連載小説
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危機感の薄い学者と男装の麗人
「しかし……まさか司祭様と直接議論の場を設けていただけるとは思っていませんでした。あまりにも突然だったので驚いてしまいましたが……今すぐにという話でなければ、一度学院に戻り原稿を持参したのですが」
「…………」
「地下室……静かで涼しく、集中するには良い環境ですね、私にとっては。良い椅子があればですが」

教団の声明に対する反駁文を発表し、講演を行った一週間と3日後。私は、聖堂の地下へと向かう階段を下りていた。
私の先を歩く神官と出会ったのはつい先程、日課の散歩の途中だった。彼いわく、直々に今すぐにでも議論の場を設けたいという事らしく、私は聖堂へと招かれる事となった。
かつて真実を隠匿していた事と、家庭環境の事をはじめとして主神教団にはあまり良い印象がなかったが、こうして議論を交わし、見識を深める機会を設けてくれたからには、応えない理由はないし、感謝しなければならない。教団という組織に対する認識を改める必要があるだろう。我が国ステイシアの主神教団の権威と直接議論が出来るとは、これはなかなか名誉なことだ。

「こんにちは、セオ・エツィゾレアムです。今日はお招きいただきありがとうございます。司祭様はまだ来られていないみたいですね」

地下室の扉が開かれると、そこには衛兵が一人。司祭の護衛だろうか。肝心の司祭はまだ部屋にはいないらしい。残念ながら、机と椅子はあまり上等なものではなく、部屋は多少薄暗い。あまり歓迎されていないのだろうか。

「あぁ、この席、座っても?」

とりあえずは、一番まともそうな椅子を確保する。背後では、扉の閉まる重い音。鋼鉄の扉は、有事の際に備えたものなのだろうか。

「…………貴方は魔に魅入られています。人々を扇動し、この国を堕落へと、破滅へと導こうとしています。その罪深さがわかりますか?」
「……はい?」

散歩中の私に話しかけてきた時の柔和な表情とはかけ離れた、険しい表情。
機微に疎い私でも、流石に状況が穏やかでないことは分かる。何故いきなり魔に魅入られているのなんだのと言われているのかは分からないが、少なくとも確保した椅子が司祭のために用意されたモノだからとか、礼節を欠いていたとかそういうことではないらしい。恐らく。

「あの流言を撤回してください。魔物との共存など戯言であると、主神様の教えこそが正しいのだと、そう認めてください。さすれば主神様も貴方をお赦しになるでしょう」
「あの……議論を行うつもりがないのであれば、帰らせていただきますが?」
「いいえ、魔に魅入られたまま、貴方を此処から出すわけにはいきません」
「……”歴史は繰り返す”、ですか」

ただならぬ雰囲気でまくしたてる神官。視線を正面に戻せば、衛兵もまた私を睨みつけている。
思い出すのは、過去に起きた、魔物に襲われた人々の帰還運動と真実隠蔽を行う教団への追求運動。そこには教団による弾圧があったとされている。
だが、教団の権威が失墜し、処罰権も失った理由の一つもまた、その弾圧の極致とも言える暗殺未遂の露呈だった。その露呈には過激派の暗躍もあったのではないかと私は踏んでいるが、とにかく弾圧には揺り戻しが伴う事を教団も学んだはずだ。学んだはずなのに。今では教団に人を裁く権利はなく、監禁と脅迫を行えば当然に罰せられると言うのに。まさか……その”まさか”がこの身に降りかかろうとしているのか。
“歴史は繰り返す”……あぁ、”愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ”と言うのであれば、私は己の見通しの甘さを、愚かさを恥じねばならないだろう。




「……ですから、あの主張を取り下げろと言うのであれば、私の主張が誤っているという根拠を提示してください」
「まだそんな口を……!神に背いているのですよ……!その罪深さがなぜ分からないのですか……!」
「先ほども言いましたが、確かに私の主張は主神信仰の価値観に反していますが、それは私の主張に瑕疵が存在する事を意味しません。あくまでも私の主張は、”魔物との共存が技術・学問の進歩を阻害し文化を破壊するとは言い難く、むしろこれらの発展に寄与することが期待される”……という点にあります。そもそも神に背くことの是非は問題にしていません」

たとえ、監禁と脅迫と称するに値する状況にあったとしても。それでも私には、学者の端くれとしての矜持があった。己の主張が十全に正しいとは思っていないが、そうだとしても、無根拠な否定と脅迫に屈するわけにはいかない。たとえ相手が論壇から降りても、私は論壇に立ち続ける。それが矜持というものだろう。

「貴方は、貴方は……!主神様が間違っていると言うのですか!!」
「ですから……私の主張の上では、神に背くことの是非は問題にしていません。その上で、その問いに答えるのであれば……魔物に関する主神の教えは、過去の資料と照らし合わせても魔王の代替わり前後で更新されておらず、魔物の在り方の変化と私達をとりまく現状を適切に反映したものではないため、規範として妥当ではないと考えています。妥当性を欠いているという意味では、”間違っている”と主張していると受け取ってもらって相違ありません」
「主神様が……間違っているなど……!!」
「お前、言わせておけばッ……!!」
「あぁ……なるほど……」

真摯に己の考えを言語化し、相手の考えを引き出そうとしても、会話は成立せず、そして、何故か相手は激昂していた。明確な敵意、そして害意。さっきまで口を挟まずにいた衛兵も、怒気を露わに、私へと詰め寄ってくる。
私は、本格的に身の危険を感じながら、8歳の冬の日の出来事を思い出していた。母親に”なぜ主神様の教えを守らなければならないのですか?”から始まる一連の問いを投げかけ続け、酷く怒られ、頬を叩かれた事を。ただし今回は、頬を叩かれる程度では済みそうにない。あぁ、学者の矜持の為とは言えど、やはり痛いのは嫌だし、暴力は恐ろしい物だ。だが、矜持を捨て無価値な人間と成り下がるよりは余程ましだ。
痛みを覚悟したその時――

「御機嫌よう、諸君」
「誰だッ……!?」
「……と言いたいところだが、随分と穏やかでない様子だね」

不意に、鋼鉄の扉の開く音。凛とした女性の声。突然の闖入者に、場の全員の視線が集まる。

「ふふ……問われたなら答えよう。僕はクレア・クラレット……しがないバッカスの信徒さ」

現れたのは、燕尾服を纏った男装の麗人。しかし、その出で立ちは人間のそれではなかった。下半身を覆うワインレッドの体毛に、艶やかでふんわりとした毛並みの尻尾。そして、頭を彩る大きな巻き角。山羊の特徴を持つ獣人、サテュロスだ。
タイトな白いシャツの中から主張するのは、はちきれんばかりのたわわな果実。燕尾服のボタンは胸の下で留められていて、その豊満さをさらに強調していた。
腰回りはきゅっと絞られ、細いくびれが露わに。身体に追従する細身のシルエットが、指の先まで女体をくっきりと映し出す。凛々しさ、華やかさ、そしてその下から溢れ出る色香。男装の妙が、そこにあった。
彼女は、その端正な顔立ちに微笑みを浮かべ、一歩ずつ、蹄を鳴らしながらゆっくりと歩み寄ってくる。その手に握られているのは、黒いステッキと小さなワインボトル。紳士然としたその装いは、堂に入っていた。

「ま、魔物……!?」
「どうして此処に……!」
「さて君達……乱暴を働こうとするのはやめにして、まずは一杯どうかな?勿論、戦いに来たわけではないんだ。ただ……そちらの彼の扱いを見かねて、ね」
「えー……あー……?ありがとうございます」

突然現れた魔物に狼狽える二人、そして私をよそに、サテュロスはワインボトルを軽く掲げる。
そして彼女は、僕に流し目を送り、軽くウィンクをしてくれる。優しげながらも頼もしげなその瞳は、”もう大丈夫”と語りかけてくれているように見えて。それは、私に安心と安堵をもたらしてくれた。過激派の差し金か何なのか、経緯はよくわからないが、とにかく、きっと、彼女は私を助けに来てくれたのだろう。どうかそうであってほしい。

「くっ……直接聖堂に攻め込んでくるとは……!あぁ、創造主たる我らが神よ――――」
「貴様ッ、やはり関係していたのか……!」

驚愕と一瞬の逡巡の後、神父が祈りの言葉を唱え魔法の詠唱に入り、衛兵が剣を抜き放ち、サテュロスへと斬りかかる。

「なるほど、酒も言葉も交わす気はないと、彼を解放する気もないと……残念だ」
「なっ……」

刃を前に、臆することなく、後ずさりすることもなく。彼女はその優雅な歩みを止めず、手にした杖を振るっていた。
杖に施された白銀の装飾、おそらくは魔界銀のものであろう美しい輝きが目を惹いて。次の瞬間、衛兵の剣は空を切っていた。

「ならば……是が非でも、彼を解放してもらうよ」
「貴様ぁ……!ぐっ……」

続け様に、魔界銀の杖先が衛兵の手首を打ち据える。衛兵は剣を取り落としながらも、もう片方の腕で殴り掛かろうとするが、次は脚を突かれて姿勢を崩し、倒れこんで行く。

「うん、君にはそこに座っていて貰おうか」
「なん……だとぉ……っ」

しかし彼女は、倒れこむ衛兵を杖先で支え、その方向を変えてやって……結果として衛兵が無様に地に伏すことはなく、傍らの椅子に座り込むことになっていた。
刃を向けられてなお、崩れぬ悠然たる立ち振る舞い。敵にさえ情けをかける慈悲深さ。彼女の所作は、徹底的なまでに余裕に満ち溢れていて。その余裕が、遊びが、洗練された美しさと色香さえ放っていた。

「さ……まだ続けるかい?」

そして彼女は、杖の間合いの外で詠唱を続けていた神官へと、その銀の杖先を向ける。その微笑みは、穏やかにも不敵にも見える。

「避けて――」
「ふふ、心配には及ばないよ」
「ぐっ――」

しかし、彼女の言葉は届かず、神官は今まさに詠唱を紡ぎ終えようとしていて。魔法の兆し、励起された魔力の輝きが、それを物語っている。杖で打ち据え、無力化するには間に合わない距離。
慌てて警告の声をあげた、その時――
魔法が行使されるよりも早く、杖先から小さな光が迸り神官の胸を何かが貫く。それが、レスカティエで発掘された古代の非殺傷兵器、”銃”の弾丸であるのだと、彼女が手にしているのはステッキに偽装された仕込み銃であるのだと、そう推察を立てた時には既に、神官は気を失っていて。彼女の狙い通りか偶然か、神官もまた、背後の椅子に座り込む形で倒れる事となっていた。

「貴様よくもっ……!ぐぁっ――」

そして、片腕と足の自由を奪われた衛兵が、最後の足掻きと言わんばかりに、傍らにあった蜂蜜酒の瓶を掴み、彼女へと投げつけようとするが……
彼女はそれを予見していたかのように、振り向くことなく銃を向け、衛兵へと弾丸を放つ。今度は、私が警告する間もなかった。

「……ね?心配には及ばなかっただろう?」

蜂蜜酒の瓶が、気絶した衛兵の手を離れ、地面に落ちようとしていく。彼女はそれにちらっと目をやり、杖もしくは銃を逆に携える。そして、湾曲した持ち手部分を器用に引っ掛け、瓶を手繰り寄せて。誇らしげに、しかし気取り過ぎることなく自然に、その瓶を掲げる。

「でも、心配してくれたのは嬉しかったよ、セオ君。……君も、無事かな?」
「あ…………は、はい……」
「あぁっ、それは良かった……」
「ぁ………」

気がついた時には、彼女は私の目前に。茶目っ気交じりの優雅さを前に私は、視線を逸らすことが出来なかった。そして、先程までの余裕に満ちた振る舞いとは裏腹に、彼女は心配気に私の顔を覗き込んできて。私の無事を確かめ、その顔に穏やかな微笑みが戻る。
そして当の私は……暴力の恐怖から解放され安堵を覚えているはずなのに、心臓の音が激しく響いて、鳴り止まない。ほんの少し前まで、脅迫にも屈さず言葉を紡いでいたはずなのに、感謝の言葉さえも声にならない。マスカットを彷彿とさせる鮮やかな緑の瞳から、視線を逸らせない。よくわからない、よくわからないが異常だ。私は一体、どうしてしまったというのだろうか。

「それでは……失礼するよ。……ん」
「ぁぇっ…………」

そして彼女は、硬直する私の右手を取り……恭しく、手の甲に口づけを交わす。紳士的な所作とは裏腹に、手の甲に感じる感触はあまりにも柔らかく、女性的だった。
初めてこの身で知る、女性の唇。挨拶代わりの軽いキスでさえも、私にとっては未知の代物で。私は、困惑と驚きに情けない声をあげずにはいられなかった。

「ふふ……挨拶のつもりだったのだけど……可愛い人だ。さ、立てるかい?家までエスコートしよう」
「は……はぃ…………」

彼女に手を引かれるがまま、立ち上がる。手袋越しでもはっきりと伝わる、その指のしなやかさ。それは確かに女性のものながらも、強さと頼もしさを携えていて。
そして彼女は私の手を引き、覚束ない足取りを気遣うように寄り添ってくれる。彼女の行いはさながら、囚われの姫を救い出す騎士のよう。そして、それに留まらず、もっと優しく、私を導いてくれるものだった。
まるで熟した葡萄のように甘い色香。それは、この胸の鼓動も、戸惑いもを包み込んでくれて……私は彼女に導かれるがまま、地下室を後にするのだった。





「うん……君の家は此処で間違いないね?」
「あ……はい。此処です」

結果として、私達は人々の注目を全く集めないまま、私の家へと辿り着いた。幸いなことに、街を歩く間に、私はある程度の平常心を取り戻すことが出来ていた。
聖堂を出る時、何処からともなく魔術の気配を感じたのを覚えている。彼女には仲間が居て、それが人払いなり認識阻害なりの魔法をかけてくれたのだろう。主神に連なる神であるバッカスの加護を受けている事は、この国の在留資格と成り得るが、スムーズに私を家へと送り届けるための措置だろうか。

「くどいようですが、本当にありがとうございます」
「ふふ……礼には及ばないよ。君を助けずにはいられなかった、それだけの事さ」

彼女は素性こそ知れないが、命の恩人と言っても過言ではない。それを礼には及ばないと語る彼女の言葉は曇りない。歯が浮くような台詞をこうもさらっと言ってのけるのは、言葉巧みなサテュロスという種族柄なのだろうが、それを知っていても、心を乱されそうになる。

「とにかく……もう安心だ。きっと疲れているだろうから……ゆっくりと休んでほしいかな。もちろん、教団の心配はしなくていい。他の子達が上手くやってくれるから」
「……レスカティエの”急進派”……ですか」
「流石、よく知っているね。その"急進派"だ。でも……僕自身は協力者という立場の方が近いかな?」
「やはり、そうでしたか。であれば、確かに身の心配は不要そうですね」

レスカティエ由来の武器である"銃"と、教団の弾圧行為への積極的介入。予想通り、彼女の後ろ盾は旧レスカティエ教国を侵略した急進派、特に人間からは過激派と呼ばれることの多い派閥だった。一般には旧レスカティエの侵略のイメージが強い過激派だが、実際の所、侵略行為は手段の一つであり、緊急時でなければ水面下で事を進めると聞く。少なくとも、その行動理念からして、私の身の安全を確保してくれるのは本当だろう。

「貴女達の行為には色々と思う所や疑問があるのですが……それはさておいて、まずは何かしらの形でお礼をすべきかと考えています。教団の行為の告発は組織的には利害が一致しそうですが、個人的なものになると……やはり謝金が妥当でしょうか。いや、しかし、魔物はあまり金銭に価値を見出さないと聞きますし……申し訳ないのですが、何が妥当なのか判りかねます。どうすれば良いでしょうか」
「ふふ……礼には及ばない、そう言ったはずさ。気持ちはとても嬉しいけど……ね?」
「あ、はい、分かりました」

礼には及ばない。これが一種の社交辞令なのか否かを判断する術を持たないからこそ、彼女の言葉を信じることにする。幸い、彼女は言葉に責任を持つタイプのように見える。読み違えたとしていても、責められることはないだろう。たぶん。

「でも……もし君がよければ今度、二人きりで食事でもいかがかな。見返りを求めているわけじゃなくて……僕からの純粋なお誘いさ。あぁ、僕は正式な手続きで入国しているし、後の始末も任せてあるから、そこは大丈夫」
「私と食事、ですか……?酒は嗜まない身ですが、それでもよければ」

あくまでも見返りは求めないとして、その上での食事の誘い。これが実質的な”落とし所”の提示になっていることは、機微に疎い私でも気づくことが出来た。
これが社交術か、と感心する一方、私は酒を嗜まない主義であるため、単に酒を飲み交わすことが目的として食事に誘われているのだとしたら、申し訳ないことだ。

「それは残念だけど……たとえ酒を飲み交わせずとも、僕は君と語らいたい。そう思っているよ」
「あぁ、そういうことであれば是非とも論を交わしたいものです……!」

酒の神バッカスによれば、酒だけでなく言葉を交わすこともまた教義のうち。バッカスの信徒として対話を重要視する彼女のその姿勢は、学者である私からしても好ましいものだった。この国でも認められているバッカス信仰はともかく、過激派に縁のある人物の考えに触れる機会など、国内ではまずないだろう。その貴重な機会を喜ばずにはいられない。

「ふふ……そこまで大仰じゃなく、他愛の無い話のつもりだったのだけれど。でも、君も乗り気で何より」
「あ、あぁ……失礼しました、悪癖、ですね……」

微笑みながらも、やんわりとした訂正。どうやら彼女はそこまで込み入った話を望んでいるようではなかった。
すぐに議論や討論へと持っていこうとする、あるいは激しく食いついて他の事が見えなくなってしまうのは、自分の悪い癖だ。
今日の出来事にせよ、議論と聞いて、監禁と脅迫の可能性がすっぽりと頭から抜け落ちてしまっていたのだから、やはり愚かだったと言う他ない。そして、この身を危険に晒したその日のうちにこの有様だという事実が、私の心を強く苛む。学習・判断能力の欠如。途端に、自分が無価値に思えていく。自己嫌悪に陥っている自分に気づき、それをまた嫌悪せずにはいられない。疲労が悪い方向に働いている自覚はあっても、それを止められるわけではなかった。

「いいや、君が望むなら喜んで語ろうじゃないか。だから、そんな顔はしないで」
「ぁ……」

不意に、頬に触れる優しい手つき。俯いた私を上向かせ、彼女は優しい眼差しで私を見つめてくれる。それだけの事で、ふっと心が楽になる。僅かな曇りも許さないその丁重な扱いは、何処か現実離れしたように感じられてしまう。

「それに、僕はね――」

そして彼女は、その端麗な顔を近づけてきて……

「――君を知りたいんだ」

甘い吐息が、唇をくすぐる。ワインのような香り。放たれた言葉は、まるで反響するように妖艶に、脳裏に響き渡る。淡い緑の瞳に、吸い込まれてしまいそう。その微笑みは優しくも、妖しげで。
しかし、それの意味する所を、私は理解しかねていた。理解はおろか、思考を揺さぶられ、推察さえもおぼつかない。

「ぇ……ぁ……そ、それは……どのような……意味で……」

“君を知りたい”。近づいた距離、意味深な言葉に、先程までの負の連鎖は容易く吹き飛ばされてしまって。心臓が壊れそうに早鐘を打ち、挨拶代わりのキスの時よりも激しく、私の心はかき乱されていた。

「ふふ……言葉通りの意味だよ、セオ君」
「さ……ささ、左様……ですか……」

そして、彼女は悪戯な笑みを浮かべ、そっと距離を元に戻していく。
その真意は、秘められたまま。ただ分かっているのは、彼女が私の事を知りたいという、たったそれだけ。
私の何を知りたいのか、何のために知りたいのか、それが語られることはなく。それを追求する余裕は、私には残されていなかった。

「さて……やはりお疲れのようだから、名残惜しいけど今日はお暇するよ。君さえ良ければ……また明日、この時間に迎えに来る。それで大丈夫かな?」
「え、えぇ、はい……大丈夫、です……」
「ふふ……楽しみにしているよ。それでは……おやすみ、セオ君」
「ぁ……おやすみ……なさい……」

意味深な言葉を告げるだけ告げて、そこからあまりにも自然に、彼女は踵を返そうとする。勿論、私はそれを引き止められず、彼女のペースに乗せられるがまま。それでも、私の事を気遣ってくれている事は確かだと感じられるからか、決して不快ではなかった。
そして、大仰に一礼し、彼女は颯爽と去っていく。その後ろ姿もまた麗しく、私の目を惹きつける。彼女の姿が見えなくなるまで、見送りを続けてしまう。彼女が離れていく事に、今まで味わったことのない名残惜しさを感じてしまう。

「……」

静寂の中、肌寒さに我に返る。ふと思い出すのは、手の甲で感じた、彼女の唇の感触。ほんの少し触れただけなのに、とろけるように熱く、柔らかかった。
彼女のあの言葉は、好意と解釈出来るのではないだろうか。もしかして私は、口説かれていたのではないだろうか。ともすれば、伴侶にすべく交わろうと狙っているのではないだろうか。
いや、サテュロスという種族は、クレア・クラレットという女性は誰に対してもああいった振る舞いをする……そう考える方が自然だ。よりにもよって私を選ぶ理由が思い浮かばない。
私個人に興味があるのは確かだとしても、それは恐らく私の思想や思考といった、学者として属人化されたものだと解釈する方が妥当だろう。私が彼女に提供できる価値、という観点から見ても尤もらしい推察なはずだ。
魔物の生態を加味しても、彼女に好意を抱かれているなどと考えるのは、思い上がりと言うものだろう。しかし……もしかすれば、それも有り得るかも知れない。そして、その期待にも似た考えを愚かだと思いつつも、その"もしかして"が、頭から離れなくなってしまっていた。

19/08/06 00:23更新 / REID
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