連載小説
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とろけるあまさのデッド・エンド
 つらい。はるさんが隣にいないこともつらい。
 日曜日の上り電車は誰も彼もが休日を満喫するときの顔をしていて、俺と同じような顔をしているのはちらほらいるサラリーマンらしき人たちだけだった。子どもたちははしゃぎ、親たちはそれを見守り、それらから暖かな家庭を想像できた。
 ここはアウェーだ。これから行く場所もアウェーだし、ゴールだってできるかどうか。断続的にゆるやかに襲いかかってくる吐き気を堪えるのがせいぜいの状態は、万全とは程遠い。
 乗り物酔いには強いタチだって自覚しているのに、今日ばかりはどうしても気分が優れない。全身になにかが纏わりついてるみたいにだるいし、頭の中で不快感が自己主張してきてる。ただ父に会いに行くだけ。それだけのことが、ここまで重く感じるなんて。
 少しでも気を逸らそうとして目を瞑り、思い出す。昨日のこと。はるさんの実家に行って、ご両親に挨拶したときのことを――。


 急行の電車をいくつか乗り継いでいって数時間ほど過ごし、ようやく降りた場所は"親魔発展指定都市政策"に含まれているニュータウンだった。海に近いのか、風の匂いに少しだけ潮っぽいものを感じて。舗装されたばかりに見えるアスファルトと、立ち並ぶ新築らしき綺麗さの家々。
 若々しさを感じる街だった。

「はるさんのご実家ってこんな遠かったの?」
「そうなのだ。だからね、鷹見くんと出会ったのは本当に偶然なんだよー。あ、あそこのお菓子屋さんのマフィンね、すごくかわいくて美味しいんだよ!帰りに買っていこー」

 そういう下らない話をしながら手を繋いではるさんに先導され、ご実家までてくてくと歩いた。地元とは違って、はるさんはここではデーモンであることを隠そうとしていなかった。デーモンで私服姿のはるさんを見るのはなかなか新鮮だったし、めちゃくちゃ可愛かった。
 いろいろと見て回りながら徒歩で二十分ほど歩き、たどり着いたのは立派な一戸建てだった。かなり緊張していたから家の大きさにもビビっていたし、それを見たはるさんのニヤニヤした顔は忘れられなかった。帰ったあと仕返しした。
 はるさんの後ろに続いて玄関をくぐると、お義母さんが笑顔で出迎えてくれた。はるさんの面影がありながらも成熟した妖艶な魅力があって、でもやっぱりはるさんのお義母さんだった。

「で、はる。どこまでヤった?」
「そりゃあもう、ね?」
「だよねー!どんなかんじ?どんなかんじ?」
「すごく優しくしてあげてねー、そこからこう……じわじわと逃げ場をなくして」
「あるある!やるよねー」

 これあるある話なの?
 大人の女性って雰囲気に似合わずめっちゃフランクなお義母さんがはるさんと二人してニヤニヤとこっちを見ながらシモの話を始めた辺りで所在なくしていると、家の奥から出てきたお義父さんが二人をたしなめてくれた。その時、自分の緊張はお門違いだったことがようやくわかった。
 お義父さんはとてもいい人で、真摯で真面目で度量の広い人だった。にこやかに家の中に通され、居間で座らされると、すぐにお義母さんから質問攻めを受けた。お義父さんも微笑みながら聞いていた。
 出会ったきっかけ、互いの好きなところ、はるさんの作ってくれる料理のこと、出会った日の話、魔物娘に対する認識、こっちの家の話、両親の話。
 脱線ばかりの会話だったけど、お義母さんもお義父さんもこちらへの目つきはとても優しかった。だからといって、しっかり言わないのは良くない。話が途切れたところでお義父さんに向き直り、頭を下げた。

「お義父さん。僕に、はるさんを妻にする許可をください」

 一言一句迷いなく、言い切った。
 はるさんからのプロボーズを受けたあの日、自分の中に躊躇わない勇気が生まれた。

「幸せにしてやってくれ」

 お義父さんの柔らかな言葉を、つま先から頭の天辺まで染み込ませた。自分の一生を賭けて彼女を幸せにする、とお義父さんに言った途端にはるさんが号泣し始めて心底焦ったけど、義両親は嬉しそうに笑っていた。


 それからお昼をご馳走になって、その日に帰って。帰りの電車に揺られながら、やらなくちゃいけないことを頭に思い浮かべた。一番先頭に出てきたのは父のことだった。
 はるさんの両親が羨ましくて、でもそれは嫉妬とは違う羨ましさだった。二人ともが濁りなく純粋に愛し合っているのがわかったし、その両親を紹介するはるさんも少し誇らしげに見えた。俺はどうだろう。たぶん父も母も誇ろうとは思えない。だって、知っていることが少なすぎる。知らないことは誇れない。
 帰ったあとに家で父さんに電話すると、ちょっと待たされたあとに回線が繋がった。いくつか話をして、流れで墓参りに行くことになり、そうして今日、二週間ぶりに父さんと会うことになった。
 今まで訊かなかったことを、なんとしてでも言わないといけない。この機会を逃すと、たぶんもう自分から動こうとはしないだろう。
 都心へ向かうごとに人が入れ替わり立ち替わりしていくのを横目で眺めながら、口の中に苦く溜まった唾液をなんとか飲み下すのがやっとだった。たぶんこの不快感は、父への罪悪感も含まれているんだろうな。
 匂いでバレるかもしれないし、ひどく怒られるかもしれないけど、それ以上に父親とまともに向き合うのが怖かった。







 党のオフィスで父に訪ねてきたことを伝え、すぐに背広姿の父が来た。そこから父の車に乗り込み、都心からそこそこ離れた位置にある霊園へ向かった。
 その車の中は煙草の匂いが充満していて、そのことを訊いて初めて父が煙草を吸うことを知った。吐き気は、どういうわけか父の疲れが見える顔を目で捉えたときにストンと引っ込んでいった。

「子どもに副流煙を吸わせたくないからな……家では吸わなかったんだ」
「そっか」

 それで会話が終わり、あとは二人とも無言だった。
 高速道で三十分ほど飛ばしてから一般道に降りて、程なくして霊園に到着する。手慣れた仕草でハンドルを動かして綺麗に駐車させた父を見て、俺も免許取らないとダメかな、なんてどうでもいいことを考えた。はるさんとドライブ、か。
 近くの花屋さんでお供えするための花束を買って、お寺で桶と線香をいただいてからお墓へ向かった。

「ゆうきを墓参りに連れてくるのは初めてだったか」
「うん」
「忙しかったからな……水をかけてあげて、それから手を合わせて拝む。自分のことを報告する。それくらいだ」

 墓石に書いてある鷹見の文字。父の家系の名前。お祖父ちゃんもお祖母ちゃんもよく覚えてないけど、小さいころに実家へ遊びに行ったことが何度かあるらしい。父さんと母さんが離婚したあとの身辺が片付くまでの少しの間だけ、お世話になった覚えもある。思い浮かぶ顔はぼやけてるけど、二人とも優しかったのは確かだ。
 父に倣って花瓶の花を取り替え、線香を供えて、それから墓石に柄杓でゆっくりと水をかける。それから手を合わせて、目を瞑る。

報告、報告か。なにを報告すればいいんだろう。
えっと、そろそろ大学生になります。受験勉強が大変です。
彼女ができました。お祖父ちゃんは怒るかもしれないけど、魔物娘の子です。たぶん、お祖父ちゃんが言うほど彼女たちはひどくありません。
あとはなに言えばいいかな。……今までお参りできなくて、ごめんなさい。ありがとう。

 目を開けて横を向くと、ちょうど父さんが懐から煙草を取り出すところだった。その仕草もかっこよくて、だけどやっぱりどこか疲れてるように見えた。
 ライターで火をつけて、煙を吐き出して。墓前は禁煙じゃないもんな。今はどこもかしこも禁煙だから、喫煙できる場所は貴重なんだろう。

「大学はどうするんだ」

 不意に声をかけられて、見つめ返される。あんまりされたことのない視線だ。昔と今を比べられている目つき。子どもの成長を確かめている親の視線。

「どことかは、別に……良さそうなところ」
「そうか」

 そこから話をふくらませるわけでもなく、父さんは視線を外して煙草を吸う。俺も父から墓へ目を向ける。水をかけられて湿った、綺麗な墓石。線香と煙草の混ざった、煙の匂い。ざあ、と風が吹いて煙が流されていく。
 訊こう。

「――あのさ」
「なんだ」
「なんで離婚したの。父さんは」
「それは……そうだな。もう、ゆうきも高校三年だったな」

 ちょっと躊躇ってから、父さんは目を下に向けてぽつぽつと話し始める。とても言い難そうな、苦しげに見える表情。あれ、と頭の中で疑問符が出た。

「ゆめは難病を患っていた。お前を産んでから数年経って忘れかけてたころ、再発した。もともと病弱で、なのにすごく元気な奴なんだ」

 ゆめ。母さんの名だ。父さんからその名前を聞くのも、もしかしたら初めてかもしれない。

「恐ろしい速度で病状が悪化した。手術してもどうしようもないくらいに。ゆめが助かるには魔力薬を使うしかなかった。魔物化すればあらゆる病気が治るし、腫瘍や欠損だって全て治癒する。選択の余地がなかった」
「え」

 思わず後ろに下がって、桶を蹴飛ばしそうになる。魔力薬。母さんを魔物化させたんだ。でもそれは、遅かれ早かれ父さんの立場を大きく揺るがすことになる。そんなの、俺にだって想像できた。
 父さんは空を仰いで、煙を吐き出す。紫煙はゆっくりと天に昇っていき、風にかき混ぜられて薄く広がっていく。

「だから、離婚した。ゆめも同意してくれた」
「……」
「二択を迫られた時、人は必ずどちらかを選ばなくてはいけない。その時の私がどちらかを選ぶとして、自身の"良心"か、もしくは"積み重ねてきたもの"のどちらかを失わなければいけなかった。なにかを選ぶときには、必ず別のなにかを捨てないといけない」

 反魔物の立場を取る政党に所属している以上、それは避けられない。どうしようもない流れだ。父さん一人の力ではどうしようもない。積み重ねてきたものを崩すわけにもいかない。
 思っていたような物語と違う。昼ドラのようなドロドロした話とか、子どもには聞かせられないようなことがあると思っていた。違う、そうじゃなかった。なにもかもが噛み合わなかっただけなんだ。俺にも、母さんにも父さんにも。
 なにも言えなかったし、なにも訊けなくなった。きっと誰も悪くない。しかたなかったんだ。

「親権はゆめに渡したかったんだが、あいつはそのつもりじゃなかったらしい。私の方が折れた。ゆうきに苦労をかけさせてしまった」
「……いや、」

 その言葉になにか返そうとして、だけど続く言葉が出てこなかった。言いよどむのを一瞥してから、父は話を続けた。
 俺はなにを言おうとしたんだろう。なにも考えていなかった。ただ反射的に、父に負担をかけまいと思っただけだ。そんな取ってつけた言葉で、父を慰めることなんかできやしない。
 それに、とっくに父に負担はかかってる。疲れた表情。自分の家族に味方してもらえていないからなのか、なんて自意識過剰な可能性を考えて息苦しくなる。

「親らしいことはなに一つできていない。忙しいからと言い訳をして、お前を育てることから逃げていた」
「……」
「私は今でもゆめのことを愛している。ちょっと距離が遠すぎるせいで、なかなか会いに行けないのが辛いところだな。もうそろそろ夏休みだろう、お盆になったら会いに行くか」
「うん……」

 いいのかな。俺にそんな権利はあるのか。
 勝手に両親に見当違いの恨みを抱いて、父さんを帰りづらくしていたのは俺だ。ただの八つ当たりで、自分の首すら締めていたっていうのに。俺はバカだ。気が付くと、頭を下げていた。昨日とは別の意味で、心から言葉を発した。

「ごめん」
「なんで、お前が謝る。謝るのは私の方だ。今まで話すことができなくて悪かった」
「それは、だけど……ごめん」
「いい。男がそんな無闇に謝るもんじゃない。自分の恋人に情けない姿を見せないようにな」
「え……」

 顔を上げると、父は微笑んでいた。わかっている顔だった。若干の寂しさも含まれている気がする。

「できたんだろう。雰囲気でわかる」
「雰囲気って」
「そういうもんだ。父親だからな……。ああ、父親だが、お前にとやかく言う権利は私にはない」

 察されている。恋人であるはるさんが、魔物娘だということを。堕落系のものであることすら見抜いているかもしれない。父は少し困ったふうに頬を掻きながら、なんと言えばいいか迷っている様子だった。もしかして俺は父を裏切ったのかな。
 はるさんを恋人にしたのは、父への反抗の表れでもあるんじゃないか。そういうつもりは一切ないにせよ、父から見ればそう思われても仕方ない。ああ、だからなのか。寂しそうな微笑み。心臓にちくりとした痛み。
 違うんだ、そんなつもりじゃなかった。彼女とは自然に巡りあって流れで好き合って交際を始めただけなんだ。そう言いたい。でもそんな取り繕いは、父をもっと傷つけてしまいそうで。
 父は煙草を吸い、短くなった吸い殻を携帯灰皿に入れた。

「立派になったな。でも、その分じゃ都内の大学は無理そうだな」
「たぶん……早起きすれば朝一の電車で行けると思うけど」
「はは、そりゃあ無理だ。父さんだって大学の一限は辛かったんだぞ」
「そっか……」

 あまり墓前で長話するものでもないな、と父が呟いて霊園の出入り口へ歩き始める。その大きな背中を見つめながら後を追う。横に並ぶ気には、なれなかった。







 夏に向けてどんどんと日が長くなってきているのを感じる。今はもうとっくに夕飯時で日没しているけれど、父さんと別れて電車に乗ったときは粘るように夕焼けが空を赤く染めていた。
 電車の中は遊んできた人々の疲れながらも満足したような顔ばかりで、和やかな空気が漂っていた。俺はいま、どんな表情ができているだろう。きっと彼らのような顔はできていない。まあ、疲れてるのは同じだ。
 今日一日は長かったようで、すごく短かった。霊園のとき以外、父さんとまともに話すことができなかった。ずっと頭の中で様々な思考をぐるぐるとさせていて、それだけ考えても俺が求めるような答えは出なかった。
 母さんか。会わなきゃいけないのかな。いけないよな。会いたくない。要らないことを言いそうだし、それを許されそうなのが怖い。

 電車がぐらりと揺れ、立っている人たちが転ぶまいとする。吊り革だったり、手すりだったりに掴まって。それらが周囲になかったらしい小さな女の子は、その子の父親らしき人の服に縋った。父親はそれに気づき、苦笑して片手でだっこする。彼だって遠出のあとだから疲れているだろうに、そんな様子を微塵も感じさせない。
 たまたま目に入ったから、ぼんやりとしながらその一連のやりとりを見ていた。その子も父親も、隣にいる母親も笑っていた。
 次の駅で降りるのが幸いだった。もうちょっとなにかが好転するかと思ったのに、休日の電車は変わらずアウェーだった。いいや、なにが好転するって言うんだろう。俺が一人で思い描いていたようなことが本当だったとしたら、たぶん今の俺はもっとみじめに映る。
 電車が駅のホームに滑り込み、きっちりと停車する。ドアが開き、人々を吐き出していく。ある人は乗り換えのために、ある人は仕事のために、ある人は帰るために降りていく。その中には俺も含まれている。
 毎日毎日こんなにたくさんの人たちが職場だったり学校だったりへ向かって、自分の成すべきことを行って、それから帰っている。降車の人波に流されて、改札まで歩いていく。逆らい難い流れだ。

 俺なんかどうせ、という気持ち。
 それは間違っているようで、正解でもある。
 朝礼で並ぶ同じ学校の生徒たち以上の数で、世界にはたくさんの人々がいる。それぞれがそれぞれ違ういろんなことを考えて行動している。それら一人ひとりが手を繋いで大きな波を作り出して、社会というシステムを作り上げる。
 手を繋ごうとしない人だって、結局波には逆らえない。小さな波を乗り越えたとしても、より大きな波が流れてくる。それを乗り越えても、また大きな波が。そうやって世界はうまくできていた。
 でも。だからといって、波の一粒一粒は機械じゃない。喜び、怒り、泣いて笑う。映画を見て感動し、美味しいご飯を食べて喜ぶ。しっかりと感情を持った、世界にただ一人だけの個体だ。
 そうして波に流された一粒が流れ着く浜辺。夜の住宅街を歩くと、家やマンションの窓一つ一つから漏れ出る暖かな光が星空のように見える。
 波の来ない場所。帰るべき家。

 エレベータで滑らかに垂直に上がっていく。すぐに五階に到着する。扉が開いて、決まった方角へ向かう。
 重たげなドアの鍵穴に鍵を差し込んで回し、それから扉を開く。
 照明も付けずに玄関の中に入り、背後で扉が閉まる。後ろ手に鍵をしめて、靴を脱いで上がる。
 八年間ずっとし続けてきた工程が終わって、そうしてようやく。

「――おかえり」

 八年間ずっと存在しなかったものが耳から入って、胸中からじんわりと体中に広がっていく。この思いは二週間経っても変わらなかった。
 奥の居間から彼女が歩いてきて、なによりも言われたかった言葉が誰よりも言われたい人の声として発される。それは尊い一言。得難く失い難いもの。
 無意識に抱きしめていた。彼女の温もりを感じたかったのか、彼女を離さないようにしたいのか。たぶんどっちもだ。

「……ふふ。今日のご飯ね、シチューだよ。もうできてるからね」
「……」

 ゆっくり話さなきゃいけない。彼女に話さなくてはいけないことがある。だけどいまは、抱きしめる以上の言葉を出すことができない。
 それなのに彼女は、それだけで察してしまう。理解できてしまう。受け入れてくれてしまう。

「がんばったね」

 なにも頑張っていない。なにもしちゃいない。ただひたすらに自分が弱くて、今日はそれを自ら確認しただけだ。そう言いたい。彼女にだけは嘘を言いたくなくて、でもなにを言ったとしても嘘になりそうで、彼女に嘘を言うのはとても怖かった。だって、それすら彼女は受け入れてくれる。
 ――ああ。ようやく気づいた。父も同じだったのかもしれない。父にも受け入れがたい決断だったから、その決断を俺に話したくなかったんだ。その言葉を言ってしまえば、たとえ幼くとも理解できてしまえる。受け入れるかどうかはわからないけど、なにも言わないよりかは断然受け入れやすいだろう。
 しばらくずっと、父の横に立つことはできそうにない。彼の背中は、なによりも大きいものだった。くじけそうなほど。
 だけど、道の先にはいつだってはるさんがいてくれる。いつも先回りしてくれて、その行き止まりで手を広げてくれている。だったら、歩くことができる。

「はるさん」
「うん」

 ゆるい手つきで頭を撫でてくるはるさんの腕の中は、世界中のどこよりも居心地が良い。別に、ここはただの暗い玄関だけど。背後のドアは閉まっていて、きっと今日はもう開かない。行き止まりだ。なのにはるさんが抱き締めてくれるだけで、なに一つ悲観するようなことはないように思えた。
 彼女さえいてくれるなら、後ろを向くことはなに一つない。

「これからがんばる」
「うん……」
「すごいがんばって、真人間になる……」

 真人間はこんな宣言しないよな。むしろ、より一層ダメっぽい宣言だ。ただ、できる限り長い間、はるさんと一緒にいたい。そのためになら、いっぱいがんばれるくらいの気力が湧いてくる。
 はるさんの肩口から顔を離して、近い距離ではるさんをまっすぐに見つめる。いま、言わなきゃいけないこと。それは。

「ただいま」
「おかえり」

 帰りたかった。ただいま。きみの元に。
 きみという存在は、ずっと想像していた"家"そのものなのかもしれない。
 そうなると、誤解だったんだな。欲しかったのは家じゃなくて、家族だった。

 ただいま。
 今日の夜も、きみと過ごそう。
 きみと一緒に寝て、きみと一緒に朝日を拝んで、きみに見送られて。
 ずっとずっと、きみと過ごそう。
 ここは砂糖よりもあまい行き止まり。
 歩いてきた場所は暗かったけど、廊下の向こうからは暖かい光が差し込んでいた。
 はるさんに手を引かれて、光の方へと歩く。彼女が灯してくれた光へ。
15/12/22 10:30更新 / 鍵山白煙
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