連載小説
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わがまま、失踪、後悔
 明るかった空も藍色に染まり始め、時は昼から夜になり、獣たちの目が光り出す。締め切られていたカーテンが開けられ、屋敷の窓に月光が差し込んだ。
 軋む音を上げ、つやのある黒い棺が扉を開けた。

 中からは黒を基調としたドレスを身につけ、銀色の髪を内側にカールさせた女性が起きあがった。そして棺の縁を扉のようにして開け、その横に置かれていた車いすに自分で移動して座った。

「ウィルーッ、ウィルーーッ!!」
「はい、お嬢様。ここに…」
 彼女は大声で『ウィル』と彼の名を呼んだ。扉を開け、その部屋に入ってきた黒いタキシード姿の黒髪の若い男性。『ウィリアム』が彼の本名であったが、一々ウィリアムと呼ぶのが面倒だと、『ウィル』という愛称で呼ばれている。
「ウィル、車いすが不調よ。この耳障りな音を無くして。五分でよ」
「はい、お嬢様」
 ウィリアムはそのキィキィと音の鳴る車いすの車輪の軸に差す油を取り出すと、その音の発生源に油を落とした。そして緩んでいたネジやボルトを締め直し、その工具を腰の後ろのホルスターに直した。

「終わりました。いかがでしょうか?」
 ウィリアムは車いすを多少前後に動かし、調子を確かめ主人に確認した。
「いいわ。時間も指定内よ、だけど次からはこのようなことの無いようにしなさい。」
「申し訳ありません、お嬢様。
 では、お食事の用意が出来てございますので」
「ええ。ウィル、押しなさい」
 ウィリアムは主人の椅子を押し、スロープになった階段を下っていき食堂に入った。長いテーブルの上に焼かれたハムとトースト、ミルクティーが用意されていた。
 椅子をその前に止めると、ストッパーをしてウィリアムは脇に控えた。
「今宵のメニューはハムの…」
「いいわ、見れば分かることよ」
「…失礼いたしました」

 彼女はロザリア=ラン=ミューラシカ(発音ではランミューラシカと発音)。代々続くヴァンパイアの血筋、ミューラシカ家の本家当主である。母はすでに夫と共に離れて暮らしており、彼女がこの大きな屋敷にウィリアムと二人で暮らしている。料理、買い物、洗濯、掃除、庭の剪定、その他諸々の作業をウィリアムが一人でこなしている。
 もちろんロザリアの身の回りの世話も彼の仕事だ。ロザリアの車いす生活は先天性の病によるもので、今日で七年九ヶ月と十七日になる。
 ウィリアムは彼女が十二の時に母が寄越した。その時は彼が十一で、言葉遣いも分からないような子供だった。ロザリアの叱咤とわがままがウィリアムの物腰と知識を完成させたのだ。知識は世界情勢に始まり、経済状況から料理、家事全般にまで至った。
 元々世話焼きの性格だったのが功を奏したのだろう、執事兼使用人として完成されるまでは一年と二ヶ月しか掛からなかった。
 
「ウィル、血を」
 食事を完食してロザリアは言った。
「はい、お嬢様」
 ウィリアムは袖を捲って跪(ひざまづ)き、その決して華奢ではない腕をロザリアの目前に差し出した。ロザリアは両手を添え、その腕に噛み付いた。牙が皮膚を貫くがウィリアムは眉一つ動かさず、その行為が終わるのを待った。
 一方ロザリアは、漏れそうになる声を必死に抑えて血を吸った。淡く紅潮した顔はあくまでも平然を装おうとしていた。彼女の感じる快感と多少異なるにしても、ウィリアムにもその快感は伝わるはずだが、数年間従い、付き添ってきた彼はその抑え方も身につけていた。元々はロザリアの「静かにしなさい」という言葉が発端なのだが。
「……もういいわ」
「はい」
 ロザリアはその唇の血を舐め取り、そう言い捨てた。ウィリアムはその右腕に袖を被せた。
「ウィル、外の風に当たりたいわ。散歩に付き合いなさい」
「はい、お嬢様」


 二人は夜のヒンヤリとした空気の中、ランタンによって照らされた道を進んでいた。ロザリアにとっては清々しい朝といったところだ。
「ウィル、次の食事は牛肉が食べたいわ。調理法は任せる」
「分かりました」
「あと、新しい服も欲しいわ。買ってきなさい。…そうね、リボンの付いた帽子とドレスがいいわね、色は…気分を変えて白が良いわ。青みのあるような物でゆったり体に合う物よ。分かったわね?」
「はい、お嬢様」
「…散歩も飽きたわ。戻るわよ」
「はい」
 二人は散歩を終え屋敷に戻った。すると、ロザリアは一つのドアを指さした。
「分かりました」
 ウィリアムはそのドアの前に行き、そのドアを開け、車いすを中に入れ、閉まっていた蓋を開け、その上に主人を移し、外に出た。
「失礼いたします」
 ドアを閉め、ウィリアムは外で待機した。
 暫くして、中からロザリアが呼ぶ。
「ウィル、いいわよ」
「はい、失礼いたします」
 中に入り、何事もなかったかのように座っているロザリアを車いすに戻した。ちなみにこの部屋は他では『W.C』と表される。

 ロザリアとウィリアムはロザリアの自室へと戻り、車いすを机の前にやった。
「昨日、今日の出来事を伝えなさい」
「はい、レオナードワークスの株価が下落し、前株価の七十二パーセントまで低下。原因は先日の幹部の不祥事だと思われます。
 また、我がミューラシカ家の所有する企業が輸出入等の効率化のため、工場を新たに設けたいと申し出がございました。
 昨日付けでオリヴィア=ジル=ミューラシカ氏が当主に在らせられる東の分家より、第二子エレナ様の八歳のバースデーパーティの招待状が来ております。
 他は北西の町周辺で教団と魔物共生派との紛争があり、教団全員が魔物派勢力に飲み込まれた程度です」

 ウィリアムは手帳を見ながら主人に伝えた。
「レオナードワークスの株価はまたすぐに回復するわ。今片手分買っておきなさい、九十パーセントを超えたら売却して。
 それから企業には資金を提供して構わないわ。ただしその前に工場の立地と計画書を寄越させて。それから詳しいことを決めるわ。
 エレナのバースデーには必ず行くと伝えて。プレゼントは、要望に応えてさし上げて」
 それぞれの事柄に対しての応答は、本家当主にふさわしい物であった。それをウィリアムは手帳に書き込む。
「それだけね?用があったらまた呼ぶわ。下がりなさい」
「はい、お食事の用意ができあがりましたら伺います」
 ウィリアムは部屋を後にした。
 ロザリアはため息を一つ零し、引き出しを開けた。そこには一つのロケットが入っていた。
「………」
 彼女はそれを手にとってロケットを開いた。中には写真がはめ込まれていて、それには三人の家族と思わしき者たちが写っていた。中央の一人は車いすに座っている。
「お母様、お父様…」
 彼女はそう言葉を漏らした。
「…私は、当主として役目を果たしております。ミューラシカ家の名に恥じぬように…」
 ロザリアはそう言ってロケットを仕舞った。
 車いすの方向を反転させ、窓の方を向いた。魔界の夜は人間界のそれと違った美しさと不思議さを持っている。彼女はしばしそれに見とれた。
 ロザリアは星を見上げ、遠き両親へ思いを馳せるのだった。


 食堂へウィリアムがロザリアを押してやってくると、テーブルの上には牛肉のステーキとサラダ、そしてグラスと貴腐ワインのボトルが置かれていた。
「ステーキですが、いかがでしょうか?」
「…ウィル、私はローストビーフが食べたいわ。作り直して」
「承知しました」
 ウィリアムはまだ湯気を立てているステーキの乗った皿を持ってキッチンへ消え、十分で戻ってきた。皿の上には特性のソースの掛けられたローストビーフが盛りつけられていた。
 なぜこうも早かったのかと言えば、『作って置いた』というシンプルな答えがある。
「お待たせしました」
 彼女はそれを早速食べ始め、すべて食べ終わるとフォークとナイフを置いた。
「ソースはもう少し薄口がいいわ、次からはそうして。
 それから髪を洗いたいわ。準備して」
「はい、お嬢様」

 ウィリアムは食器を片づけ、ロザリアを連れて食堂から出ると二回へ上がり彼女の自室とは逆の方へ進み、一つのドアを開けた。
 中には正面に黒いクローゼット、部屋の右奥に半透明のカーテン、右前に洗面台の付いた様な椅子(要するに美容院にある髪の毛洗う椅子)。
 車いすをその前まで押し、クローゼットの扉を開けるとカバーの様な物を取り出し、ロザリアの首に止めた。服が濡れないようにするための物だ(美容院で首に巻かれるアレ)。そして彼女を椅子に移し背もたれをゆっくり倒す。そして重力に引かれ、彼女の癖毛の髪が彼女の頭の後ろへ向かって垂れ下がった。

 ひとまず湯の温度を調節し、ロザリアの髪を濡らす。手慣れたモノで不備なく作業を進める。シャンプーを手に取り、髪の毛を洗いながら泡立てた。
 シャンプーの香りが漂う中、洗う手を止めてウィリアムはシャンプーを洗い流し、タオルでその頭を優しく拭いた。
「いかがでしたでしょうか?」
「うむ、悪くはなかった。次からはも少し湯は熱めが好ましいな」
「承知いたしました。
 お嬢様、お洋服はお着替えになりますか?」
「そうだな」

 ウィリアムはロザリアの体を起こし、カバーを取るとタオルと共に籠に入れた。そして彼女の髪を乾かし櫛で解かす。
 部屋を出ると彼女の部屋の隣の扉を開けた。中には数十着、いや軽く百着以上はあろうドレスや帽子、コート、スカート…彼女の衣服類が入っていた。
「ウィル、アレを取って、靴はアレよ、ソックスはあのニーソックスが良いわね。…下着はそれに合う物」
「はい、お嬢様」
 ウィリアムはいくつもある服の中から、赤いフリルの付いたコートの様な黒いドレスとセットのショートパンツ、黒で少し尖ったフリルの付いたニーソックス、黒い革のバレエシューズの様な靴を、下着は引き出しから赤の物を取り出した。
 アレとだけ指示を受けただけで、主人の欲しい物を正確に読み取るのは執事兼使用人として使えている期間が長いからだ。それだけ、ウィリアムはロザリアのわがままを叶えてきたということだ。

 ロザリアを背もたれのない椅子に移し、まず靴と靴下を脱がせた。
 次にウィリアムは背中側に回るとドレスの紐の結び目を解き通し穴から抜き去った。背中側の紐がなくなるとドレスの背中側は大きく開き、まるで脱皮のようにロザリアの体からドレスを離し両腕を袖から抜いた。
 そして正面へ回り、彼女の前に跪いてドレスの腰当たりに手を掛けた。
「どうぞ、肩に…」
「ああ」
 ロザリアはウィリアムの肩に手を置くと少し腕力に任せて腰を僅かに浮かせた。ウィリアムはその一瞬でドレスを膝下まで脱がせ下ろした。
 ドレスを足から抜き取りハンガーに掛けると、そこにはワイシャツ姿の少女が座っているだけだった。少し青白い肌の細い艶やかな足が女座りの形で落ち着いていて、足の間とワイシャツの裾の間から水色の下着が僅かに見えていた。
 ウィリアムはワイシャツの胸元に手を伸ばし、ボタンを一つ一つ丁寧に外していった。そしてワイシャツの襟から手を滑り込ませるようにして、腕から袖を抜き去って籠に入れた。足と同じく青白い肌ときれいな形の胸、それを包み込む水色のブラジャー。
「では、またお呼びください」
「ああ」
 ウィリアムは一旦退室した。さすがに下着までウィリアムに脱がされるのはロザリアにも抵抗があったのだ。彼女は自分のパンツの腰ひもに手を掛けた。


「ウィル、入りなさい」
「はい、失礼いたします」
 椅子には赤のブラとパンツを身につけたロザリアが座っていた。
 ウィリアムは薄く赤みのあるシャツの袖を彼女の腕に通し、ボタンを丁寧に留めた。そして次にショートパンツを履かせ、ドレスを足から通して腕に袖を通しドレスのボタンを留め襟を立て、ニーソックスを履かせ靴を履かせた。
 車いすに移し足を女座りの形に直し、服のシワを正した。
 ここまでの行程を淡々と平然とウィリアムはこなした。男であれば少しくらい戸惑ってもおかしくない場面はあった。だが彼は彼女の執事兼使用人としての仕事を全うするため、感情を無くすに等しいまでに抑えていた。喜びも、悲しみも、憂いも、憤りも、不満も、性欲も、それの妨げになると思った感情(もの)は全て。
「ウィル、幾つか書かなければならない書類と手紙があったわね?」
「はい、お嬢様」
「それを書き終えたら寝るわ。その時になったら呼ぶからそれまであなたの仕事をしていて構わないわ」
「わかりました」


 ウィリアムはロザリアを部屋まで送ると、一回へ下りて物置へ入り掃除道具を持って現れた。
 窓を一つ一つ埃を払い、それ用に用意し紙でガラスを拭き、床の塵を掃きモップを掛け、今度は乾拭きをする。文で書けば何のこともないことだが、この館の窓は約五十以上、床の面積は一階、二階合わせて約九十平方メートル(小学校の校庭を想像してもらえればいい)もあった。
 それを一人でこなすのだから、とんでもない事だ。しかし彼は、ウィリアムは不平不満一つも零さずやってのけてきたのだ、この数年間を。

 ウィリアムは一時間半以上掛けて全ての窓、床の掃除を終わらせた。
「ふ…」
 額の汗を拭い、道具を片づけると手を洗って食堂へ向かった。
 キッチンへ入りオーブンの中から取りだしたのは、二時間ほど前にロザリアが口にしなかったステーキ。オーブンの中に入れていたおかげで、まだ暖かかった。皆さんは、これを彼の食事だと思っているだろうが、実はそれだけではない。
 ウィリアムは栄養、エネルギー摂取とともに料理の研究をしているのだ。肉の質、量、油と赤身との比率、厚さなどの細かな違いで一番おいしい焼き方、焼き加減、味などなど…全てを考えている。
 また、手帳を取り出して見ているのは、ロザリアが食したローストビーフに掛けたソースの材料の調合比率。
(そうだな…塩を一グラム少なく…そうするとバランスを考えて………ふむ、なら赤ワインをもう少し…いや、白ワインも合うのでは…)

 そうする内に時間は過ぎ、彼の考察も終わる。そしてティーセットの乗ったワゴンを押して二階のロザリアの部屋の前でいつ呼ばれるとも分からず、ただただ待つ。買い物や洗濯は彼女が寝てからの作業だ。
「ウィルッ、ウィルーッ?」
「はい、お嬢様。ここに」
「コレを今日の夜までに出して置きなさい」
「はい、お嬢様」
 ウィリアムは封筒の束を受け取り、宛先を全て確認してワゴンの二段目に置いた。
「ウィル、私はそろそろ寝るからいつものをお願い」
「はい、お嬢様」
 ウィリアムはロザリアの車いすを押し、ベッドの傍まで行くと彼女をベッドに移した。
 彼女が寝るのはクッションの敷かれた棺の中だ。ならばなぜベッドがあるのか、それはすぐに分かる。
 ウィリアムはティーセットに手を伸ばした。カップとポットの中に熱湯を注ぎ、暫くしてから湯を別の容器に移してポットの中に今度は茶葉と湯を入れる。また暫く待って紅茶をカップに注ぎ入れ、最後の一滴『ベスト・ドロップ』を落とすとポットを置いた。
 部屋には良い紅茶の香りが満ちている。ウィリアムはそこにミルクを適量入れてロザリアに出した。
「今宵は『ウバ』の『Her Majesty's Blend(ヒア マジェスティズ ブレンド)』です。ミルクはホルスタウロスの高級ミルクを使用しています。どうぞ」
「うむ…」
 彼女は一口それを飲んだ。
「良い味だ」
「ありがとうございます」
「では、早速始めてもらおう」
「はい、お嬢様」

 ロザリアは仰向けに寝ると、ウィリアムが靴とソックスを脱がせた。そして、彼女の足をマッサージし始めた。
 ロザリアの足は感覚こそあるもののほとんど動かすことが出来ない。そうなると血流やリンパの流れが滞りやすく、むくみやその他の障害につながりやすいのだ。なので、寝る前などにはウィリアムがマッサージを施し、足、腰の疲れや血流の滞りを解消させているのだ。
 ロザリアは未だにいつもの鋭い目つきのままだった。
「いかがでしょう?」
「うむ、なかなかよい」
「ありがとうございます。では俯せに体勢を変えますね」
「ああ」
 ウィリアムも手伝い、ロザリアは俯せになった。腰やふくらはぎなど疲れやむくみやすい所を重点的に施した。
ぁぁ〜………」
 ロザリアの口から小さな声がこぼれた。とても気持ちよさそうに恍惚の表情を浮かべている。先ほどまではずっとガマンしていたのだ、ウィリアムに見られぬように。

 ロザリアは棺に入るとすぐに寝息を立て始めた。ウィリアムは棺の蓋をして、傍を離れた。



 朝日が昇り、窓から日光が差し込んだ。しかし、ウィリアムはすぐにカーテンを全て締め切った。そして鞄の中に便せんの束と金を持って出かけていった。
 魔界に日が差してはいるが、やはり薄暗い。ここは魔界の森を通る道だ。しっかり石畳で整備されている。
 半時間馬車を走らせ、森の道の先には町が広がっていた。魔王城がないのは、そことは離れたところにできあがった魔界だからである。しかし、魔王城のある所とは専用の門で異空間を通してつながっているという話だ。
 馬車は徐行しながら進み、やがて郵便屋の前で停まった。ウィリアムは手紙を出してくるとまた手綱を握った。
 町にはサキュバスやそのほかの魔物たちも溢れていて、とても賑わっていた。出店なども多く、アクセサリーからいかがわしい物まで品は種類も量も豊富だった。外からも行商人の魔物(主だってはゴブリンやハーピー)が商品の仕入れにやってきていた。
 ウィリアムは街角の一つの店の前で馬車を停めた。
「ごめんください」
 扉を開けて中に入った。中には数十着の様々な服が飾られていた、高貴な物からいかがわしい物まで。
「はい。あら、ミューラシカ家の執事さんね?
 オーダーかしら?」
「はい」
 中から出てきたのはドレスを着たサキュバス。彼女は彼を奥の部屋に通した。

「で、ご注文は?」
「はい、白を基調としたドレスで、青みのある白をご所望です。帽子とドレスにはリボンをあしらって、体にゆったりと合う物を」
「………オーケィ、だいたい感じは分かったわ。三日後にまた取りに来てくださる?」
「分かりました」
「…それにしても大変ねぇ、あなたこき使われてるんじゃない?私の所に来れば…色々良いことがあると思うけど…?」
 彼女はウィリアムに詰め寄り体を密着させ、彼の股間と顔を触りながら顔を近づけた。
「申し訳有りません、ミス・カレン。私はロザミアお嬢様の執事兼使用人ですので…」
「フフフ、冗談よ。それにこんなに近づいてもピクリとすらしてくれないんだもの…ちょっと自信なくすわ」
「申し訳ない」
「謝る事じゃないわ。じゃあ仕事はちゃんとしておくから」
「はい。お願いします」

 彼は馬車に乗ると町を出て屋敷へと帰っていった。



 そして次の夜、出来事の発端が起こった。
 ロザリアはいつものように引き出しからロケットを取り出し、今夜は車いすの肘置きに掛けた。
「ウィルッ、ウィルーッ!」
「はい、お嬢様。ここに」
「散歩に行くわよ」
「はい、お嬢様」
 ウィリアムはいつものように彼女を連れて館を出た。

 今夜は森ではなく、景色の良い崖沿いの道を散歩したいとロザリアからリクエストがあった。
「よい景色ね。あ、ウィル。あの木の所までで良いわ、後は自分で行くから」
「よいのですか?」
「いいと言ったらいいの。今夜はそう言う気分なのよ」
「はい、お嬢様」
 車いすを自分で押せないことはない。彼女はヴァンパイアとして、決して劣らぬ力の持ち主だった。ただ、足が動かせないと言うだけで。
 指定された木の所まで来ると、ウィリアムは手を離した。ロザリアは自力で車輪を漕ぎ、崖の先まで行った。
「気を付けてくださいっ!」
「分かっているわよっ」
 彼女はそう言って崖っぷちで停まり、ストッパーを下ろした。

 彼女はロケットを手に持って開けた。中には昨夜と変わらぬ両親と自分の家族写真。
「お母様…お父様…」
 ロザリアは頬笑んでこそいたが、それはどこか悲しげだった。
 別に死別したわけではない。ただ別居しているだけだったが、彼をウィリアムを雇ってから一年もしない間に二人は彼女を当主に就かせ、自分たちは離れたところで隠居暮らしを始めた。
 それはミューラシカ家の倣(なら)わしだった。ミューラシカ家の娘は十二歳になると当主となり、親と離れて暮らさなければならない。それが決まりだった。
 だが、まだ十二の少女に取って、それはあまりに辛かった。当時はずっと棺の中で涙を流していた。
 あれから八年たった今でも、恋しいものは恋しい。ただ、その気持ちを抑えていた。しかし両親の夢を見たせいで、堪らなくなったのだ。
「お母様、お父様もこの月をごらんになっていらっしゃいますか…?
 ローザは…会いたくて堪りません………」

 離れていたウィリアムには彼女のそんな弱気な言葉は聞こえなかった。ただ、悲しげな笑みはしっかりと見えていた。
「お嬢様…」
 ウィリアムは聞こえるはずのない声で、そう呼びかけていた。

 その時、ウィリアムは崖先のロザリアの居る真下から石が数個落ちるのを見た。そして徐々にひびが入っていくのを、目の当たりにした。
「お嬢様ッ―!!」
 ウィリアムは叫んで駆け出していた。
「えっ?」
 振り向いた瞬間、彼女の車いすの前輪の乗った地面が音を立てて崩れた。
「きゃあぁっ―!」

 ガチャンッ、ガタンッ、ガラガラガラ、ガシャーンッ………

「はぁ、はぁ…何とか間に合いました…、お嬢様、お怪我は…?」
「私は無事よっ、それより早く取ってきてっ!」
 ウィリアムに抱きかかえられたロザリアは崖の下を覗き込んで叫んだ。
「あれは大破していますし、お屋敷に代えのが…」
「違うっ、車いすなどどうでも良いっ!ロケットがっ…」
「ロケット…?」
「あれは…あれは、お母様とお父様にもらった大切な………」
 ロザリアは今にも泣き出しそうな顔をして、自分の服の胸当たりの布をきつく握りしめていた。
「わかりました。えっと…」
 ウィリアムは当たりを見回すと、丁度良さそうな岩を見つけてそこまで行き、持っていたハンカチを敷いてロザリアを座らせた。
「お待ちください、探して参ります」
 ウィリアムはそう言って崖の下へ軽快な身のこなしで下りていった。

 一時間が経ち、ウィリアムは戻ってきた。
「ロケットはっ?!」
「…それが、どこに落ちておらず…」
「なにっ?!もっと良く探せっ!」
「念のため半径約二十メートル四方を草の根分けて探しましたが、そのような物はどこにも…」
「もう一度っ、もう一度探しなさいっ!」
 ロザリアは焦った表情で言った。
「いけませんっ、もう日の出です。お嬢様はお屋敷へ戻らなくては…」
「ちっ…」
 舌打ちし、後ろ髪の引かれるロザリアを抱きかかえ、ウィリアムは屋敷へと戻った。
 そして、マッサージを施して棺へと移した。その間、終始彼女は機嫌が悪かった。
「どうか、今宵の所はお休みを…」
「くっ…なんで見つけてこないのよっ!あんたなんか顔も見たくないっ、ロケット早く探しに行ってっ、いいえ、もう出てってッ!どっか行っちゃいなさいよッ!」
 ロザリアは感情にまかせたまま、ウィリアムに怒りをぶつけた。そしてロザリアは憤りを隠せない様子で「閉めてっ!」と一言吐き捨てた。
 ウィリアムは蓋を閉めてその場を離れた。
 足音が部屋を出ていった。
「…うぅ…お母様…お父様…うっ…うぅ…うぅっ」
 彼女の目から大きな水滴が零れた。 


 次の夜、いつものように棺を開けて用意されていた代えの車いすに座る。
「ウィルッ、ウィルーッ!」
 呼んでも来ない。いつもなら一度呼ぶだけで来るはずだったが、全く来る気配がない。
「おいっ、ウィルーッ!いないのーッ!?」
(…何してるのよ、あいつっ!)
 昨日のこともあって機嫌が悪く、ロザリアは自分で車いすを押して廊下に出た。
 誰もいる気配がない。ウィリアム一人なのでいつも人気はないが、彼の気配すらしない。
「ウィル…?」
 シーンと静まりかえった館の中にロザリアの声だけが響いた。
(…お腹がすいた…、もしかすると厨房に…)
 ロザリアはスロープを下り、食堂へ入った。しかし、食事が用意されているだけで物音一つなかった。
 ロザリアはひとまず食事を取ることにした。

 まだ食事は冷めておらず、うっすらではあったが湯気が立っていた。つまり食事を作って居なくなったことになる。
(なにかあって出かけてるのね…全く…)
 ロザリアはそう思っていた。食事を食べ終え、一応食器くらいは重ねて置いてやった。
 スロープを登り、自室へ戻って手紙の返事でも書こうと思った。しかし、手紙をまず取ってこなければならない。
 ロザリアは外へ出ると、門の所まで行き郵便受けから手紙の束を取り出した。
 便せんも封に使っている蝋も、場所はいつも通り引き出しの中だ。それを持って屋敷へ入り、自室へ行くだけ。だと思っていた。
 中へ入ってスロープを上がっていくが、車いすの車輪が重い。
(…自力で上がるのが…こんなに大変だなんてっ…)
 何とか上がりきり、ため息を吐いた。
(…戻ってきたら文句を言わないと気が済まないわ…)
 ロザリアはそう思って自室に入って、手紙に一通り目を通しその返事を書き始めた。
 手紙の内容は様々。所有する企業や工場などからの営業方針や支援要請から、親交のある名家からのパーティーへの招待状などだ。

 一つ一つ便せんに宛先を書いて封蝋をし、印璽(いんじ)を押した。そして全てをやり終わると背伸びをした。
「ウィルッ、ウィルーッ!」
 返事もなければ、誰かが入ってくる様子もなかった。
(あ、そうか…やつは出てるんだった…まだ帰ってきていないのか?)
 ロザリアは手紙を束ねて、机の引き出しに仕舞った。
(お腹空いたな…)
 ロザリアは再び食堂へ行き、厨房に入った。色々見て回ると、ある金属製の棚の中に食事が入っているのを見つけた。
 好きな物を取って食堂へ運んだ。まだ作りたての用に湯気を立てている。おそらくあの棚に魔法が施されているのだろう。
 貴腐ワインも隣の棚に入ってあるのを見つけ、それも持っていった。
 いつもより味が素っ気なく感じた。しかし、それがなぜなのかロザリアには分からない。

 食事を終え、暫くその今食べ終わった食器と、先ほどの食器を眺めていた。
(お風呂にでも入ろ…)
 彼女は二階へ苦労して上がり、あの大きなウォークインクローゼットに入って着替えの下着を用意し、バスルームへ向かった。
 タオルを取り出し、下着と共に棚の上に置いて車いすから脱衣用の椅子に座り換え、衣服を全て脱いだ。
 しっとりと潤いのある肌に、豊満な胸。くびれた腰、まだ誰にも触らせたことのない秘部が露わになった。

 一段低くなったバスルームの床の上のキャスターの付いた椅子にまた座り換えた。
 風呂回りは全て、自分だけで出来るようにしている。なぜならウィリアムに体を洗わせるわけになど行かない。
 カーテンを閉め、シャワーの蛇口を捻る。お湯を頭から被り、髪の毛はしっとりと濡れて肩に張り付いた。
 巻き癖の分だけ実際より短く見えるが、実際は首下より少し長い。
 シャンプーを手に取り、うつむけた頭の上で泡立てた。普段はウィリアムにやってもらっていることだ。
 ボディブラシを取り、体を洗った。肌触りの良い毛が体を洗う。これはいつもしていることだ。
 体の泡を流すと、湯船に浸かった。
「…ふぅ〜」
 彼女はため息を吐いた。
(まさか一人で生活するのがこれほど大変とは思わなかった…一階と二階の行き交いだけであれほどキツいなんて…)

 そんなことを考えながら暫く湯船に浸かっていたが、ロザリアは用足しに行きたくなってきた。
(上がらないと…)

 ロザリアは足を使えないので、湯船から出るにも一苦労だ。まず手すりと縁を掴み、体を引き上げて縁に座る。そして、片手で手すりを掴んだまま足を一本ずつ湯船の外に出し、椅子に座る。
 以上が湯船を出る時の行程であるが、トイレに行くならばその後に体を拭き、車いすに乗り換えて同じ部屋の便器まで移動する行程が加わる。
 加えて彼女は足を全く使えないため、筋肉の発達が未熟で腹筋と括約筋の力が弱い。ただでさえ男性より膀胱が小さく尿道の短い女の体。
 出る時に力を下手に加えれば、弾みで漏れてしまうのは確実である。力を加えないよう慎重に湯船から出るが、その時間が余計に尿意を増加させる。

 縁を丁度またいだ時には、彼女の早めの限界が近づいていた。
 本当なら背に腹は代えられないとウィリアムを呼ぶところだが、帰ってきた気配はない。
(…ダメだわ…早くしないとっ……)
 やっとの思いで椅子に座り、カーテンを開けタオルを取ろうとした時だ。レールから冷たい露が彼女の首筋にポツンと落ちた。
「ひゃっ―あっ…ああぁ、ぅぅ…」
 驚いた拍子に腹に力を込めてしまった。生暖かい感覚が彼女の臀部に広がり、アンモニア臭が漂ってくる。
(うそっ…この私が…こんな…こんな惨めな…)
 ロザリアにとっての幸いは、そこがまだ風呂場の中だったことだろう。そうすればまだ洗い流すことは出来る。
 しかし、彼女の中には漏らしてしまったという羞恥心と背徳感が渦巻いていた。いや、風呂場なのだから(えい、この際しょうがない)と割り切ってしまえばまだ良かったが、そうでないならどこでも同じだ。
 彼女は再びカーテンを閉め、シャワーでそれを流した。


 タオルで体を拭き、下着と服を身につけて車いすに乗り一階に下りた。そして外に出て、散歩をした。雲行きは怪しく、雨が降り出しそうだった。

 月も星も顔を隠していた。
 風がロザリアの頬を撫で、髪を靡かせる。庭の道を車いすで歩いてみた。
 よく手入れされている庭は、ゴミ一つ見あたらない。木々も剪定されまっすぐ幹を延ばし、葉のある所はまるでボール球のように真ん丸だった。

 ロザリアが数年前に好きでよく見ていた魔界の花。青と白の花弁の混ざった薔薇の様な花だ。茎は必ず花の直前で小さな円を描くように育ち、棘は長く少し湾曲して伸びる。その形が冠に似ていることから『Monster's Crown(モンスターズ クラウン)』または『Succbus Crown(サキュバス クラウン)』と称される。
 淡く芳しい香りを放ち、魔界の植物の中でも人気は高い。これから作られる香水も人間界でも高値で取り引きされる。
 数年前、ロザリアがわがままを言ってウィリアムに植えさせたものだ。アーチにびっしりと葉と茎を巻き付かせ、これでもかと咲き誇っている。最初は物珍しく見に来ていたが、一年半も経つとほとんど見向きもしなくなった。
 あれからすっかり、というほどでもないが存在は薄れていた。しかし、ウィリアムはずっと手入れをし続けていたのだと、ロザリアは気づいた。
(そういえば、屋敷の中にもゴミ一つなかったな…脱ぎ捨てた服も次の日になればクローゼットに掛かっている)
 今思ったこと、いったい誰がしているのかといえば、それはウィリアム以外に答えはない。

 ロザリアはしばらくサキュバス クラウンの美しさと、その香りを堪能し屋敷内へ戻った。
(そういえば…)
 ロザリアはスロープではなく、その脇の扉を開け廊下を進んだ。この先は物置や過去に両親が使っていた部屋や書斎などがあった。
 彼女は両親の部屋を一つずつ見て回った。
(…やはり、埃一つない)
 ロザリアはくすっと笑った。埃もなく、シーツも新しく床はピカピカ。換気をしているのか空気も澱みはなかった。
 そして彼女は一つの部屋の前で止まった。前の二部屋と違い、両開きの扉ではなく、ただただ普通の押し扉。
(…中に入ったことは、一度もなかったな…)
 彼女は扉のノブに手を伸ばした。だが、一瞬掴むのをためらうようにその伸ばしていた手が勢いを失う。
 緊張したような面もちでノブを掴んでは見たが、とうとう開けることなく手を離した。

 ロザリアの緊張と躊躇いの理由は初めて入るということではなかった。彼女はふと思ってしまったのだ。 
 部屋の中にもし自分の悪口が書かれた日記や引き裂かれた人形が転がっていたらどうしよう、と。もし…何一つウィリアムの荷物がなかったら…、と。

 ロザリアは廊下を引き返し二階に上がって自室に入ると、ベッドに座り自分の足をもみ始めた。曲げ伸ばしを繰り返し血流を促進させる。
 そして車いすに移り、赤いクッションの敷かれた棺に再び移った。
 蓋を閉め、少し広い棺の中で寝返りをうってロザリアは目を閉じた。しかし、すぐに目を開けた。

 あんたなんか顔も見たくないっ

 もう出てってッ!どっか行っちゃいなさいよッ!

(ウィル、ホントに出て行っちゃったの…?
 …私があんな事を言ったから…?)
 夜は明け朝日が昇る頃、外から雨音がし始め、大きくなっていった。


 彼女は夢を見た。両親が後ろを向いてどこかへ行ってしまう夢。いつものことだった。

(「お母様ッ!お父様ッ!ローザを置いていかないでッ、戻ってきてッ」)
 いつも私はこう叫んで呼ぶの…でも立ち止まって振り向いてはくれない…。
 気配を感じて振り向くと、そこにはウィルが立っている。これもいつものこと…
(「ウィルッ、二人を連れ戻してッ!早くッ!」)
(「…………、……………」)
 いつもと違った。彼はいつもならお母様とお父様を追い、突然現れる門の前で道を塞がれてそのまま消える。そして私の目が覚める。
 だけど、今日は違った。ウィルは口を喋っている風には動かしている、いえ、喋っているのだけど、声が掠れるように小さくて聞こえない。
(「えっ?ウィル、もっとちゃんと喋りなさいッ!」)
 ウィルは私の言葉を無視するようにお母様とお父様を追って走った。
(「ウィル…あなたまで…?!戻ってきなさいッ、ウィルッ、ウィルーーッ」)
 ウィルは門をくぐって、門は音を立てて閉め切られた。


 雨は、彼女が夢の中にいる内にすっかり上がっていた。夜の匂いに雨の匂いが混ざり込み、深呼吸でもしたくなるような夜だった。
 ロザリアは息を荒げて、目を見開いていた。右手がジンジンと痛んだ、おそらく蓋にぶつけたのだろう。
 ロザリアは起きあがり車いすに移った。
「ウィルッ、ウィルーッ?!」
 叫んで呼んでみたが、やはり誰も来ない。返事もない。
(…やっぱり、いない………)

 昨日のように自力で部屋の外へ出て、一階の食堂へ下りた。厨房の棚からまだ湯気を立てている料理とミルクティーを取り出し、テーブルの上に置いた。
 一口、二口、口に運んだがそこでもうフォークを置いた。なにか、胸の中から抜け落ちてしまったような感覚がした。味が遠い、背中がとてもスカスカするような、胸の中がモヤモヤするような感覚。
(そうよ、あんな変な夢を見たからだわ…だからこんな…)
 ロザリアはそう思いたかった。夢のせいだと、夢のせいでこんな嫌な思いをしているのだと。

 ロザリアは少し気落ちした様子で自室に戻った。
 そして三十分が経ち、一時間が経ち、彼女の目にふとぬいぐるみが写った。黒い猫とも熊とも、何とも付かない形のぬいぐるみ。ボタンの目に、糸でギザギザと描かれたような口。
 ずっとベッドの片隅に座らされたままのその人形を、ロザリアは思わず手に取り、抱き締めていた。
「ウィル…ウィルゥ……ウィリアム……うぅっ、ううぅ…うぐっ…うわぁあぁぅ……」

(「あれがほしいわっ!」)
(「あれ…ですか?」)
 車いすの少女の指さした先には黒いぬいぐるみ。
(「私が欲しいと行っているの、買いなさいっ!」)
(「分かりました。」)
 少年は店員の所に行った。
(「あのぬいぐるみをいただけますか?」)
(「いいわよ、ぼうや。妹さんとお出かけ?」)
(「あ、兄妹じゃないんです…」)
(「じゃあ、彼女さん?」)
(「め、滅相もない。…主人なんです。僕は執事兼使用人ってやつらしいです」)
(「そうなの。はい、どうぞ」)
 少年はそれを買って戻ってきた。
(「どうぞ、お嬢様」)
(「ありがと。…うふふ、ずっと一緒よ。
 …ウィルは一緒に居てくれるの?」)
(「…はい、ロザリアお嬢様さえよろしければ…是非…」)

 このぬいぐるみは、幼い頃にロザリアが初めてウィリアムに買ってもらった物だ。今までそのことは頭の奥深くに忘れられていた。
「ウィリアム…ぅっ…ごめんなさいぃ…ずっと一緒にいるって…えぐっ…言ってくれたのにぃ………私ぃ…私はぁ…」
 ロザリアはぬいぐるみを抱き締め、顔を埋めて泣いた。いつも傍にいたウィリアムの存在は、親と離れて暮らすロザリアにとって大きな物となっていた。しかし、その事に彼女は今の今まで気づかなかった。
 居て当然、どんなことを言おうと、何をしようとウィリアムは居なくならない。そんな幻想、勘違いをしていたことに、彼女は今気づいたのだ。
 ロザリアの後悔と、自責と、寂しさがこもった悲哀の声がその部屋に満ちた。

 数時間がたった頃、もうその部屋に彼女の声は響いていなかった。だが、ぬいぐるみを抱き締めている彼女は、ただただ力無い様子で涙の跡をその可愛い顔の両頬に残して、瞳はどことも付かぬ空(くう)を見つめていた。
(…風にでもあたって落ち着こ…)
 ロザリアは外に出て、門をくぐった。当てもなくただただ車いすを動かし、自分の気持ちが落ち着くのを待った。
 森を延々彷徨って、やがて道からも反れて木々の間を進んでいた。
(…ウィリアム…)
 そうして彷徨い続けた末に、彼女の気持ちが落ち着くことなどなかった。この間中、ずっと彼女の頭には傍にいたウィリアムの記憶と、彼に対しての「ごめんなさい」という言葉が渦巻き続けていた。
 彼女はただ呆けながら車いすの車輪を回し続けていた。俯いた視線には前方の風景など写っておらず、いつ木に衝突してもおかしくないような状態だ。
 ただどこにも何にもぶつかることもなく、彼女は進めていた。そう、不運なことに…

 やがて彼女は微妙に車輪が重くなったことに気づきながらも、無視して回し続けた。そして、彼女は森を抜けてしまう…
「っ―!」
 気づいた時にはもう時すでに遅し。彼女の視界の中で前輪が崖の端からはずれようとしていた。
 ロザリアは何とか戻ろうと車輪を後ろに回した。だが突如として地面がボロリと崩れたのである。降っていた雨の影響だったのだろう、瞬間にロザリアの体が浮いた。
「きゃあッ―!」


 ランタンと車いすは遙か下の地面に叩き付けられた。
「ひっ―」
 その光景とあまりの高さを目の当たりにし、ロザリアは思わず恐怖した。
 崖から生えた木の根とも蔓とも付かないものを咄嗟に掴み、彼女は転落死を免れたのである。しかし、そこまで。もうこれ以上何も為す術がなかった。
 ヴァンパイアの怪力でぶら下がってはいるが、50センチ上まで手は届かない。崖壁に足を付いて蔓をロープのようにして上がることは出来るかも知れないが、動く足は彼女にはない。

「だ、誰かぁっ!誰か助けてぇっ!」
 彼女は必死に助けを呼んだが、ここは町から離れた森の中、おまけに夜中とあって誰もいない。
 それでも彼女は助けを呼び続けた。だれかが来てくれるのを信じて。
「誰かぁっ!助けてぇっ!誰かぁっ!」
 夜の森の空に声が響く。しかし、その声は誰の耳にも届くことはなかった。

 やがて彼女は、崖面に自分の影がうっすらと写り始めていることに気づく。夜が明け始めたのだ。
(そんなっ…もう夜が明けるっ?!)
 彼女のツタを掴む手がゆっくりとずり落ち始める。
(だめッ…力が…抜ける…)
 日光を浴び始めた彼女の力は、人間並みに低下する。その腕に彼女の体を支えていられるような力はなかった。
(…ああ、死んじゃうんだ…私 …独りぼっちで…ウィルに謝れないまま…感謝も伝えられないまま…)
 とうとう、ロザリアは死を覚悟した。涙が零れてきてしまう…

「ごめんなさい、ウィル…今度の居場所では…どうか幸せに―」

 ついに手が放れた…
 彼女の体をフワッとした感覚が包んだ…


10/12/28 01:10更新 / アバロンU世
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■作者メッセージ
 序説でも記しましたとおり、読み切りのつもりだったものを二話に分割させていただきました。
 後半も近々投稿しますので、お待ち下さいませ。

 お楽しみ頂けたら光栄です。

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