年もよく知る陶器のカップです。
 微かに揺れる紅茶を、何度かふぅふぅと息で冷ましてからちょっとだけ飲んでみると、途端に少年の顔には嬉しそうな笑顔が浮かびました。

「……おいしい」
「そうだろう?それは、私が選んだ自慢の紅茶なんだ」

 その紅茶は、ミルクと蜂蜜、フルーツの香りもする、言うなれば子ども用の紅茶でしたが、少年の舌には、そんな甘い紅茶がぴったりだったのです。
 紅茶とコーヒーは、少しずつ、ゆっくり楽しむものだとお父さんは言っていましたが、そんな事には構っていられません。一口飲むたびにお腹の中に甘い幸せが広がるようで、気付けば、カップの中は空っぽになっていました。

「お気に召して貰えたようで何よりだよ。さあ、お菓子も食べてみるといい。紅茶ほどじゃあ無いけれど、きっと口に合うはずさ。ああ、食べたら体が大きくなるなんて事はないから、安心してくれていいよ」

 いつの間にか隣の椅子に移っていた女の人が、ティーポットから紅茶のおかわりを入れてくれながら言いました。
 紅茶がこんなにも美味しいのですから、今度は目の前に並ぶお菓子も美味しいに違いないと思ってしまうのは、仕方がないことでしょう。
 少年は言われるがままに、お皿に並んだクッキーを一つ取って食べてみました。イチゴジャムの乗った一口サイズのクッキーはサクサクと音を立てて、それだけでなんだか楽しくなってしまいます。
 他にも、バターパンやアップルパイ、チェリータルトなどなど、色んなお菓子を食べましたが、そのどれもが美味しくて、お腹いっぱいになってしまうのが残念なくらいでした。

 だけど、どうしてでしょうか。美味しいものを食べて幸せなはずなのに、なんだか心はざわざわとしてきました。甘いおやつをたくさん食べて眠くなるどころか、妙にどきどきして、落ち着きません。

「しかし、ドーマウスはどこまで行ったんだ。まだ話の途中だったのに。井戸の中に何があったのか、気になって仕方ない」

 肩を竦めて、紅茶を一口。女の人のそんな何気ない仕草を見ているだけで、顔が熱くなってしまうのを感じます。
 もっと見ていたいけれど、目が合うのは恥ずかしい。困った少年は、もうどうしたらいいのかも分からなくなって、俯いてクッキーをかじることしかできないのでした。

「ところで、何か尋ねたい事があったんじゃないかな?」

 しばらくクッキーをかじっていた少年は、女の人にそう言われると、「そういえばそうだった」と顔を上げました。
 ですが、何を尋ねたかったのか思い出せません。分からない事があって、それがとても不安だったはずなのに、温かい紅茶と甘いお菓子が不安を溶かしてしまったようです。

「えっと……あっ、そうだ。お名前を聞こうと思っていたんです」

 いろいろ考えた末にそう言ってから、何か違う気もして、つい首を傾げてしまいました。でも、他に聞きたいことは思いつきませんでした。
 そして、名前を聞かれた女の人も「名前、名前か。困ったな」と言いながら、首を傾げました。

「名前なんて、考えたことがないぞ」
「名前が、無いんですか?」
「無いわけじゃないよ。帽子屋、お茶会の主、マッドハッター、他にも色んな名前があるけれど、それは私だけの物ではないのさ。私じゃない帽子屋もいるし、私以外にもお茶会を開いてる子はたくさんいる。しかし、マッドハッターなんて名前は、誰が最初に呼び始めたんだ。失礼じゃないか。狂っているのは時計だけで、私はちっとも狂っちゃいないのに」

 なにやらぶつぶつ言いながら、帽子屋、あるいはマッドハッターは、ポケットから取り出した懐中時計をぱちんと開きました。少年が覗き込むと、その時計は狂っているどころか、なんと針がありません。
 どうして針が無い時計なんて持っているのかと少年は尋ねようとしましたが「そういえば、お父さんは『時計を持ち歩くのは身だしなみだ』って言っていた気がするから、この人もきっと身だしなみで時計を持っているんだろうな」と勝手に納得しました。
 壊れた時計を持っている理由にはならないのですが、なんだか頭の中がふわふわしてしまって、少年にはそんな事も分からなくなっているのです。
 それに、もし少年が理由を聞いても、またしてもよく分からないままだったでしょう。なにしろ、帽子屋本人も、なんでこんな物を持っているのか分かっていないのですから。

「まあ、名前なんて無くても困りはしないよ。私はキミの名前を知らないけれど、何も困っちゃいないみたいにね。みんなだって私を帽子屋帽子屋と呼ぶんだから、キミも同じように呼べばいい」

 帽子屋。でも、この人はきっと僕よりも歳上だから帽子屋さんだ。
 そう考えた少年が「帽子屋さん」と確認するように呼ぶと、帽子屋は満足そうに頷きました。

「そう。糸も針も持たないが、どんな帽子でも作れる帽子屋だ」
「帽子屋さんだから、帽子を被っているんですね」
「そうとも。この帽子も私が作ったもので……」

 そこで言葉を切った帽子屋は、じっと少年の顔を見つめました。
 葡萄色をした切れ長の目は紅茶よりも透き通っていて、見たものの奥底までも見通しそうな鋭さがあります。
 でも、少年はそんな小難しいことは考えず、ただ「綺麗だな」と思って、帽子屋の目を見ていました。
 奇妙な見つめ合いはしばらく続きましたが、やがて帽子屋は帽子を脱ぐと、それを少年の頭に被せて、「思った通りだ。私よりも、キミの方が似合うな」と微笑みました。

 少年は、突然被せられたつばの広い帽子にしばらく戸惑っていましたが、女の人の微笑みにはっとすると、帽子のつばをぐいと手で引っ張って下ろしました。嬉しさと恥ずかしさで顔が赤くなってしまったのを隠すためです。
 だけど、口元が緩んでしまうのはどうにもできません。帽子もとてもいい香りがするものだから、ついさっきまで女の人が被っていたのを実感してしまって、更にどきどきしてしまいます。

「それはキミにあげるよ」
「いいんですか?」
「ああ。帽子も、より似合う方に行きたいだろう」
「でも……」

 一旦帽子を脱いで、少年はそれを確かめました。
 軽いのにとても手触りの良い布でできていて、手入れに使っていたのでしょうか、何か粉のようなものが指に付きました。
 キノコの傘にも似たデザインは子どもでも分かるほど洒落ていて、もう少し大人になって少年が正装をするようになれば、この帽子の上品ながら気取りすぎない美しさにも気付くでしょう。
 さて、そんな良い帽子を貰えるのはとても嬉しかったのですが、同時に、「これはきっととても高いものだから、貰ってしまうのはよくないだろう」とも思ってしまいました。

「その、お金とか……」

 だから、少年は恐る恐る尋ねたのですが、帽子屋はすぐさま首を横に振って答えました。

「いらないよ。ここではお金なんて使わないしね。それに、私は私の帽子を被っているキミを見ているだけで、どんな金銀財宝を手にするよりも満たされる思いになれるんだよ。そうだな、愛らしい動物を見て幸福な気持ちになったことは?素晴らしい音楽に心身を溶かしたことは?無いかな、まあ無いなら無いで仕方ない。とにかく、そういう事なんだ」

 残念ながら、少年にとって動物は遊び相手であり、音楽はあくびの出るような退屈なものであったため、帽子屋の喩えはよく分かりませんでした。
 でも、それが褒め言葉であることは理解できたため、ただでさえ赤らんでいた顔はもう真っ赤になって、帽子でも到底隠しきれなくなっていました。
 良くも悪くも子どもらしい少年の様子に、帽子屋は今度は少しだけ悪戯っぽく微笑んで、言いました。

「でも、そうだね、何かお礼を……と言うのなら、帽子を作る手伝いをしてもらえないかな」

 もちろん、少年は帽子なんて作ったことがありません。ですが、帽子屋もそれは分かっていたので、安心させるように続けました。

「さっきも言ったとおり、私が帽子を作る時には、針も糸も使わない。だから、キミにもできるよ」
「針も糸も使わないのに、どうやって作るんですか?」
「決まっているだろう?美味しい紅茶と甘いお菓子、それと、私とキミの幸せな気持ちで作るんだ」

 そう言って帽子屋は立ち上がり、言葉の意味を考えていた少年の手を取って椅子から立たせました。
 そして、おもむろに少年を抱き寄せると、数歩下がって、最初に座っていたふかふかの椅子へと座りました。
 向かい合うようにして帽子屋の膝の上に座らされた少年は、固まったまま帽子屋の顔を見上げることしかできません。

「紅茶は、美味しかっただろう?お菓子も、美味しかっただろう?でも、それだけでは良い帽子は作れない。紅茶よりも温かくて、お菓子よりも甘い。そんなものが必要なんだ」

 「そんなもの」とは何か。
 少年は、すぐに分かりました。
 帽子屋が、少年にとても温かく甘いキスをしたためです。
 ベッドで眠る前にお母さんがほっぺたにしてくれるものや、お父さんが遠くに出かける前にするおでこへのものとは違う、唇同士を重ねる、恋人同士にだけ許された口付け。

 心まで蕩けるような、はじめてのキスの後、帽子屋ははにかんで頬を赤らめました。
 それがあんまりにもあどけない表情だったせいか、少年の目には、一瞬だけ、帽子屋があまり年の変わらない女の子であるように映りました。
 でも、その幼さも次の瞬間には消え去っていたので、きっと気のせいだったのだなと思いました。

「ああ、思った通りだ。きっと、キミがここに来たのは偶然では無かったんだよ。そうでなければ、キスだけでこんな風になってしまうはずがない」

 ぎゅっと少年を抱き締めて、頭を撫でながら、帽子屋は呟きました。
 大きくて柔らかい胸の奥で、とくんとくんと鼓動が鳴っているのが、少年にも感じられます。
 そこで初めて「どきどきしているのは自分だけじゃないんだ」と分かって、少年は一層胸をときめかせました。好きな人と同じ気持ちになれる幸せを、その時初めて知ったのです。

「もしかしたら、チェシャ猫はそれが分かっていたから、キミを案内しなかったのかもしれないな。そうだとすると、私はチェシャ猫にお礼を言わなければいけないのか?まあ、なんでもいいか」

 なにやら独り言を言いながらも、帽子屋は手を少年のシャツの中へと滑り込ませ、背筋を指先でなぞったり、脇腹を手のひらで撫でたりしています。
 そうして触れられるたびに感じる、今まで知らなかった気持ちよさに、少年は鳥肌を立たせて体を震わせました。

「……実は、私も初めてなんだ。あんまり上手じゃないかもしれないけれど……精一杯、頑張らせてもらうよ」

 何が「初めて」で、何を「頑張らせてもらう」のか、そして、これからどうなってしまうのか。少年には分かりませんでしたが、帽子屋の香りと体温に包まれたまま、とりあえず頷きました。
 一方で、「これはきっと、ただ帽子を作るためにすることではない」とは、うっすら気付いていました。
 でも、それ以上は、もう何も考えられませんでした。


…………


 少年が不思議の国へやってきてから、どれほどの時間が経ったのでしょうか。
 時折お客さんが来ては紅茶とお菓子を楽しんでから去って、少年も何度か居眠りをしてしまいましたが、お茶会はまだまだ終わる気配を見せません。
 今は、主催者である帽子屋がテーブルの端に座り、左手側の一番近くにドーマウスが、その一つ向こうにマーチヘアが座っています。
 ドーマウスやマーチヘアにも色々いるのですが、その二人は、特にこの帽子屋と仲が良いらしく、少年が帽子屋の次に出会ったのも、この二人でした。

 また、テーブルには一つだけ空いている椅子が置いてありますが、それが少年の席というわけではありません。
 少年の席は、帽子屋の膝の上と決まっているのです。

「それで……井戸の中には……たくさんの糖蜜があって……」

 テーブルに突っ伏して寝ているようにしか見えないドーマウスが、ぼんやりとした口調で作り話だかなんだか分からないお話をしています。
 少年がここに来る前に始めた話の続きだそうですが、少年にはドーマウスのお話はよく分かりませんでした。
 帽子屋に「どういうお話なんですか?」と尋ねてみたところ、「きっと、最後まで聞けば分かるはずだよ」と言われたので、じゃあ最後まで聞こうと頑張っているのですが、むしろ聞けば聞くほど訳が分からなくなってしまうばかりです。

「あれれ?クッキーが無くなってる?」

 唐突に、マーチヘアが言いました。
 確かに、さっきまでクッキーが並んでいたお皿が空っぽになっています。
 少年と帽子屋は一つのケーキを食べさせ合っていた最中ですし、マーチヘアの口にはそんなたくさんのクッキーは入りませんし、ドーマウスに至っては寝てばかりで、お茶会に来てからまだ何も食べていません。

「ああ、どうせまたチェシャ猫だろう」

 少しも驚いた素振りは見せず、帽子屋は大木を見上げました。
 少年がその視線の先を追うと、たしかに、枝の上に寝転がったチェシャ猫がにやにやと笑いながら、クッキーを食べていました。
 そして、クッキーを詰めたらしい袋を軽く振ると、何も言わずに消えてしまいました。
 後に残ったのは、揺れる枝だけ。

「チェシャ猫さんは、クッキーが好きなんですか?」と少年が帽子屋を見上げると、帽子屋は首を横に振って、「いいや、どうせまた何かのいたずらにでも使うんだろう。まあ、マーチヘアのクッキーは美味しいから、半分くらいは自分で食べてしまうかもしれないね」と答えました。
 褒められたマーチヘアは、「じゃあ、またたくさん作ってきますね!」と張り切り、長い耳を揺らしています。
 ドーマウスはと言うと、クッキーが盗まれようが、目の前の紅茶がすっかり冷めてしまおうがお構い無しに、うわ言のようなお話を続けていました。

 ただでさえ突飛な話だったのに、途中で聴き逃してしまったのだから、少年はもうドーマウスのお話を真面目に理解することは諦めてしまいました。
 どうしても気になったら、後でまた帽子屋さんに聞けばいいや。
 そんな事を思いながら紅茶のカップに口を付けましたが、いつの間に飲んでしまったのか、カップは空っぽになっていました。
 ティーポットからおかわりを入れようとしましたが、手近にあったポットの中身も空っぽ。
 ケーキを食べて喉が乾いてしまったのに。少年が困っていると、帽子屋にとんとんと肩を叩かれました。

「なん……っ」

 振り返った少年の口は、言葉を言い終える前に、帽子屋の唇に塞がれていました。いつも以上にいきなりの事に少年は少し驚きましたが、すぐに帽子屋の意図を理解しました。
 紅茶が切れていることに気付いた帽子屋が、自分の紅茶を口移ししてくれているのです。糖蜜をあまり入れない帽子屋の紅茶は、少年が好む味には少し甘みが足りないので、かわりに、舌を絡めるキスで甘さを足してくれました。
 さっきまで食べていたチョコレートケーキの味が混ざった紅茶を、少年は少しずつ、少しずつ、飲み込みました。
 でも、紅茶を飲み終えても、少年と帽子屋は中々キスをやめようとはしません。それどころか、帽子屋は少年の頭をしっかりと押さえたまま、もう片方の手を少年のズボンの中へと忍び込ませてしまいました。
 こうなってしまえば、後はどうなるか。それは、不思議の国の住人でなくとも、分かるでしょう。

 マーチヘアは、夢中でキスを続ける二人を羨みながら、自分の焼いたアップルパイを食べました。そして、いずれ自分にも来るはずの出会いを夢見ました。
 ドーマウスは、やはり眠ったまま、むにゃむにゃとお話を続けています。
 一つだけ空いているお茶会の椅子は、次なるお客さんのために用意されたものですが、果たしてそのお客さんがマーチヘアのものになるのか、ドーマウスのものになるのか、それは誰にもわかりません。

 ですが、どうやら、お茶会はまだまだ終わらないようでした。
16/11/07 00:43更新 / みなと

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